Gomaler's~神社仏閣巡り~癒しを求めて

主に関西の神社仏閣巡りと御朱印集めが趣味です。

高倉天皇皇后徳子 大原西陵(2013年5月2日参拝)

2013-05-26 | 廟墓
寂光院の隣にあるのが建礼門院の陵墓。

寄らない観光客は多いけど、
折角なんで寄っていきましょう。





【建礼門院】
名を平徳子といい平清盛の娘であり高倉天皇の中宮。
安徳天皇の母として余りにも有名。

平家物語によると徳子は安徳天皇・時子の入水の後に自らも飛び込むが、
渡辺昵に救助されたという。

文治元(1185)年9月に入寺し、真如覚比丘尼と称した。

そして源平の戦に破れて遠く壇ノ浦で滅亡した平家一門と、
我が子安徳天皇の菩提を弔い終生を寂光院で過ごされた。


【高倉天皇】
第80代天皇。
後白河天皇の第7皇子。
母び平滋子は平清盛の妻である平時子の異母妹。
安徳天皇、後鳥羽天皇らの父。


【参道】



【陵墓】




壇ノ浦の安徳天皇陵に約一年前に参拝したことを思い出し、
何だか感慨深いものを感じました。


<2012年3月10日参拝>
http://blog.goo.ne.jp/05100625/e/bd2497142519645db27ea337c818c66e


【大原の里】


さて、この後は知る人ぞ知る紅葉の名所である阿弥陀寺へ向かいます。

後鳥羽天皇・順徳天皇 大原陵(2013年5月2日参拝)

2013-05-19 | 廟墓
実光院に到着すると前に天皇陵があり、
まぁ、見て損はしないので行ってみた。




後鳥羽天皇と順徳天皇が葬られているんですね。


【後鳥羽天皇】
■代数:第82代
■天皇名:後鳥羽天皇
■御父:高倉天皇
■御母:七條院藤原殖子
■御陵名:大原陵


【順徳天皇】
■代数:第84代
■天皇名:順徳天皇
■御父:後鳥羽天皇
■御母:修明門院藤原重子
■御陵名:大原陵



【参道】




さすが大原だけあって他の殺風景な天皇陵とは違い雰囲気がいい。


【大原陵】



【法華堂】






延応元年(1239)に隠岐で崩御した後鳥羽上皇はその地で火葬され、
遺骨は上皇の北面の武士であった藤原能成によってはるばる運ばれ、
大原の勝林院(異説あり)に納められます。

大原の地が選ばれたのは上皇の皇子尊快親王が梶井宮門跡であったことによるようです。

2年後の仁治2年(1241)尊快親王とその母・修明門院藤原重子の計らいにより
勝林院の傍らに上皇ゆかりの水無瀬離宮の廃材を利用した法華堂が建立され、
上皇の遺骨は法華堂へと遷されました。

これが「大原法華堂」(先代)です。

一方の順徳上皇は仁治3年に佐渡で崩御しその地で火葬されます。
遺骨は上皇に仕えていた左衛門大夫康光により運ばれ、
寛元元年(1243)に大原の地に納められます。

順徳上皇の納骨先は史料上では明確ではないようですが、
上野は父帝の「大原法華堂」に納められた可能性を指摘しています。

この「大原法華堂」はその後も存続していたようですが、
江戸時代の安永年間に焼亡し場所を西に移して再建されました。
これが現在も大原陵の隣に見ることの出来る法華堂です。
(ネットより引用)



この法華堂がいい。
実に渋いです。

御本尊は普賢菩薩で幼少の聖徳太子像が祀られているそうです。

宮内庁管轄だと思いますが、
非公開ということが残念です。

叶うことなら御本尊を拝みたいものである。

崇神天皇陵(2012年9月29日)

