無意識日記
宇多田光 word:i_
 



さて、このタイトルの意味を説明してなかったな。"ripped"とは「切り刻まれた」なんていう意味になる。切り裂きジャックはJack The Ripperだ。最近では、CDやDVD等からファイルを取り出す事を"リッピング"と言うが、これも"ripping"である。

文脈としては、アルバム単位から楽曲単位、楽曲単位からパーツ(着うた)単位へと音楽の消費単位が段々と切り刻まれている様子と、今やCDってリッピングする時位しか引っ張り出さないよね、という事をかけて"ripped"と表現した訳である。

一方、"wrapped"はラッピングやらサランラップとかいうときの方のラップ(wrap)で、叩くとか叩き付けるように言葉を吐く方のラップ(rap)ではない。「包む」とか「覆う」とかいう意味で、文脈としては切り刻まれた音楽たちをもう一度覆い直してひとつの塊にするイメージで用いた。当然の事ながらrippedとwrappedで韻を踏んでいる。

となれば、第3回目になる今回は3つめの"trapped"について話さねばならない。

前回の結論は、rippedなプロセスも結局はwrappingの為の助けになるのだから、こうやって音楽の楽しみ方、接し方、手に入れ方が広がるのはよい傾向だ、といった事だった。実際のデータが手元にないので取り組んでみた事はないが、例えば「Flavor Of Lifeの着うたでいちばんよく売れたのはどこのパートか?」みたいな事を分析できるようになった訳だからより子細にファンの消費性向を把握できるような時代になったのである。

そうなってくると、Wrapする側はそのデータを元に考察を繰り広げ始める。そのパートがたくさん買われたのは、メロディーが耳を引いたからか歌詞がよかったからか、もしくはドラマのいちばん盛り上がるシーンで使われたからか、或いは逆に本編で使われなかったから他の部分も聴いてみたいという事でダウンロードされたのか―そういった分析を、今度は色々な楽曲で進める事で宇多田ヒカルというアーティストが市場でどういう風に魅力的だと思われているかの全体像が浮かび上がってくるのだ。

市場、と書くと商売じみた話かと思われそうだが、要するにひとりひとりのリスナーの集合体に過ぎない。音楽を購入する理由には種々があるだろうが結局の所は"自分で聴く為"に買っている人が大半だろう。どうやってヒカルは彼らを"その気にさせたのか"を把握していけば、ヒカルの音楽の魅力を見失わなくなってゆく。ここが肝心である。

おっと、時間か。ここから続きはまた次回のお楽しみ。

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このblogは結果としてひとりのアーティストをずーっと追い掛ける格好になっている。結果として、というのは当初はここまで話を絞るつもりもなく様々な事を書いていくつもりだった。何より、始めた当初は書く内容は1ヶ月分位だろうと見立ていたのだ。それ以降書く事があるかどうかはわからなかったし、色々な事について語る方が現実的に思えた。

ところが書き始めてみると、書いていないテーマが次から次へと見つかっていった。そうなってくると、やっぱり1人の人について語り倒すblogにするのが適当かなと思うようになり、その他の話題については余所に書くようになった。

つまり、極端な言い方をしてしまうと、こうしたくてこうなった訳ではない、という事だ。いつの間にかこうなってしまっていた。或いは、自分は実はこうしたかったのだと発見したともいえるかもしれない。

1人のアーティストの活動を包括的に追う、というのは"今時流行らない"のかな。気にした事がないのでよくわからないが、これだこ切り売りとつまみぐいが隆盛になってくると、まとめ売りとフルコースは存在すら忘れられているのかもしれない。

各個のニーズに応えようとすると、どの分野でもジャンルの細分化、コンテンツの細分化が始まる。音楽については、CDと携帯機器が技術的にその風潮を後押しした訳だし、お陰でその都度新しい層を開拓してきた。それ以上に離れていく層も増えていったが。

パーツにまで細分化されていった世界では、購入行動はそのまま嗜好の反映である。裏を返せば、我々は常に選択を迫られている事になる。これよりこっちの方が好きですか、それともこちらですか、と間断無く問われ続ける。確かに、精度は上がる。悪い事だとは思わない。

しかし、私にはあんまり楽しい事のようにも思えない。面白さ、楽しさの根源とは、異質だと思っていたもの同士が繋がり合う事である。いわば統合のプロセスだ。このBlogの成り立ちそのものである。あの話を始めるとこの話も出てくる、するとあの曲についても触れねばなるまい、となればこういうテーマも浮かび上がってくるなぁ―分析的にヒカルを切り刻んでいるようにみえてる向きも在られるかもしれないが、それは文章の細部の話であって、blog全体としては宇多田ヒカルというアーティストの全体像を組み上げていく過程になっている。何故そうなっているかといえば、こっちの方が面白いからだ。

だから、切り売りと細分化はチャンスでもある。パーツ毎にラベルが貼られ、それに対する反応も細分化され提示される。曖昧さが消える事により、市場の反応という意味では随分精微になったなぁと有り難く思う。細かく分けられれば分けられるほど、統合プロセスに与る素材は増えていく。有り難い事だ。

つまり、私の視点からみれば、細分化は歓迎なのである。細部がみえればみえるほど、全体像がより精確に把握できる。分析と統合のし甲斐があるというものだ。細分化は統合の為のプロセスだなんて何だか意外な結論に思えるかもしれないが、それこそが異質だと思っていたものが繋がり合うプロセスな訳である。やっぱり、面白い。

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本田君(@Superhikki)からツイッターで「(UtaDAは)本当に成功したって思ってるんですか?」と質問(詰問かな)があったので答えてみようかなと。140字じゃ足りなそうだから。

