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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

中央本線旧線(鳥沢~猿橋)跡。その1。

2016-03-13 20:10:40 | 鉄道遺跡

 このところ、寒くてぐずついたお天気。いよいよ「碓氷峠」越えと思いましたが、そんなわけでなかなか行く機会がありません。
 3月12日(土)。この日も冴えない天気。横川に行くつもりで目覚ましはかけたものの、天気予報ではどうも行く気がしない。かといって家でぐだぐだするのも・・・。そこで、今回も廃線探訪ということにします。

 出かけたのは、中央線「鳥沢」駅から「猿橋」駅まで。

 かつてはこの区間、蛇行する「桂川」の左岸(北側)に沿うように小高い山間をトンネルと鉄橋で通過していました。
 1968(昭和43)年、「桂川」をもう少し南で渡り、西に伸びる複線の新ルートになり、単線だった旧線は、廃線となりました。その後、線路は撤去され、一部は宅地化されたり、堤も削られたして、藪の中にほとんど埋もれてしまって、ただ、トンネルなどはそのまま残っているところもあるようです。もちろん、立ち入り禁止ですが。

 では行ってみるかと思い立ち、と言っても、家を出たのが10時をかなり回っていました。中央線で高尾まで行き、そこから甲府行きの電車に(本数が少ないのでずいぶん待ちました。その分、高尾で駅そばを食べて腹ごしらえ。)こうして「鳥沢」駅に着いたのは、12時40分過ぎ。これから、午後、約4㎞の探索の道のり。

 ところで、旧道歩きには、関東圏・近距離ではアプローチにJR在来線を使っています。今回、高尾を出てから先、次々とトンネルをくぐり、間近にうっすらと雪化粧した山を望み、湖や渓谷を下に見ながら通過するのは、東海道線や高崎・信越線とはかなり違う印象です。

 帰りの車内は案の定、登山者がけっこう乗っていました(すこぶる元気なジジ・ババが中心)。これもちょっと趣が違っていました。相手の方々もこちらを登山帰りと思ったでしょうが・・・。

 そういえば、昔(もう40年以上も前)、「扇山」とか「百蔵(ももくら?)山」に登ったことがありました。日陰にはまだ雪が残っていた早春だった頃・・・。これらの山は中央線の北側の山。南側にある山にも行ったことが。「倉岳山」「高畑山」?にも。下車駅は「鳥沢駅」だったか、「猿橋駅」だったか。すでに記憶はもう薄れています。

 なお、「鳥沢」、「猿橋」はどちらも「甲州街道」の宿場町。「東海道」「中山道」(まだ途中ですが)に続き、一応、「甲州街道」にも足を踏み入れた、ということになりますか。

 無人駅の鳥沢駅を降りるととすぐに「国道20号線(この付近は、旧甲州街道でもある)」に出ます。

    
                   旧道らしい家並み(「鳥沢宿」)。

 街道、右手の「セブン・イレブン」の先に「上鳥沢宿」という案内表示と「明治天皇駐蹕地」碑。

    

注:「駐蹕(ちゅうひつ)」=天子が行幸の途中、一時乗り物をとめること。また、一時その土地に滞在すること。駐輦(ちゅうれん)。

 この碑の他にも宿場にまつわる史跡がありそうですが、今回はここから少し戻って、鳥沢駅を見下ろす跨線橋へ向かいました。神社をぐるっと回ると、現在の本線から旧線路(廃止された線路)が分岐していた箇所があります。そこがスタート地点(13:05)。

左奥が「鳥沢駅」。簡素な無人駅。

西側。奥から右に折れて行くのが旧線路跡。


       左手のアパートは線路跡の上に建っているか(向きからするとそんな印象)、その右側が線路跡?

棒杭。枕木の再利用?

振り返って望む。右手が現・中央本線。空き地が線路跡? 

 かつての線路沿いらしい道を進むと、崖下の「国道20号線」へ出てしまう。線路はもっと上の方(住宅になっている)を通っていたようです。

    

「大月総合体育館入口」の交差点から「鳥沢駅」方向を望む。
                                          左手の高台上が線路跡?

(13:15)国道をはさんで橋梁の頑丈な石造りの橋台。

目の下は、「桂川」に注ぐ支流の流れ。
                                この地域は、けっこう谷が入り組み、深くなっています。

    
              しっかりした橋台。国道を鉄橋で越えていました。

南を望む。遠くに「桂川」を渡る中央本線の電車。

 線路は左手奥の高台からこちらの高台へ向かっていたようです。
              

 この先は、私有地のようなので、その先はあきらめ、再び国道を西に向かいます。築堤の上の住宅地を東から西へ進んでいたのでしょうか?
                     

 築堤の上はこんな感じ。ちなみに「国道20号線」に合流する右下の道は、「旧甲州街道」。
                     
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深谷駅~旧煉瓦製造施設(日本煉瓦製造株式会社専用線)。その3。

2016-03-10 22:05:46 | 鉄道遺跡
 そろそろ、終着点に近づきました。正面の橋が「備前渠鉄橋」。その先が、かつての「日本煉瓦製造」の敷地になります。



国指定重要文化財
日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設 備前渠鉄橋(びぜんきょてっきょう)
                          重要文化財(建造物)
                          平成9年5月29日指定
 煉瓦輸送専用線用に架設された鉄橋である。
 創業当初からの輸送手段であった利根川舟運は安定した輸送力に欠け、燃料や製品の輸送に度々問題が発生した。これを解決するために建設されたのが本専用線であり、明治28年、深谷駅との間で日本初の民間専用線として運用を開始した。
 専用線には4箇所の鉄橋が架設されているが、唐沢川、福川、備前渠には、当時の鉄道院技師、イギリス人チャールズ・アセトン・W・ボーナルが基本定規をを設計したI字形鋼板を橋桁とする「ボーナル型プレート・ガーダー橋」が採用された。中でも本鉄橋は15.7メートル(約50フィート)と、専用線中最長の橋桁を有している。また分岐する用水路の架設された煉瓦アーチ橋は、長さ約2メートルと小規模ながら、完全な煉瓦構造と推定される貴重な構造物である。

 文化庁 埼玉県教育委員会 深谷市教育委員会

    

備前渠から望む。

                    用水路にある煉瓦アーチ橋。
    

 ところで、「備前渠」とは? 以下、「Wikipedia」より。

 埼玉県最古の農業用水路。 
 現在は本庄市山王堂地区で利根川より取水し、深谷市、熊谷市へ流れ、福川に合流し利根川へと流れる。途中、御陣馬川や小山川と流路を共有する区間がある。埼玉県北部では、親しみを込めて「備前堀」や「備前渠」、「備前渠川」とも呼ばれている。現在でも用水路には開削当時の面影を残す素掘りの区間が多い。総延長は約23キロメートル、最大通水量毎秒約9立方メートルであり、利根川の右岸一帯の約1400ヘクタールの水田へ用水を供給している。

《沿革》
1604年(慶長9年) - 江戸幕府の命令により、関東代官頭伊奈備前守忠次によって計画され、20数キロメートルにわたり水路を 開削し、備前堀と名づけた。当時は正確な地図も無く、水路を開削する場所を幾度も歩いて調査し、夜には提灯を使い、土地 の高さを測り、水が流れることを確かめたりもした。鋤や鍬等で掘り、かるこ、もっこなどで土を運搬した。
 その後、洪水で烏川の流路が変わり、取水口が壊滅する。
1783年(天明3年) - 浅間山の大噴火。岩石や流木などで川底は平均2メートルも上がった。それに伴い、現在の本庄市周辺で は度々洪水となった。
1793年(寛政5年) - 取り入れ口の締め切り。下流に水が来なくなり、水争いや裁判が行われた。
1818年(文政元年) - 用水が不足し年々米が不作となる。
1828年(文政11年) - 漸く取り入れ口の復旧工事が開始される。その後43日間で通水する。取水口は利根川や烏川の乱流域に 位置するため、その後二度も変更工事が実施されている。
1961年(昭和36年) - 現在の取水口が完成する。現在、用水路と施設の管理は備前渠用水路土地改良区が行っている。

《名称の由来》

伊奈備前守忠次によって計画されたことに由来する。渠は堀、人工河川などの中国風の呼び方である。

 伊奈 忠次(いな ただつぐ)の功績として、関東を中心に各地で検地、新田開発、河川改修を行ったことがあげられます。
 利根川や荒川の付け替え普請、知行割、寺社政策など江戸幕府の財政基盤の確立に寄与しその業績は計り知れません。
 関東各地に残る備前渠や備前堤と呼ばれる運河や堤防はいずれも忠次の官位「備前守」に由来しています。
 諸国からの水運を計り、江戸の繁栄をもたらした忠次は、武士や町民はもとより、農民に炭焼き、養蚕、製塩などを勧め、桑、麻、楮などの栽培方法を伝えて広めたため、農民たちからも神仏のように敬われていたといいます。

 専用線の線路はここから敷地内に進んでいたようです。
                  かなり広い「旧日本煉瓦製造」の敷地。
     

 線路跡の遊歩道はここで終点になります。
小広場にベンチなど。



 すっかり整地された頃のようす。

 2006(平成18)年に清算・廃業するまでは工場、建物が立ち並んでいたようですが、現在は「たつみ印刷」の建物と旧日本煉瓦製造関連の建造物(国指定重要文化財)が残っているだけです。↑が「日本煉瓦製造・ホフマン輪窯6号窯」。上方に「旧事務所」、「変電室」。道路をはさんだ北側の施設は、「深谷市浄化センター」。

