無意識日記
宇多田光 word:i_
 



この間のチック・コリアの"Sometime Ago"にしろCaravanの"狩りに行こう"にしろSteamhammerの"Penumbra"にしろ、要はベースラインが全体を引っ張る楽曲が好きなんだな私は。スタンリー・クラークがベースリフをチェンジするとチックのプレイが明らかに変化する。これがインスパイアというヤツか。醍醐味である。

ベースさえクールであればあとは自然とついてくる。TM NETWORKの"Get Wild"から(1987年の曲だからもう25年も経つのか!! 当時5歳だった光が30歳になる訳だ。四半世紀だよ)、いや、ドリフのヒゲのテーマ(出典はテディ・ペンダグラスの"Do Me")の頃から私に染み付いている哲学である。だからロックもソウルもPopsも分け隔てなく聴けるのだ。エレクトリックギターが咽び泣いていなくとも、大抵の音楽にはベースが入っている。クラシックだってチェロとコントラバスがある。通奏低音だな。ベースから入れば、歌モノもインストも洋楽も邦楽も殆ど関係ない。クールなベースラインは、どんな音楽にだって出てくる。ジャンルを超えて様々な音楽を味わうにはとてもいい"とっかかり"である。

ところが! 宇多田ヒカルにはその"ベースラインの美学"というものが殆ど感じられないのだ。最初にヒカルの音楽で魅力的なベースラインは、と思い当たったのがtravelingのオブリガード(歌メロに入る直前に高速で上がって下がるヤツね)だというから心許ない。あれヒカルのアイデアじゃないんじゃない? 次に思い浮かんだのが甘いワナで、なるほどこのベースはなかなかにクールなのだが十中八九ヒカルのアイデアではないと思う。それ以後あんなラインは出てこないんだもん。

当欄でも繰り返し指摘してきたように、リズムセクションに関してはヒカルは徹底的に打楽器重視である。ツアーではツイン・ドラムやドラムス&パーカッションの布陣で臨んでいるし、曲の要はかなりの割合で打ち込みのリズムである。そんな中でベースの役割とはバスドラに合わせてルート音を紡ぎ出すとかしかない。いやこれだって非常に重要で、特にライブではベース&ドラムスがシンクロしたプレイは筆舌に尽くし難いのだが、でもまぁとにかく幅の狭い、限られた役割しか与えられていないように感じられる。

裏を返せば、これからのヒカルが曲作りのバリエーションとしてベースラインからの作曲を取り入れればまた違った新境地が見えてくるかもしれない訳で、これは未来に期待を膨らませられる要素のひとつといえるだろう。楽しみだ。

それにしても、何故ベースに対してこんなに素っ気ないのか。ひとつ考えられるのは、ヒカルがピアニスト脳だという事だ。ピアノという楽器は右手で旋律左手で伴奏を各々弾いてしまえるという最強の楽器(お陰様であんなにToo Expensive)なのだが、そのせいかしばしばベースの役割まで取ってしまう。いや上原ひろみ(ジャズ・ピアニスト。人妻。)だってトリオ編成の時はベーシスト&ドラマーと組むのだから普通はピアノといえどベースが必要なものだが、"なきゃないでなんとかなる"こともまた事実なのだ。なので、ヒカルが鍵盤を弾きながら作曲をするとベースが要らなくなってくるのでは、というのが一点。

もう一つ、思い当たる節があるのだが時間が来てしまったようなのでまた次回。ちゃお~。

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未見だった小津の「長屋紳士録」を観る。1947年と戦後すぐの作品だし金も人も時間もモノも何もかもない状況で作ったんだろうなぁという感じで最初はさほど期待せずに観始めたのだが、終わる頃には「小津……恐ろしい子!」と呟かざるを得なかった。いやはや、天才はどんな状況でも作品を仕上げてくるものなのか。お金がないから人が足りないから時間がとれないからといい作品を作れない言い訳をする人たちは、いやそれで普通なんだけどね。

そこでふと松本人志の事を思い出す。何故彼のMHKは成功しなかったのだろう?と。思うに、視聴率を気にしすぎたのではないか。あの作風で数字が取れる訳がないのだが、やはりずっとテレビの中で暮らしているとそう思えないのだろうか。彼の、今の、爆笑とは無縁の、内側からじわじわくすくすと込み上げてくる小さな笑いの作り方は私は好きだし、何よりそれは順当な"進化"だと思う。今の作風は文脈依存性がかなり低い。目の前で笑いが"生まれてゆく"過程をみせてくれる。このままいけば更に普遍性の高い笑いが生まれると思うのだが何とも勿体無い。

