無意識日記
宇多田光 word:i_
 



東北が梅雨明けか〜これで全国的に梅雨明け宣言、日本列島が、もう目の前に迫ってきた立秋までの短い間とはいえ「真夏の季節」に漸く突入する訳だ。

こんな短い間に「通り雨」なんて降る? 最初春にタイトルを目にした時点では「今年から真夏に通り雨が来ると気分が違ってくるのだろうなぁ」と安直に考えていたが、ひょっとすると、その一年目は、一度も『真夏の通り雨』を実際に浴びる事なく真夏を通り過ぎるかもしれない。真夏といえば暑中見舞を出せている間、残暑見舞に切り替わっては果たしてその節は真夏と呼べるのかどうか。高校野球が終わったら『プレイ・ボール』ですけどね。なんだ今「好々爺級」って誤変換しやがった。それどんなレベルなんだよ。おじいちゃんの機嫌がシステマティックにランク付けされているのか。

ダヌパ誕生で晴れて本当の「おじいちゃん」になった照實さん。この場合の漢字はお祖父ちゃんと当てる方が親切か。お爺ちゃんと当てると何だか一気に老けてしまうようで。ツイートからすると今作でもプロデューサーとしてヒカルと共に名を連ねているらしく。本当によくやってくれている。

あの世代の男性としては規格外にopen-mindedだと思う。かつて、その『プレイ・ボール』の表記には中黒が必要ですよという重箱の隅突つきな指摘に対しても素直に頭を垂れていた。なかなか出来る事ではない。そのfrankでeasyな姿勢が、ヒカルの相談役としてうってつけなのだろう。彼は別に作曲をする訳でもミックスをする訳でもないだろうが、ヒカルからの提案に対して「うん、いいんじゃないかな。」とか「じゃあ、早速手配しようか」といった必要不可欠な一言を返す事が出来る貴重な存在なのだ。余人を以て代え難いよ、案外。

そんな彼からも、もっとニューアルバムについてのコメントを貰いたい気がする。新しく「 #ヒカルパイセンの人生の先輩に聞け 」タグでも作ろうか知らん。いや、ここはパイセン父に聞け、か? いやチチパイセンに聞け? なんか危ないぞ。やっぱパパパイセンに聞け、だよねぇ。あの人がパイセン口調で返してきたらハマり過ぎてて反対側の怖さに落ち込んじゃいそうな気がする。どうなんだか。

後は、今回三宅さんが参加しているかどうかにも注目が集まる。本当ならアルバムにデラックスエディション(ん?でらっくす・りえしょん? …りえしょんがデラックスになったらうるさいだろうな…コラボレーターは間違いなく篠原"ウルトラ・デラックス"ともえだよね…)を発売してもらって、『First Love』15周年記念盤ばりに充実したクレジットを掲載して欲しいところだったが、皆さん御存知の通り今回は『通常盤仕様1形態』、である。そんなものはない。

照實さんと三宅さんには、そこんところも訊いてみたいよぬ。果たして、『通常盤仕様1形態』は最初誰のアイデアだったのか、社内に反対意見は無かったのか。気になる。だって宇多田のニューアルバムなら10万枚単位の数が動く訳で、複数枚商法を用いるか否かで億単位の収支の違いが出てくるかもしれない訳で。反対意見が出ない方がおかしいだろう。

ニューアルバムの発売まであと2ヶ月を切った。そろそろ次の動きがある頃だ。皆さん準備は宜しいですか? 具体的に、何をするでもないのですが。

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@utadahikaru : アルバム完成後の喪失感がハンパない。ポルトガルの海辺のさびれた町でボロいアパートの一室借りて一ヶ月くらい海眺めたり本読んだりスケッチしたり簡単な料理だけして食材買う時以外誰とも会話せずにただ呼吸してたい…と妄想しながら夕飯食べずにベッドでごろごろ…


…子育てはどうした(笑)。

という訳で『Distance』完成後に空白の3週間でダメ人間やってた頃を彷彿とさせるツイート。なんか、「変わらんのだなぁ。」と溜め息吐いてまった。変わらんなぁ。

ポルトガルってのはロンドンっ娘からすりゃ地中海性気候の穏やかな「南国リゾート地」のイメージで、都民が沖縄だ甘味だ八丈島だと言っているようなもんだろう。『海辺のさびれた町でボロいアパートの一室を借りて』ってのは十中八九白い壁の、あのすぐアトリエに切り替わらりそうな家屋だな。油絵セット買い込んで絵ぇ描くのに最適な環境。

多分、ある程度本気でそう思ってるんだろうがそれを実行するだけの体力も残っていないのだろう。約一ヶ月、「空っぽのお母さん」に付き合わされるダヌパの心境や如何に。果たして同一人物として見てくれるのかどうか…。

15年前と比較すれば、『簡単な料理』『食材を買う』の二項目が追加されているのが大きな違いか。当時はきっと納豆のパックを開けるかデリバリを頼むかくらいしかやらんかったろうからな…。

『誰とも会話せずに』は、ロールプレイングゲームに対して人と喋りたくなくてゲームやってんのにどうしてゲームの中でまで人と会話しなきゃいけないのか的発言を思い出させる。そこらのニートには真似できない究極の…なんだろう、コミュ障でもないし単なるひきこもりでもないし、これ本当に「ひとり」になりたいんだなぁとしか。それが出来るだけ儲けてますので何の異論もござんせんが。

