無意識日記
宇多田光 word:i_
 



その5年前の「VOGUE JAPAN」2017年8月号で印象に残っているのがヒカルのこの発言。


***** *****


でもこういう仕事を始めて、ああだこうだ言われるようになって、デビューして最初の頃はウェブサイトを通して送られてくるメールに全部目を通してたんですよ。そうすると、本当にひどいことを言う人もいるし、適当なことを言う人もいる。もちろんちょっとうれしいことを書いてくれると「ああ、うれしい!」ってなるんですけど、いやな言葉って、パッと目で見るとすごく毒されるじゃないですか。いっぱい素敵なことを送ってもらって「うれしい」って思ってたのに、一通だけ変なのがあると、それがずっと残って、体に変な影響を受けるなぁって思う。そんなの、深く考えて練って書いた言葉ではなく、誰かが暇つぶしにさーっと打っただけの言葉なのに、それも怖いなぁと思った。自分が発する言葉が人を傷つけてしまったり、誤解されることもあるから、気をつけないとなって。昔だったら、手紙とか電報とか字数も限られていて、いろいろと考えて書いていたけど、今は文字制限ってあんまりないから。


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いやぁ、なんだか身につまされたよこれ読んだ時は。Mail To Hikkiしたことのある人なら誰しも一度くらいは「もしかしたら余計なこと書いたかも」と不安になった事があるんじゃないかな。私は毎度だった。(全く笑えない)

で、最近のヒカルは、誹謗中傷や悪口や辛辣な非難なんかに関して、このように『そんなの、深く考えて練って書いた言葉ではなく、誰かが暇つぶしにさーっと打っただけの言葉』だと言った後に「だから、その手の言葉は気にしないで」と説諭をしてくれる。桁外れの(1日700通のメールだぞ? 140字のツイートじゃないぞ?)メールを読んできた人だからこその説得力でこう諭してくれるのだから、人からのネガティブな言葉がこのヒカルの助言によって気にならなくなった人が多く居てくれてたりしたら、ヒカルも助言を送ってる甲斐があったってもんだ。

でも、それでもやっぱり人に何か悪いことを言われたら気になって仕方がないという人も在るだろう。99人に褒められてもたった1人に罵倒されたらその99人の賞賛が塗り潰されてしまうような、そんな悔しい思いをすることも、あるかもしれない。ヒカルが気にしないでいいよ、と言ってくれてもそれでもやっぱりね、と。


私はこれについては持論がある。持論というからには検証されたものでもなければ確信がある訳でも無いただの仮説なのだけど、取り敢えずそうなのではないか、と思っている。

悪口とか誹謗中傷というのは、ヒカルの言う通り

「深く考えて練って書いた言葉ではなく、暇つぶしにさーっと打っただけの言葉」

なのだ。それは事実だと思う。そして、だからこそ気になるのだと。その悪口を言った人自身の心から出たのではない、出所のあやふやな言葉だからこそ、その人ではない何か他の、時にはもっと大きな何かの言葉のように思えて不安になるのではないだろうかと。

世間という場では、当然ながら「人を褒める事が良しとされている」。勿論それと共に「人を悪し様に罵るのはなるべく控えるべきだ」という道徳も共有されているだろう。なので、残念ながら、常に悪口の方が説得力がある。奨励されていないからこそ、それがわざわざ口に出される時は真実だと思われてしまうのだ。陰口や噂話の方に妙に信憑性を感じてしまうのはこの為だ。

同時に、褒め言葉は嘘だと思われやすい。それが推奨されているから、本心がそうでなくても上辺だけで言う可能性が出てくるからだ。故にそういった褒め言葉は「おせじ」と呼ばれてスルーされるのが常だ。「御世辞」、世辞とは「世間の(嘘かもしれない)言葉(辞典の辞だね)」の事である。

このバイアスがまずあるから、99の美辞麗句はたった1つの誹謗中傷に負けることがあるのだ。

そしてもうひとつ、ここが肝心なのだが、その悪口や誹謗中傷は、その人が深く考えずに発しているほど、世間の声を反映していると解釈してしまう可能性が高まるという話。(これが私の“持論”だね)

なぜなら、深く考えずに発した言葉とは、大抵の場合、「どこかで誰かが言った言葉」をそのまま繰り返しているだけだからだ。受け売りってヤツだね。だから、心がこもってない言葉ほど、その人の気持ちから生まれた言葉ではなく、その人がどこかで聞いてきた言葉や感情を反映している感覚が強まる。悪口を脊髄反射って言うこと多いけど、そういうことやよね。単なる反射や一瞬の反応で出た言葉。

ぶっちゃけ、物凄く個性的で、その人からしか発することの出来ない独創的な悪口というのは、「…ちょっと待って、そこまで私のことよく見て考えてくれてるの? ひょっとして私のこと好きだったりする?その裏返し?」と途中から思えてきてしまうことがあったりなかったり。心からの悪口は、案外絶賛に近い事があるんよ。いや結局ムカつきはするんだけどね。

一方誹謗中傷ってのは、掃いて捨てるような無個性な、何度も見てきたような誰でも言える言葉ばかりが並ぶ。この「誰でも言える」言葉が「私というたった一人」に幾つも幾つも大量に集中して向けられた時、私は、誰か特定の個人からではなく、社会全体や世間全体から拒絶された感覚を味わうのだと思うのだ。それはまさに、自ら命を絶ちかねない苦痛なのだろうと察したい。四面楚歌ここに極まれり、なのだから。

繰り返す。誹謗中傷は、「深く考えずに発せられた言葉」であるからこそ、まるでそれは「世間全体から放たれた言葉」であるかのように響いてしまう。例え実際には全くそうでなかったとしても。

こういうのは、普段の何気ない日常でも起こり得る。道端を行く人が自分を指して「ダセぇ格好してるな」って言ってるのを小耳に挟んだら、普通に友達に真正面からダサいと言われるよりやたら傷つく、みたいなことはないだろうか。(言ってる意味通じるかな?) 年に1回しか会わない親戚のおばちゃんに「あんたそんなことではあかんでぇ」って言われたら、毎日お母ちゃんに叱られてるのよりずっと傷つくことってない? なんというか、道端を行く人も、親戚のおばちゃんも、めっちゃ軽く言ってるのよ。毎日心底叱ってくれるお母ちゃんに較べたら私に対して何の思い入れもない。そんな人が深く考えずに言った言葉が妙に刺さって、ササクレに挟まった小さな棘みたいにいつまでも抜けずに痛み続ける、みたいな事がある。それは錯覚かもしれない。いや、錯覚であることの方が多いかも。そうなってしまうのは、無意識のうちに、それらの無責任な言葉が、無責任だからこそまるで世間全体の見解のように感じられてしまっているからなのではないだろうか。


