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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

西武・安比奈線をたどる。西武新宿線・南大塚駅下車。その6。

2014-11-21 22:03:58 | 鉄道遺跡

 アトランダムに「安比奈」駅構内の写真を掲載します。

 いつまでこうした景観が残っているものやら。

 「廃線」(西武としては「休止線」という扱いだが)探索として都心から近く、最寄り駅の「南大塚」(西武新宿線「本川越」の一つ手前)からはレールをたどり、迂回しながら歩いて、「安比奈」駅まで約1時間ほどで着けます。
 住宅地の生活感あふれる裏道沿い、田んぼや畑のあぜ道、農家の軒先、鬱蒼とした森の中、川原の荒野の中、と行く先々で変化に富んだ鉄道風景を堪能できます。
 特に、晩秋の枯れた世界。朽ちた鉄橋がいくつもあり、蔦に絡まれて電柱が立ちすくむ風景あり、TVの撮影現場跡あり、「まむし注意」多数あり、・・・など充分楽しめました。
 もちろん、がっちり柵があって、「立ち入り禁止」の看板が随所に立っているので、そこはほどほどに・・・。
 ただし、バスの便も悪く、タクシーか(行きは駅前から乗れるが、帰りはまずつかまらない)行き帰りとも歩かなければならない、ゆっくり探索していくと往復3時間くらいは必要かもしれない。
 そういう意味でも、「廃線」探索の面白さ・妙味が充分あるところです。

        

  

        

  

        

  

        

  

        

                

昭和40年代初め(「今昔マップ」より)。

昭和58~62年頃。「水道橋」までが休止線の表示。

平成4年~7年頃。「八瀬大橋」への取り付け道路が現在のようになっていない。この頃までは橋によって分断されずに残っていた(はず)。

現在。「八瀬大橋」への道路が新しくなって、分断されてしまった(○)。また、「安比奈駅」ヤードも消滅している(○)。
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西武・安比奈線をたどる。西武新宿線・南大塚駅下車。その5。

2014-11-19 21:07:28 | 鉄道遺跡

 「水道橋」の先に「安比奈駅」ヤード(操車場)があったようです。
 
 「入間川」を渡る「水道橋」は目を引くような景観を形作っています。 
  
                  青と緑に映える赤く染め上げた鉄橋。

  

 その橋の下辺り、レールは藪の中に消えていきました。

  

 藪の脇の細道をしばらく進むと、広いでこぼこ道に出会います。その先には、架線柱が二つ。ここから南に「安比奈」駅構内が広がっていたらしい。

           

 すっかり蔦に覆われ原形が定かでなくなってしまっている。

  

振り返って望む。

 さっきの藪に消えたレール。「安比奈駅」構内は線路が複数配置されてけっこう広がった大きな駅だったようです。架線柱も何本も立ち、間隔も広くなっています。


 足下のレールは全く目に付かず、藪に埋もれてしまっています。かすかに↓にレールが。


 コンクリート製の遺物。
  

                  
 地上にはこうしたもの以外はかつてここが砂利採掘の集積地であったことをものがたるものは見当たりません。ただ、蔦にからまれた電柱や架線柱のみです。
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西武・安比奈線をたどる。西武新宿線・南大塚駅下車。その4。

2014-11-18 20:19:45 | 鉄道遺跡


 右手は河川敷なのか鬱蒼とした雑草に覆われていますが、右手は雑草も刈られて原っぱになっていたり、畑になっています。そんな中を線路は続きます。

架線柱はすっぽり緑に覆われている。

線路に覆い被さるように伸びる灌木。

 整地され、明るく開けたところに出てきました。
  

キャンピングカーが何台か。バーベキューを楽しんでいるグループの姿も。

  
 左手に「National Park Kawagoe」「NPO法人こども二輪塾」の施設。

子どもの居場所づくり 心身の成長を願って...NPO法人こども二輪塾 事務局 TEL: 049-242-8419

 今年は平成16年6月30日の設立から10年の節目を迎えます。
これまでに様々な出来事があり、難局に直面したこともありました。それを乗り越えて来られたのは皆様のお陰であり、感謝の気持ちで一杯です。日頃から、ご協力いただいている講習の先生方、関係各位に御礼申し上げます。
私たちは小さなNPO法人ですが、大きな志と強い信念のもとに設立し、歩み続けています。設立当初からの趣旨 にご賛同いただいている皆様とともに、今後も歩み続けてゆきたいと考えております。
これからもよろしくお願い申し上げます。

        (HPより。)

 きちんと許可を得てのユニークな活動。何組かの親子連れが訪れていました。

 この辺りは整備・整地され、足下に埋まったレールだけがかつての面影。
         

来た方向を振り返る。

  
             コンテナと雑草に埋もれたフォークリフト。

レールは、木の根っこで持ち上げられている。
   
                        鉄道敷地を示す標識。 

左手は整地された耕作地。

さらに進む。(奥に見える朱塗りの橋は、「水道橋」)。

レール上に行く手を阻むように大木が。

閉鎖されてからの年月の長さ。約50年。
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西武・安比奈線をたどる。西武新宿線・南大塚駅下車。その3。

2014-11-17 20:57:02 | 鉄道遺跡

 中央奥の森へ線路は一直線で吸い込まれていく。
     

 森の奥には、思いがけないすばらしい風景が広がっていく。

来た道を振り返る。

  森の入口。

木漏れ日の中の線路。紅葉が見事。

  

                  