先に答だけ書いておくと。「私個人は、成功とか失敗とか考えた事もない」という返答になる。自分以外の人間がUtaDAの活動を成功だの失敗だのといった語を用いて評価している現実は知識として知っているし、それについてもかなりコメントしてきたが、それらは私の思考ではない。

単純に、成功と失敗という語は、明確な判断基準があるか、或いはより明確な判断基準を設えようという方向での努力が永続的に報われるようなケース、即ち判断基準の厳密性が漸近的に上がるような場合にのみ用いるものだと私は考えているからだ。棒高飛びで棒を落とさずに上を越えたら成功、棒を落としたら失敗、という風に。

しかし、音楽活動に関してそんな明確な基準は存在しないし、また存在し得ない。更に私についていえば欲しいとも思わない。作品に実際に触れて自分が何を感じそれを契機として何を為したかといった事には興味があるし、話も出来る。しかし、それについて成功云々を訊かれても、一体何の話をしているのかそもそもわからない。

つまりは、話がくどくなってるけど、私には元々そういう発想がなかったのである。好きな歌を見つけて、聴いたりくちずさんだり、歌詞を書き写したりといった音楽の楽しみように、成功も失敗もない。無理にそういう基準を当てはめるなら、誰かに気に入ってもらえたのならそれは成功だろうが、なんか別にそういう言い方する必要もない気がする。

勿論、「オリコンTop3以内に入らなければ解散」みたいな明確な基準が事前にあったのなら成功と失敗の判断は出来る。しかしUtaDAに関しては、光は事前に確たる目標や目処は語らなかったし、そもそもそんな設定は音楽を創造する上で必要不可欠でもない。役に立つ事はあるけれど。私も特に何の基準も設けなかった。どうなるかには興味があったし、こうなるのではないかと予想を楽しんだりはしたが、「こうなって欲しい」という点に関しては、いつもの通り「一人でも多くの人の耳に届き、一人でも多くの人の心に届いてくれたら」という事以外には殆どなかった。本当にそれだけなのだ。

またも無理やりに成功失敗という語を使えば、人の数だけ成功と失敗がある、という事になる。結局はひとりひとりが光の歌を気に入ってくれるかどうか、それだけなのだ。

そういう基準で成功失敗を語るならば、First Loveアルバムは史上最大の大失敗アルバムである。あのアルバムからの曲を歌った番組は視聴率30%がどうのという事だった。単純に言って3000万人以上の人の耳に届いたのだ。しかしアルバムは750万枚しか売れなかった。75%もの人間がNOを突き付けたのである。ここまで拒否されたアルバムは史上他にないであろう…と、こういう変な話になる。幾ら何でもおかしい。つまり、私のような価値観で音楽と音楽家を語るにあたって、棒高飛びで使う用語である成功とか失敗とかいう語を持ち出す事自体が間違っている。勿論屁理屈だが、世の中の理屈の総ては屁みたいなものだ。誰もが一瞬顔をしかめて「イヤなものをみた」と言ってその場を去っていくのだから。

あら、言いたい事の半分もまだ書いてないや。まぁいいか、ここらへんで切り上げておく事にします。

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もう何度も言っている事だが、今の御時世「アルバム」という単位で音楽をリリースするのが適切かどうか、問うた方がいいような気がしている。

00年代中盤以降の着うたの隆盛は、つまり楽曲を1曲未満の単位で切り売りした事によって生じたものだった。着信音という枠組みで売れば、極一部分でも商売になる、というか寧ろそっちの方が売れたのである。数え方は兎も角として、Flavor Of Lifeの売上ユニット数はヒカルの全カタログ中でもぶっちぎりである。オートマやキャンシーでもまるでかなわない。ある意味、それは"シングル"以下の"パーツ"だったのに、そちらの方がニーズがあったのである。これは、携帯機器の普及が何より大きかった。手元にあるものが何か鳴るだけなら数十秒あれば必要にして十分だったのだ。

で、アルバムの話だ。アルバム1枚60分12曲とかだとして、みなさんはいつどこでこの全体を通して耳を傾けるだろうか。アナログ・レコード時代はステレオの前で、だった。椅子に座って茶や酒でも飲みながら、ジャケットを開いて歌詞を読みつつ、なんて感じだったのではないか。或いは部屋で家事の片手間に、といった事もあったかもしれない。部屋の中でやや構えて、という風だったろう。

これが、カセットからCDへと変化していくと様子が変わってくる。ラジカセやウォークマンなんかが登場して気軽さやポータビリティーが増えた。それとともに、聴かれ方もカジュアルになっていった。特にCDになると、気に入った楽曲だけをピックアップして聴く、という行為が普通になった。着うたが楽曲を切り売りを可能にしたのに対し、CDはアルバムの切り売りに拍車をかけたのだ。便利になればなるほど、身近になればなるほど作品は切り刻まれて気に入られるパーツの単位に分解されていった。

そして今はもう音楽は携帯プレイヤーに全て放り込まれ、シャッフルされるかプレイリストに組み込まれるか、だ。「トータルアルバム」なんて、概念の存在すら知られていないかもしれない。こうなってくると「なんでアルバムなんか出す必要があるのだろう?」という気になってくる。

ヒカルのバックカタログも、売れるのはシングルコレクションであってオリジナルアルバムではない。お求め易さの違いもあるだろうが、そもそも曲単位で判断されるアーティストなのだから曲の集合体として作品を見られるのは当然の事だ。

切り売りが進んできた一方で、全く反対側の考え方をする層も居る。総てをよりトータルに考える―即ちパーツより曲、曲よりアルバム、そしてアルバムよりそのアーティストの活動全般の流れ―そういった観点である。当Blogは早い話がそっちの流派である。