兎に角私がこの持論で言いたいのは、錯覚であれ何であれ、誰かの浅く軽い言葉を世間の言葉と受け止めてしまう心の作用が人間にはあるかもしれないから、そういう「何気ない一言」がずっと気になってしまうのは何ら不思議なことではないし、結構真剣に対策を取らないと、トラウマになって何年・何十年と人生を邪魔してくるかもしれないから、くれぐれも軽い言葉を軽視せず、真剣に向き合って、解きほぐすも良し、捨てたり逃げたりするも良し、兎に角何らかの対処をした方がいい、軽く見て放置するのは良くない、と、そう言いたい訳なのでした。珍しく(?)主張の激しい日記になっちゃったな。書いてしまったので残しとくけどさ。

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kuma_power : 片手袋はよく見かけるし研究家もいるくらいだけど、片靴下は初めて見たかも
I see the solo-glove pretty often but this might be my first solo-sock encounter. “Peekaboo…”
https://www.instagram.com/p/CeL43gxMSkh/

あたしゃ“first solo-sock encounter”っていう単語の並びを初めて見たよ…“my first 'my first solo-sock encounter' encounter"だったよ…(以下マトリョーシカ)。

こうやって連日のインスタグラム投稿、まずはシンプルに喜んでおくとして(嬉しい)、こりゃやっぱり「VOGUE JAPAN」の記事に余程自信があってアピールしたいというのと、あと明日何らかの告知があるということかな。ウズウズしてたりするのでしょーか。可愛い。

その「VOGUE JAPAN」、電子書籍版ならもう今日深夜には手には入るのか。楽しみ楽しみ。

ということでちらっと前回の「VOGUE JAPAN」掲載を振り返っておきますかね。


[宇多田ヒカルが「自分のなかに残る言葉、響く言葉」を語る。]
https://www.vogue.co.jp/celebrity/news/2017-06/28/utadahikaru/amp

5年前の2017年8月号。2017年6月28日の発売、でいいのかな。これは当時2017年3月にヒカルがユニバーサル/EMIからEPIC/SONYへと移籍してから初めての媒体掲載インタビューとして注目されたものだった。

とはいえ内容は、その機に及んだタイムリーなものというよりは、ヒカルの創作全般に関わるタイムレスなものになっていて、非常に落ち着いた読後感の印象が強い。だったのだが、上記の通り「宇多田ヒカルが言葉について語る」というテーマは、この約5ヶ月後の2017年12月9日にその名もズバリな『宇多田ヒカルの言葉』という書籍を発売して回収された。実際は結構タイムリーだったという話。この「VOGUE JAPAN」発売時点では告知されていなかったということだ。

記事のインタビューアは新谷洋子氏。2004年にリリースされ日本国内で百万枚を売り上げたUTADAの1stアルバム『EXODUS/エキソドス』の日本盤対訳を担った人で、言葉をテーマとするインタビューとしてはうってつけの人選だった。また、フォトグラファーはマチェイ・クーチャ氏で、その写真は評判が高く、あたしもこの日記で過去イチに褒め称えた写真家だったのではないかと思う。このままオフィシャルフォトグラファーになってしまえと本気で思っていた。

こうやって振り返ると、短めだったとはいえ(7ページだっけ?)、非常に高品質な記事を届けてくれたのが5年前の「VOGUE JAPAN」だった訳で、今回は更に表紙ということで否応なく期待が高まっている。手薬煉引いて待ち構える事と致しましょうか。

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先週のVICE記事の翻訳ん時に「この記事の詳細な感想なんかはまたいつもの日記で触れられるかな」とか書いたので触れようと思ったんだけど、特に付け足すことないのよね。ヒカルの発言内容も初出といえる程のモノはないし。


寧ろ逆の話をすべきかなと。この記事がそうだというのでは全然ないが、この手のしっかりした修飾の多い文章は「インタビューの発言が執筆者のストーリーに合わせて単なる素材として切り取られている事が多い」のは留意しておくべきだろう、という話。これからその手の記事が増えてくるかもしれないしね、宇多田ヒカルが英語圏でより注目されていくとすれば。していかないかもしれないけど。

今回も、どうにもヒカルの発言の切り取り方が不十分で訳しにくかった。例えばここ。


***** *****

だが、わずかばかり門戸を開いて88risingと仕事をして以来、宇多田ヒカルはアジアとの関係性をより深く感じるようになったという。

彼女は次のように語る。
『今までの経験だと、自分のアジアらしさは通常、不快なやり方で私に押しつけられてくるものでした。でも、今回(一緒に)参加した素晴らしい皆さんが周りにいてくれた(ライブの)時には、自分が何者なのかをよりしっかりと掴むことができたんです。』


***** *****

確かに、文意からは「あぁ、アジア人たちに囲まれて居心地良かったんだろうな」という風に解釈できるが、ヒカルは何故「(ライブの)時には、自分が何者なのかをよりしっかりと掴むことができた」なんていう言い方に留めているのか。(原文は"But being around the brilliant people who were part of that set have made me more in touch with who I am.") そのすぐ下ではMiya Natsukiさんのエピソードに関して"Asianess"ってハッキリ言ってるのに。

恐らく、地の文になっている「88risingと仕事をして以来、宇多田ヒカルはアジアとの関係性をより深く感じるようになった」(原文は"Utada has felt a deeper connection to Asia. ")という箇所は、インタビュー中のヒカルの発言なのだろう。だが、一般論でいえば、地の文でこう書かれると、本当にそう本人が言ったかどうか確信が持てなくなる。これはあまりいいことではない。

無理矢理難癖をつけるなら、それこそ「自分を認めてくれている人たちが周りに沢山居たから楽しかった」というのが主旨で、それがアジア人、アジア系の人たちであることは然程関係が無かったかもしれない。ネガティブな環境の例として、自分がアジア系であるという理由で差別された経験があったのは間違いないが(実際原文のヒカルの発言部分に"my Asianess~in an uncomfortable way"とハッキリ書いてある)、ポジティブな環境の例としては、今回のコーチェラの舞台は"one of them"でしかなかったかもしれない。実際、ヒカルは『Utada In The Flesh 2010』に於いて様々な客層から歓待を受けている。自分がみたホノルル公演でも肌の色が3つも4つもあり、聴衆の話す言語も3つも4つもあった。多国籍多人種なファン層を持つのが宇多田ヒカルだ。

