無意識日記
宇多田光 word:i_
 



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この「宙ぶらりんぶり」がヒカルの特徴である、とも言える。商業主義に傾倒するでもなく、芸術至上主義に人生を捧げるでもなく。うまくいかなければ「どっちつかず」で終わるだけだが、うまくハマれば玄人も素人も絶賛する作品を作り上げる。勿論売れる。売れまくる。全員が買うのだから。

ヒカルはプロ意識が高い。だからといってそこに身を捧げる事はしない。例えば、「自分はこういう音楽はピンと来ないが、市場にニーズがあるから作ろう。」とはならないし、逆に「誰が何と言おうが自分はこれをいいと思ったからこれで行く」というように頑なになるでもない。どっちにも振り切れない。

よくそんなので曲が完成するな、と思うのよ、これ。

創作や製作は、いつまで経っても終わらない作業だ。時間と予算さえあれば、いつまででもいじくりまわし続ける事が出来る。そこに時間的制約を設けたり、ある一定度のクォリティーになればそれでよしとしたりといった何らかの"基準"を設えて初めて世に問える形にまとまる。仮に基準が明確であっても大変な作業である。

なのにヒカルは、どちらにも振り切らないというのだから、一体何を基準に完成品と見なしているのか…全くわからない。時間的制約があるならいい。そこまで頑張ればいいのだから。しかし、今のヒカルは自ら締切を動かせてしまう立場に居る筈なのだまだ。

プロデューサーとして作品の質や用途を保証する時の基準が一定しない、或いは明示できない、更にはそもそも事前に想定する事すらできない、といった根本的な問題が浮かび上がる。ヒカルはいったい、いつ作業を終えればいいのか、誰に、何に相談すればいいのか。物凄く不安定な場所に居たりするかもしれない。

更には、であるならば、世に問うた時に一体どんな反応をもって手応えと言うのかすらわからない。たとえ望んだ形ではなくとも、ポジティブな反応を貰えればそれでよいのか。これ、難しい。曲を書いて宣伝をすれば、何人かは気に入る。それだけなら、ハードルはかなり低い。やはり、どれ位かの一定数以上の好反応が無くば手応えというのは有り得ないだろう。では常にシングルをリリースする度に「今回は何万枚くらい売れれば合格」という風に設定しているのかというと…やってないよね、ヒカル本人は、特に。

結局はひとりひとりの反応を見て逐一ガッカリしたり喜んだり、というだけなのかな。だとすると、自然体過ぎる、と言いたくなるんだけど、その"過ぎる"を極めると「好きな時に好きな曲を作って人に聴いてもらって」となるから、音楽に復帰するしないみたいな2択にはならない。そんなキッパリしなくていい。かといって、では今まで音楽を一切書いていなくて、仕事が始まるから書き始めた、というのでもない。ゆる~く音楽は書いていたのだ。どっちつかずの中に、人間活動がどうのという"宣言"を盛り込むと、こういう風に混乱を招く。

これだけどっちつかずなのにヒカルに優柔不断や付和雷同、あやふやな部分は全く無い。ただただ自分の位置を常に「どちらの極端にもならない」に置いてきた成果だ。うーん、ちょっと常人には考えられない。

…よく生きてられるなぁ、と、素直に感心する。不安じゃないのだろうか。私なんて「人生なんて所詮割り切れないものだ」と割り切って生きているのである意味本当の不安と向き合っていないようなものなのだが、ヒカルは常に不安と向き合ったまま生きていける強さを持っているという事か。いやはや、尊敬できてしまうな、人として。

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世の中の「出力の頻繁な人たち」と比較するとヒカルは如何にも寡黙に映る。プライベートとパブリックを分けているから、と言ってしまえばそれまでだが逆からみると、ヒカルはそういう「出力の頻繁な人たち」の存在に頼らない生活をしているんじゃないかと。

出力が多いと入力も多くなる。即ち「交流が盛ん」な状態になる訳だがヒカルはそういった文脈に居ない。卑近的に言えば、毎日Twitter読んでたらそこで言いたい事も出てくるから毎日書く事になる、と。読むのと書くのはセット、入力と出力はセットなのだ。出力が頻繁な人は入力もまた盛んである。

多分、ヒカルはあまりそういった入力を入れていないのだろう。ネットサーフィンをするよりじっくり読書をするとか、人と会う機会も手広く浅くより決まった人と決まった時間にだけ、とか。その入出力ペースに慣れてしまえば、寡黙と言われる状態は寧ろそれが自然なものだと気付く。我々の方が"毒されて"いるのかもしれない。

何より、ヒカルは自分で何かを作る。人は「何か面白い事ないかな~」となった時スマートフォンをいじり始めたりテレビをつけたりするが、ヒカルの場合ノートを開いて何か書き始めたりキャンバスに向かったりする。入力も必要だがそれ以上に自分からの出力が大きい、と。

これはまぁ芸術家肌の人間なら普通の事かもしれないが、大衆文化と向き合う人間がこれをしてしまうとズレる。普通の人に向けて何かを享受せしめんとするならば、その普通の人の感覚がでんなものかを知らなければならない。どれくらいの頻度で歌を聴くかとか、スマホゲーは何が流行ってるのかとか、肌感覚で知っておく必要がある。

とはいえ、それを日常にする必要もまたない。「一度やってみる」だけで十分なケースが殆どだろう。ヒカルはそこらへんの嗅覚が鋭いだろうから、要領さえ把握してしまえば空気は読める。