ひとつ。今回、『アルバム完成後の喪失感』という表現には注目しておきたい。アルバム完成で作品という大きな大きなものを得た達成感、という訳ではなさそうだ。自分から絞れるものは絞り尽くしたという感覚なのか、『DEEP RIVER』の時の、自分の言葉の森からすべてが飛び立ったような感覚との類似なのか。こちらの解釈としては、アルバム自体が『喪失感』を大きく表現した作品と成った為、その完成に伴って大きな“『喪失感』を得た”という表現が適切なのではないかという気がしている。少し、『迷子に、なろう』の「エミリー・ザ・ストレンジ」を思い起こさせるが、今度は自分で作り出して自分で得た。空っぽの自我すら相対化してプロデュース対象としてみれるならいよいよ化け物じみてきた…と言いたくなるけれど、流石に今の『ただ呼吸していたい』姿からは程遠いかな…。今はただ、プロモーションが始まるまではゆっくり休んでくださいねとしか。でも、ご飯はそれなりに食べてよね。

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次のアルバムの作風として最も素直に考えつくのはテーマが「死」なケースである。『桜流し』『真夏の通り雨』『花束を君に』の詞に共通するのは喪失だ。こうなると、アルバムの他の曲もそれに似たテーマを持つのでは、と思いたくなる。

しかし、そんなアルバムを作ってくるかというと、ヒカルの従来の曲作りの作法では難しい。テーマがバラバラだからこそ、各楽曲毎に独立してクォリティーを上げていく事ができるのだ。少しわかりにくいかもしれないが、ヒカルの場合、要するに、似た曲調が2曲以上出来上がりそうになったとしてもアイデアを統合してひとつの楽曲に仕上げてしまう。2曲分のアイデアからよりよい部分だけを取り上げて1曲を作るならばそちらの方が別々の2曲よりクォリティーが高まる可能性が高い。蓋然的には、そういう構造になっている。

更に踏み込んで付言すれば、そうやって統合する事ができそうにないアイデア同士が、別々の曲へと発展していくのだ。ヒカルの曲がどれも他の曲に似ておらず、何れも独自の世界を構築しているのは、ヒカルがそうやってクォリティーに対して全く妥協しない、曲数を揃える為にアイデアを水増しするような事を一切しないその態度が、あの抜群のアルバムを作る一因となっている。

となると。『死』をひとつのコンセプトとして一旦立ててしまうと、どこかでアイデアに息切れが生じるのではないか、だから、制作の過程のどこかで、全く異なる動機で生み出された楽曲も存在するのではないか、という推理が一つ生まれる。

もう一つの推理は。「死」はヒカルにとって、実は汲めども汲めども尽きる事の無い、超巨大な水脈を掘り当てたようなようなものであって、語るべき言葉と奏でるべき音色、そして叶えるべき世界が次から次へと溢れ出してきて、もう自分の制作能力が追い付かない程になっている、という状況が今回生まれた、という推理である。

もし後者が叶っているとすればそれは、今までのヒカルのアルバムが箱庭の中の出来事だったのではという位に図抜けてスケールの大きな作品になっている筈だ。薄い現世を挟んで天国と地獄の総てを描き切ったような、そんな作品に仕上げられる気がする。底無しの天井知らずなんて生易しいもんじゃない、落ちたり飛んだり広がったりといった感覚自体が麻痺する程の迫力と存在感。それは即ち、『桜流し』『真夏の通り雨』『花束を君に』がまだ第1楽章の冒頭に過ぎなかったという事だ。

私は、幾ら何でもそれは時期尚早だと思う。そんな作品を作ったらまたここから10年は休まないと収支が合わないだろう。それは…いやヒカルだから「あるんじゃない?」と思えてくるな…怖い…。


まぁいいや、魂が空っぽになりそうだが書くだけ書いておこう。キーワードは「娯楽性」である。ここまでここまで重い3曲を書いてきて、それとバランスをとる為に、ただただ楽しいだけの音楽というのが対極の概念となるだろう。それを、先行配信曲でしてくるかどうか、だ。聴いて楽しい、歌って楽しい曲が配信されてくるならば、アルバムはバラエティーに富んだ、いつものヒカルらしい硬軟軽重織り交ぜた作風となっているだろう。一方、もし次の曲が『桜流し』『真夏の通り雨』『花束を君に』の続きに来る曲、「死」を扱った曲であるならば、もう後戻りはできない、そのままアルバムは「死」一色の作品になっている可能性が高い。

反駁としては、次の一曲によって『桜流し』『真夏の通り雨』『花束を君に』から続いた"4部作"が完結する、というケースが考えられるがもしそれをするとしたらその時は『真夏の通り雨』『花束を君に』と同様、他の曲と一緒に「2曲同時配信」を行ってくるだろう。そして、そのもう一曲は、娯楽性の高い、音楽の楽しさを体現した楽曲になっていると予想する。


さて、どの予想や推理が当たっているかはわからない。当たっていなくともよい。「ニューアルバムが楽しみだ」という期待感をエネルギーとして、想像力をはたらかせて日記を記したに過ぎない。こういう事をさせるだけのパワーが、ヒカルのニューアルバムにはある。皆さんも遠慮せずに、その期待感をいろんな風にカタチにしていってくださいな。意外な発見が、何処かであるかもよ?

