無意識日記
宇多田光 word:i_
 



最初『ぼくはくま』のシングル盤に絵本がつくと聞いてどんだけガッツリ絵を描くつもりなんだと期待したのだが、いざブックレットを開いてみるとベタ塗りさえしない線画の絵物語に目が点になったなー。

ただ、あれで十分なのだ。伝わるべきは伝わっている。もしかしたら〆切に終われて色塗ってる暇がなかったのかな?なんて一瞬思ったが、シルヴァスタインとかが好きな人だし、画面が白いのは気にならないんだろうなと気がついた。あれでいいんだね。

で、それはそれとして。もっとガッツリした絵本を全く別に描いてくれないかなというのはある。もっと言えば、例えばアルバム一枚に12曲あるなら12枚の絵を描き下ろしてみてくれないかなー、とかね。で、特別装丁でリリースする、と。これならみんなフィジカル買うでしょ。これでなくても買う人が大量に居るのがここの読者層だけども。

ただ、ヒカルさん凝り性だからね……12枚の油絵とかイラストとか用意するのに12年じゃ足りない、とか言い出しそうでなぁ。気持ちはわかるだけに遣る瀬無いぜ。まぁ、アルバム一枚だから無謀な訳で、シングル一曲だけ実験的に、という方がまだ現実味はあるか。


ヒカル画伯によるジャケット・イラストといえば『For You/タイム・リミット』だわね。でもあれ後追いで見た人何の絵かわかるのだろうか? 車はともかくゴリラは結構わかりづらいと思うぞ。まぁ、それも個性といえばそうなのだがな。で、あれ以来ヒカルがジャケットの絵を手掛けた事はないわけだ。『SINGLE COLLECTION VOL.1』には自作詩が載ってるけどね。そろそろそういうのもあっていいかなぁ、なんてな。

自作の絵本や手描きのジャケットは勿論素敵なんだけど、でも、いちばんインパクトがあるのは──宇多田ヒカルのアルバム・ジャケットといえば「ヒカルの顔のどアップ」ばかりな訳で、そう、そうすると「自画像」ってのがいちばん印象が強烈なんじゃないかな。これはいちど見てみたいぞ。本当にどんなものが出来上がるかわからない所がよさそうだ。『Laughter In The Dark Tour 2018』のアートワークだってシルエットだったし、あそこからの流れでやってみるのもいいんじゃない?

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そうか、『Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.1』発売記念日か今日は。年度末に相応しいビッグタイトルね。初動140万枚、累計260万枚だったかな。そこから多分伸びてるよね。更に新古書店BOOK・OFFでも連続で年間1位を取り続けていたから、実際のリーチは300万どころではないだろう。まさに一家に一枚の究極的シングル・コレクションだ。

この年は更に秋に『EXODUS』の発売もあったので、実は長者番付で最も好成績だったのは『First Love』を700万枚売った1999年ではなくこの年2004年だったりもする。枚数だけでなく、ヒカルのクレジット(現金じゃなく、責任所在記述の方ね)が増えた事も考慮に入れねばなるまいて。

この、新曲の入っていないシングル・コレクションにおいて僅かにヒカルの息吹と体温を感じさせてくれるのが表紙の詩とブックレットにちょこっとだけ書かれている手書きの『思春期』の3文字だ。『SINGLE COLLECTION』だなんていう無粋なネーミングになる前はこれがタイトル候補だった、んだっけどうだっけ。

『First Love』という超有名曲がありながら『初恋』という名の曲をリリースした今のヒカルならどんな題名の楽曲を書いても不思議ではない。とすると、そろそろ『思春期』なんていうタイトルの曲を書いても不思議じゃない。あとはタイミングだが、10年後位、息子が思春期に差し掛かった頃が適当かもわからない。リアル思春期を目の前にして何を思うのやら。多分そのまま描くと息子が照れるので性別逆転とかしてきそうだけどもね。

このシングル・コレクションで英断だったのは、1曲目を『Automatic』ではなく『time will tell』にしたこと。短期的には、三宅さんの名言「『Automatic』は冬だ」に対する「『time will tell』は春だ」という表明、なのだろう。そして長期的には「時間がたてばわかる」、つまりこの作品、このアーティストの真価は時間が教えてくれるだろうという宣言だ。勿論ヒカルは当時から超ビッグ・アーティストではあるのだが、この16年、その成長には目を見張るものがあった。ここからもっと凄い事になるだろう。確かに、そうなればなるほどこの頃の作品は「若気の至り」、思春期特有のものが封じ込められていると感慨に耽れるというものだ。濃い濃い最初の5年間だったねぇ。

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しむらがしんだ。あー今度こそ本当なんだな。過去幾度も死亡説のデマが流れたが、結局はなんでもなかった。今回もそれだったらよかったのにな。

自分にとって、自分の世代にとって、コメディアン・志村けんはウルトラ・スーパースターだ。毎週「8時だョ!全員集合」を観ていた。オープニングで停電になって「8時9分過ぎだョ!全員集合!」というコールで始まった回も覚えているし、54分間ずっと停電で結局放送されなかった回も覚えている。それでも私はチャンネルを変えようとしなかった。それくらい魅了されていた。こどもには麻薬のような番組だったのだ。

