無意識日記
宇多田光 word:i_
 



持ってる曲が万単位になってくると、確かに全部に耳を通してるか怪しくなってくる。ボックスセットとかもあるもんね。でも、読書だって積ん読があるように「取り敢えず買っておいて折りを見て」というケースは多い。特に中古盤はね。まぁ、辞書や百科辞典みたいなもので、収録してある総てに目を通す訳ではないけれどその都度参照できる為に、という理由で所持する事だってある。

ま、でもつまり私なんかはアルバムにして2000枚くらいしか所持していない訳で(持ってるフィジカルのリッピングまだ幾らか残ってるけれど)、本格的なマニアの皆さんは万単位の枚数、即ち数十万曲を所持なさっているのでそれこそ話の桁が違う。曲がりなりにもmicroSDに収まる曲数なんて、可愛いもんである。


少し前のニュースで『Fantome』が配信を合わせると80万ユニットを超えているとか何とかいう話があった。配信だろうが何だろうが1枚は1枚、聴いてくれる人が居て喜ばしい限りだが、一方ストリーミング・サービスはどうなっているのか、私全く知らない。

前回と今回は私の「持ってる曲」の話だった。フィジカルだろうが何だろうが、曲という抽象概念をいつどこでも利用する権利を、私は持っている。私的利用に限られるけれど。それは、最初に支払いを済ませれば永久に保持される所有概念・権利である。

ストリーミングサービスの幾つかはダウンロードしてローカルに保存して音源を聴く事が出来るが、しかし、サービスから退会してしまうとローカルに保存されている音源は聞けなくなる。つまり、これは電子書籍に近い。多くの電子書籍が、pdfでダウンロードできて永久保存、は出来なくて、サービスにオンラインでアクセスする事で一時的なローカル保存も認めようという、いわば「無期限の貸本」として機能している。仮に電子書籍店が潰れたらそこで購入した電子書籍も読めなくなる。電子書籍は所有している訳ではないのである。音楽のストリーミングサービスもこちらに近い。

一方で、radikoはシェアラジオを始めている。これは、ラジオがストリーミングサービスのスタイルに一歩近寄った事を意味している。リアルタイム以外の利用が出来るという意味で。その感覚からすれば、過去に指摘したように、ストリーミングサービスはパーソナライズド・ウェブラジオと呼ぶべきシステムで、「ライブラリ」の代替とは成り得ない。

「CD(フィジカル)で購入して所有欲を満たしたい」とはよく聞かれる意見だが、基本的にはそう言っている人ですらCDは最初にリッピングしたら御役御免なケースが多い。しかし、やはりそうやって隔離された物体にデータを所有しておくのは必要な事だ。いつサービスの方が潰れるかわからないのだから。電子書籍も不安だが、やはり音楽を辞書的に聴く人間にとっては"所有"は譲れない概念だ。

Spotifyが日本でどうなるかも含めて、これからますましストリーミングサービスは注目を集めるだろうし、そこでヒカルがどんな評価を受けるかにも興味があるが、多分、私はそんなに入れ込んだ話はしない。形態がどのように変化しようが、"永久使用権"という意味での「所有」の概念の方によりこだわっていきたいと思う次第であります。

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先週末に新しいハイレゾウォークマンが発売された筈なのだが、店頭に触りに行けなかったな。Webをみたら発売延期だいややっぱり発売しますで随分ともたもたあたふたしているらしい。まぁのんびり実機があるタイミングで触りに行ってみますよ。

代わりに(?)2ちゃんねるの該当スレの書き込みを読んでたんだが、やはりというべきかタッチパネルを中心としたユーザーインターフェースの操作性にやや難があるという書き込みが目立った。これに関しては実際に自分で触ってみないと何も言えないな、とは一旦は思ったが、「2万曲も持ち歩いてどうするの」と言う人がちらほら居て、 「あれ?」となった。高齢化が進む2ちゃんねるのハイレゾウォークマンのスレッドなんていう中途半端なニッチでちらほらというのはデカい。うーむ。

ユーザーインターフェースってのは、ファイルが多くなればなるほどレスポートサックが悪くなるものだ。逆はない。もし仮にこの「ちらほら」がスレの多数派だとすると、彼らの「ユーザーインターフェースに難あり」の意見は、自分にとっては"(いい方に)過大評価"であるおそれがある。自分が、その、否定的な目で見られる「2万曲を持ち歩くユーザー」だからだ。自分が新しいウォークマンを使い始めれば、ちらほらの彼ら以上にユーザーインターフェースが"もっさり"になるのは間違いない。という訳で現在購入かなり躊躇中。

スレには5万曲以上入れてみた強者がいらっしゃって、「どう足掻いても3万4千曲以上入らない」と書いてくれてて大変参考になった。自分はそこまでの曲数は無いがそれは普通の音楽ファイルの話で、20年近いエアチェックファイルを除外している。そちらも含めて考えると3万4千というのは、遠いけどなくはない数なので。