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『Automatic/time will tell』がリリースされたのが98年12月、アルバム『First Love』が99年3月。
『Addicted to You』が99年11月で、アルバム『DISTANCE』が01年3月。
『FINAL DISTANCE』が01年7月で、アルバム『DEEP RIVER』が02年6月。
『COLORS』が03年1月で、アルバム『ULTRA BLUE』が06年6月。
『ぼくはくま』が06年11月でアルバム『HEART STATION』が08年3月。

つまり、それぞれ、最初の収録曲がリリースされてからアルバムが発売されるまでに、
1stアルバムは3ヶ月、
2ndアルバムは16ヶ月、
3rdアルバムは11ヶ月、
4thアルバムは41ヶ月、
5thアルバムは17ヶ月、
それぞれかかっている。

来たる6thアルバムは『桜流し』が12年11月リリースで16年9月発売だから46ヶ月で、最長のスパンでレコーディングされた作品となる予定だ。

こうなると気になるのは、アルバムとしての統一感だ。ヒカルとて1人の人間、4年も経てば物事の考え方感じ方捉え方も変わるだろうし仕事に関して新しいスキルを身につける事もあるだろう。別人のように変貌していてもおかしくないスパンだ。大学入学して卒業する年月だからね、最初の授業で提出したレポートと卒業論文ではまるで違ったものになっている。

ましてや、ヒカルにとってこの4年間は激動であった筈だ。母を亡くし伴侶をみつけ新しく増えた家族と共に子を授かった。それはもう、様々が大きく変化していても不思議ではない。あとは、その私生活がどこまで作品に反映されているか、だ。

『桜流し』『真夏の通り雨』『花束を君に』の3曲を聴く限り、楽曲としての、作風としての違和感はまるでない。それどころか、今までのどのアルバムよりも統一感の強い一枚になる予感すら漂わせている。寧ろ心配すべきなのは、アルバムに統一感が欠けているかもしれない事よりも、統一感がありすぎて作品全体がモノトーンになっていやしないかという方なのかもしれない。

それを占う意味でも、いつになるかはわからないが、次に発表になるリーダートラック、先行配信曲の曲調に関心が集まる。果たしてどんな感じになるだろう、少し推理してみようかしらんという話から、また次回。

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ニューアルバム発売まで後9週。なんだろう。長い。流石に待ちわび過ぎたか。3年も6年も8年も待ってたくせにたった2ヶ月ちょっとを長く感じるとか、何というか、しゃらくせぇ。どーんと構えていたいと思うのだが、そわそわ、そわそわしてしまって、ついついキョロキョロあたりを見回してしまう。何なんだろうこれは。

毎度市場の話をしているが、それはヒカルがPop Musicを標榜しているからであって、私には直接関係が無い。寧ろ、"向こうの都合"をこちらが書いてみているという構図。興味が無い訳ではないが成否が価値観に組み込まれていないので、"関係が無い"という言い方がいちばんしっくりくる。ヒカルが居て、私が居て、歌があって、繋がる。That's All. 他に何か、言う事があるのだろうか。

「私」というのは、i_さんに限らない。これを読んでいる貴方の「私」もまた、歌に耳を傾け、ヒカルと向かい合う。関係とはまさにそれであり、他者はまた次の機会だ。恐るべきは歌であって、世界に広がる。皆の「私」がヒカルと向き合う。その時間帯がやってくるのだ。

究極のリアリティ。LIVEまでその表現はおあずけでもいいのだが、今回のヒカルは輪郭をハッキリクッキリ描くだろう。ハイレゾを視野に入れて高音質のマスター音源を録音しているから、とか発声法を見直したから、とか更に高いマイクに入れ替えたから、とか理由は幾つもつけられるが、ヒカルの歌は鮮明になる。曖昧さが排除されていると言いますか。繊細で小さな音は至る所に鳴り響くが、どれも確固たる意志と存在感を持ち合わせている。まるで手で触れるようなはっきりとした言葉の、声の輪郭。ニューアルバムでヒカルは、自らの存在を極めて鮮明に聴き手に伝える事に成功している。



…なんていうレビューを、ニューアルバムを聴いた暁には書けるような予感がしている。果たしてどうなりますやらな。

でも、目を瞑った時、私にとって最もリアリティのある存在は宇多田ヒカルである。まるでそこに居るような、いや、まるでそこに居るのより遥かに存在感があるような、そんなクッキリした存在なのだ。かつては、ガスになってこの星を包み込みたいとか、自分が生きてるのか死んでるのかわからない、と言ったあやふやな事を言っている時期もあったが、今のヒカルの、私の中のイメージは、殊の外クリアーである。なんだろうなこの感覚。吉良さんの死を全く予感できなかった感覚なので、アテになるかというと自信が無いのだけど。

子育てを通じて、キョーレツな「生きる意志」を育んだとしか思えない、という陳腐な表現が今の私に言える精一杯だ。自己嫌悪も自己悔恨も全て受け止めて、それでも生きる事を躊躇わない、誰に許されなくとも生きる。そんな強さを今のヒカルに感じる。どこまでこの感覚が当たっているのかはニューアルバムを聴けば明らかになるだろう。具に見守りながら待つ所存です。

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19名刺殺事件は、思想犯と受け止められるのがいちばん怖い。模倣犯とまではいかなくても、思想に共鳴・共感する人たちが出てくるだけでも脅威は増す。ある意味、組織だったカルトやテロリストよりも厄介だ。組織なら本拠地を叩けばよい(できるかどうかは別にして、理屈上はね)が、思想の伝播を根絶するのは難しい。特に今回、衆議院議長に宛てた"計画書"が公開されたのには寒気を感じる。あの文を殺人に関する部分だけ削除して見せられたら共感する層はぐっと厚くなるだろう。これが安楽死の議論だと錯覚させればそれは安直に可能である。

