無意識日記
宇多田光 word:i_
 



何かを持っているのに

どこに投げているんだろう

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これは凄い。

宇多田ヒカル5thアルバム「HEART STATION」に関連する感想・批評・レビューを
プロアマ問わずこれまで沢山読んできたが、オフィシャルライターである松浦さんや
MUSICAの編集長鹿野さん、勿論私やら他の皆さんやらファンのみんなのブログや
BBSでの発言、そして、
(これが本当に凄い事なのだが)
宇多田ヒカル本人の発言まで総て含めた中で今現在のところ最強の作品レビューの登場である。


【Stay Gold】ノース2号の巻 WEB-ROAD by Hiron
http://blog.goo.ne.jp/hiron323/d/20080321

携帯族の皆さんの為に、ご法度承知で全文引用する。
一部抜粋しても無意味なほど、簡潔明瞭単純明快な文章だから。
(PCの人は、ちゃんとクリックして原文をあたってください)

*****

【Stay Gold】ノース2号の巻


人間臭さをいかにして消すかが勝負だったというピアノの音色。無心に、そして無機質に。けれどその中には奥深い訴えがあるみたいな感覚で。
そうある為に、ヒカルはひたすら平常心を装って何度もくり返し弾き続けました。そして終に目を閉じ感覚だけで弾く事で、この音に辿り着く事が出来たのだと言います。
何を思いながら、或いは何も思わないで弾いたのか・・・。
ネジを巻けば誰にでも奏でられるオルゴールのように、ただただ綺麗なピアノが物悲しく響く歌です。

浦沢直樹さん著『PLUTO』1巻の中には、ほんの誤解から愛を疑い続けた一人の老人の心が、心を持たない筈のロボットに告げられた真実によって漸く溶かされるシーンがあります。
ノース2号という名のロボットが奏でるピアノはきっと、こんな音色だったのではないでしょうか。


*****

宇多田ヒカルの“Stay Gold”という曲と、
浦沢直樹『PLUTO』第1巻収録の名エピソード「ノース2号の巻」の両方を
既にご存知の向きには、如何にこの文章が美しいか一瞬にしてわかるだろう。
「ノース2号の巻」を読んだ人なら、ダンカンとノースの奏でるピアノの音色が
一体どんなものか、是非耳にしてみたかったと一度は思った事がある筈である。
その想いに対して、“Stay Gold”が見事に応えてくれる事を、
この文章はさり気無く教えてくれる。ここでは、あらゆることが繋がっている。
何故、ヒカルは“Stay Gold”を母性に満ちた歌唱でまとめ、
“なんか幽霊が唄ってるっぽい曲”と形容したのか。
「ノース2号の巻」を読んだことのある方ならすぐさまピンとくるはずだ。

ヒカルがこの曲のピアノに望んだ“無心”とノース2号の“無心”とが、、、って、えぇい、
何を書こうが原文の美しさにはかなわんわ(涙)。読めばわかるだろう。
とにかく、ヒカルの望んだものが「ノース2号の巻」で描かれた音楽の持つ情景と
結び付くんだということに気が付いたのが凄い。ていうかそれが俺でなかったのが悔しい。
もしかしたら、ヒカル自身が一番悔しがってるかもしれない。もし気付いていなかったのなら。


(つづく/後日UP予定)

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 とみねえの銀花帳はいつもちゃんと丁寧にHikkiのインタビューへのリンクを貼ってくれてあってありがたい。こうやって毎日Hikkiについて書いていると、まぢな話どこまでがHikki自身が語ったことで、どこからが私が勝手に「恐らくHikkiはこんなことを考えているのではないか」と妄想したものなのかの境界線があやふやになってくるのだ。それどころか、昂じ過ぎて“どこまでがHikkiの考えでどこからが自分の考えなのか”まであやふやになってくる。それはまぁ願ったり叶ったりなので気にはならないが一応区別できるうちはできている方がよいだろう。どうせなら、雑誌のインタビューもオンライン化して参照できるようになったらいいのになぁ、と思う。ラジオの文字起こしについては少しずつでもやっておきたいところだ。(実際にココでもやっているしね)

 で、先週銀花帳に掲載された「歌について(3)」という記事では『今私がもっとも興味を持っているのは、日本語と英語の違い』と書いてくれているが、これは私も同感で、特に今は“Do You”と“Stay Gold”が螺旋状に発表されるという稀有な段階(こういうのは“Blow My Whistle”以来かな。誰願叶もそれに近いといえば近いか。)なので、余計気になるのかもしれない。

 そのHikkiの、日本語と英語の自在な行き来を思わせる歌詞が“Stay Gold”にある。“My Darling Stay Gold”の箇所だ。C1、C2、C4で計5回出てくる(C1のみ1回)。これが、C3では“ねぇダーリン Your Soul”になっているのに注目。まだ歌詞が文字になったものが現存しないため断言は出来ないが、“ねぇ”と呼びかけている以上次にくる「だーりん」はカタカナで書いてある可能性が高い。でないと無冠詞になっちゃうからね、それは英語も母語であるHikkiには、、、案外大丈夫かもしれないけど(笑)、とりあえずi_は現時点では“Stay Gold”と歌う前は“My Darling”と英語で、“Your Soul”と歌う前は“ねぇダーリン”と日本語で、歌っているような気がする。

 とはいうももの、それぞれの箇所を聴き比べてみても言う程違いが感じられないので、あくまで憶測に過ぎない。Keep Tryingではあからさまに「タイム・イズ・マネー」と発音していたりして区別をハッキリさせていたので、もしかしたら「ねぇ Darling」なのかもしれない。

