無意識日記
宇多田光 word:i_
 



『あなた』は部屋の外が凄い。『燃え盛る業火の谷間』やら『人寄せぬ荒野』やらに囲まれて戦争が始まっていたりアクティヴィストが闊歩していたりする。端的に言って地獄だろう。タイアップ先の「鎌倉ものがたり」に合わせている面も多分にあるとはいえ、ここまで世界を過酷に描いた歌も珍しい。

だからこそ『部屋』の威力が際立つ。この部屋を取り囲んでいるのが「音」だというのは注目に値するだろう。

『戦争の始まりを知らせる放送も
 アクティヴィストの足音も届かない
 この部屋にいたい もう少し』

足音は言わずもがな、放送の方も音が必須だ。この『放送』という歌詞を聴いて思い描いたのがテレビなのかラジオなのか町内放送なのかネットストリーミングなのか他の何かかは人によるだろうが、それが音であったのは皆共通しているのではないか。

『あなた』という歌は五感を激しく行き来するのが特徴だ。

『私の手を握り返したあなた』
『oh 肌の匂いが変わってしまうよ』
『晴れ渡る夜空の光が震えるほど眩しいのはあなた』

それぞれ触覚・嗅覚・視覚。流石に味覚は織り込めなかったようだが『終わりのない苦しみを甘受し』という言い回しに未練が見れる。味の「甘い」じゃないけどな。それはさておき。

その中で『部屋』は上記の通り聴覚を遮断するものとして登場する。様々な“外の世界の雑音”から隔絶する為のツールとして。そしてヒカルはそこに『いたい』と歌う。勿論、『もう少し』だけだけども。


ここで更に注目したいのは…嗚呼、最近時間の使い方が下手だな。続きはまた次回ね。

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『あなたに会えてよかった
 遠い町でも頑張ってね
 新しいお部屋で君はもう making love』


『部屋』は『Making Love』もだよと教えてうただいた。持つべきものはよいフォロワー。ありがとさんだね。

この歌でも『あなた』が出てくるね。御存知の通りヒカルの使う二人称というのは中身を特定化しないように抽象化されている。歌詞を書き始める切っ掛けが親友だったり親だったり子だったりその時の恋人だったり旦那だったりしたとしても作品としての歌詞を仕上げる頃には抽象化された純粋な『あなた』になっている。だから多くの、それぞれに違う「あなた」を持つリスナーに遍く歌が響いていく。

裏を返せば、ヒカルの歌う「あなた」は抽象であって具象ではないのだから、どこまで行っても「私にとってのあなた」でしかない。二人称の相手の細かい事情や性格、出自や感情というよりは、「一人称がまずあって、それに対する二人称」という態度が貫かれている。これは初期エヴァなどにもみられる新しい世代の唯我論、セカイ系と呼ばれるものだ。ヒカルの初期の歌詞でもその色は濃く、度々“孤独”がテーマとして取り上げられている。「あなた」が「私にとってのあなた」であるならばどこまでいっても「私」の問題でしかないのだから、「私」ですら、「あなたにとっての私」でしかない。その隔絶が孤独を生み出す。

そんな孤独観、人称論を背景にしながらヒカルの歌では『部屋』という言葉が度々登場する。極端な話それは建築物であってなかなかに具象物だ。『あなた』という歌は、そのものズバリの「あなた」という二人称をタイトルに冠しながらこの『部屋』という歌詞によって急激な具象、唐突な日常感を醸し出している。次回はそこらへんの話から。