でもそれは、そのままでは歪みである。市場で商品をシェアし合うのは近いライフスタイルの者同士なのだ。今私が想定してみた(真実である保証はまるでない)状況は、売り手が買い手にならないケースである。確かにそれもまた市場の特徴、いや、本質ですらあるのだが、毎度言っているように製作者が一番目の消費者でないとすると、そうだな…損、だな。仕事だからと言ってしまえばそれまでだけれど、それを繰り返してるといずれ歪みが溜まっていきやしないかとは思うかな。

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来月の19日はヒカルの33歳の誕生日で、それ以上でもそれ以下でもないと思っていたが、ひとつ大事な事を忘れていた。この日、2016年1月19日はヒカルのもとにくまちゃん(Kuma Chang)がやってきてちょうど10年の記念日なのだった。

10年。長い。10歳かどうかは知らない。くまちゃんはサザエさん時空な住人かもしれない。それはわからないが、ヒカルにとっては感慨深い筈である。この日ばかりはケーキでも買ってきてくまちゃんをお祝いしたい所だが何しろ自分の誕生日なのでそれはとてもやりづらい。バースデーケーキを自分で買う事になってしまう。

10年前のこの日以降、ヒカルの人生は変わったと言っても過言ではないだろう。歌も作ったぬり絵もコンテストした歌も歌った踊った挙げ句の果てには自分で着てみせた! 宇多田ヒカルといえばくまでありくまといえば宇多田ヒカルである。この5年の間も野生の熊たちに対して何らかのアクションを起こしていたかもしれない。まさにクマ以前クマ以降。デビュー時にはこんな事になっていようとは本人含め誰1人として思っていなかったに違いない。

昔も一度書いた事がある気がするが、NHKの紅白歌合戦(もうしあさってだな)がヒカルを口説き落とせる最も可能性の高い文句は「こどもたちと"ぼくはくま"を歌ってくださいませんか」なんじゃあないだろうか。これは揺れる。揺れるぞう。この歌を日本中、いや世界中(何ヶ国にも中継放送されているらしい)に響かせるまたとない機会ですよと。結局は断りそうだけれどグラグラ揺らせる事は間違いないんじゃないか。

それほどまでに(?)ヒカルにとってくまちゃんとクマと熊の存在は大きい。今息子が出来てどんな風な関係になっているのやら。くまちゃんがぺしゃんこになる夢を見て泣いて起きたとか言ってたっけ。うわ切ねぇ。手放してるとか100%ありえない。100%って言い切れるって凄い。

でもまぁ今後はそんなに露出が増える訳でもなかろう。息子にかかりきりの時期にはくまちゃんとの会話も減るだろうし。ただ、今もし子守歌を作っているとしたらくまちゃんが関わってくる可能性がある。歌詞よりも寧ろミュージック・ビデオに登場するんじゃあないか。或いはまたみんなのうたからお呼びがかかるかもしれないが、『ゼンセ』の件で揉めているのでいつもの居丈高な態度でオファーを出したらまた断られるだろうなぁ。

10年か。ヒカルはどれだけくまちゃんに救われた事か。自分を救っていい、自分を許してもいいと教えてくれた存在である。あんまり余計な事をせず、1月19日は素直な気持ちでお祝いしたい。


…ん? 2006年1月19日って日付はオフィシャルに言われてたっけ。一応、「親友からの誕生日プレゼント」とまでは言われていたっけな。出会ったのが誕生日当日とは限らない訳か。なるほど。いやでもまぁどの日か決めるとしたらこの日付になるだろうからこの日に私達はお祝いする事にしといたら如何でしょーかっ。

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世の中には大変な数の「一発屋」が居る。お笑い芸人の場合ひとつだけギャグが流行語大賞並みに流行ると言われる。同じようにミュージシャンも1つだけ大ヒット曲があって後は鳴かず飛ばず、という場合に用いられる。

すぐに思いつくのは大事マンブラザーズバンドとか三木道三とか…ってなんか歳だなー。いやこれ、殆どのミュージシャンがその「一発」にも恵まれずに生きていく事を考えると大変な勲章なのだがまぁ大体侮蔑まではいかないまでも軽視の対象にはなるよね。やれやれだが。

でこれをじゃあ防ぐにはどうしたらいいか。一発めで終わらせない。二発目の大ヒットを放てばよい。勿論それが出来たら苦労しないんだが、このシンプルさが大事である。

ミュージシャンがその「名前」で認知されるには、複数のヒット曲を持つ事が必要だ。何故なら、一曲だけだとミュージシャン名を覚えるのも曲名を覚えるのも実質的に変わらないからだ。Xが"紅"のヒットだけだったら、未だに「ねぇ、それ紅とXのどっちがバンド名?」と聞かれているかもわからない。他にも曲がヒットしたからXの方がバンド名として認知された。

…またまた出してくる例が古いなぁ。ではもっと古いのを。そして、その大ヒット曲が"立て続けに"出ると事態は決定的になる。そのミュージシャンの時代が来るのだ。古くは、The Beatlesが"She Loves You"と"I Wanna Hold Your Hand"を続けざまにヒットさせた時やBon Joviが"You Give Love A Bad Name"と"Livin' On A Prayer"を立て続けにチャートに送り込んだ時など。彼らはそれで瞬クマに時代の寵児となったのだ。


ヒカルのデビュー時はどうだったかと考えるのはややこしいので飛ばして、次の復帰時である。もし仮に大ヒット曲を一曲だけ出せたら「あぁ、やっぱり宇多田は凄いんだなぁ」と感心されるだろうが、たぶんそれきりだ。これが立て続けに大ヒット曲二曲となると「おや、また宇多田のターンか?」という空気になってくる。その違いは大きい。

