輪廻転生・生まれ変わりの話をし始めると、決まって次のような文句が出てくる。
「前世についての記憶なんて、滅多に現われるもんでもないんだろう? 仮に万が一もし、そんなものがある、とそのひとが主張したからといってそれが妄想の類でないことを証明できたなんてことはほぼない。そんな検証不可能な概念を真剣に捉えろといっても無理があるよ。」と。言いたいことはわかるし、その言い分に非は全くない。そのとおりだと思う。しかしそれは輪廻転生の話をすることの意義について焦点をはずしている。“何故人々が輪廻転生について興味を持つか”という点についての以下の考察を一読して頂ければ、その反論が的外れであることがわかると思う。
なぜ人は輪廻転生に興味を持つのか。それは、前世の記憶があったとしたら、という疑問も勿論あるが、それ以上にもっと(最も)切実な問題があるからだ。それは、私なりの表現を使わせてもらえれば「“私”の意識の流れ」についての疑問である。この、今私が私を感じている「意識の流れ」は、生まれる前はどこにあったんだろう?そして、死んだあとはどうなってしまうのだろう?という疑問だ。恐らく、人類にとって最も普遍的な疑問のひとつであるといっていいだろう。そこでは記憶の存在の有無やアクセス可能性などは二の次となる。生まれる前と死んだ後にこの「“私”という意識の流れ」があるかどうか、その1点が切実に問題なのだ。だって、“私”の意識がなかったら、宇宙は存在しないんだもんね。何を言うか、あなたが死んでも次の日も同じように太陽は東から昇るぞ、といわれるかもしれないが、それもまた問題の焦点をはずしている。その“あなた”の話ではなく、これを書いてる“私”であったり、これを読んでる“私”であったり、という存在にとっての話である。宇宙の存在はそれを知ることのできる存在があって初めて語られることができる。(当然、知ることに加えて語る能力も必要になるが) その“私”が、本当に何もなくなって消えてしまったりするのだろうか? そんな不自然なことがあったとしたら、たとえば“私”の人生に立ち現われない宇宙の部分―それは大部分どころかほぼ全部になるだろうが―それに何の意味がある?意味があるもなにも、立ち現われないのだから存在を知ることすら出来ない部分、因果関係すら持ち得ない部分があるのだったら、それらは一体何なのだろう? そういう疑問が湧くからこそ、ただこの肉体が生まれてきたり滅んでいったりしただけでこの“私”という世界を眺める主体的存在が雲散霧消するだなんていう世界観にどうしても頷く事ができない、、、そういう想いを込めて、輪廻転生の話は語られるのだ。そこでは、前世の記憶が思い出せるかどうか、とか前世の体験が現世に何か影響を及ぼすのではないか、といった興味は(大変興味深いことであるのは間違いないとはいえ)二の次になる。もしかしたら、この「“私”という意識の流れ」は、どこか他の肉体に宿って連綿と(ひょっとすると永遠に)続いていくんじゃないか、それなら宇宙という存在も全体を見渡せるんじゃないか、そういう思想的背景が輪廻転生への最も根源的な興味であろう。そう私は思う。
もし仮に輪廻転生という現象があるとしよう。前世の記憶も思い出せなければ、現世の経験も来世に語り継げない、としても、何やら大きな安心感のようなものがあるのではないだろうか。実際、「記憶」というものは、皆が思ってるほど絶対ではないのだ。「博士の愛した数式」という映画をご存知だろうか。私は知らないのだが(ぉぃぉぃ)、主人公は80分しか記憶が維持できないらしい。だから、重要なことはメモにしておいてカラダに貼り付けておくんだとか。恐らく(見てないからわからないけど)そのメモを目にしたとき、自分が書き残したという事実すらわからないのだろう。なぜだか自分の身に張り付いてるメモを見、まるで見ず知らずのひとが書き残していったかのような感慨を傍らにしその内容に従う、という生活を送るのだろうか。この症状は実際に現存するものである。昔NHKスペシャルで見た。そのときは10分だか15分だかしか維持できない、といっていたはずだから、現実は更にもっと過酷なものであるのだった。