 森を抜け、道路を越えると、鉄橋。この森の道は、整備された遊歩道。しかし、「まむしに注意!」 の看板が随所に。


 この道は、川越が主舞台となった2009年(平成21年)上期のNHKの連続テレビ小説『つばさ』の番組放送に合わせ、2009年(平成21年)4月から9月末日までロケ地が「遊歩道」として開放されたところのようだ。5年も経って、忘れ去れてしまったのか? 小心者の小生、鉄橋を渡ってすぐ引き返した。

  

 冬の日だまりを求めて歩くにはいいところではあります。もう「まむし」も出てこないと思うから。・・・

 「入間川」を渡る「八瀬大橋」南の交差点。遠くに白雪に輝く富士山が見えました(↓)。


  

「八潮大橋」からの「入間川」。

 肝心の「安比奈線」は、「八瀬大橋」の橋脚にはばまれてしまいました。
  

 架線の支柱もすっかり緑に覆われています。

 「安比奈」駅の方はどうなっているのだろうか? 

 ところが、橋の向こう側に通じる道は見当たらない。下には道路が見えるし運動公園もあるし、・・・。そこで、交差点に戻り、道を探してようやく橋の向こうに行く小道を見つけました。産廃が散らかった橋の下をくぐると、そこにはレールが。



 レールはずっと向こうまで続いています。

  
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西武・安比奈線をたどる。西武新宿線・南大塚駅下車。その2。

2014-11-16 21:22:23 | 鉄道遺跡

 この付近は、住宅や工場などに囲まれた一角。再開となると騒音、震動などで住民の反対運動が起こりそうな雰囲気。

  

 次第に住宅密集地から田園風景の広がる地域へ。

 鉄道敷地も線路と架線柱を残したまま、花壇や家庭菜園などに利用されてきます。

草むらに残されたレール。

そのレールも不確かなものに。

  
 線路脇には手入れの行き届いた草花たち。
 
 沿線の人達による思い思いの花や野菜が。

 行き止まりになるので、線路から離れて「入間川街道」を歩き、右折すると、再び線路に出会う。

「入間川街道」。

道路上のレール。

線路を振り返る。直線で伸びている。

再び、道路上にレール。

 田んぼや畑の中を直進する。

 田んぼの中にところどころに鉄橋が敷設されています。

最初に出会った?用水路上の鉄橋。

次のは大きい。

かなり腐食している。

田んぼや畑の中を行く鉄道。ローカルな雰囲気。

  
                      あぜ道のように盛り土された線路。

 まっすぐに入間川方向に進む線路。

  
               農業用水路を越える、朽ちた鉄橋が行く先々に。



 すっかり木や下草に埋もれてしまったレール。

  
 田園風景そのもの。この中を電車が走っていたと思うと、郷愁の世界。

時には、こうして小さな道路を横切る。


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西武・安比奈線をたどる。西武新宿線・南大塚駅下車。その1。

2014-11-15 21:57:15 | 鉄道遺跡

 先日、「朝日」夕刊のシリーズ囲み記事「各駅停話」で、西武新宿線の「南大塚」駅・「安比奈線」が取り上げられていました。この路線、以前から話には聞いていたので、さっそく出かけることにしました。「南大塚」駅に12時少し過ぎに着いて歩き始めました。

 ところで、この「安比奈線(あひなせん)」。
 「Wikipedia」によると


 埼玉県川越市の南大塚駅から同市内入間川沿いの安比奈駅へと至る西武鉄道の貨物線である。1967年(昭和42年)から、長らく休止されたままとなっている。あくまでも「休止中」であって廃止ではないが、周囲の道路の橋脚が建築限界を侵食して建設されていたり、線路が寸断されている個所も多数存在していたりと、現状では列車の運転は不可能であり、実質的には廃止状態である。書籍などによっては「廃線」とされているものもある。

 なお、当路線が延びている入間川の対岸には安比奈新田(あいなしんでん)という地名があるが、安比奈線の安比奈の読みは「あひな」である。

《歴史》

 入間川で採取した砂利の運搬を目的として1925年(大正15年)2月15日に開業した。
 入間川での川砂利の採取が1967年(昭和42年)に禁止され、当路線は休止された。一時期、西武鉄道の貨車の留置・解体に使われたこともあったが、路線としては復活も廃止もされることがなく、休止されたままとなっている。

《現況》

 現在、線路や架線柱などは残されているものの、ほとんど整備はされておらず、即座に運行再開できる状態ではない。枕木は朽ち果て、国道16号の横断など踏切はほぼすべてアスファルト舗装で埋められており、八瀬大橋への取り付け道路は路線を完全に遮っている。
 長らく放置され、かつては線路上を歩くこともできたが、枕木の腐朽が進んで危険なことから、踏切など線路に入れる場所にはすべて柵が取り付けられた。また敷地内への立ち入りを禁止する旨の看板も設置されている。
 2006年(平成18年)11月5日、西武鉄道の前身川越鉄道の開業111周年を記念した「小江戸川越鉄道開設111周年記念フェア」の関連イベントとして、「幻の貨物線西武安比奈線を歩く」が開催された。イベントにあわせて一部手入れがなされたようであり、「廃線ではない」ことをアピールしている。
 川越が主舞台となった2009年(平成21年)上期のNHKの連続テレビ小説『つばさ』のオープニングシーンで当路線の一部(池の辺の森 - 池部用水橋梁付近)が映し出されている。写真では枯葉のシーズンの廃線跡が掲載されている。また、劇中でも川越市内を電波調査して回るシーンがあり、つばさ(多部未華子)と昌彦(宅間孝行)が線路脇を歩いたほか、竹雄(中村梅雀)が妻の加乃子(高畑淳子)を乗せたトロッコを押して走り続けたら西武新宿駅まで行ってしまうシーンがあった(実際には線路が分断されているので行くことはできない)。
 最終回終盤の場面では当路線にて翔太(小柳友)がつばさの乗ったトロッコを押して走るシーンがあった。また番組放送に合わせ、2009年(平成21年)4月から9月末日までロケ地が遊歩道として開放され、撮影時使用されたトロッコも展示されたほか、放送を記念した見学イベントも開催された。同年12月放送の『つばさ総集編』前に放送されたスピンオフ『好きと言えなくて。青春編』にもトロッコを押して走るシーンが撮影され放映された。