無論、大ヒット曲なんて狙って生めるものではない。それを二曲、その上連続ともなると宝くじを当てるようなものだ。だからそれを狙え、と言う気はない。

ただ、もし仮にそういう"狙い"がレコードレーベル側にあるとすれば、その場合復帰時に既に過密日程でシングルを立て続けにリリースする計画を立てている筈だ。つまり、何が言いたいかというと、復帰後のシングルのリリース間隔で、ヒカルの活動ペースが見えてくる、という話。幾ら計画を立てたってそうそう連続ヒットは生まれはしないが、少なくとも、短い間隔で新曲を発表する機会を自ら作らないとその僅かな可能性すらゼロになってしまう。いつになるかはわからないが、復帰時はまずヒカルのリリース間隔に注目してみるのは如何かな。

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関西のテレビを観て育ったものだから、かなり幼き頃より漫才を沢山観ていたけれど、当時はあれが“一言一句台本に書かれているものをそのまま喋っているもの”だとは夢にも思っていなかった。かといって、それが本当にただの出たとこ任せのお喋りだとも思っていなかった。要するにどうやって作っているかに思いを馳せる事もなく、あの人たちが飛び出してきたら面白い事を言う、位の認識しか無かった。

実際は、ただ台本通りに喋るだけではなく、掛け合いとしてタイミングやリズムを合わせ、時には流れに合わせてアドリブを入れながら彼らは笑いをとっている。特にツッコミの側は「演技力」が要求される。というのも、ボケの言う事を受けて喋らなければいけないからだ。ボケは自ら間合いを作って自分のペースで喋ればいいがツッコミの方はそうはいかない。何よりも、ボケの側の発言を「まるでたった今初めて聴いたかのように」驚いてリアクションしなければならない。本当は飽きる程台本を読み込んでしこたま稽古して頭の中に叩き込んであるフレーズなのに。これが本当に難しい。

そのツッコミとしての演技力が最も高いのはアンタッチャブルなんだけど最近漫才してくれないね。それはさておき。兎に角彼らは練習に練習を重ねて目指しているのは「まるで今初めて繰り広げられているかのような自然な会話」なのだ。それが観ている方にとってはいちばん面白い。それを演技でなく素でやってしまったのがかつての「ガキの使いやあらへんで」のダウンタウンで、そりゃああれが出来るならわざわざ漫才の台本を書く必要なんてなかった。いっぺん観てみたいけどね、M1グランプリに彼らが特別出演してフリートークしたら何点取れるか。

まぁ兎に角、自然な会話を舞台上で見せる為に漫才師の皆さんはしこたま練習する。ミュージシャンの中には、同じように、MCをまるで台本があるかのように喋る人も居る。尺を測り流れを作り客の反応をみつつ修正を加えながら環境に次の曲への心の準備をさせる。誰とはいわないがその職人芸たるや凄まじいものがある。

一方で、本当にただ出て行ってお喋りするミュージシャンも多い。それが悪いとは言わないが、ある意味勿体無いかなと思う時がある。ここはダレずに次の曲へすぐさま行った方がいいのにとかあーここで曲名言っちゃったよとか逆に今のは先に曲名叫んだ方が盛り上がるだろとかいちいち気にかかってしまう。漫才のような緻密な(時間的密度の濃い)会話芸を観て育った故の弊害かなこの口うるささは。

ヒカルも、そういう意識でMCを練り込んだら出来ると思う。ただそういう意識をMCに持っていないだけで。回数は少なくても、観客の方もいつのまにか慣れてしまって「自然体のヒカルちゃんのお喋りが聞けて嬉しい」とか言っちゃう。いやそれについては異論は無いどころかもう15分くらいフリートークパートを作ってくれちゃってもよいのよ?とまで思うよ俺は。そりゃまぁヒカルのラジオ大好きだからそういう感じでやってくれたら。お便りなんか紹介しちゃったりなんかしてその場に居合わせたら読まれた人は悲鳴もんだ。

そこらへんのバランスは、いつどこでどう見極めたらよいのか。ヒカルには興味無い、ひたすら歌を聞かせてくれという人にはあのグダグダなMCは害悪でしかない。かといって…という風に客の反応を気にしていてもキリがないので、まずはヒカル自身が「理想的コンサートにおけるMCと歌のバランス」を提示する必要があるかもしれない。こんなコンサートが観たい!という理想を具現化する情熱、それを見せてくれるのが一番のエンターテインメントなのではないかな。

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イタリア人と結婚してロンドンで過ごすクリスマスってどんなんなんだろね。特に際立ったところもない、普通の日なのかな。

何の情報もないけど、なんとなく相変わらず影が薄い気がする旦那様。Hikaruの場合前夫が一緒に仕事をする人(同じ作品に並んで名前がクレジットされている人)だったので余計にそう思うのかもしれない。宇多田家といえば家族まるごと音楽家、なんていうイメージもあるから余計にな。

それこそ余計なお世話であってな。結婚しても仕事と無関係なケースが世の大半を占めるだろう。出産育児となるとまた別で、そちらの経過次第ではこうやって仕事(レコーディング)の日程にも影響する。

ヒカル本人は、「発売時期はあクマで制作上の都合で決まり、プライベートは関係無い」という風に言うのだろうか。これが2人め以降の子育てだとまた違うんだろうが、初産・長男となると…緊張してるんだろうなぁ、なんて妄想する。

一方で、子守歌かどうかはわからないけれど、週刊誌では子について歌った歌についての記事が出ていて、それは何の情報もなくても想像してしまう類の構想だけれども、一方で夫とラブラブな歌は作らないのか、という疑問もこちらにあったりするんだが、それは何故か「何の情報もなくても想像してしまう類の構想」という感じがしない。やっぱり夫の影が薄い。

