無意識日記
宇多田光 word:i_
 



を押さえておこうと、まずは
“MAKIYAMA JUNKO STRINGS”を検索。
牧山純子さんのblogを発見。
ちゃんとレコーディングのときの話もUPされてます。

2008年1月14日 某大物アーティストのアルバム曲のレコーディング
http://junko-makiyama.sblo.jp/article/9487450.html

初めて読んだ気がしないから、
どなたかリンクはってくれたのを前に辿ったんだな私。
(記憶があやふやですいません)

んで、ピアニストの方の名前は“Okamoto Hiroshi”さん、か。
なるほど、彼がその、女性だらけの中に
ひとり放り込まれた男性だったってわけね(笑)。

彼の名前は冨田謙さんのブログこの日にしっかりとご登場。
http://blog.livedoor.jp/mintmania/archives/50916067.html
> -Ballad Version-収録当日のスタジオでは、お馴染みKonさん、ピアノで岡本洋さんと
> 金原さんセクションでうっとりする様な切ない演奏が繰り広げられ、そこにヒカルさんの
> うたがドラマチックに歌い上げられて、僕は現場でのストリングスのチェックをバタバタ
> しつつも実に感動の一日でした。

、、、あぁそうか、FlavorOfLifeBalladVersionと同じ人か。
繋がっていなかった。これは失礼いたしました(≧へ≦;

で、オフィシャルサイトを探したんだけど、なかった。
彼のプロフィールがわかるページとなると、
ココくらいしかないんだよね。
http://www.rockoncompany.com/artists/okamoto.html
それによると、ふむふむ、、、

> 1984 NOVELAに加入。 3枚のアルバムを残す。

え!? NOVELAって
“元祖ヴィジュアル系ロックバンド((c)伊藤政則)”とまで言われた
あのNOVELAですか??
後にGERARDを結成する永川敏郎の後任の人だったの??
(i_はGERARDのCD持ってるしライヴも見たことあるのだ)
80年代中期のNOVELAの音知らないからなぁ私、、、。
でも、NOVELAでWikiってみると、Keyの人の名前「岡本優史」サンになってるよ!?
確かに苗字は一緒だけど、、、謎は深まるばかりだ、、、((c)odyssey)


人脈って、いろんなところで繋がっているんだねぇ。(しみじみ)

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音楽聴いてこんなに号泣したのいつ以来だろ。
ハナミズが止まらないよ(つдT)
光が「想像を超える、絶するもの」とまで言った理由が漸く体感できた。
あのメッセにほんのちょっとだけだけど
懐疑的だった昨日までの自分がとても恥ずかしい。

なんだかよくわからないけど、
OVとQV両方併せて聴いて今、
音楽の海に放り込まれてた感じ。
オリジナルカラオケもすげー。

いや、これはキツイ。

涙が溢れて止まらないよ。

やーばーいーーーぃぃ

ひぃ~~~かぁ~~~~るぅううううう(たぁるるる~w)


、、、ダメだこりゃ(苦笑)。
落ち着いたらまた書きますね。
涙で画面が霞むーこりゃまだDVD見れないや。


*****


とりあえずハナミズが収まるまで20分待った(苦笑)。
正直、2回目を聴くのがいろんな意味で怖いので(汗)、
落ち着くまで何か書いて気を紛らわすことにしますた。



なんでしょーね、このシングル、いや、作品は。
シングルカットっつーから、
光はプロモ活動に参加してないっつーから、
テレビドラマの主題歌っつーから、
なんとなく、いつにもまして素直に
「うわーい、宇多田ヒカルのニューシングルが出たぞー」って
喜んでケッコー気軽に買って帰ってきたんだけどな。けどな。
ブットンダ、といったらいいのか感動シタ、といったらいいのか、
自分の感情が自分で把握できないなぁ。
これだけ泣いたのは、そうそう、ヴィクトル・ユゴーの
「レ・ミゼラブル」豊島与志雄訳全4巻約2400ページの
ラストの感動に囚われて以来だわ。
最早“I'm a prisoner of Prisoner Of Love.”です私ごめんなさい。(何故謝る)。

もう一度光のメッセを反芻してみる。

*****

『久しぶりに自分の歌でちょっとぐっときた。』
『いいストリングスがとれて歌がとってもよくなりました。 』

『なんか震えるよ。 』
『全然違う世界が見えるの。 』
『そのイメージを、超えてくれる時。想像を超える、絶するものが返ってくる時。 』

『「がっかり」の正反対。

 圧倒的な満足感。「感動」かな?

 これを求めて私は生き続けてるのかな、と思う。』
 

*****

昨日まではこれを「ふーん」っていう感じで読んでたんだけど、
今は首が前後にモゲ落ちんばかりに深く頷いて読める。
今夜の私は昨日までの私と違う人。いやだからなんだそりゃ。

といっても、なんだろー、まだ1回しか聴いてないから
確たることはわかんないんだけど、じゃあ
Original Version(っていつも書いてるけどそんなクレジットどこにもないからねw)が
つまんなくてQuiet Versionが凄い、とかそんなことでもないような気がする。
もっとこう、この曲の存在自体が、というか
宇多田ヒカル自体が、というか、、、、
もっといえば、音楽の存在そのものに触れられるというか
同化できるというか・・・よくわかんないw

“音楽そのもの”っていうのは、
それを巡って有史以来いろんな人間が感動してきた、
その感動の集合体。音楽が齎してきた感動総ての集合の集合?
もう自分でも何書いてるんだかわかんなくなってきたんだけど(苦笑)、
とにかく、いつのまにか自分が“何かとてつもなくおおきなもの”に触れる、
そういう存在を知るキッカケを作ってくれる、
そんな曲、というかCDというか作品というか。

どんどん書くことが大袈裟になっていくぞー(@∀@;

うーん、なんなんだろ、
この“Prisoner Of Love”っていう曲が、
例えばLED ZEPPELINの“Stairway To Heaven”やQUEENの“Bohemian Rhapsody”みたいな
“(少なくとも20世紀の)人類にとって特別な曲”っていう
ランクまで行ってるかというと、そうでもないような気がするんだが。
んでも、あの謙虚を大きく通り過ぎて自嘲自虐の精神に充ち満ちた光が
『久しぶりに自分の歌でちょっとぐっときた。 』と言わざるを得なくなる、
流石にココで照れたりはぐらかしたりはできんだろ、
という気分には、何故かなる。
i_的にも「感動で盛り上がって前後不覚に陥ってる状態」の
時に文章を書くのはあんまり好きじゃない、というか
よくいうところの「深夜に書いたラヴレター」状態なわけで(大苦笑)、
多分明日の朝起きてこれ読み返したら耳まで真っ赤になるくらい
恥ずかしくなるだろうな~と今思っていても、
何か書いて気持ちを落ち着けずにはいられなくなる、
そういう感覚に今陥ってる原因が、
この“Prisoner Of Love”っていう曲の
2つのヴァージョンと2つのカラオケによって
もたらされてしまった、というのはかなり、99.99%間違いない事実。
これをどう受け止めるかだな~いやほんまもうようわからん。