何度も書いてきているが、加藤茶と志村けんによるヒゲダンス、そのテーマ曲「ヒゲのテーマ」は自分のルーツ・ミュージックのひとつだ。ベースという楽器が好きになったのもこの曲の影響だ。これがテディ・ペンダーグラスの“Do Me”のイントロのリピートだと知ったのはずっと後の事だったが、この曲が流れ出してくると踊り出すしかなかったのよ。幼稚園児の頃である。

ドリフターズは元々音楽グループで、ミュージシャンたちが成り行きでお笑いの世界に突っ込んでいったようなものだったが、志村けんだけは少し違った。既にお笑いコント集団としての名前と地位を確立した後に荒井注の後任として加入した、いわば最初からコメディアンとして期待された人材だったのだ。実際、「全員集合」や「ドリフの大爆笑」が終息していった後も頑なにお笑いの世界に拘り続けたのは志村ひとりだった。

勿論音楽への造詣も深くソウル・ミュージックに傾倒していたのは有名な話だろう。先述のテディ・ペンダーグラスもそうだし、「生麦生米生卵」でお馴染みの早口言葉のテーマ曲はウィルソン・ピケットの“Don't Knock My Love”だ。後年この曲はマーヴィン・ゲイとダイアナ・ロスによってカバーされた、と繋げればイメージが湧くだろうか。こちらも“ヒゲのテーマ”同様ベース・ラインが印象的な楽曲である。志村の直接の選曲かどうかはわからないが、一枚噛んでいるのは必至であろう。

「8時だョ!全員集合」といえばコントの合間に舞台転換の時間稼ぎに歌手を呼んで舞台前方で歌ってもらうのが恒例だった。そのままその歌手がゲストとしてコントに参加することもあった。往年の藤圭子もそうだった。昨年のインタビューだったか、仲本工事が「体操コントがレギュラーになったのは藤圭子との体操コントが面白かったから」とかなんとか話していたが、こんなところにも関わりがあるというのが芸能界の面白いところだね。

照實さんは志村と歳も近く、同じ世代の音楽を聴いて育ってきた筈だ。この人何故か結構有名なミュージシャンたちと顔見知りだったりして侮れないのだが、もしかしてバンド時代のドリフターズのことも知ってたり……しないか。ちょっと訊いてみたいよね。

で、肝心のヒカルは志村との共演はない、筈だ。取り敢えずあたしは覚えが無い。高木ブーは『トレビアン・ボヘミアン』に来てくれてたんだけどねぇ。又吉ショートフィルムから察するに、ヒカルが志村とコントしていたら大爆笑必至だっただろうな。その機会は永遠に喪われた。誠に、残念だ。


それにしてもショックだわ…。個人的な事になるが(テメーの日記だからなっ)、自分の頭の中に残っているいちばん古い記憶が「2歳の時に“飛べ!孫悟空”をテレビで観ていたこと」なのだ。西遊記を題材にしたドリフターズの人形劇である。もしかしたら後年なつかしの番組特集なんかで見た記憶と混同しているのかなと一瞬思ったが、3歳まで暮らしていた家の部屋の様子と一緒のまるごとの記憶なのでほぼ間違いないと思う。2歳の頃だとテレビという物体を独立して捉えられていなかったので、部屋の様子と番組の内容が渾然と記憶されているのだった。

斯様にザ・ドリフターズは幼少の頃の記憶に深く刻み込まれている。メンバーのうち、荒井注、いかりや長介に続いて志村けんも逝ってしまった。最年少なのになぁ。あたしも小さい頃は「カラスの勝手でしょ〜♪」と歌っていたし、テレビに向かって一緒に「志村、うしろ!」って叫んでたのよ。当時のドリフはコーナーの見切りが早くて次から次へとお気に入りのコントが無くなっていくのが寂しかったけど、志村けんが亡くなったというのは、その中でも最大の寂しさだ。謹んでお悔やみ申し上げる。今までありがとう─と言い切ってしまうのはまだ自分の中では早過ぎるので、もう少しこの寂しさに浸らせておいてね。

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あー年度末かー慌ただしいな。ヒカルのアルバムで3月発売だったのは1999年の『First Love』、2001年の『Distance』、2004年の『Single Collection Vol.1』、2008年の『HEART STATION』、2009年の『This Is The One』と5枚もあるが、こうしてみると11年間リリースがなかったとも言えるのね。うち6年半をカウントするのは卑怯な気もするが、あの、昔感じていた「3月といえば宇多田ヒカル」みたいな感覚はもう無くなってるわな。

CD時代は年度末に駆け込みでビッグタイトルを投入するのが恒例だった。それが最高潮に達したのが2001年で、3月28日にはヒカルのセカンド・アルバム『Distance』と浜崎あゆみのベスト・アルバム「A」が同日発売となり現場はおおわらわになったのだった。何しろそれぞれ初週だけで約300万枚を売ったのだから恐ろしい。僅差でヒカルの方が多かったようだが誤差の範囲だから互角だったといえる。一応、素人目にはヒカルのアルバム発売日を察知した浜崎あゆみサイドがベスト・アルバムの発売日を合わせてきてたようにみえていた。当時東芝EMIとavexだからね。競合他社なのでライバル関係だったがその相乗効果は見事なものだった。皆挙って買いに走ったわけだ。……って、慣用的表現だってわかってるけど、CD買いに行く時に走るヤツなんざ稀だわな。わざとそういう絵を撮るメディアさんの影響なのかなんかのか。やれやれ。

