無意識日記
宇多田光 word:i_
 



ヒカルのラジオが始まるというので前のめりにいきり立っているかの私だが、最初に思い付いた企画はまさに「脱力系」そのものだった。名付けて「尻とリクエスト」、違った。「しりとり・リクエスト」。…あんまり違ってなかった?

中身は単純。毎回リスナーから、曲名がしりとりになるようにリクエストを募るのだ。例えば、第1回に「Automatic」をかけたとすると第2回には"c"から始まる曲名の曲を募集する。すると「Can You Keep A Secret?」とか「COLORS」とかがリクエストされる訳だ。すると第3回は前者なら「traveling」、後者なら「Simple & Clean」、という風に。まぁ別にヒカルの曲で縛る必要はないし、アルファベットしりとりと日本語しりとりの両方の曲を掛けてもいい。…なんて言ってると「桜流し」→「幸せになろう」とリクエストを繋いだ所で「嘘みたいなI Love You」をぶっこんでくる奴が出てくるんだよね。アルファベットになっちまったよ。

いやホントに「何の意味があるんですか」というアイデアだ。脱力系に相応しい。


もうちょっと身のある企画としては、月一放送を逆手にとって毎月「その月の名前がタイトルや歌詞などに含まれている曲」を募るのはどうだろう。8月には井上陽水の"少年時代"、11月はGuns & Rosesの"November Rain"、という風に。これ、毎月埋まるかなぁ。6月とか思いつかないぞ。ヒカルの曲だとプレイ・ボールが8月末だな…他何かあったっけ。…なんていう風に季節感のある選曲ができる。(?) 12月にIn Flamesの"December Flower"をリクエストしようかな…。(※ デスメタルです)


…という風に、"何々縛りリクエスト"というのは結構面白いんじゃないかな。もうひとつ、"歌詞にくまが出てくる曲リクエスト"というのも考えたが、"森のくまさん"とか、童謡くらいしかないよねぇ。てか、いつどのタイミングで「ぼくはくま」を掛けるのか、いちばん戦々兢々としているのはその点なんですよね実は…。

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問題なのは(と言えるのかどうかわからないが)何度も指摘してきた通り作曲家としての宇多田ヒカルの書く楽曲については、所謂"体系的な理解"というものが程遠い、という点だ。リスナーとしての態度と作曲家としての方向性は必ずしも一致するものではないが、だからといって逆に何の相関もないとするとヒカルの選曲をみる事で作曲家としての成長の証明を感じ取りたいというこちらの目論見は脆くも崩れ去る。まぁそれはそれで、なんだけど。

今週はこちらがひとりで力んでいるが、実際の番組はそう肩肘張ったものになる筈がない。タイトルが「Kuma Power Hour」だなんて、一言で言えば「脱力」である。寧ろInterFM全体から異端と呼ばれるような内容になる可能性の方が高い。

で、通常ならここで「ラジオ番組はリスナーとの相互作用で変化していくもの。放送が繰り返されるうちにフォーマットも固まっていくだろう」とコメントする所なのだが、これが困った事に月一1時間。相互作用なんて言ってるうちに時間が過ぎ去っていくのだから始末が悪い。

月一放送というのは存外少ない。一年間続けてもたったの12回だ。朝の連続テレビ小説なら二週間分である。いやその比較は無理があるけれど兎に角、何か企画的な事をやろうにも時間が足りない、スピード感が出ない。これは結構、むつかしい。

ありそうなのは、殆ど「報告」に近いスタイルだ。今私はロンドンに住んでいます、この間はこれこれこういうアーティストのコンサートを観てきました、この間は地元のショップでこんな…みたいな。現地レポートか。1時間番組だと、これだけで埋まってしまう。

月一1時間というのは、スペシャルであるような、そうでもないような微妙なペースである。ラジオ番組にとって「日常感」と「特別感」の差異は、テレビ番組以上に重要だ。何気なく流しておく、という聴取態度を相手にする以上、流れるような予定調和を形成する事が必要になってくるからだ。

「番組のペースを掴む」のが難しいなら、若干リスナーとの距離を置く感じで淡々と進行するのもひとつのテだが、果たしてそれが宇多田ヒカルに期待されるかというと違うだろう。あの挙動不審な親しみやすさのないラジオ番組なんて拍子抜けもいいところ。ヒカルを身近に感じられるからこそ価値がある。はてさて、一体どんな"雰囲気"になってくれますことやら…。

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選曲の、年齢による違いというのも興味深いテーマだ。17歳18歳の一年間、毎週選んだ楽曲たちのリストが残っている訳なので、それとどう異なるかを比較するのが楽しみだ。

が、果たしてそんなに違いがあるのかどうか、甚だ疑問である、と私が言ってみたくなるのは、それは例えば私自身の音楽の趣味が13年前と変わっているかと言われたら、全く変わっていないからなのだ。13年はおろか、20年以上ずっと"こんな感じ"だ。漸くこの間、モーツァルトを素直に楽しめるようになって歳を感じる、なんて事を書いたが、それは趣味が変わったというより無理やり抵抗していたのに遂に屈服した、というような意味であるので、それが趣味が変わったとなるかといわれると違う気がする。