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ヒカルの歌で歌詞に『部屋』が出て来るもの。



『戦争の始まりを知らせる放送も
 アクティヴィストの足音も届かない
 この部屋にいたい もう少し』

『残り香と私の部屋で
 温かいあなたの
 肩を探す
 肩を探す』

『デートだとかおしゃれだとか
 する気分じゃないから部屋でいいじゃん』

『散らかった部屋に帰ると
 君の存在で 自分の孤独確認する』

『そろそろ部屋から出ておいで
 いつまでたっても消えないから“事実”』


『だからdreaming of you 夢にescape in my room』



上から順に『あなた』『残り香』『日曜の朝』『For You』『はやとちり』。で、『In my room』。他に何かあったっけかな。


ほいでヒカルの歌詞で「部屋」の位置付け意味づけの変遷について書こうとして今歌詞を書き出してみました、ってところで今宵は時間となりましたとさ。やれやれ。続きはまた次回ね。

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今宇多田ヒカルは「母」をテーマに書けば何か凄いものを創る、というイメージが出来つつある。「父」との確執から始まって「母」の存在に気づいていくエヴァの物語との相性は抜群だろう。

ワンピースの作者尾田栄一郎は読者からの質問で「登場人物に"母"が少ないのは何故ですか?」と訊かれて「"冒険"の対義語が"母"だから」と答えた。ひと繋ぎの大秘宝を求めて大海原に繰り出す麦わらの一味にとって最も不要な存在なのだろうかな。

一方エヴァは─少なくとも旧劇版は、「家でじっとしてたら使徒がやってくる」物語だった。つまり、実に昔気質だが「母がお家を守る物語」だったのだ。ワンピースと対極である。

そうこうしてるうちに時代が変わり、"守るべき家"という価値観も変貌しつつある。ヒカルも『あなた』で『この部屋にいたい もう少し』なんていう風に歌っているが、確固たる家という昔ながらのイメージとは違ってきている。

「シン・エヴァ」は「母」をどう描くか。そして主人公たる「少年」をどう描き切るか。「母を喪う」物語も「母になる」物語も歌った宇多田ヒカルがどの立場でどのような歌を歌うか。庵野総監督が時代を見据えたライブ感を重視する人なだけに、世情を踏まえつつその中で旧来の"ロボットアニメ"の立ち位置を教えてくれるだろう。エヴァはロボットではないが、シン・ゴジラやシン・ウルトラマンといった特撮映画との対比は監督署の中で確固としてある筈だ。無事に来年6月に日の目を見る事を祈ろう。

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いつも音楽ネタを呟いてくれてるフォロイーさんが音楽ネタを減らしてまで政治の話を繰り返しているのを見るとガッカリする。いや、政治の話はどんどんして貰って構わないのだ。それで普段呟いてるネタが読めなくなるのがつまらない。興味がそっちに移ってしまったんかなと気になってしまう。

歳取れば取るほど音楽ファンて減るんだよねぇ。そりゃ子育てや仕事が忙しくなるから必然なのだが、政治に関心が移るとかになると「時間があっても音楽には戻ってこないんだなぁ」となる。

なんか日本て「音楽は若い人の趣味」みたいなところないかしらん。流行歌がラブソングばかりなのは万国共通だけれども、「社会への関心」を歌詞にすると政治的だと騒がれたりするからラブソングか応援歌しか歌えなくなったのかなぁ。…あら、たった今あたしもそれを押し進めてしまったのかな。難しいや。


ヒカルさんの歌詞は、その点、うまくシフトし始めているように思う。『あなた』は画期的だった。息子への愛を衒い無く歌う。お母さん。前作『Fantome』で母を喪った事を歌い、最近作『初恋』では母になった事を歌った。タイトルの初恋には思春期で初めての恋愛体験と共に「生まれてきて初めて与えられた愛情」を以て「初恋」とも名付ける大胆なパラダイム・シフトにチャレンジしてみせた。「親子の恋」と書くと今はまだ「禁断の愛」みたいになってしまうが、ヒカルは少し違ったアプローチで恋と愛に取り組み始めている。