今はストリーミングの時代なのでそういうイベント感は無くなった。もしやるとすれば宇多田ヒカルと浜崎あゆみのジョイント・コンサートしかないのだが、完全にどっちが先に歌うかで揉めるヤツですね。偶数回やって交互に順番変えりゃいいと思うんだけど、そういうわけにはいかないか。それに、興行的に旨味があるかというとそうでもないかな。お互いアリーナクラスなら満員に出来るんだもんねぇ。やるならドームになっちゃうけど、うーん、お祭り騒ぎかチャリティーでもない限り微妙だな。まぁいいんだけど。

こういう、「発売時のお祭り騒ぎ」が無くなってるのを見越した上で、コンサート以外で存在感を見せられる方法が出てくるかとうかが今後のプロモーションの課題だわね。でも、果たしてそんな体力が業界に残っていますかどうか。あたしゃ新譜新曲が聴ければそれでいいのでのんびり見守っていますよっと。

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週末は引き篭る都民も多かろう。これは宇多田ヒカルのコンサートDVD/Blu-rayをじっくり観賞するいい機会ですねぇ。

って、DVD/Blu-rayっつったけど、肝心の『Utada In The Flesh 2010』が円盤化されてないんだよなー。今このコンサート映像をリリースする権利を誰が持ってるか不明なので期待していいかどうかすらわからん。もうアイランドじゃないしユニバーサルでもないし、LiveNATION関係ないしな。実質もう無理かもわからない。iTunesでしか観れないって流石に狭過ぎるよねぇ。あたし個人は最初に配信購入を始めたのがiTunesだったので運が良かったのですが。でその流れのままApple Musicに雪崩込んでいるのだけれど、TwitterのFFさんはSpotifierばかりだぞ!? iTunesStore使える人って、ウタダファンでも少数派だったりするんじゃないの。特に若い人はパソコン持ってなくてスマホもAndroidで、っていう人がかなりの割合で居てはる。いやま、無意識日記のアクセスもSafariの割合が結構高いので、少数派とはいえそこまで極端ではないのかもしれませんが……。

折角引き篭って時間が出来るのだから『In The Flesh 10th Anniversary Special One Night Magic In My Room』(早い話が独りで部屋でビデオ鑑賞)を開催したい人多いだろうになぁ。『Passion/Sanctuary』のフュージョンが聴けるのはここだけですよ。ほんと、悟空とベジータがポタラったみたいな凄いバージョンだったよ……またお前は喩えが古いなこれも……。『Stay Gold』はここが初披露だったし、今のところ「最後のキャンシー」が聴けるのものここだ。まぁ、UTADAが好きな人はとっくにチェックしてるからUTADA曲をたんまりやってくれてるってのは今更アピールしなくてもよいかな。

パソコンを持っている人はMacでなくてもWindowsでもiTunesはインストールできるので観れるぞ。まぁ知ってるか。Androidしか持ってない人は……iPadやiPodを別途購入してWiFiでダウンロードするとかかなぁ。Androidでテザリングしてもいいけど、低画質でも1GBとか2GBとかの通信量が要るので覚悟が要るわね。月末にまだ余裕があるのを確認してからダウンロードだな。

……はぁぁ、こんなちまちました説明なんぞ要らんっ! DVDにしてくれさえすればいいのだ。それで観れる人はどんと増える。『Luv Live』だって15年経ってから円盤化された。『In The Flesh 2010』だって望みを捨ててはいけない。取り敢えず2025年までは待ってみようではないか。2024年に『EXODUS 20th Anniversary Deluxe Edition』をリリースして同梱してくれるかもわからない。無理かもしれないが、期待しておこう。

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ロンドン封鎖されてるっぽいけど、ヒカル親子は大丈夫なんかねぇ? 普段通りの生活は送れてるんでしょうか。

塞ぎ込んでいても始まらない。ポジティブな事も考えよう。その昔欧州で黒死病ペストが大流行した時にはアイザック・ニュートンが引き篭ってあの偉大な業績の礎を築くべく研究に没頭した、という話がちょこちょこ出ている。全世界的にミュージシャンの皆さんはツアーが延期・中止になって暇してるだろうからその余ったエネルギーが創作に向く割合はかなり高い。ヒカルさんも、別にツアーの予定はなかったとはいえ、例外ではないだろう。

逆に、ロンドン在住ならオーディエンスとしても暇になったかもしれない。前もカマシ・ワシントンのライブに行っていたとInstagramの投稿があったが、ロンドンには世界中からミュージシャンがやってくる。小さなライブハウスから伝統的なシアター/ホールまで規模も大小様々だ。日本みたいに顔バレしないし、ヒカルもいろんなコンサートに赴いていたのではなかろうか。

観に行くライブもなくなったし、部屋に引き篭る理由は鉄壁だ。ただ、お子様ですよね。おうちにずっと居るとなると、そうそう仕事に打ち込めるかというとねぇ。そこはやはり、『ぼくはくま』のように即興で童謡を創作して我々に還元して欲しいもんだが。