2度目の結婚だから、とかもう30代なんだし、とかいった理由で初々しさの無さの説明をしてしまうのも可能かもしれない。確かに、我が子に対して歌うより特定のパートナーに対して歌う方が感触が生々しく扱いづらい、というのもあるだろう。実際、前回の結婚の時に新婚旅行で作った歌は別れの歌("COLORS"な)で、新婚感微塵もなかったし。

そういうキャラクターとしてのイメージの積み重ねが今の状況を生んでいるのかな。顔写真出ちゃってるのにでしゃばったりしないのは、それはそれで好感を呼ぶ一方、どうなってるんだろうという疑問もまた出てくる。誰か有名人が「お相手は一般の方です」といって結婚した場合、顔写真一枚も無い事が多い。そこがちょっと違う。もっとも、隠したとしてもすぐにどこかで写真撮られちゃうかもしれないんだけど。

まぁそこは、アルバム完成するまで待つか。きっと制作の謝辞(Special Thanks To)に名前が載るにちがいない。それで十分な気がする。でもせめて普段の愛称位は、知っておきたいかなという気はしてます。

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懐かしいな。「DEEP RIVER」を誕生日に買って、初めてアルバム全編通して聴いたのは半年経ってからだった。丁度年末に差し掛かる今頃だったんだろうかな。もうよく覚えていないけれど。

何というか、自分にとってというより、宇多田光にとってこのアルバムは、その人生にとってそのアルバムは、とても重いものであるような気がしたのだ。聴いてみたら、気のせいじゃあなかったけれど。

なので、自分もそれなりにその重さを体験してみたくて、一曲々々をゆっくり聴いていった。通して聴いたのはある程度その架空の重さを自分で消化してからである。

今じゃそんな聴き方はできない。「もう聴いた?」って訊かれるから、というのもあるし、自分がきっとすぐ聴きたがるというのもある。どんな理由であれきっともう無理なんだ。あんな事は。

出来れば、光の作る歌を徹底的にOne Of Themにまで貶めたい。そこまでしても尚楽しませてほしい。年を取って贅沢になったのと、多分、たとえ今から仮に100年生きられるとしても「もう時間がない」という感覚から逃れられないからだと思う。買ってきて即開封しぃのプレイボタンを押しぃの一気に最後まで聴きぃの。まぁ贅沢。

味わう事を強いられている訳でもあるまいに。

光にとっても、今後人生の中で「DEEP RIVER」ほど重いアルバムは作れないかもしれない。重さは若さの特権なのか。

でも、それでいいと思う。音楽を突き詰めれば重さは消えていく。ヘヴィ・ミュージックを25年間摂取し続けてきた人間が言うのだからたぶん、間違いがない。鼻歌だけが残る。ぼくはくまには最初から叶わない。

残る事だけが価値ではない。現れて消えていくのもまた価値だ。しかし、人はだからこそ何かを残そうとする。一旦重くして、そこから軽くしていったら残るのだ。歌だけが。

歌片の、と当て字をしたくなる。凝縮して爆発させて何もかもが消えてなくなってしまった後に散らばった歌のかけらたちを拾い集めて歌になる。最早瞳はそこに輝くしかない。

こどもができたので。その重さをHikaruは外から眺められるかもしれない。もう思い出すしか出来ない重さを、重い思いを。今はもう自分には生まれない、生まれるとしたらちょっと大変な事になる。人が何十億居ると思っているのだ。

それが本当のノスタルジーだ。今生まれてはいないものによっても歌は生まれる。時を超える。残れるのだ。


時々そういう事も考えないようでは、アーティストでは居られない。しかし、歳をとればとるほど、想起でない今生まれた感情を捉えるのは難しい。そうやってぐりんぐりんしながら、生きている。

「DEEP RIVER」が「DEEP RIVER」として残っている事、残してある事がアーティストの、ミュージシャンの強みだ。感情を自ら想起するのではなく、歌に想起させるのだ。今やってきたものの方角がわかる。音にした成果だ。

それは逃げ道を塞ぐ事でもあれば残手を削る手でもある。違う事を。まずはそこからだがそれは本懐ではない。

かつてそうだった、と教えて貰える。それだけかもしれないが、記憶は狼狽える。歌は揺るがない。心は何れにせよ震える。であるならば、歌え、と。瞳の輝きは失われない。私はもう見てきたんだから、信じていいんだよ、きっと。

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あんまり時節ネタを繰り出さないヒカルが「もうすぐクリスマスですね」と言って歌い出したWILD LIFEのCan't Wait 'Til Christmasは圧巻だった。シャツにジーンズというシンプルな出で立ちで、ピアノ一本で切々と歌い上げる。下世話な言い方になるが「嗚呼、それだけで金が取れる」と言いたくなるパフォーマンスだった。

タイミングがよかったよね。「もうすぐクリスマス」っていう。どこまで狙っていたのかは知らないが、数は少なくても時節ネタの歌はここぞという時に威力を発揮する。あとすぐ思いつくのはプレイ・ボールくらいだが、例えばヒカルは少し新しめに定着したイベント、ハロウィンなんかについてはどう思っているのやら。

ヒカルの書く歌詞がまた、基本的に「みんなでパーティーしようぜYeah!」なノリから程遠い事もあって、そういイベントとはあんまり合わない、というのもあるし、逆に伝統的純和風な行事に対しては曲調が合わないのかもしれない。