    
             奥に見える高い煙突が「ホフマン輪窯6号窯」の煙突。

煉瓦塀沿いに進むんで行きます。

左手には「小山川」の堤、その向こうに「赤城山」。

 工場の一部として、「ホフマン輪窯」「旧事務所」「旧変電室」が残っており、国重要文化財となっています。それらは日本煉瓦製造株式会社の事業清算の際に、深谷市に寄贈されることとなり、平成19年度に所有権が深谷市へ移転しました。現在、市ではこれらの施設の保存・活用のための作業を進めています。
 ホフマン輪窯は、深谷市の旧煉瓦製造施設ホフマン輪窯6号窯の他には、栃木県下都賀郡野木町、京都府舞鶴市、滋賀県近江八幡市にそれぞれ1基が現存するのみで、全国では4基しか残されていない貴重なものです。

(「」HPより)

「旧変電室」。    

「旧事務所」。
    

 この施設は、「日本煉瓦史料館」になっていますが、閉館日のため中には入れず。
フェンス越しに。

  
                   「ホフマン輪窯6号窯」。(写真は「深谷市」HPより)

「小山川」の土手から「浅間山」(↓)。

 橋のたもとにあるお店の「自販機」でお茶を購入、土手でひと休み。

 遊歩道にはトイレは各所に設置されていますが、「自販機」はスタート地点の駅前にあるのみ。往復歩くことになる(基本的にはこうせざるをえない)ので、飲み物などの事前準備が必要です。
 こうしてひと休みをして、再び元来た道を「深谷駅」まで。往復約8㎞の道のり。
 よく整備された遊歩道で、ジョギングする人、散歩する人、犬を連れている人、自転車通学の高校生、荷台にネギを積んで通り過ぎる自転車、畑仕事をする人、・・・行きも帰りも地元の方々に出会いました。

 周囲に広がる田園風景を楽しみながら、のんびりと歩いた2時間30分でした。

    

※ 航空写真は「歴史的農業環境閲覧システム」より。
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深谷駅~旧煉瓦製造施設(日本煉瓦製造株式会社専用線)。その2。

2016-03-09 22:08:28 | 鉄道遺跡
 遊歩道(日本煉瓦製造専用線跡)は、「国道17号線」を歩道橋で越えて行きます。しばらく住宅地ですが、その先には畑地が広がってきます。

     
                                           振り返って望む。

    
                             次第に広がる畑地。

 「深谷」といえば、「深谷ネギ」が有名。駅前で食べたラーメンにも深谷ネギがたくさん入っていました。美味です。遊歩道の両側に広がるネギ畑。

    

 しばらく進み、「深谷中央病院」を過ぎると、「福川」にかかる「あかね橋」へ。かつては鉄橋でしたが、現在では新しい橋に架け替えられています。

     

左手遠くに浅間山(↓)。

 橋を越えた右手の公園に、専用線当時の「福川鉄橋」が保存されています。

    

    

福川鉄橋 深谷市指定文化財 昭和61年12月22日指定
 日本煉瓦製造株式会社専用線の福川に架設された鉄橋で、福川に架けられていたプレート・ガーダー橋と、その北側の水田の中に造られていた5連のボックス・ガーダー橋からなっていました。プレート・ガーダー橋は、全長10.1mで、明治28年(1895)の建設当初の姿をほとんどそのままに伝えており、現存する日本最古のボーナル型プレート・ガーダー橋です。
ボックス・ガーダー橋は、全長22.9mで、洪水のときに福川から溢れた水の逃げ場をあけておくために設けられたものです。当初は木桁でしたが、順治鉄桁に変えていったようです。
 ボーナル型プレート・ガーター橋は、イギリス人の鉄道技師、チャールズ・ボーナルの設計による鉄橋です。日本の近代産業革命期の明治28年から34年(1895~1901)に日本各地で建造されました。
 福川鉄橋は、日本の近代化を象徴する産業遺構として、極めて高い歴史的価値をもっています。
  深谷市  深谷市教育委員会

    

土台は煉瓦積み。線路も残してあります。

 この先も視界が広がって、畑の中を進みます。
    

 子どもの像があるところを過ぎて「国道17号・バイパス」の下をくぐります。
    

行く手の正面には「赤城山」。


2010年代のようす。

 のどかな昼過ぎ、のんびりと歩きます。左手に何やら果樹らしい木が並んでいます。横に伸びた太い幹は布で覆われ、そこから何本かの枝が上に伸びています。今まで見たことがなさそうな、・・・。想像もつきません。

    

 近くで農作業をしている方に思い切ってたずねると、「ああ、あれはイチジクだよ。うちの畑じゃないけれどね。」

 「イチジク」なら子どもの頃は庭に植わっているうちもあって、なじみ深いものでした。熟したものを食べたり、イボができると、葉っぱからでる白い汁を掛けると直るとかで塗った記憶もあります。まさかここでお目に掛けるとは思いませんでした。

イチジク
 「無花果」の字は、花を咲かせずに実をつけるように見えることに由来する漢語で、日本語ではこれに「イチジク」という熟字訓を与えている。
「映日果」は、中世ペルシア語「アンジール」(anjīr)を当時の中国語で音写した「映日」に「果」を補足したもの。通説として、日本語名「イチジク」はこれの音読「エイジツカ」の転訛とする。 ・・・
 伝来当時の日本では「蓬莱柿(ほうらいし)」「南蛮柿(なんばんがき)」「唐柿(とうがき)」などと呼ばれた。いずれも“異国の果物”といった含みを当時の言葉で表現したものである。
 日本には江戸時代初期、ペルシャから中国を経て、長崎に伝来した。当初は薬樹としてもたらされたというが、やがて果実を生食して甘味を楽しむようになり、挿し木で容易にふやせることも手伝って、手間のかからない果樹として家庭の庭などにもひろく植えられるに至っている。
 果実は生食するほかに乾燥イチジク(ドライフィグ)として多く流通する。
 生果・乾燥品ともに、パン、ケーキ、ビスケットなどに練りこんだり、ジャムやコンポートにしたり、スープやソースの材料として、またワインや酢の醸造用など、さまざまな用途をもつ。ほかにペースト、濃縮果汁、パウダー、冷凍品などの中間製品も流通している。日本国内では甘露煮にする地方もある。
 果実には果糖、ブドウ糖、蛋白質、ビタミン類、カリウム、カルシウム、ペクチンなどが含まれている。クエン酸が少量含まれるが、糖分の方が多いので、甘い味がする。食物繊維は、不溶性と水溶性の両方が豊富に含まれている。



(以上、「Wikipedia」より)

 が、見慣れていたのは、こんもりとした感じの、イチジクの木。こういう風に育てるとは知りませんでした。

HPより)

 この図でいくと、2年目以降の剪定の仕方、育て方なのですね。

 干して大きく丸めた藁束、収穫間近のネギ畑。満開の梅など春らしい道端の雰囲気を味わいながら進んで行きます。

    

    
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深谷駅~旧煉瓦製造施設(日本煉瓦製造株式会社専用線)。その1。

2016-03-08 20:15:32 | 鉄道遺跡
 「旧中山道」歩きで「深谷宿」に入ってすぐ、「国道17号線(現中山道)」を渡った先の右手に「常夜塔」があります。そこを斜めに横切る緑道。それが、「日本煉瓦製造専用線」跡だったようです。その時は、そのまま通過。
 今回、その廃線跡を歩いてみました。全線が自転車と歩行者専用の遊歩道「あかね通り」として整備されています。約4㎞の遊歩道。帰りはバスの便の本数が少ないため、往復するかたちに。自転車で行くのがいいようです。車内に持ち運びが出来る「おりたたみ自転車」が便利。
 が、今回は歩きで往復しました。ほどよい疲労感があって、とてもいい、と思いました。


1970年代のようす。←の道。中央・左手が「深谷駅」。

 そこで、「日本煉瓦製造専用線」について

 日本煉瓦製造株式会社は、かつて存在した日本の煉瓦製造・販売会社である。本社を東京に置き、埼玉で煉瓦製造工場を操業していた。

《沿革》
 明治政府は臨時建築局を設置し、ドイツ人建築家のヴィルヘルム・ベックマンとヘルマン・エンデをお雇い外国人として日本に招いた。彼らは都市整備のために良質な煉瓦、ならびにそれを製造する工場が必要であることを明治政府に進言した。これにより渋沢栄一らによって日本煉瓦製造が設立され、同工場が埼玉県榛沢郡上敷免村(現在の深谷市上敷免)に建設された。
 後に太平洋セメントの子会社となり、2006年、日本煉瓦製造は廃業を決定、清算された。会社清算に伴い、埼玉県深谷市にあった工場の諸施設は、すでに重要文化財に指定されていた「ホフマン輪窯」「旧事務所」「旧変電所」などを含めて所有権が深谷市に移転、同市によって保存・整備されることとなった。

《専用鉄道》
 工場は利根川の支流・小山川に面しており、製造された煉瓦は舟運により小山川から利根川そして江戸川に入り東京に至るというルートをとっていたが、輸送力向上を目的として1895(明治28)年に日本鉄道(現JR)「深谷」駅から工場までの約4.2kmにわたって専用鉄道が敷かれた。運行は1920年12月末時点で3往復が設定されていた。
 昭和後半からはトラック輸送がメインとなり、1975(昭和50)年3月に専用線は廃止となった。その後線路が撤去され、歩行者と自転車専用の遊歩道「あかね通り」になっている。

《日本煉瓦製造の煉瓦を用いた主な建築物》

・東京駅(東京都千代田区)
・中央本線万世橋高架橋(東京都千代田区)などの鉄道高架橋
・司法省(現在の法務省旧本館、東京都千代田区)
・日本銀行旧館(東京都中央区)
・赤坂離宮(現在の赤坂迎賓館、東京都港区)
・東京大学(東京都文京区)
・旧金谷レース工業鋸屋根工場(群馬県桐生市)
・信越線碓氷峠の鉄道施設(群馬県安中市)

《「日本煉瓦製造」関連(深谷市内)の国指定重要文化財》

・旧事務所 - 木造平屋建、瓦葺、1888年頃の建設(現在は日本煉瓦史料館として使われている)
・旧変電室 - 煉瓦造
・ホフマン輪窯六号窯 - 長さ56.5m、幅20m
・備前渠鉄橋

(以上、「Wikipedia」参照)

    
                              深谷駅・駅舎。

 「深谷駅」が出発点。この駅舎。東京駅丸の内駅舎の煉瓦が「日本煉瓦製造深谷工場」でつくられたものであることから、1996(平成8)年の改修に当たって東京駅の半分の大きさに模した煉瓦張りになっています。

コンコースの灯りもなかなか凝っています。

 周囲の建物で赤煉瓦仕立てのものも。
    

駅前広場には「渋沢栄一」像。

高崎線に沿って始まる線路跡は、「あかね通り」。

かつての本線からの分岐付近?

