無意識日記
宇多田光 word:i_
 



2月29日生まれの人はいつ歳をとるんだ?という疑問はいつの時代も発せられてきたと思う。これへの答は結構単純で、法律上は誕生日の前日いっぱいで満年齢がひとつ上がる事になっているから、2月29日生まれの人は2月28日が終われば無事ひとつ歳をとる。何の問題もない。

この、「誕生日の前日にひとつ歳をとる」という考え方で寧ろややこしいのは年度跨ぎの現象だ。4月1日生まれの人が前年度の学年で、4月2日生まれの人から今年度の学年という制度を不思議に思った事のある人は多いだろう。これも「誕生日の前日に歳をとる」という数え方が原因だ。4月1日生まれの人はその前日の3月31日に歳をひとつとる訳だから、「4月1日~3月31日の間に満○歳になる人」という学年の基準を満たしてしまう。故に4月1日生まれの人まで早生まれ扱いになるのである。書いててややこしいぜ。

知っている人には今更な枕でした。さて。

【今日は何の日宇多田ヒカル】を呟き始めてからまだ4年経っていない。従って、実は2月29日に当該ツイートを投稿するのは初めてのケースだった。すっかり忘れていた。手元には各日の年毎のローテーションが一応あるのだが(時々間違えてますすいません…まぁ実害ないんだけどね)、2月29日だけ思いっ切り抜けていた。閏年の事を完全に忘れていたのだ。抜けてるのは俺か。だな。

幸い、8年前に「笑っていいとも」のテレフォンショッキングのコーナーに出演、というわかりやすいネタがすぐに見つかったのでさほど慌てずに済んだ。よかった。しかし、このネタをツイート出来るのはまた4年後になるのは残念かもしれない。

いっそのこと、毎年2月28日か3月1日に2月29日の出来事も呟いてしまおうか、と思ったのだが、タイトルが【今日は何の日】だ。ちな!みに、呟く時間が6時50分が多いのは同じ時間にNHK-AMで本来の「今日は何の日」が放送されているから。1時間前の5時50分にもあるのだが、この時間となるとまだ寝てる人の方が多いよねぇ、と思って6時台/7時前にしてある。これでもまだ寝てる人居るかもだけども。それはさておき。

果たして、2月29日って2月28日に対して何なんだろう。"明日"や"翌日"でいいのかな。3月1日に対してはどうか。"昨日(きのう)"や"昨日(さくじつ)"でいいのかな。勿論、実地には閏年ならそれでよし、閏年以外ならそうではない(2月28日と3月1日が互いに昨日と明日である)のだが、今考えてるのは年を考えない"今日"についてだ。2月29日という日を何年にも渡って、という話だから、まぁそもそも昨日とか明日とかいうのがおかしいのかと思ったがならばそもそも「今日」という言い方がおかしい。「今日は何の日」と言って何年前の事件について触れるのはおかしい。「2月22日は猫の日」ならわかる。2月22日になったら「今日は猫の日だよ」と言って構わない。でも、「10年前の今日はキプトラの発売日だよ」ってあんた、“10年前の今日”は今日じゃない別の日だよ、昔の日だよ。ちょうど10
年前の月日の暦の表記が同じなだけの別の日だよ…

閏年がなければ、"10年前の今日"とか"10年前の明日"とか"10年前の昨日"と言って貰って構わない。しかし、閏年の今、今日、"10年前の今日"と言ってもその日はないのだ。"4年前の今日"、"8年前の今日"、"12年…"、"4n年前の今日"、…なら、あるんだけどねぇ。だから、この、「ちょっとコジャレた言い方」であるところの「n年前の今日」ってのは、閏年にはあんまりそぐわない。やっぱり、4年に1回限定で呟くしかないのかな。いつまでいいとも資料室を置いておいてくれるやら…。


嗚呼、何て中身のない日記だろう。今まででも1,2を争うわ(笑)。それもよりによって4年に1度しかない日付にねぇ。勿体無いけれど、今日はそういう日だったって諦めるしかないですね、お互い。

て言うてる間に3月ですがな! 新情報、来るとよいですねぇ…。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




そういやこの日記がgooに移ってから最初に書いたのが福原愛の話題だったな~ちょうど世界選手権だったっけ。あれから10年、今や彼女もチーム最年長のキャプテンか。そらみんな歳をとるわ。

今日の対戦相手の北朝鮮は、放送で何と言っているかわからないが、実質世界2位の実力をもつ。名目上は世界ランク4位の福原、5位の石川、12位の伊藤を擁する日本が格上という事になっているが、実際には北朝鮮のエース、リ・ミョンスンの方が福原石川より上である(中国超級リーグでの成績からすると)。つまり、負けてもなんら不思議ではない。北朝鮮のメンバーが普段ツアー大会に出場せずランキングポイントを稼いでいない事から起こる現象だ。勝ったら金星と言っていいし、そのまま勝ち上がって銀メダルをとってもくじ運シード運とは言われないだろう。


斯様に、名目上と実力で乖離があるのはどの世界でも同じ事だ。誰も、実際の音をきけば、Utadaがビルボード69位が最高位というのが実力を表しているとは思わない(それでもラウドネスの64位に次ぐ成績なのだが)。特に、同業者のミュージシャンたちはそれをよくよくわかっている筈だ。勿論普段の生活では自分の仕事にかかりきりで他人の実力やチャート成績についてどうこうというのはないだろうが、いざUtadaを聞かせればそのように思うだろう事は予想できる。