寧ろ、可能性として面白いのは英語の歌で日本の行事や祭祀を取り入れる事か。十五夜をヒカルが歌ってもシリアスに捉えられないかもしれないが、Utada Hikaruが世界に向けて発信するとなるとちょっと違った見方を出来るかもしれない。そこらへんは、日本を主体に活動しつつ英語の歌を歌う強みかもしれない。日本に居て日本に詳しいけれど、自分の歌うロックなりポップスなりの曲調には題材としてなかなか合わない、でも英語によって"外の目線"で捉えたらポップスとして消化できるものもあるかもわからない。

例えば節分でも七夕でも。お彼岸やお盆でも。日本に居て生活の中に根差しているとわざわざ歌われても何だか居心地が悪いけれどもしかし冷静に考えたら結構ロマンチックな由来だよねというものは結構ある。それを活かして活動していくのも面白いかもしれない。

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自分はかなり意識的に自分のリアルタイムより前の世代の音楽(主にThe Beatles以降のロックだが)も聴いてきている為、と言っていいかどうかはわからないが、自分より若い世代の音楽に対して余り抵抗が無く、新しく出てきたミュージシャンたちの音楽も(自分の世代の中では)積極的に評価している方だとは思う。つまり、年配として「最近の若いもんの音楽はわからん」とか「昔の方がよかった」とかそういう事をあんまり言わないタイプだと自認している。

が、ここ10~15年の間に出てきた世代のアーティストについては、一点、「昔の方がよかった」と言い切ってしまえるポイントがある。それは、トップレベルの歌唱力だ。

昔の歌手の方がずっと歌が上手い。これは覆らない事実だと捉えている。たとえば10年代の邦楽を代表するバンドとしてSEKAI NO OWARIが居るけれど、彼らが上の世代にいまいち受けが悪い(といっても既に7,8万人を一晩で集められる集客力があるので別にそれはそれで困っていないかもしれない)のは、ボーカルの子の歌がお世辞にも上手くないからというのは大きいと思う。自分も、彼らの音楽のよさを上の世代にアピールするとしてふと躊躇するとしたらボーカルの子の歌唱力だ。歌詞もメロディーもコンセプトも優れているのに、「でも歌下手じゃん、て言われるかもしれない」とつい思ってしまうのだ。

勿論どの世代にも歌の下手な歌手が大ヒットする事はあるけれど、その一方でちゃんと「聴かせるボーカリスト」もトップクラスに売れていた。自分のリアルタイムで言うと、B'zの稲葉、Mr.Childrenの櫻井、DREAMS COME TRUEの吉田、globeのKeiko、JUDY AND MARYのYUKI、という風に90年代には、上の世代に「音楽のよさはよくわからないけどボーカルは悪くない」と言って貰えるような歌手が居た訳だ。

そしてその最後に登場したのが宇多田ヒカルだった訳だが、と私が書くのは100%見越されていた気がするけれど(汗)、実際その通りだった。ヒカルがあの売上を記録したのは、若い世代に対する爆発力(例えば当時の小室系を聴いていた層とか)と、壮年組に一年に一回くらい現れる超ロングヒット(千の風とかああいうのな)の、本来完全に排他的に分離されていた筈の2つのファン層に同時にアピールできたからだ。特に壮年組に対して歌唱力の高さは絶対的な威力を持っていた。

確かに、年をとると、たくさん歌を聴いてきたせいで歌唱力に対して評価が厳しくなる。裏を返せば若いうちは少々歌が下手でも聴けてしまう訳なんだが、このままいくと10年代に邦楽を聴いて育った世代が歌唱力に対して耳を慣らせる機会がないまま時が過ぎるおそれが出てくるんじゃないかと今私は危惧しているのだ。

歌唱力に頓着しなくなるとどうなるか。単に「よさがわからない」だけではなく、年をとるにつれ「音楽を積極的に聴かなくなっていく」のだ。「あんなものは若いうちに罹る熱病のようなものだ」と捉えられてしまう。こういうフレーズを使うといよいよ年寄り扱いされそうだが仕方がない、言おう、「若者の歌離れ」がこれから20年単位で起こるかもしれないのだ。


この世代に対して、果たしてヒカルの歌唱力は価値としてどれだけ響けるのだろう?というのがより早い段階での危惧である。今の30代以上は「歌が上手いといえば宇多田ヒカル」という価値観の存在を知った上で生きてきているので余り心配はない(5年前以前と今後も反応はさほど変わらない)のだが、今の20代前半より下の世代に、ヒカルの歌が上手いと言って果たして話が通じるのかどうか。極端な話、物心ついた頃からずっと「日本のトップアーティストは嵐」と言われて生きてきたのだ。勿論「アイドルだろ(笑)」と冷笑する事も出来ようが、では嵐と同じ位売れてて歌の上手いヤツ誰か居るか?と言われても答に窮する。


勿論、出来ればヒカルの復活で「歌が上手いってこんなにも魅力的なのか」という価値観が浸透していけばいいのだが、もうヒカルは「彼らの世代の音楽」には成り得ない。ある意味なってはいけない、とすらいえる。出来れば、今の10代に物凄い歌唱力の歌手が現れて、物凄く売れて、我々以上の世代が悔しがって「なんの、そんな若造より宇多田ヒカルの方がずっと歌が上手いぞ」と負け惜しみを言いたくなるような状況になればベターである。だが現実は推して知るべし、だ。

勿論「そんなに売れていないミュージシャン」の中には歌の上手な若手が沢山居るだろうし、クラシックやジャズの世界に分け入れば化け物じみた若者は見つかるだろうが、今の話はあクマで日本中に名前が知れ渡るようなレベルでの話だ。ヒカルに対抗できる抜群の歌唱力を誇る若手が出てくれば、改めてヒカルの歌唱力が再評価され、復帰後もファン層がより厚くなるのではと期待したいのだが、こればっかりは待つ以外に術はなさそうだ。