それはつまり、年齢を重ねると共に「娘であること」「女であること」「母であること」といったレイヤーを重ねながらそれでも王道のラブソングを流行歌の枠組の中で創造しつつあるようにみえるのだ。こっちの勝手な願望を織り込んだ解釈に過ぎないが。このまま行けばヒカルは、40代になっても50代になっても60代になっても70代になっても80代になってもその世代として無理のないラブソングを歌い続けられるのではないだろうか。その結果として到達した地点は、今迄人類が誰も辿り着けなかったような境地に違いない。それは一体どんな場所なのだろうか。誰も見たことのない景色。私の知らない私。その場所には名前なんかないに違いなく、なるほどならば90代になったら未踏の地に足を踏み入れて「ここどこ?」って言ってるに違いないわな。今生きてる我々ファンの何割がそこまで一緒に行けるかはわからないけど、誰か今の読者の1人だけでもヒカルが「90代はここどこ?」と呟いてるのを目撃して歴史の証人になってくれやしないかと夢想するのでした。まる。

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例えば今日の【今日は何の日宇多田ヒカル】なんかは11年前、ヒカルが鰻重を食べたらぽんぽん痛い痛いになったエピソードだが、今これを呟いたら叩く人が出て来る、かもしれない。11年前はウナギが絶滅危惧種云々はまだ余り話題に上ってなかったし従ってそんな意識も機運もなかった。今現在はどうやら過渡期で、美味しくウナギをうただく人も居ればもう絶滅危惧種に指定されたのだから消費は控えようという声も大きくなってきている。ウナギを食べたいと思うのも種の保存を願うのもヒトの都合なので好きに議論すればいいと思うがそれに勝手に巻き込まれるのは煩わしい。人付き合いなんて煩わしくてなんぼだけども。

斯様に時代はかなりドラスティックに移り変わっている。ヒカルが注意深く歌詞に暖かいコンピュータスクリーンやPHSやBlackberryやMP3なんかを盛り込んで時代性を反映させているのも今からして思えば大衆音楽の時代依存性を先回りして担保していたようにすら感じる。自覚の有無ははさておいてだが。

昔の言葉を今の文脈に持ってくるのはコラージュだ。画像の加工と同じであって虚偽生成真実改竄である。しかしその意識や意図が浸透しているとは言い難い。昔の歌詞やメッセージを悪意をもって掘り返してくる機会に遭遇する確率はかなり低いけれども頭の片隅には置いておいてもいいかもしれない。時代の流れを換算すれば、ヒカルの鰻重メッセを【今日は何の日宇多田ヒカル】で取り上げるのも今回が最後になるかな。それは少し悲しいけれど、ヒカルが今と未来に活動を継続するからこその考え方であるともいえ、それならそっちの方が贅沢じゃないかと考え直せもする。いずれにせよ、動く新時代は歌もきっと変わってゆくのよ。今聴ける歌は今のうちに味わっておきまっしょい。

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歌詞の中にも「バズるとマズいな」と思われるフレーズがある。例えば『Dirty Desire』のこんな歌詞。

『During my 9 to 5, I'm thinking 6 and 9s』

26歳の結婚経験のある女子が歌っているからなんとかなったが、冷静に考えればかなり際どい。今時だとセクハラにならない?(誰への?(笑))

え?歌詞の意味? 一応読者には未成年も居るんだけどなぁ…「9時から5時まで働いている最中も私は“69”のことばかり考えてる」という色情狂な歌詞なんです。これ以上はググれ。

同じく『This Is The One』には『Taking My Money Back』という曲がある。BEN FOLDS FIVEみたいに「金を返せ」と連呼するのかと思いきや

『Buy I kept on giving baby cuz the sex was so good』

身体の相性がよすぎて男に貢ぎまくってしまったダメ女の物語だった。もしこれを日本語で歌っていたら「実体験に基づいているんですか?」という質問ばかりされてウンザリしてただろうなぁヒカルも。男に貢いだ事はあってもヒカルの収入で金返せなんて野暮言わんと思うぞ。

