Gomaler's~神社仏閣巡り~癒しを求めて

主に関西の神社仏閣巡りと御朱印集めが趣味です。

六道珍皇寺(2011年5月6日参拝)

2011-05-31 | 仏閣
六道珍皇寺の前の通りを通ると春の特別公開で寺宝展が
行われているようでしたのでちょっと寄り道。


重要文化財の御本尊・薬師如来像をはじめ、
寺宝である熊野観心十界図や閻魔大王像、小野篁像、
播磨の赤松家ゆかりの寺宝が見れました。


臨済宗建仁寺派の寺院。
御本尊:薬師如来


近くにある六波羅蜜寺もそうだけど六道珍皇寺って変わった名前ですよね。
正直私はこの寺の存在を知りませんでした。


調べてこのお寺は毎年8月7日~10日に御先祖の霊をお迎えする、
いわゆる「六道まいり」が有名みたいですね。

六道とは地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天人道の六世界のことで
現世での役目を終了すると生前の善悪の行いによって、
いずれかの世界に誕生するという考え。

そういや孔雀王という漫画にも六道のくだりがあった記憶が。


【山門と辻の碑】


古より冥界への入り口にあたる辻が六道の辻といわれ、
六道の辻は現世とあの世の境と伝わっている。


【薬師堂】



重要文化財の薬師如来坐像が祀られ普段は扉が閉められている。


【閻魔・篁堂】


弘法大師像、小野篁が彫った閻魔大王像、篁像などが祀られていました。


【鐘楼】


毎年の盂蘭盆会にあたり精霊をお迎えするために叩かれるが、
古来よりこの鐘の音は遠くは十万億土の冥土まで響き渡り、
亡者はその響きに応じてこの世に呼び寄せられると伝わることから
「お迎え鐘」と呼ばれている。


【本堂】


手前には三界萬霊供養塔があります。

人間の魂が生死を繰り返しながら輪廻する3つの世界である
欲界、色界、無色界を仏教では三界という。

・俗界は淫欲と食欲の2つの欲望にとらわれた有情の住む世界。
・色界は欲界の2つの欲望は超越したが物質的条件である色にとらわれた
 有情が住む世界
・無色界は欲望も物質的条件も超越し精神作用にのみ住む世界。

万霊というのは三界の有情無情の精霊など全てを差している。

三界萬霊塔はそれらを供養するものという。


【庭園】




本堂奥にありますがなかなか見事な庭園です。


【水琴窟】


澄んだ音色が心地いい。


【井戸】


小野篁(802~852)は平安初期の官僚で閻魔王宮の役人とも言われ、
篁が冥土へ通うのに使ったという井戸が竹林大明神の祠の横にある。


【御朱印】






特別公開と六道まいりの時期だけに販売される御朱印です。
1枚500円の計4000円使いましたが珍しい御朱印なんで思わず大人買いしてしまった。

本願寺大谷本廟(2011年5月6日参拝)

2011-05-30 | 仏閣
方広寺から歩いて大谷本廟へ。
我が家の宗派は浄土真宗なんでやはり寄っておかないとね。

お彼岸の時になると必ず御先祖の墓参りしている風景が
テレビで放送される大谷墓地がここにある。

大谷本廟は浄土真宗本願寺派(西本願寺)の宗祖親鸞の墓所である。
今年は親鸞聖人750回大遠忌の年なんで沢山の人達が来られています。


【総門】


1710年(宝永7年)に建立。
四脚門の立派な門です。


【仏殿】


本堂になります。
1870(明治3)年に再建されたもの。

内陣には寂如上人御作の阿弥陀如来像を中心に、
歴代宗主、左余には七高僧・聖徳太子、右余間には覚信尼のご絵像が
奉懸されています。


【明著堂】




明著堂は親鸞聖人の墓所である祖壇の前に位置する拝堂。


【鐘楼】



【石窟】


この石窟の中で親鸞聖人が学問をされた場所だそうで、
扉が付けられていた痕跡が残っています。



大谷本廟は清水寺や高台寺などビッグネームの寺院が近くにあり、
観光客もたくさん来られていますが観光寺院ではありません。

「観光的」には面白くありませんのでそのつもりでお参りください。

方広寺(2011年5月6日参拝)

2011-05-29 | 仏閣
方広寺は豊国神社の横にあるのでセットで参拝が基本ですね。

天台宗山門派の寺で豊臣秀吉により建立、大日如来、大黒天を祀る。


方広寺といえば何といっても国家安康の鐘。



重要文化財に指定されており、
大きさは高さ4.2m、外形2.8m、厚さ0.27m、重さは82.7トン。

東大寺の大鐘に匹敵する大きさでしょうか。
思っていたより大きな鐘です。

それもそのはず、
東大寺と知恩院のものと合わせ日本三大名鐘の一つとされる。




これが有名な「国家安康」と「君臣豊楽」の銘文。
わざわざ場所が分かり易いように印がついています。

鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文(京都南禅寺の禅僧文英清韓の作)が
徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆するものと
徳川家康がこの2文に難癖をつけ大阪夏の陣を起こし豊臣家を滅亡させた。