なんだか前フリばかり長くなってしまった。次回へと続く。

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自戒  


電池の配分を間違えた。果たしてこのエントリーは無事UPする事が出来るだろうか。出来ただろうか。

さてさて年度末。この季節になると古いファンは2ndアルバム「Distance」と浜崎あゆみのベストアルバムが同日発売で"激突"した事を思い出すのではないか。当事者の空気は当時のStaff Diaryに記されているが、あれから11年である。来年触れる時には「干支が一回りする位昔」と言うんだろうな私。兎に角もうそれ位昔。

結局僅差でヒカルに軍配が上がるのだが、この時の初週300万枚は未だに世界記録である筈だ。日本史上の特殊性を最も象徴した"事件"だったといえるだろう。何しろ2人併せて600万枚がたった7日間のうちに売れたのである。巨神兵も真っ青だ。

ヒカルのデビューした翌年の1999年も常軌を逸していたが、夏場をツアーした2000年からこの2ndアルバムに掛けての約2年半は本当に狂っていた。出すCDが面白いように飛ぶように売れ、どのLIVEコンサートも異常な倍率を記録し、何かあればすぐ宇多田ヒカルだった。

その"狂騒曲"の最終章が、この「Distance」アルバムだった。特に先行シングルのCan You Keep A Secret?は全回視聴率30%超えという化け物ドラマ「HERO」の主題歌に起用され、この最強タッグの効果を遺憾なく発揮してヒカル唯一の年間1位のシングル曲となった。

ある意味、ここがピークだったのである。ここから後の展開は第2章という雰囲気が強かった。シングルカットかと思われた次のシングル曲はFINAL DISTANCEという特殊にして特別な曲で、テレビでも(MTV-Unpluggedまでは)一度も歌われず、オリコンでも1位の座を他の歌手に明け渡したのである。ここら辺の時期に至る頃には、"宇多田ヒカル"という名の神通力はほぼ消え失せていたのだ。

だからこそここからの、traveling、光、SAKURAドロップス、Lettersと続くシングル曲の数々が売れたのは、偏に楽曲の素晴らしさ故だったという印象が、今となっては強い。3枚のシングルを年間TOP10に送り込んだこの当時は、ネームバリューの大きさがものを言っていたようにも感じていたのだが、人々の興味はもう他に移っていた気がする。どうだろうか。

ファン層という点では、特におっかけ気味の熱いファンは結婚を契機にごそっと離れていったような感じだ。入れ替わった、と言ってもいいかな。CDの売上に関しては特に影響はなく、次のCOLORSは年間3位の売上を記録した。国民的名曲と言っていいだろう。

しかし、その後は暫く沈黙が続いた。ヒカルの5は倍率20倍とはいえ開催形式からも熱心なファン向けのイベントといった趣で国民的関心事という感じにならなかったし、シングルコレクションを出して全米デビューをする頃にはいわばもうヒカルは既に"過去の人"だった。極端な話、かなりの人にとって宇多田ヒカルの楽曲というのはCOLORSの次はFlavor Of Lifeなのだ。いやまぢで。UTUBEの再生回数上位10曲を見てみるといい。

寧ろ、その間に違う層を耕したともいえる。キングダムハーツの続編、FREEDOM、ヱヴァンゲリオン、、、ファン層も随分"そっち側"が厚くなった。テトリスの凄腕ぶりも効いただろう。DSのCMの影響力は未だによくわからないが…Easy Breezyのオンエア数は結構な数字だったが。

で。なんでこんなここの読者なら誰でも知ってるような昔話を延々と綴ったかというと。宇多田ヒカルって人間活動宣言をしていようがしていまいが、実はとっくに"オワコン"になっているという事実をファンとして自覚してみたくなったから。いやシングルコレクション第2弾ですら44万枚以上売れてんのにオワコンはねぇだろと思われそうだが、これは比較論の話なのだ。それ位に、最初の2年半の注目度が桁外れに並外れて凄まじかったという事だ。誰しもがいう「あの頃と比べちゃいかん」という台詞は、過去を美化してるのでも誇張しているのでもなく、本当の実感なのだ。浜崎あゆみとの同日発売は、もうそれ以上の話題性を提供するには結婚するしかないという位に最後にして最大の"お祭り"だったのである。

考えるべきなのは、結局この2ndアルバムも、この派手な"演出"(といっても先に触れた通りEMI側には対決なんてアタマになかった為演出といっても"周りが騒いで作り上げた"ものなのだが)をもってしても400万枚台にとどまった点である。既にこの時点で300万人位が1999年の狂騒から抜け出しているのである。その理由の分析は逆に難しいが、宇多田ヒカルという名は当時から"この時代のお祭り騒ぎの名前"として相当数の人間に認識されていたという事だ。我々からしたら遠い星の御伽噺みたいな話だが、つまりだんご3兄弟と同じ扱いをされてしまったというか。ほんまなんでやねん。

一億人居る国、というのはそういう所なのである。次の復帰時は、余程周りがお膳立てしないと皆ヒカルの事を忘れている、というか"過去の偉人"扱いされているおそれがある。まぁそれは覚悟しておきなさいよという事だ。

まぁ私自身は世間の流行なぞどこ吹く風でここ更新し続けるんですけどね。だからこそちゃんと自戒しておきたかったのです。意味があったのかどうかは、ようわかりまへんねんけど。

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少し麗らかな春になってきたかな。何故かこの季節に合う光の曲は少ない。今まで3月に4枚のアルバムを出してるんだけどねぇ。Sakuraドロップスは初夏の歌だし。

まぁ3月にアルバムを出すという事は3月はあんまり創作活動していないって事なので、そのズレはあるかもしれないが、別にプレイボールは8月に書いた訳じゃなかろうし、それもこじつけな気がする。