それにしても、2万曲ってそんなに多いかね? 1日10曲平均で増えていったら2000日、6年足らずで到達する数だ。1日10曲は多すぎる、というのは1枚3000円の邦楽CDを想定しているからで、安価な中古盤や輸入盤、それに何といっても日本にはレンタルCDがある。場所にもよるだろうが、5枚1000円で借りれるから1枚あたり200円で済む。1枚10曲入っていたとしたら2000枚レンタルすれば2万曲になる。かかる費用は40万円。オーディオ一式揃えるのとそんな変わらん値段だ。しかも5年とか6年とかかけて、だから年間にするとスマホの通信費より低い。結構簡単に辿り着ける曲数だと思うのだが。

それにWebには大量に著作権の切れた野良MP3が転がっているしそれも含めていったらもうねぇ。


あれ、何の話をしようとしてたんだっけ。もし今回コラボウォークマンやってたらこの発売直後のゴタゴタに巻き込まれてただろうから、コラボしてなくてよかったね、って言おうとしてたのかな。忘れちゃったよ全く。

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『Fantome』は今まで長年ファンだった人間より寧ろより若いファン、このアルバムで初めてヒカルの作品に触れた人たちにより気に入られていく気がしている。単純に、流行を追っている意識は皆無なのにサウンドが今風なのだ。今若い人の方がサウンドにより馴染み易いのではないかと。

根拠は大して無い。だが、気がついてみたら周囲はいつも懐メロの話ばかり、という今の30代40代以上の人間にとって、特に、戦後最も商業音楽市場が潤った90年代をリアルタイムで知っている者たちにとって、「昔はよかった」という甘言の魅力には抗い難い。昭和30年代ノスタルジーよりよっぽど強力である。勘違いや思い込みではなくて、実際に凄かったのだから。

その頂点に最後に立ったのがヒカルだったのだから、甘言を振り解くのにいちばん苦労するのもヒカルだ。過去の栄光の目映さ。もうどうしようもない。

ヒカルのライバルは、まさにその黄金世代の最後の王座についた自分自身の存在だ。ただの実力だけでなく(それだけだったら造作もない)、時代が後押しし、思い出が思い入れを作るのだから始末が悪い。

そういうのが無い"今の人たち"が上の年齢のヤカラの「昔はよかった」攻撃に屈しない、惑わされていないよう願う。ヒカル自身だって時代と共にとしをとるのだから、ファンの年齢も一緒に上がっていく。未来の量は減り続け過去の思い出は滅びない。その風景に迎合せずに、寧ろキッパリと別れを告げ、若い人たちは若い人たちなりの価値観でヒカルの新しい音楽に触れて欲しい。


という訳で旧世代の皆さん、やっぱ『Fantome』は歴代のオリジナル・アルバムと比較すると物足りなさがあるよねぇ。もっとこう、"Popsとして機械的に機能してくれる"楽曲が欲しかったというか。考えさせられる曲、感動的な曲、ぐっとくる曲、圧倒される曲、色々あるけれど、"聴いていて(まずただ)楽しい"曲ってのが、どうにも少ない。『道』がなかったらどうなっていた事やら。その『道』ですら、入ってくる言葉が重すぎて、「るんるんるん♪…お、おう…」ってなる瞬間がある。

いや、過去のヒット曲だってよくよく聴けば様々な思いが込められていて"聞かせる"んだよ。でも、軽く聴いたら軽く聴ける。『Fantome』は、軽く聴くのにやや労力が要る。

例えば『Easy Breezy』と『人生最高の日』を聴き比べてみる。どちらの歌詞も、書き手の頭の良さをチラ見せさせつつポップでキャッチーな曲なのだが、『Easy Breezy』が音として聞き流せるのに『人生最高の日』はやたらと言葉が突き刺さる。英語と日本語じゃあねとも思うし「※個人の感想です」でもあるんだけども、言葉に注力した分言葉が強すぎて、、、それをどう受け止めるかで、このアルバムの評価が別れる気がしている。これを読んだ、貴方はどうですか…?

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昨夜の日本シリーズは劇的なサヨナラ満塁ホームランで幕を閉じていた。満員の喚声を聞くに、普段野球を見ない人も沢山詰め掛けていたので、地味な内角巧打よりスタンドインの方がそら盛り上がろうて。今季サッポロドームでの最終試合という事になるだろうから、これ以上無い本拠地の〆だろう。ほんと漫画みたいな展開だわね。

よく、今のように、劇的な事を「漫画みたい」と表するが、これはつまり紙の上の方が3次元より自由度が高く荒唐無稽なストーリーでも描いてしまえるからだろう。勿論「ドラマみたい」「映画みたい」という形容も使われるが、「漫画みたい」というとよりありえない度が増す為、感嘆詞としては「ドラマみたい」「映画みたい」より程度が上なのだろう。

設定の荒唐無稽ぶりが控えめであれば、映画、ドラマ、演劇、という風に少しずつ(予算の都合もあって)現実に近付いていく。演劇までくるともう目の前に居る人間が演じている訳で、照明や音楽といった演出がなければ、現実と変わらない。

ただ、演劇空間には「これは芝居ですよ」という約束が交わされている事になっている。"舞台"とはその約束事が適用される範囲の事だ。そこから外れた場所での"芝居"や"演技"はただの妄言、虚飾、嘘とかわりない。


