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旅行 社寺

大宰府政庁跡 散策

2017-12-07 09:38:06 | 遺蹟
 2017.11.27 今日の予定は福岡国際空港から高速バスで太宰府天満宮に行き光明禅寺~観世音寺

    ~戒壇院~太宰府政庁跡~水城を見学予定でしたが、九州縦貫自動車道(高速道)で

    事故があり、一般道で向かう事となり渋滞で1時間以上遅れ、途中の

    大宰府政庁前でバスを下車し、水城の見学は諦め逆コースで散策をしました。







  太宰府政庁跡  国指定特別史跡  大陸と朝鮮からの使節を迎えた古代日本の玄関口。

        平成27年(2015)文化庁から「古代日本の西の都~東アジアとの交流拠点~」

          日本遺産に認定される。

    天智2年(663)、大和朝廷軍は、中国.唐と朝鮮.新羅の連合軍に朝鮮南西部の

    白村江で大敗。防衛の危機から、朝廷は北九州に水城や大野城.基肄城(きいじょう)の

    城塞を築く。大宰府は城塞を束ね、軍事と行政を兼ねる国家の出先機関として設置された。



  発掘状況と復元図。



  案内図



  政庁跡 正面より





  南門(正門)跡



  南門より正殿を見る。



  築地跡



  中門跡



  回廊跡



  脇殿跡  左右に2棟ずつ計4棟あった。



  南西面コーナーから西半分を眺める。



  同上    東南半分を眺める。 



  中央の広場   一面の石畳で儀式の場であった。



  南東よりの眺め。



  東側の脇殿跡。



  正殿跡



  正殿跡を西側から見る。



  正殿跡  都の大極殿に当たるもので一番重要な建物。





  正殿跡に立つ 三つの石碑

 「太宰府碑」-右   福岡藩西学問所甘棠館(かんとうかん)館長の亀井南冥が太宰府の意義を

          後世に伝える為 寛政元年(1789)に石碑を建てる許可を藩主に願い出た所、

          碑文が勤王精神の現れということで、許可出ず、

          南冥没後100年の大正3年(1914)門下生の尽力により建てられた。

  「都督府古址」-中央  明治になっても、ここに標識が無いのを遺憾に思った乙金村(大野城市)の

              大庄屋 高原善七郎が明治4年(1871)に自費で建立した。

  「太宰府址碑」-左   大宰府政庁跡が消滅することを恐れた御笠郡の人々が、明治13年(1880)

              福岡県令 渡辺清に、大宰府の由来を書いてもらい、石碑にしたものです。



  後殿跡   正殿の北側に立つ。



  東楼跡  西楼もあります、後殿の更に北側に立つ。



  正殿跡より南を眺める。



  北東角より眺める 手前は東楼跡。



  東より回廊の先に正殿を見る。



  古都太宰府保存への道





  小野 老 の歌碑。



  大伴旅人(万葉歌人) の歌碑。 太宰帥(大宰府最高責任者)で天平2年(730)梅花の宴を催す。



  太宰府展示館  残念でしたが月曜日は休館でした。

     その繁栄は約500年間続きましたが、

     平安時代末期頃、武士の時代の到来とともに次第に衰えた。



 

  
  





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