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年の瀬という事で今年を総括する時期に入ってるらしく。前も書いた気がするがうちは毎日が総括なのであとはどこの期間で区切るかだけなんだな。2015年で区切っても「出産おめでとう~☆」以外にはあんまり思いつかないねぇ。オフィシャル・リリースもなかったし。辛うじて「宇多田ヒカルのうた」の余波余韻が伝わってきてたという程度かな。

市場の方はというと昨日も触れたようにストリーミング・サービスが本格的に始まったのがトピックだろうが、今のところ機能しているとは言い難い。まだラジオ局が幾つか新しく立ち上がったという程度だろうか。前から言っているように、音楽ソフトに今必要なのはハードの方である。イヤホンをどうやって身につけさせるか。或いは、超コンパクトでも音のいい機器を開発するか。でないとスマートフォンの画面には勝てない。無言無音でタップ&スワイプしてるのが現代日本人の姿なのだから。

それはそれとして。ヒカルは幅広い層から支持されてきたのだから売り方はまずアナクロからだ。取り敢えずCDは出すだろう。アナログレコードを出すのも面白いが、FL15で仕掛けてこなかったのだからこちらの望みは薄いかな。いち早く配信市場に参入した以上そちらでも勿論販売する。ストリーミングに関しては、特に断る理由もなくOKを出すだろう。積極的なプロモーション攻勢をかけるかというと微妙だが。

5年経って市場がどうなっているかは興味のある所だったが、まぁ、「なくなりつつある」という流れは止まりそうにない。「ありのままで」のような突発的な大ヒットは今後もあるだろうがどうやってもそれが全体の活性化には繋がらない、という状況だ。

で、かつてその「突発的な大ヒット」を飛ばした事のある当人が戻ってくるが、“J-popの良心”を標榜しようにも悪役がひとりも同じ舞台に現れないんじゃあどうにもならない。なんというか、期待するだけ無駄なような。

他のアーティストと違うのは、中心となる市場がなくてもコアなファンを相手にややスケールダウンして活動を続ける、という手法が使えない点だ。ヒカルのファンは徹底して不特定多数なのだから。となると「ややスケールダウン」では済まないかもしれない。

とはいえ、不安があるという程でもない。昨年の今頃、宇多田チームがどうやってアルバム発売日に向けて雰囲気を高めていくかという手法の様子をよくよく観察できた。結果オリコン5位という格好のつく売上までもっていけた。あの手腕がありさえすれば滅多な事は起こらないだろう。どんな風になれるか、期待の方が遥かに大きい。

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前回は字数(と時間)が足りなかったので補足しつつ纏めると、動画配信がシェアを広げているのは、ユーザーをテレビ視聴の習慣から奪った事、無料動画サイト(YouTube)と比較してもレコメンドやマルチデバイス等の面で使い勝手が優れてきた事、低価格化といった要素が揃ってきたから、という話だった。(だったんですよ本来書きたかったのは)

そんな中でミュージック・ビデオはどういった位置付けになるか、なれるか、である。正直に言うと、私は殆どプロモーション・ビデオという文化に親和性が無い。曲とも歌詞とも関係の薄い意味不明な映像をつける位なら演奏シーン映しといてくんないかな、というのが本音である。大体が金の無駄遣いだな、とついつい思ってしまう。そんな人間の言う事なのであまり間に受けない方がいい。

でも、大概そうなんじゃないの? この人のファンだから、という理由でプロモーション・ビデオに手を出す場合その人が沢山映っていた方が嬉しかろう。アイドルなんて九分九厘そうでしょ。集団で歌ってる場合なんか自分の推しが映る瞬間だけ何度もリピートしたりさ。

私も大体そんな感じだ。HikaruのPVで好きなものといえば「光」と「Goodbye Happiness」なのだが、理由は瞭然、宇多田光さんが出ずっぱりなのですよ。それだけ、というのではないけれど、「そうそう、それでいいのですよ。」と膝を打ってしまう。お金を払ってまで観たいとしたらそれである。

なので、例えばプロモーションビデオを一曲につき複数作るというのも有り得る。ひとつは映像美を追究したもの、もうひとつは歌ってる本人がひたすら映っているものだ。これに、Automaticのようなマルチアングル機能まで加わればかなり魅力的になる。で、その2つの再生回数なり販売数なりを比較してみるというのも面白いかもしれない。或いはその複数あるPVを同梱して売り出してもいい。

ちと話を急ぎ過ぎた。動画配信サイトの中で、特に定額観放題をうたっているものの中でミュージックビデオを扱っている場所が今どれくらいあるか知らない。一方でiTunes Storeなどでは単品で販売している。それらを分けて考えなくっちゃならない。

つまり、複数PVを各配信方法で棲み分けるというのでもいい訳だ。YouTubeで無料で観れるものと定額で観れるものと単品購入で観れるものでPVが異なる、なんていうのも面白いかもしれない。別にまるきり違うビデオを複数作る必要は無く、それこそ単品購入だとマルチアングル機能がついてくるとかそんなんでもいい。要は、冒頭に書いた通り、テレビより魅力的でYouTubeより使い易くてお値段お手頃なら動画配信は勝てるのだ。いや別に勝ち負けにこだわる必要もないんだが。


Hikaruの場合だと、どうだろうな、桜流しのビデオに河瀬バージョンとHikaruが歌ってるバージョンがあって、というのだったら個人的には嬉しい。ここらへん両刃の剣であって、例えばBeautiful WorldがEVAのアニメーションをふんだんに使ったミュージックビデオを作ってしまうと色々と全部持っていってしまう可能性もある。匙加減は難しいだろう。


