Gomaler's~神社仏閣巡り~癒しを求めて

主に関西の神社仏閣巡りと御朱印集めが趣味です。

阿弥陀寺(2013年5月2日参拝)

2013-05-27 | 仏閣
観光地化された大原を更に3キロほど北上すると、
本当に静かな山に抱かれるように阿弥陀寺というお寺がある。

ここは普段は観光客がほとんど来ないが、
紅葉の時期はめざとい紅葉好きの方々が訪れる穴場の紅葉スポットらしい。


所在地:京都府京都市左京区大原古知平町83
宗派:浄土宗
御本尊:弾誓佛、阿弥陀如来
創建:慶長14年(1609)
開基:弾誓



【縁起】




光明山法国院阿弥陀寺は、慶長14年(1603)3月、弾誓上人が開基なされた如法念佛の道場です。
弾誓上人は尾張国海辺村に生まれた方ですが9歳の折に自ら出家し、
美濃国塚尾の観音堂に参篭し、さらに同国武芸の山奥において念佛三昧、二十余年の修行を積みました。

その後、諸国行脚で各地を回って苦行修練を重ねた末、
ついに佐渡ヶ島の檀特山において生身の阿弥陀仏を拝し得ました。
そして、そこで授かったのが他力念佛の深義と、
帰命十方西清王法国光明満正弾誓阿弥陀仏という尊号です。

その後、上人は信濃国の唐沢山および相模国塔ノ峰において法益をすすめていましたが、
ようやく時節が到来して、最後の地、古知谷へ赴きました。

古知谷に入った上人は、山中深く分け入り、岩穴に住し念佛三昧の日々を送っておりましたが、
近江国伊香立村の人達との御縁で、この地に一寺を建立し、本尊佛としては、
上人が求め続けた人間としての理想像を草刈り鎌にて刻み、自身の頭髪を植え、
これを本尊として本堂に安置し寺の名を「光明山 法国院 阿弥陀寺」と付けました。

弾誓上人は、この阿弥陀寺に在住して4年後の慶長18年(1613)5月23日正午、
62歳で入定示寂なされました。

この弾誓上人におくれること100年、近江国平子山にあって念佛三昧を続けていた澄禅上人は、
弾誓上人の行跡を慕って当山に入り、本坊から四町ほど上の岩穴にて常坐不臥称名念佛すること5年の後、
享保6年(1721)2月4日に入定されました。時に70歳。


【山門】


この辺りはとても緑豊かな山で、
その山の麓に少し開けた場所に駐車場と竜宮門があり、
とてもインパクトのある山門でした。


【参道】




歩いて15分くらいでしょうか、
ハイキングする人は軽いでしょうけど、
運動不足の人は結構しんどいと思います。


ここまで車で来ることは可能です。
上手く停めれば10台近くは停めれる場所がありました。


【古知谷カエデ】


樹齢750年の渋い古木でした。


【境内】




山の寺とは思えない石垣の立派なことよ。


【茶室】





【庫裏】




ここから本堂へ入堂します。


【本堂】






正面に弾誓上人自作自像植髪の尊像が祀られていました。
現在は植髪も両耳近くに少し残っている程度とのこと。


【阿弥陀如来】


重要文化財。


【前庭】





【石廟】






本堂を参拝し終えると石廟へ。

ここにはミイラ佛が安置されているという。

写真では明るいですが実際は暗く湿気たっぷりの石廟でした。


それにしても、
こんな所で即身仏が安置されているとは夢にも思いませんでしたよ。

関西では即身仏ってあんまり聞かないんだけど、
他に即身仏が安置されているお寺はあるんでしょうか。


【中庭】



【宝物殿】






なかなか見応えがありました。


【鐘楼堂】



【御朱印】

高倉天皇皇后徳子 大原西陵(2013年5月2日参拝)

2013-05-26 | 廟墓
寂光院の隣にあるのが建礼門院の陵墓。

寄らない観光客は多いけど、
折角なんで寄っていきましょう。





【建礼門院】
名を平徳子といい平清盛の娘であり高倉天皇の中宮。
安徳天皇の母として余りにも有名。

平家物語によると徳子は安徳天皇・時子の入水の後に自らも飛び込むが、
渡辺昵に救助されたという。

文治元(1185)年9月に入寺し、真如覚比丘尼と称した。

そして源平の戦に破れて遠く壇ノ浦で滅亡した平家一門と、
我が子安徳天皇の菩提を弔い終生を寂光院で過ごされた。


【高倉天皇】
第80代天皇。
後白河天皇の第7皇子。
母び平滋子は平清盛の妻である平時子の異母妹。
安徳天皇、後鳥羽天皇らの父。


【参道】



【陵墓】




壇ノ浦の安徳天皇陵に約一年前に参拝したことを思い出し、
何だか感慨深いものを感じました。


<2012年3月10日参拝>
http://blog.goo.ne.jp/05100625/e/bd2497142519645db27ea337c818c66e


【大原の里】


さて、この後は知る人ぞ知る紅葉の名所である阿弥陀寺へ向かいます。

神明神社(2013年5月2日参拝)