小津の場合特に初期の頃は喜劇がベースにあるのだが、驚いた事にこの100年とは言わないが大昔のギャグをみて今でも笑えるから凄い。こどもが変な顔をする、ただそれだけのことでも確かにこれはいつ誰がみても可笑しいだろうなぁと思う。どこまで意識的かはよくわからないが、彼は文脈依存性の極端に低い笑いを作り出す術に長けていた。松本人志はちょうど今、初期小津の地点に辿り着いているんだと思う。嘗て一世を風靡した、日本語すらも変えた男が30年近く費やして至った境地が初期小津だとしたら…私の勝手な感想ではあるが、いやはや日本には昔とんでもない人が生きていたのだなと。なので松本人志もここから更に四半世紀位を費やして映画を作り続ければかなりの傑作を…何歳なんだって話ですが。

宇多田ヒカルも"スタート地点が既に非常に高い"所から始めている。が、まだまだこれから成長するべき余地、開拓すべき境地が控えていると思う。最初から老成しているような印象を与えた彼女だが、30歳から次の30年、長いようだが多分あっという間だ。残念ながら邦楽にはお手本となる存在が居ない。美空ひばりでも物足りない。唯一、その出発を参考にできた人が居るが、それが実母というのは何という運命の悪戯か。そして、年齢的にはいよいよ彼女の人生をアテにできない時期にさしかかる。いや最初っからアテになんかしてないだろうけどしかしそれでも前人未踏の地に足を踏み入れる気分は如何程のものか。海外になら参考に出来そうな人も居るだろうし小津のように他ジャンルの人を見遣るのもいいだろう。でもまぁしかし、あんまり他人の生き方を省みようなんて風には考えないかな光は。読書好きというのは、ひとの人生を常に覗いているようなものだからそれは違うのかな。いずれにせよ、迷った時にとっかかりになる他人の人生というのも、有
用なものだと思うよ。

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今度は蕎麦屋か。また中目黒か。(←勝手に決めつけてる) もうこのまま行っちゃおうかなと思ったけど昼間の話でしたのねすみません。日本酒片手に(←決めつけてる)遅い昼蕎麦とは粋というべきかオジン臭いというべきか。ひさしぶりにきいたなそんな形容詞。

なんかまだツイートが続いているな。まぁツイートに対するツッコミはツイートでするとして。あ私のTwIDは@i_k5です。(たまには宣伝)

ああいうツイートを読んだあとだと前回の続きを書く気がしないな。音楽の話題にさくっと切り替えよう。

さっきまでチック・コリアのReturn To Foreverを聴いていた。昨日に引き続き2日連続。1972年の作品らしいが、本当にこの時代は何だったのか。意味がわからない。チック・コリアはまぁジャズ/フュージョンに分類されるアーティストだが、この頃のロックやジャズの元気さはちょっと異様である。

1968~1972年、或いは1970~1974年の5年間位を"ロック黄金時代"即ちGolden Age Of Rockと呼ぶのに異論を差し挟む余地は少ないだろう。この5年間に較べれば他の時代はいつだってどっこいどっこいだ。若い人に告げておくが、「昔はよかった」といって特定の年代を持ち出す行為は周期的に起こるもので、要はタイミングでしかなく、いつの時代だって掘り起こして上澄みを掬い取れば名曲だらけになるのだ。なので、いろんな年代のリバイバルブームが来る度にそれはそれで楽しんでしまい、だからといって他の年代を無為に貶める事もしなくてよいのだ。

しかしこの5年間だけは違う。図抜けて名盤が多いのである。何故こんな事になったのかは未だによくわからない。ひとことでいえばポスト・ザ・ビートルズ。彼らが去った後を埋めるかのように大量の才能が流れこんできたのだ。特に72年付近は様々なバンドが代表作と呼ばれるアルバムを作っている。LED ZEPPELINのIVは71年末だったかな、光もラジオで挑戦した天国への階段が入っているヤツだ。DEEP PURPLEはMachine Headになるのかな、だとしたらSmoke On The WaterとHighway Starという二大超有名曲が入ってる。EL&Pは展覧会の絵かな、71年だっけ、一番著名な作品だろう。GenesisはFoxtrot、かのSupper's Readyが収録された名盤である。あとBlack Sabbathは…キリがないからやめとくか。

という訳で今年はそんな1972年からちょうど40年である。当時二十代だった若者も皆還暦を過ぎているという時の流れの恐ろしさ。しかし、音楽に魔法がかかったようなあの時代の輝きは色褪せる事がない。こればっかりはどうしようもない。

昨日も光宛にツイートしたのだが、この時代に輝きを放ったアーティストたちと共演するにはそろそろタイム・リミットが近付いている。「伝説のミュージシャンがまだ現役で居る」最後の時期になるかもしれない。そう言いたくなる程にあの時代は特別なのだ。せっかく世に名が知れ渡ってそのデメリットを沢山被ってきているのだからメリットの方もどんどん収穫していけばよいのに。いやそんな発想はなくとも、やりたいと思ったらその時に声をかければいいのだ。躊躇う事はない。チャンスの前髪は絶対に自分で切ってしまってはならないのである。

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この間ヒカルがツイートした原発と名前の話題、私なりに解釈すれば同じ所に根をもつ問題である。問題、と呼ぶのは即ち何故か世論が二分されているからなんだが。