ポイントは、本来そこではないのだ。殺人という事実そのものが重要であり、動機が崇高だとか卑劣だとかは関係ない。そもそも、殺人という現実に対して動機について語る事自体が誤りなのだ。人はどんな理由でも人を殺せるし、理由がなくとも人を殺せる。それだけの事なのだが、我々は高度に組織化された教育を受けて育っている為その事実を忘れがちである。更に、この国は他国に較べて殺人が異様に少ない。他方で自殺大国であり死刑執行国でもあるが。どうにも、殺人には、よほどの事情があるに違いないと思ってしまう。

違うのだ。どんな酷い事情があっても人は人を殺さない。理由があって殺す場合は、自明過ぎる場合がほぼ総てなのだ。正当防衛や事故など、社会的な事情でその内実が正確に伝わらないのが現実ではあるが、ひとたひ事情がわかれば議論の余地はない。


一方で、そこに真っ向から矛盾しているように思えるが、優生思想自体大変危険なものである。国籍や人種だけを理由に大量に人を殺す。ホロコーストは歴史的事実だ。何が危険かといえば、「人は人を殺す」という現実を激しく誘発するからだ。だから思想に取り込まれてはいけない。話の順序が大切である。人は殺す為に理由を探し始めるのだ。それが集積されると戦争となり、社会的に容認される。

だから、人を殺す理由を与えてはならないし、動機に同情してもいけない。どんな理由であれ、他の方法論が存在する。人を殺すのは、問題自体を「なかったことにする」為の手段であり、問題の解決から最も遠い場所にあるものだ。人の問いは、常に如何に生きるかという事なのだから。付言しておくと、だから、「逃げる」とか「避難する」のは立派な解決方法である。結果生きているのだから。苦しかったらあっさり逃げましょう。他の生き方を探すのも生き方のひとつですよ。


こういう話は幾らでも長くなるので、ここらへんで打ち止めにしておかないとな。こんな事を書く為にこの日記はある訳じゃあないんだから。次回からは通常運転に戻ります。多分。

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件の事件の被害者は死亡者19名、負傷者25名となった。被害者と関係者の皆様には再びお悔やみとお見舞いを申し上げます。何という事だろうな。

事件の調査とその報道に関しては現時点で言える事はさほど無い。いつも言っているように、責任の追及はいちばん後でよい。原因究明と再発防止の妨げになるのなら寧ろ積極的に棚上げするべきだ。遺族の方々の感情を汲む際の配慮を怠らず尚、社会として負の流れを作らずに前に進まなければならない。

前回も触れたが、どうやら、殺人事件として19名の被害者というのは平成に入って最悪らしい。カルト関連や池田小の事件より被害が大きい。実際の動機がどうであったのかは想像もつかないが、たとえ取り繕った言い訳だとしても、優生思想がカルトを上回る危険思想である事を、この事件で人々が学ぶ事になるかもしれない。ヒトラーの昔からわかりきっている事とはいえ、人種や国籍であっさり差別する言論が溢れている中で"正気を保つ"のは思いの外難しい。余程気をつけておかねばこの国ではあっさり優生思想に飲み込まれてしまう恐れが出てくる。今回の犯人の動機の証言に即座に共感した人は、少し立ち止まった方がよい。

どちらの方向に対しても思考停止はしてはいけない。あらゆる検討を加え、禁忌無く万物に批判的思考を付する事は人間にとって最重要課題だ。だからこそ慎重でなくてはならない。どちらの方向に対しても、である。

一方で、感情の問題に対して言える事は無い。ただひたすら、『真夏の通り雨』を聴いて心を癒やしてくれたら、と願うばかりだ。身近な人を喪った悲しみに対して、この歌は本当に心に響く。今夜のNEWS ZEROでも流れるのだろうか。いつも以上に、心を沁み尽くすに相違ない。そこから『花束を君に』の心境に至るまでには、なかなかに時間を要するかもしれないが。


世界というのは不思議なもので、こうやって書いてる私も別に今昨日までと生活が変わってしまった訳じゃない。ニュースできいて「なんて日だ」とだけ呟いてぐーすか昼寝をしても全く構わないのだ。後でYouTubeで漫才の動画でも観て大笑いしているかもしれない。テレビやラジオを消せばもうそれだけで総ては遠い国の出来事になる。実際は結構近いんだけどな。

ヒカルも今夜のツイートは『ホテルで、「これだ!」と納得の最適なエアコンの温度/風力設定に辿り着いた時のやり遂げた感。 』と、何だかとても楽しそうだ。いつだったか、闘病生活に苦しんでいる方がラジオにお便りを寄越していて、「声優同士が些細な事他愛ない事で笑い合っているのに触れてるだけで随分と救われる」のだと。自分の毎日が常に暗く苦しいものであるが故に、ささやかな日々の楽しみを気楽にお裾分けしてくれるのが癒やしになる、と。今私は表現をちょっと捏造してしまったが(言い回しを忘れちゃったもんで)、そういったニュアンスの事を話されていた。緊張感のある報道が続く中で、誰かがヒカルの呟きに触れてふっと肩の力が抜けていてくれたら、と願わずにはいられない。しかし、にしても、今ホテルに居るんだな。iphoneからだし、一体今地球の何処なんだろうねぇ?

