無意識日記
宇多田光 word:i_
 




いやはや、「さぁ投稿前にセーブして強制終了を回避するぞ」と思った瞬間に強制終了で落ちた。ギャグみたいなタイミングで笑ってしまった。昔みたいに原稿が飛んで落ち込むこともないのは、いつでも同じものが書けると思っているからかと思ったがもう同じことを書く気にならないので「また別のことを書くか」と思っているからだと解釈しておく。さて次はどの話題を書こうかな。

取り敢えず、全然違う話題にしておくか。っつっても読者は「消えた原稿」の内容を知らないのだから余計な話だ。困ったもんだ。

今月末に遂にカマシ・ワシントンが来日する。5月に3枚組CD170分の1stアルバムでデビューを果たしたとんでもない新人サキソフォニストが早くもやってくる。あと2週間。そろそろテンションが上がってきたですよ。最初音を聴いたとき「こんな前時代的なサウンドが今時のジャズ・ファンに受けたりするの? 70年代プログレ好きな私にはドストライクなんだけど。」と思ったが、しっかりジャズ・ファンにも大好評だったようで嬉しい限り。

古臭い、というのとはちと違う。なんというか、時代錯誤というか時代無視というか。真正面から音楽に取り組んで出来たのがこれみたいな潔さを感じる。ジャズというとどうしてもみんな技術的に卓越してるから斜に構えたり透かしたりしてしまうもんだろうに、どうしてこうも素直な(いや、それでも超絶技巧で変態的演奏カマシまくっとるんやけどね)音楽が出来たのか。メタラーみたいなスピリットを感じる。「これでいいのだ」という。本人も「これはジャズではない」と言ってるみたいだし。

サウンド的には、ベースラインがどうしたって王道のジャズである一方、バックにどんどん混声合唱団と弦楽隊が流れてくる為やたらとスケールがでかい。でっかいパノラマの中心部の鼓動がジャズサウンド、そんな感じ。混声合唱団の使い方はピンク・フロイドっぽいし、ダブルドラムにサックスソロとくるとなんかキング・クリムゾンみたいな展開もみせてくれるしこれはやっぱりプログレと言い切ってしまうのがいちばんしっくり来る。弦の響きがやたらと70年代っぽいのよね。あの頃ならではのメロディラインをひたすら追う。ノスタル爺にもポイントが高い。

それが今月末にブルーノートに来日してくれはりますのや。流石にレコーディングで(きっと大赤字なんだろうなぁ)起用したその混声合唱団と弦楽隊は連れてこれないと思うのでそれをどうカバーするかも見ものなんだが、それ以上にカマシ自身のサックス・ソロが一体生で演奏されたらどんな感じなのかに期待が膨らむ。うーむ、結構待ちきれないぞ。明日来てくれないかな。


結局、枯れたジャンル(なんていうとジャズファンに対して失礼かと思うが、メタルだってもう十分枯れてるから枯れ仲間ということでひとつ)であろうがなかろうが、その人に情熱があれば新しい音楽は生まれてくるのだ。新しい、というのは、その人にとって新鮮でさえあればよい。現代に至るまでの音楽を勉強し尽くして「あらゆる手法は為されてしまった」と悲嘆にくれるのもまた音楽人生かもしれないとは思うが、個々の知識には限りがあるのだし、人がなんと思ってようが自分の感性と記憶に従って「新しい音楽」を追い求めていくことが、、、なんだろう、「生きていく秘訣」なんだと思う。


そういう感じで、ご覧のとおり私の場合、ヒカルが居なくても結構楽しく毎日を過ごせている。世の中には、毎日々々新しい音を出そうと頑張り実際に出している人たちがいる。その基準からすればヒカルは現在“負けて”いるわけだが、それでいいと思う。ヒカルはそういうポジションなんだから。

どういうポジションなのかといえば、早い話がレコード会社を、レコード業界を支える立場だ。極端な話、1年に1曲だけでいい。それを大ヒットさせてしまえばそれでいい。テレビに出て歌う必要もない。プロモーションツアーに出掛ける義務もない。ただ1曲、ガツンと名曲を生む。日々の雑事は他のミュージシャンたちに任せればよい。実際、桜流しはそういう楽曲ではなかったか。いや勿論売り上げ的にはそこまで突出していた訳ではないが、相当の利益をEMIレーベルにもたらした筈である。極端な話、これからもあんな活動ペースでいいくらいだ。

それぞれに役割が違う。毎日ライブ活動やセッションに明け暮れるミュージシャンもいれば、ボストンやSADEのように8年だか10年だかに一枚だけアルバムを出して業界を潤してまた引っ込むスタイルもある。ヒカルも好きなThe Blue Nileもそんな感じである。コアなHikkiファンからすればHikkiがそんな風な“寡作な芸術家”になってもらっては困る、というのが本音だろうが、本来のキャラからしたらそういうポジションであってしかるべきな気がするのだ。それでも新しい音楽を生み出してくれるのだから。

まぁでも、いつものように折衷的なところに落ち着くのだろう。インタビューは受けるけどオフィシャルインタビューだけ。ライブもやるけど一箇所だけ。10年に一回くらいは全国ツアーやるよ、みたいな。なんかこんな書き方をしたら不満があるように見えるかもだけど、いやまぁ、それがいいとは思わないがそれでもいいとは思ってるよ。要はヒカルが一生を、やり過ぎて疲弊することもなく、怠けすぎて死ぬ間際に「あぁ、私もっとやれたな」と後悔したりすることもないような、そんな「はたらきかた」をしてくれたらな、と思うわけですわ。

活動を始める頃には33歳になっているだろう。体力的にも、そろそろ落ち始めても不思議はない。声量や声域だって落ちるかもしれない。誰もがブルース・ディッキンソンみたいに50代を迎えてからが本番、とはならないのだ。なれないのよ。ヒカルの場合、参考になるべきお母さんがあんまり後期の活動が芳しくなかった印象もあり、ベテランとして末永く歌えるかどうかという点について遺伝的な面からは期待できない。もっとも、藤圭子さんからすれば手術をしたのがそもそもの間違いだったというのが物凄く大きかったらしいが。ヒカルはそのことについてどう思っているのやら…。

話がとっちらかったな。あんまり長くなりすぎるのも酷だ。もうそろそろ日付が変わる時間帯だし。読者にお礼を言わなくっちゃな。いつも読んでくれてありがとうございますm(_ _)m ヒカルが帰ってくるまでもうちょっと。今まで待ってきたんだから、もう暫く今まで通りに待っていましょうねっと。



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流石に先程の20mSv云々の記述は誤解を招きそうなのでフォロー記事。いや、アゲインストかな。

私は「その程度の放射能を警戒するな」と言いたかったのではなく、「世の中にはその程度の放射能よりずっとリスキーな事象が山ほどある」と言いたかったのだ。もし、年間数~数十mSvの被曝を避けたいというのであれば、徹底的に調査して厳正に対処すればいいと思う。しかし、そうまでして一体“何を”避けたいのか? 放射能が、あなたの躰に、あなたの子どもたちの躰に、一体何をするのか? それを考えたとき、ならば、その徹底さと厳正さを更に強化して避けるべき事象がもっとあるのではないか。

弱い放射能が何をするかというと、遺伝子を傷つける。これは、紫外線や喫煙と同じである(機構は違うが)。それがのちのちになって、癌罹患率を高める。基本的にはそれだけである。強い放射能が何をするかは、JCOでググれば出てくるんだが、心の弱い人には一切お薦めしない。

例えば、ただの可視光でも強すぎると視覚に異常をきたす。太陽光を直接裸眼で見ようとする人は居ないだろう。どれだけ日常的なものでも、量的に極端になれば非常に害・毒になりえるし、非日常的なものであっても、量的に微かであれば人体に悪影響は及ぼさない。それは、目で見える見えない、普段の生活で馴染みがある馴染みがない、といった事とは関係ない。

JCOのケースは、短時間に多量(1Sv以上)の放射能を浴びた場合である。今回、こういうことは(報道で知る限りは)起こっていない。年間20mSvならば、1Sv被曝するのに50年掛かる。毎日お醤油を小さじ一杯、いろんな料理に使って何ヶ月、何年もかけて一升摂取しても健康に害はないが、お醤油の一升瓶を今一気飲みすれば死ぬ。そういうことだ。放射能も同じである。JCOや、広島長崎原爆投下のケースは、醤油一升瓶一気飲みにあたる。