俗に言うキラキラネームは何が問題なのか。片方の側からみれば名前を"常識的に"つけるのは当然であり、何故そこで物議を醸すような名付けをわざわざするのか理解に苦しむ、といった所だろう。もう片方の側からみれば、名前は名前、どうつけても何が変わる訳でもないのだから(と思っていりかどうかは個人差があるだろうが極端にいえば、ということで)自由につければいいじゃない、といった感じか。

両方の云う事が尤もだと思う私はどちらの陣営にも与しない…というとちょっとつまらないので、ヒカルに"かわいそう"と言われた方を支持してみようか。

名前なんて記号に過ぎない。ただ人と人を区別する為の処方なのだから出来るだけ個性的な名前をつけて人と被らないようにするべきだ。平凡でつまらない名前をつけて同姓同名の人が沢山でてきたら、違う事物に同じ名前をつけるという記号性にとって最も致命的な失策を犯す事になる。名前の機能を考えるならば、そして一億数千万の他人の名前をチェックできない以上、マージンをとって個性度をアップしておくのは当然なのだ。

これは案外本質的な議論である。名前とはそもそも何なのか。何よりも個体と世界を、個体と社会を、切り離すものなのだから、名付けはできるだけ世界や社会から突飛であればあるほどよい。そうやって人の個性は担保される。

実際、そもそも名前が変だから社会的に不利益を被るというのはおかしくないだろうか。それなら「あいつは顔が変だから差別しよう」というのと何も変わらない。いや、顔は人にはどうしようもないが名前をつけるのは自由にできるじゃないか、わざわざ不利益を被るように自由を行使しなくても、という意見も出ようが、自由をもつのは親であり名付けられる本人ではない。平たく言えば顔と同様、本人にはどうしようもない事だ。ならば糾弾されるのは親の方であり、子に不利益が齎される事態を社会として看過する訳にはいかない。名前によって不利益を齎そうという方に問題があるのだ。人を容姿で嘲笑したり就職選考で選別したりする事などあってはならない。問題なのは、名前の具体的な形状に難癖をつける側なのだ…

…なんだかこのままだと話長くなりそうだな~連載になっちゃうの!? まぁ、いいか。ツイートに反応したりしながらゆるく続けていく事にしようか。

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朝更新したと思ったらすぐツイートしやがるんだもんなぁ。油断も隙もあったもんじゃない。

しかし、何故こんなに頻繁にツイートするようになったんだろう? すぐに思い浮かぶのはEVAQに関わっている事を仄めかす為、という線だがパクチーの匂いがキツすぎるから~♪、いや、パクチーの歌ではぐらかされてしまった。こりゃなんだ、コリアンダー。すいません。

夜中の3時半に呼び鈴が鳴らされるという話から今は日本に居るのだろうなぁという想像はつく。或いは今は長い夏休みで、9月になったらまた音沙汰なしになるかもしれない。欧米だと今が日本でいう"年度終わり"だからね。

まぁ、私が言うのも変な話だが、無期限活動休止と言っておいて一年半での復帰は、ちょっと早い。なんだかんだでせめて丸々二年は商業音楽に関わらない感じで行くのが今回の休みの主旨ではなかったか。

勿論、「飽きた」なんていう理由で戻ってくるんなら喜んで迎え入れる。そこらへんは前言撤回しまくっちゃえばいいのだ。光さえよければ構わない。あれなんか当たり前のこと言ってないか俺。

まぁつまり、考えられるシナリオはこうだ。今イギリスで何か学校めいたものに通っていて(或いは家庭教師とか音楽家や音大教授による個人レッスンとか)、それが今夏休みに入ったから日本に帰ってきている。まぁその間に…11月公開予定として8月アタマにEVAQの主題歌が発表されて、まぁ自らは公の場には出ないものの、関連作品がリリースされる話について軽くツイートでもしようかな、というノリなのではないか。そして、夏休みが終わればまた人間活動に戻ってゆく…シナリオとしてはわかりやすい。

もしEVAQの主題歌がBeautiful Worldのリミックスや派生作品なら、そうそう売れることはないだろう。フォロワー92万人が1枚ずつ買うだけで92万枚売れるんだけど、そうは問屋が卸さないだろうなぁ。実際そんな枚数卸せる問屋ないしね。何の話だ。

結局、突如としてツイートを連続させてる理由は、私も皆さんと同様、よくわからない。しかし、理由なんてどうでもよいのだ。ひかるのことばがよめる。そうであるなら、他に行く所なんてない。機嫌よくツイートを繰り返してくれればこちらはハッピーなのだから、余計な勘ぐりをせず、終始素直に喜んでおくとしよう。わぁい。

ただ、エネルギー関連のツイートを読めばわかる通り、光は別に無為に時を過ごしてきたのではない。【久しぶりの大事なお知らせ】にもあったようにこれは『「休養」でも「充電期間」でも無い』のだろう。光は活発に活動していて、恐らく"もうひとつの人生"を満喫しているのだ。機材を引っ張り出してきて作曲をしたり、さっき私が妄想したように音楽を習っていたりしても、それで本格的な商業音楽活動を始める理由にはならないのである。光の言動から過度な要求を彼女につきつけたりしないようにしよう。それとこれとは関係ない。嗚呼、好きで好きでどうしようもない。全く私は油断と隙だらけだわ。何の話だったんだ。