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まだ今朝未明午前2時半頃の出来事という事で詳細はわからないが、現時点で死傷者計60名という大規模な殺傷事件が相模原市緑区の障害者施設で起こったらしい。早々に施設の元職員を名乗って犯人が出頭したという話だが、一般論としては、すぐには油断は禁物である。今回の事件は違うようだが、犯人が複数、あるいは逮捕者が身代わりや騙りで実行犯がまだ潜伏しているかもしれない。報道は、まずは全力で犯人の真偽の程を調査し報ずるべきだ。

…べきなのだが、何故か職員の人たちや被害者の家族の皆さんにインタビューをしてそれを全国に向けて流しているようだ。視聴率に縛られセンセーショナリズムに殉じなければならない民放は(建て前上は)致し方なかろうが、なぜ公共放送を名乗る局まで以下略。それ前回散々やった。

いやしかし、被害に遭った当事者たちの精神的な保護に関するガイドラインに即した対応をしてくれているのか、甚だ疑問だ。事件直後の極度の緊張状態において、意図的にフラッシュバックを誘発する可能性が(僅かにでも)あるインタビュー行為は相手によってはPTSD等精神的外傷を酷くする恐れがある。現場の状況については捜査にあたっているプロフェッショナルな皆さんに訊く方がまだマシだ。いや、彼らもちゃんとガイドライン(があるなら、だが)を守って被害者の皆さんと接しなければいけないが。


先日、今年の殺人事件の件数が低い水準で推移しているというニュースが入ったばかりだ。確か、上半期は日本全国で500件未満だったのではないか。その数字に比して、今回の被害者の数はかなりのインパクトがある。

結局書かなければいけないか…。要するに、このような無差別大量殺人は極めて特異なケースであり、これをして「最近物騒になってきた」などとは決して言えないどころか、特異であるという事実から、こと殺人事件に関してこの国は恐らく世界史上でみても最も平和な国である。その事実は今回の被害者の皆さんと遺族の方々に対しては微塵も慰めにならないどころか哀しみを増させる一方なのだが、報道量と現実の状況は何の相関もないどころか負の相関をもつとすら言ってよい。こういう事件が「ありきたり」になって報道しきれなくなっていけば、それこそが凄惨な世の中である。


昨日ちょうど『FINAL DISTANCE』発売15年ということで同曲を聴きながら池田小の事件について思い出していた。「あのような悲劇を二度と繰り返してはならない」、誰もがそう思った事だろうが、今回の事件の報道に接して無力感に苛まれてはならない。15年前と比較して日本での殺人事件認知数は減少を続けているのだ。その状況を省みずに感情論で動いてはいよいよ逆効果である。そちらを向いては、いけないのだ。

しかし、人の命は数ではない。喪った人にしたらその人の命は替えのきかぬもの。同質でないものを数える事は出来ない。統計上殺人が減っただの増えただのは何の意味もなさない。そして、もう取り返しはつかないのだ。遺族の皆様には心よりお悔やみ申し上げます…。

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「 #とと姉ちゃん反省会 」タグの怨念のような呟きを後目に、先週には「とと姉ちゃん」は過去最高の視聴率を記録したというニュースがあった。ちょうど私も先週「少しは評価を回復してきたか」と書いた所だったのでそういう潮目なのだろう。

勿論前に書いた通り、先週も相変わらず雑な演出と雑な脚本で、そこだけを取り上げたら「目も当てられない」状況であるし、第一、朝ドラの視聴率って評価が難しい。単純に「つまらなくなったら見なくなる」というものでもないからだ。

いちばん大きなファクターは「テレビ視聴習慣の様態」である。その時間、テレビをつけて一息つくのは決まっている。さぁどこのチャンネルにしようか、という時にどの番組もつまらない場合「じゃあNHKにでもしとくか」となるケースが少なからずある。更に、前の番組や次の番組との繋がりもある。これからの季節は高校野球という強い追い風も吹くのだ。なぜ国営放送が民間企業の宣伝番組を放送するのか未だにわからない(ABCテレビが放送する分には構わない)が、現実としてそうなっている。本来であれば、こんな放送をするのならインターハイ全競技全試合を放送するのが国営放送の素直な在り方だろう。何? 国営放送ではない? それは失礼しました。

…すまん、ちょっと腹が減ってるみたいだ。話を戻す。

「とと姉ちゃん」の視聴率が最高記録を出したのは、ひとまず内容のお陰であると仮定しよう。とすると、皆が見始めたのは単純に、いよいよ雑誌作りが始まって唐沢寿明が画面に多く出るようになったからだ。高畑充希も大変だ。あんな主役級と並ばなきゃいけないなんて。まだ鞠子(相楽樹)がうだつの上がらないキャラに成り下がってくれているのが救いか。

「 #とと姉ちゃん反省会 」タグでみられる脚本の粗を指摘する呟きの多くは的確である。先週指摘した通り、このドラマは真面目に見れば見るほどウンザリさせられていく性質を持っているので、ここに至っては最早怨恨に近いムードすら漂っている。冗談抜きで9月の末を迎えた後は脚本家の人襲われたりするんじゃないのというレベル。これではいけない。もう一度このドラマの楽しみ方を書いておこう。