 遊歩道は自転車と歩行者ときちんと分けられ、その仕切りには煉瓦が並べられています。  


この付近から廃線跡に重なる道に。

 スタートしてすぐに越える「唐沢川」に架かる「つばき橋」。鉄橋をそのまま利用し、上に煉瓦で手すりを設置してあります。
    

プレート・ガーダー橋と土台の煉瓦積みはそのまま。

 廃線跡は高崎線から離れ、左にカーブしながらほぼ北に向かって進みます。ほとんど直線の道。道の真ん中には大きな木々が植えられ、住宅側には花を咲かせる低い木々が続き、よく整備された遊歩道です。
    
                                         0.5㎞ごとに案内表示。

                   

 しばらく行くと、ちょっと広いところに。ベンチもあって小休憩。この付近で貨車のすれ違いでもあったのでしょうか? 周囲も少しゆとりのある空間に。
    

 やがて旧中山道との交差点。旧深谷宿の常夜燈が建っています。これが中山道歩きの時に見かけた江戸方の常夜燈に当たります。

    

旧中山道(熊谷方向)。

廃線跡(遊歩道)からの「常夜燈」。


←が「常夜燈」付近。上方斜めの道が「国道17号線」。

※ 「写真」は、「歴史的農業環境閲覧システム」より。
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「相模運輸倉庫専用線跡」その3。(JR横須賀線「田浦」駅下車。)

2016-02-23 21:10:28 | 鉄道遺跡
 再び、「吾妻橋」まで戻り、西側に進みます。こちらも見所、満載です。上の写真は、西側から「吾妻橋」方向を望んだもの。

 しばらくすると、線路が復活します。
     
                                      振り返って望む。
                                      工事中で、線路は撤去されるかも知れません。

 その先に珍しい十字交差跡が、二箇所。その一つ、東側のもの。

    
 これは「田浦駅」方向から進んできた線路と東西に延びる線路(さきほど探索していた線路跡)とが交わる地点になります。

港方向に進む線路は草むらの中に消えています。

 道路をはさんで、すぐ西側にあるもう一つ。
     

 地図では港方向に進む線路はかなり長く続いていて、「海上自衛隊横須賀造修補給所比与宇倉庫(米軍箱崎燃料基地)」へ向かっているようですが、この先は立ち入り禁止のため探求できず。

     

 この二つの線路跡を振り返ると、道路の反対側(南側)にはかつての踏切の名残があります。


 田浦駅方向から進んできた線路は道路の向こうで3本に分かれ、一つはさらに東の方へカーブして進み、あとは2本に分かれてそのまま港側に直進していったことが分かります。
 そこで、道路を渡って廃線跡探索。「堀硝子」と「曙機械」との間の空間に当たります。 

線路は左右に分かれて進む。田浦駅方向を望む。

草むらに残された線路と施設。

     

さきほどの交差点方向を望む。

 ではここで分岐して左に行く(進行方向から見ると右に行く)線路はどうなっているでしょうか? 一部線路が残されいます。

「田浦」駅方向を望む。

道路側を望む。

右手には、かつて大きなサボテンが植わっていたようです。

「防衛施設庁」銘のコンクリート杭。

 東西を結ぶ線路と「田浦」駅方向から来た線路とが一緒になる地点にはかつては「転轍機」があったようですが、今は撤去されていて、合流地点は定かではなくなっています。

    
 東西を結ぶ線路。                         左からの線路と合流する地点(道路右)。

 実は線路はこの先、西にある「比与宇トンネル」の中に続いていました。この付近でスイッチバックしていたようです。今では完全に自動車、歩行者用のトンネルになっていますが、かつては線路だったようで、トンネル内で資材の積み卸し格納などが行われたいたそうです。

「比与宇トンネル」。

比与宇トンネル 
 比与宇トンネルは、戦前まで田浦駅(JR)構内からの軍事用引込み線のトンネルだった。周囲一帯は弾薬庫とその施設で、弾薬の積み降ろしは、このトンネル内で行われた。列車の軌道はトンネル内でスイッチバックして方向転換して長浦港倉庫街の東側に向かった。

現在、トンネル内には線路の痕跡は見当たりません。
    

 トンネル内にあるコンクリートブロックでふさがれた半円形は、弾薬などの貯蔵施設だったと言われています。トンネル内には何カ所かこうしたところがあります。その奥には地下室が今でも存在しているのでしょうか?



トンネルを抜けても自衛隊の施設がありますが、その先は「横浜ベイスターズ球場」があります。戦後、長浦港は捕鯨船の基地としても存在していました。大洋漁業などがあって、その跡地が今はベイスターズの野球場となっているわけです。
 現在の「横浜DeNAベイスターズ」の前身は「大洋漁業(まるは)」の実業団チームで、プロ球団として「大洋ホエールズ」となりました。

横須賀側出口。

 この地域は、明治以来、戦前、戦中、戦後と数奇な運命をたどってきた地域です。戦争遺跡、鉄道遺跡なども豊富。じっくり探索し、近代史を知る絶好のところです。歴史的遺産として保存して欲しいし、また、解説板なども設置していただくことをぜひお願いしたい。
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「相模運輸倉庫専用線跡」その2。(JR横須賀線「田浦」駅下車。)

2016-02-22 21:31:05 | 鉄道遺跡
 横須賀側のトンネルを抜けた線路跡はどこに行くのか? もちろん駅構内には入れないので、ぐるっと回って「吾妻橋」のところを右に折れて川沿いに進むと、朽ちた鉄橋を発見! 地図上だとそのままカーブして港沿いの倉庫群へ行く線路です。

    
 田浦駅方向。                           港方向。
           どちらも草ぼうぼうで、当然、立ち入り禁止。架線は残っています。

「吾妻橋」。
                               この付近は、道路も整備され、橋も新しくなっています。

 この橋の港側にかつて川を越えていた鉄橋のコンクリート台が残されています。眼の下の川の水は澄み通っていました。

    
                                東側。
西側。こちら側は不明瞭です。

 橋の東側にも西側にも線路が続いています。東に向かって線路跡をたどってみます。

草むらの中に錆びた線路。

これも関連するものか? 

線路跡が復活します。

「この地域は港湾作業場所につき関係者以外の車両の通行を禁止します
                                          長浦港湾事務所」

そこから西側(「吾妻橋」側)を振り返る。

 立て札を越えた先にも線路は続きます。右奥は「横須賀港湾合同庁舎」。



合同庁舎前にも線路。
                                     ここまでくると意図的に残してあるようです。

 左の線路は道路の縁に。枕木も残っています。まさにモニュメント風です。
    

この先で線路は二手に分かれます。

    

正面に進む線路は土砂の山でふさがれてしまいます。
    その突き当たりの右手に「解説板」のような立て札がありましたが、向きが反対で内容を確認出来ず。

 左手にカーブして進む線路跡をたどってみます。砂利で覆われてしまいますが、ところどころに線路が見えます。
    

 しばらく進むと、また二手に分かれるようです。線路が4本になります。
    

 右の線路は、正面奥にある「海上自衛隊艦船補給処」に向かいます。

    

 この施設は「旧海軍軍需部・旧海軍水雷学校」の跡地にある施設のようです。

注:「軍需部
   砲弾、魚雷、機雷などの兵器類から軍艦で使う燃料、食糧、被服までいっさいの軍需物資を工場などから集めて保管し、軍艦や前線に送り出すところである。

  「海軍水雷学校(かいぐんすいらいがっこう)
   大日本帝国海軍の水雷術(魚雷・機雷・爆雷)指揮官・技官を養成する教育機関(軍学校)である。初級士官を養成する普通科(少尉対象、海軍砲術学校普通科と合わせて1年間必修)、水雷術専門士官を養成する高等科(大尉・少佐対象、半年-1年程度)、下士官を養成する予科を設置し、海軍将校として必要な雷撃術・水雷艇や駆逐艦の操艦術・機雷敷設および掃海術・対潜哨戒および掃討術の技能習得、魚雷・機雷・爆雷・防潜兵器・索敵兵器の開発研究などを教育する。また、海軍通信学校が開校するまでは、水雷学校で無線電信技術の習得と研究を推進した。(「Wikipedia」参照)

朽ちた転轍機が見えます。

 そこから線路は4本になり、まっすぐ「旧海軍軍需部(現海上自衛隊補給処)」に向かっていきます。
    

 草むらの中に鉄路が続きます。その先は「補給処」の門。両側は「相模運輸倉庫」。
     

振り返って望む。

 この先は、構内に入っていく線路跡はなさそう。ジロジロのぞき込むわけもいかないので、引き返します。さて、「自衛隊補給処」へのところで左に分岐した線路は道路沿いに南に向かいますが、こんもり茂った木々と舗装道路によってその痕跡は見当たりません。



その分岐点付近から「横須賀港湾合同庁舎」方向を望む。
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「相模運輸倉庫専用線跡」その1。(JR横須賀線「田浦」駅下車。)

