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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

東武野田線「川間駅」~流鉄「流山駅」。その4。利根運河。流山場外ヘリポート。尼谷の渡し跡。(「江戸川」を歩く。第2回目。)

2022-03-19 20:40:24 | 江戸川を歩く

                  「利根運河公園」。この手前付近から「流山市」になります。

利根運河。

江戸川への流入地点。

利根川方向。

「利根運河」の利根川流入口(水門)は「利根川」歩きのときに通過しました。以下再掲。

「利根運河」水門。          

利根運河江戸川方向。

利根運河

千葉県柏市流山市野田市を流れる、利根川江戸川をつなぐ一級河川運河(人工河川)。日本初の西洋式運河である。全長は約8.5キロメートル。明治時代の開削と前後して、東京湾に直接乗り入れる汽船鉄道が整備されたため、太平洋戦争前には舟運の役割はほぼ終えている。現在は行楽地となっており、利根運河にちなんで命名された東武野田線運河駅周辺には、流山市立の運河水辺公園利根運河交流館、工事の中心となったオランダ人技師ムルデルの顕彰碑、大阪・通天閣のものと似たビリケン像などが整備されている過去の経緯から、現在の水量の割には土手が広大となっている。特に東京理科大学野田キャンパス最寄駅の運河駅付近は、春には見事な並木を見ることができる。

        

歴史

1890年(明治23年)2月25日に通水、同年3月25日に通船、同年6月18日に竣工式。

1915年(大正4年)の利根運河
 
利根運河を越える千葉県営軽便鉄道の列車(大正時代)

1891年(明治24年)の舟運は年間約37,600隻で、1892年(明治25年)4月14日に内国通運会社(現在の日本通運)が、利根運河に初めて汽船の運河往復試運転を実施、1893年(明治26年)4月1日に銚子汽船(後の銚子通運会社、銚子合同汽船会社)が初就航し、銚子-東京間は6時間短縮された。1895年(明治28年)2月15日には、東京-銚子間の直行の汽船が就航し、東京-小名木川-江戸川-利根運河-利根川-銚子の144kmを18時間で結んだ。

(この項、「Wikipedia」参照)

利根運河」全体MAP。

※かつての舟運のためか、現在は、川幅に比べ、両岸が広く高くなっています。

ここで、小休止。対岸ではラジコン飛行機が飛んでいます(↓)。

さて再開。

流山場外ヘリポート。

ヘリコプターの離発着の他、「DSLドローンスクール流山屋外練習場」として活用されているようです。

           (「流山場外ヘリポート」Facebookより)  

「海から34㎞」。

「河川管理境界」。

                     ←松戸出張所 運河出張所→    

     

田畑の向こうには、「DPL流山IV」など大型の物流施設が並ぶ。

※「DPL」は、「大和ハウス工業」の物流施設。

          対岸は、「OUTDOOR SPORTS PARK」。

ゴルフもバーベキューも。ソト遊びの新たな創造。
都心からすぐの新しいアウトドアリゾート。
家族で仲間で集える、ちょっと贅沢な“本物の遊び場”です。

ゴルフ場の大自然を一般の人にも解放。ゴルファーのみでなくファミリーや若い世代にも、
開放感あるアウトドア体験を可能にした「OUTDOOR SPORTS PARK」。
ゴルフ場・ゴルフ練習場はもちろん、本格的なバーベキューやアメリカンスタイルのレストラン、
サイクリングやランニングのエイドステーションなど、多様なコンテンツを備えたアウトドアリゾートです。

      

   (「」HPより)

②「尼谷の渡し跡」
平方村新田と平方新田(埼玉側)が共同で運営していた渡しで、三十人ほどが乗れる大型の舟を使用し、時には牛や馬、自転車も渡したと伝えられている。

対岸。

この付近の今昔。

                                                                     

1880年代のようす。                       2010年代のようす。

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東武野田線「川間駅」~流鉄「流山駅」。その3。玉葉橋。カヌー。「渡し跡」碑。(「江戸川」を歩く。第2回目。)

2022-03-18 20:59:49 | 江戸川を歩く

                      対岸のようす。グランドが続く。

       

左岸は、川の流れに近く、河川敷はほとんどない。

対岸の吉川市側は河川敷が広く、グランドやスポーツ広場などが数多く設置されている。

※「江戸川」に接して流れていた「庄内川」を河川敷に取り込んだことが大きな要因か?   