しかし、現実のチャートは様々な要素に左右される。先程例に出した卓球の例で差が出ているのは各国のサポートの差だ。日本卓球協会は他のどの国よりツアー大会への参加に積極的で、故に日本人選手の世界ランクは高い位置にある。特に団体戦のシードを上げる為に個々の選手の世界ランクが必要なので戦略的な話なのだが、そういったバックアップなしでは日本のロンドン銀メダルはありえなかった。

ミュージシャンも、幾ら実力があってもレコード会社のサポートがなければ売れるものではない。稀にインディーズから大ヒットという例も出てくるが、やはり巨大資本の宣伝力はどうしても必要だ。

レコード会社からのバックアップを得るには様々な要素が絡んでくる。年齢や容姿、話題性。音楽と関係ないところも重要になってくる。今のHikaruに、国際的に売り出すにあたって推せるセールスポイントが見つからないのであれば、如何に素晴らしい作品を作ってきたところで暫くは国際展開はないかもしれない。もしそうなったとしても、日本のファンにとっては日本国内ツアーが手厚くなるので喜ばしい事態かもしれない。どう捉えるかは、貴方次第。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




次のLIVEで楽しみなのはUtada曲の扱いである。In The Flesh経験組としては、どの曲も分け隔てなく歌ってしまうのがいちばんHikaruらしい、と実感しているので、Utada曲だからといって歌わないとかそういう制限は要らないと思っている。勿論Cubic Uの曲でも、Close To Youのようなカバー曲でも構わない。Sukiyakiを歌ったっていい。歌手Utada Hikaruが歌える歌なら何でも歌って最高の夜にする。妥協は要らない。

観客のニーズは、LIVEを成功させる為には欠かせない情報だ。曲名を言っただけで会場のボルテージが上がる曲だってある。ピアノのイントロだけで悲鳴が上がる曲がある。そういうのを優先させていくとUtada曲は残らない。であるならば、仕方がない。

しかし、観客のニーズに合わせて期待に応える一方で、新しい出会いを与える事もミュージシャンから観客への贈り物だ。「こんな歌が聴けるだなんて!」という驚き。リスクはあるがハマった時の盛り上がりは相当なものだ。

時間がかかる場合もある。何度かツアーで歌って馴染みの曲になっていけば良さが浸透するものもある。短期中期長期で「“最高の夜”とは何か」について取り組んでいかねばならない。30年後にも3日後にもその時点で最高のLIVEが出来るように。

例えばDevil Inside, Kremlin Dusk, You Make Me Want To Be A Manの3曲も、UTADA UNITED 2006での反応は芳しくなかった(評判はよかったぞ)が、それは皆が曲を知らないからであって、あそこから何度もツアーを敢行して歌を覚えて貰っていけば、そのうち物凄い歓声を浴びるパートになるだろう。間違いがない。

しかし、問題なのは、Hikaruがいい曲を沢山作り過ぎた事だ。どの曲を歌っても素晴らしい。それなら皆の喜んでくれる曲を…となってグレイテスト・ヒッツ満載の安全策に収束する恐れが他のアーティストと較べても高い気がする。特にヒカルは「あの歌歌うのもう飽きた」とか言いそうにないし。観客の喜ぶ事を躊躇いなく実行できるプロフェッショナルだからこそ、知名度と実績が新しい扉を閉ざしていく。

試しに歌ってみたらいいのだ。日本の観客はIn The Fleshの観客のように総ての曲を大歓迎、とはいかないかもしれない。でも、だからってヒカルの曲ばかり歌っていたら世界の中で日本のセットリストだけが孤立してしまうかもしれない。やるだけの価値は、あるんじゃないかな。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




セルアウト、か。売れ線に身を売るというヤツだが、今の日本でこの用語使う場面あるかねぇ。

我々の世代なら多少はあった。小室サウンドが売れた時に露骨に踏襲する別人が出て来たり、バンド系からビジュアル系に流行が移っていったらしれっと素知らぬ顔で路線変更していたり(一体誰の事なんでしょうねぇ)、時流に乗っかる人は絶えなかった。今はその時流とやらはない。大昔に戻って、欧米で流行ったサウンドに日本語を載せて売り出す手法が主になっている。

ヒカルは寧ろその時流を作った方だった。倉木麻衣なんていう超大型フォロワーを生んだのだから。もっとも、それは音楽性以外での部分の真似でしかなかったけど。それでもそれで300万枚を売ったのだからぐぅの音も出ねぇ。

でだ。セルアウトするにもアウト先が無いのだからどうしようもない。特定のジャンルの中でなら流行は幾らでもあるがそれはジャンルレスのヒカルにとって意味のある事だとは思えない。どれか特定のジャンル自体が浮上しないと流行とは言えない。それも、ない。

つまり、売れる為のレシピがない為アンチテーゼも提示できない。ヒットというのが見え難くなっている。

一方、本来ヒット曲を出すポテンシャルを持っている超有名バンドたちは興行が絶好調なので今更冒険的なシングルヒットは狙わない。

となるとヒカルの立ち位置は微妙だ。興行はそこまで強くないし特定のジャンルに拘泥しないし、果たしてリスナーは今どこに居るのかが全く見えない状況である。彼らがどのデジタルメディアを欲しているのかさえわからない。敢えて言えば、「よくこんな状況で曲作り出来るな」、だ。