だから、こちらとしては、そういう背景をもつヒカルが今回のコーチェラの舞台をどれくらい特別に見ているか、或いは、自身の中でどう位置づけているかを知りたいのだけど、どうにも今のところそこらへんの細かいニュアンスが見えてこないのが私の不服。それというのも、宇多田ヒカルがコーチェラの舞台に立つという“事件”のインパクトが、日本のシーンやアジアの、そして世界のアジア系のシーンに於いてインパクトが強過ぎた為だ。確かにそれは歴史的に大きい出来事だし音楽記者がその点にフォーカスを当てて記事を書くのは当然なのだが、ヒカルの発言のうちその意図にそぐう部分だけを切り取っているのではとファンに訝られてしまうのもまた有り得る事なのだとは、知っておいて欲しいんだけどいや待てそれ俺英語でこの日記書くべきだったんじゃねーの!? …と今頃気づくなど。まぁもぉ遅い。

という感じなので、明後日発売になる「VOGUE JAPAN」でのヒカル自身の言葉によるコーチェラの感想が読めるのは大変期待している。シーンに対するインパクトについても自覚的でありつつ、個人としての感慨もちゃんと述べているバランスの取れたコメントを発しているのではないかと思っているのだがはてさて。

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今週は水曜日に「VOGUE JAPAN」のロング・インタビューが投下されるのを視野に入れてかなきゃなんないねぇ。漂ってくる雰囲気は案外世間話的な内容なのかな?という感じなんだが、ボリューム次第ではもっと多岐に渡っているのかも、ということで。


昨日、一昨日と連日ヒカルからのツイートがあったねぇ。思わず私、

「今の俺、羨ましいなぁ。」

と呟いてしまって。過去に色んなアーティストたちがリアルタイムで情報を発信するのをリアルタイムで受け取っていた自分より上の世代を羨む気持ちというのは、後追いの人間としてついつい持ってしまうものだが、今こうやってリアルタイムで宇多田ヒカルというアーティスト本人の声を直に受け取れてて、いやこれは後世の人たちに羨ましがれること間違いなしだねと…思うのの簡略形が、「自分自身を羨ましがる」という妙な言動に結実してしまった模様だが、うむ、なんとなくわかるのがまた。

ということで、その新情報。


@utadahikaru :「First Love」を聴くと声がすごくあどけなくて照れるんだけど、Netflixのドラマ用の新しいミックスの確認に行ったらエンジニアのスティーブンに「これ何歳の時?」って聞かれて「15歳🙈」って答えたら「声が落ち着いてて大人っぽいからもっと全然後かと思った!」と意外な反応…声老けてたのか…🫠
posted at 2022/05/28/23:49:41


こうやってしれっとドラマ「First Love」制作着々進行中のお報せを放り込むの、上手いねぇ。毎度のことではあるけれど。今みたら9.9万いいねか。昨今はバズるといっても6桁行かないとタイムラインで目立てないので(複数の人がリツイートしないとね)、バズりまでにはもう一息というところだがなかなかに健闘している。140字で告知、進捗、小話、スタッフ名、制作時期とそこからの年月…などなどを盛り込んでくるのほんと上手い…って感心してばかりだがいやほんと何気なくしれっと書いてるけどなかなかこう自然に纏められんよ。見猿の絵文字を照れる意味で使ってくるとかもうね。ツボを心得てると言いますか。

ということで、まずは『First Love (2022 Remix)』の存在は確定した訳だ。リリースされるかは未定だが、されるとすれば、このままリバイバル・ヒットに持ち込むのだろうか。正直、昨今のテレビの特集企画で宇多田ヒカルといえば『First Love』という図式が定着してしまっているので、リバイバル感を出すのが逆に難しいという気がしないでもない。リカットされた訳でも無いのに現役感が出てしまってるというか。永遠の名曲の辛いところだな。

まぁ、このタイミングでの進捗表明は、やっぱり「VOGUE JAPAN」の発売と同時にドラマ「First Love」の新情報発表を匂わせるので、これも水曜日を待つことにしましょうかね。なんだか今日明日そわそわしたまま過ごすことになりそうねあたしたちw

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@hikki_staff : VICEで先日のコーチェラに関する記事が掲載されました。 KJ #宇多田ヒカル
https://twitter.com/hikki_staff/status/1530224174509068288

ということですので、
以下、宇多田ヒカル関連の部分のみの訳文をお届けします。



***** *****


原文はこちら:
https://www.vice.com/en/article/n7n838/88rising-coachella-2022-asian-music-utada-rich-brian-2ne1-aespa


宇多田ヒカルはコーチェラのステージで、スモークの雲の中から登場した。そこから彼女は直ちに愛すべき「キングダムハーツ」のサウンド・トラックからのヒット曲『Simple And Clean』でショウをスタートさせた。リッチ・ブライアンの後、ジャクソン・ワンの前の登場で、この日本のポップ・スーパースターは自身のグレイテスト・ヒッツである『First Love』と『Automatic』をパフォーマンスした。宇多田を聴いて育ち、彼女のライブを観たいと願っていた人にとっては夢のような時間だった。宇多田ヒカルの音楽フェス初パフォーマンスは、歴史に名を刻むのに十分だったといえる。


「正直、宇多田ヒカルに連絡するだなんてどうかしてたとしか(笑)」と88risingの創設者であるショーン・ミヤシロは振り返る。「彼女は目下公衆の前に出てくる状態ではなかった。それは、何が彼女を幸せにするのか、彼女が家族とどう暮らしていたいのかを考えればシンプルなことだった。しかし、我々が何をしようとしているかを説明した時、彼女は特に何も訊き返してはこなかったし、我々が彼女をどう称えて世に知らしめるかを議論していた時も常に乗り気だった。」

VICEとの電話インタビューで宇多田は『実際、彼らと合流する事については、悩むまでもなかった わ。』と説明し、『ミヤシロさんの情熱と空気感と趣旨』を参加する主な理由として挙げていた。ただ、宇多田ヒカルのコーチェラ出演は、彼女にとって有観客としては3年ぶりのパフォーマンスだったので、それなりの困難もないではなかった。

宇多田は次のように語る。
『環境面でも学ぶことが大きかった体験でした。何を期待すればいいかも、何が起こるのかも全くわからなかったので。でも、リハーサル期間を通して、共演したみんなが私の歌にまつわるエピソードとか、初めて私の歌を聴いたときいくつだったかとか、そういった事が彼らにとってどんな意味を持っていたかを聞くことができたんです。で、こりゃ堪らんなと。でも私なんかが?とも思いました(笑)。」