 とにかく、同じ単語を日本語と英語で歌い分けているとすると、これはなかなか見られないことだと思う。特に、いずれにせよその直後に続く箇所が“Stay Gold/Your Soul”とバリバリ英語発音なのが面白い。Hikkiの中には別に「C3のところは日本語で他のところは英語」という意識の区別は恐らくないのだ。語呂と構成を考えたときに、英語と日本語が織り交ざって逐一最適な単語を当て嵌めていってるに過ぎない。それでも、斯様にStay Goldは日本語主体の曲になっている。思い返してみれば、Hikkiの歌には英語交じりの日本語曲や日本語交じりの英語曲はあっても、両方を半々、というバランスの曲はなかった。必ずどちらかに重点がおかれて、その中でアクセントとしてもう片方の言語が現れるという構図なのだ。これは、Cubic U、宇多田ヒカル、Hikaru Utada、UtaDAというそれぞれの名義における音楽的言語的立ち位置を自然体で受け容れて作詞をしているということだろう。恐らく、意図的とまではいかないはずだ。そこらへんのことも踏まえながら、5thアルバムの日本語と英語のバランスや、UtaDAでの日本語の登場など、注目して聴いてみるのも面白いかもしれない。

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ちょっと前の記事を紹介。面白かった。

「ダラダラ長いからCD売れない」――丸山茂雄“47秒・着うた専用曲”の必要性を語る (1/2)
「ダラダラ長いからCD売れない」――丸山茂雄“47秒・着うた専用曲”の必要性を語る (2/2)

要は5分の曲書いても聴き手はサビの数十秒しか求めてないから、
じゃあ最初っから数十秒の曲書いて出せばいいじゃん、という
一見身も蓋もない発想。

でも、オイラはこういう考え方好きなのよ~。

うん、そのとおりだと思うんだ。魅力的でないパートは別に入れなくていい。
「粉雪」はサビだけあれば十分でしょう?(爆)


記事の中には薀蓄のある発言が幾つかあるけど、
ボクから補足。ビートルズの曲は2~3分のものが大半だったわけなんだけど、
これはなんでこの長さになるかといえば、
彼らのメロディの長さの単位がとんでもなく長いからなんだわ。
文中に「please please me」のメロディは47秒、って書いてあるけど、
これはシンプルな方で。いわば、曲全体がサビなのね彼ら。
ひとつのまとまったメロディが1分くらいある。これ2回繰り返したら2分。
間にブリッジとなるパートを挟んでしまえばそれだけで3分の曲が完成。
J-Popの曲は逆。勿論1分くらいの長さのサビなんてザラだけど、
何が違うかといえばそれが「メロディ単位」として見れるか、ということ。
実は、1分あるサビのうち15秒だけ取り出せば魅力が大体伝わるのが大半。
そうでないとCMでも起用しづらいしね。(^_^;
ビートルズの場合、1分なら1分全部聴かないとメロディの全貌が把握できない。
だから実は、彼らの曲はCMに向いてないんだよね。よく使われるけど。
(逆にCMに向いてるのはVAN HALENの“JUMP”みたいな短いリフなんだよな)
その「細切れにされちゃって本来の魅力が伝わらない15秒のビートルズ」に
「15秒で大体見え透く魅力しか持たないメロディのJ-Pop」が
インパクトで負けてしまうのだから、ビートルズの魅力が
いかにとんでもないものか、よくわかる、、、、



んで宇多田ヒカルの話。
彼女の曲はどうなんだろう。

参考にしたいのが、その、「着うた」のダウンロード件数だわさ。

これまた少し前の記事になるけど、
銀花帳で【「Flavor Of Life」の売り上げ】というエントリが
あがってたから、参考にさせてもらいます~。
この記事に限らず、こうやってまとめてもらえるとホントありがたいです。

まずは、そのまんま数字を引用っ。

> PC向け配信は31万DLで、内訳は
> オリジナルが20万DL、
> バラードが11万DLに上る。また、携帯電話向け配信では
> 「着うた」が360万DL、
> 「着うたフル」が120万DL、
> 「待ちうた」が40万DL、
> 「着ムービー」が7万DLで、PC向け配信と合わせて
> 558万回のダウンロードがあった

、、、とのこと。数字はこの記事がUPされた時点のことなので
以後はもう少しずつ推移していることでしょう。
ここで比較するのは「着うた」と「着うたフル」だろうか。
単価はそれぞれ210円と388円、と2倍弱といったところ。
サビとは限らないけど、恐らくサビ狙いの「着うた」が約3倍。
これは、フル解禁までの期間の長さを考えると、
「有料サンプル購入」みたいな感じじゃあないかなぁ、とも思える。

では、この中で「サビだけでいいや」と思った人はどれくらいか。
大雑把な計算をしてみる。
PCダウンロードは合計31万。。
着うたフルが120万。CDの売上が約60万。
重複もあるが、一応これを全部足し合わせると211万だね。
一方「着うた」&「待ちうた」は何バージョンか発売されてたので、
これも重複があるんだろうけど360万+40万=400万ということで、
とにかく素直に引き算してしまうと190万人くらいが
「“Flavor Of Life”はサビだけでいいや~」と考えた計算に、なる。

それぞれがどれくらい重複してるかわからんと
何の参考にもならないかもしれないけど、とりあえず目安ね(≧∇≦;


結論としては、フルで聴いた人とサビだけ聴いた人が大体同数くらい。



・・・そんなに悪い数字じゃないかと思うんだが、どうだろ??
着うたが先行配信じゃなかったら、もっとフルを購入した人が
増えたかどうか、なんてことはもっと細かい分析をしてみないと
未知数なんだけどね。