定量的な分析は専門家に任せる。何mSvをどれくらいの時間間隔で浴びればどんな種類の癌の罹患率が何%上がるのか、素人の私にはわからないし知らない。しかし、多分本当に問題になっているのはそういう細かい数字ではなく、“不信感”なのだろう。それについては特に感想はないが、大人が大人に対して抱いている不信感を“子供の為”と問題をすりかえるのは違和感がある。まぁ、その話も広げない。

で、だ。世の中にはリスクがたくさんある。子供を学校に通わせるのは恐ろしいリスクを伴う。私なら、子供を年間20mSvの地域に住まわせるより普通の(例えば、一切被爆しない?)学校に行かせる方が怖い。

いろんなことを考える。いちばん怖いのは、いじめられて精神的に大きなダメージを負う事だ。あまりにもダメージが大きすぎて、年齢を増した頃に自殺を選択するかもしれない。今の日本で、何が危険かというと自殺はかなり怖い。勿論、子供というものは基本的に低年齢であればあるほど自殺をしないし、年間3万人といわれるその多くは壮齢の成人男性であるようだが、しかし小学校高学年以上となると自殺を選択肢に入れるケースがみえてくる。そして、統計は知らないが、私が普通に考えて子どもが自殺を選択する場合のいちばんもっともらしい理由は学校でのいじめなんじゃないかと勘繰る。そんな危険な場所にこどもを通わせるなんてできない。できれば、ナンシー・エリオット・エジソンのように、家に閉じ込めて教育して偉人に育て上げたい。こどもに自殺される位なら、被曝して何年後かの癌罹患率が数%上昇する方を選ぶよ。健康に何十年も生きられれば、大抵の人は何らかの癌に“罹れる”んだからね。その前に死亡れちゃあ堪らない。世を恨む。だから学校には行かせたくない、、、

、、、なんていう妄想は、たぶん現代社会では通用しないし、実際、殆ど総ての親御さんが学校にこどもを通わせている事だろう。通学途上の交通事故の確率を考えると身も震えるようだし、大気汚染や受動喫煙による癌罹患率の上昇も気になって仕方がない。被曝するよりずっとありふれていてリスクが高い。それでもこどもを学校に通わせるのは、この社会の中で生きていくにはそちらのほうがいいと判断するからだ。


つまり、最初に書いた通り、将来の癌罹患率が何%か上昇するリスクを避けるという理由で学校に通わせたくなくなるのならば、上記した自殺や交通事故や大気汚染等も考慮に入れて欲しい、と私は云いたいのだ。たぶん、他にもリスクはあるだろう。インフルエンザに罹りやすくなったり、給食で集団食中毒にあったり、、、。


こういうことを書いても、「言いたいことはわかるが気持ちは納得しない」ということが殆どだ。それくらい、メディアやら世間やらの空気の圧力というのは、高い。事実、こんなものは多数決であり、多数の人間がそう云う、或いは、少数の人間が声高に叫んで大多数がそれを否定しない、という状況になれば空気は醸成され、今迄必死に懸命に疫学調査したり動物実験したりと“実際のリスク”を見極めようとしてきた科学者や医学者たちの努力の結晶、即ち科学的成果&事実は、あっさり“どうでもいい理由で”葬り去られ、感情に迎合して嘘をつく(という自覚のないケースまであってややこしい)人達が持て囃される。まぁ、それでいいんなら仕方がないが、それでいいと思ってない人まで巻き込まんでくれ、というのが正直な気持ちだわいな。


どうしてこう、人は感情に基づいて行動してしまうのだろう。多分、これは私の勝手な見立てだが、自然が信じられない位に精密に数学的な規則に基づいて運営されているという揺るぎない(経験的)事実を実感したことがない、或いは極めて薄いからではないか。よくもまぁここまで精微に作ったもんだと神様に感心したくなる位、極めて精密に出来ている。だから、自分の印象とか先入観とかが自然の有り様を、真実を反映するだなんてこれっぽっちも思ってないし、直感なんてほぼ総てがただの錯覚だということも知っている。自分が怒ってようが喜んでようが悲しんでようが落ち込んでようが、太陽や月はどんな精密な機械仕掛けをも上回る精確さで“あるべき軌道”に沿って天を動いている。その凄さ、真理の頑強さに対する感動、感銘を知らないと、自分の感情を重視する方に傾くのではないだろうか。


音楽は、感情の表現としては最もプリミティヴなものだ。実際のところはどうなのか、とても興味があるのだが、恐らく、とりあえず現代の文明社会に生きている殆どの人は、長調の曲を聴くと楽しげな雰囲気を感じ取り、短調の曲を聴くと悲しげな雰囲気を感じ取る。これは一体どういうことなのだろう。前も触れたように、長調と短調は基準となる音がちょっとずれているだけで、鳴らしている音は全く同じ平均律十二音階なのだ。これは経験的に会得する感覚なのか、遺伝的に仕組まれた何かなのか、或いはもっと更に普遍的な、例えば他の星の知的生命体に訊いても同じように感じることなのか、誰か研究してないのかっ。是非きいてみたい。

表現とは自由である。よく表現の自由、或いは言論の自由という言い方をするが、私はfreedom of speechのofは同格のof、即ち、言論“は”自由だし、表現“は”自由なんだと思っている。人は、感情や感覚に苛まれ、それに突き動かされる。しかし、それに何らかの、文字や言語、絵画や文学、音楽に芝居にあれやこれや、といった表現(技術)が与えられることで、その感情や感覚から解き放たれる。より具体的にいえば、感情や感覚を、時間や空間を超えて再現することができるようになる。それが表現の醍醐味であり真意であり、僕らの欲するものだ。

長調を聴いて楽しげだと感じ、短調を聴いて悲しげだと感じる。そうすると、何らかの音楽という表現を通して、本来それぞれが純粋に内面でしか感じ得なかった感情というものが人と人の間で共有されるようになっていく。このメロディを聴いて悲しい気持ちになる、という事実は、悲しい気持ちという、カタチのないものに、さほど正確でもなければ網羅的でもないが、ある一端、部分的にでもカタチを与えてくれる契機となる。自分の悲しい気持ちというのがどんなものであったか、どんなものであり続けてきたかを、音楽はそこに、さほど正確でもなく網羅的でもなく、ではあるものの、封じ込めておいてくれる。感情が時間と空間を超えるのである。

その意味で、音楽は感情を“克服”する為には格好の手段のひとつたりえる。時間と空間を超えるということは、世界のいろんな年齢のひとたち、様々な土地に住むひとたちと感情を共有する、同じ人間なんだと思えるようになる、同じものをみて、同じかどうかはしらないけど似たようなことを感じているんだ、ということを知るのはとても大きい。実際、マリという国にヒカルのファンが居ると知って、急にマリという国を身近に感じるようになった。嗚呼、あのメロディを聴いて魅力を感じる人が居るのなら、きっといい国なんだろうな、と。

放射能を巡る論議というか、喧騒のメインは、こういう情緒的な人間と論理的な人間の対立である。前も触れたように、原爆によって齎された原子力と放射能ということばに付随する圧倒的な負のイメージは、情緒的にとてもすぐさま拭い去れるものではない。歴史を背負っているからだ。論理は逆に、時間と空間を超えて、どこでもその人によって再現される。ピタゴラスの定理は、ピタゴラスの時代にピタゴラスの住んでいた場所に居ないと示せないものではなく、たった今すぐここでピタゴラスと同じように示せることであるし、それはまた同じように真実である。論理的な表現は、時空を選ばない。いつどこででも同じである。

一方、感情はその人の中、今、ココにしかないものだ。その人の“中”から、飛び出すことはできない。一過性のものであり、一期一会のものであり、何かと比較するかしないかのうちに移ろいゆき、とても捉えられるものではなく、しかしそれに強烈に突き動かされる。流転する万物の中でも、最も“得体のしれない”しかし、“存在することが最も確実な”何かである。

音楽は、論理と感情のはざまに生きている。実際、五線譜に載せられた音楽は、数学的に非常に整備されている。拍子は綺麗に分数で分けられ、平均律の音階はべき乗に則って美しく並んでいて、和音は数的な比の美しさを調べに変換する。論理的に構築さらた音の連なりが音楽である。

しかし、その論理的に構築された音の連なりの調べを耳にして、人は移ろいやすい感情の奔流に再会する。演奏者や作曲者が、“何故”その数学的な作業に従事するかというと、そこに感情の表現を発見するからである。その“動機”なくして、数学的な作業に没頭する契機は訪れ得ない。不可思議な魔法である。

