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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

鉄道大隊記念碑。千葉連隊区司令部跡。・・・。(千葉公園。その4。)

2014-07-05 12:25:22 | 鉄道遺跡

 千葉公園を出て千葉都市モノレールに沿って北上します。この道がかつての線路跡。モノレール「千葉公園」駅の道路を渡って東側に行くと、そこにもいくつか「鉄道連隊」の痕跡が残されています。

「鉄道大隊記念碑」。1903(明治36)年建立。住宅地の一角、「椿森集会所」の隣の緑地にある。灌木や雑草に覆われたまま。表面の文字は判読できない。また、石碑の裏には、戦没者や北京郊外の鉄道路線図(北清事変ニ於ケル鐵道圖)などが刻まれているらしいが、未確認。

 記念碑のそばにある「鉄道隊駐屯の跡」という小さい石柱


また奥の方に置かれた祠は連隊の営庭の片隅にあったものである、という


 少し南に行ったところにある「椿森公園」には、「将校集会所」の築山がそのまま残っているとのことで、その小高い広場に行ってみたが、特に痕跡なし。説明板もなし。

 椿森公園のすぐ隣には、

関東財務局千葉財務事務所門柱。
 この事務所と隣のJT敷地が「千葉連隊区司令部」跡地。司令部は「千葉県下の徴兵、動員、召集、在郷軍人の指導等を行っていた」そうである。当時の門柱がそのまま使われているらしい。


 この周辺地域は、閑静で整然とした住宅地。


 この住宅の、あるおうちの表札に「川上操六」とあったのには、びっくり!。一瞬、見間違えたのかもしれませんが・・・。
 「川上操六」といえば、桂太郎、児玉源太郎とともに、「明治陸軍の三羽烏」とされ、「参謀本部」システムを作った軍人。司馬遼太郎の「坂の上の雲」にも登場する。写真を撮るのを怠ったのが、失敗!

意味なく広い十字路があった。

「千葉陸軍病院」跡。  陸軍の解体により厚生省所管となり、国立千葉病院として発足。現在、 独立行政法人国立病院機構千葉医療センター。

「椿森中」との境界線にあった「厚生省」と記され境界標。


 「千葉公園」付近。頭上にモノレールの橋脚がある道路から左に入った道がかつての鉄道線跡。


 ここから「競輪場」の脇を通って、現在の「千葉経済大学」「附属高校」までが路線跡。次回はこの探索。
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鉄道第一連隊遺構。コンクリート製橋脚、ドーム、塊。・・・(千葉公園。その3。)

2014-07-04 20:50:54 | 鉄道遺跡
 前回紹介した以外にも、公園内には鉄道第一連隊関連の戦争遺構がいくつか残っています。起伏に富んだ地形を生かしての演習所だったようです。



 鉄道連隊
 戦地における鉄道の建設・修理・運転や敵の鉄道の破壊に従事する連隊。
 日本陸軍鉄道連隊の前身、鉄道大隊(2個中隊・電信1中隊・材料廠)は日清戦争後に初めて編成された。以来、日露戦争から太平洋戦争(大東亜戦争)まで活躍した。支那事変以前は近衛師団隷下の交通兵旅団に属していた。
 1940年7月の平時編成表によると、鉄道連隊の編制は連隊長(大佐)の下に連隊本部(57人)、3個大隊(大隊本部5人、3個中隊=1個中隊107人)、材料廠(23人)の合わせて1091人。ただし、鉄道第二連隊には、このほかに練習部、幹部候補生隊、下士官候補生隊が付設されていた。

鉄道第一連隊

鉄道第1連隊の鉄道敷設作業の様子

創設 1896年(明治29年)
廃止 1945年(昭和20年)9月

主な戦歴
日露戦争-満洲事変-支那事変-第二次世界大戦
1930年頃(昭和初頭)の千葉市周辺の地図。鐵道第一聯隊は地図中央やや上の、軍用鐵道の分岐近くにあった。

鉄道連隊が敷設した路線
 鉄道連隊は戦地のみならず国内各地でも鉄道建設を請け負い、訓練をかねていたので、建設費は材料費を負担するだけでよかった。そのため、鉄道事業者からは重宝された。

内地

千葉県営鉄道野田線(現在の東武野田線)
千葉県営鉄道多古線(後の成田鉄道多古線)
千葉県営鉄道八街線(後の成田鉄道八街線)
千葉県営鉄道久留里線(現在の久留里線)
千葉県営大原大多喜人車軌道(後の夷隅軌道)
北総鉄道野田線(現在の東武野田線)
川越電気鉄道(後の西武大宮線)
西武鉄道(初代)村山線(現在の西武新宿線 高田馬場~東村山)
中島飛行機専用線 西東京市
富士身延鉄道(現在の身延線)
東京急行電鉄代田連絡線
小湊鉄道線
福島電気鉄道(のちの福島交通飯坂東線 在来路線の改軌・電化)・・・

 また、千葉県内には鉄道連隊の演習用の路線があった。戦後一部は新京成線に転用された。
(以上、「Wikipedia」参照)

①架橋演習用に使用したコンクリート製の橋脚。高さ4㍍、幅5㍍、奥行き2㍍。上部の丘の上に一部が残っている。
見上げるほど、かなり大きな遺構。

説明板。
当時の演習のようす。

西側の高台に残る橋脚。

そこから下方の橋脚を望む。


②トンネル工事演習で使用したコンクリート製のドーム(外枠)。高さ6㍍、幅6㍍、奥行き5.5㍍。


これもかなり大きな遺構。

上部には「鉄道連隊」のマーク。

側面。 内壁。

「元鉄道隊が演習時構築せる隧道 全国鉄道連隊連合会」。「鉄道連隊」は、第一連隊(千葉)、第二連隊(習志野)をもとにして、20の連隊が存在した。

③ウィンチ台といわれるコンクリート塊。
橋脚と「綿打池」のほぼ対岸にある。


 「ウインチ」は、動力で歯車を回しながらワイヤロープ等で大きな物を上げ・おろし、運搬、引張り作業などに使用する「巻き揚げ機」のこと。池をはさんで重量物を運搬する演習にでも用いたのか。

平らで四角い塊も。

ボルト痕。

 「千葉公園」を後にして、次に向かいます。
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鉄道第一連隊。鉄道遺跡。荒木山。忠霊碑。・・・。(千葉公園。その2。)

2014-07-03 20:21:19 | 鉄道遺跡
 わずか10数時間の自公密室協議で(公明党の譲歩を勝ち取り)、アベ内閣は「集団的自衛権」(そのものずばりの表現は「目くらまし戦術」で記載されていない)行使に向けて、「解釈改憲」「憲法第9条」の骨抜きを閣議決定しました。アベは「外国の船を守る」という詭弁(「船」じゃないだろう、他国の軍艦・軍隊を守るだろう!)を弄し、「ありうる」を「ありえる」と平気で間違える程度の日本語力で、高揚した気分が満面に出ていました。
 ブレーンの岡崎に至っては、アベ以上に興奮して、自らの思惑通り、してやったりとの満足感が、気味悪いほど。自衛隊発足60年目にして、各地の自衛隊基地がいよいよ戦中の活動拠点・施設になっていきそうな、7月1日の出来事。


 「千葉公園」。大きな慰霊塔をはじめ、戦前、戦中の軍隊施設の一部が残っています。そして、周辺のここかしこに残る「戦争遺跡」。

 「つわものどもと学園地域コース」。

 「つわものども」の跡が戦後、「学園施設」や「病院施設」そして、落ち着いた「住宅街」に大きく変貌し、まさに人々の命と生活と未来につなぐ地域となった。が、かつての遠い「出来事」がいつのまにか、現実になったら・・・。

 そんな複雑な思いも込めて、7月1日、お昼前から午後にかけて、探索してみました。JR千葉駅がスタートです。



 JR「千葉」駅は、1963(昭和38)年、現在地に移転するまでは、800mほど東千葉駅寄りにあり、佐倉駅・銚子駅(「内房線」)方面から船橋駅・東京方面と蘇我駅・安房鴨川駅(「外房線」)方面の二又に分かれていた。
 そのため、東京方向から蘇我駅・安房鴨川駅方面に向かう列車は、スイッチバックで方向転換していた。
 移転によって船橋駅・東京方面から蘇我駅・安房鴨川駅方面と佐倉駅・銚子駅方面の二又に分かれる線形に改良されたが、駅全体がV字状になっているのはその名残り。