(88risingのステージに参加した)メンバーたちは、全員でないにしても、少なからず、アウトサイダー(部外者)であるという感覚をある程度持っている。だが、文化の狭間で独自のスペースを切り開こうと奮闘していく中で、消費するメディアにお手本となる例を見いだせないでいた。

例えば宇多田ヒカルの場合。彼女は非常に国際的な環境で育っている。日本と米国の間を頻繁に行き来していたのだ。

『私の日本社会と日本文化に対する理解は、(実際に住むことで受けた)直接的な影響だけでなく、アウトサイダー(部外者)として日本を見て学んだインプットをも合わせた、いわばゴチャ混ぜなんです。』
と彼女は言う。『お陰で万国共通な言語も身に着けられたし、外側から自分自身を眺めるという素敵な見方も授かりました。でも、自分は日本人なんだとか、日本人を代表するのに値する人間なんだと100%言い切れると感じたことは、一度もなかったです。』

一方で宇多田ヒカルは、自身の作品群を「現実世界からの逃避」として扱うソロ・アーティストとして、その創造的プロセスを共有する難しさを感じていた。だが、わずかばかり門戸を開いて88risingと仕事をして以来、宇多田ヒカルはアジアとの関係性をより深く感じるようになったという。

彼女は次のように語る。
『今までの経験だと、自分のアジアらしさは通常、不快なやり方で私に押しつけられてくるものでした。でも、今回(一緒に)参加した素晴らしい皆さんが周りにいてくれた(ライブの)時には、自分が何者なのかをよりしっかりと掴むことができたんです。』

『コーチェラでのビヨンセのパフォーマンスの一角を成したある1人のダンサーのことが忘れられません。彼女はまず、(ビヨンセとのステージでは)自身のアジアっぽさを押さえるように言われたのだと。他のバックダンサーたちと歩調を合わせるように、とね。でも、88risingのステージは、彼女が、自分は何者なのかを自然に誇らしく感じられた初めての瞬間だったんです。このプロジェクトに参加した他の多くの人たちもそう感じてるんじゃないでしょうか。』




***** *****



最後のコメントについては、そのダンサーたるご本人であるMiya Natsukiさん自身の発言も読んでもらいたいです。以下。



「(Miya Natsuki)もう、なんですかね? だからもう10年以上アメリカでダンスをして。インダストリーではもう10年ぐらいやってるんですけど。初めてですね。アジア人として誇りを持てたというか。ハイライトを感じられたというか。自分が日本人として本当に誇りに思えたステージだったんですよね。びっくりするほどにその感覚が初めてで。」

(渡辺志保)でも、そうですよね。だってさっきまで、そのビヨンセのステージではブレンド・イン……周りに溶け込んむためにアジア人のアイデンティティーを出さないようにって。

(Miya Natsuki)消さなきゃいけない。もちろん、そうです。でも初めて、自分が日本人っていうことに心から誇りを持てて。そしてステージに立ってる皆さん、いろんなアジアの国から来てる方だったんで。本当にアジア人として、日本人として、いやー、感動的でしたね。誇りに思えましたね。初めてです。


引用元:
https://miyearnzzlabo.com/archives/80997



さて訳文について。記事原文の(宇多田ヒカルにあんまり直接関係ない)合間の文章をガン無視したので全体を通して読むとややぎこちない。その点はお許しを。なお、原文を自動翻訳して読むときには注意して欲しい事がある。VICEの記者は、「宇多田ヒカルはノンバイナリを公言している」ことは知っていても「Instagramの表記が『she/they』なのを知らなかった」のかもしれない、she/her/herでも構わないところを尽くthey/their/themにしている為、自動翻訳にかけると意味がわからない箇所が多々出てしまうのだ。私はそこは遠慮なく総て「彼女」にしておいたので、その点はご了承うただきたい。




以下、全く読まなくていい話。


この英文記事、全文が長い上に文体が凝っているので、ヒカルに関連したところのみに絞った。もちろん手抜きなのだが、それ以上に、凝った文体は正確に訳すのが難しい為だ。

例えば冒頭のタイトル下と第一段落の英文はこう。


Anything seems to be possible for the team that keeps their feet on the ground and their head in the clouds.

Hikaru Utada emerged from a cloud of smoke on a Coachella stage. They launched straight into their hit “Simple and Clean,” from the beloved Kingdom Hearts soundtrack. In between Rich Brian and Jackson Wang, the Japanese pop superstar performed their greatest hits, from “First Love” to “Automatic.” It was a surreal moment for anyone who grew up listening to Utada and wished to watch them live.


訳すとこんな感じ。


夢を見ながらも地に足をつけているチームにとっては、あらゆることが可能なのだとみえる。

宇多田ヒカルはコーチェラのステージで、スモークのクラウド(雲)の中から登場した。そこから彼女は直ちに愛すべき「キングダムハーツ」のサウンド・トラックからのヒット曲『Simple And Clean』でショウをスタートさせた。リッチ・ブライアンの後、ジャクソン・ワンの前の登場で、この日本のポップ・スーパースターは自身のグレイテスト・ヒッツである『First Love』と『Automatic』ををパフォーマンスした。宇多田を聴いて育ち、彼女のライブを観たいと願っていた人にとっては夢のような時間だった。


いきなり凝ってる。まず、88risingのプロジェクト名(フェスティバルやアルバムの名前)が"Head In The Clouds"だと知らないと意味がわからない。そして、その名称の本来の意味が「雲の中にアタマを突っ込む」=「妄想にうつつ(現)を抜かす」だと知らないとこういう英文になるとわからない。つまり、タイトル下は、その「アタマを雲につっこんで夢を見てる連中が、結構地に足の付いた現実的なことをしている」という意味のことをその"Head In The Clouds"に引っ掛けて言っているのだ。知るか!って感じだなw

で、そのタイトル下があるから、ヒカルがステージに登場した模様を「スモークの雲(cloud)の中から現れた」と言っているのだ。つまり、夢の中から現れたみたいだったと、そう言いたいわけである。だからこの段落は"It was a surreal moment"、それは超現実的な、夢のような瞬間だったと締め括られている。

こういう凝った文章を書く奴の記事を、書かれているアーティストたちに詳しくない人間が訳すと碌なことにならないので、ヒカルの部分だけ訳そう、とこういうわけであったのでした。