こういう時に世界情勢に目を向けた曲を作るのか自分の内面に降りていって集中した曲を作るのかもみものではある。或いは、そのどちらともとれるような……? そりゃ伝統的に“セカイ系”って言われるヤツだーね。実存的不安を世界の危機に読み替える方法論。お話なら実際に世界を危機に陥れられるが、音楽で表現するとなるとどうなるやら。……って、それエヴァの主題歌ですよね。もう書き上がってるだろうしレコーディングも終わってるだろうけど、仮に6月下旬封切がいろんな影響で延期になったとしたら、庵野総監督と宇多田ヒカルプロデューサーなら「時間が出来た」と言ってギリギリまで手直ししかねない。何がどう転ぶかわからない。こんな時だからこそいいこと考えとこーぜ。

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『残り香』は、前にも触れたと思うが、宇多田ヒカル伝統の「部屋」の系譜の曲である。同じくアルバム『初恋』収録の『あなた』にも『部屋』が出てくるが、それはまさに『あなた』と居る部屋で、少し系統が違う。そう、ヒカルの部屋はひとりで居る時とふたりで居る時と、両方があるのだ。

「部屋」の系譜の曲の元祖は勿論『In My Room』だ。こちらは『だからdreaming of you 夢にエスケープ in my room』と歌うの部屋にでひとりきりだ。『Automatic』も、ラブラブではあるものの、恋の相手は電話やスクリーンの向こうにいるから部屋でひとりだ。『Movin' on without you』では電話をずっと待ってて部屋にひとりだ。『テイク5』なんかは、『コートを脱いで中へ入ろう』という事しか歌っていないが、なんだか確実に誰もいない部屋に帰っている気がする。『残り香』はこういった楽曲たちの系譜だ。が、彼に片思いっぽい『In My Room』、ラブラブ熱愛中の『Automatic』、破局真っ只中の『Movin' ob without you』、そもそも恋愛を諦めている『テイク5』たちと比較すると、『残り香と私の部屋で』と歌う『残り香』は、終わった恋の余韻に浸ってるような曲だと分類できる。ワインという小道具も相俟って、随分大人っぽくなったもんだ。なお、あたしがいちばん『In My Room』直系だと思えるのは『Animato』なんだが英語詞なのでその話はまた稿を改めて。

『あなた』のようにふたりで部屋に居る曲の代表格といえば『日曜の朝』かな。『デートだとかおしゃれだとかする気分じゃないから部屋でいいじゃん』とふたりで部屋に居ることを全肯定する態度が潔い。一方『WINGS』では『じっと背中を見つめ』てはいるものの、気持ちがすれ違って喧嘩の真っ最中。同じふたりで部屋に居てるとしても色んなフェイズがあるものだ。

そんな中、謎めいているのが『For You』だ。『散らかった部屋に帰ると君の存在で自分の孤独確認する』とか『起きたくない朝も君の顔のために起きるよ』とか、「え?え? あなたの隣に『君』はいるの?いないの?」と疑問に思う歌詞が連発している。何しろメインテーマ、決めゼリフが『一人じゃ孤独を感じられない』という一見矛盾したフレーズだから、傍に愛する人が居ても心が遠いというか、『誰も何も君に頼ろうと思ってるわけじゃないから』とか妙に突き放した態度をとっていて、嗚呼、これって隣に実際に居ても居なくても意味が通じる歌になっているんだなという事に気がつくと、後々『Goodbye Happiness』や『Can't Wait 'Til Christmas』で結実する「正反対のどちらの解釈も成り立つ歌」の原型がこの『For You』には潜んでいたのかもしれないなと思い至った。多分、当時のヒカルもそこまで明示的に作詞技巧のひとつとしては意識していなくて、どう表現していいかよくわからかないまま楽曲制作をしていたのではないだろうか。だから『For You』は、理屈で解釈するとよくわからないが、感覚的にはとても強い確信を与える楽曲になっている。その強い確信の原因は、こうしてヒカルの未来にあったのだ。恐らく、我々が今ヒカルの歌を聴いて他に何か疑問に思うことがあったとしても、そのうちの幾つかはきっと未来が解決してくれる。長きにわたって聴き続けるのがこんなにも楽しい音楽家が他に居るだろうか。いや、居やしないよな、うん。

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アルバム『初恋』の中盤、『Too Proud』〜『Good Night』〜『パクチーの唄』の流れが好きでねぇ。そこまでの5曲、『Play A Love Song』〜『あなた』〜『初恋』〜『誓い』〜『Forevermore』の流れがあまりに緊張感高いのでこのあとの3曲でそれなりにテンションが落ち着いてくれるのが助かるというかなんというか、癒しになるというか。ほっとするのよね。

特にこの3曲、サビがシンプルなのがよい。基本タイトル連呼するだけだもんね。『誓い』みたいに複雑なメロディ展開で翻弄してくれるのは感動的だけれど、疲れてる時にサクッと聴けて「あーいいねぇ」と呟けるにはシンプルなリフレインの方がいい。

『Too Proud ×4』
『Goodbye ×7 Good Night』
『パクチーぱくぱく ×4 uh ぱくぱくパクチー』

これだけなんだもん。兎に角聴いててラクだよね。また、シンプルであるからこそヒカルの歌唱力が存分に堪能出来るというのもある。『Goodbye ×7』の部分なんて、普通に歌ったら単調になってしまうところをまぁ繊細に歌い上げること。そうなのよ、一見シンプルでありながら、結局情報量自体は結構多いのよね。ある意味気楽に聴きながら心地よく騙されてるワケだ。