 鉄道大隊(のち、「鉄道連隊」)専用の軍用線路は現在の千葉駅付近から北西に向かって進んでいた。千葉公園一帯から千葉経済大学、さらにモノレールの東側一帯は、「鉄道第一連隊」「陸軍歩兵学校」などほとんど軍の施設であった。
 
明治時代中期。中央下の池が「綿打池」。周辺は、鉄道連隊の活動区域となっている。

戦前。昭和初期。専用線も伸びている。上は、材料廠(鉄道材料倉庫)。現・千葉経済大学一帯。

昭和60年代。すでに撤去され、道路に。JR千葉駅も現在地になっている。

平成7年頃。千葉都市モノレール2号線完成後。(「今昔マップ」より)

本線から離れて、北に向かう。

千葉駅方向を望む。

「千葉公園」内にある高台「荒木山」。昭和8年12月に建てられたもの。

 昭和8年(1933年)はどういう年だったか、といえば、

1月1日 - 日本軍が山海関で支那軍と衝突

1月30日 - ヒトラーが独首相に就任、ナチス政権獲得

2月20日 - 作家小林多喜二が治安維持法違反容疑で逮捕される。東京・築地署に留置され特別高等警察の拷問により虐殺される。

2月24日 - 国際連盟が日本軍の満洲撤退勧告案を42対1で可決。松岡代表退場。

3月24日 - 独国会で全権委任法可決され、ナチス独裁が確立

4月10日 - 関東軍が長城線を越えて華北に進撃開始

5月27日 - 日本が中国国民党との間で塘沽協定を結ぶ(満州事変の終結)。

8月9日 - 第1回関東地方防空大演習実施

10月14日 - ドイツが国際連盟を脱退
 
 こんな具合で、ますますきな臭くなって来た年でもありました。2年後に「2・26事件」が起こります。

荒木山への階段。

こんもりとした樹木に覆われている。

高台の広場にある「荒木山由来」碑。

 この小高い丘は、以前、連隊ラッパ手の訓練が行われ、「喇叭山(らっぱやま)」と呼ばれ親しまれていましたが、殉職した荒木大尉を悼む鉄道第一連隊の兵たちにより銅像が建立されたため、以後「荒木山」と呼ばれるようになりました。
 その後、物資窮乏の時局を迎えて、銅像の姿は消えてしまいましたが、今でも、この小高い丘は「荒木山」と呼ばれ、市民に親しまれています。


 満州事変で先頭に立って戦い亡くなった鉄道第一連隊の「荒木大尉」の名をとって名付けられました。戦前までは,この荒木大尉の銅像が建っていましたが,現在は展望台になっています。
HPより)



現在の広場のようす。

現在の街並み。

当時のようす。




 公園の奥を進むと「護国神社」と大きな「忠霊塔」がある広場に。


忠霊塔。左右に陸軍、海軍の慰霊碑が置かれている。かつてここは、「陸軍墓地」であった。

昭和初期。○が「陸軍墓地」。
1954(昭和29)年頃。「陸軍墓地」と記されたところに「忠霊塔」とある(○の箇所)。↓はかつての軍用線路で、戦後もしばらくは千葉駅から国鉄の専用線に転用されたが、1984(昭和59)年に廃止となった。

 「忠霊塔」を回り込んだところに「荒木大尉」の碑があります。

「忠魂」碑。レリーフ。

 荒木 克業(あらき かつなり、1907年(明治40年)10月20日‐1932年12月3日)
 
 日本陸軍の軍人。 陸士41期。熊本県旧飽託郡内田村(現・熊本市南区)出身。最終階級は工兵中尉、死後大尉。
 昭和4年(1929年)7月17日、陸軍士官学校(41期)を卒業、同年10月25日より千葉の鉄道第1連隊第2中隊の所属となる。
 1932年(昭和7年)9月27日、満州国軍の人事配置に不満を持った旧張学良軍の蘇炳文少将ら満州国軍黒龍江省駐留軍の軍人数千人が『東北民衆救国軍』を名のり満州里で挙兵、満州里領事や特務機関長、国境警察署長、民間人ら在留邦人数百名を人質とし、ホロンバイル独立を宣言した。世にいうホロンバイル事件である。
 関東軍は交渉を打ち切り、ただちに第十四師団にこの東北民衆救国軍の撃退と邦人救出を命じた。第14師団には鉄道第1連隊の第2中隊および材料廠の一部が隷下に組み込まれ、列車追撃隊を編成した。荒木大尉は小隊長としてこの列車追撃隊の先頭となり、12月1日、九一式広軌牽引車2両をもって斉斉哈爾を出発。道中無数の破壊線路を修復しつつ満州里へと向かった。
 12月3日午後3時15分、大興安嶺隧道東麓環状線路交叉点のループ線下側東方約200メートルにさしかかるころ、上方より敵の攻撃を受け、橋梁(全長17メートル)が損傷。追撃隊は直ちに敵を排除し、橋梁を修復した。すると山上の敵は今度は石塊を満載した車輌3輌を列車追撃隊に突放した。荒木は装甲単車を後退させると部下4名とともにすかさず下車し、橋梁前方に2個、後方に1個の脱線器を取り付けた。だが荒木は部下を後退させ一人脱線器の装着具合を確認していたため退避が遅れ、脱線した貨車の落石を受け死亡した。追撃隊は12月6日午後1時30分満洲里に到着。戦力を失った蘇はソ連へと亡命し、監禁中の邦人は全員救出された。
 死後、この功績を称え、関東軍司令官武藤信義大将より鉄道兵初の個人感状が授与された。
 死後、荒木は満州事変における英雄として祭り上げられ、特に地元・熊本県では浄瑠璃や浪花節にも取り上げられた。1933年(昭和8年)3月9日、熊本教育会により公募で歌詞を募集した「荒木大尉の歌」が制作された。応募した618編のうち1等は新聞記者の島田四郎(のち熊本日日新聞社長)が入選した。
 また、鉄道第一連隊の敷地内で連隊のラッパ手の訓練が行われていた小高い丘に、殉職した荒木大尉を悼む同連隊の兵達により銅像が建立され、1933年(昭和8年)12月、荒木山公園として整備された。だが、銅像は戦争末期に供出されてしまい、敗戦によって荒木の名前も人々から忘れ去られてしまった。今では、千葉公園の敷地内にある「荒木山」の名前と台座にはめ込まれていたレリーフが残るのみである。(以上、「Wikipedia」参照)

 まさに「時の人」であったわけです。

 草地のこの広場の片隅には軍人慰霊碑がいくつか建てられてあります。
「日中戦士鎮魂碑」。

「慰霊碑 支那駐屯歩兵第3聨隊」。

ある種の「聖地」のような趣。


 一方で、この地域の軍事施設、さらに千葉市街地は、昭和20年・戦争末期二度にわたる米軍機の空襲によって大きな被害が出たこと地域でもあります。

・6月10日
 7時45分からB-29の編隊100機によって攻撃された。被害地域は蘇我の日立航空機千葉工場(跡地は現在JFEスチール東日本製鉄所の一部)、新宿町、富士見町付近で、同日の空襲によって千葉県立千葉高等女学校(現:千葉県立千葉女子高等学校)などの施設も被災した。被災面積は26ha、死傷者は391名。
・7月7日
 1時39分から3時5分にかけての夜間空襲で、B29・124機によって行われた。この空襲によって、省線千葉駅、(旧)京成千葉駅のほか椿森や作草部等にあった千葉陸軍病院、 鉄道第一聯隊、千葉陸軍兵器補給廠、気球聯隊、陸軍歩兵学校、千葉陸軍戦車学校、陸軍高射学校などの軍事施設に被害が出た。また、千葉市街地を目標にした129機のB29による焼夷弾などにより千葉市中心地のほとんどが焼け野原となった。被災面積205Ha、死傷者は1204人。