技術的なことを書いておくか。
まず、マスタリングは、クレジットの通りアルバムと同じ。
「シングル用にリマスターしないかな」と私書いたけど、
そんなことはありませんでした。
むしろ逆に、QuietVersionの方も同じタイミングで
マスタリングしたと考えられるので、
つまり1月のセッションの時点でQVの方も完成してた、
ってことなのかな。勿論時期をずらしてマスタリングを
テッドに依頼した、ていうセンもなくはないけど、
SterlingStudioの異常人気を考えると、
わざわざ2回に分けて仕事頼むなんてまどるっこしいことはしないだろうから、
やっぱり同時期完成の2ヴァージョン、なんだろうな。

歌は新録、かな。
まだ確信は持てないけど、たぶんそう。
終盤に行くにつれてまぁ細かい細かい歌い分けの妙がー。
200000000回くらい言われてきたことだけど、
やっぱ天才歌手だわ宇多田ヒカルは。
いやね、でも、最近の技術だと
同じテイクの歌をちょこちょこいじくって
これくらい印象の違うようにすることも、、、って思ったんだけど、
光本人が居るんだったら、歌い直した方がずっと早いよね。(笑)
どこをどう変えればいいか、一番わかってる人が一番歌えるんだし。

で、その“終盤”の“Stay With Me~♪”のパート、
なんという正攻法。正面突破のアレンジでした。
ここに関しては、OVよりQVの方が好きって言えるかな。
単純に、フェイドアウトよりちゃんと終わってくれる方が
私好みってだけなんだけどね(笑)。
いやそれにしても素晴らしい。
20000回くらい言われてることだろうけど、
やっぱり光は天才アレンジャー。


おぉ、やっと落ち着いてきたぞ私。
ほっぺたに涙の流れたアトが残っているというのは
生まれて初めての経験かもしれん。(笑)
あと、メガネに涙が堪ったというのは間違いなく初めてだ(笑々)
いや~いいね、たまにはこうやって遠慮なく号泣しとくのも。
なんとなく精神衛生上まことにとてもよろしい気が致します。


落ち着いてきたところで、
QVの決定的な美点を初聴時に確信したので、叫んでおきます。

チェロだ!

、、、いや、コントラバスもあるんだけどw、
OVでは、バスドラとベースっていう低音が凄くラウドで鉄壁で、
ストリングスってヴァイオリン(と多分ヴィオラもあるんだが私区別つかない(汗))の
音色はよく聞こえてたんだけど、
低音のチェロとコントラバスが掻き消されてるのか、
さっぱり聴こえてなかったんだよね。
それが、QVになって、ストリングス以外の楽器といえば
ピアノのみ、という状態になって、初めて
チェロの深みのある響きが、こう、下の方から
音像をぐぐぐぅうぅっと支えてくれててだな、

、、、いや、これが実にいい。
音楽を聴いて「海」を感じた。

この低音と、ヴァイオリンの中高音のコントラストが
なんとも凄い奥行を歌に与えていまして。
んで、ヴォーカルのミックスが面白いんだよQVは。
OVに比べてより近くに光の声を感じられて、
そいでより広い場所で歌ってるような残響になってるの。
うーん、意味わかるかなぁ(苦笑)。
まぁ、わかんなくてもいいや、何度も聴き比べてると
なんとな~くわかってくることだと思うし。
「OVは切迫感を、QVはスケール感を強調してる」
っていうことを前に書いたけど、
スケール感があるのは勿論のこと、
“光をより身近に感じられる”っていうのを
同時に表現してあるこのミックスは素直に感心。
アルバムを聴いたときも思ったんだけど、
とにかく最近のヒカルの作品のヴォーカルの録音は素晴らしい。
最近ヴォーカルアルバム聴いてないからよくわかんないんだけど、
やっぱり世界でもトップクラスのヴォーカル・サウンドなんじゃあ、ないのかな。


んでんで。そのグレイトなヴォーカル・サウンドと
低音から高音まで遍く澱みなく響き渡るストリングスサウンドで
注目してほしい点があるんだ。
その、QVでひときわ素晴らしい響きをするチェロと、
ヒカルの歌う最低音部のバック・コーラスの音。
その2つの感触が、とてもよく似てるの。
相性がいい、って言った方がいいのかな。
今まで、ヒカルの低音コーラスの声色の魅力って
何て言ったらいいかわからないけど独特だなぁ、ってずっと思ってたんだけど、
ようやっといい喩えが生まれたわけですよ。
「ヒカルの最低声部は、チェロのような豊かな響きだ」って。
QuietVersionのOriginalKaraokeだとよくよくわかるから、
チェロとヒカルの声のテクスチャーを、聴き比べてみてほしいな~。

そうそう、このOriginalKaraokeがまた出色の出来。
これはまた何度も聴き返していきたい。
ストリングスの響きもいいし、ベースラインの動きも
ピアノの一風変わった動きもよくわかる。
OVのピアノってなんか結構わざと不協和音ぽくしてあるの?
音程がハズれてるんじゃないかとすら思ったよ。
アルバムを聴いてるときはあんまり思わなかったのに、ちょと不思議。


これも前書いたことだけど、
こうやってシングルカットしてくれたら
カラオケヴァージョンが手に入るから、
やっぱりアルバム全曲シングルカットしてほしいわ。(笑)
いや、もう思い切ってひたすらカラオケヴァージョンだけ収録した
「HEART STATION(Origina Karaoke Album)」をリリースしてくれwww
これは欲しい。希代のトラックメイカー宇多田ヒカルの凄味を
十二分に堪能したいものですたい。


号泣して1時間以上が経過して、
平常心が戻ってまいりました。
やっとやっと、2回目を聴く勇気が少しずつ湧いてきたところです(^^;
次に書くときにはまたいつものタッチに
戻っていると思いますが、
とりあえず今回はこういうはしゃいだ内容で、お赦しくださいませませ。


あ、もちろん、真っ先にHikkiにはメールしたよ。ありがとう、って。



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PoLシングル発売間近だが,光本人は全くPR活動に携わっていない.考えてみれば不思議な事で,作詞開始前からこの曲はドラマ主題歌に決まっていた,即ち昨年の時点から5/21シングルリリースは既定路線だった訳で,EMIとしては幾らでも光のスケジュールを押さえられた筈である.となるとこの4月以降の光の仕事はEMIではない可能性が高い.とそう考えられる一方締切がタイトな国内仕事に目下取組中,との可能性も捨てきれない.何れにせよ今週は光の露出皆無でCDが売られ始める.PrisonerOfLoveという楽曲の力が如何なるものか,とくと眺める事としよう.