そんな彼であっても「“私”という意識の流れ」が一本道にず~っと繋がっているという感覚については、疑いがないであろう。だってそうじゃない。単にひとより記憶維持する時間が短い、というだけで、もし世の中全員が80分しか記憶もたないとしたら、単にそれにあわせた社会システムができあがる、というだけの話だ。彼が“他の人から較べて極端に”短い維持時間しかないから苦労する、ということなんだから。もっと大きな目で見れば、10年前の今日の日付に朝ごはんに何を食べたか具体的に思い出せるひとはいますか? これが本当に今朝のことを忘れているのだったら「おいおい」と言われるだろうが、10年前だったらいわれない。単にそういう記憶能力の人が多数を占めるから、というだけの話なのだった。いずれにせよ、我々が時の軌跡にそって自らの単一の意識の流れが存在することを疑うことはないだろう。結局、記憶があるかどうか、というより、たった今、あなたに、そして私に「世界を眺める主体的存在」という自覚と意識があるかどうか、が大切となる。
輪廻転生とは、時代も地域も異なった場所に生まれ変わることを大抵は意味する。時間的空間的に隔たった場所だ。少なくとも、生まれ変わった先や、生まれ変わってきた前とは、時間的には重なっていない、というのが通常の見解だろう。「あいつのバッティングは凄い。長嶋茂雄の生まれ変わりだ」「いやアンタ、まだチョーさん生きてはるからw」なんて掛け合いはよくある。しかし、そんな制約が果たして必要だろうか? 何しろ、生まれ変わるからには時間的空間的に断絶されている必要がある。そもそもそういう時間的空間的断絶がないのならば生まれ変わりじゃなく単なる延命だ。転生に断絶は本質的不可避的な特質なのである。とすると、生まれ変わった先が過去であってもいいではないか。私が今の人生を終えた“後”で、トーマス・アルバ・エジソンの人生を主観的に体験したっていいはずである。勿論通常のように遠い未来の23世紀の火星生まれの人類としての人生を歩んだっていいはずだ。となれば、実はもしかしたら私は生まれ変わってもまた私に生まれるかもしれない。(ポケットビスケッツかw) いやいやもしかしたら、全く同じ時代に他の人格に生まれ変わっていて、もしかしたら昨日そのひとと会話しているのかもしれない。私の何回かあとの人生の人や、何回も前の人生のひとと、先月飲み会を開いたのかもしれない。そうやって想像をひろげていくと、ひょっとして世界に散らばるあらゆる「“私”という主観的体験」は、総て気も遠くなるような生まれ変わりの果てに、“私”によって体験できることなのかもしれない。そんな風にどこまでも想像が広がっていく。どの私も私なのかもしれないのだ。なんだか、HikkiのMUSICAでのことばが思い出される。
◆最後の質問です。生まれ変わったら何になりたいと思いますか?
「……………10歳くらいの時に凄い不思議な感覚に襲われて。今違うどこかにいる女の子も自分のことを『私』と考えてて、今ここで私も『私』って考えてる。ってことは、誰になっても同じじゃん!って感じが凄いして。『え、じゃあ私って誰?』って……それを何ヶ月か考えてた時期があるんですよ。私が私なんだか、その子が私なんだか――その子って完全に想像なんですけど――全然わからなくて。軽く自分の存在を見失うくらい、悩んだことがあったんです。だから、生まれ変わっても自分が自分だと思うのならば、今とまったく同じだと思うんです。だから特に変わりたいとか、生まれ変わったら何になるとか考えないですね。」
ここでは別に、私のいうように「その子」が私の生まれ変わった先、という解釈でヒカルは語っているわけではないが、言いたいことは似たようなもんではないかと思う。どうだろうか。
結局、輪廻転生とは「ひとつの“私”という意識の流れが、時間的空間的に隔たった幾つか複数の肉体を宿っていく事」というふうにまとめることができると思う。その“複数”を極端なほうに推し進めたら「どの私も私の生まれ変わり」ということになる。(別にそれは人間に限らず、犬やネコだっていいんだけどね。彼らを飼っている皆さんは、ことばは喋れずとも彼らにも人間と同じように“私”という意識の流れが存在する、と確信をもっていえるでしょう?)