平和の大切さ知ろう 千葉市空襲から69年 体験者が戦争語る

2014年6月11日HPより

 千葉市空襲から六十九年にあたる十日、同空襲や戦争体験を伝える集いが同市中央区の「きぼーる」で開かれた。戦争体験者が空襲などの戦争体験を語り、平和の大切さを訴えた。
 千葉市空襲は一九四五年六月十日と七月七日に市内約七割を焼失し、約九百人の犠牲者が出た。
 集いは、千葉市内で活動する「ちば・戦争体験を伝える会」(市川まり子代表)などが主催し、八日から始まったパネル展「ピースフェア2014」の一環。
 集いには、戦時中に空襲や戦争を体験した人たちが自らの戦争体験を語った。千葉市花見川区の杉本百合子さん(84)は東京大空襲で家を燃やされた経験や教育勅語を覚えさせられた小学校での教育を振り返り、「真珠湾攻撃が始まり日本は強いと教えられたが、米国に負けるのではと思っていた」と話した。
 千葉市中央区の酒井健一さん(82)は、千葉市空襲前の一九四五年五月八日に米軍戦闘機からの機銃掃射を受けた体験などを語った。「勝ち目のない戦争だったが、国は国民を戦争にかりたてた。平和のありがたさを伝えていきたい」と平和の大切さを訴えた。ピースフェアは十二日まで。 (砂上麻子)
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日本製紙引き込み線(北王子線)跡。その2。(JR東十条駅下車。その5。)

2014-07-01 23:47:10 | 鉄道遺跡

 須賀線との分岐から王子方向に進みます。踏切もいくつか残っています。
踏切付近。

日本製紙(北王子駅)方向を望む。

王子駅方向を望む。手前に見える橋は、板橋、十条の火薬製造工場と王子の火薬製造工場を結ぶ「軍用電車(電氣鐵道)」線路跡につくられたJR線をまたぐ高架橋。この道路のJR線の西側に「電氣鐵道」関連のモニュメントがある「ちんちん山児童遊園」(すでに紹介済)がある。奥に見える橋脚は新幹線。

 新幹線の高架下になり、王子駅に向かいます


新幹線と跨線橋。左側はJRの本線。

JR線を跨ぐ歩道橋から北側を望む。
南側。
JRの本線。左の新幹線高架下に「北王子線」がある。

JR敷地を示す境界標。

並行する道路から見た線路。

 王子駅手前の駐輪場の先で新幹線高架下から離れ、京浜東北線の下り(大船方向)と並行して線路は続くようになります。


かつては自転車の鼻面を気動車が通過していたわけです。



王子駅手前のガード。新幹線、「北王子線」、JRの本線。

 王子駅の改札口からホームへ。

王子駅ホームから。一番右が「北王子線」。「石神井川」を越えるガードがそのまま残っています。

ホームの南端から。

 ホーム上から見ると線路はまだまだ本線に並行して進んでいきます。
 そこで、南口改札口から外に出ました。
一番手前が「北王子線」。


上野~尾久~赤羽と続く東北本線の上を越える「北王子線」。

王子駅と上中里駅の中間にある跨線橋から。



右手に見える駅が「上中里」駅。

 上中里駅の手前で、田端信号場駅の線路と合流します。ここまで。


 JR本線内の廃線後はどうするかは別のものだが、せめて「日本製紙」内から専属軌道になっている「北王子線」跡は、交通公園あるいは緑道公園として残してもらいたいものです。
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日本製紙引き込み線(北王子線)跡。その1。(JR東十条駅下車。その4。)

2014-06-29 09:15:13 | 鉄道遺跡

北王子線

 東京都北区田端信号場駅と同区の北王子駅(貨物駅)を結ぶ日本貨物鉄道(JR貨物)の鉄道路線(貨物線)。かつては、途中から貨物線の須賀線(すかせん)が分岐していた。

 今年3月、現役だった日本製紙(旧王子製紙・十條製紙)への引き込み線(北王子支線)が廃線になりました。
 赤羽駅南口方面から明治通りへ出るとき、この線の踏切を通過していく道路が早道でした。夜、一時停止の標識があるので、いったん停まって一応左右を確認し、踏切を越えて行く。昼間でも一度も貨物列車に遭遇したことはありませんでした。一回くらい通過を見届けたかったものです。
 いよいよ廃線が決まり、旧踏切も線路側の方が封鎖、一時停止しなくても進めますが、つい長年の癖でちょっと停止して、ああ、停まらなくていいのか、と進むこともたまにあります。


東北線 田端信号場~北王子間の列車運行終了について
 平成26年3月12日 日本貨物鉄道株式会社

 当社の第1種鉄道事業線区であります東北線 田端信号場~北王子間(通称「北王子支線」、以下同じ)につきましては、昭和62年4月の当社発足以降、主に、仙石線石巻港駅・東北線岩沼駅から北王子駅接続の日本製紙㈱専用線に納入する紙製品の輸送のため、列車を運行していました。
 しかし今般、お客様である日本製紙㈱様から、平成26年3月限りで北王子駅専用線での貨物取扱いを終了する意向が示されたことから、同線における貨物列車の運行を終了することとしました。
 なお「北王子支線」については、他の需要も見込めないことから、北王子駅を廃止し、同線の第1種鉄道事業についても、国土交通省に対し廃止を届け出る予定となっています。


 廃線後、この敷地をどう再活用するのか? 緑道公園風にしてくれればいいなと思います。
 そこで、廃線後のようすを探索しに行きました。最寄り駅はJR東十条駅。そこで下車し、王子、上中里までの行程です。


1970年頃のようす
(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 右側・中央部全体が工場の敷地だった。東側はすでに王子5丁目団地等の建設が始まっている。西側が日本製紙物流部門として残り、北王子支線・「北王子駅」があった。

敷地の北のはずれ、王子5丁目団地西側のところにある「産業考古学探索路」案内。赤い←が案内板の位置。
 ただし、案内図は、上がほぼ南になっているので、南北の方角を正しくすると


 

 旧王子製紙株式会社十條工場
 明治維新直後に需要が高まった西洋史を日本国内で自給することを目的として、明治6年に抄紙会社が設立されました。
 旧王子製紙株式会社はこの会社の後身で、本社は現在のJR王子駅の前にありました。かつてこのあたりにあった「十條工場」は印刷局に葉書の用紙を供給するため明治43年に設立されたものです。・・・
 太平洋戦争後の財閥解体に伴い、この工場は十條製紙(現日本製紙)となり、その後、昭和51年に現在の公団住宅団地へと姿を変えました。


1880年代のようす(「同」より)。→に「抄紙部」とあり、これが上にある明治6年創設の「抄紙会社」のこと。現在のJR王子駅前に当たる。蛇行している川は、「石神井川」。








(「今昔マップ」より)
 ①「抄紙部分工場」時代 ②「王子製紙」時代 ③「十條製紙」時代 ④現在。左の↓。
注:↓は「甚兵衛堀」。



現在は、「日本製紙物流株式会社」と「エヌビー運輸株式会社」となっている。  

 なお、この「産業考古学探索路」や上の地図にもあるように、「抄紙部分工場・王子製紙十條工場」につながっていた水路が「甚兵衛堀」。この堀のことは、また別の機会に(「北本通り」沿いに「案内板」あり)。

案内板付近から見た敷地内。

敷地の北側のところから道路を望む。

西側に接する道は「桜田通り」。

  
 構内のようす。かつての車両がそのまま残っている。

フェンスにはこんな句が。「花咲けば十条倉庫の汽車ぽっぽ」。地元の人に密着していた証拠?



