無意識日記
宇多田光 word:i_
 



クラスタ分け、という言葉が一般的に…なってないかな、わからんけど、インターネットによる"革命"で最も大きなもののひとつに、地理的・地政学的束縛条件から人々を解放した事が挙げられるだろう。

今年に入ってからのニュースにおける安全保障問題の取り上げ量はうんざりする程だ。そんな暇あるなら美宇美誠特集でも組んでくれというのが本音(いやでも結構やってくれてるけどね)なのだが、それと同時に、何かもう感覚的に別世界の話だなという感じがしている。

安全保障は要するに領土問題であり国家と国家の問題だ。自分がこの国に所属しているのはたまたまここに生まれたからだというだけであってそれはアイデンティティや価値観とは直接関係がない。昔だとどうしたって自分がどこに住んでいるかで文化的条件も決まってしまっていたが、今はインターネットで自分の興味のあるところをひたすらブックマークする事で自分の価値観やアイデンティティを確認するようになっている。

何が言いたいかというと、国とか国家とか国籍とかで人を仕分けて対立させる構図自体に違和感があるという事だ。A国の領土をB国が侵略してくるかもしれないのでA国民はB国民に対して…なんていう言われ方をされても違うよと。それぞれの国に領土がどうのという事に関心のある人とない人が居て、ない人はそもそも武力行使云々なんてアタマにないし、軍人たちと同じに思われても困るわと思ってるんじゃないの…そういう事を直接聞けてしまうのがインターネットだ。つまり、人が国籍ではなく価値観で分けられる、クラスタ分けされる時間が人間の間で増していこうとしているところなのだ、きっと。

わかりやすくいえば、宇多田ヒカルに興味の無い隣の家に住む同国人より、地球の裏側で毎日ヒカルを聴いている人の方が"仲間意識"を強く実感できるよ、という話。なんだかインターネット時代では当たり前過ぎる話だが、安全保障問題にはこの"感覚"が全く持ち出されていない事に気がつかねばならない。国が攻めてくるとか国を守らねばならないとか、そういう地政学の話ばかりなのだ。もし仮にどの国に住んでいようとUtada Hikaruのファンで自分ちの近くでコンサートをやってくれと願う人が居たとすればその人たちは皆「日本と戦争するなんて御免だ」と言うだろう。国交が無ければ渡航なんて出来ないのだから(それ自体も問題だけどな)。シンプルで当たり前の話だが、これを徹底するのは難しい。いやほんと。

皆が皆そういう風に互いの文化に価値を見いだせれば国と国の戦争は最終的には無くなる。だから文化を育む事こそ平和の王道なのだが、そこまで行っている国は無い。それどころかインターネットに制限のある国まである。現実はまだまだシビアだ。しかし、シビアな現実を追求すれば残虐な話は幾らでも出てくる。何十万、何百万という虐殺話。誰が数えたんだそれというスケールである。そういう人たちとの心配をするというのなら我々はフヌケ過ぎるが、現地に乗り込んで解決しようという英雄以外にとってはかかずらう事自体バカバカしい。関係ないんだから。つまり、安全保障問題は程度の問題だ。その情報の知識次第である。そして恐らく、誰も知識は不十分だ。誰かがどこかで虚勢を張っているのである。あぁ、面倒くさい。

いつも言う事だが、平和になった時にやりたい事がない人、要するに生きてて暇な人が増えたら戦争が起こる。夏コミの締め切りに追われている人にデモなんてしてる暇はない。他人の領土を奪おうだなんて考えもしない。A国とB国が戦争をするのではない。A国の戦争クラスタの人(真の暇人)とB国の戦争クラスタの人が、それぞれの平和クラスタの人たちを無理やり巻き込んでマッチポンプで暇潰しをするのが真の戦争だ。彼らで勝手にやっててくれりゃあいいのだが、必ず平和クラスタの人たちを巻き込む。平和クラスタの人間は戦争クラスタの人間と付き合っている暇はない。結局は無視と怨恨なのかと思うが、怠惰と無知の壁は本当に暑い。出来れば暇人たちが「こんな事してる場合じゃない」って気がついてくれる事を信じて、私たち平和クラスタの人間は文化を推し進めてくれる才能たちをささやかながら応援していく事に致しましょう。(私らしくない締め方だなー)

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ヒカルの復帰については、当然相手のある事なので時期を一存で決められる訳ではないだろう。まずレコード会社でありタイアップ相手であり。

Universal Musicとなってそこらへんの縛りがどうなるかは未知数だ。EMIの頃は文句なしの稼ぎ頭だったのでここぞという時に投入されていたりさヒカル自身もそれは覚悟の上だったろう。今はどうか。EMIレーベルとしては未だにトップの1人だが、UMG全体としてみればそうでもない。プレッシャーは軽減しているとみるべきか。

ただ、「当たった時の爆発力は桁違い」という認識は持たれているだろう。そういう意味ではUMG全体で様子見という事になるだろうか。お手並み拝見といったところか。

レコード会社は出資から制作から宣伝から総てを賄う為リスクの大きい商売だ。しかし、UMGくらい巨大になると、組織としてどこまでそのリスクを分散管理できるかが課題となる。

メリットもデメリットもある。EUでギリシャが問題になったのを見ての通り、統合体に移行した故に抱えなければならなくなった悩みなども出てくる。一方で、多少の失敗はグループ全体でカバーできるから、という風潮がプラスにはたらけばチャレンジングな活動が活性化出来るかもしれない。良し悪しである。

