大満足の多宝塔を見た後は関西花の寺の興聖寺へ。
こちらも依然から訪れたかったお寺です。
その前に腹が減ったので興聖寺近くの蕎麦屋さんで昼食。
【近江牛十割蕎麦】
近江牛と十割蕎麦のコラボ。
美味しいけど味が濃いので、
折角の十割蕎麦が勿体ない気がした。
所在地:滋賀県高島市朽木岩瀬374
宗派:曹洞宗
御本尊:釈迦如来
創建:仁治元年(1240)
開基:佐々木信綱
札所:関西花の寺二十五霊場
【縁起】
人皇7代四条天皇の嘉禎3年(1237)近江源氏近江守護佐々木信綱が、
京都で宋から帰洛された曹洞宗開祖道元禅師に謁し、
承久の乱で戦死した一族の供養をお願いし、朽木の里に拝請、
この時禅師は付近の山野の風景が伏見深草の興聖寺に似て、
絶景だと喜ばれ一寺の創建を奨められ、山号を高巌山興聖寺とするよう勧奨されました。
それから三年の仁治元年、七堂伽藍が完成し遷仏式には、永平二世孤雲懐奘禅師の拝請を賜り、
それ以来当山が曹洞宗第三の古道場といわれました。
寛元元年(1243)再び当山に寄られて御教化されて以来、
永平寺の直末とし慶長三年まで格別兼務地として続き、
永平十九世龍眠柞球禅師が当山に隠栖されてより、
独住世代として三十六ヶ寺の末寺を有し、近江八十八ヶ寺の総禄所の地位を保っていました。
また、十三代将軍義輝は家臣細川幽斎を従え6年半滞在。
その際、幽斎は熊川城主の姫を迎え二代目忠興が誕生、
後に忠興は三斎と称し千利休をこの庭園に案内したのである。
開基佐々木信綱は宇多天皇の直系で曾孫義綱は氏を朽木と改めました。
代々朽木を領し明治廃藩まで続き、当山はその菩提所でもあります。
【山門】
禅寺らしく質素な門です。
駐車場は庫裏の奥にありました。
【鎮守社】
【石碑】
この辺りは天気のせいか、幽玄な雰囲気でした。
【本堂】
相変わらず花の寺なのに花が無い時に訪れた。
花が目的ではなく、参拝が目的なのでモーマンタイ。
庫裏で御朱印をお願いすると本堂にあげていただいた。(^^
【内陣】
龍をあしらった装飾が美しい。
撮影OKです。(^^
ここの凄い所は須弥壇の上に階段で登れて、
近くまで御本尊様にお近づきになれることなんです。
それを聞いた時に「え?本当にいいの?」って思ったよ。(^^;
近くまで近寄れることはあっても、
須弥壇の上に登らせてくれるお寺は他に知りません。
平安時代中期の最澄作と伝わる重文の釈迦如来坐像。
こんなに近くで見れて感動。
何故最澄作の御本尊があるのか、疑問に思ってましたが、
江戸時代になって天台系寺院が改宗したものと推測される。
幕府及び朽木氏の比叡山勢力の再興を防ぐ為の、
政治的配慮であったそうです。
御本尊の他に三十三観音や菩薩像、高僧像等が祀られていました。
縛り不動明王坐像。
楠正成の念持仏である不動明王が兵火の被害に遭わないように、
朽木時経が河内千早城から持ち帰ってきたもの。
【秋篠宮殿下】
修学旅行かなんかで訪れたようですね。
【細川元首相】
【足利庭園】
享禄元年(1528)12代足利将軍義晴は細川晴元・三好元長らの反乱の難を避け、
朽木稙綱を頼って享禄4年(1531)まで朽木谷に滞在。
管領細川高国が将軍義晴を慰める為に贈った庭園。
銀閣寺の庭園をもとに作庭したそうです。
【鐘楼堂】
【風景】
見ての通り、車が無いと訪れにくいお寺です。
お陰で禅寺らしく落ち着いた雰囲気のお寺となっています。
【御朱印】
どうやら書置き対応のみのようです。
こちらも書置きですが、芸術作品のようです。
とにかく須弥壇に登れることが衝撃でした。