『俺の彼女』ではまさに登場人物たちが普段の生活の中で"芝居"・"演技"という"嘘"を為している事がテーマとなっている。そして、歌い手である宇多田ヒカルは、そういった、日常生活の中で芝居・演技をしている男女を演じているのだ。この二重構造をちゃんと把握する事がこの歌を理解する第一歩なのである。


まぁでも、宇多田ヒカル自体は漫画みたいな存在ですけどの。学校ではオールストレートAをとり名門大学に入学し親娘揃って一国のアルバムチャート史上最高記録をそれぞれ保持していて…いや、こんな設定の企画が通る訳がない。ご都合主義過ぎて。嘘には嘘の矜持があるのだ。ヒカルは、"漫画でも描けない"ような荒唐無稽極まりない、御都合主義の極致のようなキャラクター。しかし現実なんだから、そりゃあ、壊れるよね。そんなヒカルの"芝居ぶり"がどう構成されているか、引き続き見ていきますですよ。

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『人魚』のタイアップが決まったのか。"大エルミタージュ美術館展"テーマ曲、ってのが何の事かよくわからないのでのちのち触れていきますかね。ひとまず、アート系のタイアップなんて思いも寄らなかったので毎度同じな感想「梶さんの営業力凄ぇなぁ…」しか出てこないよ(笑)。ほんと、よく見つけてくるよねぇこういうファンが喜びそうなタイアップ。有り難いですよ、えぇ。


では、『人魚』についての話などを…という気分に。なぜか。ならないので。他の話をしよう。


『花束を君に』はヒカルの復帰を代表する・象徴する楽曲となった。非常に単純にいえば、刷り込みである。雛が生まれて初めてみた物体を親と認めるのと同じように、皆が復帰のニュースとともに耳にしたのが『花束を君に』だった。その為、これが帰ってきた宇多田ヒカルを表す曲として認知されたのである。

ヒカルはいつものように、"楽曲の作風に合わせた歌い方"をしただけだったのだが、それが「宇多田ヒカルがいつもと違う歌い方をしている」とはならずに「宇多田ヒカルの歌い方が変わった」になったのもそれが故だ。少ない情報に基づいた倒錯ではあるが、別に間違っている訳でもない。今までにない歌を書いたから今までにない歌い方になった。その事実を指摘している事にはかわりないのだから。

その後、『道』が発表される事によって「なんだ、昔通りの歌い方じゃん」とならなかったのもまた興味深い。『調子に乗ってた時期もあると思い・ます』みたいな如何にもヒカルなフレーズも飛び出す訳だから寧ろこれで「宇多田ヒカルが帰ってきた」となってもよかったのに、ならなかった。それは、勝手な推測だが、『花束を君に』で「宇多田の声が変わった」という認識が余りに強すぎた為、それを修正する回路の居場所が無くなってしまっていたのではないかと。

一方の私の方は、既述の通り、新曲を聴く事で、何と旧曲の聞こえ方が変わってしまった。ヒカルも言ってる通り、語尾をはじめとして「歌い方の雑さ」が気になって仕方無くなったのだ。こんな、過去の、勿論音自体は何も変わっていないトラックが違って聞こえるようになる経験は生まれて初めてで、未だに戸惑っている。「本当に昨日まで聴いていたのと同じトラックなのか?」と疑心暗鬼になる程だ。カルチャーショックとかゲシュタルト崩壊とか、そういうレベルの衝撃である。

それは本当に、「宇多田ヒカルの歌い方が変わった」のが原因だ。『花束を君に』が「優しい歌い方になった」「母性を感じさせる声」といった評価を得た一方で、もっとドライに、言葉の発音の仕方自体が進化したのだ。それは、紛れもない事実である。少なくとも私にとっては。それを気づかされたのが過去曲を改めて聴いた瞬間だったというのが、印象的だ。

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『真夏の通り雨』のビデオがMTVミュージックアワードの、女性アーティスト部門のみならず全体での最優秀賞まで獲得したとの事。おめでとうございます。ヒカルは本当に全く想定していなかったらしく、最優秀賞の方はコメントは前回言い尽くしたからもうないと正直に言うというね(笑)。リアルでいいんじゃないでしょうか。

隣に本人が出てるビデオが2つあるのにそれを差し置いて、ってのは対象期間の都合かね。いずれにせよめでたいなぁ。チャートの方は今週嵐が発売という事で清々しく全部持っていってくれそうだから、これで1ヶ月続いた『Fantome』祭りは一定の収束をみるでしょうか。コラボカフェあと2週間続いてたらなとも思ったがそんなローカルな話はいいですかね。

ほんの1ヶ月前まではここまで売れると思ってなかったので嬉しい驚きの真っ最中ではあるのだけれど、なにぶんアーティストとしての体質が体質なので、ここからの波及効果みたいなものは限定的にとどまる。しかしそれでいい。今回、特に『花束を君に』に関してパーソナルな思い入れを語る記述にいくつも出会した。朝ドラ効果が大きかったのはわかるが、それにしても。

しかし本来、流行歌というのはそういう役割も持っている筈である。庶民の感情の表現。ヒカルが時代を超えて特殊なのは「誰にもわかって貰えない気持ち」を常に体現し続けている点だ。したがって思い入れも半端でないものが出来上がる。いつも言う「私だけのヒカルちゃん」の成り立ちである。