性格的に"ほわんとした"曲作りが出来ないのかもしれない。ほわんとした曲調が書けない、のではなくどうしても曲作りの姿勢が求道者的になってしまって、ゆるくなれないのではないかと。

4thのULTRA BLUEは、今までのところ最も多く柔らかい音色で構成されたアルバム
であるが、聴後の印象は最も重厚で濃密だ。まるで、刺々しさを柔いだ音色で包み込んだような、そんな作品である。

のどか、とか牧歌的、といった表現はカントリーやフォークなどのジャンルではよくみられるが、種々の音楽に通じるフレイバーをもつ光の音楽にはカントリーの要素は殆どみられない。チャートをみるとカントリーは一大勢力なのだが、都会育ちの光は田舎っぽい(Countryと言う位だから)音楽とは無縁だったのだろうか。

安曇野に行った時も、どうやらそこで感じたのはのどかな田園風景ではなく、厳しい自然に対して勇ましく挑む働く人々の姿だった。まぁそれが大体の現実かもしれないが、最初っからそっちの側面に目が行ってしまうという事なのかもしれない。もし療養に行っていたのなら、田舎ののんびりとした側面の方と触れ合ってきててもおかしくなかったんだけどねぇ。

春の陽射しは眠くなる。春眠暁を覚えず。そういった"忙(せわ)しくない"世界観の元に書かれた光の曲も聴いてみたい気がするが、そういう曲のアイデアはたとえ出てきたとしても完成させてリリースする所まではいかないかもしれないねぇ。もしかしたら、たった今そういう曲が出来ているかもしれないのに。日本に居れば、ですが。

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イントロからアナログ・レコードのスクラッチ・ノイズがフィーチャされている事からもわかる通り、この曲の基調は"レトロ"である。初登場時からモダンさは全く期待されていない。裏を返せば、最初っから"クラシックス"として誕生した楽曲だといえる。

NHK「みんなのうた」で、ぼくはくまに次いで流れるとするなら虹色バスがいい、と多くの人が思っているのではないか。こどもにも親しみやすいシンプルなリズムとそれに素直に乗ったメリハリのあるメロディー。音楽的にもその資格は十分だが、何より曲調と歌詞の組み合わせが、人に"映像"を思い浮かべさせ易いところがみんなのうた向けだ。

みんなのうたといえば、歌が勿論主役だが、それと同時に曲に合わせて作られたアニメーションが印象に残るという側面が強い。虹色バスには、ファンシーなアニメに向いた描写が次々と出てくる。翌日の遠足に興奮して眠れない描写でもいいし、満員電車で通勤通学でもいい。いずれも、他のヒカルの曲では合わなそうなコミカルなタッチのアニメーションを宛てやすい所が違う。みんなのうたの枠に入るには、ファンタジックだったりメルヘンだったりする方がいい。ホラーでも昔話でもいいが、一言でいえば伝統的に"絵本の世界"を匂わせる世界観が麗しい。(それだけにとどまらないのがあの枠の面白さだけどまぁそれはさておき)

その点、"虹色"というキーワードはバッチリ嵌るとしか言いようがない。カラフルかつドリーミィという要素を"虹"の一字で表現している。この曲は生まれついてのクラシックスなのだから、発表時期なぞ関係なく、関係者はいつでもやる気を出してぼくはくまに次ぐ第2弾として採用して欲しい。

そうなった時にアニメーターにとって腕の見せ所は楽曲後半の展開だろう。前半はオーセンティックな路線でいけばいいが、『をおぉ、ああぁ』のコーラスがエフェクトを掛けながらブーメランしてくるブレイク部分以降をどう映像化するかがポイントだ。何しろ『誰もいない世界へ私を連れて行って』と『Everybody feels the same』 である。アニメーションは、どうやって"誰も居ない世界"を描写するのか。とる手法によってはこどもたちにトラウマを植え付ける事確実な一節となり得る。例えば宮沢賢治の銀河鉄道の夜のような描写か? 或いは旧劇EVAのような? いずれにせよここの面白さが期待できるからこそ虹色バスをみんなのうたに推したい訳である。どうですか関係者の皆さん。いつでもいいですよ。

尤も、あの5分の枠ではたとえ1曲で独占できたとしても5分50秒の虹色バスはエンディングまでフルコーラスでかけらんないんだけどね。ぼくはくまがちょうど2分半なのは、それだと5分で2曲かけられるからなんだなぁ。

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二次創作と共にネットに溢れているのが過去のメディア出演である。その殆どが広告モデルの下に制作されている為そもそも二次利用に関するシステムが存在していない。結果、権利侵害の名目でUPされては削除を繰り返しているのだが、これもまた不毛という感が拭えない。

現実を無視すれば、過去のメディア出演を纏めたボックスセットがリリースされるなら買ってしまうだろう。各シングル曲発売時の歌出演は勿論の事、そこでしか聴けないカバー・バージョン、例えばMoon Riverだったり青いイナズマだったりミニー・リパートンのLovin' Youだったり、お宝映像・音源が目白押し。いや豪華だね。

しかし現実には難しい。制作に関わったクリエイターの数は膨大で、彼らとの二次利用の契約を交わすのは容易ではない。おおざっぱにでも音楽著作権のような利用方法が確立されればいいんだが。

メディア露出の中でも、雑誌関連についてはひとつ成果が出ている。「点」である。ああいう感じでテレビ出演やラジオ出演の素材を纏められたらなぁという話だ。

こればっかりは、幾ら影響力のあるアーティストといえども難しい。流石に昔のようにVTRテープの値段が高額だから使い回して残っていない、なんて事はないだろうが、メディアの保存方法によっては早急に対処した方がいいケースもあるかもしれない。

