本日最後の参拝になるのが金泉寺。
所在地:徳島県板野郡板野町大寺66
宗派:高野山真言宗
御本尊:釈迦如来
創建:伝・天平年間(729-749)
開基:伝・行基、
勅願:聖武天皇
中興:延宝2年(1674)、南山国師
札所:四国八十八箇所3番
【歴史】
聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が寺塔を建立し、
「金光明寺」と命名されたと伝えられる。
その頃の本尊は高さ約91センチの釈迦如来像で、
脇侍に阿弥陀如来、薬師如来の三尊像を安置して開基したという。
弘仁年間(810〜24)になって弘法大師が四国を巡教された際、
村の人たちが日照りに苦しんでいるのを見て、この地に井戸を掘られた。
この井戸から湧き出た水は霊水で、「長寿をもたらす黄金の井戸」とされ、
寺名の「金光明寺」を改め、「金泉寺」とした。
その後、亀山天皇(在位1259〜74)が法皇になられ、
弘法大師を篤く信仰されて各地の霊跡を巡拝、金泉寺にもしばらく滞在された。
黄金地蔵尊その間に、京都の三十三間堂(蓮華王院)に倣ならった堂舎を建立し、
1000の千手観音像を祀られ背後の山を「亀山」と命名し山号も「亀光山」と改めた。
以来、皇室との縁が深く長慶天皇(在位1368〜83)の御陵も本堂裏にある。
また源平合戦(元暦2年=1185)のおり、源義経が屋島に向かう途中に金泉寺に立ち寄り、
戦勝開運の祈願をしたと「源平盛衰記」に伝えられている。
本堂の左手にある慈母観音子安大師は義経の祈願所ではあるが、
境内西隣にある「弁慶石」もその一つで、義経が弁慶の力試しに持ち上げさせたと伝えられている。
健やかに育てと願う親心の観音菩薩んは今も人生の開運を願う参詣者が多く訪れる。
【仁王門】
とても立派な仁王門です。
京都や奈良の本山ならいざ知らず、
徳島の田舎のお寺には不釣り合いなほどです。
さすがお遍路の札所だけあって儲かっているのであろう。
【本堂】
【多宝塔】
【御朱印】
【瀬戸内海】
車窓より。
これが私にとって初めての巡礼であった。
非常に良い経験になったし勉強にもなった。
何より良い供養が出来たと思っている。
所在地:徳島県板野郡板野町大寺66
宗派:高野山真言宗
御本尊:釈迦如来
創建:伝・天平年間(729-749)
開基:伝・行基、
勅願:聖武天皇
中興:延宝2年(1674)、南山国師
札所:四国八十八箇所3番
【歴史】
聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が寺塔を建立し、
「金光明寺」と命名されたと伝えられる。
その頃の本尊は高さ約91センチの釈迦如来像で、
脇侍に阿弥陀如来、薬師如来の三尊像を安置して開基したという。
弘仁年間(810〜24)になって弘法大師が四国を巡教された際、
村の人たちが日照りに苦しんでいるのを見て、この地に井戸を掘られた。
この井戸から湧き出た水は霊水で、「長寿をもたらす黄金の井戸」とされ、
寺名の「金光明寺」を改め、「金泉寺」とした。
その後、亀山天皇(在位1259〜74)が法皇になられ、
弘法大師を篤く信仰されて各地の霊跡を巡拝、金泉寺にもしばらく滞在された。
黄金地蔵尊その間に、京都の三十三間堂(蓮華王院)に倣ならった堂舎を建立し、
1000の千手観音像を祀られ背後の山を「亀山」と命名し山号も「亀光山」と改めた。
以来、皇室との縁が深く長慶天皇(在位1368〜83)の御陵も本堂裏にある。
また源平合戦(元暦2年=1185)のおり、源義経が屋島に向かう途中に金泉寺に立ち寄り、
戦勝開運の祈願をしたと「源平盛衰記」に伝えられている。
本堂の左手にある慈母観音子安大師は義経の祈願所ではあるが、
境内西隣にある「弁慶石」もその一つで、義経が弁慶の力試しに持ち上げさせたと伝えられている。
健やかに育てと願う親心の観音菩薩んは今も人生の開運を願う参詣者が多く訪れる。
【仁王門】
とても立派な仁王門です。
京都や奈良の本山ならいざ知らず、
徳島の田舎のお寺には不釣り合いなほどです。
さすがお遍路の札所だけあって儲かっているのであろう。
【本堂】
【多宝塔】
【御朱印】
【瀬戸内海】
車窓より。
これが私にとって初めての巡礼であった。
非常に良い経験になったし勉強にもなった。
何より良い供養が出来たと思っている。