ならば、この、不幸ともいえる論理と感情の橋渡しをするのに、音楽は非常に適者なのではないか。余りにも素晴らしい音楽と邂逅すると、それは大きな懐かしさをも運んでくる。まるで、生まれる前から知っていたような、これと会うことも運命だと決まっていたような、そんな感覚に見舞われる。時空を超えて、先程は世界中の数多の人々に出会ったが、何より、いちばん出会え直せて感動するのは、様々な私である。過去の私や、これから出会うであろう未来の私、そして、もしかしたらこうであったかもしれない私や、もしかしたらこうなるかもしれないし、こうはならないかもしれない、そんな私、私“たち”。そういった遷ろう虚ろな存在たちにも光を当てるのが、偉大な音楽だと思う。それは、絵画等の他の芸術でも同じことではあると思うのだが、数学的な規則によって音符と楽譜が形成されていることを思うと、その普遍性は他の芸術に較べて高いというか、洗練され、抽出されハッキリ明確に表現されていると思う。


一方、“歌”は、まみれている。いろんなものにまみれている。音楽という洗練と、ことばという歴史と。先程から言っている、感情と論理の対立に、ことばという歴史、履歴が絡んでくると事態はより一層錯綜する。旋律や和音がもたらす感情の喚起と、ことばのもたらす歴史からくる感情の喚起が混じり合う。どちらがどちらから来たのかもわからないし、区別する必要もないかもしれない。

音楽は時空を超えて響きあうけれど、ひとつひとつのことばは歴史を背負って放たれる為、その場その時に最も大きな光を放つ。故に、その場その時に耳にし歌った人間にしか共有できない感情というものを多くもつ。人と人との関わり合いの中に、論理ではないもの、歴史という事実と現実の代表者(representative)として顕れることばの数々。歌は、そのどちらとも交差して、そしてそのどちらも単独では歌となりえず、しかし歌は、歌として単一の存在を為す。

詩もまた、時を超える。時を超えて、その時代の風俗を脱ぎ捨てても生き残った詩には、独特の美しさがある。言葉の意味の遷ろいにも負けず、生き残る美には普遍が宿っている。多くの歴史を背負いこみ、重さに窮し、遷ろい、変化(へんげ)し、あちらこちらに迷いこんでも、それでも生き残った詩は恐ろしく強い。ことばとして、まるで死骸のような、しかし、彫刻のような。流れの中から生まれいでた静かな美しさ。そしてそこからまた新しいことばの流れが生まれるような力強さ。数学の詩的な美は生まれた時から約束されていたものだが、詩の美しさは生身に鍛え抜かれ、耐え抜かれて残ったものだ。強さが違う。それでも生き残った詩。人の心をまた揺り動かし、新しい歴史をまた創り出す。

歌に戻る。詩の強さと音楽の美しさ。両の親の美点も汚点も継承して、人は唄う。歌が人を呼ぶ。あ、深夜1時だ。ハーステ聴きながらワンピース62巻読んで寝よう。

、、、この文章に、結論なんてあるまい?(笑)


続きは、きっと宇多田光がその人生で身を以てみせてくれるさ。


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うーん、もちろん「まどか☆マギカ/ひかる♪ムジカ その2」を書くつもりで居たんだけど、今日のざねっちのツイートがどうにも気になって筆が鈍ってます。

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8:47:46
おはようございます。最近、代替エネルギーの研究をしているグループ、学者のことを気に留めて本気に調べています。振動エネルギー、波力エネルギーなど。ヒカルからも教えてもらうこともあります。CO2も放射能も、地球に、そこに棲む生き物に害があるから。teruzane

19:18:19
ヒカルに取っては「人間活動」の一環だと思います。資金、研究費ね、それと人材かな。ヒカルは始めたら徹底的に進む人間だから。teruzane RT @sssenn @u3music ヒッキーどんなことを調べているんだろ。気になりますね。

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、、、ど、どこまでやる気だひかる!?

“代替”というからには、「原子力以外」なんだろうが、大丈夫かなぁ。。。
エネルギー問題については、語るべきことがたくさんあるけど、最初っから原子力をハズして考えるというのも、、、まぁ、この文面だとざねっちとひかるのどちらがそう考えてるのかわからんけどね。特に彼は、ツイートのことば軽いからね。

困ったなぁ、、、とりあえず、今日のエントリ掲載はここまでということで、、、。

私は何を語るべきか、悩むですよ。


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いや~やっと「魔法少女まどか☆マギカ」(wiki)を観終わった。どうせならリアルタイムで観たかったが、実際に鑑賞してみると、リアルタイムでの高揚感の補助などなくても存分に楽しめる傑作だった。よかった。ついでに、今日は実際にヴァルプルギスの夜の日なんだとさ(註:作品中にこの名前のキャラが出てくる)。こういうタイミングで観終わるあたり、実に私らしいな、とも思う。何の話だ。

ストーリー構成が魅力的な作品なのでネタバレなしで書こうと思うが、はてさてどこらへんの時期でネタバレありでストーリーを引用しようかちょっと悩む。BD/DVDリリースが終わるまで待つのが礼儀ってもんな気がするが(なんだかんだでローカル主体の地上波放送だったもんね。ネット配信もあったけど)、最終話が出るまで5ヶ月もかかるという話らしいので、そこまで引っ張るのもどうかなぁと思う。まぁ、その点は流れに任せるよ。

で。この作品についての論評は(既に完結したので)もうきっとネット上に山のように転がっているだろうから私が何を言っても仕方がないのだけれど、やっぱり思う所は多々あったので、メモ代わりに幾つか記しておきたい。

基本的に、私は所謂アニメファンではない。キャラ的には意外かもしれないが、名作と評判が出たもののうちの極一部をあとからツマミ食いする程度の楽しみ方しかしていない。基本的に、30分もじーっと画面を観ているのがムリな性分なので(大概寝てしまう)ファンの皆みたいにワンクールに4つも5つも(実際は毎クールごとに50作品位新作があるっぽい…)チェックするなんて無理なのだ。

で、この「魔法少女まどか☆マギカ」もご多分にもれずワンクール12回完結のアニメだったのだが、“前フリ”ともいえる最初の2回を除いて、私が眠気に悩まされずに見れた。これだけでも傑作といえる(そんな理由で?)。気がつくと、30分12回といっても、実質各回CMをとばせば25分足らずといったところで、合計で5時間である。2時間半の映画が前後編で2本だと思えば、そんなに長い作品でもない。更に、それがちゃんと12分割されてストーリー構成されているので受け手側としても物語の整理がし易い。

「作品」というものを考えたとき、その構成時間と提供間隔は重要な問題であるが、後追いで追いついた身としても、この作品をテレビアニメとして提供したことはいい方法だったと思える。勿論、作り手側の理屈としてはまずテレビアニメという枠があって、それにあわせて脚本を構成する、という順番だろうから話が逆なんだが、受け手側としては脚本家の発想がテレビアニメ枠向けだったのは僥倖と思える。

で、そういった間隔で提供される作品については、すっかり定着した「ウェブ上での議論」というものが作品を楽しむ上では不可欠になっている。私はそういうのに参加しない(というか上記のように基本的に後追いなのでしようと思っても出来ない)ので、その楽しさを理解しているとは言い難いんだが、今回この「魔法少女まどか☆マギカ」で盛り上がった議題がふたつあって、ひとつは「誰が(本当の)主人公なのか」という点、もうひとつが、そのハラハラドキドキの展開から「ちゃんとハッピーエンドになってくれるのか」という点。この2点がリアルタイム視聴者の興味を惹いていたっぽい。

キラクにアニメを観るような私にとっては、両方ともあまり関心のあることではない。別に特定のキャラだけを注視しなくても、沢山の登場人物それぞれの個性を眺めて愉しめばいいんだし、どうせ絵が動いているだけなのだから、別にその中がハッピーだろうがバッドだろうが現実には誰もケガしてないし死んでもいないのだから気にする気にもならない。

しかし、そうやって傍観者諦観者として外から観ていて、つまりこの2点に関心が出てくるのはひとつの現象の裏表なんだな、ということに気がついた。つまり、視聴者が誰に感情移入して物語を楽しむか、という事だ。何故、たくさんのキャラクターが出てくる物語のなかで基本的にたったひとりのキャラクターを特定して主人公としなければならないのかというと、感情移入の対象が一貫していなければならないからだ。その主人公と同化し、同じように悲しみ同じように喜ぶことで世界の中に入り込んでカタルシスを得ることがアニメという媒体を楽しむ為の基本的な作法なのである。