「母」と「死」と。メッセージは明確だ。アルバム全体はそこだけにとどまらないが、先行シングルが2曲とも焦点が定まっていた上、『道』がその思いを総括して前に進み始めちゃったものだから『Fantome』全体としてのイメージはほぼそれで決まっている。発売から1ヶ月が経ち、恐らくこれから話題にのぼる事が減り皆の中でイメージのアップデートが為されなくなっていく以上、その『定評』はこれから何年も、少なくとも次作が発表されるまでは、場合によっては何十年も何百年も「『Fantome』はこういう作品です」という目印として存続していく事になる。名前を覚えたらそこからのアップデートは至難の業だ。それをブランドという。

実際には、『Fantome』の中にも、進歩や進化があり揺らぎや多様性がある。「アルバム」という、単一の作品としてみるにはあやふやな単位で語られる事には警鐘を鳴らさねばならない。この日記は多分、次作が出るまで、或いはツアーが始まるまで、そのスタンスを貫いていく事だろう。

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これも細かい事だが、『こまかいこと』と『あなたのとなりに』の間に挟んだ『a・uhhh・ahh-a』も巧い。男声の低いパートと女声の高いパートをユニゾンで重ねている。ここで男役と女役が切り替わる目印である。

『おんなはつらいよ めんどうとおも・わ・れたくない』の韻の踏み方も耳を引く。ここの『・わ・』はその前段の『あなたのとなりに いるのはわたし・だ・けれど・わ・たしじゃない』の『・だ・』と『・わ・』と音の位置も高さも同じにしてある。

なお、『女はつらいよ』は、この歌において重要なキーワードではない。女のつらさを訴える事がこの歌の主眼ではないという事だ。確かにこの一節が『男はつらいよ』のトリビュートなのは間違いないが、勿論別に渥美清を知らなくてもこの歌は楽しめる訳で、もっと踏み込んで言えば、重要ではないから偏った知識(この場合の"偏り"は年齢・年代に依拠する話になるけれど)に基づいた"しゃれ"で遊べるのだ。遊び心をどこに潜ませればよいか、よくよくわかっている。特にこの歌は中盤から後半にかけてシリアスなトーンに推移していくのでこういった軽さに基づいた彩りは序盤のここらへん位にしか配置できない。どこまでも計算し尽くされた歌詞である。

サウンド面では、最初に指摘した通り、ベースの下降フレーズが男声部と、ピチカート(弦を摘んで弾(はじ)いて弾(ひ)く弾(ひ)き方)っぽい上昇フレーズが女声部と対応している。のっしのっしと鷹揚な下降フレーズはユーモラスですらあるが、ピチカートの瑞々しい音色がこの歌のシリアスな側面を即座に紹介している。実際、ただ彼女を自慢しただけの男声部に較べて『貴方の隣に居るのは私だけれど私じゃない』はかなりシリアスで重い。それとバランスをとるように『女はつらいよ』とか細いセンス・オブ・ユーモアを差し挟む事によって、この後もう一度男声部の鷹揚な雰囲気に戻る事ができる。

例によって、『面倒と思われたくない』と次の『俺の彼女は済んだ話を…』の間に低音と高音によるユニゾンのハミング『ho・ohh-o・o』が入る。こうやってひとつひとつのパートを丁寧に繋ぎながら、メロディーに合わせた歌詞を次々と載せて物語を進めていくのだから、いやはや、本当にいつも、どうやって作詞を完成させているのヒカルさん?

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大谷くん凄いねぇ。彼が打って勝つとともに彼が打たれたら負ける。「打たれた倍打ち返す」って1人で言えるのは二刀流の彼だけ。短期決戦じゃ実質ベンチ入りが1人多いようなもんだからな。栗山監督の緻密な采配があってこそですが。

元女優の方が大麻所持で逮捕されたそうな。前々から医療用大麻の解禁を訴え選挙にまで出馬した人。これは、久々にみた、いや、日本では滅多に見られない誤用でない方の「確信犯」ではないか。信念に基づいた上での犯行。こういう、社会秩序を盾にした「一次的な被害者の存在しない犯罪」については、逮捕云々というのは当事者同士の駆け引きに任せるしかないのだが、マスメディアの方がまだ罪も確定していないうちから犯罪者扱いで報道するものだから始末が悪い。後日無罪が確定してもより小さくしか報道しないし。やれやれだな。まぁもっとしゃあないのは、普段は「法律に不備がある」論を振りかざしておいて場合によっては「これは法律だから」で押し通そうとする人。言ってもきかないので何も言わないでおきましょうね。

「確信犯」を英和辞書で引いてみると"prisoner of conscience"とある。「良心の虜」といったところだろうか。良心に囚われ過ぎていて犯罪も厭わない、とか何とか、そんな感じか。では"prisoner of love"、「愛の虜」に潜むニュアンスとは何なのだろうか。愛が深すぎるが故にそれに囚われてしまい、みたいなストーリーを夢想する。今はなき昼ドラ枠のような。