タイアップはこんな時救いだ。それに合わせた作風やサウンドにすればよい。桜流しは、それ自体が独自の世界を構築していたが、それを可能にしたのはエヴァの存在があったからだ。次以降の新曲も、シングルカット扱いされる曲は悉くタイアップかもしれない。照準をそこに合わせればいいとすれば随分とラクになるが、果たしてヒカルはそれでいいと思っているのかどうか。まだまだわからない事だらけである。ヒット曲という概念を再構築して望まねばならない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




アレンジが雑、というのは結構言い過ぎだが、スターゲイトやトリッキー・スチュワートに対してHikaruのアレンジが相対的に緻密である、という言い方も出来る。

彼らは流行に敏感で、今でもヒット曲をしっかり出している。常にサウンド・メイキングの新しい手法を身に付け続け、そのレシピは増える一方だ。従って、「こういうサウンドにしよう」と方向性が決まってしまえばそこからの仕事は早い、と想像できる。

一方のHikaruは、流行を知らない訳ではないだろうがそれを第一義には考えていない。どちらかといえば、イチからサウンドを自分で組み上げていくのを得意としている。となると、極端な言い方をすればそれは今流行の最先端で煌めいているようなサウンドとは程遠い、どちらかといえばいなたさや手作り感すらある造りになったりもする。しかし、だからこそオリジナリティは段違いだ。既存の何かを援用せずに総てセルフメイキングするので時間はかかるし時流からも外れるのだが、勿論今聴いても新鮮だ。例えば今“Animato”を聴いても「如何にも2004年頃のサウンドだなぁ」とは、ならない。一方で、比較対照を見つけるのがなかなか難しいという意味において、如何にもHikaruらしいサウンドであるとはいえる。

Popular Musicにおいてはそれが正解とは必ずしも言えない、という反省からThis Is The Oneでは流行を知っているトラック・メイカーを迎えた訳だが、あれからもう7年が経つ。今、Hikaruがどちらを向いてトラック・メイキングをしているかなんて全くわからない。ここまで何の情報もないのだから。

好都合な事に、と言っていいのかどうかはわからないが、邦楽市場に関していえば、「今流行の音」みたいなもんがない。勿論作り手側に言わせれば細かい話は色々出てくるだろうが、リスナーが「今こういう音が流行ってんだよね」と言える音はない。日本国内に限って言えば、ひたすらヒカルはヒカルのサウンドを追究すれば済む。好きなだけの分量、今欧米で流行っているサウンドを取り入れて識者を唸らせればよい。一般のリスナーはそんな事気にしない。

一方で、日本語で歌ってようと英語で歌っていようと、アジア諸国をはじめとした日本以外の市場というものがUtada Hikaruには存在する。それを今年、今、アルバム制作の局面においてどの程度意識しているかもポイントである。国によっては、自国の歌手よりインターナショナル系の歌手の方が注目されたりするかもしれない。そうなった時にHikaruのサウンドが欧米の流行に色目を使っていないとすると「なんか違う」と若いリスナーから言われてしまうかもしれない。ここらへんはHikaruの各市場でのポジション取りによる。ビョークみたいに「あいつはあそこでああいう歌を歌うヤツだ」みたいに思われていたらもう好き勝手出来るんだが、どうだろうな。

でもひとまず、日本だ。新しいレコード会社での発言力も、まずは日本で売れてから身に付くものだろう。我が儘を言う必要はないが、いざという時の自由の為には、売れておいて損はない。ただ、今の日本の問題は「セルアウト」が不可能な事だ…という話からまた次回、かな。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




弊害、とまで書くのは言い過ぎたかな。引きの強い引きにしようとしてしまったか。ゴシップ記事じゃないんだからそんな事しなくていいのに。

"Apple And Cinnamon"は、スムーズに曲作りが進んだ名曲だが、スピーディーに事を進めたせいか何なのか、弱点がある。まず歌詞だ。

なぜかやたら歌詞に繰り返しが多い。サビのみならずBメロまでもがそのまま1番も2番も歌われる。Hikaruの作詞でこういうのは珍しい。本来なら同じメロディーに違う歌詞をつけて構成をアピールするのが常なのだが。

恐らく、メロディーラインの美しさを強調したいが為にこうなったのではなかろうか。一度あてはめた歌詞がスムーズにフィットしたので、下手にいじくりまわすよりそのハマった歌詞をそのままリピートする事を選んだ、という感じがしている。確かに、歌詞をまともに聞き取れない私みたいなリスナーにとっては英語詞による構成力など歌詞カードを見ない限りわからない訳で、それなら別にこれでいいじゃないかとは思える。しかし、勿論、その分歌詞の面白味は薄れている。

もうひとつは、アレンジが雑な事だ。北欧のプロデューサー・デュオ、スターゲイトによるサウンドだが、彼らみたいな人らからすれば極東の中国と日本なんてまぁ大体同じなんだろうね、と溜め息を吐きたくなる中華風フレーズが出てくるのはあれ何なんだろうね。いやまぁさ、こっちだって北欧諸国、スウェーデン、フィンランド、ノルウェーの違いについて述べよっつわれたってわからんもんね、お互い様だわ。