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お次は年齢ネタであるか。20代はイケイケ!としょっぱなに言い放ったはいいが、ちょっと疲れが前面に出過ぎたきらいがある。まぁ言う程倒れてないし注目度が高い分そこばかりが目立ってしまったというだけかもしれないがそこらへんが「イケイケ感」を削ぐ格好になってしまった事は否めない。最後に来て漸く、「倒れてから休む」前に「倒れる前に休む」事を選択してくれた。あ~そうね、倒れるまで突っ走ったから「イケイケ」だったのか。そういう見方をするならこれ以上のイケイケはないな。有言実行だったと評した方がいいのかもしれない。

では30代。本人は「30代はほどほど」と提案?していたがこれは案外いい。今までと違い、自分の体力配分を見極めた上で「ほどよく」活動する。20代より30代の方が体力が有り余っている…なんてことはあんまりないから、そもそもアウトのラインを見つけ出す為に実際にそのラインを超えてみる必要もなく。自分のペースでやっていけばいい。

逆にそっちの方が活動は活発になるのでは、という気もする。クォリティーの面では性格的にどうやったって妥協できないんだし、制作過程ではまた荒れたりするんだろうが、それに対する経験の蓄積があるから「そういうもんだ」と割り切れる。その違いは大きい。それに、これからは更に「座長」としての仕事が増える、というか総ての場面で指揮者、コンダクターになっていきそうだから、そういった人間に必要な資質はまずなんといっても健康である事だ。適切な休養を先んじてとって、突発的に休んだりしない。その安定感が欲されてくる。

そんな感じの理由で昨夜のツイートは「30代はゆるゆる」を推してみた。これは、蛇口がゆるゆるな所を想像してくださればいい。常に某かの"出力"が目に見えている状態。ちょうど今のツイートの状況がそうだ。メッセを書こうとすると時間が掛かってなかなか取り掛かりにくくなるが、ツイートなら気楽に何かをアウトプットできて、更に相互作用の中から新しい発見があったりする。ゆるゆるだらだらと兎に角何かをアウトする事で起こる事もあるのだ。新曲の音源発表くらいは秘密厳守でいいだろうが、レコーディング日記まで非公開にすることはない。多分制作中は作品に没頭するあまり何かを呟こうにもその秘密厳守の作品の内容に関する事しか頭に浮かばなかったりするかもしれないが、そんな時にはフォロワーに向かって「何か話題ない?」と訊いてしまえばいい。絶え間ないアウトプットによって人的資源をどんどん利用。それが"ゆるゆる"の極意であり、もしかしたら結果的に20代以上に盛んな活動の呼び水になるかもしれない。

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ツイッターがバカ発見器と呼ばれて久しいが、ヒカルのツイートに対する反応で本当にその人の知性が露わになってしまうのは身震いする思いだ。いや武者震いでもいいけれど。

ヒカルがデビューした当初も似たような事態を招いていた。余りにも歌が巧く歌詞と楽曲が極上なので、ヒカルの事を貶す人間は途端に「見る目利く耳を持たない人」というレッテルを貼られ以後その人の発言は信用されなくなっていった。あれ、具体例が思い出せないな。もしかしたら私が勝手に脳内で創作した妄想話かもしれない。まぁとにかく。歌でもツイートでもヒカルに対する反応の仕方はその人の"程度"を審らかにしてしまう。少なくとも私はそう感じる。

こういう事態になると人は空気を読み始める。First Loveアルバムが空前絶後の売上を記録したのはヒカルの音楽がひとりひとりに評価されたから、ではない。途中まではそうだったかもしれないが、"バカにみつかって((c)有吉弘行)"からはそうではなかった。空気を読んだ人たちがその空気に従って「宇多田って凄いね~」と言いながらCDを買っていったのである。あれ、この話も具体例が浮かばないな。もしかしたらこれもただの妄想かもしれない。まぁいいだろう。

これがバブルだ。バブルには根拠がないのでいつか弾ける。その時の反応は目も当てられない。それをさせない為には、常に批判的思考でヒカルの言動をチェックして「イエスマンにならない」心意気が必要なのだ。いきなり信じ込まない。というより、これは宗教ではないのだから疑ってなんぼである。

しかし。だがしかし。頭を使えば使うほど、考えれば考え抜く程ヒカルの言動は常に最適切を射抜いている事に気が尽かされるのだ。その時の敗北感。悔しさ。ひとことでいえば「やっぱりかなわない」のだ。考えれば考えるほど、心はボキボキ折られていく。「じゃあいつもヒカルが正しいんだよ」と言いたくなってくる。

