Gomaler's~神社仏閣巡り~癒しを求めて

主に関西の神社仏閣巡りと御朱印集めが趣味です。

妙蓮寺(2014年9月27日参拝)

2014-10-29 | 洛中法華21ヶ寺
続きまして前回参拝時にいただけなかった御朱印と、
庭園を拝観する為に法華宗大本山の一つである妙蓮寺へ。



<2013年3月2日参拝>
http://blog.goo.ne.jp/05100625/e/47aa25292137a1c852c911b4bf9d6fff



所在地:京都府京都市上京区寺之内通大宮東入る妙蓮寺前町875
宗派:本門法華宗
御本尊:十界曼荼羅
創建:永仁2年(1294)
開山:日像上人
開基:柳屋仲興
札所:洛中法華21ヶ寺



【歴史】
開山の日像は日蓮の高弟日朗に師事し、後に日蓮の遺命を受けて帝都における布教に努めた。
五条西洞院の酒屋柳屋仲興は日像上人に帰依し、
永仁2年(1294年)その夫人妙蓮法尼によって邸内に法華堂が建立され妙法蓮華寺と号した。

寺はその後荒廃したが応永年間(1394-1428)、
日慶により四条大宮に再興され寺号を妙蓮寺とした。
その後、公家の庭田重有の子・日応を住持に迎えた。

妙蓮寺は天文5年(1536)天文法華の乱で焼失し堺に避難するが、
天文11年(1542)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、
妙蓮寺は同年大宮元誓願寺通に伽藍を再建した。

天正15年(1587)、豊臣秀吉の命により現在地に移転。
享保15年(1730)の西陣焼けでは本堂、祖師堂などの主要堂宇は焼け残ったが、
天明8年(1788年)の天明の大火により伽藍を焼失。
寛政元年(1789年)再建された。


【山門】


車はこの山門をくぐり境内に停めれます。


【本堂】



【鐘楼堂】



【表書院】




長谷川等伯の絵に興味は無いので、本坊で拝観料500円を支払い中へ入ると、
まずは表書院に通されます。

等伯の絵に興味がある方はプラス300円です。


【十六羅漢石庭】






桂離宮の造営を指図した妙蓮寺の僧玉淵坊日首の作庭。


法華宗の寺院なのに禅宗洋式の枯山水で作庭されている。
この十六羅漢の石庭の意味するところは法華経の世界観を顕していて、
中央の大きな臥牛石は、久遠の釈迦を表し、
他の石群は地涌の菩薩を表していると解釈するのが妥当とされる。


【奥書院】



【十六羅漢石庭】






奥書院から見た石庭。

凄く落ち着けて良い石庭だと思います。

龍安寺の石庭のように、もう少し奥行があって、
壁も白じゃなく茶色だったらもっと良いんじゃないかなと思う。


【本堂内陣】



【酔芙蓉】





【御朱印】


書置きをいただきました。

妙蓮寺(2013年3月2日参拝)

2013-04-26 | 洛中法華21ヶ寺
以前参拝して御朱印をいただけなかった興聖寺へ向かうも、
山門が閉まってる。

なんでやねん。(泣)


気を取り直して興聖寺近くの妙蓮寺へ。



所在地:京都府京都市上京区寺之内通大宮東入妙蓮寺前町875
宗派:本門法華宗
御本尊:十界曼荼羅
創建:永仁2年(1294)
開山:日像
開基:柳屋仲興
札所:洛中法華21ヶ寺


【沿革】
宗祖日蓮大聖人より帝都弘通宗義天奏の遺命を受けた日像聖人が遺命を果たす為、
鎌倉より京都へ上られた時、五条西洞院の柳酒屋は深く聖人に帰依し、
未亡人は邸内に一宇を建立して聖人を請じ卯木山妙法蓮華寺と称した。
これが妙蓮寺の縁起である。

その後、たびたびの法難にあったが応永年間(1420年頃)本勝迹劣、
本迹一致の論争を契機に妙顕寺を退室した日慶聖人によって
柳屋の地に本門八品門流として再興された。

その後、寺域を堀川四条に移し皇室ならびに伏見宮家と関係深い日応僧正を迎えるに及び、
皇族始め足利将軍義尚等の参詣多く、また今出川家の公達日忠聖人は、
三井寺より改宗して当寺に投じて学室道輪寺を創立し、本化教学の道場を開く。
ここにおいて当寺の法運は隆昌を極め、山門の様式も格式高いものとなった。

天文5年(1536)には法華宗の隆昌を妬む比叡山天台宗を筆頭に
諸宗の僧俗10万人によって襲撃され、妙蓮寺をはじめとする日蓮聖人門下21本山は、
ことごとく灰燼に帰し堺に立ち退いた。
 
天文11年(1542)大宮西北小路に復興され、天正15年(1587)には、
豊臣秀吉の聚楽第造営に際して現在地に移転した。
当寺は1k㎡の境内に塔頭27ヶ院を有する大寺院であったが、
天明8年(1788)の大火によって、そのほとんどが焼失し僅かに宝蔵・鐘楼を残すのみとなった。

