百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

ボルネオ編 7 ~ハートとダイヤ~

2010年08月10日 | 人生航海
そんな或る日、私は、急に脚が立たなくなった。

診察を受けると、心臓脚気と診断されて、会社側は早速病院に予約を入れて入院する事になった。

担当の先生は、前の先生とは違い、脚気という病名はなく使ったことがない不思議そうに首を傾げた。

その頃は、脚気という病名を知らない医者もいたらしい。

いずれにしても、入院して治すようにと会社から言われて、当分は入院生活をする事になる。

その病棟は、ほとんどが野村殖産の患者で、野村病棟と皆が云っていたくらいだった。

そこで知り合った隣りのベッドの若い患者と親しくなった。

彼は、ボルネオ奥地のダイヤの鉱山に勤めていた。

話しているうちに、彼から、折角ボルネオまで来たのに「一個二個ぐらいのダイヤを持てば」と言ってくれた。

私が退院するまでに「何とかするから」と言って、約束をしてくれたのである。

そして、彼とは別々に退院をしたが、彼は、その後、約束通りに二個のダイヤを持ってきてくれて、私は、ダイヤモンドを安く手に入ることが出来たのである。

ボルネオ編 6 ~掃海作業~

2010年08月09日 | 人生航海
日本海軍からの指示命令が下った。

灘吉丸が、臨時徴用されて、浮流機雷の掃海作業を行う事になったのである。

機雷の掃海は、長いワイヤーに幾つもの磁器を取り付けて、半速でゆっくり曳いて、機雷を爆発させる仕組みだった。

毎日毎朝、海軍の兵曹以下、水兵達が十数人が船に乗ってくると、掃海の作業が始まるのである。

海軍の人たちも言ってたが、それほど危険な作業だとは思っていなかった。

船員は、何もする事はなく、万一の時のことを考えていればよかったのである。

そして、操船と機関の運転だけで、その他に何もする事がなくなったのである。

退屈なので、皆で話し合ったうえ、交代で下船して休む事になった。

ボルネオ編 5 ~久しぶりのスラバヤ~

2010年08月08日 | 人生航海
その後、久し振りにスラバヤ港に穀物を積んで行くことになった。

以前、軍属時代に二年近く、スラバヤの港にいたので、懐かしくて岸壁に立って、あの頃を思い出した。

部隊の司令部や信号所に、自然と足が向き行ってみたが、僅かの間に、すっかり様子が変わり知った人達はいなかった。

街に出て、あの頃に通った店を訪ねると、顔見知りの店主が、私を見て、ゆっくりと近づいて、懐かしそうに、話しかけてきた。

当時が甦り、話が弾んで、とても嬉しかった。

久し振りのスラバヤでの多くの思い出が浮かんできたが、その後は、何処かの戦地で、誰かが活躍しているのかと思うと、自由な民間人として、済まない気もしたものだった。

そんな過ぎし時を思いながら、バリックパパンを基地にして、一年近く運航を続けて過ごした頃、日本海軍からの指示が下ったのである。

ボルネオ編 4 ~マッカサル~

2010年08月07日 | 人生航海
ジャワ島やセレベス島など近隣の諸島が、我々の主な航行区域だった。

積荷は、穀物類や海産物、他に雑貨を積む事もあったが、時には、軍需品を積む事もあった。

バリックパパン港は、当時の日本軍には、やはり重要な港だった事は間違いなかった。

あの頃を振り返ってみると、日本は、本当に小さい国であるのに、南方の何処の港や街に行っても、日本の商社や商人がいない処は無かったように思えた。

中国の華僑ほどではないにしても、それに劣らない商魂の逞しさを見た思いであった。

しかし、私達には何の拘りもなく、その後も尚、戦勝国だと信じて、我がもの顔で威張り、現地人を意のままに使いこなして、贅沢に過ごしたのは事実であり、反省せねばならない事である。