Hikaruの仕事が早かったからって彼らまでスピーディーに仕上げる必要はなかったと思うのだが、雰囲気は出てるけれどさほどまとまりのないサウンドとなっている。

しかし、それでもこの曲のスタンダードっぷりは微塵も揺るぎない。そういった細々は大同小異、泰然自若に美しいメロディーを紡ぎ上げる。我々は楽曲を通して、Hikaruの感じたトントン拍子や高揚感を感じる事ができる。一方で、悩んだり逡巡したりで作った楽曲からもその葛藤や躊躇がかいま見られたり。どこがどうなってそうなっているかは相変わらずさっぱりわからないが、だからこそインタビューでその点についてズバッと訊いて貰えると有り難いのだった。松浦さん、そろそろですか?(笑)

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




暫く前にマクドナルドが新メニューの名前を公募して話題となった。結局、なんだっけ、忘れた(笑)。北のいいとこがどーの、牛っととかいうダジャレがどーのという名前だった。ネーミングのセンス以前に注文しにくいのは致命的な気がする。

まぁそれはいいんだわ。しかし流石にマクドナルドというべきか、ネーミングの応募総数は500万通を超えたそうな。凄い。「Distance」の総売上枚数より上だなんて。「First Love」アルバムや“Flavor Of Life”の売上よりは下だが…って、うわ、やっぱ宇多田ヒカルってすげーんだな。

で。プレスリリースによるとマクドナルドは新メニューの名前を「悩みに悩んだ結果」決定したらしい。500万通もあったらそりゃあ悩むよねぇ、と言いたいところだが、私はそれは大きな間違いであったと思う。悩むべき場所を完全に間違っている。

名前である。ぱっと見た瞬間に、聴いた途端に「おっ」と思える、ピンと来るのが大切だ。聴いた瞬間に覚えるとか、何度も口に出して言いたくなるとか、そういったあからさまなわかりやすさこそが至高。幾つかの案を目の前にしてあーでもないこーでもない、と言っている時点で目の前にある候補は全部没にすべきだ。

悩むべきは、本来は、アイデアを捻り出す時間帯である。あーでもないこーでもないと、新しい名前を生み出す過程では大いに悩み苦しめばよい。それこそが産みの苦しみだ。

しかし今回は、公募で名付けると決まっているのだ。候補は総て出揃っている。産みの苦しみなんて無い。ただひたすら候補に目を通して目に止まったものを残し続け、トーナメント方式でも勝ち抜き戦でもいいから、ひたすらいいと直感で思える方を選んでいけばいい名前が勝ち残る。それでも甲乙つけ難いのであれば最後はくじ引きで決めればよい。もしランダムで決めて不服が残るようであればそんなものは最終候補ではない。どれを選んでも素晴らしいからこそ甲乙つけ難いと言えるのである。じゃないんならただ単にそれは候補たちに決め手が欠けているだけだ。全没である。

或いは、悩みに悩んだからこれはいい結論だとでも言い張りたいのだろうか。んなわきゃあるか。

音楽でもそうである。手間暇かけたとか苦労したとかは、曲の出来に関係が無い。それどころか寧ろ、苦労とかをしない方がいい曲に繋がるとすら言えるかもしれない。

ZABADAKの「ひと」というアルバムに12分にも及ぶ“水の行方”という名曲がある。歌は後半に副次的に出てくるだけで基本的には器楽曲なのだが、そのメロディーと展開の美しさたるや。まさに「淀み無く次から次へと」という感じで滑らかに楽想が連なっていく。これはさぞスムーズに作曲が進んだのだろうと想像し、実際に作曲された吉良知彦さんにその旨をうかがったところ「そうです」との返答。曲展開の通り、淀み無く楽曲が組み上がっていったそうな。そういうところって音に出ちゃうんだな。


Hikaruの曲で最もスムーズに出来た曲といえば“Apple And Cinnamon”ではないか。確かインタビューで2時間くらいで出来たとか言ってた気がする…って当時翻訳してた当人の記憶があやふやじゃあ仕方がない。でも、曲を聴けばそのインタビューがなくとも「これは一気に書き上げたんだろうな」と思わせるほどに、メロディーラインの美しさがピュアである。もうこれしかない、というラインを何の迷いも躊躇いもなく進んでいく。Hikaru本人もきっと、「あぁこれは来たな」と思ったに違いない。

ここなのだ。メロディーは思いついてしまえば、それが美しければそれ以上こねくり回す必要がない。思いつくまでの試行錯誤と苦労と苦悩は大変必要である。それが大半の局面だ。しかし、もし何の苦労もなく思いつけてしまった時には遠慮しちゃいかん。「これだ」と思って一気に書き上げてしまえ。そうして出来た“Apple And Cinnamon”は、まるで昔からのスタンダード・ナンバーであるかのような佇まいを持つ名曲に仕上がった。

しかし、一気に書き上げた弊害もあったのよね…という話からまた次回。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




次の連続テレビ小説が始まるまであと40日、だなんて言われると、なんだかそろそろそわそわし始めた方がいいような気がしてくる。そこが初聴になるとは限らないとはいえ、そこまでいけば確実に新曲が聴けるのだ。テレビを持ってない人は急いで買…いや別にいいか。そこまで行っていればオフィシャルでサンプルが解禁になっているだろうからそっちで聴けばよい。テレビで流れるのも60秒とか90秒とかの短い単位だし、さはど変わりはないんじゃあないかな。

