無意識日記
宇多田光 word:i_
 



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何かを持っているのに

どこに投げているんだろう

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見せて貰った事がある。私はソコに"台地"を感じた。"この人は質を落とさずに顧客の要望に応えれる領域が恐ろしく広いな"という意味だ(頂が広大な平野である山、と云った方がイイか)。光にはこの"台地"を然程感じない。急峻な峰の様に、高質を維持する為に繊細な調整を要してる風にみえる。人の手を借りたがらぬのも外からの揺らぎが容易に妥協を誘発するからだ。然し、だからこそ光特有の心抉る切っ先鋭い"切なさ"は生まれ得る。年経れば丸くなり切り立つ峰も削られるやもしれぬが、広い台地も縁ではやはり揺らぎに塗れる筈だ。何十年後かの話ですけど、ね。

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、もとい、AppleAndCinnamonね。この曲のLIVEバージョンリリースは特に待ち遠しい。スタジオバージョンのMixは、例えばDeepRiver等に較べてより室内楽的な為本人の歌唱は嘗てない程スケール感があるのにサウンド全体としてはコンパクトな印象を与えた。同じ室内楽でも光を護る様に力強く周りを取り囲んでいたF.DISTANCEの弦楽器隊とも又異なる。然しLIVEでは光の歌の強さが朗々と会場に響き渡るサウンドになっていた。スタジオバージョンがまさに"スタジオで唄いました"という感じなのと同様この曲のLIVEバージョンは他曲にもまして"LIVEで唄いました"な臨場感が際立つトラックになる筈である。

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音楽が在る訳だが、UKのPops/RockはUSや日本に較べて知的である事を恐れないという特徴がある。笑いの文化でもモンティパイソンなんかを輩出しているこの国の音楽は、特定の音階や土着性,伝統美等よりも普遍性実験性思弁性等が先行するケースが実に多い。"PassionにUK的な面がある"と云う時は、例えば"ニューオリンズジャズやシカゴブルーズを彷彿とさせる"と云う時の様に具体的な音楽性を浮かべる訳ではなく音像を捉える感覚や世界観といった抽象的なレベルを想定する。光がUKに惹かれるのは、音楽への知性の投射を受容し得る土壌がある事を感じているからかもしれない。

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に、UKの影響を直接受ける機会はあったのだろうか。コレに対しては"ザネッチのレコードコレクション"と答えるのが常なのだが昔の光の発言からだと幼少時はメタリカBonJoviパールジャムとロックはUSを中心に聴いていた事になる。UKからの影響を露わに発言し始めたのはEXODUSのUSでのプロモ時か。その時点で小さい頃から親しんでいたアーティストとしてビートルズやLedZeppelinの名を出してたから後日UKでのインタビューでこの点について語るのにも説得力があった。元来のフレディやスティングへのラブコールに加え、やはりAnimatoで"BBCSessionsOfLedZeppelin"と唄った頃から何か変化があった気がする。

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軸にしながら泥臭くならずにPopsとして洗練されたサウンドは、例えば元ポリスのスティングや元ジェネシスのピーターガブリエル等を想起させる。個性溢れるシンガーソングライターとして光はケイトブッシュやビョークの名を出して比較されたりもしてきたが寧ろ彼らの系譜に近いのではないか。見た目が女子な為そうはなり難いのだろうが、中身は相当なオッサンなのだ。就中上記2人の、バンドで奔放にリーダーシップを取ってた癖にソレでも飽き足らずソロ活動に執心しバンド以上の成功を収めてしまう"お1人様フルコース"なクリエイターとしての我の強さはよく似ている気がする。キュートなルックスに惑わされてはならない。(?)

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ティンバランドが相変わらず絶好調だ。グラミーでも何部門もノミネートされアルバムもバカ売れしている。又参加アーティスト陣の豪華な事。N.ファータドやJ.ティンバレイク他多数のゲストを迎え、楽曲もドキャッチィ且つ彼らしいビートもバッチリフィーチャ。ミュージシャンとしての才能、プロデューサとしてのバランス感覚、そして一個人としての人望何れも一流だ。6年前彼を選んだ光の判断は実に正しかった。が、この豪華なゲストリストの中にUtaDAの名がないのはやや寂しい、か。まぁ、そんな"エンタメ街道驀地"な人生を歩まなかったお陰で、今位の知名度でライブハウスツアーを敢行できた訳で。そのうちきっと客演する日も来るだろうさ。