発言力のバランスというのは大事で、レコード会社が出資者である以上ある程度意見は取り入れなければならない。かといって理不尽な要求に対してはNoと言わなければならない。理屈はそうだが、実際の現場はもっと大人だろう。特に昔ながらのヒカルのチームはアーティストの意向を最大限斟酌する方向で一致しているから、後は彼らのUMG内での立ち位置次第。皆さんお偉いさんなので結構やれちゃうと思うんだけど。

ひとつせめぎ合いになるのはやはりリリース・フォーマットの種類だろうか。初回限定版やスペシャル・ボックス、ジャケット違いになんとか券封入まで、あの手この手で売る方法が確立されている現在、ヒカルだけが一種類のリリースというのは通用するのか。

SCv2がひとつの判断基準になる。あそこより踏み込んだらちょっと反感を持たれるかもしれない。EMIの置き土産という感じか。本当は、大ヒット映画みたいに(アナ雪とか)“全フォーマット同梱”が楽なのだが、それだとコスト面が解決できない。情報を整理し、リーチをどこまで伸ばせるか。情勢は日々刻々と変化するのでこの話題はまた取り上げる事にする。

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言葉は時間と共に変化する。その中で、詩はその変化する言葉によらない美しさをもって生き長らえる。歌詞にそれは可能だろうか。

歌詞は複雑な存在である。詩は抽象的であればよい。言葉は人と共に移ろえばよい。歌詞はそのどちらでも居られない。そのもどかしさが、ハードコアやヒップホップにおいては"歌詞の喪失"に繋がった。グロウルやラップにおける言葉の力強さは特筆的だが、それを歌詞と呼ぶのはやや憚られる。

見る側を変えれば、人としてのもどかしさがメロディーを生むとも言える。そうして出来るのが歌であるなら、歌声に祈りを帯びるのは当然の帰結でしかない。祈りと願い、その必死さは言葉が生まれ変わったとしてもなお持ち続けるであろう原動力だ。英語ではそのままmotifと言う。日本語でいえば動機、主題である。

流転する万物の中で一旦引き裂かれれば、残るのは嘲笑か慟哭か。他者に向かうか内面に向かうかの違いしかない。


桜流しが震災の翌年に発表されたという歴史は変わらない。映画の名場面から台詞を拝借した事実も変わらない。どちらも時と共に色褪せたりくすんだり、新しい人によって鮮やかに蘇ったりするだろう。或いはもっとスケール大きく、日本語の失われた世界で、古語による歌唱だと究められている事だろう。

詩としての美しさが揺らめいている。思い出と実感に満ちた、手垢のついた言葉に彩られている。英語も混じっている。それでも寄せているのだ。永遠に辿り着けない、詩の美しさに、引き裂かれた慟哭に、いっぺん気持ちがにじり寄っていくのだ。その道とこの道をいっぺんに歩いて、いや這っていく事はまるで出来ないように思えるかもしれないが、歌ならできる。でも、だから、辿り着けない。祈りは祈りのままなのだ。生きる事の本質は歌にある。だから歌の為に生きなければいけない。


そんな重い事でもない。無事に生きられた一日の終わりに、そっと一と節し口遊むだけでいい。鼻歌混じりの御機嫌真っ直ぐ。風呂上がりでもお布団に飛び込んだ瞬間でも洗濯物を畳む時でもいい。確かに、そういう時に桜流しかというと今一歩足りないかもしれない。まだ進化できる。やれる事はまだまだあるのだ。

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@u3music アカウントで呟いている以上、宇多田ヒカルのマネージメント会社なので、アーティストの近況を知りたいと要望されるのは仕方ないわね。@utadateruzane アカウントか何かで呟くんなら別ですが。

母子ともに健康そうで何より。手足口病の流行とかとも無縁か。すくすくと、どうぞ。

気の早い話だが、アルバムのクレジット欄にダヌパの名前を出すのだろうか。Special Thanks に名があってもおかしくないが…“My Son”あたりが妥当かな。子が居る状態で制作に取り組む好影響をヒカルがどれくらいに見積もるか、だ。

あー、もうレコード・デビューしちゃってもいいな。赤ん坊の泣き声役とかで。0歳児にしてクレジット獲得、早速彼の口座を作らないと…いや無理か。プロデューサーが勝手に録音するだけならクレジットには入らないか。それに、ダヌパあんまり泣かないんじゃないかという先入観もある。0歳児にして大物のオーラを纏っているとか…。

そこまではいかなくても、何らかの影響が出る事は必至だ。どうせならアルバム曲も、ダヌパ生まれる前と生まれる前で区別しといてくれると有り難い。A面がB.C.でB面がA.D.で…ってなんかややこしいな。キリストじゃねーし。でもコンセプトとしては面白そう。心境の変化や肉体の変化、環境の変化が絡み合って、人が1人増えたらどうなるかというのが見えてくる。

勿論そこまでプライベートを持ち込んだ作品は作ってこないだろう、というのが従来の傾向からの推測の帰結である。私生活をネタにするにしても、そうとはわからない形で、一般論みたいな体で歌詞にしてくるというのが大概だった。しかし、そのレベルまで含めての心境の変化があったりすればわからなくなる。それ位のインパクトが、ダヌパ出生にはあるかもしれない。

そういやこういう時ってベビー用品作ってる企業はダメ元でCMオファー出したりするのだろうか。キコが一般人な為家族3人でというのは難しいだろうが、万が一オファーにOKなんか出したひにゃあえらい話題になるだろうな。無いと思うけど。そりゃ静かに育てたいよ。

