2016.11.23 日本百名城巡り最後100城目の登城です。月山富田城の整備のうち、
山頂部(七曲り~本丸)の工事が10月には完成する予定でしたので、
今回の旅行計画をたてましたが、天候不順等で工事が遅れオープンが
11/27(日)となってしまい非常に残念でしたが
山中御殿まで登城してきました。
月山富田城 国指定史跡 日本百名城
月山(標高191.5m)の山上に本丸をおく典型的な山城です。南東以外の三方は急峻な斜面
であり、北面を正面とし、山麓部から山頂へ曲輪を連ねる「連郭式」の縄張となっています。
城への進入路は北麓の菅谷口(すがたにくち)からの大手道、富田橋を渡った正面の
御子守口(おこもりぐち)からの搦手道、南麓の塩谷口(しおだにぐち)からの
裏手道の三か所のみで、全ての進入路は山腹の「山中御殿」に通じ、急峻な一本道
「七曲り」で詰め城である山頂部につながっています。
案内図
赤門 から登城始めます。
急な石段が続きます、石段脇は高石垣です。
巌倉寺 真言宗。
本尊である木造聖観音立像と脇侍帝釈天立像は平安時代の作で国指定重要文化財。
文治3年(1187)、高顕僧正によって現位置に移された。これは富田城築城と
相前後するもので、おそらく城主の意思によって城内の祈祷所とするとともに富田城
外郭線の守りとしたものと思われる。(途中、山門等ありましたが省略)
さらに奥にある、堀尾吉晴公の墓に行って見ます。
堀尾吉晴公の墓 関ヶ原の戦功により雲陰24万石を領し、慶長5年(1600)に富田城主と
なったが、慶長16年(1611)、城を松江に移した。同年6月、69歳で亡くなり、
遺言によってこの地に帰葬された。(墓前では冬桜が咲いていました)
伝.山中鹿介幸盛公供養塔 堀尾吉晴の墓の左側に山中鹿介の供養塔がある。
戻りいよいよ城へと向かう。
千畳平へ
富田城 案内図
千畳平 御子守口の正面に位置し、有事の際には城兵集合の場として使われたそうです。
北端には尼子神社と櫓跡があり、周囲には石垣が残っています。
尼子神社
太鼓壇 尼子時代、太鼓を打ち鳴らし、通常時は時を告げ、非常時には家臣に合図を送り、
兵士たちを召集する場所であったと言われます。当時は太鼓を設置する建物「鼔楼」を
建って太鼓を鳴らし、味方の士気を高めました。
太鼓壇には 「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に主家尼子家再興を
祈ったという逸話で知られる、山中鹿介祈月像があります。
奥書院に向かう山道の紅葉が綺麗です。
奥書院平 現在は戦没者慰霊碑が建っています。
同上より見た紅葉。
搦手道より 本丸が見え始める左手崖上の花の壇 城内道を見渡せるようになっており
防衛拠点としての機能を兼ね備えていたと思われます。
花の壇 大手道と搦手道の間、山中御殿の正面一段下にある。
通路跡
堀切 左花の壇 右山中御殿下段。
山中御殿へ出る。大手門方向は工事中で立ち入り禁止、左側より回る。
山中御殿平 山頂の本丸が一望できる。
山中御殿 多聞櫓跡石垣が見える。
御殿平(山中御殿) 大手門を上がった所に3000平方メートル余りの平地がある。
ここを御殿平という。その昔、山中御殿と言われた建物があった所で、
上下2段にわかれている。富田城の最も重要な心臓部であった。
菅谷口虎口に残る石垣
同上を城外側から見る。
菅谷口を守る櫓跡。
菅谷口近くにある 雑用井戸。
軍用道 本丸へ610m。 ここから先は工事中立ち入り禁止。
七曲り 工事中立ち入り禁止。
山中御殿 菅谷口より北方向を見る。周囲を石垣で囲まれた広大な曲輪です。
紅葉を楽しみながら下城する。
伝.尼子興久の墓 尼子経久の三男。
禄高の不足を父経久に訴え、これを聞き入れられなかったことから父にそむいたため、
やがて父経久の手によって追放された。天文3年(1534)妻の実家に当たる備後甲山城主
山内大和守直通方に身を寄せ、そこで切腹した。
安来市立歴史資料館 城跡のふもとにあり、安来市の古代から近世にかけての歴史資料を
展示しています。月山富田城跡から出土した品々も展示されている。
