もし『Fantome』が4週連続1位という事になると、「音楽を売るだけでこれだけの事ができるのか」という驚きの認識が広がるだろう。何だか不思議な感じだ。『First Love』を例に出すまでもなく、90年代はそれが普通だったのだから。ただ曲が2曲入ってるだけで1000円もするCDシングルが、100万枚とか200万枚とかを売り、それが稀ではなかったのだから。
その時代を思い出しつつ今回の『Fantome』の健闘をもって「J-popの復活」だとか「J-popの反撃」と言うのには違和感を感じる…って書こうとずっと身構えてたんだけど、案外そう書いてる人見当たらないのよね。だからわざわざ言い添える事でもないんだけど、一応書いとく。
『Fantome』はJ-popではない。そう言い切ってしまっていいと思う。90年代にリアルタイムでそれを横目に通り過ぎていた身としては(別にどっぷり浸かっていた訳じゃないのだ)、この11曲の塊をJ-popという呼び方をするのに抵抗がある。
昔のヒカルは違った。『traveling』はJ-popの産み落とした最大の名曲のひとつ、と言われても頷ける。何より、私自身、『Goodbye Happiness』をさして「これは最後のJ-popソングだ」と言い切った事がある。今、『Fantome』を聴くと、果たしてその通りだなと納得する。
『Fantome』の曲はとても耳と印象に残る。しかし、それをかつてのJ-popのノリで「ポップでキャッチー」と表現すると、ちょっと違うかなぁ、となる。「ともだち」は気がついたらメロディーがぐるぐるアタマを回っているけれど、これをJ-popの意味でポップと呼ぼうとすると、「うーん」と立ち止まってしまう。
然るにこれは、ヒカルの作り出した新しい日本の大衆や庶民の為の商業音楽であって、90年代もてはやされたあのJ-popではもうないのではないかと。かつてフォーク・ミュージックが商業的になるにつれニュー・ミュージックと呼ばれたように、歌謡曲やアイドルソングがいつのまにかJ-popと呼ばれ始めたように、何か新しい呼び名が必要な気がする。
いつのまにか、と言ってもWikipediaをみるとJ-popに関しては「J-waveが仕掛けた」とはっきり書いてある。93年に発足した日本サッカープロリーグの名前がJリーグになったのだから、そういう時代だったのだが、いわばそういう「作られた名前」であった。
ヒカルが今回持ち込んだLGBTや死や母をテーマとする歌詞や、ロンドン仕込みのモダンなサウンドや、popと言うには独特過ぎるフックの作り方など、正直余人に真似できるスタイルだとは思えない。このサウンドが直接流行る訳ではない。しかし、空気は作れる。次の世代がこれを聴いて「J-popとは呼べない私たちの世代の音楽」を作るキッカケにしてくれるんじゃないかと期待してしまうのだ。その答がわかるのに3年かかるか25年かかるかはわからないが、兎も角、「今、種は蒔かれた」と覚えておこうと思う。後から振り返った時に、「今の日本の大衆音楽の持つ独特の空気の源泉を辿ったら、宇多田ヒカルの『Fantome』に行き着くんじゃないか」と推察できるように。これだけ情報が氾濫した世の中だと、すぐに昔を辿れなくなってしまうからね。今私はこう思っていると書き留めておくのが、未来に対する無意識の役割なのでした。まる。
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