寧ろ、おじいちゃんになった照實さんの方がデレデレでそういうのに積極的になってたりして。ないな。うん、ないな。グラサンじいさん赤子をあやす、だなんて絵……ちょっと面白いぞ。

という訳でヒカルの職場復帰はもうちょっと経ってからだな。ゆっくりのんびりいきますか。全く関係ない余談だけど、「のんのんびより りぴーと」って“のんびり”っていう愛称にしたいが為に"りぴーと"にしたんじゃないかしらん。

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今迄散々シミュレートしてきたので、復帰後のプロモーション態勢に関してはもう心の準備は出来ているだろうか。

色々あるが、オールド・ファンからすれば第一に「CDシングルが出るかどうか」に関心が集まるだろうと思われる。もう7年以上出してないんだもの。今後無いとしても仕方ない。それに、オールド・ファンだとか第一にとか言っても、もしCDシングルを出すとしても現時点で買うと決めているような人は一万人を切っているだろう。ひょっとすると5000人を割るかもしれない。

そう思う根拠は、次の新曲では初っ端からハイレゾ配信が始まるかもしれないからだ。配信ではなくCDを買う大きな理由のひとつが音質だった。その点で配信がCDを上回るとするとCDシングル購入者はごそっと減る。最早コレクターズアイテム、ファングッズとしてしか価値が無いだろう。私のように宇多田ヒカル名義で出たら取り敢えず買うとか(ipodに何バージョンFirst Loveがあるか最早わからん)ジャケットのヒカルが欲しいとか、何か消費者としてちょっとヰっちゃってる人間が数千人居るかもしれないというだけで既に驚愕な気もしないのでもないのだけれど、音質というのはやはり大きい。ここ十数年はCDを買ってもリッピングの為に一度取り出すだけでそれっきりになるケースが大半だったが、ハイレゾ配信が普通になれば一度もCDシングルを取り出す事が無いなんてケースまで出て来かねない。俺は一体何を買ったんだろう…。

ハイレゾファイルはそのままでは普通のプレイヤーで再生できないが、無料のソフトでWAVやMP3に容易に変換出来る。従って、今はハイレゾ再生環境が無くても将来そうなるかもしれないから取り敢えずハイレゾで買っておこうか、というパターンも増えてくるのではないか。そうなる為にはハイレゾ配信音源の価格設定が鍵になってくるが、単純にCDより安い事が第一条件だろう。あとはダウンロード回数制限である。「将来ハイレゾ再生環境を整えて」と思っている人はダウンロード回数制限に(もしかしたら過剰に)敏感だ。ここは"権利"を売っているという事で機器認証&ダウンロード回数無制限のiTunesStoreスタイルがベターだと思うが、ここらへんは情勢を見守ろう。

2015年、タイミングが結構微妙だ。ハイレゾ対応プレイヤーはどれ位普及したか。そのうち宇多田ヒカルファンはどれくらいか。moraやe-onkyoのチャートを見てもヒカルの音源の人気は根強い。後は絶対数である。

もしここで、どこかの陣営が「宇多田ヒカルの新曲をプリ・インストールしたハイレゾ対応プレイヤー」を発売しにかかったら面白い。しかもそれがKHやEVAの曲だったりすればどうなるか。マニアは音質にこだわる。たとえ違いがわからなくてもこだわる(うっさいわw)。流石にそれで潮目が変わって一気に時代はハイレゾへ…とは間違ってもならないと思うが、アルバムは置いておくとしてもシングルによる新曲発表方法だけは、ヒカル陣営としても新局面を迎えねばならないだろう。

新曲の一節をフィーチャーしたしゃべるスタンプを幾らでLINEに流すか、とか新曲を利用したアプリは、とかCDシングルとハイレゾ音源の扱いは、とかとか様々な可能性がある。ファンは確実に老いていて「新しいものは面倒だ、出来るだけ今まで通りにしてくれ」という要望が多分過半数だと思う。しかしその数は数千、よくて一万数千だ。本来狙うべき数十万からの浮動票をどう捉えていくか。そろそろ現実に具体的にプロモーションが行われていくのを見られる訳で、嗚呼、楽しみでならないでゲソ。(←なしてそこでイカちゃんやねんな?)

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Hikaruが「みせかた」についてどこまで関わっているかはわからない。「HEART STATION」アルバムでは"曲順会議"に参加していない風にも取れる発言をしていた。仮にそうだとすると、“アルバム”という形態に対して、プロデューサーとしてそこまでこだわっていないという事になる。

アルバムをひとつの作品としてみるならば、曲順は極めて重要だ。ヒカルだって、自分の作った曲のミックスを誰か他の人に頼んだ時にAメロとサビの位置が入れ替わっていたら激怒するだろう。アルバムも楽曲同様ひとつの作品だというのなら曲順の変化は作品の変化であって到底容易に変えられるものではない。そう考えると「HEART STATION」は、各楽曲はヒカルの作品だがアルバム全体としては三宅Pや照實さんの作品という事になる。それでいいのかヒカルさん。

アルバムというものに対する意識が全く違うのかもしれない。つまりただ曲を集めたものであると。主役は曲であってアルバムではないと。もしそう言うのであれば過去に「Utada The Best」を発売した時にした発言と整合性がとれない。アルバムを作品としてみないならば、個々の楽曲に関してはただの再発であり、レコード会社として責められるようなものだったか。特にEXODUS発売からは6年経過した時点の話だったので再発にも一定の価値があった。恐らく実際の"被害"でいちばん大きかったのは、先日述べた通り「勘違いしてSCv2を買わなかった」層が居た事なんじゃないかと言いたくなってくるがこればっかりは数字を出せないので何ともいえない。