あと、CMタイアップ曲じゃなくて、ドラマ内起用曲なのよね~
フルで流されることもしばしばだったから、
あれは曲全体で認識されてる傾向が強いかもしれない。


でも、この曲ブリッジが弱いんだよね~。バラードヴァージョンが特に。
もともとバックコーラスとの掛け合いで出来てるパートなのに
そのコーラスをごっそり削ぎ落としてるんだから当然なんだけどね。
それを差し引いても(つまりオリジナルの時点で)弱い気がする。
全編フックラインな上サビで声を重ねてインパクト絶大にする「BLUE」なんかと
較べると、やや聴き劣りするんだよな。まぁそこらへんが
彼女のいう「達成感のなさ」の一員かもしれないんだが。


次の「Kiss&Cry」も、サビのメロディのよさはもう何度も聴いて染み付いてるので、
果たして他のパートが充実しているのかどうか「達成感のある」構成の曲に
仕上がっているのかどうか、今夜は楽しみにしながら寝る事にしますかな~。
以後、着うたをはじめとしていろんなメディアを通じて発売されるだろうけど、
どれだけフルヴァージョンが愛されてゆくか、数字から透けて見えてくると楽しい。

勿論、まずは僕自身が聴いてどう感じるか、から始めるんだけどね。


それではみなさん、明日以降のキスクラフル捕獲、お互いに頑張りましょうぞ!(^0^)


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 輪廻転生・生まれ変わりの話をし始めると、決まって次のような文句が出てくる。
「前世についての記憶なんて、滅多に現われるもんでもないんだろう? 仮に万が一もし、そんなものがある、とそのひとが主張したからといってそれが妄想の類でないことを証明できたなんてことはほぼない。そんな検証不可能な概念を真剣に捉えろといっても無理があるよ。」と。言いたいことはわかるし、その言い分に非は全くない。そのとおりだと思う。しかしそれは輪廻転生の話をすることの意義について焦点をはずしている。“何故人々が輪廻転生について興味を持つか”という点についての以下の考察を一読して頂ければ、その反論が的外れであることがわかると思う。
 
 なぜ人は輪廻転生に興味を持つのか。それは、前世の記憶があったとしたら、という疑問も勿論あるが、それ以上にもっと(最も)切実な問題があるからだ。それは、私なりの表現を使わせてもらえれば「“私”の意識の流れ」についての疑問である。この、今私が私を感じている「意識の流れ」は、生まれる前はどこにあったんだろう?そして、死んだあとはどうなってしまうのだろう?という疑問だ。恐らく、人類にとって最も普遍的な疑問のひとつであるといっていいだろう。そこでは記憶の存在の有無やアクセス可能性などは二の次となる。生まれる前と死んだ後にこの「“私”という意識の流れ」があるかどうか、その1点が切実に問題なのだ。だって、“私”の意識がなかったら、宇宙は存在しないんだもんね。何を言うか、あなたが死んでも次の日も同じように太陽は東から昇るぞ、といわれるかもしれないが、それもまた問題の焦点をはずしている。その“あなた”の話ではなく、これを書いてる“私”であったり、これを読んでる“私”であったり、という存在にとっての話である。宇宙の存在はそれを知ることのできる存在があって初めて語られることができる。(当然、知ることに加えて語る能力も必要になるが) その“私”が、本当に何もなくなって消えてしまったりするのだろうか? そんな不自然なことがあったとしたら、たとえば“私”の人生に立ち現われない宇宙の部分―それは大部分どころかほぼ全部になるだろうが―それに何の意味がある?意味があるもなにも、立ち現われないのだから存在を知ることすら出来ない部分、因果関係すら持ち得ない部分があるのだったら、それらは一体何なのだろう? そういう疑問が湧くからこそ、ただこの肉体が生まれてきたり滅んでいったりしただけでこの“私”という世界を眺める主体的存在が雲散霧消するだなんていう世界観にどうしても頷く事ができない、、、そういう想いを込めて、輪廻転生の話は語られるのだ。そこでは、前世の記憶が思い出せるかどうか、とか前世の体験が現世に何か影響を及ぼすのではないか、といった興味は(大変興味深いことであるのは間違いないとはいえ)二の次になる。もしかしたら、この「“私”という意識の流れ」は、どこか他の肉体に宿って連綿と(ひょっとすると永遠に)続いていくんじゃないか、それなら宇宙という存在も全体を見渡せるんじゃないか、そういう思想的背景が輪廻転生への最も根源的な興味であろう。そう私は思う。

 もし仮に輪廻転生という現象があるとしよう。前世の記憶も思い出せなければ、現世の経験も来世に語り継げない、としても、何やら大きな安心感のようなものがあるのではないだろうか。実際、「記憶」というものは、皆が思ってるほど絶対ではないのだ。「博士の愛した数式」という映画をご存知だろうか。私は知らないのだが(ぉぃぉぃ)、主人公は80分しか記憶が維持できないらしい。だから、重要なことはメモにしておいてカラダに貼り付けておくんだとか。恐らく(見てないからわからないけど)そのメモを目にしたとき、自分が書き残したという事実すらわからないのだろう。なぜだか自分の身に張り付いてるメモを見、まるで見ず知らずのひとが書き残していったかのような感慨を傍らにしその内容に従う、という生活を送るのだろうか。この症状は実際に現存するものである。昔NHKスペシャルで見た。そのときは10分だか15分だかしか維持できない、といっていたはずだから、現実は更にもっと過酷なものであるのだった。そんな彼であっても「“私”という意識の流れ」が一本道にず~っと繋がっているという感覚については、疑いがないであろう。だってそうじゃない。単にひとより記憶維持する時間が短い、というだけで、もし世の中全員が80分しか記憶もたないとしたら、単にそれにあわせた社会システムができあがる、というだけの話だ。彼が“他の人から較べて極端に”短い維持時間しかないから苦労する、ということなんだから。もっと大きな目で見れば、10年前の今日の日付に朝ごはんに何を食べたか具体的に思い出せるひとはいますか? これが本当に今朝のことを忘れているのだったら「おいおい」と言われるだろうが、10年前だったらいわれない。単にそういう記憶能力の人が多数を占めるから、というだけの話なのだった。いずれにせよ、我々が時の軌跡にそって自らの単一の意識の流れが存在することを疑うことはないだろう。結局、記憶があるかどうか、というより、たった今、あなたに、そして私に「世界を眺める主体的存在」という自覚と意識があるかどうか、が大切となる。

