おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「京成稲毛」駅~JR「蘇我」駅。その1。「明治天皇御野立所」。「仲よし公園」。「千葉都市モノレール」。・・・(「房総往還」をゆく。第2日目。)

2020-01-31 19:52:58 | 房総往還
                     「房総往還」2日目。「京成稲毛」駅から。1月25日(土)。晴れ。
少し上り坂。駅方向を振り返る。

 街道は海岸から離れ、千葉までは台地上を進みます。

1880年代のようす。


2010年代のようす。すっかり住宅街になっています。

 ただし、明治中ごろから旧街道(↓)はJR(旧国鉄)「稲毛」駅から先が次第に失われ、海岸線沿いに新たに「千葉街道」(→)が千葉以南の道路として成立します。
 内陸部は陸軍の軍用地として利用されたり、そのための鉄道が敷設されるるようになったためと思われます。
(「今昔マップ」より)

沿道には、古風で趣のあるおうちも。

しばらく行くと、交差点。その先の三叉路を左に進みます。

 JR線のガードの手前の空き地に、
明治天皇御野立所」碑。
 この地は明治15年(1882)5月、明治天皇が近衛師団(天皇を守る軍隊)対抗演習をご覧になるため、八街市丹尾台(たんのおだい)、千葉市緑区東山科町四谷ヶ原(よつやがはら)に行幸されたときに休息をとられた所です。・・・(以下、そのときの細かな旅程が掲載されています。)

 昭和10年(1935年)に国の史蹟に指定された当時の石碑が残っています。(戦後、史蹟の指定は、取り消されました。)この「御野立所」は八街などこの近辺だけでなく、全国にあるようです。
 説明板の下には大きな切り株が。かつては大木が生えていたようで、当時はうっそうとした森だったようです。

ガードをぬけると、結構賑やかな街並みになります。右手がJR「稲毛駅」東口。

↓が「房総往還」街道。

左手にけっこう広い「仲よし公園」。
                  注:「なかよし公園」とひらがな表記する記事もあり。

 ネーミングは何だかかわいらしいですが、ここは、小仲台5丁目の一帯(園生小、小中台中、県立千葉女子高、仲よし公園など)は、千葉陸軍高射学校の跡地。「仲よし公園」の隅に「開拓の町小仲台」の碑があります。

 その碑文によると、この周辺8万坪は終戦まで「陸軍防空学校」のち「陸軍高射学校」だった。戦後、千葉県に縁故のある引揚者、戦災者用を入居させる公営住宅を450戸を建設した。商店もない焼け野原の地区は治安も悪く、住民は明日の米代にも困っていた。そこで、住民達は自治会を結成、以来今日まで町造りに精魂を打ち込んできた、と。(昭和59年現在)

注:「陸軍防空学校」は1938年(昭和13年)に設立された。

 こうした「美しい町造り」という自治会運動が、現在の小中台町の発展の礎となっているようです。
 

「県立千葉女子高」。千葉県初の女学校「千葉県高等女学校」。

しばらく進み、「園生十字路」交差点を右折。振り返る。

大きなお屋敷。

商店がほとんど見当たらない穴川地区を進む。

しばらく行くと、頭上に「千葉都市モノレール2号線」が通る広い通りに出ます。「天台」駅付近。
 

 この路線は、「東金街道」歩きのときに「都賀」駅~「千城台」駅間で利用しました。

 千葉みなと駅から県庁前駅を結ぶ1号線と、千葉駅から千城台駅を結ぶ2号線の2路線を持つ。1988年3月28日に最初の区間である2号線スポーツセンター駅 - 千城台駅間が開業し、1999年3月24日に1号線を含めた全線が開通した。総営業距離15.2kmは懸垂式モノレールとしては世界最長で、2001年にギネス世界記録に認定されている。
                  
(この項、「Wikipedia」参照)

《路線図》
(「千葉市」公式HPより)

この付近の今昔。
        
        
1880年代のようす。○が合流点。            2010年代のようす。

戦前は、現在の「天台駅」一帯には、「歩兵学校」など軍関係の施設が多くあった。(「今昔マップ」より)

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