ヒカルの『Prisoner Of Love』も、「愛の虜」だろうからそんな昼ドラ的なドロドロの、いや激情の恋愛、異性間であっても同性間であっても、そういうのを想像するのだが歌詞にはキッパリはっきりと『あなただけを友とよぶ』とある。激情の相手をひっつかまえて、自ら選んで、そう呼んでいるのだ。あれから8年。時代が変わったのかヒカルが変わったのか今は『ともだちにはなれない』と『ともだち』では歌う。この、一種LGBTを扱っていると言い切っていい2曲の間の歌詞の共通点と相違点をつまびらかにしていくのもまた今後のテーマのひとつである。乞うご期待。いやでも、並行して色々書いてって大丈夫なのかな。

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『帰りが遅くなってもきかない 細かいこと』の一節について、もうひとつ重要な点がある。聞けばわかる通り、『こまかいこと』の『と』が、『愛想もいぃ』の『ぃ』や『評判だし』の『し』や『干渉して』の『て』や『こない』の『ない』に較べて音の高さが半音上がっている事だ。まぁよく覚えておいて欲しい。いや、多分一回か二回しか蒸し返さないけどな。

で、だ。ここから所謂「女声パート」に移る。言っても歌ってんの全部ヒカルだから便宜上の呼び方でしかないが。「女役パート」でも、いいかな。ドスを利かせた低い声からか細く儚く高い声に移行してこう歌う。『あなたの となりに いるのはわたしだ けれど・ わ・たし じゃない』

最初に聞いたその瞬間は『貴方の隣に居るのは私だ』で一瞬切れるものだから、リスナーの頭の中にはその刹那、"そこそこ美人で愛想がよくて気が利く女の子"が"尊大な俺様"に寄り添っている姿が思い浮かぶのだが、次の音、即ち『けれど わ・たし じゃない』が聞こえてきた瞬間、その一文が叙述トリックである事を思い知らされるのである。

その語の並ばせ方の巧みさについては論を待たないであろう。『貴方の隣に居るのは私だ』と『私だけれど私じゃない』の2つの異なった文章を『私だ』の重なる部分で繋げてその落差でリスナーをギョッとさせる。その手腕たるや。誰もが
この歌を初めて聴いた時にこの場面で「おぉ…」と驚いたのではないか。

そのメインの技巧に加えて、サブの技巧もまた非常に巧みだ、というのが前回(3回前だっけ)からの話の続きだ。叙述トリックは、いきなり披露してはあざとすぎてなかなかその落差を存分に味わって貰えないものだ。出来るだけ受け手をその物語に入り込ませて注意を引き付けてから披露するから効果がある。

それを担っているのが前回触れた倒置法の『帰りが遅くなってもきかない 細かいこと』の一文なのだ。聴き手はここで一度倒置法に触れている。つまり、この場面で「この歌は、メロディーをちゃんと最後まで聞かないと歌詞の意味がわからないかもしれないな」と理解するのだ。ここから聴き手は、一文々々に注意深く耳を傾けるようになる。文節が一瞬途切れても無意識的に「…で、何?」と続きを聞きたくなる、確かめたくなる心理に誘導されていくのだ。その匙加減の絶妙さたるや。

倒置法で注意を引いておいて、しかし、この最初の女声の場面で扱われる技巧は倒置法ではない事にも留意しておこう。ただもっと広い意味で、しかし漠然と、聴き手は「文章は最後まで聞こう」という姿勢にいざなわれて、「2つの(定型的な)文章を重ね合わせてコントラストを劇的に描く」というトリックに辿り着く。だから驚く。説得力がある。

ここらへんの、ただいいアイデアが出てきたというだけでなく、その場所まで優しくさりげなく導く丁寧さこそが"Pop Musicianとして"の宇多田ヒカルの真骨頂だ。プロは受け手の気付いていない所で決定的な仕事をしているものなのである。どうだ、まいったか。

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結局、『Fantome』はビルボードジャパンでもオリコンでも4週連続1位を獲得という事で、めでたい。枚数は45万枚を突破、配信も合わせると既に80万ユニットを突破したらしく、いやはや、スケールの大きい話になってきたな。発売前の私は「SCv2を越えて50万枚行ってくれたら」と願望込みで宣っていたが、あっさり達成してしまいそうな勢いだ。売れている。

裏を返せば、今は他に対抗馬が居ない、いや高い密度で居ない、と言った方がいいのかな、独走を許す市場になっている訳で、寂しいっちゃ寂しい。しかし、いずれにせよいちリスナーにとっては記事の上を踊る数字の話に過ぎない。ひとりひとりが聞いて心に感じたエピソードの方がずっと重要である。

そういえば、まだ聴いていないが、LadyGAGAの新譜が母に捧げた一枚だとかいう記述を見かけたな。常々、彼女は若い頃の藤圭子に似た、頭の回転が早くてセンシティヴな人だと思っていたのだが、そんな彼女が『Fantome』とほぼ同じテーマでアルバム作りをしていたとしたら、大変興味深い。どんな作品になっている事やら。