こんな話をするのは"牽制"でもある。配信で「宇多田ヒカルのうた」アルバムの各楽曲を購入したいと思っても半分の楽曲が「アルバムのみ」となっていた。浜崎あゆみの曲は複雑で、シングル曲としては購入できるけど、という具合。なかなか考えたな~と思った次第だ。アルバムを一枚通して聴いて貰う為の駆け引きである。

ここにヒカルが絡んできた時にどうするだろうかというのが興味である。新譜を発売した時、あっさり全曲個別購入出来るようにするか否か。iTunes Storeだと“コンプリート・アルバム”方式なので個別に買い続けてもアルバム価格以上を支払う必要は無い。ただ、先行シングルの扱いに対しては二種類ある。ミニアルバム扱いにして別ジャケット&別ページを用意して、即ちアルバム購入時には同じ曲を二重に所有する事になる(これはアナログ時代やCD時代と同じ)か、或いはアルバムの中の曲を限定して先行ダウンロードできるようにするか、である。

「アルバム制作」が楽曲発表に先んじてキーワードとして浮上している今の状況だからこそ浮かぶ疑問である。果たして、カラオケ・バージョンにどれだけ価値があるか。どうせなら別マスタリングなら二重購入する甲斐もあるけど、アルバムが完成した上でそこから配信EPを出すというのは…自分が購入者だったら嬉しい?

あー私はEPのジャケット・アイコン欲しいので躊躇わずに買いますけどね。カラオケは勿論欲しいし。個人的には悩まない。というか出されたら全部買うっちゅうねん。

まぁ、皆さんも、配信を利用する場合は色々と考えておいてくださいなっと。

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SCv2のいちばんの"失敗"は、しかし、勿論売上云々ではないだろう。新曲5曲を入れた事だ。

我々は嬉しかった。しかし、曲にとってはよかったのだろうか。シングル・コレクションという名称はついているが、世間的には"ベスト・アルバム"として認識されているだろう。となれば、新曲が何曲か収録されているからといってもなかなかシリアスに捉えて貰えない。既にシングル曲の音源を持っていて改めてシングル・コレクションを買う必要を感じていない人たちを釣る為の"付録"みたいなもんだろう、という風に思われても仕方ない。

実際は違っていた。Goodbye Happinessはコンサートの1曲目だったしCan't Wait 'Til Christmasはアンコール曲だった。Show Me Loveのバンド・サウンドは宇多田史上最高峰だし愛のアンセムでの歌唱が絶賛を浴びた事はあの驚嘆を伴った大歓声をその場で聴いた人たちにとっては火を見るより明らかな事実だった。そしてそして、嵐の女神は真のラスト・ソングだった。もう完全にSCv2の新曲たちは「最新アルバムのシングル曲たち」として扱われていた。踏み込んで言えば、日本語英語どちらの曲も歌えて無敵だったIn The Fleshから僅か10ヶ月で開催されるWILD LIFEのイチ押し、ハイライトだったのだ。その夜の主役と言っていい。

これらの事実は熱心に追っていたファン、SCv2を買い、WILD LIFEのBD/DVDを買って鑑賞した人たちには伝わっているだろうが、そうでない人たちには伝わっていない。

幾ら曲がよかろうが、聴く前の"設え"というものは重要である。送り手は聴き手に対して「今から貴方が聴く音楽は凄いですよ」と暗示をかけるくらいでなくてはならない。

実際、アナログ・レコード時代はニュー・アルバムを迎える気概が違った。レコードショップから後生大事にアナログレコードを持ち帰る。でかくて重い上にすぐひんまがるから丁重に扱わなくてはならない。取り出す時も大変だ。指紋をつけないように、埃がつかないようにソッと取り出し静かにターン・テーブルに置く。必要とあらばレコードブラシで表面の塵芥を取り除く。そして部屋のソファーを音楽位置に移動し防音の戸締まりをし(時には居留守を使い)万感の思いを込めて盤に針を落とすのである。音楽は期待されていたのだ。

今時そこまでしろとは言わないが、SCv2d2の5曲がもし付録と誤解されないような設えの中で発表されていたなら、とは誰しも一度は考えていたのではないか。7月から5ヶ月連続でシングルが発売され、それらに伴うプロモーションが行われ、ヒカルばバンバンテレビに出て歌い、機が熟しきったところでそのシングル曲5曲をフィーチャーしたSCv2が発売されWILD LIFEを迎える…という流れだったら、新曲たちの印象は大分違っていた筈である。オリジナル・アルバムをすっ飛ばしてシングル・コレクションに収録されてしまうのも面白かったろう。現実にはとてもそんな時間は無かったのでこれはどうしようもない夢物語に過ぎないのだが、今後は別である。反省は活かせる。

やはり曲を過小評価しない事だ。シングル曲として通用する曲は総てシングル曲として出す。CDを出せという意味ではない。「これが宇多田の新曲だ」というプロモーションを曲毎にして欲しいという事だ。何だったら80年代のマイケル・ジャクソンやDEF LEPARDのように、一枚のアルバムから8曲も9曲もシングル・カットしてしまえばいい。なんだか、勿体無いのよ。


あ、ただ、アルバムがコンセプト・アルバムだった場合はこの限りではありませんが。

例えばEXODUSにはシングルカットされていない名曲がまだまだあった。いちばん好きだというHotel Lobbyは? Kremlin Duskは? アメリカでいちばん売れそうだったLet Me Give You My Loveは? About Meはスタンダード・ナンバーになる可能性もあった。つくづく、もったいない。