・昨日までの事は忘れる。今日の話を明日まで覚えてちゃダメ。

・音楽が流れてきたらそれに耳を傾けよう。

・役者さんたちの芝居の巧みさに目をやろう。

・美男美女が出てくるのを見て楽しもう。

・コメディ・パートを待ち望もう。


これくらいかな。何より大事なのは、「暮しの手帖」の事を忘れる、これである。あんな質実剛健なつくりの雑誌とこの雑な演出・脚本のドラマが関係ある訳がない。「CASSHERN」だって、アニメの「人造人間キャシャーン」と較べてしまうから脚本が浅はかで支離滅裂にみえただけで、たまたま名前が同じになってしまった全く別の物語であると割り切らなければならない。そこさえ踏み越えてしまえば、貴方の憤りは大分薄れる。

何より、主題歌である。最近、15分のエンディングに流してくれないかなと思うようになった。どれだけ突っ込み所満載な脚本の15間を見せられても、あの歌を60秒も聴けば優しい気持ちになって「きっとスタッフの皆さんも頑張っていらっしゃるんだ」という心境になれる。歌の力は偉大だ。ごまかしているだけという気がしないでもないが、特に朝に視聴している方は1日のスタートがどんより雲からになってしまう訳で、別にごまかしといても構わないじゃないか。どこか後で時間が空いたら「 #とと姉ちゃん反省会 」タグを辿って溜飲を下げておく、と。それまでは『花束を君に』の色香に惑わされておきませう。

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そうか、今日で『FINAL DISTANCE』発売から15年か。向こうから15年後を眺めるのは大層難しかったが、なるほど、こんな風になってるのねぇ。未来への風景というのも興味深いもんだ。

この時のセッションでヒカルが痛感したのは、総合して言えば「曲が作曲者の意図を超えて育つ」という事実だろう。作曲は、最初に頭の中に浮かんだアイデアを忠実に現実の音にする事にとどまらない。作っていくうちに、向こうから何かを喰い破ってくるかのように、「生まれてくる」としか表現し得ない、強い存在を感じる事だと身を以て経験した。その最初…かどうかはわからないが、その記念碑的作品ではあるだろう。

翻って15年。『俺、こんな作品二度と作れねーよ。』という一言は、作品が自らの意図を大きく超えて育った、という事を意味しているようにみえる。他にも、母を亡くすのは一度きりで十分だから、とか(確かに)、同じ作風を繰り返す事はこれからもない、とかの解釈も可能だろうが、どちらかというと、“まぐれ当たり”を指して「お、俺今のもう一回やれって言われても無理だから! たまたま当たっただけだから!」と狼狽しているのに近いように思える。

でも、クリエイターはそれでいいのだ。人生は一度しかない。毎回そのまぐれ当たりに辿り着いた挙げ句に人生を終えれば、本人の実感とは別に、それがその人の実力としての評価になる。要は、まぐれ当たりをその都度捕まえて世に出すまでの苦労に耐えられるか、だ。それが出来る人だからここに居るのだ。

しかし、毎度まぐれを当ててばかりだと今度はそれが普通になってしまってまぐれでなくなっていく。そうなると更なる大きい当たりをどこかで見つけなくてはならなくなる。その時に、そこからより高い場所を目指すか、一旦下山して他の山を登り始めるか、悩みどころだ。今度のニューアルバムはその問いに対する答になっているだろう。

『FINAL DISTANCE』には、したがって、今はもう取り戻すべくもない初々しさがある。この完成度で初々しいもないと思うのだが、新鮮な驚きと、二度と来ないかもしれない瞬間を大事に大事に抱き締める幼けさが録音から漂ってくる。初披露のUnpluggedも見事だった。1回目と2回目、どっちのテイクだったか忘れちゃったけど。

33歳になった今でも「二度と」と言えるヒカルは恵まれている。しかし、恵みを齎したのはそうやって15年前から大事に大事に歌を歌ってきたヒカル自身だ。それをして孤独といわしめるのは簡単だが、最早今はそれを超えた所に居るのだろう。我々が答を知るまであと9週間。待ち遠しいの一言では言い表し切れない感情を抱えながら待つとしませうか。

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Awestrickenて見慣れない単語だなドイツ語か何かかなと思ったら『畏敬の念に打たれる。』ときた。嗚呼、"awe-stricken"て事ね。ゲシュタルト構築したぜ。aweといえばSCv1の詩は『In awe...』から始まっていたなと回顧する。"self-prophecy"に関する詩だが、更に強力になった今ではもう「下手な詞は書けない」と思っているのかな。残念。含意が判明するのは事が起こった後だ。それまでは運命に言わされ続けるしかない。

その能力をこの5年間で"手懐けた"というのなら怖い。最早それはただの超能力者だ。何か、面白くない。

どう折り合いをつけたらいいかは本当にわからない。

ただ、ただ手を拱いているだけでは3年前の夏の悲しみにはかなわない。それを乗り越える、対峙する、いや、その悲しみと共に生きるにはどうしたらいいかという時に、ヒカルが作詞という行為をどう捉えたか。その結果が、一旦もう出ている訳だ。アルバムに収録された楽曲の歌詞として。

今。ヒカルがどういう精神状態にあるか。『今回は全部の歌入れが終わった夜から、泣いたぜ。』――よく読んだら、"夜に"じゃなくて『夜から』なんだよね。そこから一定の継続した時間、或いは断続的に泣いたって事だよね。なんか、凄いなぁ。洗い流されたというか、山ができたというか。山か。山かもしれんな次のアルバムは。これは、楽しみだわ。

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インスタグラムの地面シリーズがそのうち写真集になるんじゃないかって勢いだな。タイトルでも考えてみるか。