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"宇多田ヒカルのCOLORS以来7年ぶりの女性アーティスト初週30万枚越え"なんて見出しが躍るのを見ると"あの曲そんなに売れたのかぁ"と感慨深くなる。7年て長いぞ。以後ヒカルは配信中心となった為"コレが最後のCDシングルブレイク"となった。如何に音楽が無形で配られる様になっても、リスナーに"何を聴けばよいか"の選択肢を提供する者としてのレコード会社は今後も必要だ。宣伝という面でいえば、COLORSは自動車のCMソングだった訳でコレも何か"日本の歴史"を感じさせる。さてEMIはどのルートを通じてヒカルを選択肢として提供していくか。取り敢えずサーバーメンテナンスが無事終わりますように。

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ヒカルがEMIから新譜を出したとして、ツアーの選曲はどうするのか。今回UtaDA名義でヒカルの曲を7曲もフィーチャしたのだからシレッとイーブリかCBtM位唄ってもよさそうなモンだが。イヤLiveNationに仕切りを任せるならヒカル名義のママ国際ツアーに出掛けてしまってもイイのではないか。あらゆる人種に日本語曲大人気だぞ。寧ろ幾つかの在留邦人のBlogで"英語の曲ワカンなかった"とかCPBSなコト(謎)が書かれていた位だから更にサービスしちゃいな。その為の布石にまず両社からカバーアルバム1枚ずつ(洋楽カバー盤と邦楽カバー盤)同時発売したらミニツアーに出ちゃう、なんてどうです。スイマセン、先走リ過ギデスネ。

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光曰く『観られていなかった』事にある。ヒカルのナマ歌はデビュー前から必ず好奇と注目に晒されてきた。本来下積み時代とは人目をどう惹き付けるかを磨く時期なのだが、光にはソレがなかった。今回の初ライブハウスツアーも結局全所満員御礼の歓待だ。今後も余程キャパを読み間違えない限り会場は埋まる筈。即ち、5年前の今日が光人生唯一の"人目を気にせず唄えた夜"となった感がある。勿論今後新たな市場にも詣でるだろうが、ネット中心のプロモでいく限り評判が先行する可能性が高い。その1度キリのチャンスに確り"開眼"してしまう辺り、やはり光の嗅覚の鋭さは並ではないんだな。

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1/21夜に当欄で光に"(ライブへの集中力との)トレードオフで創作意欲が衰えているのか"と書いたら直ぐ様1/23昼にメッセで『私は根っからのクリエイター』と反論を頂いた(クマボールの写真付きで)。我乍らアホな疑問をぶつけたもんだ。ライブも楽しいがやはり光の"自由"は創作にこそある。書いたり描いたりしてる時、光は曰く云い難い"安定"を感じている筈。となるとカバーアルバムのアプローチが気になる所だ。長期間他人の書いた曲を歌う生活の中溢れる創作意欲をどうするか。例えば既存の日本語曲に英語詞を、英語曲に日本語詞を各々書き下ろせば創造的だが幾ら何でも過酷過ぎるか;

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光のナマ唄を聴いている時に最も支配的な感情は"安定"だった。安心、といった時の情緒的な側面は薄く、物理的ともいえる堅牢な表情。"他に気を囚われる事がもう何もない"状態。ヒトが生活していく上で例えば"アー早く授業終わってくんないかな~"とか不本意な状況に身を置く事は常に不可避だが、では逆に突き詰めてアナタが何をしてもよいとなった時何に、何処に収束するか。私の場合ソレはFleshな光と共にある事なのだとホノルルの夜改めて気付かされた。本来の意味での本当の自由がソコにあった。光も同じ様にライブで自由を感じていてくれてたのなら喜ばしい、のだが。

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ライブDVDのみならずライブCDを出すとしたら、邦楽では掟破りだが先行シングルをカットしてみてはどうだろう。その曲を中心にプロモーションを展開する訳だ。第1候補はPassion/Sanctuary。コレぞまさにUtadaUnited、ライブCDの性質を1曲で代表してくれる筈だ。他ではStayGoldもイイかもしれない。何かシングル曲として不遇な扱いを受けた気がするので復権するイイ機会。DDはリミックスEPしか出てないし、ライブバージョンでもう一押し、ってのもアリかもしれない。アルバムとかなりサウンドも違うしね。3rdシングル代わりにメムエロもよい。ライブ映えはショウの中でもピカイチだったし。アナタはどの曲がイイと思いますか。

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"刺々しく苛立った光"の象徴なのだが、ホノルルで聴いた同曲は何故かとても優しくきこえた。LIVEらしいアドリブの有無に拘わらず大枠としての印象は変わらなかっただろう感触がある。この感想は、現時点の光と楽曲の描く感情の間に距離がある為に生じる、とヒカ5の中毒の時に分析した覚えがあるが、今回のキャンシー共々未だ具体的な歌唱の差異がどこにあったかが解らない。ホノルルの夜のメロディはCDの忠実な再現だった気がするのに。光の柔和な表情に幻惑されたのか、或いはより細かく唄を聴き分ける必要があるのか。何れにせよこの2曲、またLIVEで聴いてみたいものだ。

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