『パクチーの唄』も『パクチーぱくぱく』の繰り返しだけで終わってたら退屈だったかもだけど、〆に『uh ぱくぱくパクチー』を持ってくる事で真逆の印象になる。印象を逆転させる為に最小限の違いで済ましてるってのもいい。『uh』ってたった一節(ひとふし)だけ挿入して、最後に『パクチー』と『ぱくぱく』を入れ換えるっていうね。リフレインはシンプルだけどそれだけじゃ終わらないっていう。

まぁ、シンプルなリフレインの究極といえば『traveling』とか『ぼくはくま』とかなんですけどねー。特に『ぼくはくま』の方は最後の『ママ』っていうクライマックスに持っていくのが絶妙の構成で。『嵐の女神』でいえば『お母さんに会いたい』なんだけど、『初恋』でのこの『Too Proud』『Good Night』『パクチーの唄』の3曲はアルバムの中でもお母さんみの少ない3曲だったりもします。まー『パクチーの唄』は『お日様の誕生日』がお母さんの事じゃないかとは思いますけどね、『嫉妬されるべき人生』の『母の遺影』みたいにあからさまじゃあないわな。そういう歌詞の色合いと楽曲の特性も相俟ってこの3曲はアルバム中盤で独特の役割を果たしてくれています。ここだけ取り出して聴くのもまた乙なのでございます。

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私やっぱり相変わらず『大空で抱きしめて』が大好きでねぇ。発売当初も散々語った事だけど、『DISTANCE』あたりを彷彿とさせるライトでポップなイントロから始まっておきながらいつの間にかエンディング付近では切なロマンティックでトワイライトなテイストに変わっているマジックぶりがホントに好き。なんだか小さい頃外で昼間っから夢中になって遊んでて気がついたら辺りが夕暮れで殆ど真っ暗になっていた時の事を思い出すのよね。また歌詞がいいんだこれが。朝や昼を思わせる一番二番の歌詞から最後の最後は邦楽史上に燦然と輝き続ける素晴らしい歌詞が目白押しの宇多田ヒカル歌詞史上に於いても屈指の一節ともいえる『天翔る星よ 消えないで 消えないで』で〆るという凄まじい構成美。サウンドと歌詞のグラデーションがこれでもかとシンクロしてるんだよね。寝ぼけた朝から夕暮れを経て切なさ満点の満天の夜空に包まれるまでを描いた大名曲。やっぱり大好き。

……なんだけど! この曲、『Laughter In The Dark Tour 2018』では歌われなかったんだよねぇ。しかも、アンコール大ラスの『Goodbye Happiness』が終わった後に「『大空で抱きしめて』歌わなかったねぇ……」と残念がったのでは、なく! 又吉直樹'sショートフィルムの途中でBGMで使われる事でコンサートで歌われない事が判明するというなんとも切な残念な展開で知ることとなってな! ほんと、あれ以来『大空で抱きしめて』のイントロを聴く度に又吉とヒカルの二人が土管に入って見つめ合ってる絵が暫く浮かんで離れなかったんだよね……いやホント、ライブで聴きたかったのにさーもーねー。抽選で外れてコンサート自体に行けなかったみんなからすりゃ行けた人間が何贅沢言ってんだって話だけど。

そんなだったから、今でも『大空で抱きしめて』のライブ初披露が待ち遠しくて仕方が無い。アルバム発売直後のライブでやらなかったんだから、もし今度ナマで歌う機会に恵まれたなら是非特別な演出を施してこの歌を歌うことの意味の大きさを明示的に表現して欲しい。

特に注目したいのはライティングだ。先述のように、この歌は僅か4分半余りの演奏のうちに朝昼や青空がいつの間にか夕闇や夜空に入れ変わっている所が最大の魅力だ。これを視覚的に表現出来れば、これまた宇多田ヒカル史上屈指の感動的な場面が演出できること請け合いですよ。出来れば、これもさっき述べたように、夢中になって遊んでたらいつの間にか日が暮れていたように、聴衆が気がついたら満点の夜空に包まれていた、みたいな効果が発揮されていれば満点だと思う。至極難しいと思うが、新曲の新鮮味でただ歌うだけで感動を与えられるタイミングで歌わなかったのだから視覚面でもひとひねり加えていった方がいいと思うのだ。ライブ初披露となった『Kiss & Cry』が『Can You Keep A asecret?』とマッシュアップされて選曲の意義を知らしめたようにね。

勿論、視覚効果は副次的なもの。この『大空で抱きしめて』をナマで歌うって、『テイク5』と『嵐の女神』を混ぜたかのようなプレッシャーがヒカルにかかると思うんだよね。その重圧に打ち勝ってベストなパフォーマンスができれば、一生忘れられないコンサートになると思う。それを直で観るまでは死ねないぜ。自分らの方が先に星になっちゃわないように気をつけないとね……って、幾ら気をつけてても、死ぬときゃ死ぬんだけどな! だから意地でも生きとけよっ! 