「海から35.75㎞」。

玉葉橋。

江戸川の河口から約35.5Km地点に架かり、埼玉県道・千葉県道326号川藤野田線を通す。左岸は千葉県野田市、右岸は埼玉県吉川市となり、江戸川の吉川市域に架かる唯一の一般道路の橋である。完成は1984年昭和59年)で、橋梁名は埼「玉」県と千「葉」県から1字ずつ採って名付けられた。上流の野田橋埼玉県道・千葉県道19号越谷野田線)までは約4Km、下流の流山橋埼玉県道・千葉県道29号草加流山線)までは約7Km離れており、流山橋周辺では慢性的な渋滞が発生している。このため、玉葉橋の5Kmほど下流に有料道路三郷流山橋が2023年の開通を目指して建設が進められている

澪筋は左岸側に寄り、右岸の河川敷には軟式野球場やスポーツ広場などを有する埼玉県営吉川公園が上流・下流双方に広がる。本橋と約120Km離れた富士山との間には視界を遮るものがなく、空気の澄んだ冬の早朝などには富士山の姿を望むことができる。国土交通省関東地方整備局は、玉葉橋と江戸川スーパー堤防上、みずきの街、千葉県立関宿城博物館の4スポットを「野田市からの富士」として関東の富士見百景に選定した。(「Wikipedia」より)

玉葉橋の下にカヌーが。

河川敷に下りてみます。

カヌーは、橋の下でターン。

菜の花が満開。

渡し跡①「深井新田の渡し跡」。
深井新田は江戸時代の江戸川開さくで分断された地域で、対岸に耕作地を持つ人も多く、認可は明治十年六月だが、江戸時代からの古い渡しである。

                     1880年代のようす。

                     2010年代のようす。

そこからの対岸。

野田市側。

※ここから下流に架けてかつての渡し場跡が続きます。

「利根運河」の土手が見えてきます。

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東武野田線「川間駅」~流鉄「流山駅」。その2。海から40㎞。野田橋。中州。庄内古川・中川。(「江戸川」を歩く。第2回目。)

2022-03-17 21:25:56 | 江戸川を歩く

       この付近では、道路も住宅も土手に接近しています。そのせいか、自転車や歩行者も多くなっています。

「海から40㎞」標識。

菜の花畑。

「野田橋」に近づきます。

野田橋。「海から39.5㎞」。

千葉県野田市と埼玉県松伏町を結ぶ。  

        

左手に「キッコーマンフードテック中野台工場」。

①しょうゆ、つゆ、たれ、ソース及びその他調味料の製造及び販売
②農産、水産、畜産加工品等の食料品及び飼料の製造及び販売

左手奥にある森の中まで工場が続いています。

この先、芝生養生中。

対岸は埼玉県吉川市。

独特な河川敷のようす。

所々に砂州が。

木々が生い茂る中洲。          

この付近の今昔。

                     1880年代のようす。

      左に流れる「庄内川(古)」が江戸川と接している。

                     2010年代のようす。庄内古川は河川敷に。

現在の中川の流路は、その上流部は明治時代以前の庄内古川(幸手市高須賀より上流は島川)と、下流部は古利根川利根川東遷事業以前の利根川本流で東京湾へ注ぐ河口部は現在の旧中川)とを、松伏町大川戸から松伏町下赤岩まで大正昭和に開削された河道で接続して造られた。それ以前は古利根川が亀有付近で分流した河道のうち、江戸川区西葛西付近の河口へ向かう河道を中川と呼んだ(西へ向かうもうひとつの河道は現在の古隅田川)。