となってくると、当然視聴者は主人公と同化しているのだから、物語の中で主人公はハッピーエンドになってもらわないと困る。単純に主人公が自分の分身の役割を果たしているから、でもあるし、また、上記のような“作法”に則った娯楽である以上そのアニメの描く世界で得られたカタルシスを現実世界に還元する際に、カタルシスに対して肯定的な態度でなければならない。つまり、「あぁ、いいアニメだった」という感想を現実の世界で呟く為には、主人公との同化が解ける瞬間(つまり、アニメのエンディング)においてそこまでの全体験が「よい結果を齎した」という“(現実世界での)事実”に転換してくれなくてはならない。

即ち、アニメでの主人公同化願望とハッピーエンド願望は裏表なのである。第1話から一貫してひとつのキャラに感情移入し、それが最終話でハッピーエンドで終わることで、ファンタジーの世界とリアルの世界の橋渡しが可能となるのだ。主人公が特定されないと、その世界に入り込みづらいし、バッドエンドで後味が悪いと、その世界から抜け切れない。だって、なんとかしてハッピーにしたい、という後ろ髪引かれ感が残っちゃうからね、その世界から戻りたくなくなってしまう。


、、っとと、嗚呼、前フリが長くなりすぎて肝心の「ひかる♪ムジカ」なパートまで来てないっすっ。次回に続くということでっ。



P.S. ちな!みに、私が「魔法少女まどか☆マギカ」でいちばん感情移入できたのはキュゥべえでした。性格が出るなぁやっぱり・・・(笑)。


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こういう時にいつも話題になるのが「これだけの犠牲者が出てるのに大笑いしたりおおはしゃぎしたりするのは不謹慎だ自粛しろ」という意見。問題なのは、これが大抵当事者以外から聞こえてくること。勿論当事者達からすればそういう思いを仮に持っていたとしてもなかなか(当事者であるという事実がある為に)言い出し難いからその代弁をしなくては、という義務感使命感が発言者にはあるんだろうし、その気持ちはよくわかる。なので、いろんなケースを考えて自粛を呼び掛けてみることは悪くない。言ってみないと何が適切かなんてわからないからね。

でも、僕としてはこう考える。死んでいった人達は、残していった親しい家族や恋人や仲間に、悲しい顔をして貰いたくて死んでいったのか? 違うだろう。無念のうちに死んでいった筈で、彼らを悲しませたくて死んだわけじゃない。できることなら、遺った人達には、そりゃ自分が死んだら多少は悲しんで貰わないとそれはそれで寂しいけれど、できれば自分が居なくても力強く人生を生きて欲しい、と思ってる筈だ。今は自分が居なくて辛いだろうけれども、少しずつでも元気を取り戻していってほしい、草葉の陰でそう願ってるんじゃないか。私が「死者のことば」を書くのは珍しいけれど、これは死の間際に彼らが持っていた願いや祈りだと云った方がいいかな、彼らが生きてた時の最後の願いを汲み取りたいと想像してみてるわけさ。

それを考えると、自粛して厳かに彼らを送り出したり、彼らを喪って悲しみにくれている人達と気持をひとつにしてともに悲しむ事も大事だと思う一方、これからの色んな苦難に向けて力強く人生を歩んでいく力を与えることもまた大切だと思う。そして、そういう気持の推移は、親しい人を喪った人達ひとりひとり違う筈で、できれば悲しんでばかりいずに、今生きてる人達と一緒に死んでいった人の分まで楽しく幸せに生きていきたい(って被災地でそういう風に考える所まではとてもいかないかもしれないけれど)、そう願ってる人達も居るんじゃないかと思う。これも、実際にはたらきかけてみないとわからない。

だから、自粛すべき、と言ってる人達と同じくらい、今迄通り、今迄以上に馬鹿騒ぎしたり大笑いしたり、っていうのを促す人達の頑張りもまた、やってみるべきだと思う。そりゃ両者は対立するさ。意見なんて食い違うばかりで合うとは思わない。でも、僕らが本当に耳を傾けるべきは、今大切な人を喪ったり被災して普段とは違う過酷な生活を強いられてる人達の声である筈で、多様な気持の揺れをもってる彼らにどうアプローチするべきか、やってみないと、言ってみないとわからない。何が言いたいかというと、どちらも被害者のみんなのことを思う気持には変わりがなく、方法論の違いだけなんだから、どちらの方法が失敗しようと成功しようと気にしないで欲しい、ってこと。失敗して謝るべきは気持を汲みとってあげきれなかった相手に対してであって、今他の場所で意見を言い合ってる僕ら同士の話じゃない。そこの点だけは、ちゃんと整理していろいろと活動するべきだ。

だから、今の神妙な報道一辺倒の地上波の様相は素直に首肯できない。なんというか自粛&厳粛ムードが勝ち過ぎてる。ぶっちゃけ、情報提供にはテレビっていうメディアは向いてない。ひとりひとりに対してきめ細かい情報を提供するという機能とは対極にある(同じことをみんなに教えることには長けている)。でも、これだけチャンネルの数と長い放送時間があるのだから、できるだけ両方の意見が入り乱れて放送された方がいいんじゃない? そういう意味で、教育テレビとテレビ東京系は素晴らしい。今は旗色が悪いけど、頑張れ不謹慎!頑張れ娯楽番組! 各地の馬鹿騒ぎイベントも負けるな! こういうときこそ、人に笑顔を与えられる仕事ができる人が羨ましいよ。


光の歌もラジオで掛かっているんだとか。被災地のみんなにも届くといいな。

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今度は、夜の記事の補足、というか続きの話を。(ホントに与太話なので、できる限りスルーしてください(汗笑))

当該記事では明記しなかったが、“iPad”で指しているのは必ずしも現存するiPadのことだけではない。昔でいうなら、ウォークマンといったときにポータブル音楽プレイヤー全般のことを指した(知らないひとにはテレビゲーム全部ファミコン、みたいななw)のと同様、これからの時代に登場する無線で繋がるタッチパッドのタブレット全般を指す“広義のiPad”という意味で云った、つもりです。

今のiPadのディスプレイサイズは9.7インチだが、今後はもうちょっとバラエティ豊かになると思う。恐らく、このサイズは「いちばん最初にタッチパッドタブレットの魅力を知る/に慣れる為にいちばん無難な大きさ」としてAppleが提示したものなのではないか。TVだって用途や個人的趣向に合わせていろんなサイズ・インチが出ているのだからiPadも普及するにつれそれぞれの国や地域年齢層やらなんやらかんやらに合わせていろんなサイズ(縦横比含め)が発売になるだろう。

iPadが普及するといろんな影響が出てくる。ただこの“普及”は、くどいようだが「無線ブロードバンド」が全国くまなく、、、どれくらいかというと「屋外は(最低でも)道の通ってるところは全部。屋内は、電灯のつくところ全個所」くらい普及して初めて威力を発揮する。だって、いくら電子書籍が発売になってもトイレで読めないって結構痛くない?(笑) トイレで新聞読むお父さん多いでしょー。ま、そうやって読み耽ってトイレ占領して家族に迷惑かけなきゃいいけどw

いや、トイレってかバスルーム、風呂場で使えるかってのが結構重要だと思う。そう、完全防水のiPadが出るかどうかが少なくとも世界に冠たる風呂大国日本では大きい。他の国では、お風呂でそんなに時間を過ごすとかなんかなさそうな気がする・・・日本人が、世界でいちばん風呂好きなのではないか。今んとこiPadの防水性が話題にならないのも、米国主導で話が進んでいるからだろう。日本人の愉悦。湯船につかって漫画やら小説やら雑誌やら新聞やらを読む。生放送のTVをみたり録画した(買った)映画をゆっくり見るもよしラジオやら音楽を聴くもよし、全部それ一台でできる。今でもお風呂場にケータイやiPhoneをムリヤリ(?)持ち込んで楽しんでる人は多いだろう。それが、手ごろな大きさになる。

いやそれだけじゃない。一昔前に流行った「ユビキタス」ということばが漸く現実のものとなるかもしれない。あらゆる家電をiPadで操作できるようになる。お風呂だって部屋から直接お湯を入れたりできる。今の家電でも出来る機能だが、それが全部iPadに集約される。買い物に出たときに、iPadで直接冷蔵庫の中身をチェック。内部にCCDカメラを仕込んでおいてUSTすればいい。冷蔵庫にLANとカメラが標準装備になるだろう。いや全部買い物にタグを仕込んでおいて、それが扉を出入りするのをチェックしておけばデータベース化も…。冷暖房も、外から帰る前にiPadかiPhoneでエアコンを何分か前につけておいて、家に到着する頃には家はあったか/涼しいという、、、これはもう今でもあるかな、、、まぁとにかく妄想は膨らむばかりw