例えば。歳をとると激しかったり賑々しかったりする音楽より落ち着いた味わい深い音楽を好むようになるかといえばさにあらず。昨年のベストアルバムにテクニカルデスメタル&グラインドコアの作品を選出してしまったり。まぁこのジャンル自体年寄りの聴く音楽じゃんと言われると返す言葉もないが、取り敢えず私に関していえば歳をとって音楽の趣味が大人しくなる、というのはない。激しいものはより激しく、静かなものはより静かに、と"数を沢山聴いてきたからこその贅沢"を言う事は、増えたけど。

まぁそれは私の場合。宇多田光さんの場合はどうだろうか。彼女の場合、確かに本人はキャピキャピ跳ねてた頃のような溌剌とした元気さは薄れ、噛み締めるような楽しさが滲み出る女性に成長している。ぼくはくまでのはしゃぎぶりも、昔とはどこか違う。まだまだ童顔だが、年相応に落ち着いてきたとはいえそうだ。

しかしそれは、あクマで"アウトプット"の話。音楽を聴くというのは"インプット"だから、別に自身がはしゃがなくてもハシャいだ音楽を好んで何の問題もない。

いやそもそも、トレボヘの頃のテンションでも、選曲は多岐に渡っていた訳でな。モーツァルトもAt The Drive-inも分け隔てなく掛ける。その精神は全く変わらないだろう。

という事は、選曲のセンスは13年前と何等変わる事がないというのだろうか。何かそれも、釈然としない。というのも、光は作曲家として、アウトプッターとして著しく成長を遂げてきたからであり、我々がそれをよくよく知っているからだ。そのプロセスを経る上で、インプットの方法論に何も成長がみられないとすれば、まさに不自然極まりない。光が音楽的に学んできた事が、選曲のセンスに如実に反映される筈だ。期待している。

…とハードルを上げて待ち受けるだけではつまらないので、コンポーザとしての成長を選曲に反映させる方法論とは具体的に何であるかをちょっとだけ考えてみる。

それぞれの要素が極端に強調されていたりデフォルメされていたり(例えばテンポの速い曲はより速く、とかコーラスハーモニーが何層も重ねられているならより分厚く、とか)する曲を選ぶとか、有名なミュージシャンのあんまり有名でない隠れた名曲を紹介する、とかそういった事も頭をよぎったが、うーんそれは大した事でもないな。

私が思うのは、どの曲を選ぶかという局所的な話ではなく、複数の楽曲を選曲する時に如何に体系的に紹介出来るか、という点がリスナーとしての成長を計るのに最も目安になりやすいポイントだと思うのだ。それは歴史的な把握でもいいし、音楽的なパースペクティヴでもいい。全然違うジャンルのこの曲とこの曲が似通っている、とかそのジャンルのいちばん代表的なスタイルの楽曲を把握するとか。(いかにもブルーズらしい、というブルーズ曲、とかね)  そういう事が出来るようになるのがリスナーとしての積み重ねの賜物、証だと思う訳である。選曲の体系化。これは年齢を経て得る能力のひとつであろう。



しかし作曲家宇多田光を思い返してみるとその視点にも問題がある…という話からまた次回。

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ラジオ番組を放送するにあたって、リスナーの"参加"は殊に重要である。テレビの場合は出来上がったものをそのまま享受する印象が強いが、ラジオの場合リスナーからの"お便り"がないと成り立たない番組が殆どだ。お便りが来ないのは聴取率が低い証でもあるし、ほぼほぼ"生命線"といっていい。"ライフライン"と言ってもよかろう。英語にしただけだけど。

リスナーの参加方法は今や多岐に渡る。ハガキ、電話、FAX、eメール、更に今はTwitterや種々のSNS、ニコ生ならコメント弾幕、Ustreamのソーシャルチャットなどもある。公開収録への参加、なんてのもある。これらによってラジオ番組はわさわさと変質を続ける。ラジオは、放送局側とリスナーが一体となって一緒に作り上げるものだ。リスナーは皆さん"俄か放送作家"なのである。

と、それは一般論。果たして月一1時間の「KumaPowerHour」に、リスナーはどれだけの"参加"をするのか、し得るのか、現時点ではさっぱりわからない。リスナーの中には、余計な事はいいから1時間宇多田ヒカルで埋め尽くしてくれ、と思う向きも多かろう。伝統的に、彼女のファンはひとり思い詰めるタイプが多い。偏見だが。だったら「あたしチャンネル」に徹して欲しい、というのが本音&本望だろう。それは凄いよくわかる。

ここでもまたバランスが難しくなってくる。ヒカルで時間を埋め尽くすと、恐らくリスナーからのお便りは減るだろう。空気が受け身になるからだ。しかし、番組側からすればリアクションは多ければ多いほどいい。ここは、ジレンマになる。

どういった感想が読みたいか。要約すれば「次回も聴きたい」と思ってくれるかどうか、に尽きる。リスナー参加型の番組であれば、自動的にこの点はクリアされる。自分でお便りを送っておいて次回の放送を聴こうとしないなんて、まずちょっと有り得ない。聴きそびれる事はあるにせよ。しかし、参加型でない場合、次回も聴いてくれるかどうかはさっぱり定かではない。

