Gomaler's~神社仏閣巡り~癒しを求めて

主に関西の神社仏閣巡りと御朱印集めが趣味です。

本圀寺(2012年9月1日参拝)

2012-09-30 | 洛中法華21ヶ寺
この山科を訪れるあたりに前もって調べていたのですが、
そこで気になったのが天智天皇陵の裏手にある大本山の本圀寺。

グーグルマップを見ると寺まで大きい道路が無さそうで、
車で行けるのか心配でしたが突撃あるのみです。(笑)


所在地:京都府京都市山科区御陵大岩6
宗派:日蓮宗
御本尊:三宝尊
創建:1253年(建長5年)
開山:日蓮
札所:洛中法華21ヶ寺


【縁起】
高祖日蓮大聖人が鎌倉松葉ヶ谷に御小庵を構え法華堂と号したことから始まる。
伊豆法難後の弘長3年(1263)大光山本国土妙寺として創設された
宗門史上最初の祖:跡寺院である。

日蓮大聖人の御生涯の中心となるもっとも大切な布教の根本道場である。

北条幕府が滅び政治が鎌倉から京都に移った貞和元年(1345)、
日静聖人の時代、この霊跡大光山は光厳天皇の勅諚によって
京都六条に東西二町・南北六町にわたる広大な永代寺領を賜り、
鎌倉松葉ヶ谷から京都へ立正安国・国祷護国の大道場本圀寺として移遷されるに至った。

天文5年(1536)の天文法華の法難で灰燼に帰し堺の末寺成就寺に逃れるが、
同11年(1542)勅令によって帰洛し再建に着、同16年(1547)六条に再建、本尊遷座。
天明8年(1788)の大火では経蔵などごく一部を残して類焼。
僧房も大きな被害を受けたが、その後は歴代諸聖人の護法捨身の丹精により再建復興。

時を経て本寺末寺の解体、敗戦による農地改革、寺所の散失などの時運に抗し難く、
護山の不詳も相まって山門の衰勢その極みに達する。
昭和46年(1971)、宗命を受けて特撰の第六十三世伊藤日瑞上人が、
現在の京都山科区御陵に移転、伽藍を再建。


【赤門】


1996年移築再建されたもので元は加藤清正公が寄進した山門。


予想通りこの赤門に到着するまで車だと緊張する道のりでした。

大きい三条通りから入り住宅街を進む。
まぁ、これが一台がやっと通れる細い道ばっかり。(汗)

山科疎水の横の道も車が通っていいの?って思う道で、
ひたすら対向車が来ないことを祈って走ってました。

あんな所で対向車がきたら終了ですよ。
もし対向車が来てバックで車を走らすのは泣いちゃいます。(苦笑)

せめてあの辺りの道は一方通行にしないと安心して車で行けないですよ。


【仁王門】








2003年建立されたもの。

うお!
キンピカやん。

秀吉が好きそうですね。(笑)

まぁ、今では古色蒼然とした仏像も造られた当時は、
金箔貼ったり派手な彩色を施していたようですし、
この仁王像も数百年も経つと渋くなっていることでしょう。


後で調べてみると豊臣秀吉の姉である日秀尼の庇護を受けていたようだ。


【境内】


さすがに広い境内で伽藍も立派なようです。


【灯篭】


本堂前の灯篭もキンピカです。


【本堂】










内陣に祀られている仏様達が凄かった。

内陣内は入れなくて外陣からですが、
ずっと見惚れておりましたよ。

そういや、太い柱もキンピカでした。
これは檀家さん達も大変そうです。(笑)


【日蓮大聖人】





【本師堂】


日蓮大聖人の御持仏であった釈迦尊が祀られているそうです。


【大客殿】


1971年移築再建されたもの。


【九頭龍銭洗弁財天】


この鳥居もキンピカです。
余り金色ばかりだと下品に見えてしまいます。(失礼)

ここは銭洗いをする所ですが、
私はお札を洗うことはしませんでした。

どうもお札を水に濡らすことに抵抗があります。


【鐘楼堂】



【大梵鐘】




関白秀次の母であり、秀吉の姉の村雲瑞龍院が今から400年前に寄進されたもの。
秀吉の両親の法号や木下家一族の法号が並び、
当寺の有力な末寺が列記されており当時の歴史を知る上で貴重なものとなっています。

また、梵鐘は「大光山本圀寺」と鐘名があります。

水戸黄門で有名な光圀の名はこの鐘名の二文字を本圀寺から水戸徳川家に贈られてから
名乗るようになったそうです。


【鬼子母神堂】




梵鐘の下に九名皐諦尊女立像と鬼子母神十羅刹女像が祀られています。


【日蓮大聖人像】


人形供養する建物の中に祀られていました。


【清正宮】




加藤清正と妻の廟所。
加藤清正の娘が建立したもの。

キンピカの鳥居は近年建てられたものだそうだが、
個人的には茶色の鳥居の方がいいと思う。

あんまりキンピカだと下品だし清正公の廟所も胡散臭く見えてしまう。


【経堂】







【御朱印】


御首題をいただきました。


帰りの道も対向車が来ないことを祈りながら三条通へ。

何とか無事に三条通に出れましたが、
あと30秒遅ければ対向車と狭い路地で出会うところであった。(汗)