その頃、セレベス島のマカッサルに行った時、船のエンジンのクランクが破損して、修理の為、長い滞在となったので、毎日、街に出たこともあった。

そこでも、日本人が大勢いたのには驚いた。

マカッサルの街は、鼈甲細工が有名で、その鼈甲を色々と買って集めたが、品物は多くても、細工は、あまり感心する程ではなかった。

結局、新しいクランクシャフトを取り寄せるまでに随分と日数がかかり、約一ヶ月ぐらい待ったのである。

その間は、ほんとうに退屈して街に出て遊ぶ他何もなかった。

鼈甲細工の珍しい物を探しまわって時間を過ごしたりしていたのである。

黙祷

2010年08月06日 | 千伝。
まだ、社会に出たばかりの20代の頃、選んだ仕事は、ジャーナリズムの旗の下、マスコミという出版界の企業組織の末端に身を置くものだった。

当時、仕事柄、さまざまな世界を覗く機会も得たが、個人的には、東友会(東京都原爆被害者団体協議会)の行事にも参加していた。

被爆者の会員の多くは、教員の方が多かった。

つまり、政治、イデオロギーが、平和運動の軸になるのである。

或る時、会合で、そのような趣旨批判をした時に、弁達者の方々から吊るし上げのような口撃を受けた思い出がある。

1945年(昭和20年)8月6日・・あの日、あの時、母は、ヒロシマに居た。

地獄絵図の世界に踏み入れた母は、被爆者になったが、幸運にも生きながえることができた。

そして、あの日に、一瞬にして踏みにじられた数えきれない消えた命の嘆き、声にならない命の響きに黙祷。

そして今、ただただ黙祷の鼓動が、平和への祈りとなり、イデオロギーを超えて、世界の核兵器廃絶が実現となることを願います。合掌。

ボルネオ編 3 ~バリックパパン~

2010年08月06日 | 人生航海
バンジェルマシンに到着後、私達船員の待遇は予想外によく、皆は来て良かったと喜んだ。

しかも、私達乗組員全員に、衣類他多くの品物が支給されて驚いた。

その時は、民間人だったので、軍隊とは、こんなに差があるのかと思ったものである。

これが、至り尽くせりの待遇というものかと思ったである。

そして、灘吉丸も見事に改装されて、見違えるほどに綺麗な船に出来上がったのである。

軍属時代にマレー語は、少しぐらい話せるようになっていたので、その点は便利だった。

だが、会社の人が言うのには、「ここでは、日本人は威厳を持ってふるまうように。たとえ自分の手が届くものでも、使用人に命じるように」との事だった。

戦争とは、惨めなものであり、ここまで人間性まで変えるものかと思うと、何だか気が引けた。

今だから、言える事かもしれないが、その後、戦争殺人に加担した私も、日本人の一人として反省しなければならないのは当然だろう。

そして、一段落して、現地人の船員を四人増やして、いよいよ、ボルネオ島東部に位置するバリックパパンに向けて、出港する事になった。

バリックパパンの港は、軍事的にも重要な港であり、石油の生産地で積出港であった。

そこでも、大変な歓迎を受けた。

その後は、このバリックパパンの港が、我々、灘吉丸の主な積み出し基地となっていた。

ボルネオ編 2 ~バンジェルマシン~

2010年08月05日 | 人生航海
その大時化の為、止むなく支那大陸の沿岸伝いの航路を余儀なくされた。

随分と遠廻りする事になったが、それ以後、あれほどの大きな時化に遭う事も無かった。

毎日、平穏な海を、ベトナムの沿岸を南下して、サイゴンにも寄港した。

サイゴンは、珍しい鰐皮製品や象牙細工した品等が豊富にあって、皆多少の買い物をしたのを思い出す。

サイゴンを出てから、シンガポールまでは少し長い航海であったが、海上は穏やかで、無事にシンガポールに入港できた。

当時のシンガポールは、日本の占領下であり、その名も昭南島と改められて南方随一の大都会だった。

入港後、機関のパイプの修理を頼んだり、ジョホール水道の海軍工作部に溶接を依頼した。

ジョホール水道には、当時世界一を誇る浮きドッグがあり、それを見て驚いたものである。

この機帆船(灘吉丸)なら何隻ぐらい入るか?と誰かが言ったので、計算すると、横列六隻、縦列五隻並び、計三十隻が入る計算になると言って笑ったが、当時としては、それ程に大きな浮きドッグだった。