 輪廻転生とは、時代も地域も異なった場所に生まれ変わることを大抵は意味する。時間的空間的に隔たった場所だ。少なくとも、生まれ変わった先や、生まれ変わってきた前とは、時間的には重なっていない、というのが通常の見解だろう。「あいつのバッティングは凄い。長嶋茂雄の生まれ変わりだ」「いやアンタ、まだチョーさん生きてはるからw」なんて掛け合いはよくある。しかし、そんな制約が果たして必要だろうか? 何しろ、生まれ変わるからには時間的空間的に断絶されている必要がある。そもそもそういう時間的空間的断絶がないのならば生まれ変わりじゃなく単なる延命だ。転生に断絶は本質的不可避的な特質なのである。とすると、生まれ変わった先が過去であってもいいではないか。私が今の人生を終えた“後”で、トーマス・アルバ・エジソンの人生を主観的に体験したっていいはずである。勿論通常のように遠い未来の23世紀の火星生まれの人類としての人生を歩んだっていいはずだ。となれば、実はもしかしたら私は生まれ変わってもまた私に生まれるかもしれない。(ポケットビスケッツかw) いやいやもしかしたら、全く同じ時代に他の人格に生まれ変わっていて、もしかしたら昨日そのひとと会話しているのかもしれない。私の何回かあとの人生の人や、何回も前の人生のひとと、先月飲み会を開いたのかもしれない。そうやって想像をひろげていくと、ひょっとして世界に散らばるあらゆる「“私”という主観的体験」は、総て気も遠くなるような生まれ変わりの果てに、“私”によって体験できることなのかもしれない。そんな風にどこまでも想像が広がっていく。どの私も私なのかもしれないのだ。なんだか、HikkiのMUSICAでのことばが思い出される。

◆最後の質問です。生まれ変わったら何になりたいと思いますか?
「……………10歳くらいの時に凄い不思議な感覚に襲われて。今違うどこかにいる女の子も自分のことを『私』と考えてて、今ここで私も『私』って考えてる。ってことは、誰になっても同じじゃん!って感じが凄いして。『え、じゃあ私って誰?』って……それを何ヶ月か考えてた時期があるんですよ。私が私なんだか、その子が私なんだか――その子って完全に想像なんですけど――全然わからなくて。軽く自分の存在を見失うくらい、悩んだことがあったんです。だから、生まれ変わっても自分が自分だと思うのならば、今とまったく同じだと思うんです。だから特に変わりたいとか、生まれ変わったら何になるとか考えないですね。」

 ここでは別に、私のいうように「その子」が私の生まれ変わった先、という解釈でヒカルは語っているわけではないが、言いたいことは似たようなもんではないかと思う。どうだろうか。

 
 結局、輪廻転生とは「ひとつの“私”という意識の流れが、時間的空間的に隔たった幾つか複数の肉体を宿っていく事」というふうにまとめることができると思う。その“複数”を極端なほうに推し進めたら「どの私も私の生まれ変わり」ということになる。(別にそれは人間に限らず、犬やネコだっていいんだけどね。彼らを飼っている皆さんは、ことばは喋れずとも彼らにも人間と同じように“私”という意識の流れが存在する、と確信をもっていえるでしょう?) 

 でだ。ではその逆を考えよう。ひとつの“私”が複数の隔てた肉体に宿るのが輪廻転生ならば、その全く反対、複数の“私”が、たったひとつの肉体に宿ってしまうことをなんというか。それが宇多田ヒカルが1999年に対談した相手ダニエル・キイス氏による著作「24人のビリー・ミリガン」によって一気に有名になった「多重人格」という現象である。つまり、この輪廻転生と多重人格とは、ひとつのコインの裏と表のようなものなのだ。真ん中に常識として「ひとつの肉体にひとつの私という意識の流れ」という考え方が存在して、片方に「複数の肉体にひとつの私という意識の流れ」という輪廻転生の考え方が在り、もう片方に「ひとつの肉体に複数の私という意識の流れ」という多重人格の考え方が在る。そういう図式を思い描いてくれれば、輪廻転生を主題として取り上げてきた宇多田ヒカルという人が、多重人格についてのスペシャリストであるキイスさんと印象的な対談を行ったこともよく理解できるのではないか。

 多重人格というのは、上記のようにひとつの肉体に幾つもの“私”が宿ることなのだが、肉体が一度に受容できるのは幾つかある“私”のうちのたったひとつだけである。従ってその間、押しのけられた“私”たちは「その間記憶喪失」という一見奇妙な状態に陥ることになる。入れ代わり立ち代わりに“私”が交代するもんだから、他の“私”がその肉体で行った様々なことに記憶のない状態で対応しなくてはならない。といっても、これはさっき取り上げた80分しか記憶がもたない博士と実はそんなに変わらないのだ。要は記憶がどれだけ維持できるか、という話でしかない。実際、多重人格というと何やら大層なことにきこえるが、我々だって記憶にないことをつきつけられたら困惑するという意味で、似たような事態を迎えることは多い。酒の飲みすぎで記憶を失っていて、思ったより財布に金がない、なんてこともあるようだし(i_にはそういう経験がないんだけどね~)、その記憶を失ってる間は、別の人格が同じ肉体を使って動いていた、といってもいいのである。勿論実際はそういう言い方はしないのだが、主観的体験の質としては同じだ。更に、お酒を一滴も飲まない人も含め、もっと一般的な状況でほぼ同じ事態を迎える例がある。それが夜見る「夢」である。