「あの人とは是々非々で、意見が合う時もあれば合わない時もあるから」で済ませられる人は幸せである。皮肉ではない。心よりそう思う。是非そこで踏みとどまっておいて欲しい。この知性に近付けば近付く程、ヒカルと自らの間の距離が凄まじく遠い事に気付くのだ。近付いて遠ざかる蜃気楼のような…しかしまた気がついたらヒカルはそっと傍に居る。何事もなかったかのように。今度は妄想じゃないぞ。ただの比喩だ。

結局、それにより、折られた筈の心は見事に浄化される。これが世界のカタチだとすれば何とも巧く出来ている。

何が言いたかったのかはよくわからない。ただ、前回言ったように"釈迦の掌の上"で転がされてはいるものの、それが我々の人生なのだからまた同じように抗い続けるんだろうなぁ、ということだ。めげずに頑張るぞ。

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今回の一連のツイートは作詞並みの労力が費やされているとみるのが妥当で。いやそう思わないとやってられないというか。つまりは彼女の脳は特に休養期間でも何でもなくバッチリ活動中という事だ。

これだけ様々な事物を視野に収めた上での発言となればもう皆の反応は予想通りというか台本通りの配分である。「こういう事言う人出てくるだろうな~」というそのまんまがストリームに現れる度にあららららという気分になる。正に釈迦の掌の上。ブッダダシャカル様である。誰だよそれ。

こうなってくると、なかなか「その発想はなかったわ」という反応が出て来ない。そういう意味においては確りと考えられた発言は面白味が薄い。寧ろ、ヒカルのツイートがどこまでよく考えられたものなのか、どれだけ美しいものなのかに気づく人がどれ位居るか、というのを知るのが楽しそうだ。…あんまり居ないなぁ。内容が内容だけに、賛成か反対か、同意か非同意かというリプライが圧倒的に多い。いやまぁそれでいいんだけれど私のように基本的に「どっちでもいいよ」と捉えている人間にとってはこの作詞家の"言葉の選び方の巧みさ"の方にばかり目が行く。人それぞれなんだな、やっぱり。

意外と思われるかもしれないが(?)、私は隙あらば光に反論したいのである。毎日絶賛しているようにみえるのは結果としてそうなってしまっているに過ぎず、いつだって至らない発言をすれば叩いてやろうと待ち構えている。つまんない曲なんか発表しようもんならそりゃもうけちょんけちょんに…という態度で来て早幾星霜。本当に隙を見せない…というか隅々まで考え抜かれている。原発の件も名前の件も、各種の反論は何れも想定内であり、しかし出来ればその中に"更に考えさせられる"何かが含まれてはいないかとついつい探してしまう。成長の契機は、常にそちら側にあるのだ。

なので出来れば私も、イエスマンにならずに反骨心をもって反発していきたいのだがなかなかその材料がない。既存の反論の数々は書いてある文章やことばに目が行っておらず、要は読解力不足、即ち誤解であって表現としてはとるに足らない。しかし人は自分のみたいものをみる、って本当だね。

そうではなく、本質的な反論をしてみたいものだ。議論を真の意味で押し進める、有意義な視点。それが見いだせないかと毎回このblogを更新しているのだが、まぁ結局褒めちぎって終わっちゃうんだよね。今回もまた…。

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全く、これだけ色々ツイートがあるとどれからどこから突っ込んでいいものやら。元々何の音沙汰がなくても順調に(まぁ少なくとも"休まない"という意味に於いてはそうだよね)更新してる人間からすれば、ほんの少しインプットがあるだけですぐさまオーバーフローするのだ。コンスタントなのも良し良しである。良し悪しな訳がない。全部良い。もっともっとどんどん呟け。

そういった総てを見晴らしてみてのいちばんの感想は、もう何度も何度も書いてきている事だから何の新鮮味もないのだが今後も何度でも書くぞ覚悟しておけ、そう、「なんて心の優しい子なのだろう」という事だ。

世の中には偉人として名を馳せた天才たちが山のように居る訳だが大抵人間としてエキセントリックだ。でないと特別な事は出来ない。何かにキョーレツに秀でていれば叩かれたりもするだろうからそれに抗える強さがないといけない。

ヒカルが希有なのは、音楽的才能のみならず(既にそれだけで日本史上唯一無二なんだけど)、そういった、彼女の、偉人に名を連ねるに相応しくない他者への思い遣りの心を持っているからだ。何を今更、と思うが今月の一連のツイートを読んで、普通だったら現実を知って疲弊し色々と諦めていく所を全く揺るぎなく踏ん張っているのだと知れたものだから今又改めてその点を強調したくなったのだ。

光の知性は、したがって、その優しさと思いやり、祈りと願いを心うちに持った小さな小さな女の子を全力で守る為にその思いの数々にカタチを与える為に存在しているかのようにさえ思えてくる。その祈りと願いに沿って読んでみて初めて、そこに莫大な知性の蓄積と公使があった事に気付くのだ。毎度ツイッターを見ていると、@utadahikaru宛てに上から目線で話し掛けている人々が必ず居る。必ず、だ。まぁ私の事なんだけどそれは置いておいても頭のイイ人ほどヒカルに対しての発言は慎重になる。そこに桁外れの知性が在る事を感じとってしまうからだ。