この水系整備により、島川・庄内古川より東京湾河口までが中川として扱われ、合わせて古利根川、元荒川、綾瀬川なども中川水系とされた。

なお庄内古川は、江戸時代以前の渡良瀬川権現堂川より下流の流路を流れた。渡良瀬川の下流は古くは太日川と呼ばれた。太日川は江戸時代に整備され現在の野田市関宿・幸手市西関宿から南流する江戸川となり、庄内古川とは吉川市付近で合流した。

(この項、「Wikipedia」参照

※合流地点は、ちょうど写真付近。

この先もしばらく木々が茂る中州が幅広で長く形成されていることと、「庄内古川」と「江戸川」との接点と関連があるのでしょうか?

キッコーマン関連工場。

「海から38.0㎞」。

中州(灌木帯)が続く。

「キッコーマン」関連工場脇の土手。

対岸には野球場が何面も。

遠くに野田の街並み。

「海から37.0㎞」。

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東武野田線「川間駅」~流鉄線「流山駅」。その1。「清水公園」今昔。座生沼。(「江戸川」を歩く。第2回目。)

2022-03-16 19:36:18 | 江戸川を歩く

                     「東武鉄道野田線」鉄橋。

3月12日(土)。快晴。「江戸川を歩く」の第2回目。

東武野田線・川間駅で下車、江戸川土手に向かいます。

下流方向。

土手上にある、舗装され、整備された「自転車・歩行者専用道」を歩きます。

気温も上昇し、これまでと違って風も穏やかで歩きやすい。利根川歩きで、そうとう苦しめられたのがウソのよう。

  菜の花を楽しみながら。

振り返る。

「海から43.75㎞」。河川敷のグランドでは子どもたちの歓声。

「海から43.0㎞」。

  左手は、「川間グリーンテニスクラブ インドアテニススクール」。

対岸は、埼玉県春日部市。

畑地と住宅と。

「海から42.25㎞」。

    左奥が「清水公園」。

かつて、「清水公園」付近には大きな沼地が広がっていました。

                     1880年代のようす。

       「座生(ざおう)沼」が広がる。

                     2010年代のようす。緑の部分が「清水公園」。

「清水公園」開園後の当時のようす。

「野田観桃記/宮本鴨北著」    

                                     (「野田市立図書館」HPより)

清水公園

野田の醤油醸造業柏屋5代目の茂木柏衛により1894年明治27年)4月3日に開園。現在は株式会社千秋社が管理・運営をしている。開園から約120年の間、地域密着・自然志向路線を貫いており、園内にある各種施設と豊かな自然が、地域住民の安らぎの場として四季を通じて親しまれている。設立主旨は、かつてこの地で暮らしていた縄文人達の自然生活の姿を、現代の人たちにも園内の自然を通して体感し、安らぐ場を提供することを目的として造られたものである[2]キャッチコピーは「自然とともだち」

縄文時代には、この辺り一帯は奥東京湾の入り江であったと推測される案内板があり(縄文海進、これは現在も周辺に貝塚などの縄文遺跡が分布する事からも分かる。江戸川および支流の座生川沿いの開析谷の低地及び下総台地の縁辺が複雑に入り組む場所に立地しているため、園内は緑が多く起伏も存在する。

園内にあるフィールドアスレチックは日本最大級(100ポイント)の規模であり、特に池の上に作られた「水上コース」は人気がある。難易度は高く、レスキュー隊やスタントマンのチームがトレーニングに利用することもある。ここには2020年6月末までは水飛沫が噴き上がる世界初の噴水迷路「アクアベンチャー」もあり、ここも人気スポットとなっていた。入園料は無料、駐車場及び各施設利用の場合は有料である。自然が数多く残されているため、近隣の幼稚園や小学校の遠足の行き先としても親しまれている。千葉県民の日を初めとして、年に数日、有料施設が割引となる日がある。