法律なり何なりが整うまでは、無断使用されては削除、の繰り返しだろうか。違法ダウンロードについての法整備が進んでいるとかいないとかの話題が出ているようだが、そもそも何が何故違法なのかという議論をしないと当初の目的を見失いかねない。テレビ局もレコード会社も収益をあげるのが目的ならば、権利を主張するより何か上手い方法はないか考えた方がいいかもしれない。

もう10年ほど前になるか、若い人は知らないかもしれないが、コピー・コントロールド・コンパクト・ディスク略してCCCDなるものが登場した事があった。読んで字の如くの機能を目論んだものだったが、その手法の荒っぽさ(CDを名乗ってはいるが本来のCDの規格に準拠しておらず、お馴染みのCompact Discのマークがない)からリスナーの反感を買い、結果は散々なものだった。

当時照實さんはCCCDについて、「再生時の音質劣化」を理由に導入を見送った経緯があった。今ならDRMをどうするかという話だが、例えばiTunes Storeの場合総てDRMフリーだ。ここらへん、ファンとしては恵まれているといえる。よい音楽をファンに届ける、という本質を見失わない姿勢は実に有り難い。

出来れば、今後はメディア出演に関しても「点」のようにまとめてリリースできるようなうまいやり方はないのだろうか。オフィシャル・インタビューのように一元的に管理出来る方法が見いだせればいいのだが。妙案は思い浮かばないが、ヒカルの歌をもっと聴きたいというニーズを拾い切れないのは何とも惜しい。何とかなりませんかねぇ。

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著作権の問題は難しい。未だに、法律の方がインターネットの存在を鑑みてない場合が多いのは如何ともし難いが、杓子定規の的外れさからどう脱却するかの意識の問題は、我々の方にも在る。

今のご時世、二次創作に待ったを掛けるのは非常に多くの場合誰の利益にもならない。ヒカルの素材を使ったMADやら歌ってみたやらネットには山のように転がっているが、それを規制しても宇多田ヒカルの事を思い出す人が減るだけで、売上も落ちるだろう。三方一両損どころの話ではなくなる。ニコニコ動画なんかは着うたへの誘導までしてくれている。いい宣伝の機会だと捉えるのが吉だろう。

光も、かなりのケースで二次創作を楽しんでいるようだ。人力ボーカロイドについては率先してコメントまでした。些かの不快感を表明する事も忘れずに。

私は当欄でオリジナリティオリジナルリティと連呼しているような気がするが、寧ろ日本人はモノマネや模倣に対する劣等感が無駄に邪魔な感じがする事が多い。要するに真面目なのだ。

オリジナルリティとは、何かを模倣している時に生まれる。真似している筈なのに、ソックリになる筈なのに何故か違うものが出来てしまう。それが個性でありオリジナルリティだ。しかし日本人は、そこでそれを単なるミスや失敗と見なし、失態と捉えて闇に葬り去る。そして見事に"正しく"模倣されたものだけが残る。斯くして、人の築き上げた技術を高度に洗練する術には長けた文化が出来上がる。総じて日本のミュージシャンというのは技術的には秀でているのだ。そしてオリジナルのディテールをオリジナルの人達以上に把握する。これはこれで才能である。

宇多田ヒカルの個性は、両方が合わさって出来ている。彼女の元々の歌唱、歌い方というのは米国のR&Bシーン(なんて書いてるけど私は詳しくない)に於いてはそう個性的という程でもない。どちらかというと90年代中期のオーソドックスなスタイルだ。なので、98年にヒカルがデビューした時に識者はそれらと照らし合わせて"本場で通用する日本人シンガーが現れた"と絶賛したのだ。要は"今まででいちばん(米国の)真似が上手い"という、如何にも日本人的な価値観に見事に応えたのである。

一方で、彼女のオリジナルリティは、そういった直輸入型の歌唱を以て日本語の歌を唄った事だ。勿論、今までにないスタイルだから、米国の歌唱スタイルでメロディーに載せる日本語は自動的に独創性を孕んでしまう。直接に参考になるスタイルはなかった筈だ。サザンやミスチルが日本語の新奇な乗せ方をそれぞれの世代に於いて標榜していたが、ヒカルはそういった流れとは無縁に、小学校の頃NYで聴いていた音楽のGrooveを日本で日本語でレコーディングしたに過ぎない。

もし、この日本語歌詞の乗せ方に、あの歌唱力が伴っていなかったらどうなっていたことか。恐らく、それはただの"間違い"として葬り去られていたのではないか。いわば、個性は強くないが技術は高い歌唱力が、新しく生まれた日本語Popsの可能性を摘み取る事なく保護し守り育ててくれたといえるのではないか。こういうプロセスでも経ないと、日本から何らかのオリジナルリティが登場して広まるなんて事は起こらない気がする。

二次創作の可能性も、何かこう、既存の(古い、或いは確立した)価値観と組み合わせて提示する事が出来れば、状況が打破できるかもしれない。ヒカルの成し遂げたようなハイレベルな組み合わせは無理でも、発想の取っ掛かりとしてヒカルの成功は幾ばくかの参考にはできるかもしれないよ。

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光がいつ戻ってくるかは、たぶん光にもわからない。というか決めていないんだと思う。期間が決まっているのなら最初に隠さず発表してしまうだろう。それを言わないのだから、不穏な言い方になるが、今の光に戻ってくる気はない。

それでも"引退"宣言にならないのは、「いつになるかはわからないが、きっと帰ってくるだろう」という"感覚"が光の中にあるからだ。期限が決まっていない事を隠さないのだから、その"感覚"が内にある事も隠す必要はない。

