おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

玉藻池。玉川上水。・・・(渋谷川を遡る。その6。)

2015-11-06 20:39:24 | 河川痕跡
 さて、新宿御苑内の「玉藻池」。
 この池は、もともと「玉川上水」からの引き水によってつくられているようです。「玉藻池」からの流れはすぐ暗渠になってしまいます。おそらく御苑を南に下り、「下の池」で合流すると思われます。

 「玉藻池」からの流れ。
      
 池の東南のところ。落ち口になる。                            ここからは暗渠。

玉藻池

 玉藻池は苑内でも特に古く、江戸時代の内藤家下屋敷の庭園に由来します。
休憩所から見下ろすと、ゆるく短い斜面を描いて池に達します。池はあまり大きくありませんが、奥が深く、周囲は厚い森に包まれ、冬には水鳥たちの憩いの場となります。当時の継承の面影はありませんが、池の形と中島の位置がその跡をとどめています。

  

池の北の部分。「玉川上水」からの流入口?付近。

「休憩所付近からの「玉藻池」。

 「渋谷川」源流探索で二度、「新宿御苑」に来ました。考えてみたら、今までそれほど来たことがありません。新宿の繁華街からわずかのところ。200円の入園料でじっくり都心のオアシスを堪能できるのは、たいへんすばらしいことです。

 「新宿御苑」大木戸門口から出ると西へかつての「玉川上水」が続きます。



「玉川上水の生い立ちと新宿」。

玉川上水の歴史

 玉川上水は、江戸の飲料水を確保するために、玉川兄弟の手により承応3(1654)年に開設されました。取水口である羽村堰(羽村市)から四谷大木戸(現在の四谷4丁目交差点付近)までの約43㎞の区間は、土を掘り抜いただけの開渠で造られていました。
 四谷大木戸から市中へは、石や木で造られた水道管を通じて水を供給し、淀橋浄水場の完成成した明治31(1898)年頃まで、江戸・東京の人々にとって貴重な水資源でした。
 新宿区には、四谷大木戸に水番屋があり上水の管理を行っていました。また、四谷見附付近は、江戸城本丸、吹上御殿、市中の武家や町人の屋敷へ供給する分水の分岐点となっていました。これらの地域は上水管理の上で、大変重要な役割を持っていたことがわかります。 

新宿のおける玉川上水

 新宿区内での上水の利用は、四谷などごく一部でした。四谷は下町と違い、水に恵まれた地域であったことから、掘り抜きの井戸を多く使っていたためと思われます。水の確保のためにつくられた上水ですが、内藤新宿界隈では、桜並木が続く江戸の名所を生みだし、多くの行楽客でにぎわいました。
 明治になると、通船が行き交っていた時期もありました。

 以前、「羽村堰」(「多摩川」からの「玉川上水」への取水口)へ行ったことがあります。

多摩川からの取水口。

 「渋谷川」には「明治神宮」内の湧き水も流入しています。また、西の方からも多くの支流が流れ込んできます。
「宇田川」「河骨川」・・・。機会をつくって、今度は、その付近を探索してみようと思います。

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