あとは…たぶんまたの機会にもう一度触れる事になるだろうが(話が長くなりすぎるので)、ビデオ同士で何か繋がりが出てくると面白いかもしれない。同じ役者さんや同じキャラクターが出てくるとかストーリーが繋がっているとか。ただ、こういうのは具体的な楽器ありきの話なので先に枠組みの話をしても仕方が無いかもしれない。ただ、定額制に参加した時に存在感を見せる為には如何に「世界が広がるか」をアピールできた方がいい。こっちを観たらあっちも観なくちゃ、というのが延々続いて退会する気がまるで起こらないうちにもう習慣になって抜け出せなくなってしまった、というのが望ましい。誰にとってかはわからないが。

そういう発想に立ってミュージックビデオを作る段階に入ってきているのではないかな。Hikaruのだって、例えば次のビデオはGoodbye Happinessのあの部屋から始まってもいいし。ピザハトのお兄さんの帰り道に何かが始まるのでも鳩が飛んでいった先が実は、というのでもいい。ほんのちょっとの繋がりがあるだけで、ビデオを観る楽しみがぐっと増える。その楽しさを凝縮したのがそれこそGoodbye Happinessのビデオだった。楽曲同士は独立していて排他的でも、絵がそれらを繋げていける可能性がある。作品の相互作用とはそういう風に生まれるものだ。

今夜は少し長くなり過ぎたので切り上げるが、音楽と動画の関係を従来からのプロモーションビデオの枠組みだけで捉えるのは損である。今や誰でもすぐに手元で動画が楽しめるのだ。Fluximationのような実験性は、10年早過ぎただけである。今なら、ああいった手法が喝采を浴びる可能性がある。時機というのは本当に大事なものだ。ちょうどいい時を見極めねばならない。

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今年のトレンドとやらとして音楽のストリーミング・サービスのスタートが取り上げられていた気がするが、実際に市場を変え始めたのは動画配信の方だった。定額見放題がかなりの低価格で提供され始めたのだ。

動画は強い。観る習慣と聴く習慣では遥かに観る習慣の方が強いからだ。普段の生活でテレビを観る割合とラジオを聴く割合を比較すれば明らかだろう。

そこに目をつけて大成功したのがアメリカのMTVだった。80年代以降メジャー・レーベルのビッグ・アクトは必ずミュージック・ビデオを作る事になる。

ここで奇妙だったのは、そうやって映像を打ち出して興味を惹いておきながら売りつけるのは音だけのレコードだったという事だ。勿論映像ソフトの単価が非常に高額だったという時代背景が効いているのだが、ミュージックビデオをPV(プロモーション・ビデオ/宣材映像)と呼ぶのは、そういった経緯があったからだ。ミュージックビデオは伝統的にレコードを売る為の宣伝材料に過ぎなかった。

時を経て今や動画は音楽よりも安くなった。動画といっても必ず音声もついてくるのだから単独では音声のみのソフトより魅力的に決まっている。音楽ソフトの利便性は今やタグによるファイルの管理のしやすさ位しかない。

となると、ミュージックビデオは今後どういう立ち位置を取ればいいのだろう。ここが結構難しいところで、ミュージックビデオの配信販売自体は長らく行われているが、如何せん基本的に宣伝材料なもんだからオフィシャルのYouTubeでタダで観れるようになっている。フルサイズでない事が多いが。いつでもタダで観れるものにわざわざペイして、とはなりにくい。値段云々の前にそういう習慣が無い。

しかし、動画配信が普及してくれば、単品販売であれ定額見放題のラインナップのひとつであれ、ミュージックビデオもまた客を引っ張ってくるコンテンツのひとつになりえる。

ここらへんは、システムや価格というより習慣や意識の問題だ。普段地上波テレビで動画ソフトをタダで観れる環境にある人にどうやって手を出してもらうか。動画配信の人気が出始めたのは、つまり、テレビより格段に便利になったからだ。ソフトの充実と管理の利便性だ。

わざわざ録画しておかなくてもいつでもあとからワンクール分のドラマなりアニメなりのチェックが出来るとか関連ソフトのレコメンド、SNSとの連携、視聴履歴管理など、ただテレビを観ているよりずっと充実した視聴が見込める。その特質が浸透してきた事による動画配信の人気だと思われる。(その浸透のきっかけは低価格化だったではあったろうけれど)

そんな中でミュージックビデオが動画配信に参入するとすれば(せずに今まで通り無料の宣伝材料に徹するという方向性も勿論考えられる)、単品のソフトとしての品質はもとより、如何に体系的に提供出来るかが重要になるだろう。

例えば、ヒカルの場合だとGoodbye HappinessのPVを観たらAutomaticとtravelingのビデオを勧められる、みたいなレコメンドをどれだけ充実させられるか、だ。正直、4~5分の映像だけを観て満足出来る人は少ない。2本3本と畳み掛けて満足感を上げる工夫が必要だ。

今まで動画配信はその点で無料のYouTubeに負けていた。10年の蓄積は恐ろしい。YouTubeサーフィンを始めていたらいつの間にか数時間経っていた、という経験は誰にもある筈だ。極端な話、それをただ動画配信サイトに移動させるだけでよいのである。そこでYouTubeには無いオフィシャルならではの強みを出せていけば、ミュージックビデオも動画配信の目玉になっていく可能性がある。