2013-05-25 | 神社
寂光院の奥に鳥居を発見。

またもや寂しい雰囲気がビンビンに感じる。
大原はこんな神社ばっかりなのか。(^^;



所在地:京都市左京区大原草生町
御祭神:天照皇太神、豊受太神
創建:不明


【鳥居】


普通の人は先に進まないですよね。

きっと行くのはマニアの方々ばっかりでしょう。
私を含めて。(^^;


【境内】


予想通りの殺風景な神社です。


【本殿】



【内宮】



【外宮】



【狛犬】



【拝殿】





【参道】


先に進めそうでしたが、
これ以上先に進むのが怖かったので断念。(泣)

寂光院(2013年5月2日参拝)

2013-05-24 | 神仏霊場巡拝の道
大原三千院地区を少し離れ車で寂光院へ向かう。




三千院の辺りから歩いて行けますが、
少し距離があるししんどかったので楽しちゃいました。(^^;

でも歩くと大原の里を散策出来て楽しいと思いますよ。


駐車場は寂光院の近くまで点々と駐車場があります。
三千院の駐車代の相場は400円ですが、
この辺りは300円となっていました。

この時期の平日だと一番上の駐車場も空いておりましたが、
私は少し下の方で停めて歩いて行きました。

参道沿いには温泉旅館があり日帰り入浴もやっておりました。

後になって思えば温泉でも入ってゆっくりしていけば良かったかな。

どうもお寺や神社の参拝ばかりになって、
心の余裕が無くなってる気がする。

いかんなぁ、と思いつつも滅多に行けない場所に行くと、
そこにある神社仏閣に可能な限り行かないと気が済まないのよ。(^^;



所在地:京都府京都市左京区大原草生町676
宗派:天台宗尼寺
御本尊:六万体地蔵菩薩
創建:伝・推古天皇2年(594)
開基:伝・聖徳太子
札所:尼寺めぐり



【歴史】
寂光院は天台宗の尼寺で山号を清香山、寺号を玉泉寺といい、
寂光院は玉泉寺の子院であった。
推古2(594)年に、聖徳太子が御父用明天皇の菩提を弔うために建立されたと伝えられる。

寂光院初代住持は聖徳太子の御乳人であった玉照姫は出家した
日本仏教最初の三比丘尼の御一人で慧善比丘尼で、
その後、代々高貴な家門の姫君らが住持となり法燈を守り続けてきたと伝えられるが、
史料が湮滅して名前は伝わらない。

寂光院では阿波内侍(藤原信西の息女)を第2代と位置づけている。
崇徳天皇の寵愛をうけた女官であったが出家のあと永万元年(1165)に入寺し証道比丘尼と称した。
出家以前は宮中にあった建礼門院徳子に仕え、
寂光院のある草生の里では柴売りで有名な「大原女」のモデルとされている。

第3代の建礼門院徳子(平清盛息女、高倉天皇中宮、安徳天皇母)は、
文治元年(1185)年9月に入寺し真如覚比丘尼と称した。
源平の合戦に敗れ長門国壇ノ浦で滅亡した平家一門と、我が子安徳天皇の菩提を弔いながら、
この地に侍女たちとともに閑居して終生を過ごされた。

江戸時代初頭には、豊臣秀頼や淀君、徳川家康らが再興に手を尽くした。

平成12年(2000)5月9日未明に発生した不慮の放火により、
本堂と御本尊が焼損したという苦難があったが、
たくさんの支援により5年後に元通りに復興し現在に至る。


【参道】


緑がいっぱい。

紅葉の頃は凄いことになってそうですね。


【孤雲】








これぞ京都。

観光客の目を楽しませてくれます。


【山門】






山門も渋くていいです。


【書院】



【雪見灯籠】


入ってすぐに大きな灯篭がある。

参拝した時、これは只モノではないと感じ写真を撮ったが、
実は豊臣秀頼が本堂を再建した際に伏見城から寄進されたものだそうです。


よく見れば見慣れた家紋があったね。(^^;


