関口芭蕉庵正門。ただし、入口は裏手にある木戸口。
説明板。
ここから入る。ただし、月曜、火曜は「休庵日」。
松尾芭蕉は、天保元年(1644年)、伊賀上野の城下(現在の三重県伊賀市)で生まれ、後に(1672年)、江戸に移り住み、様々な俳諧活動を展開しました。
芭蕉は、土木技師として、上水道工事にも携わりました。
芭蕉が郷里の伊賀から江戸に出て、深川の、いわゆる今日の深川芭蕉庵に住みつくまでの間(1677年から1680年まで)、現在の文京区関口で、神田上水(江戸川)の改修工事に携わり、この工事を監督しました。
神田上水は、天正年間(1573~92年)、徳川家康の命で大久保忠行が開設したのに始まる上水です。井頭の池を水源として、関口、水道橋を経て、神田・日本橋・京橋に給水し、総延長約66Kmもあり、芭蕉は、宝暦期の改修工事に携わりました。(後に、神田上水は、新多摩上水施設により明治33年に廃止されています。)
この間、芭蕉は、工事現場か水番屋に住んだといわれますが、後に、芭蕉を慕う人達により「龍隠庵」(りゅうげあん)という建物が建てられ、芭蕉の風を慕う俳人達が集い、いつしか「関口芭蕉庵」と呼ばれるようになったとのことです。
元の建物は火事や戦火で焼失し、昔の面影を残そうと第2次大戦後に再建されたものですが、周囲の風情ある庭や池・木立は往時の“わび、さび”を偲ばせてくれます。
池のほとりに建てられた芭蕉句碑には、「古池や 蛙飛こむ 水のをと」と刻まれており、芭蕉の直筆からとられたものだそうです。
なお、関口芭蕉庵は、江戸時代には、安藤広重が「江戸名所百景」の中で「関口上水芭蕉庵椿山」を描いており、現在も、椿山荘、フォーシーズンズホテルのすぐ西側に位置した、椿山荘の日本庭園から一体の緑に囲まれた静かで趣きある場所です。
HPより
松尾芭蕉が二度目に江戸に入った後に請け負った神田上水の改修工事の際に1677年(延宝5年)から1680年(延宝8年)までの4年間、当地付近にあった「竜隠庵」と呼ばれた水番屋に住んだといわれているのが関口芭蕉庵の始まりである。
後の1726年(享保11年)の芭蕉の33回忌にあたる年に、「芭蕉堂」と呼ばれた松尾芭蕉やその弟子らの像などを祀った建物が敷地に作られた。その後、1750年(寛延3年)に芭蕉の供養のために、芭蕉の真筆の短冊を埋めて作られた「さみだれ塚」が建立された。また「竜隠庵」はいつしか人々から「関口芭蕉庵」と呼ばれるようになった。
1926年(大正15年)には東京府(現:東京都)の史跡に指定された。また芭蕉二百八十回忌の際に園内に芭蕉の句碑が建立された。芭蕉庵にある建物は第二次世界大戦による戦災などで幾度となく焼失し現在のは戦後に復元されたものである。現在では講談社・光文社・キングレコードらが中心となって設立された「関口芭蕉庵保存会」によって維持管理されており、池や庭園などもかつての風情を留めた造りとなっている。
(以上、「Wikipedia」より)
「胸突坂」。神田川の駒塚橋(ただし、1880年代には「駒塚橋」はもう少し下流にあり、「胸突坂」とは結んでいなかった)から「目白通り」に向かう坂。けっこう急な坂道。その途中に「芭蕉庵」の入口がある。坂を上り詰めると、「蕉雨園」の正門。坂の西側には「水神」。その先に「永青文庫」(新江戸川公園の上)がある。
普通の住宅みたいなので、つい「お邪魔します」と声を掛けたくなる雰囲気。
中に入ると緑が濃く、池を囲んで、アップダウンの小道が続く。
池のほとりに建てられた芭蕉句碑。「ふる池や かはつ飛こむ みつのをと」と刻まれてあり、芭蕉の直筆からとられたもの。
注:「ふ」は「婦」、「か」は「可」、「は」は者、「つ」は「川」のそれぞれ変体仮名。
池。少し茶色がかっているが、奥から湧水が引かれている。
こじんまりとしていて、風情のある池。
湧水。
自然石を並べた散策路。
芭蕉。
「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな」。このように因んだ句が記されたり、俳人の句碑などが点在している。
池の上から庭を望む。静寂な空間。水の音や木々のふれあう風の音しかない。
1750年(寛延3年)に芭蕉の供養のために、芭蕉の真筆の短冊を埋めて建立された「さみだれ塚」。
少し坂道をたどると、「芭蕉堂」がある。
1726年(享保11年)の芭蕉の33回忌にあたる年に、松尾芭蕉やその弟子らの像などを祀った建物「芭蕉堂」。
こんもりとした木々の中。
竹林。
「つた植えて竹四五本のあらしかな」。
初めて来ました。「深川芭蕉庵」が跡地にできた近代的な「記念館」(芭蕉に関する資料展示も豊富)に比べ、ここは江戸時代のかつての庭の雰囲気を残した所。
芭蕉を知るための資料展示などは全くないが、見学者も多くなく、ゆっくりと風情を味わえます。
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