最終的にはHikaruの好きにすればいいのだが、やっぱり貧乏性な私はそういう風に考えてしまうのでした。ちゃんちゃん。

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従来は「シンプルな売り方」を心掛けていたヒカルだが、「Single Collection Vol.2」においては様々な付録をつけていた。初回限定版にはGoodbye Hapiness PVのDVD、Kuma Charm、特殊スリーブ・ケース、そしてWILD LIFEのチケット予約権など、かなり贅沢な内容になっている。複数枚商法まではいかなかったが、このてんこ盛り感は前にはなかったものであった。

当時は余り難色を示す意見は聞かなかったと思う。特にチケット予約権はかなり踏み込んでいる気がしたが、要するに作品自体がそこまで注目を集めていなかったという事かもしれない。「Utada The Best」に対するヒカルの発言も、単に勘違いしてSCv2を買わない人を増やしただけで、プラスにはならなかっただろう。

どこまでヒカルが察知していたかは知らないが、つまり、5年前の時点でヒカルの市場での賞味期限はギリギリだったのだ。勿論それでも数十万枚単位で売る事は出来たのだから「腐っても鯛」だったのかもしれないが、タイミングとしては限界だった。そう思える。

なので、"待望論"を維持するにはちょうどよかったともいえる。まだまだやれると惜しまれる位でちょうどいい、というのはこれにあたっているだろう。あとは、ボタンを掛け違えない事である。

よくあるのは、ベテランが若手とのコラボレーションで復活する事だ。遥か昔にはRun DMCがAerosmith復活に一役買ったように、ヒカルをリスペクトする世代がレールを敷いてくれるかもしれない。「宇多田ヒカルのうた」アルバムはその先鞭か。後は、多分このケースはないだろうが、ものまね芸人が連日テレビで取り上げる事でいつのまにか大御所感が出てくるというような。あんた昔そんなキャラじゃなかっただろとテレビにツッコみつつ…。ミラクルひかるが連日テレビでものまねを続けてくれていたら少しはヒカルも…なんていうのはないか、ないな。

いずれにせよ、ただの結果論とはいえ、引き際のタイミングとしては"神通力"を失わずに済んだのだから次の復帰には多少のチャンスが眠っている。その時に、どれだけ売りにくるか。チケット先行予約権を入れてくるのか。そこまではいいとして、それ以上のこと、それこそ複数枚商法などが出てくるかは、うん、難しいね。反感を買う事がそこまで悪い事なのかというところからマーケティング部は考えておかねばならないかもしれないな。

まー私はどうせ全バージョン(ハイレゾ配信含め)を買うだろうから、どうなっても構わないのですがね。えへへ。

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ヒカルの作曲術の中で最も特異かつ稀有な点は“手詰まり”感がどこにもない事だ。

作曲家というのは大抵得意技が決まっていて、「このスタイルならいい曲が書ける」という範囲がある。その為、その範囲内を採り尽くしてしまったら、そこからは過去の焼き直しや再生産になって飽きられるか、或いは「ずっと同じ事なんてやってられないよ」と得意ではない範囲に手を出して自滅するかどちらかだ。そういう意味で、作曲家の全盛期というのは大抵短い。

ヒカルにはそういうのが無い。敢えて言えば"Prisoner Of Love"が「最も得意なスタイル」となるが、これに似た曲ってあるかな。コード進行が同じ曲はあったかもしれないがそもそもオーソドックス過ぎて取り立てて「宇多田に特有の」という程でもない気がする。

なので、この人の作曲力は読めない。明日にもネタが尽きるかもしれないし、いつまでも曲を書き続けられるかもしれない。全くわからないのである。こんな人他に知らない。史上最高のソングライターコンビであるレノン/マッカートニーも、「Sargent Pepper's Lonely Hearts Club Band」を頂点にして前後になだらかな曲線を描くように"奇跡の10年"を駆け抜けた。どこかに金字塔みたいなものがみえる。ものなのだ。

Hikaruの場合、ひたすら曲のクォリティーが上がり続けた。「頑張る」という点に関しては毎度「これで限界だろう」と想わせる一方、未だに頭打ち感は無い。「幾らHikaruでもこれ以上は」とまともに思わせないうちに次を繰り出し続けて最初の12年を駆け抜けたのである。レノン/マッカートニーとはここが違う。最も、70年代も"コンビ"を解消しなければ、更なる「二つ目の頂点を目指す曲線を描けたかもしれないけどね。

ただ、Show Me Loveの歌詞を聞けば、ヒカルには「ひとつの山を登りきったから」という感覚もあった事がわかる。しかし、残念ながらそれはこちらの実感と食い違うからだ。HEART STATIONアルバムがあって、SCv2d2があって、桜流しがある。少なくとも私の中ではこれはずっと右肩上がりだ。勿論SCv2d2はフルアルバムという訳ではないので判断が難しいのだが、これは前に指摘した通り、架空の6thアルバムを仮定して、SCv2d2はそこからの5曲だと解釈するのである。すればSCv2は4thアルバムから6thアルバムまでの3枚の作品から均等にチョイスしたシングル・コレクションだという事が出来る。その視点に立ってSCv2d1&d2を聴き直してみると、"幻の6thアルバム"の神々しさが透けて見えてくるような気がするのだ。気のせいかもしれないが。


まぁ、いい。そんなに作曲家の人生がマイルドとはいえインフレばかりとも限らない。たまにはデフレを経験しながら、全体として少しずつ上がっていけていればいい。長い目でみる。ファンの重要性はそこにある。アーティスト自身が近視眼的であればあるほど、我々はバランスをとって鷹揚に構えていればいいのだ。ゆっくりゆったりのんびりいきましょう。