元慶寺(2012年9月1日参拝)

2012-09-29 | 西国三十三ヶ所
さて、続きましては本日のメインである元慶寺へ。

このお寺の駐車場は3ナンバー車だとちょっと行きづらい所です。

なにせ駐車場への道が細い路地なもんで右折にしろ左折にしろ、
渋谷街道から進入する際に注意がいるし、
路地に入るとすぐ駐車場で右折なんですが、
この右折する時も縁石があって結構神経を使いました。(汗)


所在地:京都府京都市山科区北花山河原町13
宗派:天台宗
御本尊:薬師如来
創建:元慶元年(877年)
開基:遍昭
札所:西国三十三箇所番外



【遍昭僧正】
桓武天皇の子である大納言・良岑安世の八男で、
六歌仙および三十六歌仙の一人。

寵遇を受けた仁明天皇の崩御により出家。


【由緒】
開基の遍昭僧正は延暦寺で仏門に入り貞観11年(869)に華山寺を創建。
その後、元慶元年(877年)には清和天皇の勅願寺となり、
崋山寺から元慶寺に名称を変更されたと伝わる。

花山天皇が寛和2年(986)に出家し花山法皇となったのが、
この元慶寺でとても由緒正しいお寺です。


【山門】


竜宮造りの山門は久しぶりに見ました。

門をくぐると梵天と帝釈天が祀られていたらしく、
現在はどこかに寄託されて写真のみになっていました。(涙)






境内に入り振り返ると緑のモミジと山門のコラボが美しい。


境内は天皇家所縁の由緒ある寺にしては狭い。


【本堂】




本堂もこじんまりとしたもんです。

御本尊は薬師如来が祀られているそうですが、
本堂は閉められたままでした。

そういえば、
西国といえば観音様ですが元慶寺の御本尊は薬師如来なんですね。

だから番外なのか。


【歌碑】


「天津風雲の通ひ路吹きとぢよをとめの姿すばしとどめむ」


【石碑】


何が書かれているかよく読めませんでした。

下の動物らしきものが彫られていましたが、
これは何の動物でしょうか?


【御朱印】

山科聖天・双林院(2012年9月1日参拝)

2012-09-26 | 仏閣
毘沙門堂を参拝し駐車場に戻ると「山科聖天すぐ近く」という
看板を見つけましたので当たり前のように参拝することに。




このような道を歩くこと数分で到着。



所在地:京都市山科区安朱稲荷山町18‐1
宗派:天台宗
御本尊:大聖歓喜天
創建:寛文5年(1665年)
開基:公海



【由緒】
当院は毘沙門堂門跡塔頭の一院である。
毘沙門堂は寛文五年(一六六五)後陽成天皇の勅により
徳川家から安祥寺の寺領の一部を与えられ天海大僧正、公海大僧正に至って現地に再興。 

当院も同年に建立された寺院である。
当初、本尊には湖東三山の西明寺より迎えられた阿弥陀如来
(藤原時代作「光坊の弥陀」と称す)を安置するが、のち明治元年に聖天堂を建立し、
門主の公遵法親王ご念持仏「大聖歓喜天」を賜り本尊とした。
 
そのほか武田信玄や多くの信徒や寺院から奉納された聖天像を七十数体合祀し、
願いのかなう霊験あらたかな「山科の聖天さん」として広く信仰されている。


【鳥居】



【地蔵菩薩】



【山門】


紅葉の時期に訪れると美しい紅葉が見れそうですね。


【聖天堂】




歓喜天は象頭人身の双身像の2つの姿の形像が多く、
日本仏教には珍しく後期密教の無上瑜伽やタントラ教の歓喜仏を連想させるような
男天・女天が抱擁し合う表現を含む為、「男女合体神」「陰陽和合」を表わす
双身歓喜天像は秘仏とされて一般には公開されないのが普通である。

多くは厨子などに安置されて秘仏として扱われており、
こちら聖天堂の歓喜天も厨子の中に安置されており直接拝むことは出来ません。


【不動堂】


珍しい屋根をしたお堂ですね。

こちらのお不動さんは比叡山の千日回峰行者であった第二十四代住職が、
明治十六年に比叡山無動寺より勧請された不動明王が祀られていました。

参拝した時はこちらが御本尊かと思ってました。(^^;


不動堂の隣には阿弥陀堂があるのですが、
これがどう見ても普通の家でした。(笑)


【お瀧不動】



【御朱印】

毘沙門堂(2012年9月1日参拝)