でだ。ではその逆を考えよう。ひとつの“私”が複数の隔てた肉体に宿るのが輪廻転生ならば、その全く反対、複数の“私”が、たったひとつの肉体に宿ってしまうことをなんというか。それが宇多田ヒカルが1999年に対談した相手ダニエル・キイス氏による著作「24人のビリー・ミリガン」によって一気に有名になった「多重人格」という現象である。つまり、この輪廻転生と多重人格とは、ひとつのコインの裏と表のようなものなのだ。真ん中に常識として「ひとつの肉体にひとつの私という意識の流れ」という考え方が存在して、片方に「複数の肉体にひとつの私という意識の流れ」という輪廻転生の考え方が在り、もう片方に「ひとつの肉体に複数の私という意識の流れ」という多重人格の考え方が在る。そういう図式を思い描いてくれれば、輪廻転生を主題として取り上げてきた宇多田ヒカルという人が、多重人格についてのスペシャリストであるキイスさんと印象的な対談を行ったこともよく理解できるのではないか。
多重人格というのは、上記のようにひとつの肉体に幾つもの“私”が宿ることなのだが、肉体が一度に受容できるのは幾つかある“私”のうちのたったひとつだけである。従ってその間、押しのけられた“私”たちは「その間記憶喪失」という一見奇妙な状態に陥ることになる。入れ代わり立ち代わりに“私”が交代するもんだから、他の“私”がその肉体で行った様々なことに記憶のない状態で対応しなくてはならない。といっても、これはさっき取り上げた80分しか記憶がもたない博士と実はそんなに変わらないのだ。要は記憶がどれだけ維持できるか、という話でしかない。実際、多重人格というと何やら大層なことにきこえるが、我々だって記憶にないことをつきつけられたら困惑するという意味で、似たような事態を迎えることは多い。酒の飲みすぎで記憶を失っていて、思ったより財布に金がない、なんてこともあるようだし(i_にはそういう経験がないんだけどね~)、その記憶を失ってる間は、別の人格が同じ肉体を使って動いていた、といってもいいのである。勿論実際はそういう言い方はしないのだが、主観的体験の質としては同じだ。更に、お酒を一滴も飲まない人も含め、もっと一般的な状況でほぼ同じ事態を迎える例がある。それが夜見る「夢」である。
ひとは夢を見ているとき、大半の場合それが夢だとは気付かない。だから、朝起きて現世に戻ってきたときに初めて「夢か」と呟く。それくらい夢中に「その世界の主人公」として、主観的体験を繰り返していく。夢のシチュエーションは様々だ。日常の風景そのまんまだったお陰でまるで現実と区別のつかないこともある。宿題を仕上げたぞ万歳!、、、という夢を見たときには朝起きて宿題ができてない現実を突きつけられて愕然とする、なんてこともあるだろう。一方でもっと極端にその日観た映画のアナザーストーリーの主人公となってまるで別の人格として超人的能力を発揮していたり、なんだかアニメの中に飛び込んで空を飛んでいたりまでする。その間、ま自分が夢の中にいる、という自覚なんてまるでない場合が殆どだ。「あぁ、これは夢の中か」と気付いてそこから違った展開をみせる、なんていうこともあるらしいけどね。とにかく、それが自分の住む世界だと完全に信じて、現世とはまるで違う物理法則の中で本当に必死に命の危険を感じて敵から逃げ回ったり、本気で宇多田ヒカルと恋愛してデートしたりなんかするのだ。まぁ朝起きてみれば「なんであんなこと信じてたんだろう夢なのに」と現実に戻るのだが、それは後の話だ。我々は夜寝てる間、まるで違う人生を送るのである。これは、いうなればプチ輪廻転生みたいなもんではあるまいか。なにしろ、夢の中の世界にいるときには現世の記憶なんてまるでないときもあるんだからね。
