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旅行 社寺

観世音寺(太宰府)

2017-12-09 09:02:31 | 寺院
 2017.11.27 戒壇院に隣接する観世音寺を続き見学する。







  観世音寺  国指定史跡  天台宗 山号は清水山。

        「源氏物語」にも登場する観世音寺は、斉明天皇追悼のために天智天皇の

        発願によって建てられた寺であり、奈良時代に完成した。古くは九州の寺院の

        中心的存在で、たくさんのお堂が建ち並んでいた。



  御朱印



  案内図



  観世音寺式 伽藍絵図 1526年作  (パンフレットより)。



  南大門と築地塀  境内の南側に、南大門の礎石が数個残っています。南大門から

      北門にかけて、寺の周囲には築地塀を巡らせていました。

      「延喜五年観世音寺資材帳」には築地塀の

      長さ南北約210m、東西約186mとあります。







  講堂(本堂) 元禄元年(1688)福岡藩主.黒田光之が博多の商人.天王寺屋浦了無の支援を

         受け再建したのが、現在の講堂です。創建当初の講堂は、正面が約30m、

         奥行きが約15.4mで面積は現在の約2.5倍であった。

         発掘によって、周囲に残る16の礎石は、創建当初のものであることが判明した。



  同上 聖観音立像 (講堂の現本尊。重要文化財)木造、増高168cm。肥前の杵島の沖で、

       漁師の網により引き上げられたと伝えられ、「杵島観音」の名がある。

     かっては治暦2年(1066)に造られた、丈六(高さ約4.8m)の聖観音座像を中心に、

       馬頭観音.不空羂索観音.十一面観音など、宝蔵に並ぶ巨像がここに安置されていた。





  金堂  講堂に向かって左側の木壇上に立つ金堂(阿弥陀堂)は寛永八年(1631)の再建。

      この金堂は東に面し、今は心礎と礎石だけが残る五重塔と相対していた。

      観世音寺の伽藍配置の特徴とされる。

      現在金堂には不動明王座像が安置されているが、それ以前の本尊は、現在宝蔵に

      収蔵されている木造の阿弥陀如来坐像である(平安時代後期の作.重要文化財)。





  梵鐘(国宝)白鳳時代の銅鍾 観世音寺の創建期から伝わる唯一の遺品であるとともに、

        日本最古の梵鐘として名高い。この鐘は文武二年(698)鋳造の日本最古の

        紀年銘をもつ京都.妙心寺の鐘と形状.寸法や撞座の意匠などが同じことから、

        「姉妹鐘」と考えられている。宝蔵で鐘の音(録音)を聞かせて戴いたが

        「日本の音風景百選にも選ばれた素晴らしい響きでした。



  五重塔心礎  康平7年(1064)に講堂と共に焼失し、以後は再建されなかった。

         現在は当初の位置に、塔心礎と礎石4個だけが残る。



  清水記碑  五重塔の心礎の前の石碑は、江戸時代福岡藩の元藩士で文学者の加藤一純が、

        後世由緒ある清水山のいわれが忘れ去られるのを愁いて、

        後の世までも長く伝えようと建てたもの。

        紫式部も書けりと源氏物語にも登場することが紹介されている。





  石臼(碾磑.てんがい) 講堂の前には天平の石臼と伝えられている碾磑があります。

        直径約1m、臼の厚さは上下合わせて約55cm。花崗岩製。上臼の上部に

        2つの穴があり、これに棒を立てて家畜につなぎ、引かせて臼を回したらしい。



  宝蔵(収蔵庫) 寺宝を収蔵.展示している。



  宝蔵の内部  林立する巨像、観世音寺の重要文化財に圧倒される、内部は撮影禁止

                (パンフレットより)。



  観世音寺の歴史  (パンフレットより)。

  境内の紅葉も綺麗だ



  宝蔵と紅葉


 
  鐘楼周りの紅葉



  清水記碑、井戸と紅葉



  五重塔礎石にのる石仏。 奥に鐘楼が見える。





  伝玄昉の墓。





  講堂の背後にある、僧房(大房)跡の礎石群  住僧の学問所と寄宿舎を兼ねた東西約102m、

        南北約10mの長大な建物だった。10の房に区切られ、数人ずつで暮らしていた。

                        次は太宰府天満宮へ向かう。

  


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