この記事の詳細な感想なんかはまたいつもの日記で触れられるかなと思いますのでまたの機会に。



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『Find Love』では計5回出てくる『I don't wanna be alone』だが、『キレイな人(Find Love)』ではたった1回しか出て来ない。

『失くしたものはもう心の一部でしょ
But I don't wanna be alone』

ここだけだ。ここを日本語に置き換えると

「失くしたものはもう心の一部でしょ
 (でも、一人にはなりたくない)」

となる。これは、この歌の歌詞としては“急展開”と言うべきなのかもしれない。というのも、ここまでのお姫様はずっと強気だったから。

『王子様に見つけられたって
私は変わらない』
『汚れたドレスに裸足の私も
いい感じ』
『もういい女のフリする必要ない
 自分の幸せ 自分以外の誰にも委ねない』
『汚れたドレスにいつもの私で
何が悪ぃ』

もう明らかに「王子様をアテにする必要はない。私は私自身で幸せを手に入れる!」と力強く宣言しているとしか思えない訳で。そんな人が「でも、一人になりたくないからさ…」だって? これは一体、どういうこと?


それを見るためには、まずその直前の

『失くしたものはもう心の一部でしょ』

の一節の持つ意味を吟味しないといけない。(なお、「なくす」を「失くす」と漢字を宛てるのは辞書に無い用法なので注意。試験とかでは「無くす」や「亡くす」を宛てましょう。)

このフレーズは最近のヒカルの示す人生哲学に於いて重要な位置を占める考え方で、遂に歌詞にしてきたかという感じ。

例えば昨年2021年6月26日のインスタライブでは質問に答える形でこんな風に語っていた。(やや要約)


***** *****


(「喪失」はもう)自分の一部だから。
自分の一部を切り捨てて前に進んだところで
別の喪失が生まれるだけで、
それが延々と続くだけだから。
ぐるぐる回ってるだけ。

悲しい気持ちとかいろんないい思い出とか
耐えられない気持ち、喪失感てものは
これはもうずっとあるもの。
じゃあもう大事に抱えて生きていこう
そう思った瞬間に
母親にもらったプレゼントを大事にしてるみたいな気持ちに切り替わったの。
それで初めて自由になった、前に進めた気がしたの。


***** *****


しみじみ、味わい深いことを言うよねぇ。何度も何度も読み返したい。ここには、『キレイな人(Find Love)』の歌詞の種がキレイに蒔かれてるよね。

『なくした』という言い方を使ってきたのは、歌詞としての制約からだろう。4つの音、母音の順番。その話は余計になるから置いておいて、ひとまず、『One Last Kiss』の

『止められない喪失の予感』

の『喪失』と同じ概念だと捉えておいて構わない。そして、上記引用で「気持ちが切り替わった」「初めて自由になれた」と話を締め括っているからにはこれはもう「辿り着いた結論」な訳ですよ。この歌はこの『失くしたものはもう心の一部でしょ』で終わっていい。締め括っていいのだ。事実、『キレイな人(Find Love)』の“日本語の”歌詞はここで終わっている。ここから後の歌詞には英語しか出て来ない。言ってしまえば、日本語圏民リスナーはここまでの歌詞だけで納得して貰って構わないんだ、ヒカルの(大雑把な)意図としては。

では、日本語と英語どちらの意味も受け止められるリスナー、及び、それぞれの言語の歌詞をグーグル先生にでもお願いして翻訳して意味を知ろうという積極的なリスナーに対して、ヒカルはここで何を伝えたかったのか? そこの話を…したいのだけど長くなりそうなので、また来週のお楽しみということで! そうこうしてるうちに「VOGUE JAPAN」が出ちゃうけどね!

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で、前に『Simple And Clean』のBメロの歌詞がお母さんのものだったのではないかとコメントをうただいた時にも触れたように、歌詞の一部がヒカルの実体験に基づくものだからといって、じゃあ歌全体がヒカルの実体験の話なのかというとそれは違う訳でね。自分の経験もフィクションもニュースも、どれも「歌詞の素材のひとつ」でしかなく、それらを換骨奪胎・抽象捨象してひとつの「歌詞の世界」を創り出していくのが宇多田ヒカルの遣り方であろう。ただ、例外として、『気分じゃないの(Not In The Mood)』に関してだけは、歌詞の殆どの部分が「2021年12月28日にヒカルが実際に見聞きしたこと」で構成されていて、確かにコレは異様に特殊なケースだ。今後は、わからないけどね。

なので、『Find Love』の1番2番の歌詞のAメロ冒頭がヒカルの実体験に基づいているからといって、この歌がヒカルの独白であるとは限らない。

…という注釈を敢えて述べる必要があったのは、その1番Aメロの歌詞、

『Some days my heart feels miles away
My body isn't listening
Though I took whatever came my way
I'm paying for it now, baby』

の後半について以前に「王子様の御無体」として解説していたから、ですわね。

ここで「王子様」と書いているのは、『キレイな人(Find Love)』の歌詞の主人公が「王子様が要らなくなったシンデレラ」だからだ。王子様が要らなくなってさてどうやって力強く生きていこうか?という葛藤の話が『キレイな人(Find Love)』ならば、じゃあそこで要らないって言われてしまった方はどうなる?というのが『Find Love』なので、その対比を意識した場合その主人公は「王子様」と呼ぶのが妥当だろう、と。

なので、そのセンに沿って、ここの歌詞をヒカルの実体験から抽象的に読み替える必要が出てくる。『俺の彼女』は擬似ミュージカル仕立てだったのでそれがヒカルの実体験や独白でないことは伝わりやすかったが、『Simple And Clean』やこの『Find Love』は、ヒカルの経験などを素材にしつつも“より一般的な”“普遍性のある”歌詞世界を描いている。

だから、ここの冒頭の

「心が果てしなく遠くに感じる事がある
 身体も言うことを聞かない」

も、Bメロで「みんなが去るのを見たくない、だって一人になりたくないもの」と呟く仮称・王子様のセリフとして読み替える事が必要になる。

ここまで納得して貰えれば、

『Do I dare be vulnerable?』
「それでも弱さをみせられる?」

の歌詞の意味するところが少しずつ明白になるだろう。王子様は自分の「本音」を「弱み」だと捉えており、「本音」=「弱み」を隠し続けてきた為、最終的には心も身体もバラバラになってしまったというのが、ここでの話の流れになる。よって、『Find Love』は、

「もし弱さを"見せてしまったら"一人になってしまうから」



「もし弱さを"見せられなかったら"一人になってしまうから」

の相対する解釈2つについて

「前者の不安が後者の不安に変化していくだろう只中の心境」

を綴った歌なのだ。

「今まで本音を隠して生きてきたけど
 いきつくとこまで来てしまった
 これからどうしたらいいんだろう?
 弱さをみせていくべきなのかな?」

というね。どちらに転んでも一人になってしまうかもしれないという葛藤が、そこにはあるのだった。   

これが『キレイな人(Find Love)』の方になるとまた違ってくる─という話からまた次回、かな?