最後の百名城スタンプを押し安来駅に向かい柳川鍋で祝杯を挙げた。
山頂部(七曲り~本丸)の工事が10月には完成する予定でしたので、
今回の旅行計画をたてましたが、天候不順等で工事が遅れオープンが
11/27(日)となってしまい非常に残念でしたが
山中御殿まで登城してきました。
月山富田城 国指定史跡 日本百名城
月山(標高191.5m)の山上に本丸をおく典型的な山城です。南東以外の三方は急峻な斜面
であり、北面を正面とし、山麓部から山頂へ曲輪を連ねる「連郭式」の縄張となっています。
城への進入路は北麓の菅谷口(すがたにくち)からの大手道、富田橋を渡った正面の
御子守口(おこもりぐち)からの搦手道、南麓の塩谷口(しおだにぐち)からの
裏手道の三か所のみで、全ての進入路は山腹の「山中御殿」に通じ、急峻な一本道
「七曲り」で詰め城である山頂部につながっています。
案内図
赤門 から登城始めます。
急な石段が続きます、石段脇は高石垣です。
巌倉寺 真言宗。
本尊である木造聖観音立像と脇侍帝釈天立像は平安時代の作で国指定重要文化財。
文治3年(1187)、高顕僧正によって現位置に移された。これは富田城築城と
相前後するもので、おそらく城主の意思によって城内の祈祷所とするとともに富田城
外郭線の守りとしたものと思われる。(途中、山門等ありましたが省略)
さらに奥にある、堀尾吉晴公の墓に行って見ます。
堀尾吉晴公の墓 関ヶ原の戦功により雲陰24万石を領し、慶長5年(1600)に富田城主と
なったが、慶長16年(1611)、城を松江に移した。同年6月、69歳で亡くなり、
遺言によってこの地に帰葬された。(墓前では冬桜が咲いていました)
伝.山中鹿介幸盛公供養塔 堀尾吉晴の墓の左側に山中鹿介の供養塔がある。
戻りいよいよ城へと向かう。
千畳平へ
富田城 案内図
千畳平 御子守口の正面に位置し、有事の際には城兵集合の場として使われたそうです。
北端には尼子神社と櫓跡があり、周囲には石垣が残っています。
尼子神社
太鼓壇 尼子時代、太鼓を打ち鳴らし、通常時は時を告げ、非常時には家臣に合図を送り、
兵士たちを召集する場所であったと言われます。当時は太鼓を設置する建物「鼔楼」を
建って太鼓を鳴らし、味方の士気を高めました。
太鼓壇には 「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に主家尼子家再興を
祈ったという逸話で知られる、山中鹿介祈月像があります。
奥書院に向かう山道の紅葉が綺麗です。
奥書院平 現在は戦没者慰霊碑が建っています。
同上より見た紅葉。
搦手道より 本丸が見え始める左手崖上の花の壇 城内道を見渡せるようになっており
防衛拠点としての機能を兼ね備えていたと思われます。
花の壇 大手道と搦手道の間、山中御殿の正面一段下にある。
通路跡
堀切 左花の壇 右山中御殿下段。
山中御殿へ出る。大手門方向は工事中で立ち入り禁止、左側より回る。
山中御殿平 山頂の本丸が一望できる。
山中御殿 多聞櫓跡石垣が見える。
御殿平(山中御殿) 大手門を上がった所に3000平方メートル余りの平地がある。
ここを御殿平という。その昔、山中御殿と言われた建物があった所で、
上下2段にわかれている。富田城の最も重要な心臓部であった。
菅谷口虎口に残る石垣
同上を城外側から見る。
菅谷口を守る櫓跡。
菅谷口近くにある 雑用井戸。
軍用道 本丸へ610m。 ここから先は工事中立ち入り禁止。
七曲り 工事中立ち入り禁止。
山中御殿 菅谷口より北方向を見る。周囲を石垣で囲まれた広大な曲輪です。
紅葉を楽しみながら下城する。
伝.尼子興久の墓 尼子経久の三男。
禄高の不足を父経久に訴え、これを聞き入れられなかったことから父にそむいたため、
やがて父経久の手によって追放された。天文3年(1534)妻の実家に当たる備後甲山城主
山内大和守直通方に身を寄せ、そこで切腹した。
安来市立歴史資料館 城跡のふもとにあり、安来市の古代から近世にかけての歴史資料を
展示しています。月山富田城跡から出土した品々も展示されている。
最後の百名城スタンプを押し安来駅に向かい柳川鍋で祝杯を挙げた。