《安比奈線復活計画》

 1980年代末、西武新宿線の旅客増に対応するため上石神井駅 - 西武新宿駅間を複々線とする計画が発表され、それに伴う車両の増備のために安比奈駅に新しい車両基地を作る計画が浮上した。川越市と狭山市では仁杉巌社長(当時)が出席し地元説明会も開催された。当路線の旅客線・通勤線化という話まで出ていたが、少子高齢化などの影響で需要予測が下方修正されたため、この計画は1995年(平成7年)に無期延期となった。
 当路線の復活には、住宅地開発の事業として川越市や隣の狭山市も乗っており、2001年(平成13年)12月の狭山市議会において、狭山市側から車両基地完成は2008年(平成20年)3月ごろの見込みとの答弁があった。南大塚駅すぐ横の国道16号や八瀬大橋との交差問題や、安比奈駅周辺の土地買収に反対している少数の地主がいるために難航しているが、すでに西武建設安比奈作業所が設けられ、車両基地設置のためのトラック進入路整備などの工事は行われている。合意が得られていない地権者がいるため、現段階の計画では車両収容数は200両の予定だが、合意が得られ次第300両にするとしている。300両収容が実現すれば、当車両基地は新宿線系で最大となり、本所が南入曽から変更されることも考えられる。
 なお川越市では、当路線の復活とともに将来的に新駅設置と的場駅まで延伸する構想があり、市議会で度々議題にあげられている。
 西武鉄道本社の見解としては、「西武新宿線(支線を含むと推測される)の車両収容限界が近づいており、ゆくゆくは新たな車両基地を安比奈に建設する予定」との姿勢を変えていない。そのため、近年周辺整備を始めている。そのせいか、線路が分断されているにもかかわらず、割と新しいPC枕木が挿入されている個所がある。しかし、西武鉄道からの復活に関する発表は未だにない。


   下り線ホームから見たところ。                同(新狭山駅方向)。

 「南大塚」駅。現在は相対式ホーム2面2線の地上駅だが、かつては、構内踏切のある島式ホーム2面4線の形態であった、らしい。その名残が線路配置等に見られるようだ。

《地図上の変遷》

昭和初期(「今昔マップ」より)。開業当初。
昭和40年代初め。「入間川」砂利採取禁止前後。
昭和50年代初め。休止線の表示。
現在。地図上で線路は分からない。

左側の線路。
 但し、中央左奥に見える架線柱の位置とずれている。もう少し左側の道路沿い(あるいは道路そのもの)が本来の線路と思われる。

 地上に降りていよいよ探索開始。

まず本線との合流地点を探索。新狭山駅方向へ。



↓から↓へ来て本線と合流している。

 その先の踏切のところにレールが埋め込まれている。

「新狭山駅」側は、レールが切断されている。
 これは南大塚駅構内支線の一部が残っているものか?

  
                       「南大塚駅」方向を望む。



「0」。「安比奈線」の起点。


 ここからいよいよ本格的なスタート。

 いきなり線路は途中で途切れ、コンクリート製の枕木が行く手を阻むようにたくさん積まれている。
        

  
 新設道路上の真新しい線路(びっしり道路に埋め込まれていて走れる状態ではない)。進むべき線路の方向(かつての方向)と右に少しずれている。どういう意図があるのか? 

  
              架線柱が残っている。このあたりは、けっこう広いスペースになっている。

雑草の中の線路。

 カーブを描きながら進むと、国道16号線と交差する。

正面の広い通りが「国道16号線」。

振り返って「南大塚」駅方向を望む。

この辺りから直線になる。
 交通量の激しい「国道16号線」。復活したとしても、この交差をどうするか?

 国道上には線路はいっさいなく、両側の歩道に残っている。

 向こう側に行くのには、少し離れた横断歩道か、歩道橋しかない。ぐるっと迂回して線路脇を歩くことに。

  

線路をふさいでいる支柱。

柵でがっちりガードされている。
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「小久保こ線橋」。西明石・上ヶ池公園の片隅の「トラス橋」。

2014-11-07 20:29:20 | 鉄道遺跡

 神戸に住んでいた知人が亡くなりました。同い年ということもあって、突然の死に驚きました。

 さっそく「告別式」に出かけました。「新神戸」で降りて乗り換えて行けば、くらいに軽く考えていましたが、とんでもない。山陽新幹線「西明石」駅からタクシーの方が便利ですよ、と地元の方から聞いて、そうしましたが、けっこう乗りでがありました。

 さて、お葬式も済んで再び「西明石」駅へとタクシーに乗り、ひょんな話から、「廃線」とか「鉄道遺跡」に興味があるんですよ、行く先々で寄るんです、と話したところ、こういうものがありますよ、と運転手さん。その案内で寄り道しました。それがこれ。