一方、もう先週の話になるが、10月18日に90歳の誕生日を迎えたチャック・ベリーが38年ぶりのニューアルバムを出すそうな。私個人にとっては、彼がリアルタイムでアルバムをリリースするタイミングに生き合わせるのは生まれて初めての経験になる。音楽的には何も期待していない、と言おうか本当に今の彼が弾いて歌っているのならゴミみたいなサウンドが出来上がる気がするんだが、いいのだ。なんかそれだけで凄いもの。生きて新しい作品を生み出す。それ自体がどんなに有り難い事か。

縁起でもないが、チャックだってあと30年の間に死ぬかもしれない訳で、その時はやまのようにトリビュートアルバムが作られるだろうが、彼の曲はどれもおちゃらけていて浮き足立っていてもう本当にしょうがない曲ばかりだ。しかし、90歳以上まで生きてきているなら、いつだって彼を笑顔で送り出せる気がする。寧ろ、ニューアルバムのサウンドはゴミであって欲しい。「あぁ、もう全部出し尽くしているんだな」と未練を残さずに済むからね。そういう意味で、その来年発売されるニューアルバムが圧倒的に楽しみだ。あぁ偉大なるチャックベリー。皆に「まだ生きてたの!?」と呆れられるまで長生きして欲しい。

キャリアに、人生に悔いを残さない為には長生きするのがいちばんだ。それがかなわないのなら、できるだけ作品に魂を封じて遺す。それでも不十分なら、生きて残った者たちが追悼盤を作って思いを昇華させる。そうやって音楽の連なりが生死を越えて魂達を癒やしていく。生きるも死ぬもない。ただ歌はいつだって再生されるのだ。その都度生まれ変わりながら。

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『俺の彼女は趣味や仕事に…』の部分に差し掛かると、バックでポール牧ばりの指ぱっちんが炸裂する(他に言い方はないのか)。どうにも、私が年寄りなせいか、こういうのを耳にすると「ウェストサイド物語(ストーリー)」を思い出す。ミュージカルだ。

そいや私まともにミュージカル見た事ないなぁ。ミュージカル映画なら幾つか見た観た事がある。「レ・ミゼラブル」は素晴らしかったな。「メリー・ポピンズ」の「チムチムチェリー」は私のルーツソングのひとつで…って話が逸れたぜ。

Hikaruの過去曲で似た雰囲気のアレンジがないかと頭を巡らすと、そうそう、『Poppin'』がある。あちらは指ぱっちんではなくスネアの代わりにクラップ音(手拍子)を宛てている感じだが、狙いは同じだろう。ミュージカル風味を出す為である。

手拍子といえば、拍手と時々混同されるよね。前者はリズムあり、後者はリズムなし、なのだが、拍手をランダムに打つのは意外と難しい。周りとタイミングを合わせたら手拍子、合わせなかったら拍手、という分類の方がモアベターか。また話が逸れたな。

『Poppin'』では、Hikaruが『Girls!』と呼び掛ける。まぁ典型的な「男子と女子の対立構造」だが、これもそういや「ウェストサイド物語」だな。プエルトリコという地名を覚えたのもこの映画だっけ。未だに正確な位置を把握していないぜ。プエル・トリコじゃなくて、プエルト・リコなんだってねぇ。日本語でも、最近は少なくなったけど「やむをえない」を「やむ・おえない」と切る人がよく居た。「止むを得ない」=「Can't Stop Doing」なのだからと思うんだが、人間、構文を分析的に把握しているとは限らないよね。…あぁ、また話が逸れ…てもいないな、えぇっとね。

ここの次の歌詞が『帰りが遅くなっても きかない』で一旦切れるのよね。文章をどこでどれくらい切るか、って大事でな。ここに一瞬間が空くからリスナーは「ん?どういうことだ?」と一瞬立ち止まる。するとすぐに『細かいこと』が続いてくるから「あぁ、"帰りが遅くなっても細かいことをきかない"という話なのね、わかったわかった」となる。つまりここはただの倒置法として話は収束する。今書いた「あぁ、」には「なぁんだ」という少し拍子抜けな感触が漂う。拍子とは上記の通りリズムありの状態の事で、リスナーは今一瞬曲のもつリズムから離されたのだ。

実は、ここが本当に巧みなのだ。この「拍子抜け」が伏線になっている。次回はそこのところの話から。


追伸的に記しておくと、『俺の彼女』にしろ『Poppin'』にしろ、ミュージカル風にアレンジを施す時Hikaruの歌い方は「ロールプレイ」になる。役割を演じる、その為にその時、曲調がミュージカルになる、と言ってもいいか。Hikaruのミュージカル好きは初めて自分で買ったカセットテープが大好きな「Part Of Your World」を含んだ「Little Mermaid」のサウンドトラックだった位だから、きっと筋金入りのミュージカル好きだ。ここはひとつ、ミュージカル嫌いで有名な(有名だった、かな)タモリと大激論を交わしてみて欲しいが、次にミュージック・ステーション出るのいつになるんだろうね。番組名を「ミュージカル・ステーション」に変えちゃう勢いでつっかかっていって欲しいぜ。

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照實さんは結局、「今3つめの、いや4つめのビデオを作ってるとこ」と言いたかったのかな。前も述べたように『Fantome』収録曲のミュージックビデオは既に6つあるのだがここは素直に『花束を君に』『真夏の通り雨を』『二時間だけのバカンス』に引き続く第4弾、と捉えておこう。