最初に出てくるのは「Hits on the ground」とかだろうか。「踊るヒット賞・地面編」みたいなもんか。地面に転がっている"ヒット商品"の数々。それを考えると、写真を撮るだけで持って帰らなかった某DVDの現物を持っている人は、居たらぁけど、写真集が出た暁にはレアアイテムとして重宝する事になるな。もう一度拾い直すなんて、ないんだろうけれども。

「ひろいせかいでひろいもの(広い世界で拾いモノ)」なんてのはどうか。確かに、一発で中身のわかるタイトルだがこの語調は宇多田ヒカルらしくないな。いや、そもそも拾ったものの写真集なんて世間的に宇多田ヒカルらしいかと言われたら違う訳でそれを言い出したら始まらないんだが。

「拾得物Shoot !!」。今度もダジャレかよ。和洋折衷案。ShootもHitもまぁ大体似たような語感だがベクトルがちょっと違う。これじゃ拾って捨てたみたいな。いや、実際ヒカルは拾って写真を撮った後拾ったモノをどうしてるんだろうか。件のDVDはそのまま戻したようだが、ちっちゃな靴とかはそのまま持って帰ってもかさばらないし。もしいつもその場所にそのまま戻してるんなら、このタイトルはそれはそれでアリかもわからない。

「Pick-ups from the Earth」或いは「地面からの贈り物」なんていうやや気取り気味のタイトルも考えたけれどあんまり大層な感じが出るとあの素朴で「端っこの方に目をやりました」っていうコンセプトがやや薄れるかなとも思う。写真全体としてはアーティスティックなんだけどね。

なら「地球の片隅」なんてどうだろう。球体に隅も何もないのだが、だからこその忘れられた感が堪らない。悪くない。ただヒカルさんに「隅」の字を見せても「隈? くま? クマーッ!」とか言い出しそうなのですなおに「かたすみ」とひらがなにひらいておいた方がいいかな。「地球のかたすみ」。あれ、なんかイカスミ感やカラスミ感が出てくるな…。

とまぁ、出るかどうかもわからない写真集のタイトルについて考えるという不毛な日記だったのだが、いや、あれだな、儂タイトル考えるの好きなんだな。この勢いでニューアルバムのタイトルも考えたいけれど流石にそれは難易度高過ぎなので今回は遠慮しておく事にしますかね。でも、既にヒントは出てるのかもしれないんだよねぇ…?

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インスタグラムの地面シリーズがそのうち写真集になるんじゃないかって勢いだな。タイトルでも考えてみるか。

最初に出てくるのは「Hits on the ground」とかだろうか。「踊るヒット賞・地面編」みたいなもんか。地面に転がっている"ヒット商品"の数々。それを考えると、写真を撮るだけで持って帰らなかった某DVDの現物を持っている人は、居たらぁけど、写真集が出た暁にはレアアイテムとして重宝する事になるな。もう一度拾い直すなんて、ないんだろうけれども。

「ひろいせかいでひろいもの(広い世界で拾いモノ)」なんてのはどうか。確かに、一発で中身のわかるタイトルだがこの語調は宇多田ヒカルらしくないな。いや、そもそも拾ったものの写真集なんて世間的に宇多田ヒカルらしいかと言われたら違う訳でそれを言い出したら始まらないんだが。

「拾得物Shoot !!」。今度もダジャレかよ。和洋折衷案。ShootもHitもまぁ大体似たような語感だがベクトルがちょっと違う。これじゃ拾って捨てたみたいな。いや、実際ヒカルは拾って写真を撮った後拾ったモノをどうしてるんだろうか。件のDVDはそのまま戻したようだが、ちっちゃな靴とかはそのまま持って帰ってもかさばらないし。もしいつもその場所にそのまま戻してるんなら、このタイトルはそれはそれでアリかもわからない。

「Pick-ups from the Earth」或いは「地面からの贈り物」なんていうやや気取り気味のタイトルも考えたけれどあんまり大層な感じが出るとあの素朴で「端っこの方に目をやりました」っていうコンセプトがやや薄れるかなとも思う。写真全体としてはアーティスティックなんだけどね。

なら「地球の片隅」なんてどうだろう。球体に隅も何もないのだが、だからこその忘れられた感が堪らない。悪くない。ただヒカルさんに「隅」の字を見せても「隈? くま? クマーッ!」とか言い出しそうなのですなおに「かたすみ」とひらがなにひらいておいた方がいいかな。「地球のかたすみ」。あれ、なんかイカスミ感やカラスミ感が出てくるな…。

とまぁ、出るかどうかもわからない写真集のタイトルについて考えるという不毛な日記だったのだが、いや、あれだな、儂タイトル考えるの好きなんだな。この勢いでニューアルバムのタイトルも考えたいけれど流石にそれは難易度高過ぎなので今回は遠慮しておく事にしますかね。でも、既にヒントは出てるのかもしれないんだよねぇ…?