注目なのは、ミュージック・ビデオの使い方だ。テレビ本編ではクレジットが流れてそこに歌がかぶさるけれど、ヒカルはオフィシャルでビデオを用意するのか、どうか。

前曲の桜流しは3日間だけで200万だかの閲覧数を出していた。フルで流すのはその3日間でとりやめ、あとはサンプル程度に短いのを流すだけだった。今もか。新曲が出たらフルバージョン河瀬ビデオに差し替えられる、かもしれない。どうだろ。

兎に角、前回のビデオを使ってのプロモーションは上手く行った。今回も踏襲したいところだろうが、NHK側としたら、もしかしたら「初解禁はドラマで」と思っているかもしれない。やっぱり少しでも視聴率上乗せしたいからね。でも、EMI側もリリースのスケジュールがあるだろうから、初解禁は他の場所でもっと早い時点に、という案もありえる。どちらに転ぶかは、リリースのスケジュールが発表されてみないうちはなんとも。

まぁ、1月の時点でほぼ完成していたっぽいからないだろうが、稀に放送されたバージョンとフルバージョンが違うミックスだという可能性も考えたい。取り敢えず放送に間に合わせる為に一旦90秒のバージョンの体裁だけ完成させ納品し、あてからゆっくりとフルバージョンを仕上げる、という。そいなったらテレビ・バージョンは貴重なテイクになるから様々な方法で捕獲しておいた方がよさそうだ。

いずれにせよ、もうカウントダウンは始まっている。あとはいつになるかだけだ。嗚呼、楽しみだねぇ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




数日前、「山崎春のパン祭り」についてのツイートが出回っていた。いわく、プレゼントの白いお皿の製造元がフランスで、当地ではこの季節にお皿の需要で好景気なんだと。ふーん、という感じだが、これに「ん?」と食いついた人が居た。2ちゃんねるで有名なひろゆき(西村博之)だ。

彼の調べによると、どうやら「そんなことはない」らしい。お皿の値段からみても需要の大きさは微々たるもので、フランスの地元で話題になるような規模のものではない、と。ほほぅ。


こんな話をして何を言いたいかといえば、「嗅覚って大事だな」という事。物事の真偽についてまずあたりをつける。最初に勘がはたらくのだろう、「ん?何か変だぞ」と。このステップを踏まなければ、事の真偽を確かめる為に資料を集めようなんて事はしない。

「嘘を嘘と見抜けない人には難しい。」―インターネットやら2ちゃんねるやらを使う人への、(非常に有名な)ひろゆきからの警告である。裏を返せば、彼自身は、嘘を見抜く能力が高いという事だ。常に物事に対して批判的(critical)な態度でいるのだろう。


一方私はそういう嗅覚が無い。皆無。なので大抵の事は「へぇ~、そうなんだ。」で済ませてしまう。どちらかといえば黒柳徹子に近い。彼女の場合、誰から何を言われても「そうなんですか」と信じてしまう。バカ正直と言ってしまえばそれまでだが、彼女によると「世の中は広い。何があるか、何が起こるかなんてわからない。だから、どれだけありえなさそうな事だって、もしかしたらあるかもしれないじゃないですか。だから私は誰かが仰る事を疑ったりはしません。」との事である。テレビ女優第1号として、ユニセフ親善大使として広い世界を経験してきた人ならではの達観ともいえる。少なくともただのバカ正直ではない。

そこまで達観できない私は、しかし、似たような態度で日々を過ごしている。先程の山崎春のパン祭りツイートに関しても「へぇ、そうなんだ」で済ませた。大事な事は、こちらで勝手に情報を付加しない事だ。私は「そういうツイートを読んだ」という風に記憶する。「へぇ、そういうことがあったんだ。」と勝手に事実認定したりしない。そこに起こったのは、140字以外の文章が私んちのパソコンの画面に表示されて、私がそれを読んだ、その一連の流れだけである。パン祭りの実態も白いお皿も、ましてやフランスの工場も見ていない。事実として、現実として起こったのはツイートがまわってきた事だけだ。そこで言及している内容に関しては、現実か虚構かなんて、わからない。

だから、後日「あれは嘘でした」と種明かしされたら「あぁ、あれは嘘だったんだ」と思えばいいし、と言いたいところだがそうしてはいけない。「あれは嘘でした」というツイートがまわってきたら、“本当に起こった事”は「私があれは嘘でしたという内容のツイートを読んだ事」でしかない。内容については考えないのだから、「あれは嘘だった」も嘘かもしれない可能性を保留しておく事が肝心だ。

結局、我々は、実際は文章や音声や写真や動画しか見ていないのだ。それらが指し示すかもしれない(指し示さないかもしれない)真実と嘘について、言える事はない。ひろゆきのように嗅覚が鋭いのであれば追究してみるのもいいかもしれないが、大抵の人はそんなに鼻が利かない。大事なのは鵜呑みというか、こちらで勝手に情報を補完したりせず、起こった事をありのまま記憶しておく事だ。たぶん、ヒカルのノートにはそういう事がぎっしり書かれてきたのだろう。どこまでも食い違う両親それぞれの言い分を聴きながら。それもまた、何が本当かはわからないのだけれどね。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




葉加瀬太郎が高嶋ちさ子を擁護して炎上しているとな。曰く、「あんな美しい音楽を奏でる人が悪い人の筈がない」とか何とか。

どうしよう。こういう話題食い付いた方がいいかなぁ。葉加瀬太郎といえばBS「真夜中の王国」でCubic Uを取り上げてくれた時のホスト役で、後にはヒカルのCDも買っていると発言しているのでまぁあれだ、彼を擁護する発言でもしようか。