2016-02-20 21:58:12 | 鉄道遺跡

JR横須賀線「田浦」駅は「田浦梅林」の最寄り駅として今の季節は少しばかりの賑わいぶり。梅林には南側(山側・国道16号線側)へ向かいますが、北側(海側・長浦港側)に向かうと、倉庫街に。その中に廃線跡が点々とあります。けっこうマニアには知られたところ。
 「田浦梅林」へ向かう人とは反対に駅の北口側へ。こちら側は人通りもなく、お店も一軒しか見当たりません。倉庫と自衛隊の施設が点在する地域。
 
相模運輸倉庫専用線
 田浦駅から長浦港方面へ「相模運輸倉庫」が保有する専用線が分岐しています。この路線は長浦港に張り巡らされており、一部は在日米軍の施設である田浦送油施設へ続いていました。かつては、その施設から発送されるジェット燃料や周囲の倉庫からの飼料輸送などを行っていましたが、1998年より使用されていません。
 現在、路線は撤去されないまま存置されている箇所もあったり、朽ち果ててしまったところ、道路拡幅、舗装工事等で完全撤去されたり、アスファルトに埋もれてしまった線路など、廃線マニアには探究心をそそる廃線跡です。
 ただし、「相模運輸倉庫」はもとより、自衛隊の施設だったり、国有地だったりして、立ち入り禁止区域も多く、また、軍事施設もあって、むやみやたりに立ち入ったり、写真を撮るのもはばかられる場所もあります。カメラを片手に興味深そうに歩き回ったり、やたら建物や基地内部を撮ったりしていると誰何されることもありそうな、・・・そんな廃線跡探訪です。

横須賀側。左が専用線トンネル。

すでに使用されていません。

逗子側を望む。

    

改札口を出たところにある案内図。下方に専用線の線路。

 田浦駅は駅の両側がトンネルになっていて、特に鎌倉側は車両の一部がトンネル内になってしまい、乗降できません。
鎌倉側。

 人もほとんど見かけない階段を下りてくるとお店が一軒。「夜城」。営業しているのどうか定かではありません。


 道路を渡ると、こんな「相模運輸倉庫」の案内板が掲示されています。
鉄道線路が表示され、たくさんの倉庫が点在しています。

 「相模運輸倉庫株式会社」は、そのHPによれば、
 主に東京湾各港(横須賀・横浜・川崎・東京・船橋・千葉)での港湾運送荷役事業を行う会社で、完成自動車の輸出船積作業および原糖輸入作業等や船舶代理店業務、ポーター業務なども行っているようです。

 また、「田浦」地区は戦前から、横須賀海軍とのつながりの中で、発展してきたようです。以下「横須賀市」HPによると、

 横須賀の海軍工廠は明治から大正にかけて規模を拡大し、大正12年に横須賀海軍軍需部が新しく設置された。庁舎は、はじめ湊町(現在の汐入町1丁目)にあったが、さらに規模を拡大するため、田ノ浦海岸が海軍により買い上げられ、湊町から移転することになった。当時、この地区は長浦の村民が住んでいたため、立ち退かされた村民は、現在の国道16号線をつくるために移転させられた村民とともに、国道よりも南側にあたる現在の安針塚駅近くに移り住んだ。
 こうして、村民から買収した海岸地区の建設工事がはじまり、昭和2年、軍需部本部・倉庫等ができ湊町からの移転が完了した。これと並行して、国道から軍需部正門までの道路(現在の田の浦プール沿いの道)も整備された。長浦は、昭和になって、軍需部の湊町からの移転と国道の開通という2つの出来事により、町の姿は大きく変わっていった。国道の開通により、田浦全町と横須賀が結ばれ、軍需部で働く人も多くなった。
 軍需部というのは、砲弾、魚雷、機雷などの兵器類から軍艦で使う燃料、食糧、被服までいっさいの軍需物資を工場などから集めて保管し、軍艦や前線に送り出すところである。横須賀海軍軍需部の本部は田の浦に置かれ、JR田浦駅の裏にある数多くの倉庫が長浦倉庫と呼ばれていた。長浦(倉庫13棟、その他10棟)・比与宇(倉庫12棟、その他2棟)・田ノ浦(倉庫24棟、その他32棟)、郷戸・狢・日向地区、吾妻山・箱崎(重油槽16)の本部地区のほか、久里浜倉庫・池子倉庫・久木倉庫・大船倉庫などに分かれていた。正門は現在の野球場入口付近にあり、裏門はJR田浦駅裏にあった。長浦から引込み線があり、連日、貨車が出入りしていた。戦前・戦時中、軍需部前駅(現在の安針塚駅)から軍需部など海軍関係の施設へ通う人々で行列が続いたという。
 しかし、戦争が激しさを増してくると軍需部付近(現在の長浦1丁目など)の民家は「建物疎開」で強制的立ち退きをさせられ、他の土地へ引っ越ししなければならなかった。また向かい側の山に防空壕が掘られ、倉庫と従業員の避難場所とされた。
戦後、軍需部等軍の施設は進駐してきた米軍が使うことになり閉鎖されたが、1年足らずで日本に返され、昭和21年には、東京湾倉庫(後に相模運輸倉庫)、その後、大洋漁業、横須賀メリヤス工場などの民間会社が旧海軍施設に進出し操業をはじめた。長浦は、軍港長浦から平和産業の会社などのある新しく活気のある町となったが、現在は、捕鯨禁止の影響をうけ大洋漁業が去り、その後横須賀メリヤス工場もなくなった。付近は海上自衛隊や米海軍に使用され、一部横浜ベイスターズ球場などになっている。

 上記の通り、 JR田浦駅北口・海岸地区一帯は、戦前、海軍により明治37年水雷術練習所の建物などがつくられ、さらに大正8年海軍工廠造兵部の長浦倉庫(のちの軍需部長浦倉庫)と海軍水雷学校の拡張工事の敷地となったところ。長浦湾の岸壁にそった倉庫地帯は、旧海軍軍需部の、主に兵器庫があったところで、いまでも軍需部当時の古い建物が多く残っています。
戦後、旧軍需部の倉庫群は、現在、相模運輸倉庫(株)などの倉庫会社や長浦港湾施設に使用され、また比与宇火薬庫は、現在も海上自衛隊が使用しています。
 廃線跡だけではなく、建物などの戦争遺跡が残された地域でもあるようです。

 こうした予備知識をもとにしての探索ですが、ちょっとの時間で、というわけにはいかないようです。

「相模運輸倉庫F号倉庫」。
 大正6年に旧海軍の倉庫として造られた。終戦直前には軍需部修理場として使われた。レンガ・コンクリート製だが、モルタル塗りのためわかりにくい。現在も倉庫として使用されている。

 この他にも、旧海軍当時の倉庫が残されています。

    

    



 そして、それぞれの倉庫に関連しての物資輸送の鉄道が敷設されていたわけです。

「相模運輸倉庫」。

 建物にしても廃線にしてもあえてこうして残しているのは、横須賀市の(あるいは市民の)戦争遺跡保存という考えがその根底にあるのかもしれません。
 一方で、日本中、至る所にあれだけの大空襲を行った米軍。中でも横須賀基地は明治以来の日本海軍の重要な拠点港。その猛攻撃のなかにあって、海軍関連の建物や線路を残したのは、日本の敗戦、その後の占領による有効支配という深謀遠慮が働いたのに違いありません。用意周到なアメリカの空襲作戦だったのでしょう。おかげで横須賀周辺にこのように戦争遺跡が数々残されていることに。
 もちろん、そのために、(横須賀は1年足らずで返還されたようでが)首都圏では立川基地、横田基地、池子などの横須賀周辺地域に長期間に亘る膨大な土地を占拠する米軍基地の存在(一部は、その後の自衛隊の基地化)という事態を生んだわけです。



1970年代のようす。左手トンネル先のJR横須賀線「田浦」駅から分かれてカーブを描いて北西に進む線路。



現在のようす。線路跡が緑に覆われていますが、地図上で跡をたどれます。倉庫も同じように多くあります。
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ぜひ線路跡を有効活用に。河川敷、森、鉄橋、・・・。魅力的です。 

2016-02-11 12:12:29 | 鉄道遺跡
「安比奈線」復活せず 西武鉄道、車両基地計画を中止

 南大塚駅から入間川河川敷まで続く「休止」路線。ようやく結論が出たようです。一度歩いたことがありますが、今後、どう活かすか? 線路や電柱なども完全撤去になっていくでしょう。今のうちに探索した方が宜しいのでは。

 出かけた時の記事と写真を数点紹介して、「安比奈線」のお別れに。

西武・安比奈線をたどる。西武新宿線・南大塚駅下車

(2014.11.15~掲載)

 「廃線」(西武としては「休止線」という扱いだが)探索として都心から近く、最寄り駅の「南大塚」(西武新宿線「本川越」の一つ手前)からはレールをたどり、迂回しながら歩いて、「安比奈」駅まで約1時間ほどで着けます。
 住宅地の生活感あふれる裏道沿い、田んぼや畑のあぜ道、農家の軒先、鬱蒼とした森の中、川原の荒野の中、と行く先々で変化に富んだ鉄道風景を堪能できます。
 特に、晩秋の枯れた世界。朽ちた鉄橋がいくつもあり、蔦に絡まれて電柱が立ちすくむ風景あり、TVの撮影現場跡あり、「まむし注意」多数あり、・・・など充分楽しめました。
 もちろん、がっちり柵があって、「立ち入り禁止」の看板が随所に立っているので、そこはほどほどに・・・。
 ただし、バスの便も悪く、タクシーか(行きは駅前から乗れるが、帰りはまずつかまらない)行き帰りとも歩かなければならない、ゆっくり探索していくと往復3時間くらいは必要かもしれない。
 そういう意味でも、「廃線」探索の面白さ・妙味が充分あるところです。

      

     
 
    

     