(この項、「Wikipedia」より)

小学校や幼稚園の遠足として、また家族連れで、東京からも出かけてきます。

「フィールドアスレチック」で、ずぶ濡れになって遊ぶのが楽しいようです。

先に進みます。菜の花が満開。

         

                 

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東武線川間駅~川間駅。その6。金野井大橋。東武野田線鉄橋。川間駅。(「江戸川」を歩く。第1回目)

2022-03-13 20:12:17 | 江戸川を歩く

                      まめバス「岡田河岸」バス停。

ここに河岸があったのでしょうか? 

「海から46.5㎞」。

眼下の田園風景。

上流方向。

「国道16号線(東京環状道路)」・「春日部野田バイパス金野井大橋」。

街道歩き・川歩きでおなじみの「国道16号線」とは、ここではじめて遭遇します。

下流方向。

利根川によって「金野井」地区が東(左岸)西(右岸)に分かれています。

遠くに東武野田線(「アーバンパークライン」)の鉄橋が見えてきます。

   

「海から44.5㎞」。

上流方向。砂州が目に付く。

単線の鉄橋。

大宮方面行き。

船橋方面行き。

路線図。

                              (「ジョルダン」より)

今回の「江戸川」歩きはここまで。「川間駅」に向かいます。

江戸川と利根川の間に位置するところから、明治22年に旧中里・東金野井・船形・尾崎の4ヵ村を合併したおりに「川間村」と命名されました。
昭和32年に野田市に編入されたこの町に駅ができたのは昭和5年で、駅名は旧村名が生かされて命名されました。

この項、「」HPより)

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東武線川間駅~川間駅。その5。関宿滑空場。グライダー。「海から48㎞」。(「江戸川」を歩く。第1回目)

2022-03-12 18:55:05 | 江戸川を歩く

                     関宿滑空場。

    「海から49.0㎞」。

                                                                           2010年代のようす。(「歴史的農業環境システム」より)

菜の花が咲く土手に座り、しばし見物。次々と飛んだり、降りたりするので、少しも見飽きません。

    着陸するグライダー。

軽飛行機。

黄色い飛行機とワイヤーでつながったグライダー。いよいよ出発です。

          

あっという間に大空へ。

「妻沼滑空場」で見たグライダーは、地上の車にワイヤーでつなぎ(ウインチ曳航)、宙に浮くと外れて(外して)滑空するものでした。

        妻沼滑空場にて。

    

           「NPO法人関宿滑空場」格納庫。

さあ、出発です。

      

          

               

ちょうどこの日(3月5日)に飛んでいた方の投稿記事を見つけました。以下借用させていただきます。

※小生が見物していた時間は、午後1時半過ぎでした。

・・・

京浜ソアリングクラブ」HPより

通常活動日の3月6日(日)は冬型の気圧配置で強い北西風の予報で、土曜日(5日)に活動しました。

天候は晴れ、弱い南の風から強くなり時々15ktとなり14時頃の早めの撤収です。

juniorの撤収ロング後 機体回収待ちに撮りました

※この黄色の飛行機とつながれた白いグライダーを、当方は右の土手の上から眺めていたかも。

まだお日様は高いけど早めの撤収です バラしだしたら更に風強くなり気を使いました

    (投稿者・sasamotoさん)

・・・

「海から48.0㎞」。

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東武線川間駅~川間駅。その4。大凧あげ祭り。いちいのホール。将棋・関根名人。(「江戸川」を歩く。第1回目)

2022-03-09 20:44:10 | 江戸川を歩く

         

         野田・関宿と春日部・西宝珠花を結ぶ幹線道路のようで、車がけっこう行き来しています。

「↑松戸流山 →春日部」。

左手奥に「関宿中央(バス)ターミナル」があります。朝、東武線・川間駅から朝日バスに乗り、ここで、「野田市まめバス」に乗り換え、「関宿城博物館」へ向かいました。

 「宝珠花橋」東詰。

               「海から51.0㎞」。    

橋のたもとにあるモニュメント。

                 河川舟運(かせんしゅううん)が盛んだったことを偲ばせる。

    