脱線した。てか、全部が脱線エントリだからいいのか。無線ブロードバンドを実現させる為には、できれば今地上波が占めている周波数帯を全部モバイルに明け渡してもらうことが必要…なのだがこういう話はTVを見ているだけではなかなかお目にかかれない。TV局が電波を独占しているのはダメだなんて話、テレビで出来るはずがないw そういう話は、元NHKの中の人、なのに今はそういう「地上波テレビ局の電波利権」とかの話ばっかするから地上波に出演できない“テレビ局のブラックリスト”に載っている(実際に存在するんだねそんなもんw)アルファブロガーの経済学者池田信夫氏のblogに詳しいから、そちらをどぞー。あたしゃ数年来読んでおります。ここに書いてあることの大半は彼の受け売り(笑)。


脱線しながら、そうそう、音楽の話も改めてまとめる。まず、PVのポータブルな視聴が楽しくなる。今のケータイでも結構よく観れるみたいだが、やっぱり9.7インチとかだと楽しめ方が違う。どちらかといえば、ライブビデオみたいなものを観るのに適しているかなー。

それで気になるのが、「ワイヤレスヘッドフォンがつけられるか否か」だ。アメリカの住宅事情と日本の住宅事情は非常に違う。こちらの狭い国ではヘッドフォン・イヤフォンの取り付けが必須。あれ、iPadにblutoothってついてたっけ。まぁ、それですら無線LANで、となると流石に無駄な気がするので、そこは今後充実させて欲しい。絡まるコードに悩まされるのはゴメンだからねー。今のウチのケータイもblutoothでイヤフォンつけられるんだけど、電池の減りが異様に速くなるので毎日絡まるコードに悩まされる方を選択しております(^^; ま、これは多分なんとかなるだろうな。あ、blutoothも無線通信なので、今話題のギテキマーク必要なんだろうなーきっと。

脱線につぐ脱線だな。

音楽を、手許で映像とともに楽しめる。それだけの容量とスペックはありそうだ。現時点ではiPadはシングルタスクだというので私正直食指が動かないのだが今後はなんとかなるんじゃないか(テキトーな楽観論w)。で、今日(もう昨日か)の夜取り上げたようにたぶん音楽自体は1.4Mbpsの、つまりCDと同じ非圧縮PCM音源で配信・受信できるようになるはずだ(くどいようだが、もし無線ブロードバンドが普及したら、ですよ)。そして、今CDのブックレットになってる部分はpdfか何かでデジタル・ブックレットとして同時配信される。9.7インチなら今のブックレットの見開き程度にはなる。これで歌詞や写真を観れるとなると、いよいよCDの実存的優位(大袈裟w)が危うくなってくる。「やっぱりモノを購いたい」という熱望は相変わらず強く残るとは思うがiPadやiPhoneの便利さの前には今のレコードの位置付けくらいしか残らないのではないかCDというマテリアルには。

もちろん、歌詞を実際の歌唱とシンクロさせて表示させることもできるしボーカルリムーブも標準装備。カラオケバージョンが存在しない楽曲総てでカラオケが楽しめるようになるだろうな。そういうことはPCで既にできることではあるがタッチパッドで電源入れたらすぐ機能という中でできるようになると普及度はまるで違うものとなるだろう。、、、てか、もしかしたらカラオケルームの端末全部iPad持ち込みになるかもよ?(笑) そっちの方が維持費断然安いし、部屋提供するだけだしね、そういうカラオケルームの方が料金さげられて流行るかも。つまり、iPadで選曲送信してそのまま歌う、という。ルーム内はPCとマイクとディスプレイがあればOK。こういうのも、もうあるかもしんないけどねー。

デジタルブックレットの充実という点では、勿論iPadを音楽つきデジタルフォトフレームとして使用することもできるだろう。クラシックの音楽と西洋の風景写真をセットにして提供する、なんてこともできるようになる。なまじっかDVDという媒体にしてしまうと映像がしっかりと動かないと消費者として納得がいかないところだが、音楽の流れるフォトフレームだと思えれば例えばアイドルの写真集と音楽CDアルバム、「アルバム×アルバム」に需要があるかもしれない。ガジェットがある程度“不便”になることで新たに認められる分野も出てくるだろう。まぁ勿論、webで写真集めてスライドショーしながらyoutubeを連続再生させればタダでおんなじこと出来ちゃうんだけどねー(^^;


眠くなってきた。今夜はこのへんでおやすみなさいw まぁ殆どの人が朝以降に読むと思うんだけども・・・・・・


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今日(もう昨日だけど)読んで、とても感銘を受けた、というか
「あぁ、こりゃ引用に便利だw」と書き手として思った一文。
もうパブリック・ドメインなので、全文転写してやるぞこらぁっ!(笑)
文字おこしをしてくれた青空文庫参加のみなさんに感謝。
引用元は、こちらです。


***** *****



 詩の表現の目的は単に情調のための情調を表現することではない。幻覚のための幻覚を描くことでもない。同時にまたある種の思想を宣伝演繹することのためでもない。詩の本来の目的は寧ろそれらの者を通じて、人心の内部に顫動する所の感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。

 詩とは感情の神経を掴んだものである。生きて働く心理学である。

 すべてのよい叙情詩には、理屈や言葉で説明することの出来ない一種の美感が伴ふ。これを詩のにほひといふ。(人によつては気韻とか気稟とかいふ)にほひは詩の主眼とする陶酔的気分の要素である。順つてこのにほひの稀薄な詩は韻文としての価値のすくないものであつて、言はば香味を欠いた酒のやうなものである。かういふ酒を私は好まない。
 詩の表現は素樸なれ、詩のにほひは芳純でありたい。

 私の詩の読者にのぞむ所は、詩の表面に表はれた概念や「ことがら」ではなくして、内部の核心である感情そのものに感触してもらひたいことである。私の心の「かなしみ」「よろこび」「さびしみ」「おそれ」その他言葉や文章では言ひ現はしがたい複雑した特種の感情を、私は自分の詩のリズムによつて表現する。併しリズムは説明ではない。リズムは以心伝心である。そのリズムを無言で感知することの出来る人とのみ、私は手をとつて語り合ふことができる。

『どういふわけでうれしい?』といふ質問に対して人は容易にその理由を説明することができる。けれども『どういふ工合にうれしい』といふ問に対しては何人(ぴと)もたやすくその心理を説明することは出来ない。
 思ふに人間の感情といふものは、極めて単純であつて、同時に極めて複雑したものである。極めて普遍性のものであつて、同時に極めて個性的な特異なものである。
 どんな場合にも、人が自己の感情を完全に表現しようと思つたら、それは容易のわざではない。この場合には言葉は何の役にもたたない。そこには音楽と詩があるばかりである。

 私はときどき不幸な狂水病者のことを考へる。
 あの病気にかかつた人間は非常に水を恐れるといふことだ。コップに盛つた一杯の水が絶息するほど恐ろしいといふやうなことは、どんなにしても我々には想像のおよばないことである。
『どういふわけで水が恐ろしい?』『どういふ工合に水が恐ろしい?』これらの心理は、我々にとつては只々不可思議千万のものといふの外はない。けれどもあの患者にとつてはそれが何よりも真実な事実なのである。そして此の場合に若しその患者自身が……何等かの必要に迫られて……この苦しい実感を傍人に向つて説明しようと試みるならば(それはずゐぶん有りさうに思はれることだ。もし傍人がこの病気について特種の智識をもたなかつた場合には彼に対してどんな惨酷な悪戯が行はれないとも限らない。こんな場合を考へると私は戦慄せずには居られない。)患者自身はどんな手段をとるべきであらう。恐らくはどのやうな言葉の説明を以てしても、この奇異な感情を表現することは出来ないであらう。
 けれども、若し彼に詩人としての才能があつたら、もちろん彼は詩を作るにちがひない。詩は人間の言葉で説明することの出来ないものまでも説明する。詩は言葉以上の言葉である。

 狂水病者の例は極めて特異の例である。けれどもまた同時に極めてありふれた例でもある。
 人間は一人一人にちがつた肉体と、ちがつた神経とをもつて居る。我のかなしみは彼のかなしみではない。彼のよろこびは我のよろこびではない。
 人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である。
 原始以来、神は幾億万人といふ人間を造つた。けれども全く同じ顔の人間を、決して二人とは造りはしなかつた。人はだれでも単位で生れて、永久に単位で死ななければならない。
 とはいへ、我々は決してぽつねんと切りはなされた宇宙の単位ではない。
 我々の顔は、我々の皮膚は、一人一人にみんな異つて居る。けれども、実際は一人一人にみんな同一のところをもつて居るのである。この共通を人間同志の間に発見するとき、人類間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。この共通を人類と植物との間に発見するとき、自然間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。そして我々はもはや永久に孤独ではない。