 JR「西明石」駅北西にある「上ヶ池公園」の片隅、広いグランドの脇に置かれた一連のアーチ橋。



 「トラス橋」形式のもの。どこかで見たことがあるような、そう、東京・深川の「八幡橋」(元弾正橋)、零岸島の「南高橋」(元の両国橋)、あるいは横浜・みなとみらい「汽車道」の鉄橋、・・・の雰囲気にそっくりの古めかしさ。

 「説明板」によると、この橋は西明石駅の跨線橋だったものをここに移設したものらしく、元々は明治中期に架けられた九州鉄道の鉄道橋。昭和2年に九州から移設し、跨線橋として平成6年まで使用され、新しい橋の架設に伴いこの公園に移されたとのことでした。



「小久保こ線橋」の歴史 

 西明石の北と南を結ぶ道路としてJR山陽本線上に架けられていた「小久保こ線橋」は橋桁として古い歴史を持ち、百有余年の永い間、その役目を果たしてきた。
 新しい陸橋の新設に伴い、この地に移設し、その歴史をここに刻み、末永く保存することとした。

 この鉄橋は、明治23年(1890)、当時の九州鉄道株式会社(現、鹿児島本線等)が鉄道橋として、ドイツのハーコート社に発注、技師ヘルマン・ルムシェッテル(1844―1918)の指導の下で建設された70連余りのトラス桁の一つである。
 昭和の初め現西明石駅構内に鉄道省の機関区が設置されるに伴い、小久保・鳥羽から藤江・松江に通じる林道の代替道路が作られた。
 その際、鉄道橋として使われていたトラス桁を転用して昭和2年(1927)に延長65mの「小久保こ線橋」が建設された。
 その後、戦中、戦後の激動の時代を経て、昭和36年(1961)、鷹取・西明石間の複々線化に伴い、こ線橋は88mに延伸された。
 そして、平成6年(1994)新こ線橋(西明石陸橋)の完成によって永い勤めを終えることになった。
 幾星霜の風雪に耐えて、その役目を終えたこの「こ線橋」は今、終生の地となるここ西明石・上ケ池公園で人々の憩う姿を静かに見守っている。
                       
                 平成7年3月      明石市

説明板からの「小久保こ線橋」。
    
トラス橋

 鉄の部材同士が自由に回転できる状態(ピン結合)にしたものを三角形状に組み立てた橋のこと。
 接続部にかかる負担を、水平、斜め、鉛直に分解される為、負担がかかっても隣接する部材に負担をかけない。故に三角形状に組み立てるトラス構造は安定性があり、強い構造といえる。
 さらに各部材に働く応力は、上弦材(合掌部)には圧縮力が働き、下弦材(梁部)には引張力が働く。支点に近いほど働く力は大きい。 下弦材(梁部)の中央部ほど、引張力は大きいが、斜め骨組材にかかる荷重は中央部ほど小さいというのが特徴。

HPより)。

 また、この橋桁の構造は、「ボウストリングトラス」とよばれるものだそうだ。

 ボウストリングトラス (Bowstring truss) とは、上弦と下弦がそれぞれ弓(ボウ)と弦(ストリング)のような形状となっているもの。
 日本では、1890年代にドイツのハーコート製のプレハブ式のものが70連ほど導入された。プレハブ式であったのは、組み立てに簡便なことを狙ったもので、そのためにピントラス構造であった(ドイツ国内では剛結合が一般的であった)。九州鉄道は47連を導入したが、その後、車両の大型化に伴い架け替えの必要が生じた。架け替えの理由は部材の劣化ではなく、単に設計荷重が少ないためだったので、それでもよい道路橋などに転用された。
(以上、「Wikipedia」より)

 「プレハブ式」というのが興味深い。三角形を基本構造の一単位として、それらをつなぎ合わせていくという発想。

 したがって、各部の接合にボルトとピンを多様しているのが特徴。

  

  
 説明板とピンの展示。

ピントラス橋梁

 三角形の構造体を一単位としたトラス橋では、連結部が自由に回転しなければならない。この条件を満たす為、貫通ピンの構造にした橋梁をピントラス橋梁という。

  

 じっくり細部まで観察したかったですが、新幹線の時間も迫ってきて、ここまで。

  
 振り返ると、かつての姿のように鉄道線路の上を歩いているような雰囲気になりました。

「上ヶ池公園」入口。
 
「元弾正橋」(都内最古。国産の鉄で作られた最初のもの)。

「汽車道・第一橋梁」(アメリカ製。「第三橋梁」はイギリス製)。

「南高橋」(旧「両国橋」の一部を再利用、車道として今も現役)。

 なお、「小久保こ線橋」と同じ、ドイツのハーコート製の橋として現存し、日本で最古の鉄橋とされるのが、大阪にある「緑地西橋」。

 緑地西橋(りょくちにしばし)。
 大阪府大阪市鶴見区にある大阪市道に架かる道路橋。全長36.7mのアーチ橋であり、日本現存最古の鉄橋と言われている。
 もともとは、長堀川に架かっていた鉄橋の旧心斎橋であり、旧心斎橋より撤去された後、途中3ヵ所にて橋梁の移設・撤去を繰り返した後、現在地に移設されたものである。現在の本橋梁では、旧心斎橋からボウストリングトラス桁の主構のみを転用し保存している。
 1873年(明治6年)にドイツより輸入されたドイツ・ハーコート(Harkort'sche Fabrik)製である。また、トラスの部材(錬鉄製)をボルトで締めて連結組立てを行う、プレハブ式であるのが特徴である。なお、橋床にあたる部分には鋼桁橋が架かっており、トラス桁自体が支える構造にはなっていない。
(以上、「Wikipedia」より)