サッカーグランド。

この対岸の河川敷が「大凧あげ祭り会場」になっています。

5月の連休。薫風の大空に、縦15m・横11m・重さ800kgの2張の大凧が飛揚

大凧の歴史

大凧に関する史料の初出は西宝珠花にある小流寺の過去帳である。  この過去帳によれば、天保12年(西暦1841年)9月11日に出羽の国の僧「浄信」が、各地巡礼の折に小流寺に宿泊し、土地の人々を集めて養蚕の豊作占いとして凧あげを伝えたことが記されている。人々は喜び合って、その翌年より繭の収穫時期に凧を揚げるようになったと伝えられている。

当時の流通手段は、舟運が主であり、東北地方や関東一円から江戸(東京)への舟運交通として江戸川が大きな役割を果たしていた。その舟運の要所として、宝珠花は大いに賑わい、この地方の文化経済の中心として繁栄していた。

 そこで人寄せのため、繭の収穫前に行っていた凧あげを旧5月の端午節句に男子出生のお祝いとして行うようになった。各戸で子どもの名前や紋章を書いた凧を作り、凧あげ祭りを行うようになった。一部において、凧合戦も行われたようである。

 各戸で揚げていた凧が、いつの頃からか共同で揚げるようになり、凧の大きさも徐々に大きくなり、明治の初期には現在の半分の大きさに、明治中期頃には現在の大きさになったと伝えられている。これまで、戦争や河川改修による宝珠花の移転等で中止された年もあったが、大凧の歴史と伝統は、多くの人々によって継承されこの地に息づいている。

 大凧あげ祭りは、昭和42年までは「宝珠花の大凧あげ祭り」であったが、昭和43年から「庄和の大凧あげ祭り」となり、平成17年10月1日の旧春日部市と庄和町の合併により、「春日部の大凧あげ祭り」と実施主催が変更となっている。

凧文字の変遷

 大凧の凧文字はその年の世相を反映した文字を公募により選定している。
子凧文字は市内の小学5年生から募集し選定している。

2019年度

(この項、「」HPより)

昨年は中止になりましたが、今年は着々と準備が進んでいます。

         (「同」HPより)

先に進みます。

振り返る。

左手に「いちいのホール」。

平成15年6月6日、野田市と関宿町は合併し、新しい野田市が発足。
平成16年4月1日、旧関宿町役場庁舎を支所・図書館・コミュニティ会館・関根名人記念館などの入る複合施設「いちいのホール」としてオープンした。

※「いちい」は旧関宿町の木であった「イチイ」に由来。

※「関根名人」将棋棋士。

千葉県東宝珠花(ひがしほうしゅばな)(現野田市)の生まれ。11歳で11世伊藤宗印名人に入門棋界の不振時代に全国を行脚(あんぎゃ)、修行し、弟子の発掘に尽くした。1905年(明治38)8段、21年(大正10)13世名人となる。35年(昭和10)名人世襲制度を捨て、自ら引退して実力名人制を実施し、現代に続く新聞棋戦を確立した。親分肌で人間味にあふれ、対阪田三吉戦をはじめ棋道行脚に数多くの逸話を残す。後進の育成にも尽力し、門下には土居市太郎金易二郎(こんやすじろう)、花田長太郎木村義雄(よしお)など名棋士を出している。直門に限らず明治・大正生まれの棋士には彼に指導感化された者が多い。関根流の「春風のやうにさらりと指すべし」の名人戦講評、泰然とした正座対局、あふれる人情味は、大名人の風格があった。野田市東宝珠花に将棋の駒をかたどった墓碑がある。

[原田泰夫]『木村義雄他監修『日本将棋大系13』(1980・筑摩書房)』(「コトバンク」より)