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唐突にこっちを向いて宇多田ヒカルとして歌う場面がある─とはいえ、不自然にならないような工夫はしっかり施されている。

『Wait & See 〜リスク〜』の場合、

『キーが高すぎるなら下げてもいいよ』

の前段はこの歌詞だ。

『どこか遠くへ
 逃げたら楽になるのかな
 そんなわけないよね
 どこにいたって私は私なんだから』

この『なるのかな』が絶妙でねぇ。自問自答してるような、リスナーに語り掛けてきているようなどちらともとれるラインの言葉の選び方をしている。『そんなわけないよね』も、自分自身でひとりで納得しているような、こちらに同意を求めているような“I know/you know”な感触。そしてこの歌の結論である『どこにいたって私は私』に辿り着く。

そう、結論。この歌は、オーソドックスな感覚でいえば本来ここで終わりなのだ。そこからキーを変えて加速していくエンディングが加わる事でユニークネスを主張している。そこに例の歌詞『キーが高すぎるなら下げてもいいよ』が来る。『どこにいたって私は私』という結論に辿り着くことで聴き手側の歌への没入感は最高潮に達し、故に歌への集中力はそこから落ちていきかねない。その落ちる間際に狙い澄ましたかのように『キーが高すぎるなら……』を放り込んでくるんだよね。うまい構成だわ全く。

オープニング・ナンバーで古畑任三郎方式をとりがちなのも、この、“聴き手の集中力”に配慮する結果であろう。まずは歌い手側から話し掛けて惹き付ける。自分のフィールドに引き込めさえしてしまえれば魅了できる自信はあるのだ。一曲目で「おっ?」と一瞬でも思って貰えればそのまま耳を欹ててくれる確率も高くなる。大事なことよ。

この楽曲全体の流れがあって初めて古畑任三郎方式は成立する。流れをぶった切って突然放り込んでいる訳ではない。流れを損なわずその上でいきなり感を演出する。一見矛盾する効果を見事に実現できているのは、歌詞が細部まで全体の構成を参照しながら丁寧に作り込まれているからだ。当時16〜17歳。流石ですわね。まぁ、ヒカルなら当然のクォリティですけどっ。

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ヒカルさんって時々、歌の中で登場人物の立場から離れて“宇多田ヒカルとして”話し掛けてくる事があるよね。例えば……

『キーが高すぎるなら下げてもいいよ 歌は変わらない強さ持ってる』
『もう済んだことと決めつけて損したこと あなたにもありませんか?』
『期待をされてプレッシャーすごい それでもやるしかないんです』
『調子に乗ってた時期もあると思います』

……こんな感じに。歌の歌詞って、そこでひとつの世界を作っていて、いわばテレビを通してドラマを観ているような感覚で聴いていて、リスナーであるこちらは基本的にその世界の中とは何の接点もないもんだ、という前提が無意識の中にある。だから、ヒカルが歌っている歌詞もそのドラマの世界の中であなたとか君とかに歌いかけているんだろう、という“油断”が、聴き手の中にはあるんだよねぇ。そこをいきなり突き破って画面の向こから話し掛けてくるインパクトよ。初めて聴いた時は結構吃驚したよね。私はこれを昔から「古畑任三郎方式」と呼んでいる。……古いかな? 昔そういう名前の田村正和が探偵役のテレビドラマがあって、彼が謎を総て解いた時に唐突に画面が暗転してスポットライトを浴びた彼がいきなり視聴者に語り掛けてくる、っていう演出があったんだよっ! なんかヒカルが歌の中でヒカルになって語り掛けてくる場面もそれにちょっと似ているなぁって。

で、既にお気づきの方もあるだろうが、上に挙げた四例、『Wait & See 〜リスク〜』『This Is Love』『Fight The Blues』『道』、とこれらはいずれもオリジナル・アルバムのオープニング・ナンバーなのだ。これを偶然にもとか奇しくもとか言っていいものか?

勿論、オープニング以外にもそれっぽい歌詞はある。『BLUE』の『あんたに何がわかるんだい』とか『蹴っ飛ばせ』の『勝手な年頃でごめんね』とか『Parody』の『誰かの真似じゃない私はこれから続きを書きます』とか。これらもどこか素の宇多田ヒカルに少し戻ってる感がある。しかしやっぱり結構明確に「突然宇多田ヒカルに戻って」いるのはオープニング・ナンバーに固まっている気がするのよ。

ヒカルはアルバムの事を考えて曲を作る方ではないから曲順なんかも合議制だったり時には三宅さんと照實さんに丸投げだったりするらしいのだが、曲を作ってる最中に「これはアルバムの一曲目っぽいな」とかそういう感触は得ているのかもしれない。その中で少し意識して“宇多田ヒカル本人の台詞”を歌詞の中に織り込んでいる可能性も十二分にある。

そう言いたくなるのは、ヒカルのオープニング・ナンバーの中には一曲丸々リスナーに語り掛けている曲があるからだ。どれでしょ。わかるかな? ……忘れないで欲しい。『EXODUS』のオープニング・ナンバー、その名もズバリ『Opening』だ。このタイトルでアルバムの一曲目じゃないなんてことは有り得ないわな。

『Opening』の歌詞はこんな風。

『I don't wanna cross over between this genre, that genre

Between you and I is where I wanna cross over, cross the line

I just wanna go further between here and there, grow wiser

Together you and I we can wrestle borders, you and I

Only, all day you can make me, only you, only you can make me ......』


もうモロにまるまる、「宇多田ヒカルからリスナーへのメッセージ」になっている。ヒカルはやっぱりアルバムの冒頭でどこかリスナーに語り掛けたくなる事があるんだなー。その集約がこの『Opening』なのだろう。そんな風に感じているのでありますっ。

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春になるとラジオ等から『SAKURAドロップス』が流れてきて「まだ咲く前から散る歌かいな」とツッコむのが毎年恒例になっている。でも、あれ、もしかして『桜流し』の方はそんなにそうなってない? なんで?