これだから徳川家康は関西では嫌われてるんですよね。




また鐘楼には天井画が描かれている。


【本堂】


拝観料200円を支払い中へ。
ここの良いところはちゃんと若い僧侶が説明してくれるところです。


【大黒天像】




本堂の右側の部屋に入ってみると大黒天や不動明王が祀られている。

御手前の大きな大黒天像の頭上にある小さな大黒天を秀吉は
常に持っていたとされる。


【眉間籠り仏】


左の部屋に入ると眉間籠り仏がある。

この仏様は焼失した大仏の眉間に埋め込まれていたものを救いだしたそうです。


【大仏】




江戸時代の天保年間、焼失した旧大仏を模した1/10の木造半身像が寄進されたが、
昭和48年(1973年)に失火による火災により焼失した。
大仏は台座の一部などが現存する。

台座は触ってもいいということで歴史を刻んだ貴重なモノに触らせていただきました。

方広寺の大仏は不幸といいますか、
1595年に秀吉が建立した大仏は東大寺の大仏を凌ぐ大きさで、
大仏殿の高さは50メートルにも至ったようである。

だが、翌年に襲った大地震で大仏は崩壊し崩壊した大仏を見て、
「京の町を守るのを忘れ、真っ先に倒れるとは慌て者が」と怒ったそうです。

秀吉の死後、1602年に豊臣家の財力を削ろうと徳川家康は秀頼に
再び大仏の再建に着手させるが火災で焼失。

その後、2回ずつ崩壊と再建したが、
昭和48年の失火以後再建されていない。


もし秀吉や秀頼が建立した大仏が今でも存在したいたら、と思うと
本当に残念でならない。


【遺物】








大仏殿の隣の部屋には大仏の遺物や秀吉公の掛け軸などがありました。

こちらでも詳しく説明していただき大変勉強になりました。


【大仏殿跡】


今や寂しく公園になっていました。


【正面通】
豊国神社や方広寺の前には「正面通」という名の通りがある。

当時、大仏殿を正面に見るこの通りを江戸時代の京の人々がそう呼んだのが始まり。

唯一残った秀吉の遺構の大仏殿を「正面」と呼ぶことで、
密かに秀吉を偲んでいた証です。


【童歌】
「京の大仏つぁんは 天火で焼けてな 三十三間堂が焼け残った 
 アラどんどんどん コラどんどんどん 後ろの正面どなた」

大仏が落雷により焼失した時に流行った童歌ですが、
「後ろの正面どなた」とは正面の後ろに葬られた秀吉のことだと思うが、
何故この歌詞なんでしょうね。


【御朱印】


豊国神社(2011年5月6日参拝)

2011-05-28 | 神社
【由緒】
豊臣秀吉の死去の翌年の1599年(慶長4年)、
遺体が遺命により方広寺の近くの阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、
その麓に方広寺の鎮守社として廟所が建立されたのに始まる。

後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神の神号が贈られ鎮座祭が行われたが、
豊臣宗家が滅亡すると徳川幕府により神号が廃され、
社領は没収、社殿は朽ちるままにされ、御
神体は新日吉神社にひそかに移し祀られた。

1868年(明治元年)明治天皇が豊臣秀吉について
天下を統一しながら幕府は作らなかった尊皇の功臣であるとして、
豊国神社の再興を布告した。
1873年(明治6年)、別格官幣社に列格、1880年(明治13年)、
方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し遷座が行われた。





【鳥居】



【唐門】




桃山時代建築の国宝建造物だけあって豪華絢爛です。


【拝殿】



【御朱印】



【御朱印帳】


買った時は左の写真のように豪華な襖絵風な絵柄の御朱印帳だったので
即決で買ったのですが家に帰って見てみるとポストカードが挟んでました。(笑)

でも右の写真のように渋い御朱印帳だったので、
これはこれでいいもんです。(^^

新日吉神宮(2011年5月6日参拝)

2011-05-27 | 神社
豊国廟参拝後、女坂と呼ばれる参道を少し下ると京都女子学園があり、
その下に新日吉神宮がある。

新日吉を「いまひえ」と読むのですが、
普通「しんひよし」にしか読めませんよね。


比叡山延暦寺の守護神である滋賀県坂本にある日吉大社を勧請したのが
始まりだそうで社伝によれば1160年(永暦元年)後白河上皇の命により、
現在より南に創建されたと伝えられる。


日吉大社には徳川家康を祀る日吉東照宮があるように、
徳川家康の神格化の東西一直線の西が日吉大社にあたります。

その日吉大社に繋がりのある新日吉神宮を家康は
豊国廟を破壊しただけでは物足りなかったのか、
秀吉神格化の東西一直線の分断の為にその直線上に置き、
さらには秀吉に根来寺を焼き討ちにされ、
いわば仇敵である根来衆の寺院である智積院もその線上に置いた。

また本願寺に相続争いが起こると内部分裂に乗じて、
東本願寺を建立し秀吉神格化の東西直線をここでも分断させた。

つまり徳川家康は自身の神格化にとって邪魔な秀吉を、
神の座から降ろそうと徹底的に分断したわけです。


いつしか時は明治の時代に入ると、
豊国廟は明治天皇の命令で再興され参道を整備する際に
参道の直線にあった新日吉神宮を現在の場所に移動したそうです。


やっぱり歴史を勉強すると面白い。



【鳥居、楼門】



【武者】


神社には珍しい楼門。
お寺だったら仁王像なんですけどね。


【拝殿】



【本殿】



【舞殿】



【天満宮】



【豊国神社・愛宕神社/秋葉神社】


末社に豊国神社があるように、
徳川の時代でも秀吉は密かに敬われていたようです。


【スダジイ】


京都市指定保存樹。


【山口稲荷社】



【御朱印】