それは、ある程度まではファンの心理と同じだ。いつになるかはわからなくてもきっと帰ってきてくれるだろうという光に対する"信頼"がファンの側にはある。光の感じる確かな感覚、即ち確信と、我々の抱く信頼は表裏一体である。となれば抱いている不安も、恐らく相似形を描くのではないか。

不安より焦燥の方が大きいかな。ここらへんはよくわからない。29歳の御姿と歌声が記録されない事を"勿体無い"と感じる向きもあれば、世代交代の中で、忘れ去られまではいかなくとも風化したり過大評価されたり過小評価されたり誤解されたり曲解されたりといった事に不安を感じる向きもあるだろう。それは、光も同様だと思われる。彼女自身も、帰ってきた時に覚えていて貰えるだろうかという不安と、きっと待っていてくれるという感覚と、両方があるだろう。

そして一部のファンに対しては、「あぁ、こいつらには何言っても無駄だ。ずっと待ってるんだろうなぁ」と半ば呆れ気味に感じているのではないか。そういう意味では呆れられていたいような。何ものも盤石ではないとはいえ、この「何言っても無駄」感は、光が今までにしてきた事の尋常ではなさを裏付ける。暗示だろうが思い込みだろうが勘違いだろうが、そこまで思い詰めさせるには某かのパワーが要る。そういう意味ではこの"呆れ"は寧ろ過去の自分の成果への"恐れ"に転化するかもしれない。

間隔があけばあくほど、その過去の自身の業績が重くのし掛かってくる。解決策は最初っからシンプルに決まっていて、「気にしない」一択なのだが、ただ復帰を決意する瞬間を鈍らせたりはやまらせたりする効果はあるかもしれない。怯んだり、焦って取り戻そうとしたり、そこは実際にそうなってみないとわからない。

待っていてくれるという確信と、それと裏腹な重圧。いずれも、減じていくにせよ変わらないにせよ高じていくにせよずっと背中合わせのまんまだろう。そう開き直れてしまえば、復帰なんて"自分の好きな時"に決めてしまえる。それがまぁ理想かな。なので我々も、寂しいのはわかるが自然体に忘れたり忘れなかったりしていればいいと思う。時が満ちればそれは自然に、Automaticにわかることだから。

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「日本語で歌う事」を何度もテーマとして取り上げている。インターネットのお陰で文化がグローバル化し、ありとあらゆる情報型エンターテインメントが日本語に翻訳され、日本語から翻訳されて出て行く。その中で最も"保守的"なのが歌な訳だ。日本でしか通用しない、とまで言うのは言い過ぎだとしても、日本語の知識がないとやはりごらく性は半減するだろう。

歌と同じくらい"保守的"なのは、俳句や短歌、駄洒落の類だろうが、歌はそれらを総て包含しているともいえる。

"言葉遊び"の妙味は、他国語圏の人たちには伝わり難い。日本語で"見ザル・言わザル・聞かザル"と言って目を隠したサルと口を閉ざしたサルと耳を塞いだサルを見せれば一発で意図が伝わるが、そのまま翻訳して"Never see, say, and hear"と言って件の3匹のサルを見せても何のことかわからない。一方、英語で「One sheep, two sheep, three sheep...」と数えてくれれば「One sleep, two sleep, three sleep...」と聞こえるようにsheepとsleepを掛けているんだと何となくわかるが、日本語で「羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹、、、」と言われても何のおまじないなのかさっぱりわからない。駄洒落は翻訳にとって難関なのである。

ところで、羊といえばユダヤ人のエジプト脱出、そう、EXODUSを記念して行われる祭では羊を生け贄として捧げるらしい。十番目の災厄を避ける為なんだとか。

更に、前述の「見ザル言わザル聞かザル」のルーツは古代エジプトにまで遡れるんだとか。駄洒落だからといって日本発祥という訳でもないらしく、Wikipediaによれば三匹の猿(三猿)を用いた戒めの言葉は世界各地にあるのだと。日本語の駄洒落から来たものだとすっかり思い込んでいたのだが、なんともまぁ希有なことがあるものである。

逆から考えてみよう。もしかしたら、日本語の駄洒落や音韻から出発した言い回しや節回しが、三猿のように何らかの普遍性と交錯したり、或いは初めて辿り着く為の契機としてはたらいているとしたら…ワクワクするような、ゾッとするようなだが、日本語で歌を作って歌うという行為も、何か極めていけば"保守的"な何かからより普遍的な高みへと上っていけるのかもしれない。そんな風に考えられれば、ヒカルも幾ら世界中で売れようが日本語で歌を作って歌うことをやめるようなことにはならないだろう。それにしてもエジプトって一体…。

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先日の照實さんがツイートで「今何やってるの?」という質問に対し答えていた。質問者ぐっちょぶ。で、内容はというと著作権の更新に経理にとそこまでは想定の範囲内だったが、更に「レコード会社との打ち合わせ」というのがあった。いや何だこれ。

ただのミーティングなら有り得なくはない。特にU3の場合平時の著作権利用料管理は大きいので(カラオケに着うたにと色々あるからね)、例えばバックカタログの動きを把握したりといった用件もあるだろう。しかし、打ち合わせという単語は普通未来の予定を話し合う時に使う単語だ。それとも、業界用語ではミーティングの事を打ち合わせというのかな。梶さんはいつも会議退屈してそうだけれど。

何か予定があるとするならば、バックカタログの新装版の発売位しか思いつかない。しかし、そんなにニーズがあるかなぁ。リマスタリングはシングルコレクションでやっているし、ジャケットを替える訳にもいかないし。当時の写真やインタビューをフィーチャした特別ブックレットを付録に!…ってそれ「点」及び「線」にまとめて収録されているからあんまり意味がない、か。