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少し前に某bloggerから"私のCD,FTBの2:29辺りで音飛びがあるのだがi_のはどうか"と問合せがあった.その時試聴してみて"いや,ないなぁ"と答えたのだが,さっきFTBを聴いていて何の事か漸く気がついた.FTB2番のBメロ,"Ha-Ha"というバックコーラスには1番のソレの逆回転が混じっているのだ.アクセントが声の頭でなく尻尾に来るから音が途切れた様に聞こえたんだな.納得.然もこのパート,母音の"H"が頭にある錯覚を起こさせんが為長いのと短く区切ったのを交互に繰り返している.何ともマニアックなアレンジだ.犯人はざねっちのような気がしますw

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音楽の話になると途端に面白くなるな。
特に金属音と宗教性についての考察は、光独自のものなのだろうか、
今まで私が考えもしなかったことなので、非常に興味深かった。

ただ、中に

> 錬金術から学んで金属を抽出する事を覚えて、金属のベルとか楽器とかを作って、

という発言があったので、やや補足をしておく。

“錬金術”についてはとりあえずウィキペディアを見ておけばOK。
どうも光の発言では錬金術は中世ヨーロッパのそれを指すように思うが、
ルーツはギリシア、もしくはイスラムまで遡ることができるらしい。


最古の金属文化…青銅文化が栄えたとわかっているのは、
とりあえず紀元前3000年頃のシュメール文明らしいから、
金属による楽器が最初に作られたのも、恐らくこのころだろう。


単純に“楽器”という括りでいけば、
最初の巨大文明であるメソポタミアの頃から(当然)楽器は存在していたみたい。
このページなんかを参照のこと。


更に他のページを検索していたら、こういうのまで見つかった。

氷河時代の音楽家達は象牙のフルートを作りました

どうやらかの有名な科学雑誌「ネイチャー」の翻訳記事のようだが、
(http://www.nature.com/news/2004/041213/full/news041213-14.html)
ここまでくると、如何に音楽と人との関わりが長きにわたるか、
気の遠くなる想いだ。
ラスコーやアルタミラの壁画によって絵画文化の歴史は有名になったが、
こういう音楽の歴史ももっと有名になってもいい気がする。
まぁ、実際に芸術そのものを鑑賞できないから、そこが違うんだろうな。

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原点回帰といえばきこえはいいが大概は後ろ向きに捉えられる.光の場合も何だかんだ言って一番売れてたのは99,00年なのだからその頃の作風の曲を書けば"あの頃をもう1度"なんだと思われるのは判っていた.だからこれ迄書かなかった訳であらゆる拘りから解放された今ならというのは確かに適切だ.然し何かそれ以上のものがこの曲にはある気がしてならない.何故なら未だ私はこの曲に特別さを感じられないからだ."これを求めて私は生き続けてる"と迄光が云う1曲.皆が讃える名曲なだけに穿ち過ぎと謗られようがその真髄を見極めたくて仕方がない.

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文化放送の受信が酷く三宅P拘りの良質Soundの話なぞ無意味に帰す雑音だらけの中光の歌声が突き刺さってきた.本人も自覚ある様だが光の声はCleanな空間より雑音だらけの中での方が魅力をより大きく発揮する.Classic等の歌手とは対極である.それを痛感するのがDrumとVocal位しか聴こえないモノラルAM放送だ.昔AutomaticをAMで聴いた時光の歌の雑草の様な"強さ"に吃驚した.今日"吉井歌奈子MusicTrip"で掛けてくれた曲はPrisonerOfLove.久々にその光の声の強さの質を再確認させてくれる秀曲だ.歌が突き刺さる快感.この歌が売れなきゃ嘘だろう.

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昨日の朝"ヒカルがタイトルに使う文字の傾向はどの様に作風を示唆するか"と考えた.例えば3rdはDPV3個の破裂音から成る為重々しい感じ,1stはfstといった無声音が主なので軽やか,2ndは丁度その中間といった具合.今回のHEART STATIONは音としても軽やかだがもう1つ特徴がある.ここで使われている字はAEHINORSTの9個.SherlockHolmesの短編"踊る人形"でHolmesが"英語で最も使われる字は多い順にE,T,A,O,I,N,S,H,Rだ"と語る場面があるがこれはそのままここで使われている9字になっている.このアルバム名は英語上でも極々"普通な"名前なのである.

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ひとことで表現するなら“風が吹き抜けるようなアルバム”だ。
その風は微風だったり夜風だったり、爽やかだったり優しかったりするし、
時には嵐寸前にもなったりする。暖かい風、熱い風暑い風、冷たい風寒い風、
強い風弱い風大きな風小さな風、目には見えないけれどここまで多様性に富むものはない。
そして、今迄の宇多田サウンドになかった“風が通る道”が音の中心に位置しているから、
これだけバラエティに富んでいるのに聴いていて疲れない。
また、その通り道が全曲で一貫している為アルバム全体を通して聴いたときの
一体感もまた、過去最高である。

聴き手がキラクに対処できるという点は、
要求されるものが多大だった前2作とは非常に対照的だ。
「DEEP RIVER」の持っていた(ジャケットにあるような)一貫したヘヴィなトーンや、
「ULTRA BLUE」のパワフルな極彩色を相手にするのは、リスナーにそれなりの体力が要った。
しかし、この「HEART STATION」は頬に風を受けているだけで音楽の感動を味わうことが出来る。
「FIRST LOVE」のフラットなテンションも聴き手は肩の力を抜くことが出来たが、
それよりも更にもっと気が楽だ。どうしても閉塞感や密室感(“In My Room”だからね)を
感じさせたその1stと違い、ここには圧倒的な開放感がある。
外からの風が吹き、どこまでも広がる青空や夜空が見える。

違ったことばを使えばサウンドに「大人の余裕」を感じさせる訳なのだが、
かといって手や気を抜いている様子は微塵もないから、
余り“余裕”というと誤解されるかもしれない。肩の力が抜けていて、
柳が風にしなるようにしなやかに千変万化する音の万華鏡の筒の中を、
風の匂い、風の色が鳴り渡り鳴り響いていく作品、そう表現したい。
ヒカルによる“小気味よいアルバム”という表現はなんとも言い得て妙である。


さて、プレイボタンを押して突然度肝を抜かれたのが、
その抜群のヴォーカル・プロダクションだ。
もしフレディ・マーキュリーが生きていたらまず間違いなく悔しがった、そして、
“次回作はこのチームにヴォーカル・プロデュースを頼もう”と思ったに違いない、
鉄壁のレコーディング・ミキシング・マスタリングの三位一体。
宇多田ヒカルという日本史上最高の歌い手(あとは美空ひばりと藤圭子を残すのみか)の
稀有極まりない極上のヴォイス・テクスチャーを高域から低域まで、大声から小声まで
総てをマシーナリィなまでにキッチリ隙なくフィーチャしたサウンド造りは絶賛に値する。
三宅プロデューサが胸を張るわけだよ。恐らく世界的に見ても
ヴォーカル・ポップ・アルバムとしては一級品であろうと思われる。

それだけヴォーカルに焦点の集まったサウンドなのに、
音の作り出す空間が過去最高のスケール感を持っている事にまた驚く。
楽曲のアレンジが非常にこなれていてしなやかで滑らか、いい意味で引っ掛かりがないから
全体的に見通しがよい。しかしいつものようにリズムマジシャンらしく
ドラム&パーカッシヴトラックは大地に根を張るように確りと楽曲の輪郭を支えている為
小粋なまでに引き締まった印象を残す。大掃除で窓ガラスを磨きまくった後に
「キュッ・キュッ」という音を鳴らしてる時に似た生理的快感が否応ナシに生まれてくる感覚、
とでもいえば伝わるだろうか。随分卑近な喩えだけれども。


