断続的に読み進めて、やっと読み終え、半日以上、改めて通読してもみました。やっと読み終えたな、という感想です。
近代日本文学に連綿と続く私小説という作風。大江さんは、つまりはそのジャンルの方であったのかと、ごく常識的な(通俗的な)結論です。
ただ、個と公。あくまでも自らの人生に立ち向かい、真摯で生きようと、そのレベルでの人間関係(連帯あるいは孤立)への希求という視点から、常に真摯に生きようする個の部分をもって、(国家)権力につながる公のあり方を突く(むしろ、挫折する人間像)、という手法が、通り一遍の「私小説」とは異なっているのですが。
「万延元年のフットボール」以来、小説家としての修練を、親類、身内との葛藤の中で、「父」の最後(再出発ともいえる)の水流に流される後ろ姿をイメージし、追求していきます。
演団員による作中劇風(正直、大江さんは、演劇的作法にはなじめないのではないか。ここでも、かなり観念的な内容を取り入れています。)叔父(文部行政権力の中枢にいる人物)と姪(劇団員)との肉体関係(強姦、中絶。そして再度の肉体関係、殺人・・・。)ど・・・。あるいは、障害持つ子どもを残して先立つ不安、将来、肉体的な衰え、肉親の。などさまざまな題材がちりばめられていて、それらがプロットして明快なつながりを持って行きます。
あるいは「こころ」(大江さんは先生の言葉「記憶して下さい。私はこんな風にして生きてきたのです」が、自らの生き方と重ね合わせている重要な言葉と捉えているようです。さらに今回は「(明治の精神に)殉死」。
最後の法は、それまでの緊張関係が一気に崩壊していく、このあたりの読み応えは確かですが、読者によっては、あまりにも予定調和的ととらえられるかも知れません。
近代日本文学に連綿と続く私小説という作風。大江さんは、つまりはそのジャンルの方であったのかと、ごく常識的な(通俗的な)結論です。
ただ、個と公。あくまでも自らの人生に立ち向かい、真摯で生きようと、そのレベルでの人間関係(連帯あるいは孤立)への希求という視点から、常に真摯に生きようする個の部分をもって、(国家)権力につながる公のあり方を突く(むしろ、挫折する人間像)、という手法が、通り一遍の「私小説」とは異なっているのですが。
「万延元年のフットボール」以来、小説家としての修練を、親類、身内との葛藤の中で、「父」の最後(再出発ともいえる)の水流に流される後ろ姿をイメージし、追求していきます。
演団員による作中劇風(正直、大江さんは、演劇的作法にはなじめないのではないか。ここでも、かなり観念的な内容を取り入れています。)叔父(文部行政権力の中枢にいる人物)と姪(劇団員)との肉体関係(強姦、中絶。そして再度の肉体関係、殺人・・・。)ど・・・。あるいは、障害持つ子どもを残して先立つ不安、将来、肉体的な衰え、肉親の。などさまざまな題材がちりばめられていて、それらがプロットして明快なつながりを持って行きます。
あるいは「こころ」(大江さんは先生の言葉「記憶して下さい。私はこんな風にして生きてきたのです」が、自らの生き方と重ね合わせている重要な言葉と捉えているようです。さらに今回は「(明治の精神に)殉死」。
最後の法は、それまでの緊張関係が一気に崩壊していく、このあたりの読み応えは確かですが、読者によっては、あまりにも予定調和的ととらえられるかも知れません。