かなり広くて長い構内ホーム。

すっかり雑草に覆われた線路。

構内引き込み線入口から北を望む。右が積み卸しホーム。

王子駅方向を望む。

踏切施設はまだそのまま。

 警告の看板などもすっかりさび付いたまま。
「線路内に物を投げ入れたり、柵に物を掛けないで下さい」

 
 振り返ると、・・・。

須賀線との分岐点。須賀線の跡は公園になっている。

須賀線は右にカーブしながら北本通りを越えて豊島5丁目団地方向に進んでいた。現在は、道路になっている。



合流方向を振り返る。右の公園がかつての須賀線跡。


1970年頃のようす(「同」より)。すでに「須賀線」は廃止になっている。○が分岐点。
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ちんちん山児童遊園。電氣鐵道。・・・(JR東十条下車。その1。)

2014-06-04 18:30:31 | 鉄道遺跡

 今回は、JR・東十条駅~王子駅周辺の鉄道遺跡+今も残るかつての軍事施設(建物)巡り。JR京浜東北線・東十条下車の探索。
案内図。左が北。
A:ちんちん山児童遊園。B:北区中央文化センター。C:北区中央図書館。D:自衛隊十条補給処。



1870年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。上の図のA~Cに対応している。まだ公園も図書館も出来ていない。JR線を越える立体交差の道路も未完成。中央の大きな敷地が「自衛隊」。下方、蛇行して流れる川が石神井川。

                     2010年代後半のようす。図書館も完成。


案内図付近から東を望む。JR線方向。
西側方向を望む。自衛隊施設方向。

「ちんちん山児童遊園」。

 その公園にある「産業考古学探索路」という案内板。
  

 明治時代から昭和にかけて、北区とその周辺には、陸軍の関連施設が数多く点在していました。その当時、これらの施設は、物資や人間を運搬するための軍用鉄道と呼ばれる専用軌道で結ばれていました。この辺りでは、板橋、十条の火薬製造工場と王子の火薬製造工場を結ぶ軍用電車が、チンチンと鐘の音を鳴らしながら、盛土の上を走っていたそうです。そのため、付近の住民は、この盛土を俗に「ちんちん山」という愛称で呼んでいました。かつて、この場所には、ちんちん山の下をくぐる石積みのトンネルがありました。このトンネルの上部には、3個のだんごを三角形の形に並べ、その上に、もう1つだんごを乗せたような珍しいマーク(当時の東京砲兵工廠のマーク)が刻まれていました。現在、このマークを含め、トンネルの石積みの一部が園内でモニュメントとして使われています。

トンネルの石積みのモニュメント。児童遊園の前にある道路(盛り土された軍用鉄道をくぐる道)にあったトンネルの入口部分。したがって、トンネルの向いている方向は90度ずれている。
上部に「東京砲兵工廠」のマーク。

明治時代後期。「今昔マップ」より)A:火薬製造所 B:銃包製造所 C:貯弾場 D:火薬製造所製薬所。↓:電氣鐵道。

 現在も、当時も、本郷台地上の軍施設と石神井川と隅田川との合流付近の軍施設とは相当の高低差がある。A地点(銃砲製造所・現自衛隊施設等)の標高は、約20㍍、B地点(火薬製造所・現民間倉庫)の標高は約2㍍。この高低差を通していたのだから盛り土も高さがあったものとも思われる。地図上でもかなり長い盛り土の上を通っていたことが分かる。

(「同」より)
20㍍→12㍍の高低差(台地直下との差)→5㍍→2㍍。○の三角点には、27.5㍍との表示(現・十条台小学校の南)。鉄道はその北側を進んでいった。

現在、十条駅前からの道路(南に進むと「本郷通り」となる)からJR線を越えて「北本通り」に通じる道路は高架橋になっている(軍用鉄道は、もともとはこの高架道路の下にあり、トンネルと盛り土で結んでいた)。東に向かって急な下り坂になっている。

鉄道が通っていた道路から西を望む。けっこう深いトンネルになっている。上部は、見上げるような高さ。「南大橋」と二重構造になっている「南橋トンネル」。

三平坂。名主の滝公園の北側。けっこう急な坂道が続く。この一帯が地図上で最も標高の高い場所。東十条駅方向から進んで、先ほどのトンネル(モニュメント)をくぐるとこの坂につながっていた、と思われる。名主の滝公園は、その名の通り、本郷台地の下にある公園。


D地点に向かう鉄道の跡は広い道路となって、明治通りを横切り東に進んでいく。左側に続く緑地公園はかつての用水路跡。

石神井川に架かる右奥の橋は、かつて鉄道橋だったところにある。
首都高の高架。目の下は石神井川。その先は、隅田川との合流点。

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赤羽自然観察公園。味の素フィールド西が丘。・・・JR赤羽駅下車。その2。

2014-06-01 19:53:43 | 鉄道遺跡

 緑道公園の真向かいにあるのが「赤羽自然観察公園」。線路跡はこの公園の中に消えてしまうのか? 
 こういう広くてよく整備された公園があるとは知りませんでした。そこで少し寄り道。(冒頭の写真の花は「ウツギ」の花。)

新緑がまぶしい公園。

 赤羽自然観察公園は元自衛隊十条駐屯地として使用されていた土地の一部に整備された公園です。
 当該地は谷状の地形を有し、湧水が存在しており、この湧水の保全・活用をするため、北区では従来タイプの公園づくりではなく、「自然とのふれあい」をテーマに新しい公園づくりを目指しました。
 もともと自衛隊用地として使用されていた経緯から、緑の多い空間ではありました。しかし、本来この地域に形成される植生の回復のため、在来種に馴染まない樹木は撤去し、この地域に本来生息する植物もしくは生息していた植物を植栽し、長期的に自然の回復を図っています。「自然保護区域」及び「自然観察区域内の湿地部分」などでは、放置を前提とした植生管理をしています。
 また、園内には「多目的広場」や「バーベキューサイト」も整備されており、自然とふれあいながら楽しめる公園となっています。 
HPより)

注:「元自衛隊十条駐屯地として使用されていた」とありますが、現在、「自衛隊十条駐屯地」はJR十条駅の南に位置していて、こことはかなり離れています。
 敗戦後、各地にあった旧日本軍の広大な軍事基地は、そのまま米軍基地として強制的に収用されるところが多くあり、この地域も北区、板橋区にまたがって、広く点在して数箇所に及ぶ土地がそのまま米軍の管理下に。(「TOD」と総称されていました。)

 米軍が去った後、ただちに返還された地域もありましたが、ここは「自衛隊」の管理下に。区民の反対運動などの高まりによって返還された、という歴史を持っています。

《TOD・東京兵器補給廠: Tokyo Ordnance Depot)》

 第二次大戦後、東京都北部(北区・板橋区)の板橋・十条・王子・赤羽近辺のアメリカ軍によって接収された旧軍用地で、「東京兵器補給廠地区」及び「東京造兵廠地区」、また各地区はさらに複数の地区に分かれる。
「東京兵器補給廠地区」は1958年12月23日(その後、陸上自衛隊十条駐屯地となる)、「東京造兵廠地区」は1971年10月15日に日本に返還された。

 これらの地区はサンフランシスコ平和条約(1951年4月28日締結・1952年4月28日発効)により連合国軍は条約の効力発生後90日以内に撤退するよう定められていたが、接収地については発効の90日後にあたる外務省告示第33号及び第34号(1952年7月26日)によってその扱いが公開され、TOD地区は無期限使用施設とされた。

 しかし、1960年代末頃より始まった東京近郊の都市化の拡大、日本社会党・日本共産党推薦の美濃部亮吉東京都知事就任及びベトナム戦争に対する反戦運動の激化から米軍施設の集約移転を行うことについて日米双方で合意し、その結果TODの未返還地区についても返還されることとなった。

・十条駐屯地(旧・TOD第4地区)CIC - 戦前の砲兵工科学校分校の後、東京第二陸軍造兵廠板橋製造所。返還後は板橋区立板橋第五中学校。現在の板橋区板橋4丁目。

・TOD第1地区 - 米軍兵器補給廠が設置された。戦前の東京陸軍兵器補給廠。返還後は小企業信用保険公庫宿舎、警視庁宿舎、陸上自衛隊十条駐屯地赤羽地区の一部。現在の板橋区清水町・北区西が丘3丁目。

・TOD第2地区 - 米軍戦車練習場が設置された。返還後の陸上自衛隊十条駐屯地赤羽地区(旧・陸上自衛隊武器補給処赤羽支処(陸上自衛隊十条駐屯地赤羽地区分屯地)・陸上自衛隊補給統制本部赤羽西地区)の一部他。
 後に赤羽自然観察公園と、ナショナルトレーニングセンター陸上競技場となる。現在の北区赤羽西5丁目。