ここが、月一番組の難しい所だ。一ヶ月720時間前後のうち僅か1時間、確率にして0.1%余りの割合しか放送されていない番組を"たまたま"聴くだなんて期待はとてもなかなか出来はしない。次回聴いてもらうには、"この時間を狙って"聴いて貰わねばならない。その為にはプレゼントやクイズなど、次回を積極的に聴いて貰う工夫が必要だ。ヒカルの「あたしチャンネル」の中で、どれだけそういった要素を盛り込んでくるか。それによって番組の面白さ、魅力は変質するだろう。事程左様に、ラジオではリスナーの存在が重要なのである。

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さてInterFMといえば気になるのは、トークが半分英語になりはしないか、という点だ。遥か昔の「Hikki's Sweet & Sour」もそうだったみたいだが、この敷居の高さは元翻訳BBS管理人として痛感している。09年以降はヒカルもメッセの内容をなるべく日本語のものと重なるようにしてきたが、日本人の英語嫌いっぷり(と、言い切ってしまおう)はその程度では拭えない。たとえ「ああ、同じ内容が書いてあるんだな」と知ったとしても疑心暗鬼の種が残るのだ。一行々々逐語訳を添えてもまだ不十分。要するに、英語では一切話さないのがいちばんだ。嗚呼身も蓋もない。

InterFMなんて普段聴かない層が、KumaPowerを求めてやってくる。音楽番組というのなら、英語で話す理由なんぞない。もし日本語がよくわからない人に向けてラジオ番組を英語でやるのなら、プレス・リリースを全部英語にするべきだ。

なんか極論に走ってるなぁ。でも大半の日本人にとって英語ってのはトラウマとコンプレックスの塊なんですよ、ええ。文系理系問わず皆これをやらされるから逃げ道がないのだ。文系だから数学は苦手でも構わないし、理系だから少々国語が出来なくても大丈夫、みたいな慰めが英語には一切ない。

しかし…ヒカルにとっては日本語で話すのも英語で話すのも両方が混ざるのも自然な事だ。そうやって30年過ごしてきたのだから。そして勿論、少数派とはいえその英語力に期待する声だってあろう。日本人は何を考えているのやら、ヒカルについては歌の上手さより英語の発音の美しさが評価されている! あの程度の英語を話す人は英語が母語の国に行けば幾らでも居る、というかそれがありふれまくっている訳で、どこの国に行っても圧倒的なあの歌唱力の価値とは較べるべくもない。しかし、日本で真に尊敬されているのは英語力の方なのだ。まぁ入学試験・センター試験に歌唱力テストがある国になれば別なんだろうけどねー。

話がよくわからん方向に行ってるな。兎に角、私は番組で英語を使うのは賛成できない。曲のタイトルのコールも出来るだけ邦題を用い、カタカナ発音でハッキリと伝えて欲しい。InterFMでそれが出来るのかどうか。あたしゃ今の同局のポリシーは知らないが、どうしてもイメージとして「流暢な英語の発音で何言ってるかわからない…と思ってたら途中から日本語だったのか」みたいな感じがどうしてもある。それは出来れば避けて欲しいな、と。


まぁ、今回はどうでもいい事を言っているのかもしれない。普段のツイートだってたまに英文になる事がある。それと似たようなバランスならいいだろう。だから、番組の最初が肝心だろうな。「What's up? How ya doin'?」 みたいなのは論外である。ここははっきり大きくお口をあけて右手を高々と高く掲げ上げて(ラジオだから見えないけど、そういう所が大事なのだ)、声高らかに「ぼんじゅーる!」或いは「こんばんくま!」でも何でもいい、「Kuma Power Hour」の名に恥じない元気のよさで番組を始めて貰いたいものだ。

そういう、番組独自の"挨拶"みたいなもんをみんなで決めるのもいいな…ってそれはアニラジのノリか。そこまでしなくていいや。Wild Lifeの時みたいに「ぼんじゅーる!」でいいだろう。すると毎月第3火曜の22時過ぎにはタイムラインが「ぼんじゅーる! #KumaPowerHour #InterFM」というツイートで埋め尽くされる訳だな…(ニヤニヤ)。

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ちらりちらりとInterFMを聴いていてすぐ思うのは、ビックリする程トークがつまらないという事だ。ラジオのパーソナリティというのは喋りの達人な筈なのだが、特にFMでは発音と滑舌はプロフェッショナルだが肝心の中身が、というケースが少なくない。

まぁこれはニーズに応えた結果だろう。FMラジオなんて合間々々にBGMで流しておくものなんだから耳当たりのよい"音"が聞こえてくればよい。中身の濃いトークなんて逆に煩わしいだけだ。発音と滑舌重視になるのは当然の帰結である。

さて、こんな風潮の中でピーターバラカン氏は"Real Music Station"というキャッチフレーズを掲げてきた。これ即ち、音楽を主体としたラジオ局という意味だろうが、大丈夫なのか。音楽について語れて、その話が面白いパーソナリティなんて何人居る事やら。いまのところ、InterFMでいちばん魅力的な番組はDJ無しノンストップで1時間音楽を掛け続ける番組である。DJは天気予報と交通情報を…ってそっちはそっちの専門家に喋ってもらえばいいや。ズバリ、DJ・パーソナリティは不要だと思う訳だ。