クラシックの演奏家といえば世間からズレている事で有名である。向こうの世間からみればこちらがズレているだけで、まぁ相対的なものだが、流石に音楽性と演奏家の人格の間の相関についての議論なんて中高生の間に通過しておいて欲しいものだ。

が、そんな暇は彼らには無い。彼らが言うには、朝から晩まで、それこそ盆と正月以外は、いや盆と正月すらも潰して練習練習また練習なのだ。こちらの世間の常識とやらにかまけている時間なんてない。クラシックの演奏家の人格に問題があるのは、ひとえにそんなものを要求されないコミュニティーで育つからであり、更に他のコミュニティーに関心を払う時間なんてない事が原因である。高嶋ちさ子の教育方針やネットリテラシーに問題があろうが、葉加瀬太郎の発言が世間一般の中学生以下にしか見えなかろうが、彼らの人生においては低いプライオリティ(変な表現だなこれ)しかないのだから仕方がない。まともに教育できたって穏当なツイートが出来たって演奏の巧拙にはほぼ一切関係がない。彼らがそれを身をもって証明してくれている。

こうなるのは、クラシックの世界での教育の手法が極めて精密に成熟しているからだ。過去のノウハウの蓄積が膨大な為、やるべき事がありすぎる。練習漬けの毎日でないと競争に勝てない。権威化する一因である。更に言えば、故に彼らにはそもそも音楽的な才能が欠けているのだ。それを猛練習によって補っているに過ぎない。故に人格が歪むという事もある。自分の本来の能力以上に技能と地位を得てしまうと、驕りや侮りが生まれる。周りが馬鹿にみえる。まぁそれも仕方あるまい。

擁護になったかな。うむ。

「音楽家」でひとくくりにすると誤解が沢山生まれる。例えば「美しい音楽を演奏する才能」と「多くの人から共感される歌詞を書く才能」では求められるものがまるで違う。クラシックの演奏家たちは作詞する機会なんてないし、ましてや何十万人から"共感を得る"なんて必要がない。

逆に、Pop Musicianのトップクラスは何らかの意味で人格者でないと務まらない。それはそれは沢山の人たちから協力を得て事を運ばねばならないのだから人間的魅力がないといけないのである。耳のいい審査員がずらりと並ぶコンクールを勝ち上がる所から始まるクラシックの演奏家たちとは違う。いや勿論Popsにもコンクールはあるけど傍流だ。それに、デビューしてからが勝負だしな。

ヒカルのように、人間的魅力と音楽家としての多彩な才能がある人間は稀である。奇跡である。そんな希有を持ち出して音楽的才能と人間性には相関があると論じても一般的な結論は導けない。我々はただただ幸運を感謝する他ないのでした。やれやれ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




キプトラ10周年。いい曲だとは思っていたけれど、アルバム発売後すぐに催されたコンサート・ツアー「UTADA UNITED 2006」でラス前というかなり重要な(いちばん盛り上がる)場面で歌われるまでになるとは思っていなかった。まるでツアーのテーマソングのようだった。

この曲が示したのはアーティストとしての「体質」である。宇多田ヒカルが誰に対して何を歌うか。お兄ちゃんやお嫁さんや車掌さんに対して歌うのだ。それである。

つまり、ヒカルは、自分のコンサートに老若男女誰でもが訪れる事を想定していた。ファミリーでもカップルでもぼっちでも。みんな来ればいいと思っていた。若い人だけとか年寄りだけとか男だけとか女だけとか日本人だけとか音楽をわかってる人だけとかそういうの一切無しで、ドレスコードも資格試験も円盤の多々買いもなしで、チケット代金さえ払えれば誰でも来ればいいと思っていた。事実、来た。

それが宇多田ヒカルの「体質」である。どうしても、ある。カップルで行かないと敷居の高いコンサート。屈強な入れ墨をしたアメリカ軍人学校大挙するコンサート、などなど…"行きづらい"コンサートは幾らでも存在する。キプトラは、そうではない、誰でもウェルカムな、特に、ファミリー的な層にウケがいいような歌だった。段ボールで作り上げたメルヒェンちっくなPVもそのイメージに沿ったものだ。


今度はそれに拍車が掛かるかもしれない。朝ドラを見て気に入った人たちがやってきたとしたら?である。

宇多田ヒカルは不思議な人で、誰もが名前を知っている(そろそろ若い子たちには通用しないかもしれないけれど)のにもかかわらず、歌をまともに聴いて貰えてないケースが余りにも多い。顕著なのが音楽ファンで、「J-popなんて聴かないよ」とハナから相手にしていなかったりする。また、ヒカルのパブリック・イメージが誤解だらけだったりもして、その誤解の向こう側から覗き込んでいる人たちは「ああ、自分たちとは関係なさそうだ」といって歌に耳を傾けていなかったりする。

したがって、今回の朝ドラで「初めてまともに宇多田ヒカルの歌を聴く」という人は存外多いかもしれない。一曲も、というのは極端にしても、AutomaticとFirst Loveで止まっている人はかなり居る筈だ。私だってEXILEはZOOのChu Chu Trainのカバーで止まっているのだから(彼らが幾つ賞を貰ってきたと思ってるんだか)、興味の無い人なんてそんなもんである。