 ひとは夢を見ているとき、大半の場合それが夢だとは気付かない。だから、朝起きて現世に戻ってきたときに初めて「夢か」と呟く。それくらい夢中に「その世界の主人公」として、主観的体験を繰り返していく。夢のシチュエーションは様々だ。日常の風景そのまんまだったお陰でまるで現実と区別のつかないこともある。宿題を仕上げたぞ万歳!、、、という夢を見たときには朝起きて宿題ができてない現実を突きつけられて愕然とする、なんてこともあるだろう。一方でもっと極端にその日観た映画のアナザーストーリーの主人公となってまるで別の人格として超人的能力を発揮していたり、なんだかアニメの中に飛び込んで空を飛んでいたりまでする。その間、ま自分が夢の中にいる、という自覚なんてまるでない場合が殆どだ。「あぁ、これは夢の中か」と気付いてそこから違った展開をみせる、なんていうこともあるらしいけどね。とにかく、それが自分の住む世界だと完全に信じて、現世とはまるで違う物理法則の中で本当に必死に命の危険を感じて敵から逃げ回ったり、本気で宇多田ヒカルと恋愛してデートしたりなんかするのだ。まぁ朝起きてみれば「なんであんなこと信じてたんだろう夢なのに」と現実に戻るのだが、それは後の話だ。我々は夜寝てる間、まるで違う人生を送るのである。これは、いうなればプチ輪廻転生みたいなもんではあるまいか。なにしろ、夢の中の世界にいるときには現世の記憶なんてまるでないときもあるんだからね。

 さて、そういう夢の中の世界にいるとき、我々の「肉体」のほうはというと、そう、ベッドか布団の中で(机の前で突っ伏したりソファでそのまま寝ちゃったら風邪引きますよ!w)横たわってるだけなのである。夢を見てる間、いうなれば我々はその肉体が何をしているか知らない。ひらたくいえば寝ている間我々は記憶喪失なのだ。そして、そのときに寝てるはずの肉体が派手に動き回ることを夢遊病という。そこまでいかなくても、寝言をくりかえしていたりもする。(まぁ、大抵夢と関係あることだけどね) とりあえず、社会生活を送るに支障ない程度に、「眠っている」という状態は、“私”という意識の流れから切離されて、別の人格に支配されている、と象徴的に表現できなくもないのである。ただその人格が常に“ベッドで寝ている”という行動しか取らないから何も問題が起こらないというだけで。

 しかし、問題を掘り下げるともっとシリアスな観点も見えてくる。そもそも、何故人間に睡眠が必要か、肝心なところを現代科学は解明できていない。勿論疲れも取れるのだが、それだと別に普通に横になっているだけでも同じだ。(いや厳密には違うけど似たようなもんなんだよ) 何故我々の祖先達はジャングルの中で他の動物達に襲われる危険を冒してまで「意識を失う」時間を何時間も設けなくてはいけなかったのか、そもそもわかっていないのである。単純にこれは「意識」というものに関する研究と理解が進んでないから、といってしまえるのだが、とにかく睡眠という状態が人体に必要なことだけは確かなのだ。無理に睡眠を阻害するとひとはストレスで狂う。ちゃんと睡眠をとることで、精神的安定の維持に大きく貢献できる、というのは厳然たる経験事実なのである。

 一方、多重人格障害というのはその症状を見せる殆どの人たちが幼少期に虐待を受けるなどしていて、その精神的外傷から自我を守る為に他人格を出現させている、というのが現代の時点での知見であるようだ。これは、多重人格でない人間における「睡眠」と似たような機能であるとはいえないだろうか。単なる個人的妄想だが、ひとつの肉体において、そもそも24時間たったひとつの意識の流れが存在する、というのは自然なことではない、ということなんじゃないだろうかな。妄想だけどね。ずっとそうだと何らかのストレスが必ず現われてくる、というか。だから多かれ少なかれ人は肉体から意識の流れを離す時間帯が必要で、それが極端になったのが多重人格なのではないかと。極端なストレスから離れる為には、睡眠程度では足らず、覚醒状態においてひとつの人格を休ませる=人格を交替させる、という必要が出るんじゃないか、と。(みたび)妄想だけどね私の。

 
 ここまで考えてくると、一体「肉体を持つ現世」ってのはそもそもどういう世界なのか、っていうところが気になってくる。ココは、果たしてどこまで“特別”な世界なのだろうか。だって、我々は夢を見ているとき、大半は夢だと気付かない。そこが自分の住む世界だと完全に思い込んで現世と同じかそれ以上に真剣に生きている。ときおり、または、ひとによっては、それが夢であることを知ることが出来、その途端に夢の中の世界を操作できるようになるらしいが、なかなかそこまでいくひとは少ないだろう。とにかく、少々現世の感覚に照らし合わせたら明らかに理不尽、としか思えない出来事があっても、それが当然であるかのように我々は夢の世界で過ごす。それが夢であるということを認識できるのは、いきなりベッドの上にいる自分を発見し現世で学んだ常識的基準によって漸く「俺が空を飛べるはずがないだろう」とか理解することによって「ありえない」と呟くその瞬間までないのである。もしリアリティのある内容の夢を経験した上ベッドで横になっている自分を発見するその瞬間を万が一体験できなかったとしたら、結構かなり現実と区別するのに苦労するんじゃないかな。