 森を抜け、道路を越えると、鉄橋。この森の道は、整備された遊歩道。しかし、「まむしに注意!」 の看板が随所に。

                     

 この道は、川越が主舞台となった2009年(平成21年)上期のNHKの連続テレビ小説『つばさ』の番組放送に合わせ、2009年(平成21年)4月から9月末日までロケ地が「遊歩道」として開放されたところのようだ。5年も経って、忘れ去れてしまったのか?  
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銀座に唯一残る「踏切信号機」。

2015-09-23 20:13:06 | 鉄道遺跡

 「旧新橋停車場」から少し行ったところ、「海岸通り」の「蓬莱橋」交差点を渡った「銀座郵便局」の横に「信号機」が残されています。
 これは、当時にあった踏切に設置されたもののようです。

         

浜離宮前踏切 中央区銀座八丁目21番1号先

 この信号機は、昭和6年(1931)から昭和62年(1987)1月31日までの56年間、国鉄汐留駅と東京と中央卸売市場築地市場との間を貨物引込線の踏切用として使用されました。
 最盛時には、1日150輌に達する貨物車が通過しましたが、貨物輸送の変化に伴い、汐留駅廃止と共に引込線も撤去される事になりました。しかしながら、地元民の要望により、銀座には珍しい鉄道踏切信号機として、保存されることになりました。

        昭和62年(1987)12月

「築地市場」方向に向かって引き込み線がありました。
    

「海岸通り」方向を望む。



保存理由

 元この高速道路の下には汐留川が流れ、鉄橋も架っていました。
 汐留駅は、わが国の鉄道開業当時における始発駅の新橋駅でしたが、大正3年(1914)東京駅が中央駅になると、ここは貨物駅になりました。大震災後、築地に東京市中央卸売市場が完成すると、汐留駅と市場間に荷物運搬のための線路がしかれ、大きな働きをしたのです。
 都民の暮しの台所を支えて来たこの信号機を、国鉄廃止に当り捨て去られるのにしのびず、東京都中央卸売市場築地市場、東京都第一建設事務所並びに中央区教育委員会、地元各位の多大な御協力に依り、ここに永久保存されることになりました。

  昭和62年(1987)12月 銀座御門通り会 銀座金春通り会

              




 1970年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。引き込み線が写っています。↓が「信号機」のところ。
 「旧汐留駅」跡地の高層ビル街。さらに「築地市場」も移転となると、この周辺は大きく変貌してきます。その中で「浜離宮」(左下のところ)のみ、以前と変わらぬたたずまいを見せています。中央の工事中の敷地は、「朝日新聞社」となります。
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「旧新橋停車場」。「鉄道歴史展示室」。

2015-09-22 22:14:54 | 鉄道遺跡

 2003年(平成15年)に開館した「旧新橋停車場」「鉄道歴史展示室」。日本橋から品川までの「旧東海道」歩きの途中で寄ってきました。

 どなたにも気軽に利用いただける無料の展示室です。日本の鉄道発祥地である汐留の歴史をご紹介するとともに、明治期に日本の近代化を牽引した鉄道の発展と影響を、様々な事物を通じてご覧いただけます。

企画展のご案内 第38回企画展 温泉と文芸と鉄道 2015年8月4日(火)~11月23日(月・祝)
 130年前、1885(明治18)年に日本初の温泉療養センターといえる医学的施設 が熱海温泉につくられました。小田原~熱海間の交通といえば、1896(明治29)年に、豆相人車鉄道(ずそうじんしゃてつどう)がようやく全通したという時代です。 例えば、明治の大ベストセラー尾崎紅葉の「金色夜叉」は、1897(明治30)年の元旦から讀賣新聞に連載され好評を博しましたが、小説の場面に描かれた熱海の海岸や梅園は、全国的に有名になり一躍人気スポットとなったほか、塩原温泉や箒川(ほうきがわ)の渓谷も「金色夜叉」の舞台として名声を高めていきました。 本展では、“温泉”“文芸” “鉄道”をキーワードとして見えてくる時代や景色を、主に関東周辺や花巻を中心にご紹介してまいります

以上「」HPより)

 館内は、こじんまりとしていますが、上のようにかつての鉄道草創期のようすなどパネルや映像で紹介しています。けっこう興味ある資料が多く展示されています。館内は写真撮影は禁止なので、具体的な内容は実際に出かけてご覧になるといいです。

            

 1872年10月14日(明治5年9月12日)に日本最初の鉄道路線の起点として開業した新橋駅(初代)。リチャード・ブリジェンスの設計による木造石張り2階建ての西洋建築の駅舎があり、長らく東京のターミナル駅として機能していた。また1873年(明治6年)9月には、当駅と横浜駅(初代・現在の桜木町駅)との間で日本初の貨物列車の運行が開始された。1日1往復の運行で、イギリス製の有蓋車や無蓋車を使用していたという。
 しかし、1914年(大正3年)12月20日に旅客ターミナル駅の機能が新設の東京駅に移り、旅客営業が廃止された。駅構内が広大だった当駅は貨物駅として再使用されることになり、汐留駅と改称し、同時に、電車線の駅であった烏森駅が、新橋駅(2代目)と改称している。
 1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災により開業時からの駅舎は焼失し、しばらく後になった1934年(昭和9年)3月に鉄筋コンクリート2階建ての駅舎に建て替えられた。
 1959年(昭和34年)に当駅 - 梅田駅間で日本初のコンテナ専用貨物列車「たから号」が運転されるようになり、1964年(昭和39年)には小荷物取扱を開始した。
 東海道・山陽方面へ向かう貨物列車・荷物列車のターミナル駅として君臨し続けたが、荷物輸送が宅配便の登場で衰退し、貨物輸送はコンテナ列車中心に変化していく。
 駅敷地が狭く増加するコンテナの取扱量に対応できず、やがて鉄道による荷物輸送が1986年(昭和61年)11月1日に廃止されると、東京貨物ターミナル駅(1973年開業)に機能を譲り、汐留駅もその長い歴史に幕を閉じた。

3代目歌川広重「新橋ステイション」

浮世絵に描かれた開業当初の駅舎

1872年10月14日(明治5年9月12日) - 新橋駅(初代)として開業。初日は式典と明治天皇御座乗特別列車の運行のみで営業は翌日から。
1873年(明治6年)9月15日 - 貨物の取扱を開始。
1914年(大正3年)12月20日 - 東京駅開業に伴い旅客営業を廃止、汐留駅に改称。
・・・

(以上、「Wikipedia」参照)



 1880年(明治13年~)代のようす。「新橋停車場」時代。「汐留川」がある。



 1970年(昭和45年~)代のようす。「汐留駅」が健在の頃。「汐留川」は埋め立てられ、首都高に。

 跡地は、1996(平成8)年12月10日に「旧新橋停車場跡」として国の史跡に指定された。発掘調査の後、風化を防ぐために埋め戻され、2003(平成15)年、その上に開業当時の駅舎を再現した「旧新橋停車場」が建てられました。 
 また、建物の裏手には、復元された開業当時の線路と、鉄道の起点であった「0哩(マイル)標」が当時と全く同じ位置に再現されています。

    

                       

0哩(ゼロマイル)標識

 1870年4月25日(明治3年3月25日)、測量の起点となる第一杭がこの場所に打ち込まれました。1936(昭和11)年に日本の鉄道発祥の地として0哩標識と約3mの軌道を復元しました。1958(昭和33)年10月14日、旧国鉄によって「0哩標識」は鉄道記念物に指定され、1965(昭和40)年5月12日、『旧新橋横浜間鉄道創設起点跡』として国の指定史跡に認定されました。

創業時の線路

 創業当時、枕木やレールの台座(チェアー)は小石や砂の混じった土を被せられ、レールの頭だけが地表に出ていました。レール断面は上下対称のI型で、双頭レールといいます。この復元軌道の半分は小石を被せて当時に近い状態を再現し、残りは枕木や台座が見えるようにしました。双頭レールは錬鉄製で、1873年にイギリスのダーリントンで作られ、官設鉄道で使われたあと、新潟県柏崎市の精油所で使われたもので、新日本石油株式会社、新日本石油加工株式会社の両者からご寄贈いただきました。

    

プラットホーム

構造
 プラットホームは「盛土式石積み」という構造で作られています。両側面の真下には、溝状に地面を掘って基礎石を敷詰め、その上に切石を石垣のように積んで土留め壁が作られ、内側には土が詰められました。基礎石には龍野藩脇坂家・仙台藩伊達家両屋敷の礎石などが使われました。切石は笠石を含めて6段あり、地表には笠石を含めた上3F段が出ていました。最下段部分は小口面をそろえて横に並ばせ、2段目から小口面と長手面を交互に並べて積んでいます。ただし、市立に小口面と長手面が交互になっているわけはでなく、2・3段目では小口面が続く個所もあり。4・5段目では長手面が並ぶ個所もあります。

規模
 プラットホームの全長は151.5mありました。再現されたのはそのうち駅舎寄りの25mです。遺跡指定の範囲に残されているプラットホームの遺構は35mです。

地中に眠るプラットホーム部分。

                


建物に併設されて「BEER DINING 銀座ライオン 汐留店」があります。
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旧手宮線をたどる。その2。色内驛。小樽駅舎。・・・(小樽。その5。)

2015-05-12 22:01:03 | 鉄道遺跡

 次第に小樽運河へ向かう広い道路との交差点へ向かいます。途中ところどころにかつての小さな踏切が残っていて、今も生活路として利用されているようです。
               

複線だった線路は単線で残されています。

    