曲調なのかなぁ。『SAKURAドロップス』の方は情緒は豊かだが暗いとまでは言えず、儚い美しさが先に立つ。一方で『桜流し』はまず“重い”。幾らどちらも桜が散る歌だとはいえ『桜流し』は流石に春が来たウキウキ感から遠過ぎるのかもね。鎮魂歌的だしね。

これは、でも、本当に微妙なライン引きでなぁ。Pop Musicとしての“使いやすさ”。『桜流し』は、逆に、重厚さを押し出したことで映画の主題歌としてのイメージを損ねなくなった。「序」の『Beautiful World』発売時は「映画の主題歌としてのフィット感と宇多田ヒカルのPop Songとしての存在感の両立」がテーマで、これは見事に達成された。映画の大ヒットと主題歌としての好評は言うまでもなく、曲としても(シングルCDとしても)年間20位である。ヒカルとしては物足りないかもしれないが堂々たるものだ。だが『桜流し』においてはかなり映画寄りになったというか、あまり“Pop Musicとしての機能”に注意を払っていなかった気がする。その分世界観に全フリできたと言いますかね。

となると、次の「シンエヴァ」の主題歌のバランスが気になるところ。参考になるかどうかはわからないが、13年前より今の方が無意識日記の読者数多いのよね。まぁ何割かはクロールなんだろうが、3割くらいは増えている。もしかしたら復帰前より復帰後の方がファンの絶対数多いんじゃない? わかんないけど。

となるとだね、ちゃんとPop Musicとしての機能も追究しておかないと、置いてきぼり食らう人が結構出てくるんではないかなと。今更新規で入ってきて四半世紀にも及ぶアニメの最終作を観ようとはなかなか思わないでしょう。何も知らない人が楽しめる作品になっているとは思えない。そうなると、そういう人達にとっては映画やらタイアップやら関係なくその主題歌は「宇多田ヒカルの新曲」でしかない訳でね、そこは押さえたい。

それこそ、『Beautiful World / Kiss & Cry』みたいに両A面シングル出すとかできたらいいんだけどね。まぁ今だと同時発売ってやつか。5年前に『花束を君に』と『真夏の通り雨』でやってるから可能だろう。……って、そんな気軽に言うなよな。まーでもヒカルならやってくれそうだから、困るよねー。

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プロモーション以外で何か不都合があって消した可能性もあるにはあるな……トルメキアのスパイが写り込んでたとか……(何言ってんのあんたw)。

なんて前回の続きも書きつつ。


そういえば明後日からdocomoを皮切りに5Gのサービスが始まるんだっけ。2020年だもんね。やるよな。

こういうサービスって走らせてみないとわからない。4Gと較べて何が変わるのか。自動運転とかに応用が利くといってもなんだかまだ遠い話だなー、とか、別に外でVRのデッカイヘルメット被る訳でもないからなー、とか、まぁまだそんな雰囲気だよね。高画質動画がいつでもどこでも観れるんだったら嬉しいが、まだまだサービス範囲も限定的なようだし。

でも、ここはSONYというエンタメ系家電の大御所所属のアーティスト、少しは噛んでおいた方がいいんじゃないの。本来ならこのタイミングで3DVRに踏み込むべきだったんだよねー。(しつこい! しつこいったらしつこい!) たっぷりの帯域と膨大な通信量を背に3DVRの生中継をしたら結構な拍手喝采だったんでないだろうか。

あたしは失敗すること自体は気にしてない。ミュージシャンとして事前にちゃんとしたコンセプトがあればそれでいい。なければ、成功したとしても意味が無い。どころか、下手にあやふやなコンセプトで成功してしまったりすると余計なしがらみが増えて負の効果が生まれる事も考えられる。物事に取り組む時はまず納得のいくコンセプトを。……ヒカルはそういうの苦手なんですけどね……。

今すぐでなくとも、5Gを使って何がしたいかといえば、勿論スマホで生ストリーミングライブをブルーレイ画質のハイレゾ音質で、ってやつですよね、まずは。そこからスタートして欲しいですよ。そして次は『Utada United 2006』限定特典の『Automatic』のようなマルチアングルをこれまた生中継で、ですわね。手堅い。発想が手堅過ぎて面白くない(笑)。でもやっとくことはやっときましょ。山登ったらヤッホーって言うでしょ。やっときたいことはやっとくもんです。

で、どうなんだろ、実写でAR生中継は出来るんですかね? ヒカルさんが自分の部屋で歌ってくれるヤツ。あ、まだ早い? そうですかそうですか。とまれ、通信量が飛躍的に上がった時に何が出来るか、今から楽しみにしておりますですよ。やっぱ、アルバム発売時のイベントとかで活用したいよねぇ。なかなか遠い所に住んでる人はインストアイベントとか、出掛けるの難しかったりするしね。そういうフォローの為に最新の通信技術を使っていって欲しいな。

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あーベンのツイートとInstagramが消されたって? 何がまずかったんだろうねぇ。今の時期に宇多田ヒカルがレコーディングしてるって聞いても十中八九「あぁ、シンエヴァ主題歌ね」って思われるだけで新情報でも何でもない扱いなのに。ファンの期待感を煽るだけでプロモーション上の瑕疵になる確率は低かったのでは。