彼らは、キプトラなんて多分知らない。ヒカルがウェルカムで親しみ易い「体質」を持ったアーティストである事を知らない。勿論、第一に曲調と歌詞によるのだけれども、ヒカルが多くの人々から新しく「こんなに親しみ易い歌を歌う人だったのか」と驚かれる可能性がある訳だ。そして、それをキッカケとしてコンサート・ツアーにも行ってみようかなと思ってくれる、本来ならファンになって然るべきだった、ヒカルの名前は知っていたけど歌は知らなかった“新しくて古い人たち”がやってくる、かもしれないのである。そうなった時の為に、「年上でも新しくやってくる人たちは大歓迎」という雰囲気を、我々ファンが自覚的に醸していった方がいい事は、いうまでもないだろう。高齢化社会で、新人さんの年齢なんてのは考える必要ないのでござるよ、ニンニン。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




今日は222で猫の日なのか。ニャンニャンニャン。身も蓋もないが、猫好きのノリがこんな感じなのでよく合っている。いいんじゃないでしょうか。

猫といえばヒカルのPVに黒猫が隠れキャラとして出てくる作品があるのをご存知だろうか。PVなんて映像的仕掛けがわんさかで、何をもってして"隠れ"キャラと呼べるのかは本来難しいところなのだが、この場合は確証がある。黒猫はPVの後半に出てくるのだが、前半にきちんと「黒猫注意」の道路標識看板が出てくるのだ。出現予告するから探してみてくださいよという訳である。これなら隠れキャラと呼んでも差し支えないだろう。

その黒猫が出てくるPVの作品とは、今日2016年2月22日で発売10周年を迎える"Keep Tryin'"である。黒猫も生きていれば立派な中年猫だろう。当時もう中年だったら老年猫か。もう屋根から屋根に飛び移れないな。

当時はYoutubeが出来てすぐの頃で、公式がPVをアップロードするなんて事もなかった。今でもフルは少ないが、しかし、当時と今では状況が違う。果たして隠れキャラなんてのが成立するか否か。10年前ならCS等で流れるのを待って捕獲したりしない限りPVを何度も見返して隠れキャラを探すなんて事は出来なかった訳で、そういった遊び心も「一部の熱心に何度も観るファンの為に」という感じで機能しただろうが、今はどうだろう。

まず公式にPVがアップロードされる。フルとなると桜流しのように3日間だけかもしれないが、それだけあれば十分だろう。誰か一人がその隠れキャラを見つけさえすればよい。何回も巻き戻し(って今は何も巻きはしないがな)て見直しているうちに見つけられる。するとタイムスタンプつきの動画貼り付けツイート或いはgifアニメが出回り、たちどころに隠れキャラは皆の知るところとなるだろう。

10年前なら知る人ぞ知るで一部のファンが盛り上がっていた事も、今では途端に拡散して周知となる。となると、隠れキャラを仕込むにはよほどの工夫と発想が必要になるだろう。いつしか仕込む方と見つける方のいたちごっこに。

昔はよかった、訳でも今の方がいい、という訳でもない。ただ、動画との接し方がこの10年で劇的に変化したから、作り手側もそれを意識してPV等を作る事になるな、と思っただけだ。もし次に何か仕込んでも、何とか見つける事にしよう。次の新曲のPVがどんな風になっているか、今から楽しみであります。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




2月ももう二十日か。Movin' on without youから17年、Can You Keep A Secret?から15年、ヒカルの5から12年、NY Showcase Gigから11年、Keep Tryin'から10年、Flavor Of Lifeから9年、Heart Station/Stay Goldから8年、みたいな月だ。こうしてみると盛り沢山だな。シングル盤は発売されなかったが、Come Back To Me がリズミック系のラジオでかかっていたのが7年前、というのも加えておきたい。3月にアルバムを控えていたケースが4回あるから、こうなる。なかなかに、高揚感とともにある月だ。

しかし、ヒカルの5は一風変わっている。WILD LIFEもまた一個所だけだが、「2DAYS」というのは如何にも普通で違和感がなかった。しかしヒカ5は同じ場所で5日間、しかも少し飛び飛びである。なんか、過去を振り返っても、こんな"変な一週間"は無い。多く見れた人は何回見れただろうか。

ツアーではないので、全国からファンが集まる。それだけでも異様なのに、その高揚感が一週間というのは、もう二度とないのかもしれない。

ヒカルのライブはいつだって特別だが、泣き出して歌えなくなって引っ込む姿は、もう金輪際見られないかもしれない。若いファンはそんな出来事があったなんて知らなかったりするかもね。ヒカルの5の最終日、2004年の2月10日に、“幸せになろう”を歌っていたヒカルがそうなったのだ。懐かしいな。

21歳になったばかりの女の子のする事だから、と言ってしまえはするが、宇多田ヒカルだ。意外は意外だった。何故泣いてしまったのか、真相はわからないままだ。もしかしたら、今ヒカルに振り返ってもらっても、正確なところはわからないかもしれない。

その場に居合わせた幸運な人間の1人として思う事は、…特にないな。何も感じなかったのではなく、当時ライブレポを書いたのでそれでいいと思えるからだ。思う事といえばつまりそれである。「書いておいてよかった」と。12年前の自分の気持ちなんてわからない。ましてや他人のをや。書いておけば、不完全であっても幾らかは再現が出来る。感情は一期一会だが、似た何かなら起こせる。それは結構、悪くない。