褒めてばかりでは盲目的と謗られかねないから、
初聴で耳についたこのアルバムの弱点を幾つか挙げておこう。


まず、“Stay Gold”のマスタリングである。
それまでの4曲のマスタリングがまさに「完璧」としか言いようのない、
ヴォーカルサウンドの音量・位相の揃え方、ヴォリュームのバランス、
曲間の繋ぎ方の見事さを考えると、
この曲の最大の特徴のひとつである“ベースレス・サウンド”が
活かしきれて居なかったのが非常に残念である。
先述したが、このアルバムのマスタリングは機械的なまでに正確に
カッチリとまとめられていて隙がない。しかし、この“Stay Gold”という楽曲に
対して必要な感性とは“破綻と隙間の感性”なのである。
何故ヒカルがこの曲をベースレスにしたのか、
それによって生まれる浮遊感が高音と低音のピアノの音色をどう響かせるのか、
その点をもっと考慮に入れてサウンドを作って欲しかった。
寧ろ、ベースレスであることを気にしすぎて、
必要以上にこぢんまりとしたサウンドにしてしまったのかもしれない。

カギを解くのは、ヒカルがSSTVのインタビューで少し触れていた
やや左チャンネル寄りで鳴っている無機質な「チッチッチッチッ」というシンセのリズムである。
この音色が、「曲の中に音を鏤めていること」というサウンドの特徴をを代表してるのだ。
いうなれば、この音が「音全体をまとめることを放棄している」事を表明しているからこそ、
ひとつひとつの音が、雪国に降り散るダイアモンド・ダストのような煌きを放つのである。
余りにもマニアックな発想だとは思うが、そこのところをヒカルももうちょっと
サウンド・プロダクション・チームに伝えて欲しかった、、、とか書いておきながら
今度インタビューで「特にアルバムではStay Goldのマスタリングが気に入っている」とか
答えてたらどうしよう、と今から不安な私だ。まぁそれはさておいて。

もうひとつ不満点といえば、ところどころ本当に「素材で勝負」してしまった楽曲があることだ。
特にそう思わせるのがA面B面トップの“Fight The Blues”と
“Gentle Beast Interlude ~ Celebrate”だ。
両者とも最高の素材を持ちながら、有体にいえば「楽曲の練り不足」で
もっと更に豊かな展開の楽曲に仕上げることもできたのに・・・とどうしても思ってしまう。
“Passion ~ after the battle ~”くらい熟考してくれてもよかったのに、と。
まぁ、それは僕の好みの話かもしれない。なんというか、魚獲ってきて
煮もせず焼きもせず刺身で出して醤油すらつけない、みたいな調理法だ。
いくらなんでも味気ないんじゃあないか、と思うが、素材自体が素晴らしいので、
そこところはグゥの音も出ない。まだ1回しか聴いてないのに気が早いが、
特にこの2曲に関しては早くもシングルカットにおいて“Extended Mix”の登場を願いたい所だ。


で、このアルバムの最大の利点について触れておかねばなるまい。

曲順が神だ!

なんという流れ。なんという起伏。サウンドのクォリティを最大限活かし切る楽曲の質の高さを
更に引き立てるもう天才としかいいようのない曲順である。
新鮮な空気を胸一杯に吸い込むかのような“Fight The Blues”で幕を開け、
前作の“海路”~“WINGS”に匹敵する泣ける展開で“HEART STATION”に突入、
それだけでも悶絶なのにそのHステのフェイドアウトから“Beautiful World”の美しいイントロが
鳴り響くのである。この時点で既に3回ノックダウンTKO負けだ。

しかし、このアルバム前半のハイライトはこの次だ。
“Fight The Blues”~“HEART STATION”~“Beautiful World”と
どんどんどんどんテンポが上がってきて聴き手のテンションが最高潮
(のわりに、サウンドの風通しがよいから思いのほか暑苦しくない)になって、
ここで“Flavor Of Life - Ballad Version -”が始まるのだが、
その瞬間、「やられた!」と思った。正直、この曲の真の凄さ、そしてこの曲順で
登場することの運命を初めて痛感できたよ。何故オリジナル・ヴァージョンでなく、
こちらのバラード・ヴァージョンが本編に収録されたか。表向きは、
「バラード・ヴァージョンで世間に認知されてるから」という理由になっていて、
それは勿論真実なのだが、もうひとつ僕がこの曲順で初めて気付いた点、
「バラード・ヴァージョンは、オリジナル・ヴァージョンがあって初めて出来た曲だから」
という余りにも当たり前なことが大きかったのである。

どういうことかというと、この曲は元々ややアップテンポな曲だったわけだ。オリジナルは。
それを、バラードということでテンポを下げた。つまり、楽曲全体が
アップテンポ曲の息吹からの連続的変性で成り立っているわけである。
だからこそ、前曲の“Beautiful World”というハイ・テンポな楽曲からの繋がりが
非常に滑らかなのだ。“Flavor Of Life - Ballad Version -”には、
その出自・成り立ちから、楽曲自体に“テンポを落とす能力”が備わっていたのである。
なんともメタ視点な“能力”なのだが、理屈はともかく、この曲順で聴いた時に
まるでFoLBVがBeautiful Worldを大きく包み込んで昇華させる様な感覚が生まれている、
といえばいくらか共感が得られるのではないだろうか。

そして、まるで大団円のような、1stアルバムでの“First Love”のようなクライマックスを
4曲目で迎えて先述の“Stay Gold”に向かうこの並びもまた素晴らしい。
誰もが愛する素晴らしき“Flavor Of Life - Ballad Version -”の古典的な、
衒いの少ない感動からの流れに導かれてやってくるのは浮遊感と幻想と裏悪夢の世界だ。
ヒカルがついSSTVで“幽霊が唄ってるみたいな”と口を滑らせていたが、
その美しさの裏づけが負の感情であることは、
低音部のピアノの響きと併せてオフィシャル・インタビューでも語っていた。
そう、FoLBVとはまるで正反対の動機付けで生まれた美しさを持っているから、
いうなればオーソドックスな感動の反対側にポッカリとあいたエアポケットに
降り立つ精霊のようなインパクトを聴き手に与える事に成功しているのだ。
勿論、CMでもお馴染みなサビのメロディの親しみやすさは抜群で、
なんともうまい構成である。

そぃで、A面ラストを飾るのは“Kiss & Cry”のインパクト。聴けばわかるよね!(笑)
“Stay Gold”との曲間の秒数設定の絶妙さ。
こういうのもマスタリング・エンジニアの仕事なのだが、
テッド個人の判断というより、三宅&宇多田&宇多田プロデューサチームからの
細かい支持・要望に基づいていると判断した方がいいかもしれない。



翻って、今度は「ぼくはくま」以外初出の楽曲達で構成されたB面である。
ヒット・シングル連発の豪華さとはまた違ったアルバム曲ならではの感動の渦。
A面が疾風のようだったとすれば、B面は暴風とでも形容しようか。

まず、“HEART STATION”のサンプリングまで飛び出す“Gentle Beast Interlude”が心憎い。
左右に飛び交うコーラスワークは、“Stay Gold”で垣間見せた狂気の一端を
より鮮明に浮かび上がらせてくる。ただ狂っているのではなく、几帳面な理性を基底にして
狂ってくれているからこちらの感じる恐怖は倍増である。