次のビデオというからには、『Fantome』からの"シングルカット"が新しくあるという事だが、さて、どの曲か。

いちばん無難なのは言うまでもなく"道"で、TVCMも相変わらず流れていてラジオチャートでも絶好調で、更にもう一押しという意味でビデオを投入してくる、という流れ。これはわかりやすく、何の異論もないだろう。「遅きに失した」と言われるかもしれないが、『Fantome』の想定外ともいえるロングセラーぶりがその手の反論を大人しくさせている。悪くない。

では、それ以外の曲となると、新たなタイアップを妄想したくなる。最も手堅く新鮮味がなく、しかしファンとしては美味しいのがレコチョクのCMで、どの歌だろうと気にする必要がないため、ただヒカルが画面に現れてわぁい♪というだけで済む。ありがたい。

次にありえるのは、『道』に引き続くサントリーのCMだ。前に「『人生最高の日』に引き継いではどうかと提案したが、下山編として『Show Me Love(Not A Dream)』を使ってくれたら、というアイデアが浮かんでしまうと悔しがるしかない。『山は登ったら下りるものよ』。6年遅かった。

他にも、『人生最高の日』をゼクシィに、とか二日酔いのお薬のCMに『忘却』を、とか色々考えてしまうが、大抵のタイアップはそこまでリンクを考えないので、予想もしないところからまたCMが決まるのだろう。ただ、プジョーだけはやめて欲しいような気がしなくもない。…いや別に構わないか。何れにせよ楽しみだ。

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もし『Fantome』が4週連続1位という事になると、「音楽を売るだけでこれだけの事ができるのか」という驚きの認識が広がるだろう。何だか不思議な感じだ。『First Love』を例に出すまでもなく、90年代はそれが普通だったのだから。ただ曲が2曲入ってるだけで1000円もするCDシングルが、100万枚とか200万枚とかを売り、それが稀ではなかったのだから。

その時代を思い出しつつ今回の『Fantome』の健闘をもって「J-popの復活」だとか「J-popの反撃」と言うのには違和感を感じる…って書こうとずっと身構えてたんだけど、案外そう書いてる人見当たらないのよね。だからわざわざ言い添える事でもないんだけど、一応書いとく。

『Fantome』はJ-popではない。そう言い切ってしまっていいと思う。90年代にリアルタイムでそれを横目に通り過ぎていた身としては(別にどっぷり浸かっていた訳じゃないのだ)、この11曲の塊をJ-popという呼び方をするのに抵抗がある。

昔のヒカルは違った。『traveling』はJ-popの産み落とした最大の名曲のひとつ、と言われても頷ける。何より、私自身、『Goodbye Happiness』をさして「これは最後のJ-popソングだ」と言い切った事がある。今、『Fantome』を聴くと、果たしてその通りだなと納得する。

『Fantome』の曲はとても耳と印象に残る。しかし、それをかつてのJ-popのノリで「ポップでキャッチー」と表現すると、ちょっと違うかなぁ、となる。「ともだち」は気がついたらメロディーがぐるぐるアタマを回っているけれど、これをJ-popの意味でポップと呼ぼうとすると、「うーん」と立ち止まってしまう。

然るにこれは、ヒカルの作り出した新しい日本の大衆や庶民の為の商業音楽であって、90年代もてはやされたあのJ-popではもうないのではないかと。かつてフォーク・ミュージックが商業的になるにつれニュー・ミュージックと呼ばれたように、歌謡曲やアイドルソングがいつのまにかJ-popと呼ばれ始めたように、何か新しい呼び名が必要な気がする。

いつのまにか、と言ってもWikipediaをみるとJ-popに関しては「J-waveが仕掛けた」とはっきり書いてある。93年に発足した日本サッカープロリーグの名前がJリーグになったのだから、そういう時代だったのだが、いわばそういう「作られた名前」であった。

ヒカルが今回持ち込んだLGBTや死や母をテーマとする歌詞や、ロンドン仕込みのモダンなサウンドや、popと言うには独特過ぎるフックの作り方など、正直余人に真似できるスタイルだとは思えない。このサウンドが直接流行る訳ではない。しかし、空気は作れる。次の世代がこれを聴いて「J-popとは呼べない私たちの世代の音楽」を作るキッカケにしてくれるんじゃないかと期待してしまうのだ。その答がわかるのに3年かかるか25年かかるかはわからないが、兎も角、「今、種は蒔かれた」と覚えておこうと思う。後から振り返った時に、「今の日本の大衆音楽の持つ独特の空気の源泉を辿ったら、宇多田ヒカルの『Fantome』に行き着くんじゃないか」と推察できるように。これだけ情報が氾濫した世の中だと、すぐに昔を辿れなくなってしまうからね。今私はこう思っていると書き留めておくのが、未来に対する無意識の役割なのでした。まる。

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昨夜の「NEWS ZERO」の出演は10分程度だったが、喋ったねぇ。音楽の話は殆どせず、社会性の高い話題に寄ったトークだった。子育てやら難民やら、音楽ライターだと遠慮して訊かない?ような事も遠慮なく。編集されている為実際はどんな対談だったか知る由もないが、知的な側面は遺憾なく発揮されていたと言えそうだ。