寛政元年より漸次復興して現在に至り塔頭8ヶ院を残す。


【山門】


日蓮系法華宗としてはなかなか良い雰囲気を感じる。

それもそのはず、
文政元年(1818)に禁裏(御所)より拝領したものだそうです。


【鐘楼堂】


袴腰鐘楼はやっぱりいいですね。


【本堂】


1789年に敦賀本妙寺の祖師堂を移したものだそうですが、
本堂を見ると最近改築されたものと推測出来ます。


【日像上人像】



【庭】


桜が咲いたらさぞかし美しいことだろう。

でも私はその時期に神社仏閣は出来るだけ参拝しないようにしている。
何故なら私は桜で着飾った神社仏閣よりも普段のありのままを見たいから。


【庫裏】


こちらで御首題や拝観受付をしています。

このお寺では500円を支払えば十六羅漢石庭や秀吉が寄進した臥牛石が拝観可能。
更に300円追加すれば収蔵庫や長谷川等伯の襖絵が拝観可能。

うーむ、合計800円か。
なかなかヘビーですね。

だから長谷川等伯だけを見に来る人も結構いるとか。

私は長谷川等伯に興味は無いですが。


尚、京都のお寺には珍しく素泊まり3800円で宿泊出来ます。

お金が無くてお寺の雰囲気を感じたい方は是非。(^^
十六羅漢の庭園無料見学の特典付きです。


「ひとりでうろつく京都(β版)」というブログでクリスマスイブに
男ひとりで素泊まりされている様子が書かれていますのでご紹介しておきます。(笑)

http://aloneagainorkyoto.com/2011/2011-12-24-myourenji-01/


【刀痕】




庫裏の柱にありました。


御首題は上人が留守で書置きも品切れでしたのでいただけませんでした。

またの機会にいただきに訪れたいと思います。

本隆寺(2013年3月2日参拝)

2013-04-25 | 洛中法華21ヶ寺
続きましては洛中の真ん中にある法華宗真門流総本山本隆寺へ。



所在地:京都府京都市上京区智恵光院五辻上ル紋屋町330
宗派:法華宗真門流
御本尊:三宝尊
創建:長享2年(1488)
開山:日真上人
札所:洛中法華21ヶ寺


【歴史】
慧光無量山本妙興隆寺(略して本隆寺)と称し、
日蓮門下京都十六本山の一つで法華宗真門流の総本山である。

開山は中山大納言親通卿の子、日真で後柏原帝より大和尚の称号を下賜された。
長享2年(1488)堂宇を四条大宮に創立したが四代日映の時、天文法乱のため諸堂焼失、
泉州堺に避難することとなります。
1542年、杉若若狭守旧地の現在地に建立した。

十代日遵の時、京都御所の炎上により類焼、明暦3年(1657)名匠坂上作左衛門が再建、
以来享保15年(1730)、天明8年(1788)の二度に京都大火は西陣一帯を焼野原となり、
寺も再び山門・鐘楼・方丈・塔頭と悉く焼失しますが本堂・祖師堂・宝庫は消失を免れます。
それより「焼けずの寺」の異名がつくようになりました。


【日真上人】
室町時代の法華宗の僧で日真門流、本隆寺派(現在の法華宗真門流)の祖。

中山親通の子で1449年(宝徳1年)妙境寺の日全を師として出家。
1456年(康正2年)園城寺に修学、1461年(寛正2年)延暦寺に修学する。
1467年(文正2年)妙本寺の日具に師事するが法華経について論争があり、
妙本寺を出て1488年(長享2年)日真は本隆寺を建立し、
日真門流という一派を興す。
その後、本境寺・本興寺を創建した。


【山門】


駐車場は山門をくぐり右手の本堂横にありました。

しかし、境内の至る所が駐車場になってしまって残念な風景になっている、
他の本山と違いここはそんなことにはなっておりませんでした。


【鐘楼堂】



【本堂】


さすが本山と言うべき立派な本堂です。


【祖師堂】



【経堂】





【番神堂】



【夜泣止松】





【山門】


裏側にも少し小さい山門がありました。
通用門みたいなものでしょうか。


【勅使門】


雪がチラついてきた。

寒い。


【庭】



【御首題】


この髭文字がいいですね~。

功徳をいただけるようでありがたやありがたや。

立本寺(2013年3月2日参拝)

2013-04-23 | 洛中法華21ヶ寺
京都にはまだまだ日蓮宗の本山がある。

今日は日蓮宗のお寺をメインにしているので、
少し離れた場所にある立本寺へ。

このお寺には雪舟の寒山拾徳図、島左近の墓があるそうな。


所在地:京都府京都市上京区七本松通仁和寺街道上ル一番町107
宗派:日蓮宗
御本尊:三宝尊
創建:元亨元年(1321)
開山:日像聖人
札所:洛中法華21ヶ寺


【縁起】
具足山立本寺は日蓮宗八本山の一つで京都の法華系本山十六ヶ寺の内、
大本山妙顯寺・本山妙覚寺・本山立本寺を三具足山といい、
いずれも日蓮聖人の孫弟子にあたる日像上人(龍華樹院)により開山される。
 