その間奏曲に引き続いて現れる“Celebrate”が、全く予想外というか、
「これ、誰の作った曲!?」と思わず聴いてしまう程今迄の光の作風にない
リズム・トラックとアレンジ、そしてメロディであった。
80年代のダンス・ミュージックのようでもあり、90年代のレイヴのようでもあり、
昨今のエレクトロニックのようでもあり、なんだかYMOまで思わせたり、
モダンなのにノスタルジック、ノスタルジックだからモダン、とでもいいたくなるような、
最近でいえばPerfumeにも通じるような無機質とみせかけて官能的有機的なサウンド。
全体を通してメランコリィが途切れないのは80年代初期を知るものにはとても懐かしく、
かといってそれに耽溺しないドライさはここ最近のサウンドの特徴でもあったりする。
ちょっと前にこの無意識日記でも
「今度のアルバムは2010年代を見据えたサウンドになるかも」と書いたが、
正にこの“Celebrate”は次の10年を示唆するサウンドになっていると思う。
先述の「練不足による物足りなさ」も、
実はまだ来ていない時代への期待感の裏返しなのかもしれない、と思わせる程、
明確ではないにせよ新しいサウンド・ストラクチャーを匂わせる音になっている。
くまちゃんと遊びながらもヒカルは、ちゃんと時代の風も確り体内に取り込んでいたんだなぁ。


そこから繋がるのが曲名だけでみんなの目を引いていた“Prisoner Of Love”だ。やられた。
なんという古臭い音。なんという古臭いメロディ。王道というからどれだけ王道かと思いきや、
これは大昔から面々と連なる「日本人の琴線に触れる洋楽メロディの王道」である。
この曲は30代40代50代の音楽ファンは涙なしでは聴けないだろう。
泣き・泣き・そしてまた泣きというマイナー臭にまみれたクサイメロディの数々。
そりゃあサウンドとリズムのコンセプトを「歯切れのよさ」にしたくなるのもわかる。
一歩道を踏み外せば演歌になってしまったかもしれんもんな。(笑)
マイナーコードを使うときのABBAとかEAGLES、ややライトなサウンドのときのJOURNEY、
80年代のRAINBOWとか、いやまぁ40代以降の人でないとわからないタトエを出したくなるが
もしかしたら若いコたちにはこういうのとても新鮮に映るかもしれない。しかし、
なんといっても、誰がどう足掻いたってこの曲調はドラマの主題歌にならざるをえない!!(笑)
早速CXの「ラスト・フレンズ」とかいう重苦しいドラマの主題歌に決まったらしい。当然だ!!w

、、、と、ここまでは普通のレビューなんだが(そうか?w)、
僕としては先ほどのStayGoldのマスタリング話同様、
とびっきりマニアックな視点でこの曲を語っておきたい。
実は、これを聴きながら最初に思い浮かべた曲は“Never Let Go”だったのである。
何故なんだろうと考えるとこの曲“Prisoner Of Love”の製作過程に思い当たった。
同曲は元々UtaDAの曲、即ち英語曲として作り始めていてそれを日本語曲に移行したのであった。
つまり、英語モードから日本語モードへの移行を経て成立した楽曲なのだ。
どうやら、日本っぽいモノを英語で歌ったら面白いと考えやってみたけどやっぱり結局
日本語で唄った方がいいや、ということでこうなったようだが、想起してみると、
“Never Let Go”とは、光が初めて日本語で書いた曲なのである。
それまでは、基本的に英語で曲作りをしていたのだ。つまり、
“Never Let Go”という曲は英語から日本語への移行に於いて生まれた楽曲なのである。
“Prisoner Of Love”も同じく、英語から日本語への移行を経て生まれた曲だ。
私はその連想でこの2つを結び付けたのである。なるほど、
そうであればこの“Prisoner Of Love”は“宇多田ヒカル”としての原点回帰の曲なのだ。
英語だったCubic Uから日本語になった宇多田ヒカル、という流れの先祖帰り。
まるでアメリカ人がマイナーコード好きな日本人に向けて書いたかのような曲作り。
そういった要素たちが絡み合って、この大ヒット曲(確定!(笑))は生まれたのである。
あとは、年配の人たちがちゃんとCDショップに足を運んで購入してくれる事を祈るのみだw

“Prisoner Of Love”で早くもB面はクライマックスを迎えた!と悦に入って油断していた
私の心を襲ったのが、同等かそれ以上に素晴らしい“テイク5”のイントロダクションだった。
なんというインパクト。心を、いや心臓をがっちり掴んで離さない、感情を、身体を揺さ振る旋律。
澄み渡る青空で始まったこのアルバムが満天の星の夜空に吸い込まれていく。
“Prisoner Of Love”と“テイク5”併せてダブル・クライマックス!と叫んでおきたい。

その“テイク5”をぶち切って真打中の真打“ぼくはくま”がやっと、漸く登場する。
これだけの充実作、どうやってこの曲を登場させようか苦心惨憺したに違いない、、とか書くと
毎回「すんなり決まった」ってあとからインタビューで曝露されちゃうんだけども。(苦笑)
しかし、どれだけ極端な繋ぎ方をしようと、この曲の本質は揺ぎ無い。
なんだか他の曲と滑らかに繋がるのを諦めて、真逆の方向に行ってしまったかのようにも思えるが、
なんの、そういう後ろ向きというかヤケクソな気分とはちょっと違うように思った。

先述のとおり、Celebrate~PrisonerOfLove~テイク5はホップステップジャンプというか
ジャンプジャンプジャンプという具合に後半戦を盛り上げてくれるが、
そのエクスタシーが最高潮に達した瞬間の“境地”に、ぼくはくまは鎮座している。
いうなれば、繋ぎ方云々ではなく、A面から通じてそこまで積み重ねてきた感動の頂点に
この曲があれば一番まぁるく収まる、とこういうわけである。
極端なことをいえば、具体的な音の上での繋ぎ方はどうでもよかったのではないか。
あの場所にぼくはくまが先にありきで、じゃあその前はテイク5だからぶつっと切ろう、という
雰囲気だったのかもしれない、と仮説を立ててみておく。

実際、なんといったらいいんだろう、よくSFで「ワープをする為にはある速度以上まで
加速しなければならない」という条件付けがあるじゃないか。
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」なんかを思い起こしてみるといい。あれは時間飛行だけど。
なんか、通じる気がする。各曲のクライマックスを積み上げて、“テイク5”で
感動の臨界点に遂に達し、殻をひとつ突き破った“彼方”に、“ぼくはくま”が居るのである。
その存在はまさに「菩薩」そのものといったらいいのではないだろうか。
あらゆる感動を撒き散らした挙句に到達する安息の地、それがくまちゃんであるのなら、
それから先に向こうに行こうとすればそこはもう「誰も居ない場所」になるのは当然なのだ。
なんだか、昔「ドラえもん」で「宇宙の果ての星」に着いたら空の半分にはもう星がなかった、
という半分ギャグだけどなんだか空恐ろしいコマがあったのを思い出す。
そうやって本編最後の楽曲“虹色バス”にこのアルバムは突入していく。

「虹色バス」とのタイトルをきいて最初に思い出したのは、
僕がほんとに小さい頃、それこそ物心ついた頃に一番お気に入りだった絵本のことだ。
「なないろのじどうしゃ」とタイトルされたその絵本、信じられないくらい何度も読み返した。
小さい子供は、何かひとつ絵本を気に入ると、とんでもなく繰り返し読んでくれとせがむものだが、
僕もごたぶんにもれずそういう絵本があり、それが、いろんな色のじどうしゃが
ただ並んで進んでいるだけの「なないろのじどうしゃ」という絵本だったのだ。
まぁ、完全に余談だな。