 私のこの肉体とこの感情とは、もちろん世界中で私一人しか所有して居ない。またそれを完全に理解してゐる人も一人しかない。これは極めて極めて特異な性質をもつたものである。けれども、それはまた同時に、世界中の何ぴとにも共通なものでなければならない。この特異にして共通なる個々の感情の焦点に、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』とが存在するのだ。この道理をはなれて、私は自ら詩を作る意義を知らない。

 詩は一瞬間に於ける霊智の産物である。ふだんにもつてゐる所のある種の感情が、電流体の如きものに触れて始めてリズムを発見する。この電流体は詩人にとつては奇蹟である。詩は予期して作らるべき者ではない。

 以前、私は詩といふものを神秘のやうに考へて居た。ある霊妙な宇宙の聖霊と人間の叡智との交霊作用のやうにも考へて居た。或はまた不可思議な自然の謎を解くための鍵のやうにも思つて居た。併し今から思ふと、それは笑ふべき迷信であつた。
 詩とは、決してそんな奇怪な鬼のやうなものではなく、実は却つて我々とは親しみ易い兄妹や愛人のやうなものである。
 私どもは時々、不具な子供のやうないぢらしい心で、部屋の暗い片隅にすすり泣きをする。さういふ時、ぴつたりと肩により添ひながら、ふるへる自分の心臓の上に、やさしい手をおいてくれる乙女がある。その看護婦の乙女が詩である。
 私は詩を思ふと、烈しい人間のなやみとそのよろこびとをかんずる。
 詩は神秘でも象徴でも鬼でもない。詩はただ、病める魂の所有者と孤独者との寂しいなぐさめである。
 詩を思ふとき、私は人情のいぢらしさに自然と涙ぐましくなる。

 過去は私にとつて苦しい思ひ出である。過去は焦躁と無為と悩める心肉との不吉な悪夢であつた。
 月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである。疾患する犬の心に、月は青白い幽霊のやうな不吉の謎である。犬は遠吠えをする。
 私は私自身の陰鬱な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまひたい。影が、永久に私のあとを追つて来ないやうに。


萩原朔太郎



***** *****


太字は引用元ママ、斜字はi_による強調。
やり始めたらキリがなく全部が斜体になりそうだったので
2文だけに自重しましたw

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光が主題歌を唄っている為EVAは作品として幾度も取り上げているが、ハルヒも又重要度の非常に高い作品だ。然しUHFアニメな上今回の初銀幕も全国24館上映というマイナーさ。映画の内容もTV版の延長上にあり敢えて映画館で観る程ではない。が、やはり京アニブランドによる異常な質の高さは凄まじかった。繊細なディテールの積み重ねで編まれた画面の数々。その密度の濃さをくどく感じさせないゆったりと洗練された時間の流れを形作った構築美。150分という呆れる長尺ぶりの必然性を疑うのは誰にとっても全く以て至難の業としか思えない。日本映画で歴史上国際的に知名度があるのは"動"の黒澤と"静"の小津だろうが、前者の路線がヱヴァと喩えるならハルヒは後者か。流石は"ポストEVA"という火中の栗を敢えて拾うだけの事はあると唸らされる出来映えであった。この2ッの映画の関係は、オリジナルとオマージュというより父子に近い。放蕩だがどこか放っておけない親父と、几帳面な性格なのに血は争えない息子。親父の方は今世紀に入って漸く己が才能に自覚が出てきたのか映画という世界に相応しく放蕩さをスケールの大きさに変換して大輪の花を咲かせつつあるが、息子の方は未々やっと同じ土俵に立てたに過ぎない。知名度としては前頭と幕下位の差はあるかもしれないが既に取り組みとして成立するだけの実力は身に付けつつあるとみるべきだ。後は資金力の差位か。EVAが次作で更に飛躍するであろう事は皆の予想・期待する所だが、ラノベを原作とする(そういえば読んだ事がない)ハルヒに今後何処までの爆発力が期待出来るか。今回の劇場版もTV2シーズン分を観ていない人にはちんぷんかんぷんな箇所が幾つもある一見さんお断りな内容だったが、今後もソレは変わらない筈だ。アニメオリジナルが作れる隙も小さいかもしれない(原作を知らないのでよくわからない)。いつまでもローカルヒーローで居て許されるクォリティでは(初アニメ化の時点から)最早ないだけに、今後の展開が気になる。確かに、今回の"消失"もハルヒを知らない人が観てもある程度は楽しめるだろう事は想像できるのだが、メジャーになるとはその様な層を主だって相手にするという事なのだ。EVAだって破でその境地の端緒に辿り着く迄十数年を要している。京アニの場合、ハルヒに拘る事無く他の素材も自在に扱えるだろう(例えばナウシカを引き継がなかったスタジオジブリの様に)が、父たるEVAが壮年にして最盛期を迎えている事を考えるとどうやって10年単位でアニメの進化と成長を蓄積するかが課題となろう。宮崎駿や庵野秀明みたいなカリズマなしでどこまで行けるか。"消失"のハイクオリティはそんな妄想的期待と心配を抱かせるに十分だった。しかしながら、今の所音楽の出来だけはいただけない。あの主題歌のミックスは全く劇場向けではない。EVAが序破で音楽面に著しい成長を見せていたから余計に気になった。勿論相手が宇多田ヒカルでは分が悪いに決まっているわけで、その辺りは経験が解決してくれるだろうから不安視はしていないけど。原作の進行次第だが、更に向こう10年楽しませてくれるアニメシリーズに発展してくれる事を願っている。最後に1ッ。"消失"のTV第3期でのリメイクに期待する。以上。

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映画作品、
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』EVANGELION:2.0 YOU CAN (NOT) ADVANCE
関連のエントリです。

劇場公開中映画に関するネット暴れ(ネタバレねw)については、
いろんな考え方があるけれども。

とりあえず今回、当blog無意識日記では、
TVで序が放映されたあとの週末が終わる7月6日0:00:00まで、
映画の内容に関する発言には、blog主(i_ね)、
コメントをくださるみなさん、トラバを送ってくれる方々、
何れも当エントリのコメント欄利用を奨励します。

箝口令がしかれたくらいの作品だから、こんな感じで。

***** *****

あぁ、まだ観てない方々にひとことだけ感想を。

素晴らしい映画だよ。迷ってる人は、観に行った方がいい、かな。

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NONSTYLEが技術と速度と密度で勝利。
オードリー、ナイツと違い1本目より更に面白い2本目をもってこれたのが勝因か。

1本目一番面白かったのはオードリー。
笑いの絶対量だと他と僅差だったが、
“笑いのパターン”が一番多かった。
そこが評価されたのだと思う。

正統派のしゃべくり漫才の技術と精度か、
新しい笑いのパターンを編み出す創造性か。
この2つの潮流のどちらを評価するかの二極分化が
今年更に推し進められた感が強い。

今回の審査員で、正統派のしゃべくり漫才を評価したのは巨人と紳助、
一方、パターンの多さを評価したのが大竹まことと松本人志。
NONSTYLEは前者に、オードリーは後者に受けていたようだ。

僕個人は、笑いのパターンが多い方が好きなので、
一本目の9組を見た時点ではオードリーが1番と評価したが、
M1は、“今夜一番面白かった組が勝つ”のが大原則。
二本目の笑いの量でNONSTYLEが圧勝だったのだから、結果は至極妥当という結論。

オードリーは2本目の選択を誤った、とみる。
政治ネタは最大公約数が小さいから会場が一体になりにくい。
“ホラー映画ネタ”というマイナスの少ないネタをもってきたNONSTYLEの作戦練り勝ちでした。


あとは、構成力。
1本目城とメガネで4分をまとめあげたナイツだったが、
2本目はメガネのプレイバックのみでネタと笑いが単発になり拡散したのが痛かった。
M1は“拍手の起こる大爆笑”のインパクトを生み出せるかどうかがカギを握る。
小爆発を連鎖させて大爆発にもっていく構成力、それを更に
1本目2本目をも連鎖させて笑わせられるかどうか、だ。
まぁ、そんなことは決勝進出者全員よくわかってるんだろうけどね。
言うは易し、行うは難し、です。


今年は、突出した組はなかったけど、
全体的なレベルの底上げが凄かった。結局全部笑ったもんなぁ。

笑いは毎年毎年が勝負。来年もこの番組が安泰とは限らない。
一年一年を、楽しませてもらおうと思います。面白かった。


追記1: 今田は相変わらず名司会。ここ2,3年はTVで一番巧い司会者だと思う。上戸彩が意外にも安定したアシスタント振りでよかった。でも、来年は小池栄子なのかな。彼女何故か隔年登場なんだよね。

追記2: 参加総数4489組、ってなんか見慣れた数字だなと思ったら、DVD-R1枚の記憶容量が4489MBだ。納得w ところで、今回の決勝進出者やたらと番号が末尾付近だったけど(笑い飯なんか4489番)、なんか理由あんの?