英国の植民地だったシンガポールは、高層ビルも多く建ち並ぶ大都会であったが、その時は、上陸して市街地見学をする事は出来なかった。

いずれ又来る事もあるだろうと思いながら、いよいよ最終港に向けて、シンガポールを出港したのである。

そして、数日後には、やっと全ての航海を終えて、最終港のボルネオ島南部に位置するバンジェルマシンに到着することが出来たのである。

野村殖産ボルネオ支社のあるバンジェルマシンは、川港であった。

両側にマングローブの木が生い茂り、その間を通り抜けて出入りする珍しい港街であった。

野村殖産での初めての社船であったので、我々は、到着後は大変な歓迎を受けた。

船長機関長は、ホテル住まいで、船員の宿舎も既に用意されていた。

船の仕事も、一切現地人に任せて、灘吉丸も、ドッグ入りした。

当分の間は、長い航海の疲れを癒すように、船も船員も、ゆっくり休養するようにと云われたのである。

ボルネオ編 1 ~白旗観音~

2010年08月04日 | 人生航海
予想外の荒天に遭遇して、どうする事も出来ず、風は益々強まり、風波を背にして航走する以外に何も無かった。

時折、船尾から大波が、覆い被る。

大波は、甲板を洗い、船体は大きく揺れる。

デッキを歩くのも困難となり、船橋に上る事さえも危険であった。

その為か、船長は、万一を考えて、いつの間にか白旗観音の旗を取り出した。

その旗を、船橋の柱に結び付けて、強風になびかせ、何か真剣に祈っていた。

白旗観音は、播磨の国(兵庫県)にあった。

船の守り神で、四国の金比羅山さんと並び有名で、古くから多くの船乗りたちに崇拝されていた。

そこの御礼を受けると、中に白い旗が入っている。

時化に遭遇して、万一遭難の恐れがある時に、旗を出し掲げると必ず助かると云う。

有り難い御加護があるとの事だった。

その白旗観音様のお陰であったのか、何日も吹いて荒れていた大時化も、五日目の朝を迎えた時、ようやく凪いだのである。

やがて、前方に大きな山が、薄く浮かんで見えてきた。

しばらくして陸地が近くなると、海軍の巡視艇らしき艦船が接近して、手旗で行く先を確認してきた。

早速、手旗で船名を伝えて、位置を訊くと、「中国最南部にある海南島にいる」という確認が出来たのである。

そして、「行く先は、ボルネオ」と告げた。

それから、その巡視艇に誘導されて、近くの港に避難した。

疲れを癒して、久しぶりに安心して休むことが出来たのである。

台湾から海南島までの距離を、大荒れの時化の中を、然も小さな機帆船で、何とか辿り着くが出来たのである。

船長や機関長の心労は、いかに、大変な事であったかと今も思う。

そのことは、私たち船員にもよく分かり、とても有り難かった出来事であった。

再度南方へ 4 ~風波を背に~

2010年08月03日 | 人生航海
戸畑港には、数日間いたが、そこで食品類や個人の私物等を買って出港した。

次に、唐津、長崎、枕崎と寄港したが、荒天のため回復を待った。

そこで、4~5日避難したあと、幸いに海上は穏やかであり、次の寄港地は、沖縄の那覇港だった。

那覇港は、皆初めてで珍しかった。

また2~3日滞在して、方々をゆっくり見学して出港した。

そして、次は、台湾の高雄港である。

私にとって、陸軍の軍属時代に高雄には二度行ったことがあり、懐かしかった。

高雄では、日本の最後の港だったので、航海に必要な物は総て積んで、船員も私物を買い込んで、長期の航海に備えた。

当時は、戦時中の事でもあって、目的地に到着するまでは、海軍関係の指示に従って運航しなければならなかった。

燃料や食料品等の補給も受けながら、航海を続けるように決められていたのである。

その後は、ルソン島に渡り、東部を南下して、ボルネオの東側からバンジェルマシンに入る予定であった。