「虹色バス」のサウンドは、僕にまだメジャーになる前のTMネットワークを思い出させた。
最初の3枚の頃の彼らの音は、カッコイイというにはなんだか微妙な空気が結構漂っていたのだが
ダンサブルなんだけどこどもっぽいような、でもマニアックでもある、そして、
音楽をちゃんと楽しんで創ってることが伝わってくるその雰囲気は、何か合い通じるものがある。
折しも、そのTMネットワークがついこのあいだ出したアルバムのタイトルが「SPEEDWAY」で、
そのTMの前身グループの名前をそのまま使っていて、コンセプトとしてもノスタルジィ全開、
そしてその音を聴いて余りに古臭く懐かしくて嬉しくなってしまった。
童謡のぼくはくまから繋がるその雰囲気は、TMの「1974」に描かれていた夢寝見な少年の視線と
よく似たものを感じる。僕らが成長していくにつれ、童謡から歌謡曲やアイドルやポップスに
聴く音楽の軸足を移していくのだが、その橋渡しというか、いや、そもそも音楽の好みって
そんなに根本的には変わらないんだよ、ということを、なんだかこの「虹色バス」は
教えてくれている気がする。

あぁ、もう字数が足りない。最後にひとこと。“Flavor Of Life - Original Version -”が
入っていて本当によかった。これがあることで、僕ら聴き手に再び着地点が与えられた。
これがもしなかったら、僕らはポップスの姿を借りたモンスターにあっちの世界に
連れて行かれたまんま戻って来れなくなっていたのかもしれないんだから。
やっぱり、宇多田光も一人の人間、一人の女性なんだなぁ、気の弱い所もあるんだ、と安心して
また次の不安に備えようと心に誓い直したくなる、
そんなアルバムでしたよこの「HEART STATION」と名付けられた宇多田ヒカル5thアルバムは。
以上!


たった1回通して聴いただけでこれだけ書いた俺と書かせた作品の大いなる魅力に乾杯!


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"すごいこのアルバム死の歌が多いんですけど.StayGoldもなんか幽霊が唄ってるっぽいじゃないですか."

…いつからそんな話に(笑).多分この言はココが初出.然し,これは嬉しい.第1印象で"恋人か誰かが死んだ歌"と評し以後も自殺とか雪女とか怖い事ばかり書いてきたけど,そういう世界観の解釈もアリな詞なんだと確認できたのだから.が,歌い手側が死んでいるという発想はなかった.その点が驚きだ.「この歌の2人は見つめ合っていない筈」と昔書いたがそれは"心配いらないわ"と語りかける方が死んでて相手の目に映ってなかったからだったのか.


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何とか見れた.今の光は成長より収斂と洗練の時期なんだなと再感.今迄と同程度の成果を如何に軽やかに実現するかに興味がいっているみたい.出力エネルギー値を上げる事より出力最大値を保ったままエネルギー効率を追求してる,とも換言できるか.勿論その態度が音楽性自体に反映されない訳はなく,Hステが"普通の曲"になった原因は,高品質の曲を自らが"普通に"作曲できる事を目指したからに他ならない.食事したり歯を磨いたり散歩したりといった自然さで宇多田ヒカルの名に相応しい品質を作り出す術を身に付けた光は次なるステップを模索する.

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いやぁ笑ったwwwww
完全に俺はコイツに呑まれている。確信しましたよ。
いわんでもわかってることやけれども。

歌詞をどんどん書きますのでご注意をば。

まず、私が今日の2篇のミニコラムを書いた時点では、
まだフルは聴けていなかったことを踏まえておこう。
聴いたのは、オフィシャルサイトで流れていたサンプル45秒と、
着うた&着ムービーで聴けた部分だけだ。つまりイントロと1サビ&2サビ。
それを聴いたうえで今夜の天啓で私は「弱い」という単語を使った。
これは“こう書かなくてはいけない”という強い気持ちで選ばれた言葉だった。
他の婉曲的な言い回しも勿論幾つか考えたが、ここは直接的に「弱い」と
何故か言いたかった。で、音源を譲ってもらってフルで聴いたらコレだ。

♪ 女はみんな女優 か弱いフリして めっちゃ強い ♪

ちょwwwちくしょーwwwわざと“弱い”印象を与えていたというのかオノレはwww

♪ それでも守られたいんです ♪

、、、ハイハイ(^∇^;; う~ん、完全に呑まれちゃってるよね。
なんというか、私は光にとって「お得意様」とでもいうべきファンなわけだな。

♪ 期待をされて プレッシャーすごい それでもやるしかないんです ♪

毎日々々新曲新譜への期待を綴られてはすごいプレッシャーにもなりましょうて、えぇ。
う~ん、こうやって自分へ向けられた歌詞だと思えるところが、
毎日こうやって更新していることのメリットでもあるわけだな。自画自賛w


ついでに、ちょっとニアピンなところもひとつ。
今朝の天啓
「大きいばかりで飛べなかった翼は、
 小さくても(見えなくても)大きく羽ばたき素直な思いを運べる様になった。」
と書いた。

♪ 金じゃ買えない 目には見えない こたえは メンタル・タフネス ♪

ちっくしょー、草稿時点ではちゃんと「小さくても(目に見えなくても)」って
書いてたんだけどな~字数制限に引っ掛かって“目に”を削ったんだよね。後の祭り。

更に、もっと先回りされてた点が実はあって。
今日の朝夜の天啓では書ききれなかったんだけど、この曲に対する批判として
「こういうアレンジ・曲調ならばもっとコーラス・ハーモニーをぶ厚くしなきゃダメだ」
って書こうとしてたのね実は。でもフルで聴いてみたら終盤にいくにつれ
とんでもなくぶ厚いコーラス・ハーモニーが押し寄せてきやんのwwww
これもきっと意図的な構成なんだろうな。ラストのミルフィーユみたいなハーモニーを
引き立てる為に、わざとセオリーからハズして序盤~中盤では控えめなコーラスに
留めていた、という・・・やはりフルで聴かないとコイツの面白さはわからんわwww


というわけで、「サウンドにも詞にもマニアを唸らせる技は潜んでいない」との発言は
これにて前面鉄塊、もとい(ワンピースネタw)、全面撤回させてうただきますm(_ _)m
確かにパートごとのアレンジひとつひとつにはあんまり新味はないんだけど、
全体の構成がいやまぁものの見事。一部分だけ聴いて批評した音楽ファンは
間違いなくフルで聴いた時涙目になっているはずwww自爆俺涙目wwwww

あでも、やっぱりたとえばCMの15秒で争えばStayGoldやFlaverOfLifeには
とても敵わないな~でもそのかわり、この“Fight The Blues”は
いろんなことを考えながら光の新しい曲を待ち侘び続けたファンに対して
「その期待に負けてなるものか!」という気合を肩の力抜いて光らしく表現した名曲です。
はいもうヘビロテ確定w てかこれで手持ちの音源でアルバムの前半埋まっちゃうよねw
あぁ、今はまだガマンしてるけどまず間違いなくそのプレイリスト作って聴き始めちゃうわww



本日は草を一杯生やして書かせてうただきましたwwwww<このだぶりゅーね☆
緑に一杯囲まれて沢山深呼吸しながら眠りに就かせてもらいましょう。あその前にもっかいリピート、、、