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「おまぃそれは堀北に"おにぃちゃんv"って言わせたいだけちゃうんか」位しか今んとこ感想がない.ラスフレ同様,敷居を低くした“スロー・スロープ・スタート”の様な気がする.兎に角キャスティングに死角がない.今んとこ完璧だ.須藤理彩はああいう役柄でなくては(ソコか?).成宮君なんて地じゃないの今迄もこうやってきてるコなのだろうか私ドラマ見ないから知らないデス.カメラワークも秀逸カット割も実にプロ,Eternallyを流した時間帯がラスフレ第1回のPoLとほぼ同じだったのも意図的だろう.視聴者との3ヶ月に渡る鬩ぎ合いが遂に始まった.

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「スカイ・クロラ」を観てからもう1ヶ月以上経つ。
そういえばあんまり何も書いてなかったのでこの機会に幾つか書いておこう。

オフィシャル・サイトでの庵野秀明監督のコメントがふるっている。
以下まるごと転載。
曰く、


「面白い!」
「押井作品で初めて最後まで寝なかった」
「わかりやすい」
「実に繊細な恋愛映画」
「戦闘シーンが長くていい」
「作画が巧い」
「CGがよく出来ている」
「空戦がかっこいい」「効果音が凄い」
「綾波レイ(っぽいキャラ)がいっぱいで、萌えます」
「もう一回観たい」
「感動しました」
「アニメと宮崎駿さんに対する愛憎がにじみ出ていて、心がくすぐられます」
「押井監督が大人になってる」
「犬がかわいい」と、
観た友人らの好意的な感想(順不同)を抜粋しました。
僕も、大変面白かったです。
ストイックな感じが好きです。


…なんと、“友人らの感想”を用いるという卑怯な手段。
もしかしたら友人の感想を装った庵野さんの率直な、という深読みも
出来なくはないだろうが、ここは素直に彼が友人にきいてまわったと受け取っておこう。

まず、“好意的な感想(順不同)を抜粋”という書き方を
わざわざしているのがふるっている。
別にここは、「以上が観た友人らの感想です。僕も同意見でしたね。」で
よかったはずなのに。“抜粋”、だ。しかも“好意的な感想”を。
それ即ち“友人たちの感想の中から好意的なものを抜きだしました”イコール
“友人たちの感想は好意的なものばかりではありませんでした”と
言っているのと同義だ。オフィシャルサイトのコメントでこのふてぶてしさ。
庵野監督、実にふるっている。そこにダメを押すのが“(順不同)”のひとこと。
これも、“私が意図的に順番を並べましたからね~”ということに他ならない。
どんだけ度胸があるんだこの男は。

以上のことを踏まえつつ、今度は僕なりの解釈を含んだツッコミを
入れながら、もう一度彼のコメントを読んでみよう。
曰く。


「面白い!」
うむそれは間違いないわ。いい映画だったよ。

「押井作品で初めて最後まで寝なかった」
ちょwwwそれって“今までの映画はいつも途中で寝ていた位つまらなかったのが、やっと起きてられる程度になったねぇ”ってことかよwwww

「わかりやすい」
なwそうかw今まで起きてられなかったのは無意味に難解だったからなんだねw

「実に繊細な恋愛映画」
そりゃおまーナイーヴで子供っぽい恋愛しか描いてないって言いたいのか?

「戦闘シーンが長くていい」
「戦闘シーン以外は観る価値なし」ですかぃっ。

「作画が巧い」
戦闘シーンお気に入りのようでっ

「CGがよく出来ている」
戦闘シーンがますますお気に入りのようでっっ!

「空戦がかっこいい」
やっぱりそれしかないんかい!(涙)

「効果音が凄い」
うんうん、映画館で観ないとね~この映画はw

「綾波レイ(っぽいキャラ)がいっぱいで、萌えます」
ちょwwwなんという皮肉たっぷりwwwwwww自作映画キャラをww

「もう一回観たい」
あ、そうなんだ。

「感動しました」
この流れだと「“戦闘シーンには”感動した。それはもう1回観たい」としか、、、。

「アニメと宮崎駿さんに対する愛憎がにじみ出ていて、心がくすぐられます」
そりゃあんたも同じ気持ちがあるからでしょー!(笑)

「押井監督が大人になってる」
還暦前の大のオトナをとっつかまえて“今まで子供でしたね”と言い切るか!(絶句)

「犬がかわいい」
そりゃいつものことじゃ!(笑々)

と、観た友人らの好意的な感想(順不同)を抜粋しました。
僕も、大変面白かったです。
友達の感想をきいてまわることがかーっ!!(爆)

ストイックな感じが好きです。
あ、それはそうだねーうん。映画の感想、ってより
この映画を作った人に対する感想、だけどな“ストイック”ってのは(^^;



ま、かなり(というか全部)私の主観まみれだが、
こういう読み換えをするべきコメントだろう。
これをオフィシャルサイトに堂々と寄稿する庵野監督。実にふるっている。
しかし、一番ふるっているのはこのコメントを修正せずにまんま載せてしまった
担当者の人のような気も致します、、、(もしやパンフもこの文面か!?)

庵野監督、ここまで言うんだから、今作ってるヱヴァに
絶対の自信があるんだろうな。確かに、ストーリーのプロットに限っていえば
今回の「スカイクロラ」の2時間は、十余年越しの物語を
今まさに構築せんと踏ん張ってる彼からすれば、「片腹痛いわ」くらいにしか
思えなかったんだろう、という邪推は、(私の中で)成立する。
わざわざ綾波レイの名前を出したのも、「こんなんヱヴァに較べりゃ」っていう
気持ちがあったからだろうし。ますます期待…なんだが、
いつになったらヱヴァ第2弾「破」は公開になるんだろうね・・・(汗)。

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同映画のよい感想を2つ見つけてきた。

ひとつめは2ちゃんまとめサイトから。
完全にネタバレなので映画未見の方注意。
崖の上のポニョが神過ぎた件
http://urasoku.blog106.fc2.com/blog-entry-487.html

全部読むとめちゃめちゃ長い。
しかしどの考察も各論として充実していて楽しめた。
青字以外にもレス番159なんかはハズさず読みたいところ。
時間のあるときにタップリ読めば、もう一度この映画を観たくなる事請け合い。


もうひとつ、時間のない人の為に、そして、↑のまとめサイトの考察では
煩雑でわかった気になれなかった、というひとのために
たった3行でこの映画の本質を描き切った感想文を紹介しておく。

リンク先がすぐログが消える掲示板なので、
無断全文転載させていただく。えぇい構うものか。
http://cgi39.plala.or.jp/okan/honey/honey.cgi

ポニョ
投稿者:石黒 - 2008/08/16(Sat) 12:11 No.9334 [返信]

崖の上のポニョ観ました。
面白かったです。
「面白かった」というのもまた安直な感想ですが。

なんとも不思議なお話で、腑に落ちない謎な部分が一杯残るのですが、それについてあれやこれや言及し、不安な暗い暗喩を見出したり・・・なんてのは評論家気取りの仕事で、純粋に男の子(宗介)とポニョの話なんだと思います。

子供たちの視点や感情は驚くべきリアリティを持って細かく描かれていますが、察してしかるべき大人の事情やなんかはビックリするほど説明されておらず、そこが多くの謎として残ります。
ただ、そっちに目を向けてしまったが最後、頭の凝り固まった大人は宮崎監督の罠にからめ取られ、ポニョの居る世界から締め出されてしまう仕組みなのです、きっと。

俺の個人的な印象としては小さい頃の法事のような映画です。
親戚が一杯集まって、従兄達と遊んで楽しかった。
大人たちは何やら難しい話をしていた。



最後(私が勝手に)太字にした部分が、“その3行”である。
この前あんな長さで書こうとした内容を
こんなに短く簡潔にまとめられてしまってはグゥの音も出ない。
ホント、これ書いた人天才。
今後「ポニョってどんな映画?」ときかれたら、この3行を私は答えたいです。