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昔から宇多田ヒカルのファン層は、あるクラスタから集中的に現れてくるような事はなく、既存のどのクラスタからも脈絡無くピックアップされて集合体を作ってきている。その為、宇多田ヒカル以外の関心については見事にバラバラである。例えば「矢沢永吉のファンだから皮ジャン来てそう」とか「X JAPANのファンだからメイクしてそう」とか、真偽の程は兎も角そういった"イメージ"すら持たれない。強いていえば「やや大人しい」くらいが統一したイメージだが、それって単なる小市民という気がしなくもない。

ただ、そういった傾向が2015年の今も継続しているかどうかはよくわからない。Twitterをメインに見ていると、クラスタを横断するのが基本だからだ。この開放的なシステムは、日本の2ちゃんねるの閉鎖的な、各クラスタどころか各話題についてすら細分化された世界と対照的だ。

そういう意味では、Twitter以後のフィーリングはヒカルに有利、ともいえる。後は集約するだけだからだ。それはまぁそうなのだが、本来ベテランのアーティストというのは、確固としたファンベースに新しいファンが少しずつくっついていくのが常道だった。しかしヒカルの場合、常にその度ファンベースを"再編"しながら前に進んでいく為、ベテランの称号は足枷になりかねない。ここを切り抜けるのがプロモーションのポイントとなる。

踏み込んでいえば、EVAやKHが世代交代の中で古びれていくか拡大していくかを横目で見ながら進んでいかなければいけない、という事だ。どちらにせよ最後まで付き合っていく訳だから、固定的なクラスタをファンベースとしてもつタイアップ先に対しての距離感を考えてプロモーションしなければならない。ヴィジュアルイメージをどこまで共有するか、歌詞はどこまでシンクロさせるか。

…まぁ、大体今まで通りのスタンスで大丈夫か。特に直す必要はないな。ヒカルはそういうところまで見えているのかもしれない。

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ガンダムといってもファーストくらいしかわからない私。名古屋テレビ制作だったので観たのは早いんだが。

戦争ものなので色んな人が死んでいくのだが、いちばん印象に残っているのは何といってもララァだ。なんかもうこの名前を出しただけで総てを語り尽くした気分になってしまう。いわば私にとってガンダムとは殆どララァなのだ。

簡単に説明すると、主人公アムロ・レイの敵役シャア・アズナブルが囲っていた愛人がララァで、ニュータイプとしてアムロがララァと通じ合っているのをみてシャアが焦ってアムロとやりあってるうちにララァがその喧嘩に巻き込まれて死ぬという、宇宙世紀云々を除けば昼ドラ的或いは民話神話的な展開である。それ自体はわかりやすい。

しかし、興味を引くのはアムロとララァの意味不明な会話だ。結論は単純で「僕らは出会うのが遅すぎたんだ」と。惹かれ合うアムロとララァ、蚊帳の外で焦るシャアの構図に社会的情勢が絡む中、突如ララァが消える事で生まれる2人の悔恨は凄まじい。どれくらい引っ張るかというと10年後に上映された劇場版「逆襲のシャア」まで引っ張る。10年はただの作者の時間だけど、兎に角映画のラスト付近で「まだ言うか!?」と思わずツッコミを入れつつ「でもララァってそういう存在だよねぇ」と妙に納得してしまっていた。

映画の最後に、シャアにとってララァがどういう存在だったかについて端的に簡潔に語られるのだが、それが結局この10年のテーマだったんだなと納得した。なお主題歌はTMネットワークだ。

で。このシャアとララァとアムロの関係はまるでU3の3人なんじゃないかと、圭子さんが亡くなったとき思ったのだ。勿論照實さんとヒカルは喧嘩なんかしたりしないが、藤圭子を何らかの意味で取り合っていたという側面はあったのではないか。ヒカルとざねっちのどちらがシャアでどちらがアムロなのかは各自考えていただくとして、2人の物語は寧ろこれからな気がする。矢吹丈が力石徹の幻影と終始格闘を続けたように、もう二度と会えないからこそ、届かないからこそ持続していく"想い"がある筈である。アムロとシャアが(特にシャアが)いつまで経ってもララァララァと想い続けたように、喪失の物語は届かない妄執を原動力として周囲を巻き込みながら突き進んでいく。最初に、周囲の情勢に巻き込まれていく形で悲劇に絡めとられていった物語からの言わば逆襲なのだ。矢吹丈も立ち直ってからは一心不乱に世界を目指した。力石徹を"取り合った"白木葉子も振り切って。その力の源が、どちらも喪失だったのだ。

しかしヒカルの場合、ヒカルが女性で、キコと出会い、ダヌパが生まれた。何かが変わったかもしれない。おじいちゃんは孫の顔を見てどう思ったのだろうか。物語はまだ始まったばかりである。

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ダヌパも生まれておめでたいという事でのっそりとこの話題を持ち出そう。やっぱりヒカルにとって圭子さんの生前と死後という期分けは大変重要な意味を持っていると考えられる。

何事も自分でこなせてしまえるヒカルにとって、唯一と言っていい甘えられる存在であり憧れであり。そしてほぼ同じような人生を辿る中で強く娘である事を意識させられてきた、いわば生きる指標といえる人だった。その人が居る居ないは大きい。

