10月26日から29日の間、私は東京に滞在していた。と言っても東京へ着いたのが26日の
正午前、29日の16時50分には新幹線に乗っていたので東京にいたのは正味三日間ぐらいだった。
いつものことながら4日間はあっという間に過ぎ、あわただしい毎日であった。今回の東京は3月
11日の東日本大震災、それに続く原発事故以来のことであった。東京は息子達や多くの友人が
住んでいるところなので、ずっと気がかりだった。
しかし、震災や原発事故以来、半年以上が過ぎた東京は何事もなかったかのように、相変わらず
どこへ行っても大勢の人が行き来し賑わっていた。
今回の東京は10月3日に誕生した孫の理央の顔を見るためであった。着いた日の午後に少しと
東京を離れる日の午後少し顔を見て帰途に着いた。とは言っても相手はまだ誰の顔かも判別出来ない
ような新生児である。
孫は赤ちゃんとは思えないほど整った顔をしていた。事前に写真を見ていたので初対面のような
気はしなかったが、抱いてみたときの体の重さや温もりに何とも言えぬ愛おしさを感じたのは血の
繋がり故であろうか。
私にとって理央は二人目の孫である。さて、気になるのは孫達の将来のことである。混沌とした
世の中、それらの全ては「人の行い」によるものであるが、そのことがこの子達の将来にどのような
影響を与えるのであろうか。今は幸多かれと祈るばかりである。
離れて暮らす二人の孫ではあるが、望むべくは私の経験について語り、生きていく上での智恵や
知識を授けておきたい。そうした知恵や知識がいつかはこの子達を助けることもあるであろう。
孫は私の膝の上でいつの間にかすやすやと寝息を立て始めた。時々、驚いたようにびくりとしては
又眠り始める。名残惜しい気もしたが、いつまでも抱いているわけにもいかず、その小さな体を
そっと布団に横たえ嫁の実家を後にした。
今回の上京にはもう一つの目的があった。バリアフリー映画の上映会に行くことであった。場所は
東宝シネマズ六本木ヒルズであった。ここで第24回東京国際映画祭が行われていた。
たくさんの映画がノミネートされ、その中に我が岡山から山崎樹一郎監督の「ひかりのおと」と
言う映画がノミネートされ、地下鉄からの通路には他の映画ポスターと一緒に「ひかりのおと」も
貼ってあった。我々がこれから上映会を開きたいと考えている作品だけに誇らしく思えた。
家に帰り早速、山崎君に電話をしたら私と入れ違いに岡山へ帰ったそうで、うれしそうな声をして
いた。たとえ賞は取れなくても映画祭にノミネートされただけでも名誉なことである。出来れば賞に
輝くことが出来れば言うことはないのだが・・・。
目的のバリアフリー映画は山田洋次監督の名作「幸せの黄色いハンカチ」だった。この映画の
活弁ライブを行ったのが我らが活弁士「佐々木亜希子」であった。
バリアフリー映画に活弁士が映画説明を入れることによって視覚障害者にも臨場感ある映画を
楽しむことが出来る。そして字幕が入ることによって聴覚障害者も映画を楽しむことが出来る。
これがバリアフリー映画である。
むろん、映画説明は別段新しいものではない。しかし、活弁士の語りは情景描写がリアルであり
活弁調なので聞き取りやすいようだ。これが視覚障害者に喜ばれているのではないだろうか。
映画上映の後、山田洋次監督を囲んでのトークがあった。印象に残ったのは台詞や音がなくても
分かるような映画を作るように心がけているという監督の言葉であった。実は私達も気付いていた
ことで無声映画はその点において実に良く作られている。
ロイド、キートン、チャップリンと三大喜劇役者が手がけた映画が何よりもそれを物語っている。
台詞がなくても理解できるし笑えるのである。さすがという他はない。
私達「夫婦活弁士」もこうした笑える映画に助けられている。そしてもう一つ。今回は芝公園の
横に建つ超近代的なビルの中でIT関連の催し物があった。この催し物の中で息子達が出演すると
いうので聞きに行った。
息子はつい最近になって会社を興し、スマートフォン関連のソフトを開発している。起業するには
今しかないと友人に誘われ10月に起業したばかりである。
そうした若き企業家達4人によるトークイベントであった。幾つか応募のあった中から選ばれて
出演したようだ。私達世代にとってスマートフォンもそのアプリケーションも縁のないものである。
それらをどのようにして利益に繋げていくのか。また将来はどのような方向を目指しているのか
彼らのトークを聞いていて良く理解できた。なるほどと思うようなことも少なくなかった。