これが、10年前。英語の活動だからよかった。歌詞のみならずインタビューでも「恋人?居ますよ。」とあっさり認めていたのに日本のメディアは一切食いつかなかった。英語様々だ。日本のタブロイドは外国語に弱いのかもしれない。

今こんな歌を日本語で歌ったら大変だ。たちまち餌食になってしまう。嗚呼、でも、ヒカルが若い女の子をプロデュースした時にこういうHな歌詞を歌わせて楽しむというドSな遊びに目覚める可能性はあるな。日本語人に限らず。…って待て。今のこの俺の発言がセクハラとして告発される可能性の方が遙かに高いな。ただのおっさんだもんな。

という訳なので、わざわざこういった昔の歌の歌詞を日本語に翻訳して呟いて拡散してバズらせたりしないように。迷惑ですから。いや、ダチョウ倶楽部的なフリとかじゃないからな!(笑) メッセも歌詞も、時代背景の中で紡ぎ出されてるという点を肝に銘じておいて欲しい。たとえ一言一句ヒカルの言った通りの言葉でも全く異なる文脈に置かれたら全く違う意味を持ちかねないのだから。くれぐれも、気をつけてね。

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毎日昔のメッセを漁っては人目に晒している訳だけど、あんまりやりすぎるのもどうなの?なんてことを最近思ったり思わなかったり。

内容自体はいつだって問題はない。1999年当時の桁外れの注目度の中でもマイペースに書けていたのだ、物議を醸すことはあっても撤回するような話は書いた事が無い。

一方で、時代は変わっている。現代の文脈に乗せたときにどう読み解かれるか、もっと言えば、どう誤解されるかはかなり予測不能だ。

例えば…。昨日Twitterで若い子達が「テトリスってぷよぷよみたいなやつ!?」みたいな会話をしていた。生まれたときから両方存在してるんだからどっちが先に在ったのかは知るよしもないだろう。なんだか「ビートルズって、ボンジョビ?」に通じる名言な気がする。年寄りは「そういうもんなんだよ」と知るべきだ。

『Message from Hikki』がどこまでそういった未来の事態を考慮に入れていたかはわからない。もしかしたら今「宇多田ヒカル? 倉木麻衣みたいな人?」と思ってる人も居るかもわからない。そういった人が存在するとして『Parody』を聴いたらどう解釈するんだろうというのも興味はあるが、流石に邂逅は難しいだろうかな。


そうね、メッセだけでなく歌の歌詞もそういう問題を孕んでいるかもね。そこらへんのこともまた機会があったら考えたいな。

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アカウントを消すような時って普段と違う心理状態になってると推察される。だって、昨日までは消せたのに消してなかったんだから。積もり積もったものが堰を切った場合でも、唐突な事態に対応しきれなくなった場合でも、何かが変わったからそれまでとは違う行動に出た訳だ。

それも含めて自分自身の選択だから、とまずは言っておく。何がいい選択だったかなんて誰にも予めわからない、とも。でも過去の似た事例から学ぶことは出来るしよりよい選択を選べる人ってのも居るには居る。何も考えないよりは少しはましかもしれない。


SNSでアカウントを消すと、過去の自分のアウトプットもまとめて消去される。大概の場合は。ソーシャル・ネットワーキング・システムと言うくらいで、多くのアウトプットは交流に繋がって会話が成立していく。誰かのアウトプットがごっそり無くなれば、まだアカウントを消していない人たちの発言が宙に浮く。後から読み返してみると意味不明になる。これは一体何の話だったのだろう?と。

これの意味する所は、たとえ本人にその気が全く無くとも、アカウントを消すとそれら総ての交流と会話が“無かったこと”になる、って事だ。前回述べたようにそれが出来るのがWebの利点だが、あなたのやりたかったことは本当にそれなのかなと。捉え方次第だが「貴方たちとの交流は自分の人生から消し去りたいものだった」と思われても仕方ない。それが目的なら構わないけどさ。