ここに宇多田ヒカルが飛び込む。かなり厳しい。Amazonで20代はイケイケ!のレビューをみてきたが概ね「喋りは挙動不審だが歌は抜群」という評価だった。ヒカルに喋りは期待されていない。ファンなら何喋っても喜んじゃうしそのニーズに応えるのがまず大事だがそれでいいのかというと悩ましい。

ただ、果たしてヒカルが音楽主体のトークを繰り広げてきた時に挙動不審のままかというとそうでもないかもしれない。真剣で落ち着いたトーンで曲を紹介するカラーになれば、印象も変わってくるだろう。UtaDAのプロモーション時の感想を訊かれて「インタビューがびっくりする程つまらない。どうでもいい事ばっかり訊いてくる。」とか何とか答えていたヒカルだが、今度は自分の喋りがつまらなくない事を示さねばならなくなるだろう。



…と手厳しい事を書いてみたものの、ファンとしてはあのグダグダトークを聴くのが楽しみな訳で、何とも複雑な心境だったりするんだけどね。嗚呼、何て贅沢な悩み。先週の今ごろは、こんな事で悩ましくなっているなんて考えてもみなかったというのに。

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月一というペース、これはFMで"音楽番組"をやるにあたってかなり重要である。

まず整理しておきたいのは、FMラジオというのは「取り敢えず曲をかける」というのが日常茶飯事な為、何が本当に"音楽番組"と呼べるのか、いや、私がその番組をいつ"音楽番組"と呼ぶのか、という点についての話である。

私にとって「音楽番組」とは、「合間のトークや企画も総て音楽に関連した話題である番組」の事である。呼んでいるのが誰であろうと、トークの内容が音楽以外の内容が主体ならそりゃ「トークの合間に息抜きに曲をかけるトーク番組」であって音楽番組とは呼ばない。ピーター・バラカンや渋谷陽一のように、曲と曲の間に入る喋りが曲の解説やらアーティストや作品のエピソードになっている番組をこそ音楽番組と呼びたい。

その意味に於いて。その意味に於いてKuma Power Hourが音楽番組であるかどうかは結構重要である。言い切ってしまえば、ファンのニーズは殆どない。宇多田ヒカルのファンがヒカルのラジオ番組に期待しているのは宇多田ヒカルのお喋りだ。あの声が喋っているのを1時間タップリ聴きたい筈である。ぶっちゃけ、1時間の中で音楽を掛けるのだなんてヒカルの曲を(UtaDAの曲ですらない!)1~2曲掛けてくれれば十分だ。よくわからない60年代のカビの生えた洋楽を鳴らされても退屈なだけである―って書こうとしたんだけどみんな優しいからなぁ…ヒカルの好きな音楽なら取り敢えず聴いてみるかみたいな空気になるのかな…まぁそれはいいや、それで。

何が言いたいかというと、このままでは大半のファンにとって「あんまり期待通りでない」「思ってたのと違う」番組になるかもなぁ、という事だ。恐らく、最もニーズに応えるのは、生放送で、Twitterと連動していて、リスナーとヒカルが当意即妙のやりとりをしながら盛り上がるトークと企画(ゲームとか対決とか)中心の番組だろう。それに簡易動画配信でもつこうもんなら大盛り上がりだ。

しかし、現実には、生放送ではなく収録で、従ってTwitterとの連携もなくヒカルからのリアルタイムなリアクションもなく、ゲームで大騒ぎする事もないしまさか簡易動画配信なんてありそうもない。30歳のヒカルが淡々と、いや時には興奮気味に、最近自分の気に入っている曲をかける、まぁいわばトレボヘの「This Week's Top 2」みないなのが1時間続くような番組が予想される訳だ。ここを読んでいるようなコアなファンは「いいじゃんそれ!」とテンションが上がるだろうし、何より私自身「何という俺得番組」と今から舌嘗め摺りが止まらないのだが、この人は120万という規模のフォロワーを抱えた人なのだ。圧倒大多数はそんな風に考えないライトファンだという事はお互い肝に銘じておきたいものである。

話が本題から逸れてしまった。簡潔に述べておこう。「音楽番組」にとって月一回一時間の放送とは何を意味するのか。それは、無理に、或いは無為に流す曲がひとつも挟まらないという事だ。どういう事かというと、音楽ファンなら普通に過ごしていれば1ヶ月もあれば1時間分の選曲というのは自然に出来てしまうのだ。これが一週間に1時間だと途端にキツくなる。また、そのペースだとついつい"今旬の云々"という観点から選曲してしまいがちになるのだが、これが月一だと時流とは別の時間の流れの中に身を置く事になり、じっくりと選曲を吟味できるようになる。つまり、月一1時間放送となる事で、より純粋に「宇多田ヒカルが今好きな音楽」を聴けるようになる、という訳だ。いやはや、もしそうなったら実に嬉しい。月に一回、私は至福の時を過ごす事になるだろう。


でも現実は、そんな極端ではなく、トレボヘのレギュラーみたいなバランスになると思いますよ。ただ、今のInterFMのブレインはピーターバラカン氏なので、やや09年3月のトレボヘスペシャル寄りになるかな、という気はする。月一1時間というフォーマットは、そこらへんを睨んだ上でだろうなと勘繰る次第である。