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もう一度その「ハート・オブ・レコード」(byゼイン・ロウ)たる段落を引用しておく。

『Do I dare be vulnerable?
 What if I lose all control?
 But I don't wanna be alone
 Every day of my life』

訳すとこう。

『それでも弱さをみせられる?
 何もかも手に負えなくなるかもしれないのに?
 でも一人にはなりたくないからさ
 人生のどの日であっても』

なお、本筋とは関係ないけど一応注釈つけとくと、「手に負えなくなる」には定番の直訳"get out of hand"というのがあるので万が一英語の試験を受ける読者の方がいらしたら歌詞にある"lose all control"よりこっちを使おう。今回は文脈に合わせた訳にした。注釈終わり。戻ろう。


ここの『But』は何がどう「でも」という逆接なのか。これを考えると結構難しいのだ。

というのも、この歌を聴いた人は、

「もし弱さを"見せてしまったら"一人になってしまうから」

とも

「もし弱さを"見せられなかったら"一人になってしまうから」

とも、どちらとも解釈できてしまうからだ。この段落の歌詞だけではどっちだかはわからない。「弱さを見せる」≒「傷つき易いままでいることを周りに知られる」ことで周りの人が離れるのか、それとも「弱さを見せられない」ことで周りの人が離れていくのか。この歌で歌われているのはどちらだろう?

既述の通りこの、

『Do I dare be vulnerable?
 What if I lose all control?
 But I don't wanna be alone
 Every day of my life』

のパートは『Find Love』で都合4回繰り返される。ではその記念すべき(?)1回目の登場の直前の歌詞は一体どうなっているのか見てみよう。それによって何がわかるのか。

『For now committed to my therapy
 I train with Vicki 3 to 5 times a week
 Getting stronger isn't easy baby』

訳すとこう。

「今のところ私はセラピーに通っています。
 週に3~5回、ヴィッキーと一緒にトレーニングに励んでます。
 強くなるのはカンタンなことじゃ、ないよね。」

これは、ヒカルのインスタライブなんかを欠かさず観ている方なら御存知の通り、最近のヒカルの話だ。アルバムで最後に制作した楽曲『気分じゃないの(Not In The Mood)』では「その日実際にヒカルが目撃した様々なこと」を歌詞にしていたが、こちら『Find Love』でも実体験、実話を元にした歌詞を書いている。そういやヴィッキーのことチェックするの忘れてたわ。YouTubeにでもあるのかな?

そして、ここは2番の歌詞冒頭、Aメロと呼ばれる箇所になるが、ここは1番の同じく冒頭のAメロの内容ときっちり対応しているのだ。

『Some days my heart feels miles away
My body isn't listening』

訳すとこう。

「心が果てしなく遠くに感じる事がある
 身体も言うことを聞かない」

そう、2番の冒頭と合わせると

「心が不調だからセラピーに通ってるし
 身体が不調だからトレーニングに励んでいる」

という風にキチンと対応している訳である。そしてどちらも、ヒカルの実体験に基づいている。(前にも触れたが、ライブセッションインタビューで語っていた通り、ヒカルには声が不調な時期があった)

ここらへんの歌詞の見通しが出来てくると、『Do I dare be vulnerable?』の歌詞の意味と価値への理解が深まってくる。ますます話が長くなっててすまないが、多分次回も次々回も続きますっ。

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っとと、「VOGUE JAPAN」の話はもう発売が間近に迫っているのだから来月に譲るとして話を元に戻そうか。その表紙を飾ったとてもキレイな人による『キレイな人(Find Love)』と『Find Love』の歌詞の話だ。

『Find Love』で、「周りの人が立ち去るのを見たくない、一人になりたくはないから」という一節が出て来た、って話からだね。

そちらが『"Cuz" I don't wanna be alone』の方。では、『Find Love』での『"But" I don't wanna be alone』の方はどうなっているか。次の段落の形で出て来る。

『Do I dare be vulnerable?
 What if I lose all control?
 But I don't wanna be alone
 Every day of my life』

訳すとこんな感じ

『それでも弱さをみせられる?
 何もかも手に負えなくなるかもしれないのに?
 でも一人にはなりたくないからさ
 人生のどの日であっても』

ここの葛藤が『Find Love』の中心なんだと思う。アップルラジオでインタビューアのゼイン・ロウがこの一節を"Heart Of the record"と表現していた。この1曲のみならず、アルバム『BADモード』全体としての“核心”ですらある、と。

確かに、ヒカルは最近インタビューやらインスタライブやらでここに出て来る"vulnerable"、カタカナにすると「ヴルネラブル」になるかな、ヒカルはこの語を英国風な「ヴルナァブル」という発音で話している。そういや自分でインド系っぽり訛りらしいと言ってたが、米国発音も混ざって独特になってるのかもね。それはさておき。

その意味は辞書を引くと

「傷つきやすい
 攻撃や非難を受けやすい
 批判や皮肉などに傷つきやすい」

となっている。一言で言えば「脆弱」って事になるが、リスナーからすれば『タイム・リミット』の

『傷つき易いまま
 オトナになったっていいじゃないか』

って歌詞が思い出される所だろう。この言葉をフィーチャーした

『Do I dare be vulnerable?』

の一節と『"But" I don't wanna be alone』の"But"がどう接続されているか、そこのところの話を次回詳しく。

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4年振りになりますか。ヒカルさん「VOGUE JAPAN」に再登場。そして初表紙。えらい朗報だねぇ。6月1日発売となると何か告知と同時に雑誌にも広告が載る、なんて流れを想像してしまうがはてさて今のタイミングで何の告知がありえるかね? ネトフリドラマ『First Love』の配信日決定とか、或いは『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー』のタイアップが決まったとかそんなん? 色々と妄想してしまうが、雑誌の発売日なんて、音楽誌でもないんだし、EPIC/SONYが操作できるファクターじゃないんだからまぁそこは気軽に待ちましょう。日付が変わると同時に電子書籍で買えちゃうのかな? いきなり6月1日の朝からネタバレ無意識日記を書いてしまいそうで怖いぞ。