 冒頭で私は「前世の記憶がないのなら、輪廻転生を語るなんて意味が無い」と主張するのは的外れだ、と指摘した。だがそれはあくまで「ひとが輪廻転生を語ることの興味」からハズれている、という意味であって、その着眼点自体に意味がないとか興味が無い、なんてことでは全くない。寧ろその点こそ真剣に考えなくてはならないことである。だってそのとおりでしょう。もし前世からの影響が現世にないのであれば、それを語る意味は無にはならないまでも激減するんだもの。では果たして、輪廻転生によっ異なる主観的人生体験同士の間に相互作用はありえるのだろうか?? それを直接検証するのは難儀だとしても、論理的可能性としてどのようなことが考えられるだろう??

 中国の故事に「邯鄲の夢」というのがある。(こちらのページなんかを参照のこと) 「一炊の夢」ともいうのだが、掻い摘むと、青年が老人に「この枕で眠れば人生の栄華を極めることができるよ」といわれその枕で眠ったら本当に波乱万丈の人生を50年を送る事が出来た、いや~我が人生に一片の悔いなし大往生だ、、、、と生涯を閉じてみて気がついたら最初にその枕で眠ってから粟が炊き上がるほどの時間も経っていなかった、という最古の夢オチ話みたいなもんなのだが、では、今こうしてこの文章を書いている私やこの文章を読んでいるあなたが住むこの現世の時間の流れが実はこの青年の例のように「一炊の夢」である可能性はないだろうか?? 我々は実は、もんのすごく長い100年にも及ぶ長さの人生という名の夢を見ているに過ぎない、という考え方だ。実はひょっとすると、この現世よりもっとずっと大きな世界が存在し、その中で“私”はちょっとだけ眠りこけていて、例えば我々が夢から目覚めるときにがけから足を滑り踏み外すように、この現世での“死”を合図にして、その“より大きな世界”で“より大きな目覚め”をする、なんてことはありえないだろうか?? 我々は勿論現世という“夢の中”にいるので、これがその“より大きな世界”に於ける“夢”であることには気付けない。我々は死を恐れ毎日を一生懸命に(或いは結構のほほんとw)生きている。実はこの人生が終わっても“より大きな世界”では一晩を過ごしたに過ぎず、また次の日の夜に“より大きな流れの中にいる私”は眠りに就いて、また一炊の夢のように50年なり100年なりの「現世での人生という夢」を見る。それは昨晩の夢とはまるで違った人格をもった主人公による一生なのだが、“より大きな世界での私”の見る夢であるからには、全く繋がりを持たないわけではない存在ともいえるのだ。勿論、殆どの昨晩の記憶は消え去ってしまっているが、今晩の“私”は、“より大きな世界で一日を過ごした私”の経験にちょっぴり影響されていて、それは、その朝に「あぁ夢か」と気付いた“より大きな私”の経験も加味されていることに他ならないから、そのちょっとした経験の差が出てくることを“前世の記憶(昨晩の記憶)が甦った”と現世ではいうのではないか、、、、なんていう妄想が出てくる。だが意外なことに、この妄想を論理的に突破するのは実は非常に困難だ、と思う。少なくとも私はこの妄想を“論破”する自信はない。この現世が誰かの夢でない、とはどうして言えるのか。例えばもしかしたら、様々な“より大きな世界の私”たちが、まとめてこの“現世”という夢に参加している、なんていう“集合夢”という概念もあるかもしれない。彼らは“より大きな世界”で朝を迎え、お互いに「こんな夢をみた」なんて話し合ってるかもしれない。「あぁ、キミはあそこで出会ったリツコだったのか。あのときのヘンリーは僕なんだよ」なんて会話が繰り広げられているかもしれない。そう、この現世は実はひとつの大きな“夢”なのかもしれないのだ、、、。

 ここでまたMUSICAでのヒカルのことばが思い出される。

「そうっすねぇ……あんまり生きてる感じがしないんです」
「私、何もしていないと、本当に存在しないくらい何もないんですよ。自分としては存在感が凄く薄い、気持ちとしては幽霊なんですよね。だからひとりでいると一番自然って感じ」
「まぁ眠っているようなもんですかね、常に。夢でもいいっていうか、そのくらい不安とか怖いって感情がないんですよ。夢の中だったら何があってもいいじゃないですか、怖くない。うん、そういう感じですかね…………」

 あのメッセからも引用しておこう。

ちっちゃい頃から、生きてるっていうことにすーっごい違和感があって、いっこうに慣れないよ!なんか急いで電車に駆け込んだら、女性専用車両にのっちゃってて「あれ?」ってなってる男、みたいな。そういう違和感を感じることってない?私は日常生活の中では、いつも!感じんのよ。なんかこの世に舞い戻ってきちゃった方向音痴な幽霊みたいな気分よ。墓地とか通るとなんか心が落ちついちゃったりするのよ。
君はしないデスか? (・⊆・