 この「小久保こ線橋」は、公園内の散策路の一部として平地に設置され、橋としての用途はない。しかし、初期の日本の鉄道を支え、その後もこうして市民に結びついた橋として100年以上も現役を勤めているのはすばらしいことです。

明石大橋。但し、駅のポスター。

 新幹線の西明石駅は一時間に一本。

閑散としたホーム。

  
 猛スピードで過ぎ去る下り線。                 一瞬の出来事。

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旧東武線跡。(西新井~北千住。その2。)

2014-07-24 20:00:41 | 鉄道遺跡
 
大正時代。
 荒川放水路開削後の水路を描いてある。線路が水没するハメに。

昭和初期。
 線路変更後。赤い線が旧線路(以下、同じ)。

昭和50年代初め。
 日光街道(国道4号線)の拡幅・整備後。

平成10年代。
 綾瀬駅付近から日光街道に向かう道路整備後。(以上、「今昔マップ」より)

 地図上からは、日光街道「梅田」交差点南東部分の線路の痕跡は不確かになっている。


1970年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 →は、旧線路跡。↓は、旧日光街道、↑は、線路跡の住宅。

 「梅田」交差点のはす向かい(南東)に見えていた「ビル」。この建物の位置・立地が線路跡の上に建てられたものらしいが。
↓の建物(南東側の線路跡から望む)。

↓の建物から線路跡の道路・住宅。直線的に並んでいる。ただし、途中は住宅が入り組んでいて線路跡は定かではない。

左奥が線路跡。

正面の斜めの道と建物が線路跡と思われる。

駐車場脇にある古い建物。この建物は線路跡上のものか、線路脇のものかは?

路地を入ったところ。右側の建物群が線路跡上のものと思われる。

別の路地から見たところ。正面奥の建物はほかと異なって一列に並んで建っている。

荒川土手下の「平和橋通り」近くの建物。

左右の建物が線路跡に建てられたものと思われる。「平和橋通り」際。

首都高の橋脚。

荒川上流からJRの鉄橋を望む。JRの線路も荒川放水路開削によって少し変更されてはいるが、ほぼ同じ位置にある。ちょうどその鉄橋の真ん中あたりで東武伊勢崎線は当時の国鉄と交差していたようだが。

JR、千代田線の鉄橋の向こう側に見えるのが東武線の鉄橋。対岸の右手が北千住の町並み。遠くにはスカイツリー。


 線路跡に建てられた建物群、道路は、「JR常磐線・亀有日立引き込み線跡」でもそうであったように、航空写真でははっきりとわかるが、現地に行くとわかりにくい。路地の奥まで行ってのぞき見したり、やたらと家並みを写すことも気が引ける。その点では、今回も?な点が多かった。
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旧東武線跡。(西新井~北千住。その1。)

2014-07-22 23:41:15 | 鉄道遺跡
 「亀田トレイン公園」からかつての線路跡を荒川土手までたどります。
一直線の広い道路。

右手(西側)は団地(「梅田8丁目アパート)。建替えが進行中。


西新井駅方向を望む。

もともとの線路はほぼ直線で、道路もそうであったが、近年の区画整理、道路拡幅などによって、カーブしていく。正面奥が「区立九中」。

大正時代。旧線路の時代。○が上図付近(以下、同じ)。南北の直線道路は旧陸羽街道(奥州街道・日光街道)で、千住の宿からの道は、荒川で寸断されてしまう(荒川左岸・「千住新橋」の西にある「川田橋」交差点からの道は、現存)。



1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

 当時の道らしい道は、「陸羽街道」のみ。田んぼの中を通るあぜ道のようなつくり。○が現「区立九中」付近。↓付近から「荒川放水路」開削によって、千住の宿とは寸断されてしまった。

昭和初期。「荒川放水路」完成後、線路が大きくカーブし、東にずれている。新「日光街道」は、「千住新橋」から旧線路跡の道路を利用し、現在の「区立九中」付近で旧日光街道と合流していた。

昭和40年代初期。↓が「東武鉄道工場」。西新井駅周辺の大規模な再開発まで存在していた。南の部分は、すでに道路となっている。色塗りの直線道路は現日光街道(「国道4号線」)。その完成後は、旧線路跡の道路は、国道・幹線道路ではなくなっていく。

昭和50年代初期。再開発以前で、この付近の道路も整備・完成していない。(以上、「今昔マップ」より)

正面の道路が旧線路跡と思われる。右手が「区立九中」。


西新井駅方向を望む。

道路の付け替えがわかるようなカーブ。正面が「区立九中」。右正面に見える直線の道路は、線路跡とは関係なし。

左の道路が旧線路跡。千住新橋(国道4号線ー日光街道ー)橋詰めの交差点方向から直線で進んできた道路がカーブしている。

「区立九中」方向を望む。

日光街道との交差点方向を望む。

正面奥が「千住新橋」の高架橋。

交差点「梅田」。顕著な道筋はここまで。日光街道を渡ってからは痕跡はなさそうだが。
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東武線・「西新井」、「大師前」駅(旧)探索。その2。亀田トレイン公園。

2014-07-20 14:23:36 | 鉄道遺跡

 「西新井」駅から南。かつて、ほぼ直線で「北千住」に通じていました。
 明治から大正初めにかけての大規模な荒川放水路開削工事のため、北千住から西新井までの区間は変更され、現在のように大きく東に迂回して西新井方面に進むことになりました。
 (東武線は、荒川放水路開削工事のため、もう少し下流のところでも、線路変更をしています。鐘ヶ淵から牛田の区間。どちらも荒川放水路の中に線路があり、当時は、田んぼや畑の中を通っていました。)
 その跡は、すっかり道路となっていますが、しっかり直線道路として残っています。
 「北千住→西新井」が「北千住→小菅→五反野→梅島」と駅の数も増えています。