・TOD第3地区 - 赤羽ハイツ(米軍住宅)が設置された。戦前の陸軍被服本廠。返還後、公団赤羽団地、北区立赤羽台中学校、北区立赤羽台西小学校、北区立赤羽台東小学校となった。現在の赤羽台1丁目、2丁目。

・TOD第4地区 -極東陸軍地図局・第29工兵大隊が設置された。戦前の銃包製造所、戦中に東京第一陸軍造兵廠十条工場。後にASA地区・第64部隊地区を併せる。1958年に北側の一部を返還した後、1961年よりキャンプ王子と呼称。1966年に部隊ハワイ移転のため閉鎖されたが、返還されず、1968年にベトナム戦争開戦のため米陸軍王子病院(王子野戦病院)が開設される。1969年12月病院閉鎖。返還後は北区中央公園・十条駐屯地・東京成徳短期大学・公務員宿舎(大蔵省・防衛庁)他となった。
 中央公園文化センターは旧東京第一陸軍造兵廠本部で後に米陸軍司令部として使用された建造物。現在の北区十条台1丁目・王子本町三丁目。

・TOD第5地区 -米軍板橋射場が設置された。現在の板橋区加賀・北区十条台2丁目・上十条3丁目。

・稲付射場 - 戦前の工廠稲付射場。返還後は北区立梅の木小学校他。現在の北区西が丘2丁目。

(以上、「Wikipedia」参照。)

 ・・・一方で、沖縄にある米軍基地を早期に返還させ、県民の生命と暮らしを豊かにする施設に変える、そう県民の望むことがまったくかなわない現状にも思いをはせます。
 沖縄だけではない。「日米軍事同盟」強化を目指すための「集団自衛権」に躍起になっているアベ政権の現下の情勢では、岩国、厚木などの基地周辺住民や関係自治体に、米軍、自衛隊の機能強化によって、戦争に巻き込まれる危険性と基地公害がいっそう増すのではないか、と。・・・


 遊歩道も整備され、歩きやすい。ただ人工的な印象は否めない。もともとすでに自衛隊用地として自然のままに用いられたわけではない。跡地利用として「里山」をイメージして造成され、今もまだ進行中といった感じ。樹木の伐採、下草刈りなどボランティアの方なのか複数見かけた。

 HPにも「本来この地域に形成される植生の回復のため」とあるように、今もこの地にある「里山」の「保存」ではないことに気がつきます。そういう点では批判的な意見もあるようで、ネットではつぎのような投稿が目にとまりました。4年前の記事ですが。

 私が赤羽自然観察公園へ行かなくなった訳。2010年1月11日 ...
(「m4s.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/2010111-3376.html」より)
 
 赤羽自然観察公園の名称に自然観察とあるが自然観察には不向きな公園だ。自然の多様性は貧しく、皮肉にも普通の公園の方がはるかに自然豊かだ。この公園は古民家と田圃、野外炊事施設と運動場がある都市中公園と思ったが良い。・・・

 この方は、具体的な体験をつづり、写真も多く取り入れて当時の公園の憂うべき状況を報告しています。

 4年前からその後どのように公園が変わっているか知るべくもありませんが、こうした意見なども随時取り入れつつ公園管理に当たっているようにも感じました。
 自然を「観察する」要素も大事ですが、自然を「体験する」、自然を「味わう」という視点も大事ではないか、とも。

 葛飾区にある「水元公園」は、もともと広大な水辺の自然が残っていたところを生かしながら、市民の憩いの場としての都市型公園(アスレチックやキャンプ場、運動広場・・・)です。



大きな溜池。この公園には湧水もあるようだ。この池は昔のまま?

1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「溜池」と記された池か?

田んぼとその奥に古民家。

旧松澤家住宅。江戸時代後期。ここに移築され、保存されている。

昔懐かしい農家の庭先。

 今度は、ゆっくりと来てみましょう。今回は、先を急いで。

公園の西門付近。線路は公園の北側・境付近を西に向かっていた。現在、その跡は、公園事務所などの建物になっている。左側の建物が線路跡に建っているものと思われる。

広い通りをわたった向かい側にある「区立若葉福祉園」は跡地に建っている。歩道橋から望む。


1970年代頃のようす(「同」より)。まだ廃線跡が整地されていない。カーブして進んでいたことがわかる。現在は、宅地化されてしまい、痕跡は見当たらない。建物によって分かるくらい。線路に沿っていた道は、現在も一部残っている。


2010年代のようす。線路跡に建物。




航空写真上からはこの建物が線路跡に建っていると思われるが。

もう少し南に行ったところ。右側の建物(「凸版物流」の敷地西側の一部)が線路跡。線路沿いの道が左。

左が団地。境界線のフェンスをはさんで右のマンションが線路跡に建てられたものらしい。

正面が味の素フィールド。そこまで線路は続いていた。

通りから振り返る。左手のマンションが線路跡。その左隣は古い民家(上の航空写真にも写っている)。

この奥の方まで線路は敷かれていた。

すっかり面影は見当たらない。
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赤羽緑道公園。JR赤羽駅下車。その1。

2014-05-31 23:46:20 | 鉄道遺跡
 北区の王子、赤羽付近には、軍隊の施設がたくさんありました。その施設への引き込み線が張り巡らされていました。それらの施設は、戦後、ほとんどが民間工場などに転用された後、現在は、学校施設、スポーツ施設や住宅地になっています。十条にある「自衛隊十条駐屯地」以外ありません。線路跡も残ってはいません。しかし、道路の形状や建物の位置などで類推出来る廃線跡もあります。
 中でも、「北区赤羽緑道公園」は、線路跡を緑道公園化していますので、比較的分かりやすいものになっています。ただ、緑道公園のいわれなど説明板やモニュメントがどこにもないのは、残念。
 反面、木々に囲まれた静かな遊歩道のあしもとがが線路模様になっていて、それをたどることで、かつては線路だった、と。さらに、横断歩道橋の手すりに車輪がかたどられている、そんな見える工夫はされていました。また、草花も豊か、小鳥のさえずりも聞こえてきて、味わいながら散歩できる緑道でした(自転車通行は厳禁)。


明治時代後期の頃のようす。↓には「兵器庫」との表示。この敷地に線路は入っていきます。


戦前のようす。上の↓には「火薬庫」とあります。○は被服庫。ここに支線が伸びています。


2000年代初めの頃のようす。↓A「火薬庫」は、桐ヶ丘団地に、↓B「兵器庫」は、現在は「味の素フィールド西が丘」、○D「被服庫」は、赤羽台団地になっています。○Cは、当時から台地(軍施設があった)脇の田んぼ地帯で、現在、「赤羽自然観察公園」や「赤羽スポーツの森公園」として整備されています。(以上「今昔マップ」より)。

赤羽駅西口から少し坂を上がったところからスタート。正面の建物と左の空地が線路跡と思われる。

未整備の土地が残っている。

西側から望む。

 もともと、線路は、現在、新幹線の高架下をくぐった先にある「赤羽八幡神社」の脇を抜けて本線と合流していました。
赤い線が線路跡。↓が「赤羽八幡神社」。1970年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。新幹線がまだ建設されていない。その後、神社の脇に新幹線の高架ができて周辺のようすも大きく変化しています。

ここから「赤羽緑道公園」が始まる。静かで落ち着いた散歩道。

車輪のモニュメント。JR赤羽駅西口広場から通じる道路に架けた歩道橋。

振り返って望む。右手に小鳥のブロンズ像が並んでいる。

ほぼかつての線路と同じように進んでいく。

ところどころ、すれ違う箇所のように線路が分かれている。

遊具などもなく、自転車も入って来ない。

かつての団地のイメージとは様変わり。ここが「被服庫」跡とは想像もつかない。支線の跡はもちろん皆無。

先には、鉄橋のようなものも。歩道に描かれた線路の模様も少し変わってくる。

右手は福祉施設の建物。線路跡に沿ってカーブしている。この先で「赤羽緑道公園」はおしまい。

 では、この先、線路跡はどうなってしまうのか? 「味の素フィールド西が丘」まではまだまだ先。はたして?
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JR常磐線亀有日立引き込み線跡。JR亀有駅~中川公園。

