屋根に「雀おどし(おどり)」のあるおうちが目につきます。
このおうちは金の鯱(しゃちほこ)。
りっぱな建物が目立ちます。
「雀おどり」。
「常夜燈」。ただし、上部には電球がセットされています。
みごとな「雀おどり」。
簡素だがこれも「雀おどり」の一種。
来た道を振り返って望む。
緩やかなカーブとアップダウンが続く旧道。
道の真ん中にある「常夜燈」。ちょうど交差点になっている場所に立っています。ゴミ集積所の裏手という感じ。諏訪方面から来るとしっかり目に入る。
振り返って望む。
左前方。諏訪湖方面が開けてきます。
信号機のあるところを直進。
その先にあるのが、「足長神社」。祭神は、脚摩乳命 (あしなづちのみこと)、別名を「足長彦神」という。同じ諏訪市内には手摩乳命を祀る手長神社もあるようです。
「手長足長(てながあしなが)」は、秋田県、山形県、福島県、長野県、福井県などに伝わる伝説・昔話に登場する巨人。
その特徴は「手足が異常に長い巨人」で各地の伝説は共通しているが、手足の長い一人の巨人、または夫が足(脚)が異常に長く妻が手(腕)が異様に長い夫婦、または兄弟の巨人とも言われ、各地で細部は異なることもある。手のながいほうが「手長」足が長いほうが「足長」として表現される。
秋田では鳥海山に棲んでいたとされ、山から山に届くほど長い手足を持ち、旅人をさらって食べたり、日本海を行く船を襲うなどの悪事を働いていた。鳥海山の神である大物忌神はこれを見かね、霊鳥である三本足の鴉を遣わせ、手長足長が現れるときには「有や」現れないときには「無や」と鳴かせて人々に知らせるようにした。山のふもとの三崎峠が「有耶無耶の関」と呼ばれるのはこれが由来とされる。それでも手長足長の悪行は続いたため、後にこの地を訪れた慈覚大師が吹浦(現・山形県 鳥海山大物忌神社)で百日間祈りを捧げた末、鳥海山は吹き飛んで手長足長が消え去ったという。また消えたのではなく、大師の前に降参して人を食べなくなったともいわれ、大師がこの地を去るときに手長足長のために食糧としてタブノキの実を撒いたことから、現在でも三崎山にはタブノキが茂っているのだという。
福島の会津若松に出現したとされる手長足長は、病悩山(びょうのうざん、やもうさん、わずらわしやま。磐梯山の古名)の頂上に住み着き、会津の空を雲で被い、その地で作物ができない状態にする非道行為を行い、この状態を長期にわたり続けたという。その地を偶然訪れた旅の僧侶がことの事情を知り、病悩山山頂へ赴き、手長足長を病悩山の頂上に封印し、磐梯明神として祀ったとされている。このことをきっかけに、病悩山は磐梯山と改められ、手長足長を封印した旅の僧侶こそ、各地を修行中の弘法大師だったと言われている。
福井の雄島にある大湊神社には、安島に最初に住んでいたのが手長と足長だったと伝わる。足長が手長を背負って海に入り、手長が貝のフンをその長い手で海に入れ、魚をおびき寄せ獲って暮らしていたという。
上記のような荒ぶる巨人としての存在とは別に、神・巨人・眷属神としての手長足長、不老長寿の神仙としての手長足長もみられる。
室町時代に編纂された『大日本国一宮記』によると、壱岐(長崎県)では天手長男神社が国の一の宮であったとされ、天手長男(あめのたながお)神社と天手長比売(あめのたながひめ)神社の2社が存在していた。
長野の上諏訪町(現・諏訪市)では、手長足長は諏訪明神の家来とされており、手長と足長の夫婦の神であるといわれ、手長足長を祀る手長神社、足長神社が存在する。この二社は記紀神話に登場している出雲の神である奇稲田姫(くしなだひめ)の父母・足名稚(あしなづち)と手名稚(てなづち)が祭神とされているが、巨人を祀ったものだという伝承もある。
これら社寺に関連する「てなが(手長)」という言葉について柳田國男は、給仕をおこなう者や従者を意味していた中世ころまでの「てなが」という言葉が先にあり、「手の長い」巨人のような存在となったのは後の時代でのことであろうと推論している。
物語文学のひとつである絵巻物『宇治橋姫物語絵巻』には、主人公のひとりである中将を取り囲んで現われる異形の存在(「色々の姿したる人々」)として、みるめ・かぐはな・手なが・あしながという名が文章上では挙げられている。
岐阜県高山市の飛騨高山祭の山車装飾、市内の橋の欄干の彫刻など手長足長のモチーフが多く見られる。これは嘉永年間の宮大工が彫刻を手名稚と足名稚として高山祭屋台に取り付けたものが由来とされている。手長足長に神仙としてのイメージと、『山海経』や『異国物語』あるいは浮世絵などの絵画作品を通じての異民族・妖怪としてのイメージ、双方からのイメージが江戸時代後期には出来上がっていることがわかる。
(以上、「Wikipedia」参照)
「妖怪」」として登場する「足長手長」もあるようです。