眠りにおちる直前に、顔にあたる枕を感じていられる時と、目覚めてから数分ふとんの中でもぞもぞしてる時が大好き!ありゃーいいよね。

実際に眠っている間は、夢ばっかり見て、休んでいる気が しない。


 彼女は、今現世を生きていることをまるで夢の中にいるかのように感じている、ということのようだ。先ほど私は、「ひとによっては、それが夢であることを知ることが出来、その途端に夢の中の世界を操作できるようになるらしい」と書いた。夢の中にいようと、その事実を“知る”ことが出来れば、その世界でより自由に振舞え高い能力を発揮できる、といったことなのだが、ヒカルの尽きること無い溢れる才能を思うと、私は彼女が「この現世がより大きな世界での夢である」ことに薄々気がついているんじゃないか、なんてことを考えてしまう。夢のように捉えられている分、この世界で非常に高い能力を発揮できるし、また一方で、より大きな世界を薄々感じている分、これだけ才能・能力があるにも拘らず「世界に対して、私のコントロールはまったく及ばない」なんていう無力感も持つのではないだろうか。現世での夢はいうなれば夢の中で夢を見ているようなもんで、現世と印象は余り変わらないから「休んでいる気が、しない」のだろうし、この世に対する違和感もすんなり説明がつく。そんな彼女が輪廻転生や多重人格に興味を持つのは、とても自然なことなのではないだろうか。宇多田ヒカルという存在が、現世に縛られた僕らに「より大きな世界」を知る手掛かりになっているとすれば、彼女の「浮世離れした」「この世のものとは思えない」究極の魅力にも、ほんのちょっと納得がいくような気がした。

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とみねえさまの銀花帳のトラバ欄が解放されたので、
早速トラックバックエントリをしたためてみましたとさ

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今回のお題は「キャンバスと額縁」。
Hikkiの過去のインタビューを引用しながら、
つながりと境界について思慮深く語ってくれています。
彼女の書くことは僕にとって「代わりに書いてくれた」と
思わせることが主なので、内容についてはいちいち「同意だなぁ」と
頷くことが多いです。なんだか気恥ずかしいくらいですね。(笑)
今回はそこから外に向かってリレイトする内容です。

「額縁(がくぶち)」ということばにちょっとスポットを当ててみました。
まずはその歴史をみてみようとこんなサイトを発見。
ひとくちに額縁といっても、いろいろあるんですねぇ。
それなりに字数があるページなので、まぁ眺める程度で。

次に、文字に注目してみました。額と縁ね。
うち、“縁(ふち)”の字は意味としてよくわかる。
境界を意味する漢字ですよね。訓読みだと
“他生の縁(たしょうのえん/幾度の輪廻で結ばれる因果のこと)”とか
“縁側(えんがわ)”とかになるけど、これも繋がり合いとか境界のことです。

でも、もう一方の“額(がく)”がよくわからない。
いやもちろん絵を囲むガクのことですが、何かわかりやすい説明が欲しい。
この“額”という漢字、冷静に考えてみますと
「ひたい」とも読んでおでこのことを意味したり、
「金額」というふうに、お金の数量のことを意味したりもする。
ますます意味がわからない。

てことで検索してみると、
こんな問答こんなブログを発見。
それらによるとまず“ひたい”というのは、頁という旁が広義の“あたま”を
意味していて、客の方が“ひろいところ”の意だそうで、あわせて
「あたまのひろいところ」=「ひたい」なんだそうな。ふーん。

一方、金額の額は、扁(へん)の客が音の“カク/ガク/キャク”を
表現していて、旁(つくり)の頁(おおがい)が意味をあらわしている、と。
その意味とは、元々この“頁”という漢字は漢音でヨウと読み、
“葉(ヨウ)”と同じ読みであることから、“葉”の代わりとして使われるようになった、と。
ふむ、こちらのページにもあるように、
このおおがい~頁というのは、単独の漢字として“ページ”と読ませますが、
それは、元々紙の単位が葉(1葉、2葉、3葉、、、と数えるわけですね)だったため
紙で出来た本の一枚一枚をページと呼んだ、という由来なわけですか。
明記はありませんが、金額の“額”となったのも、紙幣の連想ではないでしょうかね。

そして、肝心の“額縁”の額ですが、
どうやら、西洋風のあのいかめしい額縁のイメージとは違った「ガク」が
日本にあって、それが和額と呼ばれるもので、特に紙額というのがあって、
それは、その西洋風額縁のように「まわりにかざりつけるもの」ではなく、
「絵の下に敷いておくもの」だったようで、なるほど、掛け軸の後ろにある紙ですね、
あれがつまり日本の“額”だったわけで、紙だから葉で、頁の字を使う事になった、と。
いわれてみればなるほど、花の花びらのウラにある葉色の弁は「ガク」と呼びますね。
あれも和額のように、花というアートを下からやわらかく支えているように見えます。
これは、目から鱗でした。


、、、ちょっと解説になっていませんが(汗)、
自分で調べてて面白かったので、個人的なメモ代わりだと思っといてください(^_^;


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やっと「Hikki考察黙示録」カテゴリを使う日がきたよw
これは何かというと、「トラバ専用カテゴリ」なんですたぃ。
なので、トラバ先と併せて読んでねv
(承認されるまでしばらくお待ちください)>まもなく承認されましたv

とらばさき:WEB-ROAD「【MUSICA創刊号】あなたの中に眠るヒカル

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MUSICAのインタビューを担当しているという鹿野淳さんの書き記事が
載っている、というのでアソシエという雑誌を立ち読みしてきた。(買えよw)

MUSICAのHikkiに途惑ってるファンは必読ではないだろうか。

MUSICAでは、宇多田ヒカルのインタビューということで鹿野淳という名は
カタスミに小さく書かれていただけだった。多分、私がココで連呼していなくては
あんまり気付かなかったひとも居たに違いない。

でも、ここでは堂々と一人称で「宇多田ヒカルを語る鹿野淳」が読める。
これは大きい。

インタビューとは本来「対談」である。
だからいつも(世の99%のインタビューに対して)不満だ。
両者の顔写真と名前の大きさを同等に扱っていないからだ。
2人の相互作用でどんな会話が飛び出すか、その醍醐味は、
インタビューアの性質によって大きく変わるなんてこたぁ考えなくてもわかる。
それをまるでそこに居ない黒子のような神のような立場から質問する。
ひとこと、卑怯だ。