また訪れたいと思うお寺であった。
こちらも依然から訪れたかったお寺です。
その前に腹が減ったので興聖寺近くの蕎麦屋さんで昼食。
【近江牛十割蕎麦】
近江牛と十割蕎麦のコラボ。
美味しいけど味が濃いので、
折角の十割蕎麦が勿体ない気がした。
所在地:滋賀県高島市朽木岩瀬374
宗派:曹洞宗
御本尊:釈迦如来
創建:仁治元年(1240)
開基:佐々木信綱
札所:関西花の寺二十五霊場
【縁起】
人皇7代四条天皇の嘉禎3年(1237)近江源氏近江守護佐々木信綱が、
京都で宋から帰洛された曹洞宗開祖道元禅師に謁し、
承久の乱で戦死した一族の供養をお願いし、朽木の里に拝請、
この時禅師は付近の山野の風景が伏見深草の興聖寺に似て、
絶景だと喜ばれ一寺の創建を奨められ、山号を高巌山興聖寺とするよう勧奨されました。
それから三年の仁治元年、七堂伽藍が完成し遷仏式には、永平二世孤雲懐奘禅師の拝請を賜り、
それ以来当山が曹洞宗第三の古道場といわれました。
寛元元年(1243)再び当山に寄られて御教化されて以来、
永平寺の直末とし慶長三年まで格別兼務地として続き、
永平十九世龍眠柞球禅師が当山に隠栖されてより、
独住世代として三十六ヶ寺の末寺を有し、近江八十八ヶ寺の総禄所の地位を保っていました。
また、十三代将軍義輝は家臣細川幽斎を従え6年半滞在。
その際、幽斎は熊川城主の姫を迎え二代目忠興が誕生、
後に忠興は三斎と称し千利休をこの庭園に案内したのである。
開基佐々木信綱は宇多天皇の直系で曾孫義綱は氏を朽木と改めました。
代々朽木を領し明治廃藩まで続き、当山はその菩提所でもあります。
【山門】
禅寺らしく質素な門です。
駐車場は庫裏の奥にありました。
【鎮守社】
【石碑】
この辺りは天気のせいか、幽玄な雰囲気でした。
【本堂】
相変わらず花の寺なのに花が無い時に訪れた。
花が目的ではなく、参拝が目的なのでモーマンタイ。
庫裏で御朱印をお願いすると本堂にあげていただいた。(^^
【内陣】
龍をあしらった装飾が美しい。
撮影OKです。(^^
ここの凄い所は須弥壇の上に階段で登れて、
近くまで御本尊様にお近づきになれることなんです。
それを聞いた時に「え?本当にいいの?」って思ったよ。(^^;
近くまで近寄れることはあっても、
須弥壇の上に登らせてくれるお寺は他に知りません。
平安時代中期の最澄作と伝わる重文の釈迦如来坐像。
こんなに近くで見れて感動。
何故最澄作の御本尊があるのか、疑問に思ってましたが、
江戸時代になって天台系寺院が改宗したものと推測される。
幕府及び朽木氏の比叡山勢力の再興を防ぐ為の、
政治的配慮であったそうです。
御本尊の他に三十三観音や菩薩像、高僧像等が祀られていました。
縛り不動明王坐像。
楠正成の念持仏である不動明王が兵火の被害に遭わないように、
朽木時経が河内千早城から持ち帰ってきたもの。
【秋篠宮殿下】
修学旅行かなんかで訪れたようですね。
【細川元首相】
【足利庭園】
享禄元年(1528)12代足利将軍義晴は細川晴元・三好元長らの反乱の難を避け、
朽木稙綱を頼って享禄4年(1531)まで朽木谷に滞在。
管領細川高国が将軍義晴を慰める為に贈った庭園。
銀閣寺の庭園をもとに作庭したそうです。
【鐘楼堂】
【風景】
見ての通り、車が無いと訪れにくいお寺です。
お陰で禅寺らしく落ち着いた雰囲気のお寺となっています。
【御朱印】
どうやら書置き対応のみのようです。
こちらも書置きですが、芸術作品のようです。
とにかく須弥壇に登れることが衝撃でした。
また訪れたいと思うお寺であった。