2014-05-27 22:00:48 | 鉄道遺跡

 1938(昭和13)年、日立製作所亀有工場が足立区大谷田町、現在の大谷田団地および中川下水処理場一帯(JR常磐瀬・亀有駅の北東、西新井に向かう「環七」が、大きく西にカーブするあたり。)にできました。最盛期には2万人以上の従業員が働き、戦時中には、戦車など兵器が作られていました(ちなみに、飯塚橋の通りは「戦車街道」とも呼ばれていた)。
 この工場を「亀有日立」と地元の人は呼んでいました。現在も周辺には日立関連企業があります。
 戦後、大型重機などを製造していましたが、都内にあった大規模工場の地方移転策により、1974(昭和49)年に土浦工場に統合され、操業を終えました。

 「亀有日立」への引き込み線の跡が一部に残っていて、現在、住宅地になっています。高架線となっているJRが、亀有駅を出発して金町に向かうところ。
 航空写真で見ると、まるで貨車が連結されているかのように見えます。
2010年代のようす。




1970年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。上方に「亀有日立」の工場があったが、跡地はほとんど更地に。引き込み線も廃線となって線路跡の部分はすでに建物が建っている。残された常磐線との分岐点付近のみ整地が進んでいる(→)。


「亀有日立」工場のない頃。

「工場」が出来た頃。引き込み線がある(青い線で表示)。

引き込み線が工場奥深くまで続いている頃。

工場が移転し更地になっている頃。

現在。

 (「今昔マップ」より。注:↓「正法禅庵」の位置は変わっていない、と思われる)

分岐点付近。現在は高架になっているが、かつては地上線だった。
正面奥が引き込み線跡の住宅。
   敷地境界線の大きな表示石が左右にある。
東側から見たところ。


通りの方から見たところ。
 
ブロック塀の向こう側。


正面の建物から奥の方へ続いていく。中央奥が常磐線の高架。

通りを挟んで反対側(「亀有日立」側)への延長線。この先、線路跡は定かではない。

「亀有日立」工場の南側の部分・「中川公園」横の交番の向かいの建物。この付近までが線路跡のはずだが・・・。

←が「常磐線・亀有」方向、↑が「環七」方向。
広々とした空間。



その奥にある都下水道局の大きな敷地。「中川水再生センター」。
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海岸電気軌道・鶴見臨港軌道「総持寺駅」跡。(旧東海道を歩く。京急「生麦」~「八丁畷」。その2。)

2014-05-23 22:02:34 | 鉄道遺跡
 しばらく進むと、「第一京浜」にぶつかります。
「国道」駅付近。

正面の道が旧東海道。

振り返って生麦方向を望む。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。→の付近が現在の「第一京浜」との交差点付近と思われる。


2010年代のようす。海岸側が開発されている。

 ここでちょっと寄り道。川崎大師まで運行していた路面電車の軌道。産業道路建設を機に廃止された。その総持寺駅跡と路線跡を探索してみました。

海岸電気軌道

 神奈川県横浜市の総持寺駅(京急本線の京急鶴見駅 - 花月園前駅間にあった駅)から川崎市の大師駅までを結んでいた軌道線(路面電車)。
 臨海地区の工業地帯の通勤輸送を目的に1925年(大正14年)に開業。しかし世界恐慌の影響で利用客数が伸び悩み、1930年(昭和5年)にJR鶴見線の前身にあたる鶴見臨港鉄道に譲渡されたが、鶴見臨港鉄道が本線で旅客営業を始めた影響を受け、産業道路建設を機に1937年(昭和12年)に全線が廃止された。


1970年頃のようす(「同」より)。上の赤丸が総持寺駅跡。下のカーブして並んでいる建物が路線跡と思われる。
2010年代のようす。○の部分。

「総持寺前」(○のところ)からの路線が載っている。

廃止されて線路部分が空き地になっている。

現在。
(以上「今昔マップ」より)

「本山前桜公園」が総持寺駅跡。左手が京急本線。
京急線の高架下(合流していたあたり)からJR線をはさんで「総持寺」「鶴見大学」方向を望む。

京急線側から公園を望む。

正面の建物が線路跡に建てられたものと思われる。

その辺りから公園を望む。微妙にカーブを描いている。

細い「私道」が第一京浜まで少しカーブしながら続いている線路跡(の一部)。

家屋がわずかに左にカーブしながら縦に並んで建っている。線路跡に建てられた建物の特徴をよく表している。(JR常磐線・亀有日立引き込み線跡、京成線・白鬚線跡などにも見られる。)
常磐線・亀有日立貨物引き込み線跡。正面奥の建物が線路跡に沿って貨物列車のように並んでいる。左右の建物との向きが異なっていることに注意。

京成電車・白鬚線跡。左側の建物(と細い路地)が線路跡。終点の白鬚橋近く。

正面奥の家の向きが軌道に合わせて横向きになっている。塀の向こうが私道部分。

「第一京浜」から見た私道部分。右の建物群が線路跡。

右の茶色い建物が
線路跡と思われる。わずかに右にカーブしている。

「第一京浜」向かい側(線路跡の道路)から望む。白い建物と茶色い建物の間が先ほどの私道。したがって、看板のある建物が線路跡。

矢印が「私道」。右が線路跡。

この道(線路跡)は、鶴見川をこえて、「産業道路」方向に進む。鶴見川の手前付近から振り返る。

「臨港鶴見川橋」。この橋の名にもあるように、この橋が軌道跡。

「総持寺駅」方向を望む。

産業道路方向を望む。
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浜川崎。八丁畷。(京急大師線・産業道路~JR、京急・八丁畷。その4。)

2014-05-17 12:48:44 | 鉄道遺跡
 産業道路の頭上には相変わらず「横羽線」の高架が「続きますが、「浜川崎」に近づくにつれて少し視界は開けてきて、貨物線を高架で越える頃になると、目の下には貨物線が広がっていきます。
「鋼管通五丁目緑地」。この脇の大きなスペースがバスの発着場になっています。かつての駅跡?


ベンチがぽつんと片隅に。

枕木を再利用した柵。
広場の一角に折り返しのバスが停車中。
かつての市電はここから西に折れて川崎駅方向に進んでいた。正面の広い道路が「市電通り」。

 ようやく「浜川崎」駅に着きました。
鶴見線側のホーム。
南武線側の駅入口。

 浜川崎駅

 神奈川県川崎市川崎区にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅。
 乗入れ路線は、東海道本線(貨物支線)・南武線(浜川崎支線、旅客案内では「南武支線」)・鶴見線の3路線。ただし旅客営業を行っているのは南武線と鶴見線のみであり、両路線の乗換駅となっている。
 東京貨物ターミナル駅方面へ通じる東海道本線支線は貨物列車専用である。この東海道本線支線は南武線浜川崎支線と合わせて東海道貨物線を構成しており、2路線の相互間は当駅に停車せずに直通運転が可能な構造となっている。
 南武線と鶴見線の旅客駅は、道路を挟んで別の駅になっている。どちらの旅客駅も無人駅で、南武線側は尻手駅が、鶴見線側は鶴見線営業所が管理している。当駅で乗り換える旅客はいったん改札を出ることになる。双方の駅の改札にSuica対応の自動券売機および簡易Suica改札機が設置されている。ICカードのSF部分を利用し当駅で乗り換える旅客は、当駅の簡易Suica改札機に触れずに乗り換える必要がある。
 両路線はいずれも島式ホーム1面2線を有する地上駅で、南武線側に1・2番線、鶴見線側に3・4番線の番号がふられている。鶴見線の駅には跨線橋がありこの上に改札がある橋上駅の体をなす。跨線橋を北側に渡ると一般道・南武線に通じる出入り口がある。跨線橋の南側にはJFEスチール東日本製鉄所専用の出入り口も設けられている。
 南武線は鶴見線に直交する形で駅が設けられている。1番線側には川崎新町方面とJR貨物浜川崎駅構内・鶴見線扇町方面とを結ぶ連絡線が通っているが、停車する旅客列車はなく柵が設けられている。列車が停車する2番線は、終端部が車止めとなっている。(以上、「Wikipedia」参照)