でも、それが世間の流儀だから仕方がない。
彼だって今までの慣例に従ってるだけだろう。
にしても、それにしてもそれにしてもMUSICAのインタビューでの
問答の性質には「鹿野淳」という色が濃過ぎた。

その色が何なのかを抽出してこのアソシエという雑誌に掲載してくれてるのだから、
単純にココに書かれていることを引き算して(或いはバイアスを打ち消して)
もう一度MUSICAを読み直してみればよい。そうすると、少しばかりではあるが
「宇多田ヒカルのことば」が届き響いてきてくれるはずだ、、と思う。(ちょっと自信なし)

彼の文章を読むと、私と見解が異なるコトが多々ある。まぁそれはいい。
気に入らないのはまるでツアーを途中で休んだみたいな書き方をしていること。
なんだあれは。モニターの不調で2分引っ込んだだけではないか。
そんな事情知らん読者は「あぁまた前みたいに休んだのか」と思いかねない。
うちら6年越しの悲願であった「Hikkiツアー皆勤」の歓びを逆撫でしかねない表現。
あれは訂正しなさい。>鹿野さん

あと、UtaDAは売れなかったから失敗みたいな書き方もイヤだ。
音楽評論家が音楽を評論せず売上を評論してどうするよ? 存在価値ナシですよ、えぇ。
売上は売上評論家に任せて、それと離れて音楽の価値を語らないといかんでしょう。


と、素直に愚痴ってるわりに、私の彼に対する印象はこのあそしえの記事でよくなった。
Hikkiとのインタビュー時は、前もって用意していった様々な資料なり
彼の思惑なりと余りにも彼女が違っていたことに対して困惑していたんだろう。
或いは雑誌創刊の超多忙に追われて考えるヒマもなかったのか。
雑誌編集長ともなれば、目をかけるべきアーティストの数は数千にものぼろう。
その中のたったひとりである宇多田ヒカルの成長に追いつけてないとしても
何ら咎められるようなことではない。私なんて彼女だけを見てるようなもんなのに、
その成長をなんとか目だけでも追おうと必死でアタフタしているというのだからね。

しかし、あそしえでは、少しばかりであるが、彼女に対する印象と
彼の彼女に対する妄想なり期待なりが整理されて書かれている。
そして、その整理のされ方の方向が、私の目には“良質”にうつった。
彼には別に悪気があったわけじゃないんやねぇ、あれだけHikkiに色んな投げ掛けに
対して頷いてもらえなかったことも、ちょっとずつ反省してるんやねぇ、
そんな印象をもった。もう一度彼が宇多田ヒカルと対するときは、
その反省の上にたって、より成長した姿を見せてくれるだろうとちょっと思った。


んな感じだから、まだMUSICAを消化しきれてない人は、
僕のように立ち読みだけでもいいから(笑)、
鹿野淳さんがどういう目線で宇多田ヒカルというひとを捉えているか、
というのを把握してみては如何でしょうか。
写真はやっぱり(多分使いまわしとはいえ(笑))かわいいし、
一読の価値はあると思いますよ、

、、、って買ってないんだけども。(苦爆)
(そんなわけで具体的な箇所が引用できなかった今回の誌評でしたとさ。とほほのほ。)


ほいで、そんな気分で本屋から戻ったらHironがちょうどMUSICAの鹿野淳さんに
ついての更新をしてくれてたのでトラバ。
尤も、私に「!」と思わせたのは、「ところで」から先なんだけどねw
少し極めた表現にすれば「自我を抜く事が宇多田ヒカル」ということか。
自我が強めに出てがっついて見えたインタビューア鹿野淳の瞳に
宇多田ヒカルの姿が真直ぐ映らなかったとしても、仕方なかったのかもね(^^;



あぁ、具体例を思い出したので追記。
彼は盛んに「DISTANCEのバラードバージョンのFINAL DISTANCE」と
繰り返してるが、これは彼がDISTANCEという曲との出会いを彼の中で
とても大切にしているからであって、この認識は私や宇多田ヒカル本人とは異なる。
なかたにさんから頂いたコメントにもあったように、
「やっとバラードとして“本来の姿”を現したのがFINAL DISTANCE」といった感じだ。

といっても、だから彼の解釈が誤っている、ということには全然ならない。
作曲当事者の解釈の説明が実は事実にそぐわない、なんてことは多々ある。
だから、この曲に関しても、各自の思い入れの色合いの違いによって、
立ち位置や軸足が異なって眺めるのも当然だし、それが音楽を聴く魅力でもある。
無理矢理「正解」をセッテーしようとするなら「アーティスト本人が
自分はこうだとそのとき思った、という発言」に合致するか否か、という
基準が一番妥当だと思うが、毎度いうようにシンコレ詩に代表されるように
宇多田ヒカルの場合自分の発言や表現の真の意図を理解するのは
もっと後になったりするのだ。だから、あんまり「正解」とやらを
最初っから求めるのはよしたほうがいいかもしれない。

で、鹿野さんはDISTANCEを軸に眺めているから、Flavor Of Lifeのイメージも
同曲に重ね合わせているし、だから「声が凄い軽い」と発言して
ヒカルに「?」といわれたりしているわけだ。そこらへんの解釈や立場の
違いを、他の局面でも見極めながらMUSICAを読み返してみましょうよ、
ってまぁそういうことですわ。そのいいキッカケが今回のあそしえという雑誌なんです~。


あぁもう2時だ。

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