あぁ、それなら「点」「線」を文庫化するという計画もありか。写真がかなりを占めるレイアウトの辞書みたいな本を文庫版に再編纂する…かなりの難儀だなこりゃ。

あとは皆さん待ち望んでいる旧映像作品のBluray化だろうか。しかし、HDクォリティーで収録されているのかどうか。UU06はハイビジョンカメラだっけ。それ以前となるとわからない。16:9でなく4:3の時代だしねぇ。

それらを纏めたBox-Setを発売して、特典ディスクとして今までディスク化されてこなかった幾つかのPVを収録、なんて事になれば嬉しい、かな? いやアニメファンならともかくそういう"抱き合わせ"的な商法は人気がないか…。他のはもう持ってるから単品で出してくれよという事になりそうだ。

いずれにせよ"打ち合わせ"の内容については想像がつかない。何か未来に向けて話し合う議題があるのは
よい事だが、復帰時期が本当に未定だとしたら待ってるレコード会社は身動き取り難いだろうなぁ。

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今朝の照實氏のツイートは短く的確にニュアンスの伝わる一言で、久々に彼本来の眼光の鋭さというか抜け目の無さを感じた次第。普段の他の話題でのツイートは隙だらけで危なっかしいのだがこと仕事の話となればやっぱり違うね。当たり前か。

で、彼のツイートの伝えたニュアンスとは(元文はコピペめんどいので今日付けのTwilogでも参照のこと)、「こちらはUtada In The Fleshをリリースする気は満々。しかし現存する障害の難儀さを考えると可能性はゼロではないにしろかなり低い」といった感じだろうか。ふむ、厳しそうだ。

その"障害"とは何なのか、皆目量りかねる。シンプルにいえば、誰の胸三寸かという事である。

その誰かさんがGOサインを出さないから、話が暗礁に乗り上げているのだ。何をどう変えればその人の心が動くのか。何か蟠りがあるのか、それとも儲からないから面倒臭いのか。いずれにしてもHikkiに対する愛は感じられない。

ユニバーサル・ミュージック・グループ傘下アイランド・デフジャムのアイランド・レーベル所属のアーティストが、EMI JAPANからリリースされている楽曲を歌い、LIVE NATIONがレコーディングをした映像素材。そしてアイランドとの契約は終了している。"障害"は、どの段階でも生まれそうではあるし、簡単に特定出来そうな気もしなくもない。しかし、これ以上の詮索は止めよう。照實さんが出す気があるのだから、それ以上を求めるのは酷というものだ。

何かファンとして出来る事はないのかな。要は、"その人"にとってメリットのある話になればいいのだITFのリリースが。そうなっていないから止まっているんだろう。必ず売れて収益が出る事はわかっているだろうし、もうマスターは上がってるんだから余計な出費はもうないだろう。結局感情論に落ち着くのか。歯痒い思いは抜け切れない。

現実的に望みがあるのは、ヒカルが復帰後にブームといえる程売れた場合である。UTADA THE BESTの例のように、便乗して売りにきてくれれば御の字だろう。尤も、その気ならWild Life DVDにぶつける事も出来ただろうにそうしていないからには、存在する障害がかなり厄介なものである事を示唆している。

まさかPlaceboのカバー曲の収録許可がおりないとかじゃないだろうな。カバー曲一曲だけなら一旦収録を諦めて一曲減でリリースしてくれればよい。後日OKが出ればその時改めて完全版をリリースするか、一曲分だけPVとして単品でリリースしてくれれば。映像作品ってあとからパッチする事できないのかな。

兎に角、この件に関しては私はもうこれ以上騒がない事にする。今夜の文面を見ればわかるとおり未練タラタラではあるが。繰り返すが、照實さんがその気ならもうそれ以上望む事はないのだ。ファンとして、署名活動とか超先行購買予約が必要なら行動は起こすので、現行ではひたすら「待ち」の一手である。

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歌詞はどの国の言葉でもいい、という提案は、光が曲作りに於いて先に曲を書き、歌入れのギリギリまで作詞に取り組むスタイルだからだ。大抵トラックメイキングは歌入れより先に行うので、作編曲が先に済んでないといけないという事情もあるにせよ、とまれ結果的にそういう作詞作曲術に収束しているのは間違いないと思われる。

しかしそうなってくると、そもそも光にとっての成功、或いは目指すものとは何なのかという所にまで立ち返って考える必要が出てくる。日本語で歌って日本人にリーチしたいのか、英語で歌って米国人にリーチしたいのか、或いは他のどこか特定の国、例えば英国なんかで受け容れられたいのか、そもそも国なんていう枷を取り払ってあらゆる人に届けたいのか。

EXODUSのオープニングで、光はこう歌っている。『越えたいのはジャンルとジャンルの間の壁なんかじゃなくって、あなたと私の間なの』と。つまり、集団と集団、クラスタとクラスタの橋渡しやら仲介やらをしたり、新しいジャンルを作ったりといった事には興味がなく、直接ダイレクトで、個と個の間を繋げたいという願いである。

こういう考え方自体、UtaDA、或いはEXODUSというアルバムに特有の、とまではいかなくともその状況が手助けとなって顕在化したものだという捉え方も出来る。宇多田ヒカルとしてアルバムを出していた時は、若干異なった在り方だったのでは、という事だ。

そもそも、現状では、日本語で歌うという選択自体がリスナーを特定する。非日本語圏のリスナーを排除とまではいかなくとも置いてき堀にする感じは否めない。熱心なファンは何語だろうがついていくが、日本ですら光が英国で歌っている歌は英語だからという時点で忌避される風潮がある。それの逆が、日本語で歌う事によって全世界規模で起こるのだ。それが"現状"である。

