おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「龍閑橋」。「機銃掃射の跡(鎌倉橋)」。「今川横丁」。・・・(「龍閑川」跡をたどる。その1。)

2014-02-02 23:01:25 | 河川痕跡
 今回は、堀割・「龍閑川」跡をたどることに。JR「神田駅」南口からJR「浅草橋駅」まで。二駅間ですからそれほどの距離はありません。約2㎞、歩いても25分程度の道のり。
 この川は千代田区と中央区の区界(かつての「神田区」と「日本橋区」)にもなっています。
 「龍閑川」「浜町川」の合流点「龍閑児童公園」付近からは川の流れからは関係なく、ジグザグしながら区界は浅草橋方向に進み、神田川に架かる「左右衛門橋」まで、「千代田区」と「中央区」との区界が続きます。浅草橋駅西口付近になると、「千代田区」と「台東区」との区界となります。

「竜閑橋」という名称の交差点(「外堀通り」)。
中央奥、「日本橋川」が少しカーブする辺り、赤丸のところがかつての堀割・「龍閑川」の取水口と思われる。「鎌倉橋」から望む。

 ところで、この「鎌倉橋」。
 日本橋川に架かり、大手町一・二丁目から内神田一・二丁目に通じる橋で、外堀通りにあります。関東大震災の復興橋の一つで、昭和4年(1929)4月25日の架橋で、長さ30.1m、幅22.0mのコンクリ-ト橋です。名前の由来は、江戸城を築くときに鎌倉から石材をここの河岸(内神田寄り)に陸揚げしたので、この河岸を鎌倉河岸と呼んだことによります。
「鎌倉河岸ビル」。
 また、この鎌倉橋には、日本本土土市街地への空襲が始まった痕跡が残っています。欄干には、昭和19年(1944)年11月の米軍による爆撃と機銃掃射の際に受けた銃弾の跡が大小30個ほどあり、戦争の恐ろしさを今に伝えています。
橋のたもとにある「説明板」。

(以上より。注:写真は小生の撮ったもの。)

銃弾の跡(赤丸)。
目に付くところにある(赤丸)。
 
 この橋も老朽化していて、新しく建てかえられる可能性もある。そのときに、こうした痕跡は、きちんと継承していって欲しい、と。

さて、ようやく「竜閑橋」遺構に戻ります。
説明板。

 もともと、神田の掘に架けられていた龍閑橋は、堀を埋め立てることで必要なくなりました。 同じころ、この付近に開かれた新しい川に、いらなくなった橋をそのまま架けたのが、現在の龍閑橋の地名の由来となっています。まだ無名だったその新川は、橋の名前にちなんで 「龍閑川」 と名付けられました。
今は無き龍閑川は、その昔、神田と日本橋の両区を分割するものでした。
 また、「龍閑」という名については、龍閑川の西端にあった町に、旧幕府坊主の「井上龍閑」と言う人の家があったことに由来します。

鉄筋コンクリート製のトラス橋が遺構として残されている。


1926年(大正15)年につくられた、日本最初の鉄筋コンクリート橋。
明治時代の龍閑橋(「説明板」に掲示されてあったもので、木橋。右の堀が「日本橋川」)。
1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

2010年代のようす。(「同上」より)

こじんまりとした公園に余生を送っている。
そこから日本橋川方向を望む。正面奥が取水口と思われる。

この道(「龍閑川」跡)が一直線に東に向かう。右が中央区、左が千代田区。
 

路地(区界の道)から西(日本橋川)を望む。
ビルとビルとの間に残る木造家屋。
JR線のガード。「白旗橋」とある。ガード下にあるお店は、ずばり「があどした」。
両側に小さなお店が並ぶガード下。「龍閑川」跡はこの路地を東に向かう。
振り返って望む。
「今川小路」と。立ち退きなどで昔の面影(「ガード下飲み屋小路」)はなくなりつつあるようだ。

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