4年前の同誌での写真はマチェイ・クーチャとのコラボレーション・シュートだった。今回の先行動画でも何か似たセンスを感じさせるが、いやしかし、ほんとアンタ年齢不詳に磨きが掛かってるわね…「徳川慶喜って大正2年まで生きてたの!? それってうちのお祖母ちゃんの生まれ年じゃないのさっ!」みたいな驚き方を将来されそうで敵わんわ。22世紀とかになりそうだけど。

そしてショートヘア。コーチェラでのパフォーマンスが甦る。インタビューアーはジェーン・スー氏で、なんでこの人なのかと思ったら、へぇ、知らんかった、元EPIC/SONYの社員さんしたはったんですか。それが縁だったのかどうかはわからないけども。

https://www.vogue.co.jp/celebrity/article/in-my-mode-hikaru-utada
VOGUE宣伝文句の中で、ヒカルのセリフは次の通り。

『普段なかなか踏み込めないような多岐にわたる話ができた。とてもいい記事になってうれしい』

うむ、かなりストレートな絶賛口調。こういう時には嘘を吐かない人であるので、この通りなのだろう。期待大。

単純に、日本語で長々と喋る機会が最近少なかったろうからそれも刺激になったかな。いや、ジェーン氏が英語とかでアプローチした可能性もある? そりゃわからんけど、日本語圏民相手ならではのインタビュー内容というものもあるかもなので、そこらへんも楽しみだね。

あとは、雑誌の表紙になったからにはプレゼントの募集もあるかもしれないので忘れずにチェックのこと。よくあるのよね、特集記事だけ読んで、プレゼントコーナーに目を通し忘れるの。直筆サイン入りグッズとか放出されてたらどうよ? 後悔してもし切れないぞ。ま、対面インタビューかどうかもわからないし(撮影してるのでリモートってこたないと思うけどね)、目下ノベルティといえばBANソーコとかだろうけど、雑誌を買ったらパラパラパラでいいから取り敢えず表紙から裏表紙まで目を通す事をオススメします。

あれ?でも4年前ってなんかあったっけ?もう忘れてらw

あとは、先行動画に引き続いて、4年前同様にメイキング動画がYouTubeにUPされるのも楽しみだ。いやぁ、楽しみ過ぎるね。1週間後か。健康で迎えたいわ(…フラグじゃないから!)

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『alone』ひとつに拘るのも、この、

『I don't wanna be alone』

の一節が『Find Love』&『キレイな人(Find Love)』に於いて分水嶺的な重い役割を果たしているからだ。それを順に見ていこう。

このフレーズ、『Find Love』では楽曲中に都合5回出てくる一方、『キレイな人(Find Love)』の方では前回触れた2曲共通パートたる〆のパートの1回しか出てこない。しかし、だからこそその効き目は大きい。

『Find Love』の方で注目したいのは、このフレーズの直前の接続詞が何なのか、だ。羅列するとこうなる。

『Cuz I don't wanna be alone』
『But I don't wanna be alone』
『But I don't wanna be alone』
『But I don't wanna be alone』
『But I don't wanna be alone』

1回目が順接の『Cuz』(Becauseの略)、2~5回目が逆接の『But』となっている。

接続詞というからにはその前の文章の意味が大事になってくる。そられも羅列してみよう。

『But I don't wanna see them go』
『What if I lose all control?』
『What if I lose all control?』
『What if I lose all control?』
『What if I lose all control?』

御覧の通り綺麗に別れている。1回目と2~5回目で、同じ『I don't wanna be alone』のフレーズの役割が異なるだろうことを示唆している。

ではまず1回目、順接の文はどういう意味になるのか。

『But I don't wanna see them go
 Cuz I don't wanna be alone』



「でも彼(ら)が去るのは見たくない。
 だって一人になりたくないから」

順接なだけあって結構自明。them(最近は単数形としても使うけど)=彼らやそれら、が自分の許から離れたら私は一人になってしまう。それはイヤ。実にシンプル。ここは素直に受け止められるだろう。いや、素直に受け止めなければならない。何故なら、そこから先、2回目以降逆接の『But』との対比が鮮明になるから。その話からまた次回。

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さて、前々回からの続き。『Find Love』と『キレイな人(Find Love)』の歌詞を比較していこう。

前提として、この2曲は尺が全く同じ(うちのipodクン(販売終了なんだってねぇ)ではどちらも4:37)、つまり全く同じ楽曲構成であるというのは踏まえておきたい。なので、基本的には、どちらにも同じメロディーが同じパートにあって、故に日本語の歌詞のある所にはほぼ必ず対応する英語の歌詞が存在する。(※ 例外は、前に取り上げた『キレイな人(Find Love)』の『する必要ない』なんかだわね)

これを利用して、同じパートにあるそれぞれの歌詞を比較していく事が出来る訳だ。


では、意表を突いて!?いちばん後ろから較べていってみよう。そう、どちらの曲も、最後のパートは同じなんだよね。

『But I don't wanna be alone
 Every day of my life

 Gonna find out if the hard work was worth it
 I know it's somewhere in me
 I'm just tryna find love』

この英語の5行でどちらも歌が締め括られる。出だしは対照的な始まり方をする2曲なのだが、辿り着く結論は同じってことだね。ここの英語を私なりに訳すとこんな感じ。

「でも一人にはなりたくない
 私の人生のどの一日も

 頑張る価値があるか見極めたい
 私の中にきっとあるはずだから
 ひたすら愛を探しています」

ここの"alone"の訳には気をつけたい。ヒカルの歌詞の主要なテーマのひとつである「孤独」を英語にする時に"alone"とするか"lonely"とするかでニュアンスが変わってくる。これに関しては『道』についてのパイセンの発言が参考になるだろう。


『Lonelyは孤独な、寂しい。Aloneは一人きり、だぜ。
おおまかに言うと『真夏の通り雨』では「一人じゃないけど孤独」、『道』では「孤独だけど一人じゃない」っていう歌詞なんだな。ファンに言われて目から鱗だったぜ。』

https://sp.universal-music.co.jp/utadahikaru/paisen/


あたしもヒカルの目の鱗落としてみたい。羨ましい。それはさておくとして。

つまり、aloneは「一人でいる」状態そのものを指し、lonelyは「孤独で寂しい」という感情の話なのだ。ここでは(『Find Love』&『キレイな人(Find Love)』では)、しかし、歌詞の中では必ず

『I don't wanna be alone』

というセットのフレーズで出てくる。『don't wanna be』、「そうなりたくない」という忌避感、感情の話なので、実を言うとここを「孤独になるのはイヤだ」と訳しても構わなかったりするのよさ。でもそうすると話がますますややこしくなるのでひとまず「一人になりたくない」というフラットめな解釈をしておくのが無難でしょうて。