日本(と乱暴に一括りにしながら)は本当に子育てに不寛容で、それは多分、戦後子育てにはわき目もふらずに仕事に没頭した男たちが出世して作り上げたのが今の高度経済成長以降の社会だからで、そもそも社会制度に子育てが組み込まれていないからだ。今でも時々ツイートが流れてくるが、女性の社会参画を訴える会合のメンバーが男性だらけ、というようなネタがウケる事からも、女性からの視点の欠けた制度設計は共通認識であるように思われる。女性と子育てを強く結びつけて放置してきている。

そこらへんのところを「今泣いてる赤ちゃんは将来あんたの年金を払う人」とわかりやすく喝破したのは見事だった。社会の縮図を実にうまく纏めるなぁ。作詞家に求められる才能そのものだろう。コピーライターや俳人と小説家の間くらいのサイズのフレーズをすっと導き出してくる。

「日本で子育てした事がない」「友人から訊いた」とソースの信頼性を判定できるパートをしっかり差し挟んでいたのも好感触。いや寧ろカットしないでいてくれてありがとう、かな。ここらへん、ネットでの拡散にも耐えられ得る伝聞不確実性への配慮が感じられた。

でもやはり「最近の社会の不寛容」について振られた時に「昔は寛容だったかといえばそうは思わない」とハッキリ返してくれたのが、いやまぁ、目がパチクリさせられたですよ。これ、テレビに喧嘩売ってんだよね。「最近少年の凶悪犯罪が増えていて」とか、統計データを信じる限り全部嘘だからねぇ。「社会が不寛容になっている」という嘘かもしれない前提で報道番組を作った方が数字が取れるのだろう、それをあたかも認められた一般常識共通認識として迫ってくるのだが、キッパリとそれを拒絶してくれた。そゆのにハラハラしていたから、意志の強さに安堵した。いやまぁ、これも、そこをカットせずに流してくれたところが大きいんだけど。

何はともあれ、炎上する事もなく無事に放送が済んで何よりだ。無事是名馬は普段のヒカルには当てはまらないが、今回はそう言っていいかもしれない。

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今のところ何もなければ、無事に「NEWS ZERO」の2回目の出演が放送されるかな。前回、先週だな、あーだこーだ書いたのでほぼ「ひぁん、こいつは宇多田が見れなくて不機嫌なんだな」と誤解されているんだろうが、あれはヒカルが見れなくて怒っていたのではない。いつも通り、「地上波テレビ(の特にキー局…いや地方局もか…)は感覚が違うなぁ」と呆れていただけだ。「停電なんてローカルなニュースに時間を割くのは俺ら関東民に向けてだけでよい」と書いたのだから「ヒカルが見たかったのに残念」とかは言っていない。いや、残念でしたけどね。見たかったでしたけどね。という訳で今夜も見たいですが、それに相応しいニュースが飛び込んできたら遠慮なく差し替えてくださいな。期待はしていませんが。

昨日3週連続1位についてのツイートでヒカルが久々にアリガタビームを炸裂させた。それ自体はよかったのだけれども、何だろう、この、「33歳で子持ちのバツイチですが、ちょっと久々にクローゼットの後ろから(押し入れから、か)中学生の頃着ていた制服を引っ張り出してきて着てみました」みたいな気恥ずかしさは。いや、好物なので「やめてくれ」ではなくて「いいぞもっとやれ」なんだが、何ていうか若作りしてるみたいないきなり元気出してる感に、純粋に照れる。いや、いいんですけどね嬉しいんですけどね、アリガタビーム。なんだろう、16歳くらいの頃のメッセでお馴染みだったせいか、その頃のハイテンションなヒカルが妙に思い出されて今の落ち着いたヒカルとの落差で急激に萌える。いやはや、何ともはや、何て言っていいかわからんな。


真面目な話もしておこう。いや、今のも結構真面目ですが。先程のツイートによると、息子に風邪を伝染されたらしい。一緒に過ごしてるんだね。麗しい、日常。

ヒカルが自らの母親を溺愛しているのは自他共に認める所だけれど、その愛情の量、激しさはヒカルにしかわからない。つまり、ヒカルにはわかる。そして、今のヒカルは母親だ。息子から、将来はもしかしたら娘からも、宇多田ヒカルが藤圭子を愛したように、同じ激しさで、宇多田ヒカルが我が子から愛される可能性についても、心に留め置かなければいけない。ヒカルは、日本屈指な「他者から愛されまくる」人生をおくってきているだろうが、恐らく、自分が母親を愛したように激しく愛された経験はない筈だ。あるとしたら両親から、だろう。さてその関係性が息子(や将来の娘)との関係において"再現"されるとしたら? 「私はこんな風に見えていたのか」という発見がある。テレビでヒカルが「幼い息子をみて無意識の時代が何であったかを知った」という旨の無茶苦茶興味深い論点を提示してくれていたが、「幼い頃の自分にあった"愛"」についても知る機会が訪れるのだ。それは得難い経験。今から覚悟しておいた方がいいだろうよ。でもまぁ、呆れ
て笑うのが関の山かもな。

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