それにしてもこちらも油断してたもんだ。ベン・パーカーJrといえば『Fantome』のセッションから『Laughter In The Dark Tour 2018』までずっと一緒に仕事してきた仲だ。昨日今日帯同したならともかく、1ヶ月の全国ツアーを経験して宇多田ヒカルというアーティストが日本という国でかなりの規模の支持を得ているのを舞台上から痛感してきてた筈なのに、プロモーション上の瑕疵となるようなSNS投稿をするかねぇ? しかも宇多田ヒカルのIDつきですよ。自分のフォロワーに宇多田ファンが沢山いるのはアイコンの並びを見りゃわかるし、いい大人がそんな迂闊な事をするもんか? 特にセッション・ミュージシャンにとって情報管理の信用は死活問題だ。「あいつは発売前情報の扱いがぞんざいだ」と知れ渡ったら仕事が来なくなる。プレイをミスってもこっちはミスらんでしょう。

となると「わざと」という疑惑が浮上するのが人の世の常でございまして。アドバルーンとして敢えて投稿をしてみました的なな。ステルス・マーケティングではないけど似たようなもの。チラ見せして反応の大きさや拡散のスピードなどを観察してどれくらいの期待度がそこにあるか測る訳だ。で、お役御免となったら投稿を削除して……ってそんな訳あるかいな(笑)。さっきも言ったように今の時期にヒカルがレコーディングしててもファンならエヴァだろと思う。勿論実際は違っててもいい。そして、ベンのアカウント見張ってるとか余程熱心なファンだろ。よくわからない拡散とかしないっすよ。この日記で取り上げても孤島のブログだからSNS的波及力は皆無だしな。

寧ろ、今回良くなかったのは削除した事そのものだ。これはファンに「何かがうまくいっていない」という印象を与えてしまった。今の世の中、情報管理に限らずだが、失策は起こってしまったら「乗っかる」策も検討すべきなのだ。起こってしまった事は仕方が無い。ならば何食わぬ顔で「非常にうまくいっています。これもプロモーションの一環ですよ。」と偉そうにふんぞり返っていれば、「あら、そういうことなのね。楽しみ!」というだけで済んでいたのではないか。ここはうまくやらないといけない。大局的な戦略を忘れて局所的な戦術の瑕疵を殊更に暴き立てるのは愚策だ。今回の場合、削除した事で無駄に「失敗があったこと」をファンに伝えてしまった。ただでさえSONY時代はヒカルの仕事ぶりより周りに集まる人達の振る舞いにあれやこれやな目が向けられているのにこれでは「またかよ」と思われかねない。臨機応変に、ベンの投稿があったらあったでそこに乗っかっていちばん戦略上うまくいく方策をとるべきだったのでは。拙速かつ局所的に「これはまだ知らせるべき情報ではない」から「間違いだ」と断罪してしまうより一旦そこで大局観に戻って「今の状況を利用できないか」と探ってみるべきだった。これも今更だけどなっ!

あとは……そうだな、「まだ誰も気づいていないから」「今のうちに消そう」という判断があった可能性も心に留めておくか。ベンはInstagramで何枚か写真を投稿をした。その中でもしかしたら背景のどこかに「今バレたら不味い情報」が実は隠れていたのだが今のところまだ誰も気づいてないようだからそっと消しておこうと。それならまだ理屈としては通るかな。「またおもらしか」と皆に呆れられるリスクと引き換えだから相当不味いヤツでないと割に合わないけどねー。

ま、一旦出してしまったら誰かがスクショ保存してるもんなので、みーんな後の祭りなのです。とはいえ、またこういう小さなミスも、ヒカルが歌を出したらそのクォリティの強力さで総て洗い流してしまうんだろうな。毎度のことですが、いいのやらわるいのやら……。

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ギタリストのベン・パーカー・ジュニアが今日こんなツイート&インスタ投稿をした。

@benparkermusic : Not a bad way to spend the last few days of freedom. In with @utadahikaru stevefitz67 and darrenheelis for one last hurrah at @Abbey roadstudios

なんだか暗号文みたいな文章だが、要約すると「フリーな日々の最後の2、3日を過ごすのにこの方法は悪くないだろう──宇多田ヒカルとスティーヴン・フィッツモーリスとダレン・ヒーリスと共に仕上がりの勝鬨をアビーロード・スタジオで上げるってのはね!」って感じかな。ぺこぱ仕様。

ベンは『Fantome』『初恋』『Laughter In The Dark Tour 2018』に参加しているギタリスト。スティーヴンとダレンも『Fantome』からのレコーディング・スタッフである。アビーロード・スタジオはご存知ザ・ビートルズが利用してアルバムタイトルにまでした有名なレコーディングスポットだ。つまり、ヒカルが何か1曲仕上げてささやかな打ち上げをしましたよってことだろう、かな?


ふむ、昨日の朝に、時を戻そう。私はこう書いている。

「家で籠って曲作りならまだしも、NHK特番の『夕凪』制作でみられたようなセッションをする予定がある、或いは既にそうなっているとしたら、出来るだけ控えめにしといて欲しいなー、なんて思ったりも。」

そう、何とも複雑な気分をたった今味わっているところなのよ私。勿論嬉しいんだけど、問題が起きていないように、起こらないようにひたすら祈るばかりでございます。確か、ベンをはじめ結構みんな年寄りの筈だからね……。心配し過ぎかねぇ?

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