足長手長(あしながてなが)は、中国および日本に伝わる妖怪。1種のみの妖怪ではなく、足長人(あしながじん)と手長人(てながじん)の2種の総称である。
足長人は「足長国」の住民、手長人は「手長国」の住民。その名の通り、それぞれ脚と手の長さが体格に比較して非常に長いとされる。海で漁をする際には、常に足長人と手長人の1人ずつの組み合わせで海へ出て、足長人が手長人を背負い、手長人が獲物を捕らえるという。
これらの存在は、中国の古代の地理書『山海経』(せんがいきょう)に記されている長股(ちょうこ)長臂(ちょうひ)という足の長い・手の長い異国人物の伝説が起原であると考えられている。
王圻が編纂した中国の類書『三才図会』(1609年)および、その記述をもとに日本で江戸時代に編纂された『和漢三才図会』では、足長は長脚(ちょうきゃく)、手長は長臂(ちょうひ)とされ、それぞれ脚の長さが3丈、腕の長さが2丈とある。また、長脚人が長臂人を背負って海で魚を捕るということも記されており、日本ではこれを画題とした絵画が御所の中に設置されている「荒海障子」(あらうみのしょうじ)にも描かれている。
『塵添壒嚢鈔』(1532年)には、中国の王宮には奇仙・異人・仙霊のあやしき人といった画題の絵画を描く風習があったというのでそれにならって我が国の皇居の荒海障子も描かれたのでは無いだろうかと記してある。また、中世ころの仏教説話では龍宮に足長と手長が存在してるという物語があったようで、そこでは龍王の眷属として登場している。
・・・江戸時代に書かれた松浦静山による随筆『甲子夜話』(巻之二十六)には、平戸のある武士が月の綺麗な夜に海で夜釣りをしていたところ、九尺(約2.7メートル)もの脚を持つ者が海辺をさまよっており、ほどなく天候が急転して土砂降りに遭ったという逸話が語られている。その者の従者の語るところによれば、それは足長(あしなが)と呼ばれる妖怪で、足長が出没すると必ず天気が変わるとされている。
『甲子夜話』の原文では前半に『和漢三才図会』の文を引いて長脚と長臂について述べているが、この平戸に現われた「足長」は特に俗にいわれる中国の伝説にもとづいた「足長手長」と同一のものであるわけではなく、足の長い点から「足長」と呼ばれているもので、「手長」のようなものも付き添っていない。
(以上「同」参照)
このおうちは金の鯱(しゃちほこ)。
りっぱな建物が目立ちます。
「雀おどり」。
「常夜燈」。ただし、上部には電球がセットされています。
みごとな「雀おどり」。
簡素だがこれも「雀おどり」の一種。
来た道を振り返って望む。
緩やかなカーブとアップダウンが続く旧道。
道の真ん中にある「常夜燈」。ちょうど交差点になっている場所に立っています。ゴミ集積所の裏手という感じ。諏訪方面から来るとしっかり目に入る。
振り返って望む。
左前方。諏訪湖方面が開けてきます。
信号機のあるところを直進。
その先にあるのが、「足長神社」。祭神は、脚摩乳命 (あしなづちのみこと)、別名を「足長彦神」という。同じ諏訪市内には手摩乳命を祀る手長神社もあるようです。
「手長足長(てながあしなが)」は、秋田県、山形県、福島県、長野県、福井県などに伝わる伝説・昔話に登場する巨人。
その特徴は「手足が異常に長い巨人」で各地の伝説は共通しているが、手足の長い一人の巨人、または夫が足(脚)が異常に長く妻が手(腕)が異様に長い夫婦、または兄弟の巨人とも言われ、各地で細部は異なることもある。手のながいほうが「手長」足が長いほうが「足長」として表現される。
秋田では鳥海山に棲んでいたとされ、山から山に届くほど長い手足を持ち、旅人をさらって食べたり、日本海を行く船を襲うなどの悪事を働いていた。鳥海山の神である大物忌神はこれを見かね、霊鳥である三本足の鴉を遣わせ、手長足長が現れるときには「有や」現れないときには「無や」と鳴かせて人々に知らせるようにした。山のふもとの三崎峠が「有耶無耶の関」と呼ばれるのはこれが由来とされる。それでも手長足長の悪行は続いたため、後にこの地を訪れた慈覚大師が吹浦(現・山形県 鳥海山大物忌神社)で百日間祈りを捧げた末、鳥海山は吹き飛んで手長足長が消え去ったという。また消えたのではなく、大師の前に降参して人を食べなくなったともいわれ、大師がこの地を去るときに手長足長のために食糧としてタブノキの実を撒いたことから、現在でも三崎山にはタブノキが茂っているのだという。
福島の会津若松に出現したとされる手長足長は、病悩山(びょうのうざん、やもうさん、わずらわしやま。磐梯山の古名)の頂上に住み着き、会津の空を雲で被い、その地で作物ができない状態にする非道行為を行い、この状態を長期にわたり続けたという。その地を偶然訪れた旅の僧侶がことの事情を知り、病悩山山頂へ赴き、手長足長を病悩山の頂上に封印し、磐梯明神として祀ったとされている。このことをきっかけに、病悩山は磐梯山と改められ、手長足長を封印した旅の僧侶こそ、各地を修行中の弘法大師だったと言われている。