後の日本将棋連盟に連なる直弟子としては土居市太郎木村義雄を筆頭に8人を輩出している。また、その直弟子らも数多くのプロ棋士を輩出しており、孫弟子にも名伯楽として知られる高柳敏夫花村元司がいるなど、現代の将棋界において関根門下の系譜が最大の数を誇る。タイトルホルダーも数多く輩出しており、名人経験者だけでも、実力制第一代名人となる木村以降、塚田正夫中原誠加藤一二三羽生善治森内俊之がいる。(「Wikipedia」より)

将棋界のことはほとんど分かりません(藤井聡太君の大活躍ぶりは知っています)が、この方は、すごい名人だったんですね。

河川敷の工事現場が続く。

ほぼ真横にグライダーが。

面白い看板。  

右は分かりますが(でも、「いたずらしちゃうよ?」はアウトかな?)、左の「活用工事現場」「人工衛星を利用し位置を算出します」とは?

「海から49.5㎞」。

              「関宿滑空場」。

         地上にも空にも軽飛行機やグライダーが。

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東武線川間駅~川間駅。その3。渡良瀬遊水池ヨシ焼き。「海から55.0㎞」。関宿。宝珠花橋。(「江戸川」を歩く。第1回目)

2022-03-08 20:17:14 | 江戸川を歩く

3月5日(土)。利根川と江戸川の分岐点から目撃した、怪しげな雲の正体は、渡良瀬遊水池ヨシ焼きの煙だったのですね。

  

4市2町などでつくる「渡良瀬遊水地ヨシ焼き連絡会」が害虫駆除や湿地の環境保全などを目的に実施している。昨年は荒天で中止したため、2年ぶりとなった。

 午前8時半、遊水地の各所で一斉に火入れ。土手に並んだ見学者は、ヨシが春風にあおられ燃え上がる様子を写真に収めていた。

 同会は「例年より早く燃えた。ドローンも使い、鎮火確認もスムーズにできた」とした。

       

(この項、「下野新聞チャンネル」HP。映像は「YouTube」より))

※栃木市内でもそのときの灰が降ってきたようです。

閑話休題。さて、「江戸川」歩きの続き。

眼下の田園風景。

歩き始めたときを除き、江戸川の水面をはっきり見る機会がなかったのですが、ここでやっと身近に。

       

「海から55㎞」。

             土手に座って小休止。

のどかな風景。

飛行機の姿が向こうに(↓)。

この先にある「関宿滑空場」に向かうようです。

    「海から54.0㎞」。

川の中央に工作物が。

岩? 杭? 橋の跡?

船の航行には危険なようです。いったい何でしょうか? ご存じの方は教えて下さい。

眼下に関宿の家並み。

振り返る。

関宿みんなのスポーツの広場。

「海から51.5㎞」。

       向こうに見える橋は「宝珠花橋」。旧東・西宝珠花村(現在の春日部市と野田市)を結ぶ橋。

宝珠花村(ほうしゅばなむら)は埼玉県の東部、北葛飾郡に属していた。現在の春日部市西宝珠花と、千葉県野田市東宝珠花にあたる。江戸川河川敷で行われる大凧揚げで知られる。

讀賣新聞 2007年(平成19年)5月12日(土曜日)朝刊
地名を歩く 36
西宝珠花(にしほうしゅばな)(春日部市)
~帆を干した河川の町~

 春日部市北東部、千葉県と接する江P川の堤防沿いに住宅地、田圃地帯が広がる。堤防にほぼ並行して走る目抜き通りにある古い木造建築は、1952年ごろの堤防拡張工事で集団移転したものだ。

 時代をさかのぼって1640年ごろ、下総の国と呼ばれた時代、この地域に人工水路として江戸川が開かれ、「宝珠花」地区は二つに分断される。一つは東宝珠花(現千葉県野田市)、もう一つが西宝珠花だ。