P.S. “深呼吸”は、新しく、そしてまた分かち合えるキーワードだよ、光♪

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最初に着うたで聴いた第一印象からそうなのだが,CDでカラオケを聴いて再確認。本当にこのHステという曲は普通だ。奇を衒った編曲術もなければ,不協和音の1つもない。素直に歌に沿うコードをこれまた素直になぞるベースライン,旋律の枠組をキッチリ守るリズムに曲の展開も構造も基本に忠実極まりない。強いて挙げれば光が強調する"鍵盤三つ巴"が耳を引く位か。初印象から普通で,何百回聴き込んでも普通。なぜこの曲なのか。実はサッパリわからない。今迄の曲の中で程なく歴代聴いた回数No.1になるだろう。もうまるで身体の一部分みたいだ。

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“HEART STATION”は、光がインタビューで答えているように、
歌詞が珍しく(でもないか)直球である。どの行も非常にわかりやすく、
韻の踏み方も“そのとき咄嗟に思いついた程度”と言っていいくらい
明快なものばかりだ。少なくとも2年前に同じ日付に発売された“Keep Trying”よりは
ずっとずっとカンタンな構造の歌詞を持った歌だといえる。

しかしそんな中、唯一それを聴いた瞬間にほぼ全員が首を傾げる単語がやや唐突に出てくる。
C1とC3の「罪人たちのハート・ステイション 神様だけが知っている秘密」だ。
“神様”の方は“サングラス”などで登場しているからファンならまだわかるが、
C2では「恋人たちのハート・ステイション 今夜もリクエストきてます」
非常にオーソドックスな詞に派生するから余計にこの“罪人(つみびと)”が浮き立つ。
勿論、“恋人”と韻を踏めるくらいだから、音韻上の違和感はない。
純粋に意味上の違和感が聴き手に募るのだ。

では、これは一体何なのか。
妥当性はやや薄いが解説を試みたいと思う。


普通に「罪人」と書かれると“ざいにん”、つまり“犯罪人”を思い浮かべるだろう。
なんらかの罪を犯し、刑事罰を受けるような、そんなひとたち。
現代社会に生きていればそういう感覚にならざるを得ないか。

しかしここで一歩立ち戻って「罪(つみ)」とは一体何なのか、考えてみる。
こんなときはさっさと辞書とWikipediaだ。

大辞林から引用すると次のようになる。

[1] 法律的・道徳的・宗教的な規範に反する行為。
[2] [1] に対して負うべき責任。また、それに対して科される制裁。刑罰。
[3] ある行為から生ずる、他人に対する負い目や責任。
[4] 特に、宗教の教えに反する行為。キリスト教では神の意志に背く行為をいい、仏教では法に背く行為と戒律を犯す行為をいう。罪業。
[5] 禁忌を破ること。
[6] 欠点。短所。

恋人と別れることは少なくとも現代日本では何らの規範にも反しないから
1とそれに付随する2は考察の対象から外す。同じ理由で5も違うだろう。
歌詞においては続く単語が「神様」であることから、4は一旦考慮に入れるべきか。
3も、別れる/別れた相手に対する負い目や責任を感じている人=罪をもつ人=罪人、
という解釈が成り立つかもしれないから保持。6はどう解釈していいかわからない。

以上のことから、とりあえず上記の3と4あたりの意味で「罪」という漢字を用い、
また「罪人(つみびと)」という単語を歌っているのではと推測できる。

まだ不十分だろう。4の意味を念頭において、今度はWikipediaにおいて、
原罪」という単語を引いてみる。
これは、キリスト教用語である。

1.失楽園神話において、人類の始祖であるアダムとエバが最初に犯したとされる罪。
2.上記の罪が人間の本性を損ね、あるいは変えてしまったため、以来人間は神の救い・助けなしには克服し得ない罪への傾きを持つことになったという、キリスト教の多くの教派において共有される思想。

これは、大辞林における4のキリスト教に関する詳細な記述となっている。
思い出そう、光が今迄何度かキリスト教的世界観についての楽曲やPVを作っていることを。
特に顕著な例がYou Make Me Want To Be A ManのPVだが、
ここでも「罪人」と「神様」の二つの単語がでてくることから、この「罪人」は、
キリスト教圏におけるニュアンスを含むと考えることはできないだろうか。

更に掘り下げる。同じくWikipediaから『新約聖書の原罪観』を参照しよう。
これは、まるごと引用してしまうのが最もよい。

新約聖書の原罪観はパウロの言葉によくまとめられている(中略)

「私には自分のしていることがわかりません。なぜなら私は自分がしたいと思うことはせず、したくないことをしてしまうからです。もし、私がしたくないことをするなら、律法を善いものであることを認めます。もはや、したくないことをするのは私ではなく、私の中にある罪なのです。私は自分の肉体の中には何も良いものがないことを知っています。 正しいことをしたいという気持ちはあっても、できないのです。私は自分のしたいことをするのではなく、したくないことをしています。もし私が自分の望まないことをするなら、それは私の中にある罪のしわざなのです。私は自分がしたいことをしようとするとき、すぐに悪がやってくるという法則を発見しました。私は神の律法のうちに喜びを見出していますが、自分の奥底ではわたしの体の中には、別の法則があって心の法則と戦い、わたしを罪のとりこにしていることがわかります。私はなんと悲しい人間でしょう。だれが死に定められたこの肉体から救い出してくれるのでしょうか。」 (ローマの信徒への手紙7:15-24)

上記によれば、非常に日常化したコトバで語るならば、とは
「自分がしたいと思うことはせず、したくないことをしてしまう」
その人間の業を指し示していると解釈できよう。罪人とはその業を背負った人間のことである。
上記大辞林での3の意味は、この業から派生する感情が「負い目」である事を示唆する訳だ。
ここで歌の主人公は「自分がしたいと思っていたこととは違う結果を齎してしまった自分」に
“罪”を感じている。いわばその“罪を潅ぐ場所”がHEART STATIONであり、
その場所や、その意義を唯一知るのが“神様”という位置付けなのではないだろうか。
単なる恋愛のもどかしい結末に罪と神様を登場させるのは、如何にも光らしい、と
言ってしまえばそれまでだが、それ以上に、ラジオだとか電波だとかいうアイテムを
用いながらも、この曲で歌われているテーマが人類誕生以来の普遍的なテーマであることを、
キリスト教の(新約聖書の)“原罪観”と絡めて表現したかったのではなかろうか。
原罪とは、人類最初の男女が共有したものなのであるから。


なお、本文とは全然関係がないが、上記のパウロという人物は
「目から鱗が落ちる」という言い回しの語源となった人物なんだそうな。
以下再びWikipediaからの引用。

(パウロは)ダマスコへの途上において、復活したイエス・キリストに出会うという体験をし、目が見えなくなった。アナニアというキリスト教徒が神のお告げによってサウロのために祈るとサウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになった(「目から鱗が落ちた」という言葉の語源)。こうしてパウロ(サウロ)はキリスト教徒となった(『使徒行伝』9章。ただしパウロ自身は『ガラテア書』で、こうした「伝説的」な事件には言及していない)。この経験は「パウロの回心」といわれ、紀元34年頃のこととされる。一般的な絵画表現では、イエスの幻を見て馬から落ちるパウロの姿が描かれることが多い。