明治末頃。「荒川放水路(現荒川)」が開削される前のようす。

昭和初期。「荒川放水路」完成してしばらく後のようす。赤く線路が変更された路線。

昭和40年代初め。
 「日光街道(国道4号線)」が拡幅され、「千住新橋」からほぼ直線で北に向かい、「日光街道」より東南側の跡は明白ではなくなった。

平成10年代。
 「区立九中」によって、道路が一部、分断されている(↓のところ)。(「今昔マップ」より)

 「西新井」駅の南側には、かなり後まで線路(跡)は残っていて、東武鉄道の西新井工場敷地内になっていた。


 遠くに見える高層の建物がその跡地に建てられたマンション。左が東武線の高架。

「西新井」駅方向を望む。

広い道路が少しカーブして南に向かう。線路跡のようだ。
 その道路脇の一角に。

「亀田トレイン公園」。

車輪のモニュメント。

説明板。

 初期の客車や電車、そして貨車はスポーク付き車輪を使っていました。タイヤ(踏面)が減ってくると、取り外し、また焼きハメして使用しました。長く長く使っていました。

 東武博物館にある電車の写真が載っている。

車輪の先には線路を描いた道が伸びている。

トイレの側面。





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東武線・「西新井」、「大師前」駅(旧)探索。その1。

2014-07-19 12:32:08 | 鉄道遺跡

 5年ぶりで西新井駅前、そして「大師前」へ。ずいぶん様変わりです。

昭和初期。
 「大師線」が開通する前。日清紡の工場はすでに稼働、引き込み線が敷かれている。東武線の旧線路は一部残っている。

終戦直後。
 「環七」開通以前。「大師前」駅は現在の「東武ストア」「「集合住宅」の位置にある。赤い線が「大師線」。

昭和50年代。
 「環七」開通後、「大師前」駅は、現在の位置。赤い直線は「環七」。(「今昔マップ」より)

「東武ストア」(旧駅舎)側から「環七」をはさんで、現在の「大師前」駅方向を望む。いくぶんカーブして建っているのは、かつての線路上のせいか?

「東武ストア」店頭にあった掲示。「東上線100周年」「東武ストア55周年」と。
 この「大師線」、もともとはもっと西に伸ばして「東上線」と結ぶ計画だった。 

かつての駅前(西側)。駐輪場辺りまでは駅構内だった。

西側から望む。右の道路と中央の建物がかつての「大師前」駅から少し伸びた線路跡。道路に沿って、住宅が西に続いている。

「東武ストア」の上は、集合住宅になっている。

 ここから「西新井駅」方向に戻ります。

様変わり。
 赤い円がかつての日清紡の工場跡。今は、ショッピングモールや高層住宅、公園、病院、学校などの公共施設に。
 

正面が「西新井」駅。
 駅前の区画整理が進まないようすはかつてのまま。立っている位置辺りがかつての引き込み線の縁に当たっている。  
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跨線橋。演習線跡。(京成「大久保」駅~JR「津田沼」駅。その3。)+鎌ケ谷。

2014-07-12 12:43:49 | 鉄道遺跡

 JR「津田沼」駅から京成「津田沼」駅。新京成線が「京成津田沼」から分岐して松戸方面に向かう。出発してしばらくすると、JR線との「跨線橋」を過ぎる。この跨線橋がかつての演習線時代からの路線。鉄道第二連隊本部(兵営)から連隊材料廠・倉庫までの路線跡。

 当時の痕跡は? 位置は同じですが、手前の道路を渡る鉄橋部分と跨線橋と同じ時期に付け替えられたようです。

JR線の向こう側。こんもりとした部分が複線だったところ、あるいはもともとの線路跡?

  「跨線橋」。



 後日、別の場所へ出かけました。鎌ケ谷市東道野辺。
 「千葉公園」内にある「第一連隊」のコンクリート製の橋脚と同じものがここにもありました。ここのものは、「第二連隊」が設置したもの。鎌ケ谷市内に入って、「木下街道」から少し西に向かったところ。新京成「二和向台」駅からの路脇の公園に残されていました。習志野(津田沼)から松戸への演習線のほとんどは、戦後、「新京成線」になりましたが、ここはそのまま残されたようです。



 史跡 鉄道連隊橋脚 鎌ケ谷市東道野辺6丁目8番
 この橋脚は、昭和初期に旧日本軍の鉄道大隊が、訓練や物資等の輸送のため建設した鉄道の一部です。近代の戦争では、鉄道は人や物資の輸送のために重要な役割を担っていました。・・・
 この橋脚は第二鉄道連隊が、大戦中、鉄道を敷く訓練として津田沼~松戸間に設けた路線の一部でしたが、終戦後は放置されていたため、この部分を除くほとんどを京成電鉄が買い受けました。その後、昭和21年(1946年)に京成電鉄の出資により新京成電鉄が設立され、当路線の整備を行いました。しかし、この部分は整備から除かれこの橋脚だけが残りました。現在の新京成電鉄の全線が整備を終え、開通したのは昭和30年(1955年)のことでした。
 平成11年3月 鎌ケ谷市教育委員会