その現状を打破する(なんか打破されるものって他に何かあったかな)為には、まずは作曲を、というのが前回の話であった。ここらへんのバランスが難しい。国やジャンルにとらわれず、兎に角ひとりでも多くの人々にリーチをとなってくるとEXODUSのように"洋楽として"英語で歌う必要が出てくるだろう。その"意志"に抗ってまで日本語で歌詞をつけてそれをグローバルに展開させるというのは異様に敷居が高い。"Crossover-Interlude Concept"は、現状ではまず日本語を拒否するのである。

つまり、"成功"の2文字を自らの意志に照らし合わせて考えてみた場合でも、市場でのものと考えてみた場合でも、日本語による成功のジレンマは必ずついてまわるのである。厄介だなぁもう。次回に続く。

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米国では国内での成功が世界的な成功の足掛かりになる可能性が大いにあるのに対し、日本では国内での成功を追い求めるなら海外での成功はある意味諦めなければならない、或いは、海外での成功を追い求めるなら日本国内での成功は望めない、という二律背反が存在する。そこら辺が前回の話であった。

これを克服するにはどうすればよいか。歌の世界での言葉の壁は、前に指摘した通りメロディーとの結び付きと絡み合いにより、他ジャンルのエンターテインメントより遥かに高くなっている。"翻訳"という手段が効かず、その国の言葉でカバーし直して貰わないといけない。ある意味、それは最早ヒカルの歌ではない。

光にとって光のファンは、日本語を話すファン、英語を話すファン、その2つ以外の言語を話すファンの3つに大別される(跨ってる人も居る訳だが、取り敢えず)。このうち、3つめの他国語ファンに対してどうアプローチをするかが鍵になる。

日本語で歌う場合は、日本語を話す人々に向けて、或いは日本語を話す自分に向けて歌う。英語の場合も然りだ。しかし、他国語ファンに対してはどういう気持ちで歌えばよいか。

ここが英語の強みである。何の話かといえば、日本のみならず、ありとあらゆる国に於いて"洋楽"が存在するのだ。それぞれの自国の言葉で歌われる"邦楽"のヒットソング、流行歌と共に、規模の多少はあるにせよ必ず英米発信の、英語で歌われる"洋楽"のマーケットがある。ネットでチャートを見られる総ての国がそうである。

つまり、光は日本国内に対しては日本語で歌えばよいし、米国々内では英語で歌えばよい。それぞれの自国語での"邦楽"、つまり国内産音楽を提供する。しかし、それ以外の国にたいしては最初っから"洋楽"として歌えばよい。この場合は英語である。ここがややこしい。米国々内の言語である英語と、国際的音楽市場の"公用語"としての英語。英語には2つの側面があるのだ。

恐らく、この2つを意識する事で光の作詞は幾らか変化する筈だ。英語が母語である人たちに対しては歌詞で"話し掛ける"事が出来る。しかし、英語を外国語として聴く、英語の歌を"洋楽"として聴く世界中のファンは、幾ら何でも日本人ほどには苦手でないにせよ、やはり意味を解するには多少の困難があるだろう。そういった世界中の"大多数の洋楽ファン"にとっては、歌詞のメッセージ性より、発音の語呂の良さやサウンドとのマッチングなどの方が重要になってくる筈だ。

それを考えると、UtaDA1stのEXODUSはサウンド重視のインターナショナル/グローバル志向、2ndのTiTOは歌と歌詞重視の米国々内志向だったともいえる。まぁ極論だけどね。2ndの狙いが"メインストリームポップ"であり、まずは米国々内で足元を固めてから、という雰囲気のプロモーション体制だった事を考えると、結構意識的だったのかもしれないけれど。

という訳で、光が第3のファン層に対してアプローチする気であれば、全世界的な"洋楽"スタイルの音楽を創造する事になるだろう。そういう意識が強まれば、またEXODUSのような意匠を凝らした作品が出来上がるかもしれない。そして、その路線でいけば、日本に於いても"洋楽ファン"を取り込む事によって、幾ばくかの成功を収められるかもしれない。

しかし、それでもまだまだ物足りないだろう。追伸的に、そのジレンマを克服するウルトラCについて触れておこう。

その手段とは、世界中で"日本語の歌"を聴く習慣を作ってしまう事だ。多くの国に、英米の母語である英語の歌を、内容がよく理解できないまま聴いている層が居る訳だ。それなら、同じように世界中で"何を言ってるのかよくわからないけど日本語で歌っている歌"が聴かれている世界を妄想したっていいだろう。"外国語の歌"のスタンダードとして、例えばフレンチ・ポップスのようなポジションを獲れればいいのだ。

その為には、歌詞の意味なんてわからなくても魅力的なサウンドを作れる日本人が必要になってくる。それが成し遂げられる人といえば…やっぱり宇多田ヒカルが第一に来るんじゃないかなぁ。今までヒカルは"英語ネイティブというアドバンテージ"によっての世界進出の可能性を取り沙汰されてきた訳だが、純粋に世界レベルのソングライターとしての資質で世界を切り開いていく能力があるのだから、それによって"日本語による音楽"を聴く習慣を世界中に植え付けられれば…夢を見るにも程があるが、せっかくのアーティスト活動休止期間なので、偶には大言壮語もいいんじゃないかな。

なので、私の意見としては、兎に角いい曲を作って、その都度それに合う言語を当て嵌めていく、という究極のいきあたりばったりで作詞作曲をして、そのまんまアルバム作っちゃえばいいと思う。日本語の曲、英語の曲、日本語に英語を交えた曲、英語の中に日本語が飛び出してくる曲、フランス語をフィーチャーした曲、なんでもアリでいいのではないか。制限がなくなる分創作活動は激しく難しくなるだろうが、それもまたチャレンジだろう。機が熟したら、是非挑戦してみて欲しい。

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