 新たに整備された江戸川に、物資を運ぶほっかけ舟が往来するようになった。現在の西宝珠花あたりは、荷物の揚げ下ろしや船宿、呉服問屋などで栄え、有数の河岸となる。約40キロメートルほど離れた江戸の町から、荷を積んで川を上ってきた船頭たちは、ここに舟を留め、体を休めたり、ぬれた帆を干したりしたという。

 この土地に少なくとも8代前から住み続ける小川建一さん(79)は「『帆を干す』という音がいつしか『ほうしゅ』という音に置き換わった」という土地の言い伝えを教えてくれた。

 春日部市文化財保護課は「昔、ほうしゅという音に何かしら漢字をあてる必要が生じた際に、イメージの良い『宝珠』いう字を使ったのではないか」と指摘する。

 一方、角川日本地名大辞典は「『はな』は大地の鼻先、『ほうしゅ』は榜示(ほうし)で、境界になった地の意」と明記。江戸川で二分された地を示しているという。

 約300年ほど前、河岸だった所は今、広大な河川敷となった。毎年5月、端午の節句を祝う「大凧(おおだこ)あげ祭り」でにぎわっている。

(この項、「」HPより)

                     1880年代のようす。東西に「寶珠花村」。

 渡船場があり、右岸は、河岸として賑わっている。現在は、河川敷になってしまっているようだ。

                     2010年代のようす。河川敷が広がる。

     右岸の河川敷が「大凧(おおだこ)あげ祭り」の会場。

※「なみき」は漢字では「次木」。

※「江戸川」は「利根川」から分岐した「人工水路」であることが分かります。

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東武線川間駅~川間駅。その2。関宿城趾。関宿城大手門跡(「とんかつ合掌」)。(「江戸川」を歩く。第1回目)

2022-03-07 20:22:24 | 江戸川を歩く

           利根川の向こうには相変わらず怪しげな雲が。

土手下を見ると、何やら石碑が。遠回りしてそこへ向かいます。

「関宿城趾」碑。

「関宿城博物館」の南西500mほどの江戸川河川敷一帯が、「関宿城」だった。城跡は度重なる河川改修のため、3分の2が江戸川土手の下になり、さらに田畑の開発で、小さな雑木林の中に関宿城本丸跡(碑)が残るのみ。

             

                   北に「関宿城博物館」の模擬天守閣が見える。

解説板。

東を望む。

そのまま土手下の道を進む。

       

この先、左手に、

関宿城大手門と城を囲む土塁・堀。

関宿城は利根川、江戸川、逆川に挟まれ、城の周りに土塁と堀を巡らした堅牢な守りの平城でした。本丸を取り囲む二の丸や三の丸、発端曲輪、天神曲輪の他、その南側には家臣団の屋敷が置かれました。ここは、大手門があった場所で、野田方面から北上する日光東往還が関宿城に接する表玄関です。すぐ脇には城を囲む外堀の名残が見られます。

※関宿城大手門は、幕末に戦費調達のために豪族に売却され、現在は、栃木県下野市のとんかつ店に移築されている、とか。

というと、「日光道中」歩きの際、たしかに見かけました。その時は知りませんでしたが、写真には撮ってあります。

「とんかつ合掌」。まさかこの大きな門が「関宿城大手門」とは!

この先左手、旧「日光東往還」沿いに「関所跡」碑があるのですが、見逃してしまいます。

遠くに「関宿橋」。

振り返る。怪しげな雲の塊。

       対岸。

               関宿橋。  

「海から57.5㎞」。

「川の国埼玉へようこそ」。

                          対岸は、埼玉県幸手市。

      

両側は菜の花畑。

「海から57.0㎞」。

 

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東武線川間駅~川間駅。その1。利根川との分岐点。浚渫船。「海から59.25㎞」。菜の花。(「江戸川」を歩く。第1回目)