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ったく、普段は謙虚めで自分の事讃えたりしねぇってのに。「私は母親似の美人です」っつったりしても違和感ねーのによ(キャラ的には違和感があるが、事実としてはな)、そんな事微塵も言わねぇ。なのにこと作品が完成した時はいつだって自信タップリだからいつも「あれれ」ってなる。こんなに尊大だったっけと。だがしかし、やっとこっちが作品を聴いたら「なんだ、事実を言っていただけか」となる。「尊大になってたんじゃない。見たままを素直に伝えたに過ぎない」と。その、ヒカルが完成品を聴いて自信満々になってから我々がその全貌に納得するまでの謎の間。理屈ではわかっていても、この期間だけはヒカルが自信家で尊大にみえる。昨日から9月27日までが、その時期だ。

それも、慣れてきたっちゃあ慣れてきたか。これから、幾つものインタビューをチェックできる。その度に『俺、こんな作品二度と作れねーよ。』という一言を目にする。或いは、思い出す。なかなか自分からは言えない一言だと思うのだが、聴いたら私はきっと「嗚呼、こりゃ他に言いよう無かったわな。」と言うだろう。そういう事なのだ。

しかし、あと9週ずっとという訳ではなく、勿論先行配信曲があるだろう。それによってアルバムの全貌の片鱗(素で変な日本語だな)がかいまみれる。それは、ある意味では『真夏の通り雨』や『花束を君に』より重要だ。これらの曲は、シングル曲として、それぞれの曲の世界で完結していればよかったが、先行配信曲はそうはいかない。どうしたって、「アルバムの予感を運んでくる楽曲」としてみられてしまう。責任重大、だな。

となるとセレクトが難しい。シングルカットとなるとどうしてもタイアップとの兼ね合いがあるのでセレクトといってもそもそも選べる余地がない、というのが現実だったりするが、それでも、例えば10年前の『ULTRA BLUE』から先行配信された『This Is Love』は完璧だった(うわ、滅多に使わない熟語を使ってしまったぞ)。アルバムの一曲目、ストレートな曲調、煌びやかでインパクト抜群なイントロダクション。期待を抱かせるという意味ではこれ以上ない曲調で「うわ、こりゃまた大変なアルバムになるな」と思ったが、果たしてまさにその予感通り、『ULTRA BLUE』は大変な傑作となった。もう10年も前の話だが。

あそこまで行かなくても、いや勿論行って貰ってもいいんだけど、そういう『予感』を運んできてくれる曲がいい。『ULTRA BLUE』からの先行配信曲が、幾らヒカルが気に入っているからといって『日曜の朝』だったりしたら、予感は醸成されなかっただろう。こういう曲は、予感に導かれて辿り着くから真髄を味わえる。風を切って先頭を走ってくるタイプじゃない。

そういう意味では、『HEART STATION』からの先行シングルが『HEART STATION』だったのは冒険どころか無謀とすら言えたが、そこからアルバム後に『Prisoner Of Love』をシングルカットしてくるんだから事前の無謀も致し方なかったと言わせられたのだ。曲が揃ってるって、本当凄い。


そんな作品を作ってきたヒカルパイセンが『俺、こんな作品二度と作れねーよ。
』とまで言うアルバムである。ハードルを上げすぎて最早走り高飛び、否、棒高飛びみたいになっていたとしても大丈夫、なのだろう。…理屈で推測は出来るのだが、実感が伴わないうちはやっぱりただの妄想である。音楽鑑賞は体験である。その日その時その場になっていないと、本当の所はわからない。CDはコピーだが、体験は一期一会の、掛け替えのないものだ。おいらもまた『震えて待て』って、言うしかないんだろうな。早く来い来い9月28日水曜日。

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昨日は一気にいろんな記事が出た。すぐには追いつけないが、相変わらずマイペースで。

やっと『花束を君に』が配信でプラチナを獲得したらしい。25万ダウンロードだな。先月予測ポイント上では25万弱だったので最後の一押しというところだったが、朝の連続テレビ小説もあと10週でどれだけポイントを伸ばせるか。CDアルバム発売が決まったんなら買い控えになるのかな。毎朝テレビで聴けるんだからわざわざ買わなくても、と思ってる人は逆にドラマが終わったら花束欠乏症候群にかかるのだろうか。ダウンロードだけであと5万くらいは積みたいが、満員の甲子園くらいの人数か…なかなか難しいかな。でも『桜流し』が35万ダウンロードだからEVAファンの配信親和性を考えるとそんなに変わらないのかもしれない。

配信がどうしても肌に合わなくてCD発売を心待ちにしている人たちがどれくらい居るのやら。世代が巡り過ぎてどこの誰が何を買ってくれているのかさっぱりわからなくなった。ニューアルバムの発売は、結局のところギャンブルに近い。

社会現象と言われるまでになると「知らないとマズい」と言われるようになる。今だと「ポケモンGO?何それ?」と言ったら慌てられる、みたいな感じか。宇多田ヒカルは17年前それになった。だから買われた。

その、雰囲気作り。流石に、名が固定された大御所には難しい。誰もが既に知っているから改めて知る必要もない。大御所の新譜はいつの時代もそんな扱いを受ける。マイナスからのスタートなのだ。いや、現役を大御所呼ばわりするのもどうかと思いますが、そうやって「押し込み」をしようとするのが空気だという事だ。

だから、本来なら、長期間顔を出さない挙げ句の復帰はチャンスなのだ。居ない間に伝説化して復帰時には復帰前よりもてはやされるというパターン。エアロスミスみたいな。例が相変わらず古いけど。

しかし、今のヒカルは覚えられ過ぎているのかもしれない。そこのバランスだよね。適度に忘れてもらって、盛った評価とそっと入れ替える的な狡い手段が通じない。

それでいい。歌が気に入って買ってくれるというシンプルな人が増えるのがいい。だからまた通常盤仕様1形態、通常盤仕様1形態と連呼したくなる。ヒカルにとって自信作。それがわかった今となっては、「あとは梶さん頑張ってね☆」でしかない。古参は緩やかに縁の方で眺めている事に致します。

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