しかし、それでもなお、物事の核心は知性にあるのではなく、その子の優しい心持ちにあるんだという事を踏まえる必要がある。なんなんだろうね、こういう構図は他にない。また、今後も二度と現れないかもしれない。一度現れただけで既に大奇跡なんですけどねー。

あれ、これって次回に続くんだろうか。わかんないや。

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土曜日朝からの連続ツイートには流石に茫然とした。今でもまだまだ引ききりなしにRTが続いている。いつも通りに記事にもなり注目度は鰻登り、フォロワー数はあっさり92万を超えた。

はてさて、どこから取り上げたものやら。この情報量の多さは生半可ではない。ひとことひとことの重み、含蓄と含意の豊かさ、それでも全く失われない優しい視線、どれをとっても宇多田光であり、失礼ながらその時取り上げられている話題が何なのかについては正直どうでもよくなってしまう。ただ平伏すのみ。ははーっ。

では面白くないので何か言おう。twitterが次のフェイズに入った。ちょうどRT数が公式からも見れるようになった事で、RT数自体が情報として拡散される事になった。何が変わったといえば何も変わらない(今までもカウントされてたしクライアントによっつは具体的に数値も見れた)のだが、何だかんだでWebから見てる人はいちばん多い。特にサイレントマジョリティは。その多大な影響力はスカウターの数値よろしく視覚化される事で周囲の行動に変化を及ぼす。

今回の一連のツイートはRTされる事を狙って書かれたものだ。更に今まで@u3musicと@hikki_stafFの2つしかフォローしていなかったところを、他のひとたちもフォローし始めた。@utadahikaruツイートのチェックが主な光にとって今更フレンズ・タイムラインに知己のツイートが載っても大勢に影響はない訳で、寧ろ坂本龍一教授に対してしたように公式RTやら、時にはメンションやらを繰り出すオプションを備えた、とみるのが正しいだろう。それはつまり、これからもツイートを続けますよそれも一定の責任感を負いながら、ていう意思表示だ。思い起こそう、当初はTwitterが期間限定の利用予定だったことを。それを考えると"思えば遠くへ来たもんだ"と呟きたくなってくる。しかし、ここまでインフラ化されてしまってはある日突然有利とか言われたら加入せざるを得ないだろうな~嗚呼こんちくしょーw

とはいえ、やっぱりメッセで少し長めの文章も読んでみたいと思ったり。贅沢だなぁ。ツイートの140字制限は結局まるで作詞のような技術の駆使を要求し、光は見事に(いやまぁ日本語クラスタでは断トツにいちばん巧く)それを使いこなしているが、今回オプションを増やして示したように使えるチャンネルは使ってしまえばよい。ツイートと異なり、メッセの更新は皆にどういう影響を与えるか、2012年時点では未知数だ。AAは登場したがまだ現れないくまちゃんの出番になるかな? それもアタマに入れつつ見守る事にしよう。

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萌え擬人化からツンデレとはまた忙しい。声優スキル上がってるんじゃないの、って書くとイヤミにしか見えなくて悲しいが割と本気でそう思う。よりによって書き始めた瞬間にAcross The Universeを選曲するかウチの携帯プレイヤー君は。

Nothing's gonna change my worldって唄ってるんだっけ。これと『僕の世界消えるまで会えぬなら君の側で眠らせて』を並べるとなかなかに興味深い。世界、Worldということばは地球だったり宇宙だったりを指すとともに、殆ど"空間"と同じ意味で使われていたりもする。BWの"僕の世界"とは果たしてどんな空間を指しているのだろうか。

会えない相手は誰なのだろう。今、会えないのか、これから"僕の世界"が現れて会えなくなるのか。なんとなく旧劇版でいえばシンジとカヲルの関係性を思い出しそうな所だが、ヒカルはそれ以上踏み込まない。ここらへんの匙加減、力加減が巧いのだが、ここではそれ故にピンとこないといえばこない歌詞になっていると感じる。

もうひとつ、『君の側で眠らせて』という一節には、次の、全く性質の異なるようにみえる二節が前段に控えている。

『もしも願い一つだけ叶うなら』
『僕の世界消えるまで会えぬなら』

ひとつには、こう解釈する。どっちにしても僕は君の側で眠りたいんだ、という意思表示。そしてもうひとつには、この二節が同じ意味を持つ状況が存在し得るということ。即ち、願いがひとつ叶うことイコール僕の世界が消えて君に会うこと。この解釈はかなりアクロバティックだ。