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収録と生の違いは、昔に較べて格段に大きくなった。生放送でのリスナー参加といえば昔は電話でプレゼントとか人生相談とかそんな程度だったが、ファックスの導入から潮目が変わり電子メールで劇的に変わった。更に今はTwitterのハッシュタグとソーシャルチャットストリームがある。ニコ生なら弾幕だ。フィードバックは限り無くリアルタイムに近付き、今やDJはリスナーと"会話"しながら番組を進めるのが基本になっている。(一部の番組では)

…というような双方向性を、クマパワーアワーに期待できるのかどうか。うーん、今の所はそっちの空気ではなさそうだ。じっくり腰を落ち着けてヒカルが好きな音楽を掛ける。そういう雰囲気が漂ってくる。生放送であるメリットは薄そうだ。デメリットの方が大きいかもしれない。

しかし、もし収録なら、収録日時を事前に明記して欲しいものだ。いや、収録日時というよりは"フィードバックの締切日時"だな。収録日当日或いは前日にヒカルはハガキやファックスやメールやツイッターをチェックする事になるだろう。こちらとしては、それまでにフィードバックを返し終えていないと番組に活かして貰えない訳で、いやそりゃ番組中或いは番組終わってすぐ送れば問題ないだろうが、例えば番組中に紹介してくれた音源を手に入れるのに手間取るとかもある訳で。目安を先に提示して貰えると随分助かる。

そういった締切を提示する際に重要なのは、日付だけでなく時刻まで表示して欲しい、という事だ。今のInterFMがどうなっているのかは知らないが、ファックス以降はやりとりは分刻みなのだから、そこが曖昧だとやりにくい。まぁ多分そこらへんはみんな慣れていて大丈夫かな。

ラジオの場合、収録といっても出来るだけ違和感のないように近い日付で行うのがベターだと思うが、月一だとどうなるのやら。次回はそこらへんに突っ込んでみるかな。

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さて、番組の呼び名、愛称は如何しようか。どうなるか。「宇多田のトレビアン・ボヘミアン」は略して「トレボヘ」であった。呼び名は4文字が安定すると相場が決まっているが、「Kuma Power Hour」は、「クマパワー」以外呼びようがない。で、これは5文字扱いなのだ。4文字略語最大の特徴である"平板アクセント"が使えないのである。平板と言っても正確には4音のうちアタマの1音だけ低いのだけども。(「トレボヘ」は「ト〓レ→ボ→ヘ→」である) 

「クマパワー」だとどうしたって「ク〓マ→パ〓ワー」にならざるを得ない。

まぁ、別にそれでいいんだけどね。

あとは3文字か…「クマパ」…クマパーティみたいだよね…頭文字をとって「ク・パ…」…やめとこ…。

無理矢理「くまぱわ」と4文字にしてしまうか、あぁ、「クマパー」ならギリギリなくはないか。私は気が進まないけれど。

とりま、「クマパワー」でよさそうだね。それしかないとも言えるけど。


あとは、ハッシュタグかな。そのうち番組専用のTwitterアカウントが放送開始前に立ち上がってハッシュタグを指定してくれるとは思うけど、まずはストレートに「#KumaPowerHour」だろうな。これなら誰も迷わない。しかし、ツイートにあたってちょっと字数が多すぎるというのはあるかもしれない。ラジオの実況ツイートなんて「えっ?」とか「www」とか簡単なのが多いからハッシュタグが長すぎると読みにくい。ならば短縮形の「#KPH」の方が使い易いかもしれない。しかし、既に何やら使っている人が居る模様。それなら「with Utada Hikaru」の部分もくっつけて「#KPHwUH」ならいいんじゃないか。流石にこれを使ってる人は居なかった。まぁ調べるタイミングによるけれど。

しかし、私は「#kuma」がいいんじゃないかと思う。本格的に使っている方がいらっしゃるかどうかはもう少し時間をかけて調べてみないといけないが、単純に「#kuma」が並ぶとヒカルが喜ぶ。これは大きい。とても大きい。

どうせなら略したら「#kuma」になる番組名でもよかったかもね。いいの思い付かないけど。てか今更だし。

妥協案というか、間をとって「#KumaPower」位でもいいな。字数的にもこれ位が限度だろう。

まぁハッシュタグは公式が指定する事だし、みんながそれに従えばいい。何はともあれ、決まらなくったって「#interfm」タグがあるのでまずはみんなそこに集まればいいのさ。


ハッシュタグが活きるかどうかは、何より放送が「生放送か収録か」に掛かってくる。パーソナリティがリアルタイムでハッシュタグツイートをチェックできるか否か。これをやるかどうか。十中八九収録放送だと思うのだが果たしてそれに関する発表はいつになるんだろうねぇ。いやそりゃ勿論生放送がいいんだけどさ。どうなるんだろう。次回は収録放送と生放送の違いについて。

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さて、ラジオである。「KUMA POWER HOUR」なんてタイトルよくInterFMの中の人がGOサインを出したなぁと思う。尤も、「それはちょっと…」と言っても「ではこの話はなかった事に(ニッコリ)」となるだけだろうから飲む以外なかったのだろうが。

ファンでないと、どこまで宇多田ヒカル=くま、という図式が確率しているかよくわからない。しかし、ぼくはくま発売当初からすれば確実に知名度は上がっているだろう。世間的には、童謡の発売なんてイレギュラーだろうと受け止められただろうし事実その後も童謡を発売した訳ではないからそれはそうだったとなるんだろうが、発売から6年半経っても更にラジオ番組のタイトルに起用してくるとなるといよいよ「本気なんだな」と浸透してくるだろう。悪くない方法論だ。