ことばの響きからてっきり日本か中国の故事成語だと思ってたよ。
これぞまさに目から鱗、だな。



、、、眠いからって急いで書いたらとっちらかったなぁ。(溜息)
また歌詞カードが手に入ったら改訂版を書くことになるかも、です。

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慣れ  



カレーのシミをこぼして以降の光は軽やかだ。
結局、その軽やかさを失うことのないままアルバム完成まで漕ぎ着けてしまった。
(勿論、マスタリング終了して店頭に並び消費者の手に渡るまで油断はできないが)
今迄アルバム完成後のメッセはそれぞれに変化があったものだが、
今回ばかりは、何事もなかったかのように更新されている。

しかし、アルバム作りの葛藤自体は、
これまでと何ら変わりなく、いやもっと甚だしかったかもしれない。
泣きながら店を飛び出すだなんて尋常じゃない。
それでもやはり、なんらかの“慣れ”のような頼もしさを
感じ取ることはできた。過去に経験のない事態。
アルバム制作過程が軌道に乗ってきたような、
でも相変わらずギリギリの綱渡りを繰り返してるような、
両方の感覚が混ざっている。

“デタッチメント”ということばを思い出した。
この単語でググれば村上春樹の名がずらりと居並ぶ。
“対象に無関心であること”或いは“対象と距離を置くこと”
といった意味がある。
今の光は、距離を置けていると思う。
何に対してかというと、自分自身に対してだ。
自分自身を背負いきらずに、どこか違うところから
距離を置いて眺めていて、その位置でなら軽やかに振舞える。
とんでもなくすさんだ日でも素直にメッセージが書ける。
その心理状態。

どういうことが考えられるだろうか。


例えば。例えば、毎朝ワークアウトをしようと決意したとする。
腹筋30回腕立て伏せ30回とか。
最初は、苦痛だらけだろう。早めに起きるのも面倒だろうし、
筋肉だっていうことをきいてくれない。
でも、毎日続けていくことによってカラダが“慣れて”ゆき、
それまで感じてたような苦痛は段々と和らいでいく。
同じ腹筋30回腕立て30回でも、
慣れていくごとに身体的負荷、精神的負荷は減じてゆくだろう。

例えばそれは、毎朝般若心経を書写することでもいい。
はじめのうちは指も頭も慣れておらず、
正確に書写するには時間がかかるだろう。
間違えないように、正しく書かなきゃ、という心理的負荷も大きい。
しかし何度も繰り返していくうちに、
正確さも速さも増す。つまり、同じ時間で同じ正確さで
書くために課される心理的精神的負荷は軽くなっていく。

それらが“慣れ”というものだろう。


光の音楽制作についてはどうだろうか。
彼女がフルアルバムを作るのは、これで7枚目だ。
流石に、何をどうすればいいかもわかってきているし、
いろいろな作業や手順だって慣れたものだろう。
しかし、しかし前述のように実際は
相変わらず創作の葛藤に塗れている。
スタジオでの自棄酒なり店から飛び出すなりの“奇行”の数々。
実は彼女の中で創作に対する“精神的負荷”は
先ほど例にあげたワークアウトなり般若心経の書写なりのように、
回数と経験を重ねるごとに減るどころではなく、
相変わらず甚だしく、以前より増しているくらいですらあるのだといえる。
つまり、アルバム制作における精神的負荷心理的負荷に関しては、
ちっとも宇多田光は“慣れて”なんかいない。
まるで初めて朝にワークアウトをした日のように心を削って取り組んでいるのだ。


では彼女は、今までの経験を活かせていないのだろうか。
勿論そんなことはなく、精神的負荷を取り除くかわりに
先ほど触れた“デタッチメント”と形容したくなる自己との距離感を
育んできた、そう私は見る。

「DEEP RIVER」の頃、彼女は一回性のもつ意味を
物凄くアタマとココロにたたっこんで創作にあたっていたように思う。
FINAL DISTANCEのメッセなどでそれは顕著だろう。
http://www.emimusic.jp/app/scripts/emilog.php?id=hikki&no=336
彼女は、今ここでしかできないこと、今ここで為すべきことに
心血を注ぎ抜いた。出来上がった作品は、楽曲の質云々以前に、
18歳から19歳にかけての宇多田光でなければ出せない色に覆い尽くされていた。
その点が、この作品を唯一無二の特別の作品にしたのだ。
だから、「DEEP RIVER」を聴ききったとき私のアタマを過ぎったのは、
「この作品を最後に引退すれば美しい伝説になるな」ということだった。

しかし、「EXODUS」、「ULTRA BLUE」、そして今回の「HEART STATION」と、
彼女はその一回性を捨て去り音楽制作に励む。
最早、「DEEP RIVER」のころの切実な、もしかしたらもう来ないかもしれない
という不安と焦燥に駆られた若々しい感情は、ない。
しかし一方で、アルバム制作に“慣れる”ことなく、
創作に対する精神的心理的負荷を10代の頃と変わらずに持っている。

恐らく、単なる仮説に過ぎないが、楽曲制作という一点においては、
そういった精神的心理的負荷というものが、創作の源泉に不可欠であることを、
光はどこかで本能的に感じ取っているかもしれない。
だから、ワークアウトやお経の書写のような“慣れ”を
もち精神的負荷を下げたりすることはなく、敢えて
精神的負荷を負いやすい心理的状態のままで仕事に取り組んでいるのかもしれない。

いわば、“タイム・リミット”にうたわれているように光は、
傷つきやすいまま大人になっているのではないだろうか。
それが創作活動の源泉たりえるから、という点に気がついていたかはわからないが
「自分にとって護るべきものは何か」を察知していたからこそ、
こういう歌詞が書けたのだと思う。
いわば、この歌詞は未来の宇多田光の存在が書かせたといってもいい。
“Passion”のときに「22歳の私には2歳の私も12歳の私も42歳の私も含まれる」
という発言をしたが、そういう時空を超越した多層構造の中に光は居るのであろう。

しかし、繰り返しになるが、だからといって
過去の制作過程の経験が活かされていないわけではなく、
それを“セルフ・デタッチメント”(自らと距離をとる、という私造語)
として活用し、「今自分が感じている精神的苦痛は創作に必要なことだ」という
自覚を基底にアルバム制作に取り組んだ、だから、
いつにもまして「HEART STATION」は軽やかなメッセージとともに
僕らの元に運ばれつつある、そうはいえないだろうか。

いわば光は、制作の経験を“慣れ”にはせず“知識”として
自らの中に蓄え、精神的心理的苦痛に耐える際の“動機”とした。
知識を動機にすることで、達観しつつも己が感情を減じることなく、
あるときは寄り添い、あるときは距離を置いて接し、
楽曲に反映してきた。その自らとの距離感の多様が、
そのまま楽曲の多彩さ、表現の振り幅になっている、そう思えば
今度の5thアルバム「HEART STATION」の味わいがまた増してくるかもしれない。

そして、自らとの距離を調整する為に最も必要だった存在がくまちゃんで、
その距離感の多様・表現の振り幅の中央に位置するのが“HEART STATION”になる・・・
なんて話は、また折を見て天啓で続きを書いていくことにするかなw ほなまた☆ 

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