【四方正面の池】







【本堂】




平成12年(2000)5月9日未明、不慮の火災により焼失し、
平成17年落慶したもの。




それにしても放火とか酷いことするヤツがいるもんだな。

隣家が火事になって火事の怖さを知ってる身として、
また、文化財が好きな者として放火犯は許せませんね。

犯人逮捕に至っていないのも悔しい。


何の恨みがあったのか知らないけど、
放火犯はいい死に方をしないよね、確実に。


【扁額】


「寂光院御再興黄門秀頼卿 為御母儀浅井備前守 息女 二世安楽也」
と書かれています。

秀頼が寄進したという元々の扁額も火事で燃えた。
火事は全てものものを失うから本当に怖い。


【六万体地蔵尊菩薩】


撮影禁止でしたので画像はネットで拾ったものです。

写真で見るより実物は大きく感じました。


【千年姫小松】




樹齢数百年の御神木も放火の被害に遭いました。


【宝篋印塔】



【参道】


この道を進み特別公開されている旧御本尊がいらっしゃる収蔵庫へ向かう。


【建礼門院御庵室跡】


建礼門院が隠棲していたと伝えられている庵跡。


【収蔵庫】


放火事で焼損した旧御本尊木造地蔵菩薩立像が安置されていました。

その黒々と炭化した旧御本尊を見ると、
痛々しさを感じつつも、逆に威厳、凄みがありました。

撮影禁止でした。


【諸行無常の鐘楼】


諸行無常とはこの世の現実存在は全て、姿も本質も常に流動変化するものであり、
一瞬といえども存在は同一性を保持することが出来ないことをいう。


【阿波内侍らの墓】









【参拝記念】


タオルをいただきました。(^^


【御朱印】





出世稲荷神社(2013年5月2日)

2013-05-23 | 神社


腹が減ったので三千院前の店で昼食。

とろろ御飯と蕎麦で1050円。
美味しかったです。


腹ごしらえを終え寂光院に向かうため駐車場に戻る。
途中で出世稲荷神社の看板を見つけた。

奥を見ても神社がある気配がない。

不思議だなと思いながら横の建物を見る。

すると玄関に出世稲荷神社仮本殿本殿の紙が貼られていた。

勉強不足でこの神社の事は知らなかったので、
何で仮本殿なのか疑問に思いつつ建物の玄関に入ってみた。



所在地:京都府京都市左京区大原来迎院町148
主祭神:宇迦之御魂命
創建:天正15年(1587)


【歴史】
元は豊臣秀吉の聚楽第の邸内社として創建されたもの。
豊臣秀吉は幼いころから稲荷神を信仰しており、
天正15年(1587)に造営した聚楽第にも稲荷神を勧請した。

翌年、後陽成天皇が聚楽第に行幸し、稲荷社に参拝したときに、
立身出世を遂げた秀吉に因んで「出世稲荷」の号を授けたという。
聚楽第取り壊しの後も元の場所に鎮座していたが、
寛文3年(1663年)に二条城西方の千本通沿いに遷座した。

出世開運の神として大名・公家から庶民までの崇敬を受け、
江戸時代後期には庶民が寄進した329本の鳥居が立ち並んでいたという。

近代に入ると千本通界隈が映画興行の街として繁栄したため、
牧野省三や尾上松之助が鳥居を寄進した。

地域に氏子がないこと、文化財指定がないことなどから、
老朽化した社殿の維持・修復が困難となり境内地を売却。
平成24年(2012)6月に京都市上京区より左京区大原に移転した。


【仮本殿】




元々旅館だった建物の玄関に入ると無愛想なオバハンが居た。

あえてオバハンと書くけど、
このオバハンが無愛想で私が話しかけても無視。

ムッとしてこのまま帰ろうかと思ったが、
折角なんで上がらせてもらって中に入った。


【仮本殿内部】






うーむ、
何と言っていいやら。


御朱印は当然ながらいただきませんでした。


氏子もいなければ多額のお布施をする人もいなかったから、
この神社は資金難でこの大原に転居してきたという。

そりゃこのオバハンが居れば氏子も集まらなければ、
お布施も集まらないだろう。

人は感情の生き物。

気は心という言葉があります。

この人がとても良い人だなと思ったら、
少しでも尽くしたいという気持ちが生まれますよ。

でも、無愛想だったり、人を無視していては誰も集まらない。