2012-10-20 | 廟墓
169号線を走っていると前から気になってた神社の前を通った。

神社の名は伊射奈岐神社。
今日こそは参拝したいと思いつつ駐車場が見つからないので、
神社の斜め前にある崇神天皇陵の駐車場に車を停めた。

いくら無料とはいえ、
駐車場に停めさせてもらっているので崇神天皇陵を見学させてもらうことに。

正直、天皇陵には興味はあんまり無いんだけどね。(^^;


【崇神天皇】
・代数:第10代
・御父:開化天皇
・御母:皇后伊香色謎命
・御陵名:山邊道勾岡上陵
・陵形:前方後円
・所在地:奈良県天理市柳本町
・陵印保管場所:畝傍陵墓監区事務所


【制札】



【拝所】



【玉垣】



【石柱】



【鳥居】



【濠】







うーむ、
特に感想はないなぁ。

相変わらず天皇陵はさっぱりとしたもんです。

撤収。

豊国廟(2011年5月6日参拝)

2011-05-25 | 廟墓
今日は京都の豊国廟、豊国神社、方広寺、新日吉神宮など
豊臣秀吉所縁の場所に参拝して参りました。

秀吉死後、通夜を営むこともなく朝廷より豊国大明神の神号を与えられ
阿弥陀ヶ峰に葬られたのが豊国廟といいます。

ここから西の方角に秀吉の氏寺の方広寺があり、
そこに大仏殿を建立。

そうです、昔は奈良の大仏を越える20メートルもの大仏があったのです。
地震や落雷で今は大仏がないのが惜しまれます。

そして方広寺の横には秀吉を神として祀った豊国神社があり、
更なる西方には死後浄土へ送り届けてくれる阿弥陀如来を本尊とする
本願寺があります。

これを陰陽道的にいうと太陽が東から昇り西へ向かうように、
死と再生を繰り返すさまを表わしています。
(東西直線による神格化の中で最東が神への再生なら、
 最西は死への道という考えが陰陽道にあります。)

つまり豊国廟から本願寺までの一直線上の、
一番東にある豊国廟に自分の遺体を埋葬させたのは、
自分が神となるためだったという。

だが、豊国神社と豊国廟は家康の計略により徹底的に破壊され
幕府の手により封鎖され参拝することも許されなかったという。

そんな歴史があったんですね。


そしてその歴史の一端をこの目で見てきました。


場所は女子大の上にあるので女子大の前を通ると、
ミニスカートの女子大生にハァハァ…しつつ更に山の方へ。




拝観料50円を支払っていざ。

しかし目の前にとんでもない階段が。


めっちゃハードな階段です。





この階段半端ねー。
足にくる。

一体何段あるねん?

500段以上あるらしい。(^^;

ハァハァ…

汗かきまくり。




やっと着いたと思ったらまだ上に階段が。(泣)
まだあるんかよ~。




豊臣家の家紋です。




また重い足を引きづるように階段を登る。

マジできつい。

もう二度と豊国廟には来ねー!と思いつつやっとのことで到着。
本当に疲れました。





頂上には大きな廟墓があり、
こんな大きな石をどうやって運んだのか不思議です。





これは明治天皇の命令で再興されたそうですが、
その時、壷の中にはミイラが一体見つかり、
そのミイラが今も廟墓に眠っています。

もちろんその遺体は秀吉公のはずですが、
その様式は一般平民のように屈葬だっといいます。

貴人であれば遺体は横たえられた棺と副葬品があるのが普通で、
副葬品もなく破壊された棺の木片も出たことから
遺体はすり替えられた可能性があるそうです。

そうすれば誰が遺体をすり替えたのか?

こんなことが出来てかつ死後の秀吉ですら邪魔な存在と思っていたのは、
そう、家康しかいませんね。


何故家康なのか?


それは新日吉神宮の時に書きます。


さて今も廟墓に眠っているのは秀吉なのか?
それとも秀吉ではないのか?
本当に家康がすり替えたのか?

果たして真相やいかに?


やっぱり歴史はロマンを感じますね。




帰りの階段を下りる時は怖さを感じました。(^^;