日蓮聖人ご入滅にさいし京都布教の命を受けた日像上人は、
いく度も都を追放されながらも民衆救済の使命に燃え、暦応4年(1341)、
四条の櫛笥に妙顯寺を建立するが叡山僧兵によって破却され、明徳4年(1393)、
日実上人がその地に再建、「本寺を立てる」という意味を込め「立本寺」と改名した。
 
しかし天文5年(1536)、再び僧兵によって破却され、いち早く再興されたものの、
文禄3年(1594)、秀吉の命で京極今出川(寺町今出川)に移転。
広大な寺域を得たが宝永5年(1708)の大火で焼失し現在地に移転、今に至る。


【山門】


安永7年(1771)に建立された立派な高麗門。
さすが本山だけあります。

駐車場は山門横の短い参道の近くにありました。


【本堂】




堂内須弥壇には「冑の御影」と呼ばれる祖師像(日蓮聖人座像)が祀られているそうです。


【刹堂】


鬼子母神、十羅刹女、大黒尊天や安産守護・霊鷲院日審上人が祀られている。


【祖師堂】


晴れているにも限らず陰な雰囲気を感じます。


【妙見堂】



【鐘楼堂】


なんと、よく見ると鐘がない。(^^;

しかも本山でですよ。
こんな鐘楼堂は初めて見た。


お寺によりますと、
江戸中期に建立された大鐘楼堂は第二次世界大戦中に鐘楼を接収された為、
鐘楼堂だけの状態となっておりますが、
平成25年に迎える大覚大僧正650 遠忌にむけて、この鐘楼を復元すべく、
「平成の大鐘楼」として発願中とのこと。

10万円以上のご志納をされた方には、
復元される鐘楼にお名前を刻字し永く顕彰されるそうだ。

私がこの寺の檀家なら10万円出していただろうね。
だって自分の名前が刻まれた鐘楼が数百年以上の長きあいだ残るんだから。


【宝蔵】


境内に隣接した児童公園にありました。


【大玄関】


宮さまのご来山、ご本山の貫首猊下のご来山、大行事や特別行事の時にのみ開かれる玄関。


【方丈】


御首題はこちらでいただきました。


【御首題】


見事としか言いようがない。


尚、塔頭の教法院と大輪院でも御首題をいただけますが、
私は特にいただきたいとは思いませんでした。

妙覚寺(2013年3月2日参拝)

2013-04-22 | 洛中法華21ヶ寺
妙顕寺の近くにあるのが日蓮宗の妙覚寺。

妙覚寺といえば本能寺の変の時、
信長の嫡男信忠が寄宿していたお寺で有名ですよね。




所在地:京都府京都市上京区上御霊前通小川東入下清蔵口町135
宗派:日蓮宗
御本尊:十界曼荼羅
創建年:永和4年(1378)
開山:日実
開基:小野妙覚
札所:洛中法華21ヶ寺


【歴史】
日実はもと妙顕寺の僧であったが教義や後継問題をめぐる寺内の意見対立の為、
同寺から離脱し、小野妙覚の外護により四条大宮に妙覚寺を建立。

実質的な創立者は日実であるが妙覚寺では日像を開山、日実を4世としている。

寺は寛正7年(1466)近隣の本覚寺と合併し寺域を広げる。
文明15年(1483)には足利義尚の命により二条衣棚に移転した。

天文5年(1536)の天文法華の乱際に寺は焼失し堺に避難した。
その後、天文11年(1542)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、
妙覚寺は天文17年(1548)、二条衣棚の旧地に再建された。

天正10年(1582)の本能寺の変の際、織田信長の嫡男織田信忠は妙覚寺を宿舎としていた。
明智光秀の謀反を知った信忠は寺を出て明智勢を討つべく二条御所へ向かうが果たせず自害。

寺は天正11年(1583)、豊臣秀吉の命により現在の地に移転している。
文禄4年(1595)妙覚寺21世の日奥は不受不施の立場から、
秀吉が主催した方広寺大仏の千僧供養への出仕を拒み秀吉に「法華宗諌状」を提出した。

寺は天明8年(1788)天明の大火により焼失するが、その後再建されている。

妙顕寺、妙覚寺、立本寺の三寺はいずれも山号を具足山と称し、
「龍華の三具足」と呼ばれている。



【山門】



【祖師堂】


絶賛工事中。

参拝した時は本堂かと思ってました。(^^;

境内は見る限り殺風景です。

日蓮宗の本山の多くは残念な境内が多いですね。


【鎮守社】



【庫裏】


こちらで御首題をいただきました。

奥に見えるのが本堂だそうで、
庭園や日蓮聖人が比叡山へ遊学中に法華経を書写して納められたという華芳宝塔等、
予約をすれば拝観出来ます。(拝観料500円)


【御朱印】


御首題ではなく「華芳」と書いていただきました。

華芳って何だろうと思ってました。(^^;