旧国鉄手宮線

 明治13(1880)年、北海道で初めての鉄道として開通した「官設幌内鉄道」が、運営は安定せず、その後「北有社」に運営を委託します。
 明治22(1889)年、石炭生産と輸送を(の)一体化をめざし北海道炭礦鉄道(北炭)が設立され、幌内鉄道を引き継ぎます。北炭は空知地区の炭鉱と小樽・室蘭を結ぶ路線を増強し、石炭輸送は飛躍的に増加しました。
 明治39(1906)年、鉄道国有法が施行され、北炭の鉄道部門と北海道鉄道(後の函館線)は国有化され、明治42(1909)年、手宮―小樽(現南小樽)間は「手宮線」となり、輸送量増強のための複線化もこの頃実施されます。
 しかし、太平洋戦争の影響で、旅客扱いを廃止し、複数部分の線路も供出されてしまいました。戦後一時期旅客運転は再開されますが、複線部分は復元されず昭和62(1987)年の廃線まで単線での営業が続きました。
               小樽市

 沿線には古いレンガづくりの建物が残されて今も活躍中です。
    
 「踊場 ミレー」。賑やかなかけ声が。                 「COFFEE JAZZ」。  
 
 沿線には、ところどころに小樽市が設置した旧手宮線についての来歴などの解説板が設置されていて楽しめます。

    

旧手宮線

 旧手宮線は北海道の最初の鉄道です。明治政府は日本の近代化を図るため、石炭などの北海道の貴重な地下資源に注目し、その開発と輸送を目的に鉄道建設に着手しました。そして明治13(1880)年、北海道最初、日本で3番目の手宮線(手宮~札幌、後に三笠まで延長)が開通しました。
 北海道の鉄道工事は、アメリカの技術によって進められ、蒸気機関車もアメリカから輸入されました。

 小樽運河に向かう人の通りも車の通りも賑やかな広い道路にもレールが残されています。
    
                                 「一時停止の必要ありません 旧手宮線(歴史的遺産)」。                                  
                                     右の写真で、中央正面奥が「小樽駅」。

信号機などもそのまま保存。

旧「色内駅」方向へ向かいます。
                自転車などは乗り入れ禁止です。親子連れなどが線路上を歩いています。
                   

「色内驛」。

「色内駅」周辺は日本銀行をはじめ、多くの金融機関が軒を連ね、「北海道のウオール街」と称されるほど賑わいがあったそうです。昭和36年(1961)10月に駅が廃止されました。

そこから振り返る。

 その手前の線路沿いには、朽ち果てたような家屋が並んでいます。

    

線路は、道路を越えてまだ続きます。  

               
                        右手は「小樽美術館」。

今にも遮断機が下りてきそうな雰囲気。

しばらく進んで、振り返る。 

 その先のところで線路跡は終わって、南小樽駅へとJR敷地内を進んで行きます。レールのようなものが置かれてあり、まだまだ探索できるようですが、ここまで。

                            

小広場風になっています。振り返る。

旧手宮線

 明治13年(1880)10月24日。アメリカから輸入された蒸気機関車「弁慶号」が試運転を行い、人々に初めて公開された日です。
 無事、試運転を終えて1ヶ月後の11月28日、北海道で最初鉄道が手宮と札幌の間に開通しました。開通当時は1日1往復で、停車場は手宮・開運町(今の南小樽)・銭函 札幌の4カ所、料金は(手宮~札幌)は上等1円 所用(要)時間は3時間でした。
 当時の多くの資料は「小樽市総合博物館」に展示されています。
 
 こうしてまた元の道を戻り、再び小樽駅に着きました。

 現小樽駅舎(三代目)は上野駅をモデルに、昭和9年(1934年)に竣工。国の登録有形文化財になっています。なかなかの風格を感じさせる建物です。

                        
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北海道鉄道起点(ゼロ・マイル)。旧手宮線跡。手宮駅。桜吹雪。・・・(小樽。その4。)

2015-05-11 21:18:56 | 鉄道遺跡

 信号機などもそのまま保存されています。

        
                 「機関車庫」付近の全景。右手奥に「蒸気機関車資料館」があります。

 場内の中央広場付近にあるのが、「北海道鉄道開通起点標」。



北海道鉄道開通起点標 準鉄道記念物 指定第3号

 1880年(明治13)1月8日、手宮から着工した鉄道工事は、同年11月28日(注:軽川という駅名が欠落か? )まで開通。北海道で最初の鉄道がここから始まりました。
 北海道の鉄道がこの地から生まれたことを記念して1942年(昭和17)、手宮駅の構内に起点標が建てられ、1966年(昭和41)、後世に伝えるべき鉄道文化財として、旧国鉄により準鉄道記念物に指定されJR北海道に引き継がれました。
 この起点の中心点が北海道における鉄道起点(ゼロマイル・ポイント)となります。

                                 

                         「鐵道開通起點 鐵道大臣 八田嘉明書」。


                         

 本道鐵鉄道ノ創業ハ明治ノ草創開拓使ノ企画ニ成リ石炭輸送ノ目的ニ併セテ将来全道ニ敷設セラルヘキ鐵道ニ連絡セシムル計畫ノ下ニ起工セラレ明治十三年十一月十八日此ノ地ヲ起点トシテ手宮經川間ノ開通ヲ見ルニ至ル是レ実ニ本道鐵道ノ創始ニシテ開拓ノ業亦之ニ據リテ大イニ興ル所トナレリ
茲ニ近藤仙太郎氏之カ記念碑ヲ建立シテ寄贈ス乃チ本日除幕ノ式ヲ行ヒ偉業ノ跡ヲ永ク伝ヘンコトヲ庶フ
  昭和十七年十二月十二日
    札幌鐵道局長       濱野信一郎撰
    札幌鐵道局総務部文書課長 赤木  渉書

注:新橋~横浜、大阪~神戸に次ぐ日本で3番目の鉄道線路。

マンホールにも蒸気機関車の絵柄。

 さて、ここからいよいよ「手宮線」をたどっていきます。

 その前に「手宮線」とは?

    
 「幌内鉄道」路線図                              「手宮線」の現状図。              
(http://www.tetsuhai.com/temiya.htmlより)               (「小樽市」HPより)

「転車台」。その向こうが市街地になります。

道路上にそのまま残されたレール。

「南小樽駅」方向に向かってほぼ直線の線路が続きます。

次の道路上から「博物館」方向を振り返る。
                               雑草の中に埋もれつつある線路。

運河沿いにあるレンガ造りの倉庫の裏手を走っていました。
                                         左手の建物は「旧日本郵船小樽支店」。

        線路と交差する道路脇にある「喫茶 北運河」。       

その先は、線路伝いに遊歩道になっています。
                                 モニュメント(レールエンド)。 

    
                                      振り返って望む。 

     

旧手宮駅(旅客専用)

 明治13(1880)年、石炭輸送のために開通した幌内鉄道は、明治22(1889)北海道炭礦鉄道となります。開通当初は出炭量も少なく、工場、操車場と同じ敷地でも貯炭設備は十分な広さがありました。しかし、明治20年代からは、空知地区の炭鉱開発が進み、次々と石炭を満載した貨車が到着するようになると、手宮駅構内は手狭になっていきます。
 明治39(1906)年に国有化されると、石炭輸送優先のため手宮線の旅客扱いを停止してしまいました。しかし、住民の反対も多く、複線化を行った後、大正元(1912)年8月、この場所に旅客専用の手宮駅が作られました。もとの手宮駅は貨物専用駅として、現在の小樽市総合博物館の場所に併置されました。当時鉄道職員は二つの手宮駅を区別するため、旅客専用の駅を「石山」と呼んでいたといわれます。
 第二次世界大戦がはげしくなった昭和18(1943)年、旅客取扱いが中止、単線にもどり旅客専用の手宮駅は廃止されます。
              小樽市 

案内図(↑が「旧手宮線」)。 

    
                  左手の崖がかつての線路らしい雰囲気を残す。  

線路際のサクラがちょうど満開。
    

                              
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小樽市総合博物館。旧手宮駅。転車台。機関車庫。・・・(小樽。その3。)

2015-05-10 23:49:57 | 鉄道遺跡

 運河沿いの探索もそろそろ終了。ほとんど人通りもなくなった道を進みます。左手にある「鱗友朝市」までの道にもまだ魅力的な倉庫群。

 「旧右近倉庫」、「旧広海倉庫」、「旧増田倉庫」。それぞれ特徴があり、それぞれまた現役で荷物の出し入れを行っています。

    
                      「旧増田倉庫」。外壁の文様がすばらしい。

    
                      「旧広海倉庫」。手前には新しい事務所があります。


    
                   「旧右近倉庫」の外観。壁の上部には持ち主を示す印があります。

 ここまで来ると、ほとんど人通りもなくなってきます。道なりに進みましたが、お目当ての「小樽市総合博物館」の入口が見当たりません。はて? 列車や貨車が置いてあるのは見えるのですが・・・。
 しかたなく道を戻ると、「マックスバリュー手宮店」の大きな建物が右手奥に見えます。交差点を右に曲がって、その駐車場の前を行くと、右手に「小樽市総合博物館」。大きな車輪のモニュメントと「転車台」が目に飛び込んできます。
 その右が「手宮口」の入口(後から「パンフレット」を見ると、この入口は「夏期のみ」で、さっきの道を戻らずにもう少し先に行ったところが「正面入口」だったようです)。いずれにしても、よかった! よかった!