が、思わぬ悪天候の大時化に遭遇した。

予定通りにはいかず、大変な事態に陥ったのである。

乗組員全員は、必死の覚悟で航海を続けねばならなかった。

針路の事を考える余裕もなかった。

ただ、風波の事のみ思いながら、風波を背にして、大嵐の中を航海を続ける他はなかったのである。

再度南方へ 3 ~民間人として~

2010年08月02日 | 人生航海
乗船する船は、200屯足らずの機帆船だった。

船名は、灘吉丸と云って、和歌山県の江住という港町のものであった。

その灘吉丸を、野村東印度殖産が購入して、南方のボルネオに回航するのである。

その契約を大阪の代理店で行う事になっていた。

そして、数日後、大阪の三軒家にある代理店の事務所で正式な契約が行われた。

戦時中の危険な時なので、給料は普通の船員よりも三倍位多く、そのうえ契約金と支度金も出て驚くほどだった。

他に、会社の女子事務員が、丁寧に一人一人の前に来て、お盆の上に、百円札を三枚(三百円)をのせて支給してくれた。

こうして、会社との契約は全て終えて、次に、大阪海運局で雇入公認も済ませた。

翌日には、神戸に回航して、皆が家族をよんで、暫しの別れを惜しんだ。

折り良く、中支の戦線から満期になって帰ってきた私の兄が、私が南方に再び行く事を知り、突然、久しぶりに会いに来た。

支度金や給料の前払いを貰ったばかりで、どうせ送金しようと思ったので、兄に二百円を渡して祖父母や兄弟達、あとの事を頼むと云って別れた。

その後、兄は、百島に帰ったと思っていたのに、そうではなかった。

後で聞いた話では、兄は、当分の間、家には帰らず、持ち前の性分で、思わぬ金が手に入って、棚からボタ餅気分で、神戸から大阪、京都と遊び廻り、家族の為に託したお金を殆ど使い果たしたらしい。

しかし、何故か、兄の事は憎み切れなかった。

兄は、生まれながらの遊び性とは言え、その後、兄は祖父母や兄弟達の面倒を見ねばならず、だから私も安心して南方に行けたと・・そんなふうに思い、兄のした事を許していたのかも知れない。

翌朝、私達の灘吉丸は、神戸を出港して、北九州の戸畑港に向かった。

戸畑にて、燃料や食料等を積んで、私は、民間人として、再び南方に向かう事になったのである。

再度南方へ 2 ~渡りに舟~

2010年08月01日 | 人生航海
早や半年が過ぎた頃、先輩達の話や皆の待遇を知るようになった。

自分の労働契約条件が、他の皆の入廠時の条件と大きく違うことが分かったのである。

その話を上司の係長に相談したが、いつまでも待っても返事は無かった。

「ただ上司に伝えておく。もう少し待て」と言うだけで、何の解決にもならなかった。

そして、課長にも、その事を申し出ると、その後、いくら待てども、何の回答も得られなかったのである。

そこで、退職の決意の表れとして、私は、無断で当分休む事にしたのである。

ちょうどその頃、偶然にも、以前にお世話になった上野船長と出会った。

そして、「南方のボルネオに行くので船員が必要だ」という誘いがあったのである。

「渡りに舟」とは、こういう運命の巡り合わせを意味するのかと思った。

案外と条件も良いし、給料も待遇も良いので、私の他に三人で行く事が決まった。

船長の話では・・。

雇用契約先は、株式会社野村東印度殖産という会社であるとのこと。

ボルネオのバンジェルマシンまで行って、そこを中心として運航するとのこと。

詳しい説明は、大阪で説明があるのこと。

早速、二日後には、本契約をする為に、大阪で全員が集まることになったのである。

船長からは聞いていたが、その他の条件を聞き、大阪で仮契約を交わした。

他にも、何人もの希望者がいたが、定員となったので断ったと聞いた。