駅近くの踏切から。
 駅前の通りにはお店もなく閑散としている。

二両編成のワンマンカー。
 頻繁に通過する貨物列車の写真を撮るため、何人かホームに。ここから「八丁畷」まで。平日昼下がりのせいか、乗客はまばら。

 八丁畷駅

 神奈川県川崎市川崎区池田一丁目にある、京浜急行電鉄(京急)・東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅。両社の共同使用駅で、京急の管轄駅。
 旅客駅には京浜急行電鉄の本線とJR東日本の南武線(浜川崎支線、旅客案内では「南武支線」)が乗り入れ、両線の接続駅となっている。
 京急本線は相対式ホーム2面2線を有する地上駅。そのホームの上を浜川崎支線が高架で越しており、南武線は単式ホーム1面1線を設けている。南武線ホーム部を跨線橋として共同使用しているため、京急と南武線との間に中間改札はなく、簡易ICカード改札機のみが設置されている。
 JR東日本は駅業務を京急に委託しており、自動改札機はJRの乗車券やICカードに対応している。(同上)

 川崎に無人駅があるとは思いもしませんでした。途中、貨物列車の通過のため、信号待ちをするなど実にユニークな路線でした。この付近、貨物線や電車線などけっこう入り組んで走っていて、鉄道マニアにはなかなか面白いところのようです。
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川崎市電。(京急大師線・産業道路~JR、京急・八丁畷。その3。)

2014-05-15 21:43:10 | 鉄道遺跡
 産業道路沿いに「浜川崎」方向に進みます。右手が産業道路、頭上には「横羽線」の高架。左手が緑道(市電線跡)、さらにJR貨物線の高架。単調な道筋。もちろんコンビニなども自販機もない。産業道路の反対側は建物が並んでいますが、こちらはJR貨物線の海側に工業団地がずらっと続きます。そのため、車の出入りも多いところ。
 途中、「THINK(テクノハブイノベーション川崎)」という施設が目に付くようになります。

THINK(テクノハブイノベーション川崎)
 THINKは川崎市の方針のもと、民間主導により川崎臨海部渡田地区で進められているサイエンスパークです。JFEグループの既存研究開発施設をフル活用して、新事業の創出、新分野への支援や産学連携共同研究の実現を目指しています。

(以上「」HPより)

 さらに、「浜川崎」に近づくと、かつての日本鋼管、現在は川崎製鉄と合併してできた「JFE」東日本製鉄所(京浜地区)の大きな施設群が目立つようになります。
(「JFE」HPより)。
 まさに、京浜工業地帯の基幹・大動脈をなすところでしょうか? 貨物線も縦横につながり、貨物列車が頻繁に通過していきます。
左手が貨物の高架線。高架のため、頭上を通過する音が聞こえてくるだけで、ほとんど姿を確認することは出来ません。柵がJRとの境目。手前の緑道がかつての市電跡と思われます。
JR(国鉄)の敷地を示す標識。「」と記されている。
桜本方向を望む。
ほとんどが灌木に覆われた緑道ですが、日向には小さな花の群れ。
歩いている人は誰もいない。時折ママチャリが通るのみ。
緑道には敷石があって、線路跡を彷彿とさせる? 当方の勝手な思いですが。青いテントが点々と続きますが、住民の姿は一人も見当たりません。
枕木の表面を燃やして杭に用いている箇所が何カ所かあります。
「浅野町緑地」として整備されています。
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桜本駅前。(京急大師線・産業道路~JR、京急・八丁畷。その2。)

2014-05-14 22:28:25 | 鉄道遺跡
 《「桜本駅」の歴史》(「Wikipedia」参照)

1945年(昭和20年)1月7日 - 東京急行電鉄(大東急)大師線・入江崎駅 - 当駅間延伸開業に伴い駅開業。
1945年(昭和20年)12月6日 - 川崎市電・浜町三丁目停留所 - 当停留所間延伸開業、大師線と接続。
1948年(昭和23年)6月1日 - 大東急解体に伴い、京浜急行電鉄の駅となる。
1951年(昭和26年)3月16日 - 川崎市電、京急大師線の一部区間に乗り入れ開始。
1952年(昭和27年)1月1日 - 川崎市電、京急大師線の当駅 - 塩浜駅間を買収、川崎市電単独の停留所となる。
1969年(昭和44年)4月1日 - 川崎市電廃線に伴い廃駅。
1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。赤い線が路線。カーブしたあたりに駅(舎)があった。その南側には、「野球場」がある。
 その後、JR貨物の高架線が野球場の南側に建設されている。
 現在、旧駅一帯は、「池上新田公園」として、「池上新田野球場」とともに存在している。

「池上新田野球場」。草野球場として整備された球場。
野球場脇から産業道路方向を望む。
産業道路に面してガソリンスタンドがある。その裏手の微妙なカーブが線路跡か?

GSの裏手に広がる公園。この辺りは、木々が植えられている。右手が野球場。
広場。この辺りも線路跡か?
ささやかな遊具。
「池上新田公園」南西側入口。そのまま「産業道路」に沿って旧線路は続いていたらしい。
歩道と左側の緑地帯。まっすぐ続いていく。
 しばらく進むと「桜本駅前」「桜本」のバス停。

 「市バス」「京急」は「桜本」、「臨港」は、「桜本駅前」。ここに三者のこだわりが・・・。

川崎鶴見臨港バス
 現在のJR鶴見線の前身にあたる鶴見臨港鉄道のバス事業を起源とするバス事業者である。1954年から京浜急行電鉄の子会社となり、京浜急行線・JR線・東急線の駅を発着する路線を中心に、川崎市東部や横浜市北東部を基盤として路線を展開している。

沿革

1931年 鶴見臨港鉄道(鶴見線の前身)、バス事業を開始(鶴見駅西口~東寺尾~綱島間、鶴見駅西口~東寺尾~寺谷角~鶴見駅西口間)
1937年11月 鶴見臨港鉄道が全額出資の鶴見川崎臨港バスを設立
1937年12月 鶴見臨港鉄道が海岸軌道線を廃止し、バスに転換(鶴見駅西口~本山前~潮田~寛政~田辺新田~池上新田~大師河原~大師間)
1938年5月 鶴見臨港鉄道より路線譲受 営業開始
1938年12月 鶴見臨港鉄道と京浜電気鉄道の系列会社、川崎乗合自動車(通称・銀バス)と合併し、社名の鶴見と川崎を入れ替えて川崎鶴見臨港バスとする
・・・(以上、「Wikipedia」参照)

バス停を南から望む。

1970年頃のようす(「同」より)。産業道路(上部は「首都高・横羽線」)と貨物線との間に市電の線路があった。
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鶴見臨港軌道。(京急大師線・産業道路~JR、京急・八丁畷。その1。)

2014-05-13 21:11:22 | 鉄道遺跡
 日本の戦後の高度経済成長を支え、今もなお基幹産業工業地帯として存在する、京浜工業地帯・川崎臨海地区。物資の輸送はもとより、さまざまな工場で働く多くの労働者の通勤の足として、鉄道が担った功績は大きいものがありました。
 時代の流れとともに、鉄道から自動車への転換の中で、かつての鉄道網が集約、再整備され、大動脈としてまだまだ利用されている貨物線。さらに、マンションなどの進出により地元住民の貴重な移動手段としてある電車。
 そんな地域を産業道路沿いに探索してみました。

 一方、この地域は、長い間、大工場からの排気ガス、排水等の公害で多くの市民がぜんそくなどで苦しんだ地域でもあります。今、抜本的な公害対策、長年にわたる、行政と住民との一体となった取り組みですっかりそうした面影はなくなっています。