福井の雄島にある大湊神社には、安島に最初に住んでいたのが手長と足長だったと伝わる。足長が手長を背負って海に入り、手長が貝のフンをその長い手で海に入れ、魚をおびき寄せ獲って暮らしていたという。
上記のような荒ぶる巨人としての存在とは別に、神・巨人・眷属神としての手長足長、不老長寿の神仙としての手長足長もみられる。
室町時代に編纂された『大日本国一宮記』によると、壱岐(長崎県)では天手長男神社が国の一の宮であったとされ、天手長男(あめのたながお)神社と天手長比売(あめのたながひめ)神社の2社が存在していた。
長野の上諏訪町(現・諏訪市)では、手長足長は諏訪明神の家来とされており、手長と足長の夫婦の神であるといわれ、手長足長を祀る手長神社、足長神社が存在する。この二社は記紀神話に登場している出雲の神である奇稲田姫(くしなだひめ)の父母・足名稚(あしなづち)と手名稚(てなづち)が祭神とされているが、巨人を祀ったものだという伝承もある。
これら社寺に関連する「てなが(手長)」という言葉について柳田國男は、給仕をおこなう者や従者を意味していた中世ころまでの「てなが」という言葉が先にあり、「手の長い」巨人のような存在となったのは後の時代でのことであろうと推論している。
物語文学のひとつである絵巻物『宇治橋姫物語絵巻』には、主人公のひとりである中将を取り囲んで現われる異形の存在(「色々の姿したる人々」)として、みるめ・かぐはな・手なが・あしながという名が文章上では挙げられている。
岐阜県高山市の飛騨高山祭の山車装飾、市内の橋の欄干の彫刻など手長足長のモチーフが多く見られる。これは嘉永年間の宮大工が彫刻を手名稚と足名稚として高山祭屋台に取り付けたものが由来とされている。手長足長に神仙としてのイメージと、『山海経』や『異国物語』あるいは浮世絵などの絵画作品を通じての異民族・妖怪としてのイメージ、双方からのイメージが江戸時代後期には出来上がっていることがわかる。
(以上、「Wikipedia」参照)
「妖怪」」として登場する「足長手長」もあるようです。
足長手長(あしながてなが)は、中国および日本に伝わる妖怪。1種のみの妖怪ではなく、足長人(あしながじん)と手長人(てながじん)の2種の総称である。
足長人は「足長国」の住民、手長人は「手長国」の住民。その名の通り、それぞれ脚と手の長さが体格に比較して非常に長いとされる。海で漁をする際には、常に足長人と手長人の1人ずつの組み合わせで海へ出て、足長人が手長人を背負い、手長人が獲物を捕らえるという。
これらの存在は、中国の古代の地理書『山海経』(せんがいきょう)に記されている長股(ちょうこ)長臂(ちょうひ)という足の長い・手の長い異国人物の伝説が起原であると考えられている。
王圻が編纂した中国の類書『三才図会』(1609年)および、その記述をもとに日本で江戸時代に編纂された『和漢三才図会』では、足長は長脚(ちょうきゃく)、手長は長臂(ちょうひ)とされ、それぞれ脚の長さが3丈、腕の長さが2丈とある。また、長脚人が長臂人を背負って海で魚を捕るということも記されており、日本ではこれを画題とした絵画が御所の中に設置されている「荒海障子」(あらうみのしょうじ)にも描かれている。
『塵添壒嚢鈔』(1532年)には、中国の王宮には奇仙・異人・仙霊のあやしき人といった画題の絵画を描く風習があったというのでそれにならって我が国の皇居の荒海障子も描かれたのでは無いだろうかと記してある。また、中世ころの仏教説話では龍宮に足長と手長が存在してるという物語があったようで、そこでは龍王の眷属として登場している。
・・・江戸時代に書かれた松浦静山による随筆『甲子夜話』(巻之二十六)には、平戸のある武士が月の綺麗な夜に海で夜釣りをしていたところ、九尺(約2.7メートル)もの脚を持つ者が海辺をさまよっており、ほどなく天候が急転して土砂降りに遭ったという逸話が語られている。その者の従者の語るところによれば、それは足長(あしなが)と呼ばれる妖怪で、足長が出没すると必ず天気が変わるとされている。
『甲子夜話』の原文では前半に『和漢三才図会』の文を引いて長脚と長臂について述べているが、この平戸に現われた「足長」は特に俗にいわれる中国の伝説にもとづいた「足長手長」と同一のものであるわけではなく、足の長い点から「足長」と呼ばれているもので、「手長」のようなものも付き添っていない。
(以上「同」参照)
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