2022-03-06 18:31:52 | 江戸川を歩く

                「利根川」から「江戸川」が分岐する地点。右が利根川、左が江戸川。

そこからの江戸川。

3月5日(土)。晴れ。

さっそく、「関宿城博物館」までやってきました。

東武線「川間駅」からバスを乗り継いで、10時前に「関宿城博物館」へ。

そこから「利根川」と「江戸川」との分岐点まで歩き、そこから江戸川土手を、再び東武線「川間駅」まで。

利用した鉄道は「川間駅」から「川間駅」というわけです。

まず「江戸川」について。

総延長59.5㎞。茨城県猿島郡五霞町と千葉県野田市の境界付近にある関宿分基点(関宿水閘門のやや上流)で利根川と分かれ、千葉県と埼玉県、東京都の境を南に向かう。千葉県市川市付近で、本流である江戸川と旧流路である旧江戸川に分かれる。

現在の江戸川の最下流部は放水路として建設され、行徳可動堰(江戸川河口堰)を通り、千葉県市川市で東京湾に注ぐ。1960年河川法改正に伴い、この区間の名称が江戸川放水路から江戸川になったものの、依然として「江戸川放水路」と呼ばれることも多い。

現在でも天然ウナギが捕れるほか、江戸川の河口付近は、三番瀬など東京湾でも数少ない干潟が広がる地域でもあり、トビハゼの北限生息地となっている。汽水性の希少なトンボであるヒヌマイトトンボの生息地の一つでもある。

利根川から江戸川に流れる水は関宿水門で水量を調整され、江戸川下流の住宅地が水害に遭いにくいようになっている。江戸川は北千葉導水路からの水を合わせて首都圏上水道を支えている。しかし、江戸川が比較的人口の多い地域を流れるため、水質が良いとは言えず、浄水場によっては高度浄水処理を行っている(東京都水道局金町浄水場など)。

(この項、「Wikipedia」より)

東京の東部・下町に住む人間には「荒川」「中川」と並び、とてもなじみの深い川です。

今回は、左岸を歩くことにしましたので、河口まで千葉県側を歩くことになります。その1回目。

先端まで行けるか心配でしたが、護岸工事用のしっかりした道(砂利道ですが)が先端まで続いていました。

平日は工事のため、立入禁止か?

江戸川の流れ。

      利根川の対岸。

しばらく眺めます。

                    中央は利根川に架かる「圏央道」の橋脚。

一面霞んだような空模様。赤城山方向に奇妙な雲の塊。黒い噴煙を上げているような部分も。雨雲のような感じもないし、・・・。赤城山が噴火するわけはないはずです。いったい?

遠くに関宿城。

       

利根川の河川敷(葦)。

振り返る。

                右が利根川、左が江戸川。どちらも葦が茂っています。怪しい雲も。

「関宿城博物館」の下まで戻り、いよいよ江戸川を下ります。

     

          

  雨が降る気配はなさそう。

土手に上がると、  

 

  解説板。 

川底を浚う(浚渫)       

川の作用

川の作用には浸食、運搬、堆積という作用があります。浸食とは、川の流れによって川底や川岸が削られることです。洪水時にはこの作用が大きくなります。そして、削られた砂や土は、川の流れに乗って下流へ運ばれます。これが運搬です。下流に運ばれた砂や土は、流れの遅い場所の川底に溜まります。これが堆積です。

浚渫の必要性

砂や土の堆積によって川底が高くなると、洪水時に氾濫しやすくなったり、船の運航に支障をきたすため、川底の土や砂を浚う必要があります。機械のない時代、浚渫は鋤簾(じょれん)という道具を使って人力で行っていました。この作業には、多くの人々、費用・日数を必要としていました。やがて、明治時代に西欧諸国から浚渫船が輸入され、浚渫工事の効率化が図られました。

  

先に進みます。

「海から59.25㎞」。

関宿の田園風景。

土手一面の菜の花。

                 

     前回(2月23日)から一気に緑が増えて、「啓蟄」らしい季節に。

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