ちな!みにこれを書かれたのは
それでも町は廻っている」ってマンガの作者さん、石黒正数氏
Hikkiの好きな「バイオメガ」を描いた弐瓶勉さん同様、アフタヌーン四季賞出身。
とはいっても、作風は全く正反対なんですがね。
なんだか、最近のテーマ「天才は天才を知る」ってのを強烈に印象付けてくれて興味深いっす。

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http://www.ghibli.jp/ponyo/

ネタバレ感想、、、というほどストーリーには触れてないんだけど、、、、はコメント欄に掲載しました。
このエントリ内はまだ見ていない人向けの内容です。

***** *****


自分なりにまとめると
「絵本の世界が動き出し、現実世界が絵本に溶け込む世界観」
の中で繰り広げられるシンプルでリトルなラヴ・ストーリー、といったところか。

なのでターゲットとしては、“いろんな絵本を眺めるのが好きな人”が想定されるだろうか。
いろんな、というのは、シルヴァスタインのような線画から、ほとんどルネサンス壁画のような
精微に描き込まれたものまで、それこそ多種多様な絵本の世界が
ゆるやかにアニメーションで繋がっている感触である。
その絵柄、動き、タッチと同調するかのように、ストーリー自体もまた、
ゆるやかに様々な価値観と世界観同士を微妙に揺らめきあいながら進む為、
例えば“ロールプレイングゲームのように”きっちりとフラグ(条件)をクリアしながら
明確な目的に向かって進む冒険活劇(たとえばラピュタね)を求む向きには厳しかろう。
また、となりのトトロのようにリアリスティックを主軸としてその中にメルヘンが紛れ込む、
という古典的な感じではなく、「もののけ姫」でみられた、3者以上の価値観が
衝突と融和を繰り返すのを、アニメ上の技法や個々のキャラクターの住む世界観という
“メタ・レベル”で再現した、というちょっとマニアックな見方も出来るかもしれない。

正直、話が難しくなりすぎた(苦笑)。
もそっと簡潔に。

つまり、ストーリーのアラを探さずアニメのキレイさを楽しむ、という人には向いている。
映像を浴びに行こう、という。ただ、生々しさとメルヘンが混ざり合ってるので
ひとによってはちょっと違和感があるかもしれない。
ストーリーやメッセージ性については、説明不足が甚だしいので、
「それどういうこと!?」と気になり始めたらもう映画を楽しめない。
「ポニョかわいい~!」「ソウスケくん凛々しい~!!」とか、そんな感じで楽しみたい。
ストーリープロットのシッカリした海洋モノアニメが見たい、というのなら
僕がこないだ見た「ファインディング・ニモ」が出色の出来なので、そちらをオススメしとく。
映像美そのものを堪能したい、というのなら、「千と千尋の神隠し」の方が壮麗だな。
アクションシーンのダイナミズム、となればラピュタや紅の豚がいいか。
純粋に子供向け、ということになるとトトロの方がキャラは立つなぁ。

ということで、「この映画は他の宮崎アニメに比べてここが突出している!」という点は、
あんまり見当たらない。でも、音楽も含めどの面においても一定以上のクオリティには
達していると思うので、気軽に見に行って気軽に帰ってくるには、上映時間割り当ても
110分(前9分は宣伝時間だから実質101分かな??)とお手頃だし、
夏休みに家族連れで見に行くにはまぁそれなりによさそうです。
(でも、自分に子供がいたとしても、連れて行きたくないなぁ、というのが本音なのですがその話の続きはコメント欄で)
恋人同士だと、あんまり気分が乗るようなものでもないかな?
でもそれは大抵の宮崎アニメにいえることか。


さて、私の素直な感想は以下米欄でご覧下さい。
あんまりストーリーの結果がどうなる、という文章のでもないから、
一応ネタバレ扱いではあるけど、読んでから見に行っても楽しめる、、、かも。
寧ろ、私の視点が余りにもへんちくりんなので、
偏見が強くなりすぎて素直に映画を楽しめなくなるかもしれない弊害の方が心配。
まぁ、そこまで僕の文章に影響力は、ないかなw 自意識過剰ー。


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もうヤフトピなんかでも随分と取り上げられて周知のことだろうとは思ったが、
無防備に検索して面食らう人もいるかもしれない、と思ったので補足。

毎日新聞の英字版ウェブサイトに“不適切な”記事が掲載され発信されていた問題。
結構ややこしいので、まとめページへのリンクをはりつけておく。

> GIGAZINE.NET
> http://gigazine.net/
> テレビや新聞で詳しく報道されない「毎日新聞英文サイト変態記事事件」、一体何が問題なのか?
> http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20080721_mdn_mainichi_jp/

もうひとつ、至極冷静な2ちゃん管理人ひろゆきさんの反応。
このひとほんと頭がいい。ちょっと怖い。
http://hiro.asks.jp/47417.html
僕もゆっくりと事の顛末を見守ることにするわ。

付言しておくが、その毎日.jpに掲載された“不適切な”記事の内容は、
人によっては“おぞましい”とすら感じるレベルのものであって、
上記の関連リンクにアクセスするのは、18歳以上の人たちに限らせて頂きます、ます。
私の気持ちとしては、どっちかというと情報のシャワーに慣れた10代20代の皆より、
ネットにあんまり慣れてないもっと上の年代の女性の方々に注意してほしい、ってのがあるんだが。
好奇心の抑制と来たるべき嫌悪感への耐性、どちらがどうなるかは、その人の生き方次第としかいえん。

でだ。

僕がここで言いたかったのは
「今の時期に“Easy Breezy”みたいな曲を発表してなくてよかった」
という話。

歌詞の内容だけ見れば、何度も触れているように他愛もない話だ。
(中にはこういったことから深刻な犯罪に結び付く例もあるかもしれないが、
 それはその深刻な犯罪そのものが深刻(なんというトートロジー)な訳であって
 ひとつひとつのケースを分けて考える必要があるだろうな。
 “交通事故に遭ったのは道を歩いていたからだ”というだけを考えても、
 どこの誰にどれくらいの過失があるか、わかったもんじゃないしね)

が、今のネット社会においては、たとえ理不尽で無根拠な中傷であっても、
一旦火がつけば感情の連鎖は止まらないのだ。実は、本当に怖いのは
情報の蓄積自体ではなく、感情の足跡が自然消滅しない事の方である。
何かに対しての怒りの発言は、怒りの形跡のままずっと残る。
誰かがそこで拾えば、また連鎖が始まるのである。
そして、その感情の形跡は、仮に全くの誤解から生まれたものであっても
消え去ることはない。間違った情報は消せる。或いは、常に訂正示唆と共に表示もできよう。
しかし、間違った感情の形跡は、いつ誰がどこでどうやって消せるのだろう?
もっともっと、誰も省みない位にウェブのキャッシュが莫大になるまで待つしかないのではないか。

ともかく、今の時勢のウェブ上の風評被害というのは「明日は我が身」、いや、
「1時間後は我が身」と考えておいた方がいい。いつどこで自分の発言がやり玉にあがるかわからないのである。

宇多田ヒカルなら尚更だ。

今、仮に4年ズレて“EasyBreezy”を発表していたなら、
「ウタダよおまえもか」とかよくわからん論理で国賊扱いされちゃってたんじゃないかな、と
考えるのは心配し過ぎでもなんでもあるまい。嘗ては眉毛を剃って髪の毛染めただけで大騒ぎだったんだから。
勿論、ちゃんと歌の歌詞を読めば、日本人に対する自虐な内容というよりは寧ろ、
アメリカのひとたちの認識に挑戦するような内容であって、これを以て国辱的とか売国奴だとか(いろんな単語があるなー)
言われるのは筋違いというものだが、筋は通せたときに通るものであって、
通す前に違う筋に道をぶっとく造られたら、そこにトラフィックができるのがネットの空気というものだ。

なんか長くなった。
というわけで、UtaDAの2ndが出るときは、そういう炎上の可能性を生むような歌詞が
ないことを祈るのみである、、、ってか、まぁ、光のことだから、2ちゃんのまとめブログ程度は
きっちりとチェックしていることだろう。そういう空気を読み取って歌詞を書くことについては
日本で一番秀でているだろうから、プロモーション方法も含め、そういう心配は無用かもしれない。

あ・く・ま・で、UtaDAの活動内容の決定権が、光自身に相当分割り当てられていたら、の話では、ある。
一番危惧するのは実はその点なのだが、この話題に触れる日が来ないことを祈っている。


脱線したけど、まぁえっちな歌詞もほどほどにね光、ってことでよろすく。

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