だから今日もこうやって書いている。また「ヒカルの5」みたいな変わった時間がやってきた時があったとしても、こうやって、かわらず書き記しておくとしよう。その時が来るまでは、ただ静かに待ち続けるだけである。雨だねぇ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




そういや、この4月で携帯電話を携帯するようになって15年になるんだっけか私。

当初は確かHikki's Websiteの携帯版がローンチされてなくて、なんだか後からまとめてMessage from Hikkiの過去ログを読みに行った覚えがあるんだが、細かい事は忘れてしまった。相変わらず適当だな。

今はもうスマートフォンが人々の手元を支配してしまっているが、基本的には出来る事は変わっていない。ウェブサイト閲覧、音声ダウンロード、ゲーム、スケジュール管理、コミュニケーション云々…新たに加わったのは動画再生くらいか。しかし、何れもクォリティーが劇的に上がって今や画質はフルHD対応というレベルにまで来ている。

テレビの方はというと4Kやら8Kやらといったところを開拓しているようだが、それは後塵を拝した者が逃げ惑っているようにしか見えなかったり。

実際、普通のテレビドラマやバラエティーを観ていても「女優さん大変だな」くらいの感想しか出て来ない。ハイレゾを聴きながら「高音質はいいぞ~」と言っていた私も、高画質は単に粗が目立つだけの存在のよう思っている。他にやることあるだろ、と。

そんな事を思っているのに、ヒカルが4K画質に手を出したらこっちも乗っかってしまいそうで怖い。現実問題としては、4K放送が録画を禁止するかもしれないとか言ってるので多分関係ないまま時が過ぎ行く気がしている。コピーガードも回避したんだし。更に今のところその高画質を支えるだけの記録メディアも存在していないからな。

と、昔の事と先の事を考えつつ、「携帯電話はメッセが読めればいいや」といういつもの結論に至る。あほらしい(笑)。一昨日でメッセ開設17年。携帯版は15年かな。2001年の年初からじゃなかったっけ。ここから倍経った頃もまだ「携帯機器はメッセが読めればいいや」と言ってるかと思うと、ちょっと擽ったいわ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ヒカルの成長、って言葉がそろそろ似合わないかな、もう33歳だもんな…って余計なお世話だ、によって引き起こされたネガティブな要素として「歌詞の載せ方が上手くなり過ぎた事」がある。

コレは何度か議論してきた。初期はなかなか日本語に慣れず、かなり強引な手法で音符に言葉を載せていたのだが、これが新世代の斬新な手法として持て囃された。『な・なかいめのべ・るでじゅわ』とかな。勿論それは、既にその時点でメロディーの流れとグルーヴを維持しながら如何に意味の通る文章を作るかというチャレンジの成果のひとつであって、他の追随を許さない高いレベルにあったから持て囃すのは当然というか義務ですらあったのだが、ネガティブな要素というのは、ヒカルがそこから更に成長してしまった事だ。

歌詞はより自然な言葉の流れに近くなり、奇を衒った言葉遣いは見られなくなっていった。これは、メロディーの流れとリズムの制約と日本語の自然な文章の構築という互いに非常に遠い所にあるもの同士を結び付けるという至難の離れ業なのだが、お陰で出てくる歌は話し言葉をそのまま歌詞にしたように思えてしまって、リスナーに何の驚きも与えなくなった。それは少し言い過ぎにしてもヒカルの作詞術が話題になる機会が減っていったのは事実であろう。

その頂点は、現時点では桜流しである。異常。何故総てがあそこまで美しいのか。Paul Carter@thisisbenbrickは何をしたんだ、と問い掛けたくなる。数々の音韻とメッセージ性と音楽の美が凝縮されている。しかし、それについて必要なだけ語った人間が私以外に何人居たのか。いや、私は必要なだけも語れていない。即ちこの世に0人かもしれない。ここまで報われない才能も珍しい。臍を曲げて復帰をやっぱりやんぺしたとしても仕方がないほどにな。

ヒカルはそんなこと言わない。

ただ、現実問題として、ヒカルの作詞能力がまた話題になる可能性は低い。何より、あんなメロディーを書ける人が居ないから、そういう作詞能力が必要になる局面を迎えられる機会が皆無なのである。嗚呼、どこまでも孤高の人、ヒカル。

ライバルが欲しい。切実に。

ネガティブと言っても、歌を気に入ってくれさえすればそれでよい。理屈をこねる必要も無い。寧ろ、料理の隠し味についてシェフを厨房から呼び出して質問攻めして問い詰めるよりは、ただ「美味しい」と言ってくれる方がずっとよい。そう考えられるなら、さほどのネガティブでもない。

極められた巧みと築きは、自然と見分けがつかない。"極度に洗練された科学技術は魔法と区別がつかない"の反対かもしれない。それならそれでいい。ただ、理屈は捏ねるな。それは間違っている。この途方もない熟練をそうそう簡単にわかってくれるなよ、と厄介古参の典型みたいなセリフも吐いてみたくなるってもんだ。やれやれだぜ。

果ては恐らく、ジョン・レノンとボブ・ディランだろうから(すまん、女子では思いつかなかった)、のちのちそうなるならそうなったでよろしいと思われます。その頃には、また更にもう一周まわってヒカルの作詞力を賞賛する声も復活しているかもしれない。ふむ、悪くない。我々に出来る事といえば、「今度の歌、歌詞がよかった。次も期待している。」と言い続ける事くらい。でもまぁ、それで十分ではありませんか、同志諸君。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