窪地(実際に川が流れてはいなかったようです)に橋脚を設置して、架橋などの訓練施設にしました。


 脇にはすべり台などがあって、子供の遊び場になっています。適度な窪地状の起伏が格好の遊び場なのでしょう。


道路に沿って5基ほど残っている。



緑に覆われているが、特に大きな遊具もない。



 前後の路線跡は、どうなっているのか? 新京成線はこの場所から大きくそれて東北側を走っている。

昭和20年代後半(戦後)。
 赤い線が第二連隊が敷設した線路と思われる。新京成「二和向台」駅付近から大きく南にカーブしていた。↓が橋脚があるところ。青い線は、「木下街道」。

昭和40年代前半。
 線路と思われる部分は、道路となっている。

平成10年代。(以上、「今昔マップ」より)。

 この公園からの西北側の線路跡は定かではなさそう。なお、上の地図からもわかるように、橋脚が周囲より少し低地になった場所に造られた(。西北側が26㍍、東南側が25㍍、現地が20㍍)。
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鉄道第二連隊。K2形機関車。千葉工業大学煉瓦門。(京成「大久保」駅~JR「津田沼」駅。その2。)

2014-07-11 22:42:17 | 鉄道遺跡

 「ハミングロード」の濃い緑とは縁遠い炎天下、ひたすらJR「津田沼」駅を目指します。

 途中、新京成線が左にカーブしてJR「津田沼」駅方向に進む箇所に。かつては直進していたあたり。


この先に「新津田沼」駅=のち「藤崎台」駅があったようです。


 かつての「材料廠倉庫」があったところ。「イトーヨーカ堂」の前にある「津田沼一丁目公園」に機関車が保存されていました。



 K2形機関車134号
 この蒸気機関車は、かつて、ここ津田沼に本部を置いていた陸軍鉄道第二連隊がしようしていたもので、現在の新京成線敷地内にあって陸軍演習線の機関車として活躍したものです。
 この度、西武鉄道(株)ユネスコ村に保存してあったものを譲り受け、鉄道連隊ゆかりの、この津田沼一丁目公園に設置したものです。 
                                                  平成6年3月

 

 

 この地には、一時期、「県立千葉工業高校」がありました。
 

1936年(昭和11年)5月5日 - 千葉市立千葉工業学校として千葉市寒川町で開校
1939年(昭和14年)4月1日 - 県立移管。千葉県立千葉工業学校に改称。
1939年(昭和14年)9月27日 - 検見川校舎に移転(現在の千葉市立花園中学校・小学校の場所)
1945年(昭和20年)7月7日 - 千葉市空襲で標的となり全焼
1946年(昭和21年)1月24日 - 津田沼町の鉄道第2連隊跡北半に移転(南半は後に千葉工大)
1948年(昭和23年)4月1日 - 学制改革により千葉県立千葉工業高等学校となる。
1967年(昭和42年)4月8日 - 現在地:蘇我に移転。
・・・

公園全景。機関車と千葉工業記念碑。

新京成線「新津田沼」駅前。この一帯がかつての「鉄道第二連隊材料廠・倉庫」だった。大きく様変わりしています。

歩道橋からの「千葉工業大学正門」。ずっと以前は、JR線の跨線橋はなく、踏切だったそうです。

JR線をはさんで「千葉工大正門」を望む。

煉瓦造りの「鉄道第二連隊兵舎表門」。
 
「登録有形文化財」碑。

 この建造物は重要な国民的財産です 文化庁

 この門は、明治40年(1907年)当地に移駐した陸軍鉄道連隊第三大隊(大正7年に鉄道第二連隊に改組)兵舎の表門として使用されていたものです。・・・ 千葉工業大学





大学の塀伝いにちょっと行った先にあった煉瓦造り。これも当時のものか?
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鉄道第二連隊。ハミングロード。(京成「大久保」駅~JR「津田沼」駅。その1。)

2014-07-10 19:48:19 | 鉄道遺跡

 千葉にあった「鉄道第一連隊」。「鉄道第二連隊」は、津田沼に置かれていました。そして、「千葉」から「津田沼」まで軍用線路がつながっていました。演習用の線路。

 「津田沼~大久保~三山~高津~犢橋(こてはし)~宮野木~園生~千葉」間の約16.7㎞。軌間600ミリメートルの軽便鉄道でした。
 この廃線跡は、全線にわたって「マラソン道路」として整備された緑道・歩道になっているようです。

明治後半。
 赤い線が「軍用鐵道線」。赤い○が国鉄を挟んで「材料廠倉庫」「鐵道兵営」。

昭和初期。
 「鉄道第二連隊」作業場から倉庫への引き込み線が敷設されている。←が国鉄線をまたぐ跨線橋(現新京成線の跨線橋として活用)。もともとの演習線は、材料廠から松戸方向に向かっていた。

昭和20年代。戦後。
 「新京成線」になっている。↓大久保からの線路は道路となっている。新京成・「新津田沼」駅が現在と異なることに注意。現在と異なって、この辺りは、ほぼ直線になっている。←が国鉄を越える跨線橋。

昭和40年頃。
 「しんつだぬま」駅が「ふじさきだい」駅―1953年(昭和28年)から1968年(昭和43年)―になり、大きく西にカーブして国鉄津田沼駅に寄って「しんつだぬま」駅が開設されている。
 旧材料廠・倉庫施設一帯の再開発ともあわせて、改めて路線変更したものと思われる(初代「新津田沼」駅があった位置付近に戻った)。

現在(以上、「今昔マップ」より)。

 新京成線が京成津田沼を出てからくねくねと曲がっているのは、いろいろ訳ありのようです。・・・

 今回、京成大久保駅からJR津田沼駅まで「ハミングロード」を歩いてみました。約4㎞の道のり。
 暑い日差しの下、頭上を緑に覆われてある道。けっこう歩き甲斐がありました。