正統的な解釈は次の通り。これから君に会えなくなるから今夜は側で眠らせて欲しい、それが僕の願いだ、と。つまり僕はこれから僕の世界を生み出すのだ。ん、なんか違和感が生まれるよね。こういう時は一人称を変えればいい。昔指摘したように、この曲は光の母性の萌芽である。母なる存在がこれから彼女の世界を生み出すのだからあなたとはその間会えないね、と。生を受けたら会えなくなるもの。それは死であり、この世界の外の話だ。故に世界は美しい。こういう歌詞をこそ"世界観"というのだろう。極めて適切なタイトルである。EVAの続編に期待が高まるわ。

あれ、そんなに正統的な解釈でもなかったか。まぁ、いいじゃない。

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ウルトラライトたんは峠を越したのだろうか、それとも奈落の底に叩き落とされたのだろうか。続報が待たれるが、普通に修理に出したらどうなのかねぇ…。

光がモノを擬人化して呼ぶ時は、余計なお世話の物言いかもしれないが、本気である。何かの婉曲表現や照れ隠しでなく、書いてある通りに読めばよい。なんと喩えればいいかわからないが、ペットを飼っているのとほぼ同じ意味だろうか。単純に、人間とペットの寿命が異なるように人間と機械の寿命も異なるから見届ける機会も迎え入れる機会も多いというだけで。ぬいぐるみならまだわかる、という人も、オーディオインターフェイスをたん呼ばわりするのは萌え擬人化の系譜、位にしか思われないかもしれない。

萌え擬人化は既に重心のシフトが起こっていて人間を描く時のオプションのひとつ、みたいな事になっているが―つまり、擬人化というより擬物化・擬事化になる―、光のは更にその正統的な(?)擬人化の更に前の段階…本当にモノと会話しているのだ。まぁ、くまちゃんと一緒と言い切ってしまおうか。

トイレが機材墓場になっているというエピソードも、なんか本人もよくわかってないっぽいが、毎日お参り出来る場所だからなのではないか。捨てるに捨てられない、というだけならクローゼットにしまっておけばいいし、置き切れないなら普通は何かを捨てるだろう。それが他のものだったら、果たしてトイレに置いたのか? まぁ妄想しても仕方がないのだが、もっといえばトイレをより自分の落ち着く場所にしたかったのかもしれない。ご先祖さまに護られているノリである。過去の屍の上に今の自分の生がある。繰り返すが、寿命の違う者同士の出逢いな為、残された方のそこからの人生の身の振り方はそれなりに問題になる。どこらへんで見限るか、その時どう弔うか。最近話題にも上った脳死判定に通ずるものがある。というか同じである。どの段階で諦めるか。臓器移植よろしく新しいパーツを次々に繰り入れて果たしてよいものかどうか。ウルトラライトたんの処遇は哲学と倫理の問題である。いやまそれ以上に光の思い入れの話だけれども。

僕らもウルトラライトたんからの恩恵を楽曲を通して受け取っている訳でこれは決して無縁の問題ではない。寿命の違う者同士どう生きるか。とても普遍的な問い掛けなのである。笑いもオチもなく本エントリー終了。次回はもちっとふざけたい所。

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『なんか笑った』の次は『なんか泣けた、、』であるか。読点2つな所にペーソスを感じさせる。天丼的に次は何だろう。あんまり関係ないが光の英語の口癖は『kind of』と『Like』だった。誰でもよく使うが光はちょっと頻繁。今はもう随分経つので口癖は変わっているかもしれない。

さて餃子といえば宇多田家のソウルフードだ。てるぶーが酢キングで圭子さんがラー(油。太陽神)。その2人の遺伝子がメルティング・ポットでミックスされると光が生まれる(一応歌詞ネタなのだが英語曲の場合なかなか反応がないなぁ)。光はつまりポジション餃子なのだ。

ああ、そういや@utatane_hikaruさんは英語の歌ツイートしないな。Easy BreezyならI still remember the way you've gone to bed、、、とかだろうか。ある意味大体合ってる。I just wanna sleep furtherとか…まぁこの話題はまたの機会にしようか。

という訳で結婚と離婚を繰り返す酢とラー油をくっつける餃子という料理が光は酢キングである、いや違、好きである。いやそれをいうならお醤油の方であろうか。どっちでもいいか。でも酢とラー油と醤油混ぜてさぁどうすると詰め寄られても困り果てるのでやっぱり餃子にしておこう。

つまり、光にとって「隣の餃子がよく見える」エピソードは隣の芝生が青く見えるも同然、ひとんちの家庭では父母が仲良くこどもを大事に育てているのを指をくわえて眺めているようなものなのだ。『なんか泣ける、、』のはそういう幼い頃の自分の心情を思い出してしまったからである。全部嘘。


…いや嘘でなくてもいい? まぁ、どっちでもいいわいね。そういうストーリーが私のアタマに出来上がったというだけで。それと現実とは直接関係ない話。深層心理がどうのと人に押し付けるようになったら潮時だろうなぁ。だってそれってどうとでめ言えるから面白くも何ともないもんね。大事なのはいつだって発想と着眼点。ひとことでいえばきづき。外から目を逸らしているときづけるものもきづけない。自戒々々。

次回光のツイートにくまちゃん登場、か?