2人の事を考えるとき、いつも漫画「あしたのジョー」を思い出す。私自身、生まれて初めて読破した長編漫画がこれだった(当時4~5歳だったと思うが)ので思い入れの強さ故のバイアスがかかっている事を先に注釈しておくとして、主人公矢吹丈と作品序盤のライバル力石徹の関係性は、何かを失った時の人の生き方を強く示唆するものだった。

同作品の序盤3分の1までは彼ら2人の直接対決が叶う所までの話を中心に展開される。主人公矢吹丈はライバル力石に相対する為にボクシングに打ち込んでいたとすらいえる。そしてその直接対決を経て力石が死亡、矢吹は強い衝撃を受け生きる指標を失い物語の中盤は殆どそこから精神的に回復していく過程の描写で埋め尽くされる。

矢吹の場合試合中の事故が力石の死の遠因と勘ぐれる状況だった為自責の念が強い。それはヒカルと異なるのだが、その分を差し引いても、物語の後半3分の2で矢吹が立ち直って世界を目指す希望に満ち溢れた展開が待ち受けている訳ではない、ただただひたすらポッカリ空いた空虚を虚しく埋め続けても一向に埋まらないような感覚で物語は進んでゆき、最後は真っ白な灰になって燃え尽きる。相手の世界チャンピオンを巻き添えにして。その希望の無さ、救いの無さに幼い私は強い衝撃を受けた。今思えばこんな作品6歳以下に読ませちゃダメだろ。


多分、ヒカルは、空いた穴を埋めようとはしない方がいい。それはもう永遠に無くならない。それがかけがえがないということなのだから。空いた穴を眺めつつ、新しい人生を築いていけるか。矢吹丈も、自責の念さえなければ拳闘を諦めるというのもひとつの手段だったかもしれない。漫画作品的にはそれを「打ち切り」と呼ぶのだが、ちばてつやとしては新しい作品に取り掛かる機会を失したともいえるし、だからこそ稀代の名作が誕生したともいえる。

たかが漫画であり虚構ではあるが、「あしたのジョー」は名作と呼ばれるだけあって様々な示唆に富む。私自身付け加える事はそんなにない。生きる指標を喪った後にどう生きるか。次はファーストガンダムの話だな。

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少し前に「メタル・ファンは誠実でジャズ・ファンは浮気症」という記事を読んだ。それに対してメタル側から「それってメタラーがモテないだけでは」と至極的確なツッコミが入り議論は終焉を迎えた。全く以てその通り。異論を挟める余地はない。

それは前提として、しかしそれでも議論の余地を見つけてみよう。音楽性についてである。

メタルは様式美を重んじ、何より自らの愛に忠実である。それは音楽性にも現れている。この音楽の本質は、贅肉を削ぎ落として骨格だけで楽曲を構成する所にある。どのフレーズが主題であるかを明確にし、どのような展開の中に主題を置くかをどこまでも吟味する。従って、楽曲の美は構築美であり構成美だ。そこがクラシックに通じるところだが、クラシックの場合主題からの展開が「話を広げる」方向に行くのに対してメタルは「話を纏める方向」に行く。そこが違う。メタルはつまり「鉄筋のような」ガチガチの骨格だけになるまで煮詰められた音楽なのである。だから鉄の味がするのだ。

ジャズの場合はクラシックの「話を広げる」方法を更に拡散する方向に進化した。主題を提示するとそれを早速崩しにかかり、時には跡形もない状態まで持っていく。その為、かなりの流派で即興性が重んじられている。主題に対してある時は乗っかり突っ走りある時は足元を掬って崩しにかかる。その時その瞬間の発想と創造性、各楽器間の当意即妙な対話性が重んじられる。間合いがはかられ、ボケとツッコミ、無視とツンデレ、戯れと喧嘩が無秩序に繰り返されていく中の刹那々々の中に輝きを見いだしていく。拡散の美である。煮詰めずそのままの味を食べる感じだろうか。

ジャズとメタルにはそんな違いがある。その為、メタル・ファンはひとつの事に延々と固執しじっくり密度を高めていくのに対して、ジャズファンは次から次へと新しい音を探しに出掛けるのだ。この特性がもし恋愛事情に影響するとすると…後はご想像にお任せします。


ヒカルの音楽からは、そういった観点から見た場合、どういった特性が伺えるだろうか。ジャズでもメタルでもないので上記の考察はあんまり応用は効かないが、考えてみよう。

ヒカルのひとつの楽曲に対する執念は凄まじい。とことんまでクォリティーを高めていく。だからいつも締め切り間際まで苦しんでいる。一方、そうやって丹精込めて楽曲を作って完成させてしまうと途端に興味を失って次の楽曲作りに移行する。するとそこではまた究極の集中力を発揮して…

…なんていう"性格"が恋愛事情に影響すればどうなるか。恋人が出来れば、わき目もふらずにその人を愛し続けるが、もうその人と居ても何の進展もないなと感じたら途端に飽きてしまい次の人に乗り換える。従って、周りからみればいつも決まった恋人は居て仲睦まじいなと思えるんだけど数年毎に違う人になっているような…

…ま、もうこどもも出来たし、そういう事もないだろうね。いやいや!もともとそんな事ないから!ただの私の妄想だから!…気にしないでね☆

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ダヌパが生まれた時に、和田アキ子がテレビでヒカルの出産についてコメントしていた、ときいた。記事の孫引きの孫引きくらいを読んだので実際のところは知らないが、昔から彼女がヒカルに対してややネガな発言をしているのは確かなようだ。

まぁ多分、ネット世論(なんなんだろーなーそれ)では和田アキ子disヒカル擁護が基本的な流れなんだろう。それもきっと風物詩で、その、和田アキ子なんかいう~叩かれる、みたいな流れ全体が娯楽で、それがずっと続いているんならまぁ別に。