さて、そういう夢の中の世界にいるとき、我々の「肉体」のほうはというと、そう、ベッドか布団の中で(机の前で突っ伏したりソファでそのまま寝ちゃったら風邪引きますよ!w)横たわってるだけなのである。夢を見てる間、いうなれば我々はその肉体が何をしているか知らない。ひらたくいえば寝ている間我々は記憶喪失なのだ。そして、そのときに寝てるはずの肉体が派手に動き回ることを夢遊病という。そこまでいかなくても、寝言をくりかえしていたりもする。(まぁ、大抵夢と関係あることだけどね) とりあえず、社会生活を送るに支障ない程度に、「眠っている」という状態は、“私”という意識の流れから切離されて、別の人格に支配されている、と象徴的に表現できなくもないのである。ただその人格が常に“ベッドで寝ている”という行動しか取らないから何も問題が起こらないというだけで。
しかし、問題を掘り下げるともっとシリアスな観点も見えてくる。そもそも、何故人間に睡眠が必要か、肝心なところを現代科学は解明できていない。勿論疲れも取れるのだが、それだと別に普通に横になっているだけでも同じだ。(いや厳密には違うけど似たようなもんなんだよ) 何故我々の祖先達はジャングルの中で他の動物達に襲われる危険を冒してまで「意識を失う」時間を何時間も設けなくてはいけなかったのか、そもそもわかっていないのである。単純にこれは「意識」というものに関する研究と理解が進んでないから、といってしまえるのだが、とにかく睡眠という状態が人体に必要なことだけは確かなのだ。無理に睡眠を阻害するとひとはストレスで狂う。ちゃんと睡眠をとることで、精神的安定の維持に大きく貢献できる、というのは厳然たる経験事実なのである。
一方、多重人格障害というのはその症状を見せる殆どの人たちが幼少期に虐待を受けるなどしていて、その精神的外傷から自我を守る為に他人格を出現させている、というのが現代の時点での知見であるようだ。これは、多重人格でない人間における「睡眠」と似たような機能であるとはいえないだろうか。単なる個人的妄想だが、ひとつの肉体において、そもそも24時間たったひとつの意識の流れが存在する、というのは自然なことではない、ということなんじゃないだろうかな。妄想だけどね。ずっとそうだと何らかのストレスが必ず現われてくる、というか。だから多かれ少なかれ人は肉体から意識の流れを離す時間帯が必要で、それが極端になったのが多重人格なのではないかと。極端なストレスから離れる為には、睡眠程度では足らず、覚醒状態においてひとつの人格を休ませる=人格を交替させる、という必要が出るんじゃないか、と。(みたび)妄想だけどね私の。
ここまで考えてくると、一体「肉体を持つ現世」ってのはそもそもどういう世界なのか、っていうところが気になってくる。ココは、果たしてどこまで“特別”な世界なのだろうか。だって、我々は夢を見ているとき、大半は夢だと気付かない。そこが自分の住む世界だと完全に思い込んで現世と同じかそれ以上に真剣に生きている。ときおり、または、ひとによっては、それが夢であることを知ることが出来、その途端に夢の中の世界を操作できるようになるらしいが、なかなかそこまでいくひとは少ないだろう。とにかく、少々現世の感覚に照らし合わせたら明らかに理不尽、としか思えない出来事があっても、それが当然であるかのように我々は夢の世界で過ごす。それが夢であるということを認識できるのは、いきなりベッドの上にいる自分を発見し現世で学んだ常識的基準によって漸く「俺が空を飛べるはずがないだろう」とか理解することによって「ありえない」と呟くその瞬間までないのである。もしリアリティのある内容の夢を経験した上ベッドで横になっている自分を発見するその瞬間を万が一体験できなかったとしたら、結構かなり現実と区別するのに苦労するんじゃないかな。
冒頭で私は「前世の記憶がないのなら、輪廻転生を語るなんて意味が無い」と主張するのは的外れだ、と指摘した。だがそれはあくまで「ひとが輪廻転生を語ることの興味」からハズれている、という意味であって、その着眼点自体に意味がないとか興味が無い、なんてことでは全くない。寧ろその点こそ真剣に考えなくてはならないことである。だってそのとおりでしょう。もし前世からの影響が現世にないのであれば、それを語る意味は無にはならないまでも激減するんだもの。では果たして、輪廻転生によっ異なる主観的人生体験同士の間に相互作用はありえるのだろうか?? それを直接検証するのは難儀だとしても、論理的可能性としてどのようなことが考えられるだろう??
