無意識日記
宇多田光 word:i_
 



を許容できるファン以外は、光が日本語で活動しなくなる事に非常な難色を示すだろう。増大するこの不安は、然し、僕らの心に燻り続けている。国が違っても光は光だが、話す言葉が異なるのはやるせない。厄介な2社に跨る契約の不透明さも拍車を掛ける。ところが、冷静に考えてみると日本での活動が別会社というのは福音かもしれないと気が付いた。もし光が日本を含めて全世界1社と契約していたら今以上にJpop市場が壊滅した暁には全キャリアを海外活動に充てろと本社の方針が決まる虞がある訳だ。だがEMIJ1社なら日本市場1本だ。地の利はまだ吾々の手中にある。

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の"クラシック化"である。世にある所謂"クラシック"は数世紀前の管弦楽やオペラ等を指す事が多いが、Jpopの音楽性がソチラに傾くという意味ではなく、USのラジオに"ロッククラシックス局"が出来て若者の音楽だったロックが大統領ですらソレを聴いて育ったと云う程に高年齢層のリスナーが楽しむモノになり昔の曲が主体になる、という状況を指す。クラシック化したシーンでは新曲という発想が傍流に追いやられる。市場は供給されたモノからしか取捨選択しない受け身な面があるから、新曲がないならないで回ってゆくだろう。定番の曲ばかり持て囃される状況は、今の宇多田ヒカルにすら既に顕著なのだから。

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