 ここで、川崎「公害」問題についてのまとめ。

 近世は湾岸部が新田開発され、農業として水田や桃・梨の栽培がおこなわれ、大師河原では塩田で塩が作られていました。近代に入ってからは、ノリ養殖がおこなわれていました。
 1910年ごろから工業化が進み、湾岸部では日本鋼管を皮切りに、鉄鋼・電力・石油化学コンビナートが次々と立地し、臨海工業地帯を形成していきます。1955年ごろにはいちじくの葉が一夜で大量に枯れるなど、大気汚染が深刻になっていきます。
 また、工場に隣接して幹線道路が建設され、工場への原材料、製品の搬出入、物流分野での自動車依存度が高いこと、川崎区発着の貨物量が多いこと、通過交通量が多いことから、道路の大気汚染が問題になっていきます。
 川崎市は市独自に1970年から発生源対策・患者救済を行ってきました。しかし、1978年に国は二酸化窒素の環境基準を緩和し、患者救済を行う公害健康被害補償法を改正して新たな認定を行わない動きがあり、公害病患者が多い川崎では、患者たちが裁判をおこしました。
 二酸化硫黄、二酸化窒素、浮遊粒子状物質の環境基準を達成すること、それ以上の排出をしてはならないという差し止め、公害患者と死亡者に対して生活・家庭の破壊を償うための損害金を支払ってほしいという裁判です。
 裁判は長期化し、17年かかりましたが、西淀川公害訴訟の和解をきっかけに工場と道路ともに和解をしました。
 解決後も、公害のない道路沿道のために運動を続け、川崎市成人ぜん息患者医療費助成制度をつくり、川崎市全域の全市民のぜん息患者の医療費助成ができるようになりました。
HPより)

 工業発展とともに公害が問題となり、住民による反公害運動は活発化した。早くも1951年には東渡田住民が煤煙瓦斯防止対策の会を作って市へ陳情した。1963年臨海地域は煤煙規制法による規制地域に指定、1969年には大師・田島地区が公害病救済特別措置法の指定地域になった。川崎の公害反対運動は全国の他地域よりも遅れ、ようやく1970年に公害病友の会が発足された。1970年、川崎市、横浜市、神奈川県と日本鋼管は、全国初となる公害防止協定を締結した。川崎市は公害病認定制度を施行、気管支炎に対する医療介護手当の支給を決定した。
 1971年、現在の川崎区全域と幸区のほぼ全域が大気汚染地域に指定され、上平間では初めての喘息発作の学童犠牲者が出る。大気汚染注意報は1969年29回、1970年19回、1971~75年はそれぞれ7~9回と減少し、主要47工場の硫黄酸化物の年間排出量は1972年の56919トンから1978年10083トンに減退した。1970年代の登録被認定患者は4158人に及んだが、1975年をピークに年々減少した。川崎市の公害病認定患者は、1994年までに5911人、死者1500人を数えた。
 1982年、川崎公害訴訟は国、公団および14企業を相手に、臨海部に住む喘息患者と遺族119人の原告となって一次訴訟提訴が始まり、1994年の判決後控訴に及んだが、1996年に原告に対し14企業が謝罪、約31億円で和解した。国と公団に対する訴訟は継続し、1999年5月の東京高裁で最終的に和解合意された。
(以上、「Wikipedia」より)

 その「産業道路」沿道。かつては自動車の排気ガス、工場の煙害などの公害で目を開けていられなかったほど、ひどかったようです。

 湾岸エリアを営業車で周っています。このところ、喉が痛いのですが、川崎の町自体がアスベストで汚染されていることはありませんか?
また、コークスや煙突から出る煙による公害問題は大丈夫なのでしょうか?とても心配です。


回答者:回答日時:2005/12/14 23:49.
 湾岸エリア、とのことですが、工業で大発展を遂げて政令指定都市になるくらいまでは、(具体的には昭和40年代前半までは)東海道線よりも南側には一歩足を踏み入れただけで目が開けていられなくなりました。車に乗っている場合は窓を閉めなければなりませんでした。
 公害というのは全国でみられる現象ですが、京浜工業地帯では「カワサキ」が公害そのものの名称の代表として使用されていますね。正確には大田区蒲田~横浜市鶴見区までについては、(前の方も書かれておられますが)改善はされたものの、産業道路付近は大気汚染は残っています。例えば県立大師高校は各教室に空気清浄機が設置されています。
 産業道路を通る時は平和島駅付近から神奈川新町付近までは窓を閉めて走行しましょう
 まとめますと、ご指摘の公害問題は川崎市川崎区・横浜市鶴見区付近の産業道路周辺に根強く残っています。

goo」HPより

 このやりとりは、9年前にあった質問と回答(赤字は当方で)。

 今回はそこをはじめて歩いてみましたが、上記のような印象はありませんでした。かなり環境は改善されているようです。(なお、質問内容に「アスベスト」云々とありますが、喉が痛いこととの直接的な関連はないとみていいでしょう)。
 1972年、川崎市は、全国に先駆けて独自の「公害防止条例」を制定、「総量規制」方式による徹底した規制を行いました。それによって環境改善が進み、1973年当時45,879トンも排出されていた「二酸化硫黄排出量」が2011年現在では635トンと1.4%以下になっています。(「川崎市」HPより)

 そうした取り組みが現在の川崎市臨海部のようすになっています。と同時に、そういう苦難な歴史、現状のあることを忘れてはならないと思います。

 京急・産業道路駅で下車。現在、地下化工事が盛んに行われています。
工事概要図。小島新田~産業道路間は地下化される。
 さらに川崎駅側に立体交差(地下化)構想によって工事が進捗中。大師線も大きく変化するようすです。

「大師」と「総持寺」を結ぶ路線「鶴見臨港軌道」がない頃。すでに「浅野セメント」工場への貨物線は存在している。

「鶴見臨海軌道」が運行している頃。

B地点が現在の市電通りと産業道路との分岐点。「鶴見臨港軌道」は、「東京急行大師線」と表示されている。
 「小島新田」から伸びてきた線路は、「入江崎」付近が終点になっていることに注目。「小島新田」から臨海部を回って鶴見方向に向かう「大師線」はまだ存在していなかった。1945年になって、「小島新田」~「入江崎」~「桜本」が開通した。
 一方、川崎市は市電を計画、京急(当時は東急)・桜本駅付近まで線路を敷設した。「桜本」が市電と京急の乗り換え場所だった。
臨港鉄道が廃止され、さらに、京急から大師線「塩浜」(臨海部寄り)~「桜本」(A地点)間を買収し、市電が川崎駅前まで運行されていた頃(B地点が産業道路との分岐点)。

市電が廃止され、市電跡に貨物線が開通した頃。○は「浜川崎」駅。(以上「今昔マップ」より)


大師~総持寺間を結んでいた「鶴見臨港軌道」線の跡である道路。
産業道路駅にかけて工事現場のため、近づけなかった。
産業道路方向を望む。
産業道路付近は、会社の敷地内となっていく。

 線路は産業道路沿いに進んでいく(吸収されたのか)が、痕跡はなさそう。
「出来野」バス停。
来た方向を振り返る。

「観音橋」交差点。橋の跡らしく、少し道路が傾斜している。 

1880(明治13)年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。大師河原と池上新田(現池上新町)との境目に流れていた川が「観音川」と思われる。海側に「塩田」との表記に注目。
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京急・大師線。小島新田~桜本。その2。

2014-05-11 21:46:21 | 鉄道遺跡
 さらに南に進みます。道路沿いに緑地帯(線路跡・立ち入り禁止区域)が続きます。
「夜光」交差点。
交差点付近の緑地帯(線路跡)。
東側には運河が広がる。工業地帯。
ゴルフ練習場の東側に線路があった。ダンプカーなどが駐車してある敷地がかつての線路。






1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。中央右がゴルフ練習場。その下は、「入江崎水処理センター」。線路が西にカーブしていることが分かる。



 しばらく進むと、線路跡の道路・スペースは西にカーブしていく。
鉄道敷地特有の枕木を再利用した柵。
再び貨物線を渡る。



雑草に埋もれたブランコ。公園の南側には水路があった。

水路跡の緑地公園。かつての線路はもう少し南側にあったようだ。
水路跡を西にたどると、貨物の高架線にぶつかる。

 再び幹線道路沿いに戻ると、この緑道がかつての線路跡でした。


西に向かえば、旧「桜本」駅方向。

旧桜本駅方向から来た道(線路跡・緑道)を望む(画面中央奥)。
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