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宇多田光が"Goodbye Happiness"のPVを手掛けて成功できたのは、映像に対するセンスというより(勿論それもなければ話が始まらないが)、彼女がファンから自分に向けられる目線を的確に把握していた事実に拠る所が大きい。自分がどんな風にみられているか、どんな風に感じられているかを知っているからあのPVは作られた。もっとも、公開直後の@utadahikaruのツイートを読むと、その"程度"を過小評価していたらしい事はわかる。だが、方向性は間違わなかった。これ以上は無いという程のアイデアだった。

その直前にMySpaceでコンテストを行っていたのも大きかった。幾らものファンが自分の歌を録画して送ってくる。その新しい世界観に自らも飛び込んだ。何もかもが思い入れとの共鳴によって形作られていた。

果たして。この5年のブランクである。率直に言ってGBHPVのような傑作ミュージック・ビデオがすぐさま生まれるとは思わない。勿論、誰か一流の映像監督を連れてきて豪奢なPVを撮影する事も出来ようが、GBHPVは共に歩んできた歴史に訴えかけているのである。その威力に容易に追い付く事は出来ないだろう。

そう考えると、「映像監督:宇多田光」のクレジットは、更に暫くお目にかかりそうもない、という結論を得る。桜流しのビデオが河瀬監督によるものだった事実をどう捉えるかでやや観点に変化もあるかもしれないが、大勢は変わらないのではないか。

5年間で離れてしまった距離をどうまた縮めるか。当たり前だが、GBHPVが感動的だったのは、新曲としての素晴らしさとアーティスト活動休止という背景ありきだった(なくても素晴らしいけれど、旗持って歩かれてもちょっとわからないだろうね)。今度はノスタルジーは逆に禁じ手になる。復帰が過去の栄光に縋ったものではない事を示さねばならないからだ。

いやま、光自身は自然体だろう。自信もある。いつだって不安と心配を抱えているのは俺らの方だ。ただ、それでもそれは音楽面に関してであって、映像監督宇多田光がいきなり復帰するシナリオは幾ら何でも描けない。例外は、この5年で光が映像について本格的に学んだ期間があった場合だが、どうにも光はそういう事してないんじゃないのという風にみえる。根拠のわからない勘の話なので聞き流して。

第一、冷静に捉えると、これはジレンマである。光がPV撮る位ならその時間と労力でヒカルが新しい曲を一曲作ってくれた方がいいのに、という見方もあるからだ。余程ハイレベルな(ファンに受け入れられる)ビデオを制作しないとこの批判は免れ得ない。

とりあえずそれに関しては、「クリエイティブはパースペクティブからインスパイアされるケースもある。」と反論しておく。要は気分転換したらいい新しい着想が得られるかもよという話だ。確かに、5日もあれば一曲書けてしまうヒカルの時間を割くのは勿体無いが、アイデアは出ない時は出ないのだ。そういう時は色々やりましょうや。

なんだか、Kuma Power Hourを経て益々「自分で出来る事は自分でやる」アティテュード(DoTAY=Do them all yourself)に拍車が掛かってそうで戦々兢々だが、体調を崩さない限り好きにやってくれたらいい。母ちゃん倒れたら誰がダヌパに乳やるねんな。多分今度こそ大丈夫やろうと思っとく。

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年の瀬か~ちょこちょこCan't Wait 'Til Christmasが流れてたよ、というツイートを見かけるけれどあたしゃ遭遇してないな。残念。

ちゃんとシングルカットしてたらどうなってたんだろう、という妄想は5年前に散々やったからいいとして。梶さんの言うには当時は兎に角時間が無かったらしい。シングルカットしたくても時間的な余裕がなかったと。横浜アリーナの押さえ方にしても偶然空いてただけらしいから、如何に…如何にヒカルが突然言い出したかが窺える。

どうしてもレコード会社側が情報統制を行ってしまうのでリスナーの方はついつい"陰謀論"に傾きがちだが、彼らだって毎日必死こいてあくせく働いていて、そんなに派手に計画的にプロモーションを練っている訳でもなかったりする。いきあたりばったりまではいかなくても出たとこ勝負くらいにはなってたりするかもしれない。

だから、今ヒカルの制作状況が見えないというのなら、隠しているというより本気で見えていないのだろう。

またそこにヒカル独特の「やれる事はすべてやる気質」×「自分のやってる事をひけらかさない性格」が合わさって「何をやっているかわからない」「もしかしたら遠大な計画が進んでいるかもしれない」という噂を醸成させ得る土壌が出来る。事態は単純に「ヒカルが勝手にやってて大して連絡も無いからこっちもよくわからない」だけなのに、種々に尾鰭がついて泳ぎ回る。まぁなんというか、ある程度は仕方がない。

ヒカルがひけらかす性格だったらまた違っていたのだろうなぁ、とは思う。プロデューサー兼任という事で、作品にどっぷり浸かってしまうとツイートひとつにも歌詞の片鱗が見え隠れしてしまうし、そんなところで気を遣って磨り減るくらいならとっとと寝て明日に備えよう、となってもおかしくはない。それが何日も続いていくと沈黙と制作の日々が生まれる。単純。

なのでまぁ、いきなり産み落としたかのように見えるがちゃんと今育ててるところだ。今回の妊娠出産と同じだな。極秘だ何だと言われるが、別に内緒にしている訳ではなく(結果的にそうなってるけどね)、発信にエネルギーを割いていないだけだろう。こどもの事についてはある程度意図的に隠しているかもしれない。しかし、ネット時代なのだからそれでいいだろう。一滴でも漏らしたらそれが世界中に拡散するのだから。まぁ今の所は、じっくりと腰を据えて取り組んでてくれれば。

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