しかし、何だ、語呂が悪い。「クマパワーアワー」だから韻を踏んでいるのは明らかだが、「パワーアワー」は日本人には言いづらい。ヒカルがラジオでどうやって発音するかも注目だろう。もし英語発音なら「パウラワ」みたいな言い方になる。さいたまじゃないんだから。日本語発音でハキハキと「くま・ぱわあ・あわあ」と区切って発音するしかないかな。「ぱわあ・あわあ」の「あ・あ」の部分が特に難しい。「くまぱわわー」になりそうで怖い。ジングルで何度も登場するだろうから、日本語発音と英語発音の両方を用意しておくのもありかな。

InterFMといえば日本語と英語混じりのトークがよく聴かれるイメージが強いが、これがどうなるかは蓋を開けてみるまでわからない。4月の改編はピーターバラカン氏を旗印に気合いが入っている。「Real Music Station」というからには、音楽が主体の番組を打ち出してくる筈で、事実この「KUMA POWER HOUR」も"宇多田ヒカルが音楽を紹介する番組"として位置付けられている。そういう時に、日本語英語混じりがどうのという話があるのだろうか。"自由"、とみるべきだろう。流石にDJがロシア語で喋り始めたら「ちょっと待ってください」となるかもしれないが、日本語一本でいっても英語一本でいってもミックスでいっても構わないのではないか。となれば、ヒカルがどの層を意識して喋るか、という点に興味が集まる事になる。以下次回。

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春が来た。ヒカルがラジオだなんてな。

来週からラジオについては30回連続で連載してしまいそうな位私は喜んでいるので、焦って書く事はないだろう。放送が始まるまでに小康状態が来るだろうから、その時にでもゆっくりと。今回は素直に前回の続きだ。


コクトーツインズを好むヒカルに、人間活動中に是非実践して欲しいのは「音楽の生まれた場所に直接行ってみる事」、だ。それは、作曲者が寛いでいた湖畔のコテージでもいいし、片田舎に不似合いに建設された音楽スタジオでもいい、ロリーナ・マッケニットのファンなら一度はマラケシュに行ってみたくなるし、ツェッペリンファンがカシミールに行きたくない訳がない。ヒカルには、もっとそれをラジカルに実践して欲しい。例えば、コクトーツインズがレコーディングしたスタジオに直接行ってみる。歌ってみる。弾いてみる。電源を入れてみる。そこでしか生まれ得ない何かを感じとれるかもしれない。

感覚的なアプローチ、というのは説明が難しい。音楽自体が最も雄弁であり、ある意味音楽の相対的な価値を最大化するアプローチであるともいえる。何の代わりでもない何か。それ自身。それなら、生まれた場所に還ってみるしかない。

今ヒカルはロンドンに居る。いや、居たりする。コクトーツインズもブルーナイルもスコットランドのバンドだ。目と鼻の先とは言わないが、ちょっとした旅行気分で行ける距離なのではないだろうか。そこでしか感じられない「音楽が生まれてくる感覚」を、是非じかに感じてみて欲しい。それは結局、「自分は独りじゃないんだ」と思い知らされる事となり、「だからこそ独りになって生み続けなくてはいけない」事をも思い知る事になるだろう。空気。音は空気の震えである。その場所の空気が震える事で掴めるものを掴みに掴んでアーティスト活動に復帰してみて欲しい。世界の広さは、自らの内側に導かれてこそ感じ取れるものなのだ――


――っていう続き方をする予定だったんですけど、来月からヒカルが(人間活動中に出会った?)音楽を紹介してくれるんですってね。よかった。

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ヒカルがコクトー・ツインズ好きというのは、音楽のジャンルというより音楽への感覚的アプローチに共通する部分があるからだろう。具体的にどの感覚が共通するか、というより音楽に対して「感覚的にアプローチする」という方法論を用いる事自体が似通っている、という意味だ。

一方で、ヒカルはザ・ブルーナイルも好んでいる。こちらも感覚が重要だが、ドモホルンリンクルのような(とヒカルが実際に言ったかどうか忘れてしまったが、こう表現するのに同意するであろう事は想像に難くない)音を一滴々々抽出するかの"真の洗練"の部分を持ち合わせている所が大きい。

"真の洗練"と書いたが、ここの所は案外軽視されているかもしれない。ヒカルがブルーナイルの名前をラジオで出した時、DJさんが"ラウンジミュージック"というワードを出してヒカルを戸惑わせていたが、ブルーナイルはそういった所謂"都会的洗練"と結び付けて語られる事がままある。有名曲の曲名が"ダウンタウン・ライツ"だったりする為のイメージであろうし、実際そういう風にみえる側面もあるから間違ってはいないのだが、ヒカルはそういう風にブルーナイルをみた事がなかったのだろう。だから戸惑った。

"真の洗練"とは、目指す表現において徹底的に無駄を削ぎ落とし本質の部分だけを剥き出しにしてしまう、いわばラジカルなアプローチの事を指す。一方、"都会的洗練"なんていう文脈で語られるものの中には、本質云々でなく単に"小綺麗"程度で済ませているものもある。そういう時、剥き出しとかラジカルとかいったキーワードは遠く離れた所に現れる。