中国の故事に「邯鄲の夢」というのがある。(こちらのページなんかを参照のこと) 「一炊の夢」ともいうのだが、掻い摘むと、青年が老人に「この枕で眠れば人生の栄華を極めることができるよ」といわれその枕で眠ったら本当に波乱万丈の人生を50年を送る事が出来た、いや~我が人生に一片の悔いなし大往生だ、、、、と生涯を閉じてみて気がついたら最初にその枕で眠ってから粟が炊き上がるほどの時間も経っていなかった、という最古の夢オチ話みたいなもんなのだが、では、今こうしてこの文章を書いている私やこの文章を読んでいるあなたが住むこの現世の時間の流れが実はこの青年の例のように「一炊の夢」である可能性はないだろうか?? 我々は実は、もんのすごく長い100年にも及ぶ長さの人生という名の夢を見ているに過ぎない、という考え方だ。実はひょっとすると、この現世よりもっとずっと大きな世界が存在し、その中で“私”はちょっとだけ眠りこけていて、例えば我々が夢から目覚めるときにがけから足を滑り踏み外すように、この現世での“死”を合図にして、その“より大きな世界”で“より大きな目覚め”をする、なんてことはありえないだろうか?? 我々は勿論現世という“夢の中”にいるので、これがその“より大きな世界”に於ける“夢”であることには気付けない。我々は死を恐れ毎日を一生懸命に(或いは結構のほほんとw)生きている。実はこの人生が終わっても“より大きな世界”では一晩を過ごしたに過ぎず、また次の日の夜に“より大きな流れの中にいる私”は眠りに就いて、また一炊の夢のように50年なり100年なりの「現世での人生という夢」を見る。それは昨晩の夢とはまるで違った人格をもった主人公による一生なのだが、“より大きな世界での私”の見る夢であるからには、全く繋がりを持たないわけではない存在ともいえるのだ。勿論、殆どの昨晩の記憶は消え去ってしまっているが、今晩の“私”は、“より大きな世界で一日を過ごした私”の経験にちょっぴり影響されていて、それは、その朝に「あぁ夢か」と気付いた“より大きな私”の経験も加味されていることに他ならないから、そのちょっとした経験の差が出てくることを“前世の記憶(昨晩の記憶)が甦った”と現世ではいうのではないか、、、、なんていう妄想が出てくる。だが意外なことに、この妄想を論理的に突破するのは実は非常に困難だ、と思う。少なくとも私はこの妄想を“論破”する自信はない。この現世が誰かの夢でない、とはどうして言えるのか。例えばもしかしたら、様々な“より大きな世界の私”たちが、まとめてこの“現世”という夢に参加している、なんていう“集合夢”という概念もあるかもしれない。彼らは“より大きな世界”で朝を迎え、お互いに「こんな夢をみた」なんて話し合ってるかもしれない。「あぁ、キミはあそこで出会ったリツコだったのか。あのときのヘンリーは僕なんだよ」なんて会話が繰り広げられているかもしれない。そう、この現世は実はひとつの大きな“夢”なのかもしれないのだ、、、。
ここでまたMUSICAでのヒカルのことばが思い出される。
「そうっすねぇ……あんまり生きてる感じがしないんです」
「私、何もしていないと、本当に存在しないくらい何もないんですよ。自分としては存在感が凄く薄い、気持ちとしては幽霊なんですよね。だからひとりでいると一番自然って感じ」
「まぁ眠っているようなもんですかね、常に。夢でもいいっていうか、そのくらい不安とか怖いって感情がないんですよ。夢の中だったら何があってもいいじゃないですか、怖くない。うん、そういう感じですかね…………」
あのメッセからも引用しておこう。
ちっちゃい頃から、生きてるっていうことにすーっごい違和感があって、いっこうに慣れないよ!なんか急いで電車に駆け込んだら、女性専用車両にのっちゃってて「あれ?」ってなってる男、みたいな。そういう違和感を感じることってない?私は日常生活の中では、いつも!感じんのよ。なんかこの世に舞い戻ってきちゃった方向音痴な幽霊みたいな気分よ。墓地とか通るとなんか心が落ちついちゃったりするのよ。
君はしないデスか? (・⊆・
眠りにおちる直前に、顔にあたる枕を感じていられる時と、目覚めてから数分ふとんの中でもぞもぞしてる時が大好き!ありゃーいいよね。
実際に眠っている間は、夢ばっかり見て、休んでいる気が しない。
彼女は、今現世を生きていることをまるで夢の中にいるかのように感じている、ということのようだ。先ほど私は、「ひとによっては、それが夢であることを知ることが出来、その途端に夢の中の世界を操作できるようになるらしい」と書いた。夢の中にいようと、その事実を“知る”ことが出来れば、その世界でより自由に振舞え高い能力を発揮できる、といったことなのだが、ヒカルの尽きること無い溢れる才能を思うと、私は彼女が「この現世がより大きな世界での夢である」ことに薄々気がついているんじゃないか、なんてことを考えてしまう。夢のように捉えられている分、この世界で非常に高い能力を発揮できるし、また一方で、より大きな世界を薄々感じている分、これだけ才能・能力があるにも拘らず「世界に対して、私のコントロールはまったく及ばない」なんていう無力感も持つのではないだろうか。現世での夢はいうなれば夢の中で夢を見ているようなもんで、現世と印象は余り変わらないから「休んでいる気が、しない」のだろうし、この世に対する違和感もすんなり説明がつく。そんな彼女が輪廻転生や多重人格に興味を持つのは、とても自然なことなのではないだろうか。宇多田ヒカルという存在が、現世に縛られた僕らに「より大きな世界」を知る手掛かりになっているとすれば、彼女の「浮世離れした」「この世のものとは思えない」究極の魅力にも、ほんのちょっと納得がいくような気がした。
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