2012-09-25 | 仏閣
所在地:京都府京都市山科区安朱稲荷山町18
宗旨:天台宗
御本尊:毘沙門天
創建:(伝)大宝3年(703年)
開基:行基

【縁起】
毘沙門堂は天台宗五箇室門跡のひとつで、
高い寺格と鄙びた山寺の風情を伝える古刹である。

御本尊に京の七福神のひとつ毘沙門天を祀ることからこの名がある。

当初は出雲路(上京区・御所の北方)にあったことから護法山出雲寺といった。
その後、たび重なる戦乱から苦難の道をたどり、
寛文五年(1665)、山科安朱の地に再建。

後西天皇の皇子公弁法親王が入寺してより門跡寺院となった。
伝教大師が唐より将来された鎮将夜叉法という行法は、
天台五箇大法のひとつとして当門跡だけに伝わる秘法である。


【勅使門】


第三世門主一品公弁親王が後西天皇より拝領し、
元禄六年(1693年)に移築完了した檜皮葺きの総門で、
陛下の行幸、勅旨の代参、並に当門跡門主晋山の大事以外は一切開門されない。


【薬医門】





【庫裏】



【山王社】




小さいながらも渋いお社です。


【鐘楼堂】



【一切経堂】




千手観音像等が祀られていました。


【稲荷社】



【高台弁才天】






太閤秀吉公の大政所高台尼公が大阪城内で念じていた弁才天であったが、
当門跡中興第三世一品公弁親王が巡錫の砌り、庶民福楽の為に、
所望せられて当地に勧請せられたもの。


【本堂】


仁王門とともに絶賛改修中。(泣)

ただし堂内は普通に入れます。

御本尊は伝教大師一刀三礼の作といわれる毘沙門天が安置されていますが、
厨子の中にあり秘仏でした。

厨子の前の御前立の毘沙門天像はこの目で拝めました。

しかしその御前立の毘沙門天像には萬暦八年と中国の年代が墨書されているようで、
大きな謎が投げかけられている。


そのほかに不動明王、三宝荒神、東照権現が祀られています。


誠に残念ながら堂内は撮影禁止。


【宸殿】




御所にあった後西天皇の旧殿を貞享三年(1686年)に第六皇子一品公弁親王が拝領し、
元禄六年(1693年)に移築を完了し当門跡の新書院とした。

本堂は無料だけどこちらは有料だったので迷ったが、
拝観料を支払い宸殿と霊殿を拝観。


宸殿内部の障壁画百十六面は全て狩野探幽の養子で駿河台派の始祖狩野益信の作。

その中で最も有名なのが九老之間襖絵。


(パンフレットより)

逆遠近法で描かれた九老之間襖絵は机を見ながら右から左へ歩くと、
机の長さが変わるという不思議な動く襖絵です。

実際、自分の目でその襖絵を見ると本当に不思議で、
何度も行ったりきたりしていました。(^^


そういやちょっと前にNHKでこの襖絵のことが紹介されていたのを見たけど、
まさかこの毘沙門堂の襖絵だったとは。

テレビで見た時は寺の名前まで確認してなかったので。(^^;

偶然とは恐ろしい。


元禄6年(1693)建立の霊殿には阿弥陀如来や歴代の位牌が安置されており、
また狩野永叔主信の作の天井龍が見れました。

圓山応挙筆の板戸の衝立には鯉の絵が描かれており、
鯉の眼を見ながら左右にゆっくり動くと鯉がメタボになるから不思議でしたね。


宸殿と霊殿の内部は全て撮影禁止でした。


【晩翠園】







【御朱印】

諸羽神社(2012年9月1日参拝)

2012-09-24 | 神社
旧東海道を右に折れ京阪とJRの線路を超え、
狭い住宅街を進むと諸羽神社がある。


所在地:京都府京都市山科区四ノ宮中在寺町17
主祭神:天児屋根命、天太玉命、八幡宮、伊奘諾命、素盞鳴命、若宮八幡宮
創建:貞観4年(862)、
社格:郷社


【由緒】
天孫降臨の神話の中で瓊瓊杵尊の左右に従った天児屋根命と天太玉命を祀るところから、
兩羽大明神と称したという。
貞観四年(862)、清和天皇の勅命でこの地に社殿を建てたのが当社の始まりとされる。  
この後、正殿に応神天皇、脇殿に伊奘諾尊・素戔鳴尊・若宮八幡を合わせ祀るようになり、
社名の「兩羽」の文字も「諸羽」に改められた。

社殿は応仁の兵火により焼け、その後もしばしば火災に遭った。  
当社は山科一八郷の中で第四番目に当たるとされ、古くは「四ノ宮」と呼ばれて、
この付近の産土神として人々に崇敬された。
 
神社の背後の山は諸羽山といい、平家物語の中に、
「木曽、もろは山の前、四の宮川原に打出で・・・」と記されているのは、
当社周辺のことである。


【鳥居】


鳥居をくぐり境内に車を停め参拝。


【拝殿】


近くの高校生がこの拝殿の上に乗り飲み食いしてるらしく、
注意書きがあった。

まぁ、高校生ってそういう場所でくだらないことを駄弁るのが好きだもんなぁ。(^^;


【本殿】



【狛犬】



【境内社】


天満宮と稲荷神社です。





【御神木】



【岩坐】



【御朱印】