しかし、全てが上手く行くわけではないだろう。今はただガンバレと背を押してやるしかない。
正午前、29日の16時50分には新幹線に乗っていたので東京にいたのは正味三日間ぐらいだった。
いつものことながら4日間はあっという間に過ぎ、あわただしい毎日であった。今回の東京は3月
11日の東日本大震災、それに続く原発事故以来のことであった。東京は息子達や多くの友人が
住んでいるところなので、ずっと気がかりだった。
しかし、震災や原発事故以来、半年以上が過ぎた東京は何事もなかったかのように、相変わらず
どこへ行っても大勢の人が行き来し賑わっていた。
今回の東京は10月3日に誕生した孫の理央の顔を見るためであった。着いた日の午後に少しと
東京を離れる日の午後少し顔を見て帰途に着いた。とは言っても相手はまだ誰の顔かも判別出来ない
ような新生児である。
孫は赤ちゃんとは思えないほど整った顔をしていた。事前に写真を見ていたので初対面のような
気はしなかったが、抱いてみたときの体の重さや温もりに何とも言えぬ愛おしさを感じたのは血の
繋がり故であろうか。
私にとって理央は二人目の孫である。さて、気になるのは孫達の将来のことである。混沌とした
世の中、それらの全ては「人の行い」によるものであるが、そのことがこの子達の将来にどのような
影響を与えるのであろうか。今は幸多かれと祈るばかりである。
離れて暮らす二人の孫ではあるが、望むべくは私の経験について語り、生きていく上での智恵や
知識を授けておきたい。そうした知恵や知識がいつかはこの子達を助けることもあるであろう。
孫は私の膝の上でいつの間にかすやすやと寝息を立て始めた。時々、驚いたようにびくりとしては
又眠り始める。名残惜しい気もしたが、いつまでも抱いているわけにもいかず、その小さな体を
そっと布団に横たえ嫁の実家を後にした。
今回の上京にはもう一つの目的があった。バリアフリー映画の上映会に行くことであった。場所は
東宝シネマズ六本木ヒルズであった。ここで第24回東京国際映画祭が行われていた。
たくさんの映画がノミネートされ、その中に我が岡山から山崎樹一郎監督の「ひかりのおと」と
言う映画がノミネートされ、地下鉄からの通路には他の映画ポスターと一緒に「ひかりのおと」も
貼ってあった。我々がこれから上映会を開きたいと考えている作品だけに誇らしく思えた。
家に帰り早速、山崎君に電話をしたら私と入れ違いに岡山へ帰ったそうで、うれしそうな声をして
いた。たとえ賞は取れなくても映画祭にノミネートされただけでも名誉なことである。出来れば賞に
輝くことが出来れば言うことはないのだが・・・。
目的のバリアフリー映画は山田洋次監督の名作「幸せの黄色いハンカチ」だった。この映画の
活弁ライブを行ったのが我らが活弁士「佐々木亜希子」であった。
バリアフリー映画に活弁士が映画説明を入れることによって視覚障害者にも臨場感ある映画を
楽しむことが出来る。そして字幕が入ることによって聴覚障害者も映画を楽しむことが出来る。
これがバリアフリー映画である。
むろん、映画説明は別段新しいものではない。しかし、活弁士の語りは情景描写がリアルであり
活弁調なので聞き取りやすいようだ。これが視覚障害者に喜ばれているのではないだろうか。
映画上映の後、山田洋次監督を囲んでのトークがあった。印象に残ったのは台詞や音がなくても
分かるような映画を作るように心がけているという監督の言葉であった。実は私達も気付いていた
ことで無声映画はその点において実に良く作られている。
ロイド、キートン、チャップリンと三大喜劇役者が手がけた映画が何よりもそれを物語っている。
台詞がなくても理解できるし笑えるのである。さすがという他はない。
私達「夫婦活弁士」もこうした笑える映画に助けられている。そしてもう一つ。今回は芝公園の
横に建つ超近代的なビルの中でIT関連の催し物があった。この催し物の中で息子達が出演すると
いうので聞きに行った。
息子はつい最近になって会社を興し、スマートフォン関連のソフトを開発している。起業するには
今しかないと友人に誘われ10月に起業したばかりである。
そうした若き企業家達4人によるトークイベントであった。幾つか応募のあった中から選ばれて
出演したようだ。私達世代にとってスマートフォンもそのアプリケーションも縁のないものである。
それらをどのようにして利益に繋げていくのか。また将来はどのような方向を目指しているのか
彼らのトークを聞いていて良く理解できた。なるほどと思うようなことも少なくなかった。
しかし、全てが上手く行くわけではないだろう。今はただガンバレと背を押してやるしかない。