ヒカルは、一方でジェフ・バックリーとか尾崎豊の名前も出す。こちらは洗練云々よりどうしようもない剥き出し感が前面に出ている。卒業とかI Love Youを歌う尾崎が"洗練されている"と表現される事はあんまりないだろう。どちからというと中二病とか、そういう方だ。しかし、ヒカルの中では尾崎もブルーナイルも、"本質を剥き出しにする"という音楽的アプローチを取っている点では同じである。違うのは器用か不器用かの違いだけだ。まぁドモホルンリンクルに8年かける奴の生き方も大概不器用なんだけれど。

コクトーツインズは、その"本質的な部分"を感覚そのものによって捉えようとしている所がヒカルと似ている。具体的には、Gentle Beast Interludeがそれだ。この曲の持つ"感覚"は、コクトーツインズのもつそれに酷似している。そして、Gentleと言った時の洗練された感覚と、Beastと言った時のゴツゴツした荒々しいラディカルさ。その融合がヒカルの音楽に対するアプローチの位置取りだといえる。ヒカルの好きなアーティストたちの音楽を、そんな風な視点で聞き直してみるのも一興かもしれない。

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生放送ストリーミングといえば、文化放送は「超!A&G+」というインターネットストリーミングセクションを持っている。ラジオ局が運営するから音声のみかと思いきや、殆どの番組で"簡易動画配信"と称して動画を放送している。まぁ大抵スタジオで喋るパーソナリティをそのまま映しているだけなのだが、そういう事もあってか局はこのストリーミング放送を「動画付き"ラジオ"」と言い張る。動画と音声流してるんやからテレビやがなと思うのだが、ラジオ局の矜持かあクマでラジオだと言うのだ。

確かに、パーソナリティのバストアップを映し続けるだけでテレビ放送だと言い切ると画面的に些か寂しい。それなら、動画はあクマでおまけでしかなく、これは音声主体のラジオなんですよと言った方がお得感があってよい。ふむ、動画付きラジオだな。

何でこんな話をしているかというと、前回触れた「20代はイケイケ!」はこの「超A&G+」のフォーマットを完全に先駆けていたという事だ。双方向性は流石に今は「Twitterのハッシュタグ+iPad」というシステムを利用しているものの、パーソナリティがスタジオでバストアップを写され画面を見ながら反応を楽しむ、というスタイルは本当にそのまんまだ。

なので、A&Gを観ると(聴くと)いつも思うのだ。「ヒカルも毎週これやってくんないかな~」って。身も蓋もなくてすまん。

番組の中には何を血迷ったか中東と東京を結んで同時生中継に挑戦して予想通り回線が途切れiphondで電話して繋ぐなんていうテレビ黎明期みたいな事をやらかすパターンもあったりして、嗚呼こういうのってテレビが失った"面白さ"だよなぁ、なんて思ったりもして。

ヒカルは今や拠点が東京とNYとロンドンと3つあるのだからそれぞれから生中継すればよい。時差をどっちに合わせるか、というのも問題になりそうだが、まぁ場合によっては収録にして双方向性は事前メールのみ、というのでもいいだろう。普段生放送の番組が時折収録になるのはよくあることだ。

しかし、そういう誰にも出来る事ではつまらない。宇多田ヒカルならではの事をして欲しい。カラオケやろうカラオケ。流石にその場でリクエストに応えて、というのは著作権法的に厳しいかもしれないが、カバーを毎週とまではいかなくても隔週・毎月・隔月・季刊・不定期にライブ・ストリーミングすれば勝てる。(何にだ)

ヒカルはUTUBEで殆どのPVをフルコーラスで公開している。これは画期的な事である。ならば、ストリーミング生放送でも一歩踏み出してもいいかもしれない。彼女の事だからパフォーマンスに完璧を求めて入念な下準備を…と思ってしまうだろうが、それではいけない。「イケイケ!」から10年経過しているとはいえ、この分野はまだまだ黎明期。今のうちに「グダグダ」や「ゆるゆる」をやっておかなくてどうする。確かに、あらゆるストリーミングはアーカイブされて永遠に残ってしまうだろう。しかし、少なくとも私はその時にしかみられなかった"ハプニング"の方にこそ魅力を感じる。そのグダグダな時間に居合わせた事がいい思い出になる。アーカイブスを観ても、その時同時に観てたかったなぁ、という後悔と羨望しか起こらない。パーフェクトよりハップニング。今までの宇多田ヒカルになかったコンセプト。ビッグなアーティストにはなかなか難しいだろうが、そういうのにチャレンジし続けるのが「若さ」だと思うのだ。

プロデューサーどころかビデオ監督まで始めてしまった今となってはラジオのパーソナリティなんてアルバムが完成してツアーのリハーサルが始まるまでの間位しか出来そうもないが、それでもいいんじゃない。是非いつかチャレンジして欲しい。出来れば、こういうのがいつのまにか"テレビ放送"と呼ばれ始めてしまう前に、ね。