彼女がヒカルを嫌う原因は知らない。誰かが「藤圭子と仲が悪かった」と言っていたような気がする。それで娘にはいい感情が持てないというのも不思議な気がするが、単純にヒカルに一度も会った事がないだけなのかもしれない。どうだっけ。

私として無理矢理理由をこじつけてみるならば、彼女はきっと「R&B」という日本語を奪われたのが悔しいんじゃないかと。

音楽ファンでもない、テレビは観るけどレコードやCDは滅多に買わないかな、という人にとってR&Bという言葉は、少なくとも80年代までは滅多に聞く言葉ではなかった。90年代にアメリカでヒップホップソウルカルチャーの勃興と共に再脚光を浴びたR&Bというジャンルは昔の「リズム&ブルーズからの流れ」とも違っていて、その"新しい方の世代"に影響を受けたのがヒカルだった。

そして、毎度言っているようにR&Bという言葉は、音楽ファン以外にとっては「宇多田ヒカルのやってる音楽」の名称として暫く定着した。

ずっとテレビに出続けていた和田アキ子からすれば、気に入らなかったに違いない。恐らく、数少ない、ゴールデンタイムででも"R&B"というワードを発せられる人間の1人で、そのうちでも最も知名度が高かった…70年代まではそうでもなかったはずだが、80年代以降は大体そうである。歌手として極偶に発信するR&B歌手としてのこだわり…その流れからすると、平たくいえば「日本人R&Bシンガーの代名詞」としての立場をヒカルに追われた、という事になる。

これは現実の流れではない。本職の日本人R&Bシンガーたち(えぇっと、誰や誰になるのかな…)からすれば、歌唱力は兎も角和田アキ子は“テレビ芸人”に他ならず、別にR&Bシンガーでもない。R&Bファンではあるだろうが。テレビ等における言葉の普及度の話である。

なので、声高に叫ぶ訳にもいかない。心の気分の問題なのだから。それが理由で上述のような"愚痴"になっているとすれば、色んな意味で気の毒だなぁという風に考える事も出来る。素直にエールを送る事が出来ない。

となると、あれだな、ヒカルがR&Bのスタンダード・ナンバー歌ってテレビで披露したら万事解決すんじゃないの。和田アキ子と共演してもいいよ。流石に歌手としての実力を知ればdisることもなくなるでしょう。でもそうしたら、ネット世論の皆さんの娯楽がひとつ減ってしまうか。ひとつくらいいいよね。

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久石譲の昔の曲を聴くと、凄いなと思う。シンセサイザーの音色以外、全く時代性を感じさせない。音楽が単独で異世界の時代を作り上げてしまう程の迫力がある。風の谷のナウシカは文明社会が滅んでから1000年後の世界を描いた作品だが、彼の書いた風の伝説が流れてきた瞬間、もうその世界観に引き込まれてしまう。魔法のような音楽である。

何故彼がそういう曲を書けたのか、そして何故書けなくなってしまったかについては興味が尽きないが、追究しても答の出ない問題なのでそれは置いておく。いずれにせよファンタジーというジャンルは、音楽に現実とは異なった世界線を与え得る、という事だ。

EVA劇場版の音楽の主役は鷺巣詩郎だ。ヒカルは2曲半の歌を提供したに過ぎない。そして、いつのまにか2015年の夏になってしまった。先日の"シンジくん"による使徒襲来の日のツイートは10万RTを超えた。こうなる事で、当たり前だがEVAの世界線が我々の日常とは異なる事を再確認する。Beautiful Worldは、2007年の歌であると共に2015年の歌でもあった。

PLANiTb Acoustica Mixの立ち位置はより微妙である。2009年か。こうやって振り返ると、オリジナルはそれなりに"古い"。これは当然の事で、我々の2007年夏のヒット曲であったから。そして、PbA Mixはより映画限定の感がある。CDシングルが出なかったのも大きかった。

桜流しは今現在"保留"な気がする。EVAQは我々に、観る方にも描く方にも様々な宿題を残した作品だった。その中で桜流しだけが超然とその存在感を放っているように思える。震災後と前でこの国の歴史をはかるべきかはわからないが、桜流しは間違いなく2012年の歌であるとともに、EVAの世界の2029年の歌でもある。その強烈な存在感は、それこそ全盛期の久石譲にも匹敵するものだ。しかも、歌がある、言葉がある状態で。しかも日本語である。

言葉の移り変わりは激しい。歌詞は一瞬で古びれる。価値は損なわれなくとも「あの頃の歌だよな」と誰もが思う。桜流しにもそれはあるのだが、同時に、詩としての超然とした美しさがある。そもそも、日本語の歌は突き詰めれば大体フォークになる(という普段からの私の主張)という事を鑑みると、日本語の歌はどうしたって生活の中に溶けていかざるを得ない。それが強みなのだが、桜流しの場合それでいてファンタジーのような異世界の世界線の上ででも説得力を持てるのが素晴らしい。大体こういうのはRevoさんみたいに中二病しか落としどころがなく、だったら英語かイタリア語のナレーション入れろよという気になるものだ。

少しだけ物足りない事もなくはない。歌詞に英語が混じっている事だ。総てが日本語だったら凄まじかったのだが、それはまた次の機会の期待としよう。断言する。桜流しは次のシンエヴァ公開時に間違いなく更に輝きを増す。この曲の真価はこれからである。心して待っておく事に致しましょうぞと。

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