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昨夜の連続ツイートでちょっと放心状態。私の即訳は余計な事が差し挟んであったりちょっと捻ってあったりするのであんまり真に受けられぬよう。

しかし、ドイツのRock Im Parkを観に行っていたとは。オイラも行けばよかった。メタリカのブラックアルバム(逆)完全再現は結構話題になっているので日本からも何人かは観に行ってるかもしれないが、目撃情報がなさそうな所からすると結構ピンポイントでメタリカだけ観に行ったのだろうか。フェスティバルで何万人も居る中に158cmの日本人女子が1人(かどうかは知らんが)、というのは埋もれてしまうのかかえって目立つのか。あたしゃ結構目立つと思う。ただ、ドイツのロックフェスの場合こども連れも散見されるらしいので、こどもと間違われてはいるかもしれない。

さてタイトルに掲げたのは「何故それだけ広範なジャンルを追えるのか」だかなんだかいう質問に対して答えたものだが、音楽は音楽、か。基本コンセプトはまるで変わっていない。が、こういう内容の話はやっぱり英語の時に現れる。日本のポピュラーミュージックにはあんまり"ジャンル"というものがないからだ。事務所であったりプロデューサーであったりといった区分。まぁそもそも上位の顔ぶれが固定されている。折しもオリコンが上半期の総括を行っていたが、ジャニーズ事務所と秋元康という組み合わせはここ数年全く変わらない。ここには「音楽は音楽だから」という言い回しはそぐわない。ここ数回のエントリーになぞらえていえば「視覚に負けている」感じだ。光のツイートに並んだアーティスト名をみて「色々聴いてるんだなぁ」という感想をもつには、多様なジャンルが乱立している市場背景が必須なのだ。英語でなくて日本語でツイートしてよと思われる向きもあるかもしれないが、英語でなくては出て来ない言葉もまたあるのである。ある意味、それを訳
してしまうのは野暮という事になるんだが、そのノリが伝わっていればまぁいいかなと。

初めて光の音楽の趣味を目にした人からすれば雑食だなぁという感想が残るだろうが、長年チェックしている身からすれば"いつものラインアップ"という感じだ。しかし、アルバム名を具体的に挙げたりこちらも知らない名前を出してきたりするなど、新しく音楽を摂取する行動もまた継続している。新しい音楽、という訳でもない。T-REXの「The Slider」は40年前の作品である。古い音楽も新しい音楽も分け隔てなく接する、ここにも『Music is music.』のコンセプトは生きているのだ。diverse(多様(性))は、空間的方向だけでなく時間的方向にもいえる事なのである。

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ダウンロードなんとか、ねぇ…インターネット使うって事は誰しもアップロードとダウンロードの繰り返しなんだから何やったって無理は出るさね。図書館で本借りようってんでHPにアクセスしたら逮捕された人が居た位だから既に何でもアリなんですよ。

色んな問題が錯綜していて、恐らく今まで実際に迷惑していたり不利益を被っていたりした人たちの状況は全く改善されず、寧ろ悪化し、不正確な噂が独り歩きし、無駄に窮屈な感じだけが残る。まぁ平和ってことだろう。そんなことしてる余裕があるんだから。


UTUBEで全PVを公開しているヒカルは、どんな風に考えているんだろう。彼女は、自分が消費者だったら嫌がるような売り方なり開き方なりは選ばない。UTUBEだって、短期的には損であろう。これがあれば別にCD買わなくていいやDVD買わなくていいやという人は沢山出てきそうだ。それはまぁ最初っからわかっていたことで、ヒカルとしては「こういうのがあればいいだろうな」位にしか捉えていない。

インターネットの負の面をイヤという程見せられてきた人である。時には私みたいなOutside of the baseな人間から送られてくるメールにも目を通さねばならない。ホントごめん。それでもこうやって耐えてきた人だから胆力が違う。自分の写真が好きなように利用されているからといって、いやそりゃ時にはいい気はしないだろうが、怒り狂ったり逃げたりはしてこなかった。

その、あんまり商い事に興味がなさそうな態度もあって、インターネットでのヒカルの評判は頗る高い。マネタイズだブートレッグだと人が騒いでいる間に、お金じゃなかなか買えないものを沢山手に入れている。いや、今まで味わわされてきた嫌な感じと比較すれば割に合わないかもしれないが、なんだかそういうことで騒いでるって時間の無駄な気がする。人生そんなに長くないよ。

といいつつ、こういう話題は一市民?として興味があるので何となく取り上げてるんだけれども。でもなぁ、欲しい音源とかあればお金出すからなぁ。そうやって生きてる人間にとってはただひたすら煩わしいだけなので、気にしてたら負けというか。いい知恵が出せるもんなら出すけどね。インターネットでは、時間がいちばんの価値。損得で語っていたら損をするよ。ヒカルみたいに、色んな事をクリアしてきてしまえば、必要なものは手に入る。ただそれだけなんだがなぁ。

…お腹空いた。(笑)

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