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前も書いたように、3月下旬というのは高揚感の思い出と共にあるようなものなので、本来の季節感と相俟って無駄に妙にソワソワするというかワクワクするというか。殆ど活動のなかった2003年ですらCOLORSのDVDと「20代はイケイケ!」のDVDが発売されていた。実はラジオもちょろっとゲスト出演していたような。記憶も曖昧。

「20代はイケイケ!」は現代のストリーミング生放送の先駈け的作品になったという話は何度も繰り返してきた。当時は自動車をプレゼントしてしまうような巨大なスポンサーを擁して初めて可能になるようなコストがかかったらしいが(ホントかどうか知らない)、今ではカメラとマイクがあれば、いやスマートフォン一台あれば誰でも出来るようになった。

特に、日本ではニコニコ生放送の存在が大きい。Youtubeは生放送という枠組みではなかった。ニコニコは、ライブストリーミング画面上にコメントを右から左に流す点が画期的だった。(生放送に限った事ではないが) まだまだユーザー層は限定的だが、サービス開始から6年余り、すっかり利用者の間では定着したシステムといえるだろう。

下地はあった。それ以前からもテレビの生中継をみんなでみながら専用ブラウザーを使って2chの実況板にコメントを投下し続ける、なんていう楽しみ方も定着していた。それをシステムとして取り込んだのがニコニコ生放送だった、ともいえる。言い方次第だけども。

ヒカルは二年半前のWild LifeでUstreamを利用したが、急拵えもあって、テレビの生中継の代替以上の役割は果たさなかった。ニコニコ生放送の醍醐味は、ユーザーのコメントを出演者が拾って番組を変えていく所にある。そういう面が当然ながらなかった。

次にヒカルがストリーミング生放送に手を出すのはどんな時で、どんなスタイルだろうか。ニコニコを直接使わなくても、双方向放送を10年前に成功させているのだから…10年も前か。一昔だな。もうその頃の事なんて気にしなくてもいいや。まっさらにいちから新しい時代の双方向放送を模索すればいいのかもしれんな。その為にも、アーティスト活動長期休止はいいキッカケに、なるだろう。

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Hステ5周年という事であのアルバムについて書こうかな、と思っていたのだけど私の耳元で鳴っているのはKING CRIMSONだったりする。なんか予定外。

ヒカルは復帰後、何を目指すのか、そもそも何かを目指すのか、設問自体からして難しい。CRIMSONを聴いていると、最初のスタジオアルバム7枚が強い必然性を伴って作られている事を痛感する。後追いで聴いても、7枚目の「RED」の最後の曲"Starless"に辿り着いたら「そら解散するしかないわ」と強烈に思わされる。事実、CRIMSONは「RED」発売当日に解散を表明している。後に80年代に復活を遂げるが、GENESIS等と同様、"別のグループ"と見做されている。

何の話かといえば、前も話したようにヒカルの場合こういった"必然的な流れ"というのが見えてこない、それは一体何故なのか、と。3rdアルバム「Deep River」は確信に満ちたアルバムだった。アルバムの最後を自らの本名の漢字の名を冠した曲で締める。それこそCRIMSONの"Starless"のように、「これで終われば伝説になれた」という構成だった。そこからの"話の続き"のわかりにくさと、メッセが激減した事は多分無縁ではない。それが、2006年に一念発起してメッセを書き始めてまた復活する。1999年2000年と、2006年2007年のメッセの多さは目を引く。早い話が全国ツアーやっからみんなと必然的に向き合う事になったというだけなんだが、まぁそれでも、それだから嬉しかったよね。

HEART STATIONアルバムは、言わばその"力ずくで作り上げた物語"の集大成だった。全国ツアーからぼくはくま、Flavor Of Life、Beautiful World、、、どれも大変意義深い。充実したアルバムだった。あの時点での最高傑作であり、まだ未来を見せてくれるであろう期待をそこに漂わせていた。私にとって、しかし、いちばんのハイライトは5月に発売されたPoLEPであったか。あれがトドメの一撃となり、そこから(Eternallyを挟みはしたが)Utadaモードへと突入していく。一方でヒカルは「点」と「線」の編集長まで兼任する。刊行されたのは2009年3月19日。アルバムHEART STATIONからちょうど1年である。何が彼女をここまで駆り立てたのか。宇多田ヒカルの10年を総括する一方でUtadaの未来を見せようとして、Deep Riverの時のように結局倒れる。「また5月か」と七年越しの溜め息を我々は吐(つ)いた。多分、"次はこうならないように"と今人間活動に励んで
いるのだ―という纏め方は間違いだと思うが、我々の願望でもある。健康に気を遣い、ペースを維持し、出来れば、人生全体での創造性を最大化して欲しい。まぁそれは二番目以降の願いか。"今"を生きていて欲しい、という言い方の方がいいのかな。ようわからんわ。

それはただのおまぃの願望やないか、と自分に先にツッコミを入れつつ敢えて書く。ファンに対して沢山話し掛けられている時の方がヒカルはヘルシーな気がする。2006年~2007年って離婚直前やん、どこがヘルシーやねん、となりそうだが、多分話はもっと前からで、別れる事がほぼ決まった状態でツアースタートさせたんちゃうかな。ある意味吹っ切れてたと。その割に喉をギリギリまで追い込んだりしてたけど。まぁ過去の事はいいか。『次は倒れないでよ』、と言いたい事は結局それだけ。辿り着いた。安堵。

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