「転車台」。

    
                  機関車の動輪と巨大な「指差し確認」モニュメント。

 熱い思いが刻まれています。

 北海道鉄道発祥の地 小樽
 先人の夢 希望 願いを乗せ
 ここゼロマイルの地 手宮より
 切り開かれていった北海道
    今 新たなる起点
   未来への翔きとして
 記念モニュメントを贈る
 
 1988・9・2 


               「北海道鐵道發祥驛」碑。「手宮口」手前、左手にあります。

北海道鉄道発祥驛

碑の背景コメント

 北海道の鉄道は1880年1月に着工され、11月に開通した手宮-札幌間が最初である。
 この鉄道は幌内で産出された石炭を船に積み込める場所まで輸送することを目的として建設された。
 当初は幌内から江別付近の石狩川までの計画であったが、江別付近は湿地が多く川舟への積み替え設備建設が困難なこと、石狩川の凍結により半年間は川舟による輸送が困難なこと、貨車から川舟、川舟から道外に移送する舟へと積み替えの手間がかかること等から小樽-幌内間を直接鉄道で結ぶこととなった。
 この為、鉄道は港のある小樽から札幌、幌内へと伸延された。 この為、最初に設置された駅が小樽であり、ここに発祥駅碑が建立された。

基本情報

 所  在  地 : 小樽市手宮 小樽交通記念館手宮口左側(注:現在は「小樽市総合博物館手宮口左側」)
 マップコード : 493720757*02
 建  立  日 : 1949年11月18日
 建  立  者 : 手宮駅旅客取扱復活期成同盟会
 種     別 : 発祥碑
 撮  影  日 : 2004年 7月

碑  文

 北海道の鐵道發祥地は手宮驛である
 その由来は明治六年に北海道開拓長官黒田清隆が幌内煤田採掘の計画の下に技師を派遣して調査研究させた結果に基づきまづ幌内幌向太間は鉄道を建設し幌向太からは石狩川を船で川口に下り小樽に運送する計画を樹てた事に始まる
 明治十二年三月に線路の測量が開始されたが偶々冬季河水の凍結石炭積替の手数等のため不利であろうとの意見が出て鐵路により直接小樽港手宮に運送する事が最も有利であると認められ幌内手宮間五十六哩の一部手宮札幌間の鉄道が敷設される事となった 明治十三年十一月十八日遂に手宮輕川間が開通し列車は辨慶号機関車をもって運轉された
 ついで同月二十四日に札幌まで開通し更に命じ十五年末に札幌幌内間が竣工しここに手宮幌内間が全通した
 以後鐵道は逐次延長されて今日の發展を見たのである
 その第一歩は正しく手宮驛からであつて北海道の鐵道發祥地と稱する所以である
 しかるにこの由緒深い手宮驛の旅客取扱が太平洋戦争酣の昭和十八年十月に國策によつて廢止された
 以来市民は尠からず不便を感じていたが二十年八月終戦を迎えると共にこれが復活の聲は油然く起こった
 ここにおいて有志は手宮驛旅客取扱復活期成同盟會を結成し會長に西富士松を推して運輸當局に復活請願を續け幾多の迂余曲折を経て二十三年十一月十日に列車は漸く南小樽驛まで復活した
 しかし乗換のための不便が頗る多く重ねて直通列車運転を要路に懇請した結果二十四年九月から岩見澤驛まで二往復の直通列車の運轉を見るに至ったのである
 これを機會に手宮驛の由来に併せて長年月に亘り献身的努力を画した西會長の偉大な效績を勒し碑を建立して記念とする


碑文意 (略)

(以上、碑の背景、基本情報及び碑文は「歴史の一部となった鉄道(保存されている鉄道車両と鉄道関連の記念碑)」〈hozonsharyou.web.fc2.com/Monument/K01Holtukaidou/Otaru2.html〉HPより引用)

 この方のHPには、北海道のみならず全国を飛び回っての膨大な実地踏査に基づく保存車両、記念碑等、鉄道に関する貴重な資料が満載されています。並々ならぬ行動力と探究心には驚きです。
 今回の碑も近づいて何枚か撮ってはみたものの、携帯写真の悲しさ、限界。刻まれた文字の不鮮明な個所が多く、碑文の解読・詳細は分かりませんでした。先人の労作に深く感謝しながら、今回、参考にさせていただきました。

    
               前広場の全景。視界が開け、たくさんの鉄道車両の姿が。

    
        「手宮駅」乗り場。             ホームには北海道で活躍した鉄道車両が並んでいます。

    
                     車内にも入ることができます。

    
 夏期には、アイアンホース号―明治42(1909)年にアメリカのHKポーター社で製造され、中米のグァテマラや北米で活躍したのち小樽に来た―が客車を引いて構内を走り、転車台でぐるりと回る、らしい。

      

HPより)

    
                   車両の種類や形式などまったく不如意なのが残念。マニアには垂涎の車両群。
                         

    
                          転車台と機関車庫

      

                    

国指定重要文化財 旧手宮鉄道施設   平成13年11月14日指定

 旧手宮鉄道施設は、明治13(1880)年11月に開通した「幌内鉄道」(北海道で最初)の起点である旧手宮駅構内にあり、機関車庫(一号、三号)転車台、貯水槽、危険品庫、擁壁などから構成されています。旧手宮駅は開拓に必要な生活物資および生産資材などの道内各地への輸送、石炭をはじめとする道内各地の産物の道外輸送にかかわる海陸交通の拠点として発展を遂げました。
 現在、蒸気機関が主流であった時代の鉄道施設が残る場所としてわが国の鉄道技術発展を示すとともに、日本近代史上における北海道の役割や、産業形態などを考える上でも重要な近代化遺産となっています。
 なお、昭和35(1960)年日本国有鉄道は機関車庫三号を鉄道記念物に指定し、その後JR北海道に引き継がれましたが、平成13(2001)年4月、文化財として保存するために小樽市に譲渡されました。

                     小樽市教育委員会
                          

機関車庫一号

 明治41(1908)年頃の建築。壁面レンガはイギリス積みです。当時、増え続ける輸送量に対応するため設けられた機関車庫で、建築当時は5線分の間口でしたが昭和初期に数が減らされ、現存するのは東側の2線部分のみです。他の3線部分は平成8(1996)年に復元されました。
           小樽市教育委員会

注:レンガの積み方
 建築構造としての積み方にはフランドル積み(フランドルはベルギー全土からフランス東北部の地名。日本では明治期に「フランス積み」と誤訳された)、イギリス積みなどがある。
 正面から見たときに、一つの列に長手と小口が交互に並んで見えるのがフランドル積み。一つの列は長手、その上の列は小口、その上の列は長手、と重ねてゆくのがイギリス積みである(下図・濃淡は小口と長手の区別のため便宜的につけたもの)。
         
 フランドル(フランス)積み。        イギリス積み。
(以上、「Wikipedia」より)

 上の説明からすると、右手にあるのが「フランドル積み」で、左手にあるのが「イギリス積み」のような気がしますが。

    

 右側の蒸気機関車は、「7150(形式7150大勝号)」。明治28(1895)年、北海道炭礦(鉱)鉄道手宮工場で完成。日本製の蒸気機関車としては第2番目に誕生、現在見ることのできる最古の国産蒸気機関車。
 7100形(義経号やしづか号)を手本に外国人の指導を受けず日本人の技術で製造された、らしい。
 「しづか号」は、館内に入ると目を引くところに展示されています。この蒸気機関車は明治17(1884)年にアメリカで製造され、翌年手宮に配置されました。
 
    

ラッセル車など展示されています。
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東武・亀戸線再訪(廃駅跡をたずねて)

2015-04-24 21:15:35 | 鉄道遺跡

 6年前に訪ねて以来、その後、縁が無くて、乗ることもなかった「亀戸線」。このところ、雨続きだった、そんな雨の合間、4月21日(火)午後に出かけました。前回中途半端だった「廃駅」の痕跡を訪ねがてら。

 東武亀戸線は、亀戸駅から曳舟駅までの3.4KMのミニ路線。この線は、一時期東武伊勢崎線の都心へのアプローチ路線として、幹線扱いだった時があります。
今のJR総武本線が総武鉄道だった時代、亀戸駅から当時ターミナルだった両国橋駅(現・両国駅)まで乗り入れていました。

〔主な年表〕(「Wipedia」による)

1904年(明治37年)4月5日 亀戸 - 曳舟間 (3.4km) 開業。
1907年(明治40年)9月1日 乗り入れ先の総武鉄道が国有化され総武本線となるも、乗り入れは継続。
1910年(明治43年)3月27日 総武本線への直通運転を廃止。
1918年(大正7年)3月27日 全線を軽便鉄道法による軽便鉄道に変更。
1925年(大正14年)9月4日 天神駅再開業。
1928年(昭和3年)4月15日 亀戸線全線電化。同時に中間駅として、亀戸水神駅、 北十間駅、平井街道駅(現・東あずま駅)、小村井駅、十間橋通駅、虎橋通駅が開業。
1945年(昭和20年)3月10日 東京大空襲により、虎橋通駅廃止。
1945年(昭和20年)5月20日 平井街道駅廃止、北十間駅・十間橋通駅休止。
1946年(昭和21年)12月5日 北十間駅と亀戸水神駅を移転統合、亀戸水神駅とする。北十間駅は廃止。
1956年(昭和31年)5月20日 旧・平井街道駅の位置に東あずま駅を開業(事実上の再開)。
2004年(平成16年)10月19日 ワンマン運転開始。

 東武亀戸線は、曳舟からの延長線として越中島方面へと計画されましたが、越中島付近の敷設工事に着工する事が出来ませんでした。そこで、当時は亀戸から総武鉄道(現JR総武線)へと乗り入れ、両国までの直通列車が運転されました。

 その後、隅田川に架橋して現在の「浅草」駅が完成、東武鉄道は都心に乗り入れることになりました。そうなる以前、今の「東京スカイツリー」駅(その前は「業平橋」駅)が、「浅草」駅となっていた時代もありました。
 こうして、亀戸線はローカル線として存続することになります。

 1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲で、下町は壊滅的な状況になり、亀戸線の駅舎も焼き尽くされ、亀戸線の中間の駅はほとんどが休止か廃止になりました。一方で、曳舟付近の低層住宅(亀戸線以北地域)は偶然にも類火を免れました。亀戸線が防火線になったようです。gooの1946年(昭和21年)当時の航空写真を見ても歴然としています。