…って、このペースで行くと何回かかるかわからんがな…まぁ流れに任せるか…。

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前回の続きは書くのに時間がかかりそうなので、小ネタを1つ2つ挟んでいきますかね。

先日こんなコメントをうただいた。


by 通りすがり 2022年5月19日
最近Simple and cleanの『baby』はお母様を指しているような気がしています
その部分の歌詞も、「誤解しないで、ヒカルのことは愛してるけど、だからってテルザネと一緒にいなきゃいけないの?」って感じなのかなと…
サビで去っていくところもlettersのようだなと…
光が『私』『僕』と男女の関係だったため、simple~も男女の歌だと思い込んでましたが、相手がお母様でもしっくりきます

https://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary/cmt/3aab5516b808afd69feb48e9eb900e46


その発想はなかったわ! なかなか面白い着眼点。20年前の歌でも、こうやって新鮮な解釈に出会えるのは楽しいわねぇ。

この「baby=お母さん」説は、『Simple And Clean』の他のパートとの整合性が鶏肉炒め、いや違うよ(笑)、取りにくい為、「完成した歌詞」においてそれをそのまま当て嵌めるのは難しいかもしれないが、創作途上での「この部分の歌詞が出来た切っ掛け」としては、おおいに有り得る。そもそも、ヒカル自身が初期の歌詞を「両親との関係性が大きく関わっている」と認めているのだしし、仮に歌詞が実体験に基づいているとすれば、この

『Don't get me wrong I love you
 But does that mean I have to meet your father ?』

の一節を、当時の婚約相手である紀里谷和明氏が言ったかというと、ないよねぇ?というのがずっと気掛かりだったので、お母さんの発言がアイデアの元だとすればかなり合点がいく。ほんと、まじでこれちゃうか…。

ヒカルは、そういった実体験や虚構から得た様々な素材を一旦解体して再構築することで歌詞を作り上げていく。タイアップ相手がいる場合も、その素材の中に脚本や原作の要素を取り入れて、他の素材と違和感なく馴染ませて統一された味付けにしていくのが腕の見せ所なので、当然それが物凄く巧みだ。故にキングダムハーツの主題歌たちも、ゲームの世界観にフィットしつつ、普通にラジオから流れてくるポップソングとしても通用する仕様になっている。決して、閉じたままにはならないのよね。

それにしても、自分の結婚周りの歌の歌詞に親の結婚観を入れてきていたとしたら、色々と考えることが増えそうだな今後。いやはや、もっと頭を柔軟にして昔の曲も今の曲も見て聴いていきたくなりましたわ。ナイスコメントでした通りすがりの人ぉ。

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…という『Everyday of my life』という歌詞は、『Find Love』にも『キレイな人(Find Love)』にも両方共に出てくる一節である。

他にも同様に、両方に登場する歌詞が幾つかある。含めて、羅列してみよう。

『Find love, 'til I find love, 'til I find love』
『Slow down』
『I'm just tryna find love』
『Everyday of my life』
『But I don't wanna be alone』
『Gonna find out if the hard work was worth it
 I know it's somewhere in me』

これで全部かな? 結構有るねぇ。日本語の一節が英語バージョン(『Find Love』)の方に登場することはない。英語が日本語バージョンの方に越境してくるのみの一方通行だね。

これらをそれぞれ日本語に訳すと


『愛を見つけよう、愛を見つけるまで、愛を見つけるまで』
『ゆっくりね』(速度を落として)
『私はただ愛を見つけようとしている』
『私の人生の日常』
『でも一人になりたくない』
『一生懸命働いただけの価値があるかどうか調べてみよう
 それが私のどこかにあることを知っています』

みたいな感じかな。

『光』&『Simple And Clean』の時は、完全にそれぞれ日本語歌詞と英語歌詞に別れていた為、それぞれ、(ここでは仮に)男女の視点を素直に対比させる事が出来た。そこから16年後に発表された『誓い』&『Don't Think Twice』も、それらとほぼ同様だったのだが、ワンフレーズだけ、

『Kiss me once, kiss me twice
 Kiss me three times』

の一節だけは、日本語版英語版共通のものだった。そこから4年、『光』&『Simple And Clean』から数えると20年が経過して、遂にここまで英語のフレーズが大量に日本語バージョンの方にお出ましになっている。ヒカルのいう「初のバイリンガル・アルバム」の真骨頂みたいなコンビだわね。そういった点からも、日本語バージョンのタイトルがただ『キレイな人』ではなく『キレイな人(Find Love)』と欧文併記になっている理由が察せられる。

しかし、問題なのは、これだけ共通の歌詞がありながら、それぞれの歌詞が全く異なる内容な事なのだ。果たしてそんなことで歌詞の整合は取れているのか? 次回からそこら辺の所を見ていくことにしますか。…なんだかそろそろあたしの気が変わりそうな気もするけども(苦笑)。

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先週のインスタグラムの『今日大きなヘマしちゃってテンション低かった』がどんなことだったのか気になるけど、まぁそりゃそこで止めてる以上もう解説はないわけでねぇ。ラフダクんときにステージに上がれなくなるかもってくらい悲しいことがあったらしいが、それが何だったのかは未だにわからず。これもずっとこのままか。

こういうのは匂わせとかとは違って、色んな事の説明のうち公表するべきでないラインってのがしっかりあるからこそ、なんだろうね。言わない方がいいことと、言った方がいいこととの間の線引きをちゃんとしてる。今回の場合はテンションの上げ下げの大きな一日でしたというのを言いたかったのでこんな書き方になった、と。

ヒカルの「日常」に対する捉え方が、こういうところにも出ているなぁと。息子と暮らし始めて初めて日常というものを知ったとどこかで言っていたけど、歌詞でも例えば『気分じゃないの(Not In The Mood))の

『It's just one of them days』

とか『Find Love』の

『Everyday of my life』

とかには「日常」の感覚が垣間見られる。これは、20年前の『Simple And Clean』に於ける

『The daily things that keep us all busy
 are confusing me』
(私たち皆を忙しくさせる日常のことは私を混乱させています)

とは随分と違う。今は本当に穏やかな日々が続いているんだろうなと伝えてくれるインスタポストは、そこはかとなくいい。次のアルバムにはこういうフィーリングでまるごとくるんだ曲が入るんじゃないかなぁ、なんて思ったりも。『パクチーの唄』みたいな感じかねぇ。

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