 習志野には明治から多くの軍関係施設が置かれ、一大軍都を築いていました。戦後は軍用地は掘り起こされて畑地となり、
軍用施設は一般住宅、学校等に改造されました。
 このハミングロードも専用鉄道の跡地が今日、市民の施設として活用されているのです。

まだまだ北東に「ハミングロード」は続きますが、このあたりから津田沼方向へ向かいました(「大久保駅」下車)。

 駅前は、「公共駐輪場」になっています。
 

しばらく進むと、本格的な遊歩道に。そこに案内板がありました。

 ・・・津田沼に置かれた鉄道第三大隊は、大正7年(1918年)に、「鉄道第二連隊」に昇格し、この演習線や昭和7年(1932年)頃までに敷設が完了したといわれる津田沼―松戸間の演習線で、鉄道の敷設、撤去、修理の訓練や機関車の運転訓練を行いました。
 戦後、演習線の跡は津田沼―松戸間がほぼ新京成線になりましたが、津田沼―千葉間は、だ合い部分が道路となっています。 
 平成20年3月 習志野市教育委員会

 
 写真は、軽便鉄道の機関車運転演習と敷設演習。昭和4年頃の路線図。


 右が自動車道路、左が歩行者用道路。その間に両側を古木に覆われた線路跡が続きます。特に痕跡は見当たりません。以前のレポートを拝見すると、いくつか陸軍などと刻まれた「境界標」があったようですが。

ほぼ直線の道。

南側(左側)は、住宅や畑がありますが、一段と低い位置になっています。線路は、小高い台地の南端をたどるようにして通っていたようです。

赤い線が「ハミングロード」旧線路。

南を望む。畑の向こうには京成線。

北西を望む。田園風景が広がります。

「習志野署」手前で、広い道路から左の住宅街に入って行きます。

道が狭くなって、草木に覆われてしまいます(「習志野署」裏手)。

 大きな境界標。表面の字はまったく不明。



さらにたどっていくと、

これはJR境界標。
 「ハミングロード」?は、ここまで。旧線路跡は、線路を越えていくことになる。フェンスの向こうの線路はJR線。

 ここからJR津田沼駅方向に歩いて行きます。
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鉄道第一連隊引き込み線跡。「材料廠煉瓦建築」。廃線跡。(千葉公園。その5。)

2014-07-06 12:49:35 | 鉄道遺跡
 千葉公園~競輪場~千葉経済大学。
大正時代。○が「鉄道材料廠」、→が「綿打池」。

昭和40年代。↓「国鉄貨物線」となっている。

現在。上から「千葉経済大学」、「競輪場」、「千葉公園」。線路は道路となっている(「今昔マップ」より)。


「千葉けいりん」入口。

壁絵がずらり。

 この脇を直線で進む道が線路跡。


少し左にカーブしていきます。

振り返って「千葉公園」方向を望む。

↓の道が線路跡(の一部)。このあたりでは、材料廠内に縦横に線路が敷かれていた。現存する道路が旧線路跡と思われる。

モノレール「作草部(さくさべ)」駅付近。
「千葉経済大学附属高校」付近から千葉公園方向を望む。

 「千葉経済大学」キャンパスを回り込んだ一番北の駐車場。そこにお目当ての建物がありました。

「旧鉄道連隊材料廠煉瓦建築」

●指定区分 県指定有形文化財(建造物)
●所在地  千葉市稲毛区轟町3-59-6
●所有者  千葉経済学園
●指定年度 平成元年

 明治41年、鉄道連隊材料廠の建物として建築されたもので、煉瓦造アーチ構造、木造トラスの小屋組みで、南北にそれぞれ幅2.7mの下屋を付設し、面積695.6㎡である。煉瓦構造の主要部分は、54.4m(約30間)×7.3m(約4間)と細長い長方形で、煉瓦の積み方は、段ごとに小口面と長平面とが交互に現れるイギリス積みと呼ばれる技法を用いている。
 県内に数少ない明治年間創建の大規模な煉瓦建築であり、特に南北の両壁にみられる10連の雄大なアーチ構造はこの建物の特徴で、全国的にも他に例がない。我が国の初期の煉瓦建築の構造を知る上で極めて重要であり、近代建築史及び煉瓦建築の歴史を考える上でも貴重な建物である。(千葉県教育委員会・千葉市教育委員会設置説明板より)

 この煉瓦建築は、鉄道連隊材料廠の機関車の修理工場として建築されたもので、終戦後、1945(昭和20)年、旧国鉄が大蔵省から借り受けて、レール等の修理工場として使用、廃止後、1985(昭和60)年から千葉経済学園の所有となりました。

 現在、建物周辺は「立ち入り禁止」区域になっていて、残念ながら近づくことはできません。現在も使用されているようすです。

北側(駐車場側)。

南東の角(建物入口付近)。

右に建物の説明板あり。

南側。

東側外壁。

この建物の前に残っている当時の線路。





線路が何カ所か残っていました。

内部のようすはうかがい知ることはできませんでした。

この建物も立ち入り禁止。関連がある施設か?


1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より。)貨物線は廃止されたが、まだ建物は残っている。中央上の白い屋根の建物が「材料廠」。

 軍用線路は「材料廠」からしばらく北上し、西に転じて「鉄道第二連隊」のあった習志野(JR「津田沼」駅付近)方向に進んでいました。約16.7kmの路線が完成したのは1911年(明治44年)10月のことです。
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