 亀戸線は、現在、「曳舟」~「小村井」~「東あずま」~「亀戸水神」~「亀戸」の駅がありますが、今も東京・下町の大事な足として、地域とのつながりも深い路線となっています。

 年表にもあるように、かつては「曳舟」と「小村井」(ある時期から、この読みも「こむらい」から「おむらい」に変わっています)の間に、「虎橋通」駅と「十間橋通」駅があり、「亀戸」と「東あずま」(旧「平井街道」)との間に「北十間」駅がありました。
 また、「Wikipedia」には、「天神」駅という駅名もありますが、「小村井駅」から曳舟方に進んで1つ目の踏切付近に天神駅があった、とされています。

 そういうわけで、今回、「亀戸線」の踏切をすべて訪ね、立ち止まり(やってはいけませんが)踏切内外から撮影して、写真上でもそれぞれの駅跡がないかどうかを探ってみました。駅には駅入口への道と踏切がつきものですから。

 曳舟~虎橋通~十間橋通~天神~小村井~平井街道~北十間~旧亀戸水神~亀戸。踏切の数にして19ヶ所? 結論的には明らかな痕跡は「虎橋通り」駅と「旧亀戸水神」駅の2ヶ所を確認できただけでした。前回に比して、1ヶ所「虎橋通り」駅が増えただけです。

《地図上の変遷》

1896(明治29)年ころ。

1917年(大正6)年頃。

1944(昭和19)頃。

1965(昭和40)年頃。

1983(昭和58)年頃。

現在。

 (以上、「今昔マップ」参照)。それぞれ地図上での変遷が興味深い。

曳舟駅側から2番目の踏切。

 その亀戸駅側に旧亀戸天神駅跡にあったのと同じ土台跡。ホームを支えていたコンクリート製の土台と思われます。これが「虎橋通り」駅跡。

    

 以前来た時には、この踏切の北側の通り沿いに「虎橋通り」と表示してある新聞販売所の記憶がありましたが、今回、歩き回ってもそれらしいお店は見つかりませんでした。

 さて、次の駅跡。


 キラキラ橘商店街へ向かう通り。この通りの踏切の亀戸側に「十間橋通り」駅が存在したと思われます。

この付近。

 「曳舟起点891㍍」という標識があります。反対側には目立つ標識は見つかりませんでした。この距離表示に意味があるのかもしれません。

現在の十間橋通り(正面奥)を通過する電車。

 かつての「十間橋」通りは現在の「キラキラ橘商店街」に通じる道路だったようです。「十間橋通り」が今のようにバス通りの広い道になったのはもっと後のような気がします。

 なお、商店街の名称は、昭和6年に映画館の橘館がこの通りにできたことに由来し、戦前から「橘館通り」として地域住民に親しまれてきた、とのこと。そのために乗降客の便宜を図ってつくられた駅だったようです。

(「キラキラ橘商店街」HPより)

 次の「天神」駅跡。

 現在の「向島警察署」前の通りがかつての「中居堀」(葛西用水・曳舟川からの流れの一つ)でした。現在は埋め立てられて道路になっていますが、この「中居堀」の通りの踏切、曳舟側にあったようです。
 なお、「明治通り」に「中居堀」交差点がありますが、位置が異なっていて、その手前の「東中居堀」交差点が本来の「中居堀」の用水路跡になります。

    
 踏切の手前(曳舟寄り)、少し盛り上がった線路沿いの駐輪場。このあたりではないかと思われます。

 ここから、「亀戸天神」までは直線道路(かつては「中居堀」沿い)で約1㎞で行くことが出来ました。「天神」駅という駅名は適切だったのでしょう。また、「亀戸」へのこだわりもあったのか。
 その後、用水路の埋め立てによる道路化、それに伴う周囲の発展や明治通りの完成等、東武線の延長計画の断念等で、旧来からの地名である「小村井」が駅名として採用された(一時期には「平井」という駅名だったことも)と思われます。全線電化の際に、小村井駅と統合された可能性も。

その地点からの「小村井駅」。 

 ホームを「中居堀」側に延長していることがホームの色の違いでわかります。今のようすだと「天神」駅跡と「小村井」駅が余りにも接近しすぎているような印象ですが、当時はもう少し(100㍍くらい)は離れていたでしょう。
 車両も、現在は2両編成の電車ですが、当時は1両(それも、今の1両の長さよりも小さいものだった? )編成だったので、ホームも短かくてすんだはず。

「明治通り」側の駅舎。

 所々に、空き地があります。

奥に見えるのが「東あずま」駅のホーム。

東あずま駅を出る曳舟行。

駅正面。
 この駅を「平井街道」駅と呼んだ時期がありました。駅前の踏切を進む道が「平井街道」(「行徳道(浅草道)」とも)だったことに因んでいます。。

旧中川にあった「平井の渡し」跡付近からの「スカイツリー」。行徳道(浅草道)はその方向に向かって進んでいました。

東武亀戸線「東あずま」駅そばにある「地図」(通常とは異なり、上がほぼ東を示す)。
 中央、左上から右下に通じる道路が「浅草道」の跡と思われます(赤線でなぞった道)。その関係で、「平井街道」駅と称されていたわけです。

1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 ☆Aが「小村井駅」、☆Bが「東あずま駅」付近。南北の用水路が「中居堀」、東西の道が「平井街道」。

南(亀戸駅)方向を望む。

 「北十間」駅は、「北十間川」に架かっていた鉄橋の南側にありました。北十間川(隅田川と旧中側を結ぶ)。

橋脚。ごついコンクリートの柱は何だったのでしょう?

この付近(亀戸方向)?


 現在の「亀戸水神」駅の脇を通り、しばらく行くと、踏切の向こうに痕跡を発見します。これが「旧亀戸水神」駅? 北十間駅とここにあった「亀戸水神」駅を統合して、曳舟側にに少し寄ったところに新「亀戸水神」駅をつくったものと思われます。

《歴史》
1928年(昭和3年)4月15日 - 開業。
1946年(昭和21年)12月5日 - 北十間駅と亀戸水神駅を移転統合、亀戸水神駅とする。北十間駅は廃止。
(「Wikipedia」より)

 亀戸線が終点・亀戸駅に近づき、大きくカーブを描き始める辺りに、旧亀戸水神駅はありました。線路脇の道をたどっていくと、踏切と踏切に挟まれた線路脇にかつてプラットーホームを支えた、古レールが埋め込まれたコンクリートの土台が並んでいます。

    
曳舟方向の線路際。            レールが埋め込まれている。

    
 曳舟方向の線路際。                          亀戸方向の線路際。

    
                                   旧亀戸水神駅跡を通過する電車。

  
                           亀戸方向を望む。

JR貨物線(越中島に向かう)を行く貨物列車。

              亀戸駅を出発する東武電車。

 スカイツリーの完成や曳舟駅前の再開発による高層マンション群の誕生等で、沿線は変化の激しい地域です。その中にあって、「亀戸線」は、貴重な歴史を刻んでいます。
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蛇松緑道(国鉄・蛇松線跡)をたどる。(三島から片浜へ。その4。番外編。)

2014-12-16 20:20:40 | 鉄道遺跡

 そのまま西へ向かうと、交差点。そこに、右斜めからから左斜めに道路を横断する緑道が。カーブになっていて、これは、間違いなく廃線跡。



 帰宅後、調べると、

 沼津駅と狩野川河口にあった沼津港の間に建設された国鉄沼津港線(蛇松線)が昭和49年8月に廃線となったことに伴い、線路敷地(白銀町~狩野川河口の蛇松町までの約1.8キロメートル)が緑道として整備されました。
 緑道の周辺は静かな住宅街で、約120種、約14,000本の植栽も周辺環境に調和しています。初夏にはさわやかな新緑に囲まれて、周辺住民の憩いの場になっています。(以上、「沼津市」HPより)
  
 その時はそうとも知らず、かなりの寄り道になりますが、たどってみました。途中からレールが保存されているところもあって、興味深い探索でした。

  
                         よく整備された「緑道」。

 明治21年、東海道本線の建設の資材運搬のために現在の沼津駅と狩野川の河口付近にあった沼津港とを結ぶ貨物線が敷設されました。
 この貨物線は、終点の狩野川の河口付近に生えていたという「蛇のように曲がりくねった松=蛇松」にちなんで、「蛇松線」と名づけられました。そしてこの蛇松線は、明治21年から昭和49年まで約90年間、主に石油、木材、魚などを運ぶ貨物線として活躍してきました。ところが貨物輸送が列車からトラックに移るにつれてこの路線もトラック輸送に切換えられ、昭和49年ついに廃止されることになりました。・・・
                        (沼津市「蛇松緑道」案内板より)

「桜植樹」記念碑。桜並木がしばらく続く。

ノラちゃんが何匹か行ったり来たり。

周囲は静かな住宅街。
 輸送盛んなりし時はこの辺りはどうだったのか?

  
 その先が広場になっていました。振り返って望む。

 ここで、線路跡は二手に分かれます。右手の方にはレールが残っています。沼津港に向かう路線跡のようです。

中央に一本。さてもう一本は?

ありました! ガードレールに沿うように。

その先も道路上に残っています。

振り返って望む。駐車スペース?

 この先を行くと、整備された歩道上にレールが埋め込まれています。

  
 まっすぐ伸びていく。                  レールの終わった付近から来た道を振り返る。

 もう一つの廃線跡(緑道)は狩野川河口の方向へ進んでいきます。初期の頃、港があったところへ。

モニュメント(動輪と腕木式信号機)。

振り返って望む。ここが終点。

 正面の階段を上がり、狩野川の土手に。
  
  河口側。正面の橋は「港大橋」。             正面は「香貫山」。

 旧東海道からの往復でした。沼津駅方向の700㍍ほどは探索できず。駅近くの倉庫付近には痕跡があるらしいが・・・。
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