例えばそもそもアカウントを消す理由が誰かを傷つけたからとか誰かに傷つけられたからだとかそういった事であるならば、アカウント消去はかなりの悪手であると言いたい。最後に多くの人々を思い切り切り捨てて傷つけて去っていくのだから。何度も言うようだが、それが出来るのが利点なのだからやればいいと私は思うけど、それはあなたの本来の思いに適う事なのか?という点だけは問い質しておきたい。自分の行動の含意が何であるかを知り尽くすのは難しい。だからこそ想像力をはたらかせ先人たちの例から学び、より自らの思いに適う、意図に即した手段を選んで欲しい。

これらのことを承知の上でなら、OKだ。人とのつきあいなんて傷つけ合いなのだからそんなに気にしなくてもと思うのは私が鈍いからかなぁ。言葉がササクレばかりの人に言われたくないってか。ごもっとも…。

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梅雨が明けるかとなったらもう真夏日なのかよ。お天道様も容赦が無いな。朝から陽射しが眩しいぜ。


で。またアカウント消す人が出たのか。まぁこれがWebの特徴で、戸籍名を使っていない限り幾らでも現れたり消えたり出来るのが現実社会と違うところ。本名でFacebook使ってる人には「どうしたんですか?」とリアルに問合せ来ちゃうけどね。

Webの距離感というのは良し悪しで。昨日の見掛けたツイートの中に「カワハギを釣ったので食べようと思いTwitterに写真をUPしたらそれは猛毒魚のソウシハギだよと指摘されて九死に一生を得た」なんてエピソードがあった。数年前の事のようだが、見ず知らず同士が自由に声を掛けれ合う場だからこそ起こり得る事だったのだろう。一方で、「ボイスチャットをしながらゲームをしていたら急に相手の呂律が怪しくなって音沙汰が途切れた」「三ヶ月後警察から問合せがありその人がその時亡くなっていたと報された」なんて話も流れてきた。見ず知らず同士で話してたから相手の住所も本名もわからない。どうしようもなかった例だね。

斯様に良し悪しはあるが、メリットを享受しデメリットを忌避しようとするならその特性をよくよく理解しなくちゃね。先述の通りアカウントを消すことによってその界隈から即座に姿を消すことが出来自分の生活を気軽気楽に再構築できるのはWebのよいところ。現実ではなかなかこうは行かない。夜逃げしようったって難しい。行き先の確保も一苦労だ。Webなら名前とアイコンを変えて新しいコミュニティ
に赴いて「はじめまして」と言えばまた新しくスタートできる。勿論Web自体から距離を置くことも容易だ。ネット廃人がそうそう離れられるとは思わないけれども…。

なのでそういう「リセット」行為自体は有り触れている。権利という程の事でも無い普通の行為だ。だが問題なのは「あなたは本当にそれでいいの? よかったの?」という点だよね。この話の続きは…また稿を改めて、ですかね。

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嗚呼、本州で梅雨明けが始まってるのか。沖縄は先月だったけど。

ヒカルは冬生まれだからか夏が苦手で、サザンやTUBEのように夏を謳歌するイメージはないけれど、それなりに夏向けの歌もあるにはある。『プレイ・ボール』なんかもそうだけど、最近はやっぱり『ともだち』と『パクチーの唄』かなぁと。

エヴァの世界は元々は常夏設定だがヒカルの書いた『Beautiful World』は“青空を海の底から仰ぎ見るような”透明感のあるサウンドだった。ヒカルの夏のイメージは“涼しさ”なんだと思う。暑いのが苦手なので常に冷房の効いた部屋で過ごしてきたんじゃないかの。

『パクチーの唄』にはそのものズバリの『夏の庭でリサイタル始まるよ』という一節が出てくる。自分の世代にとってリサイタルというとジャイアンなので暑苦しいイメージしかないのだが『パクチーの唄』のそれは如何にも涼しげだ。昼間の暑気はどこへやら、夜も更けて心地よい微風が頬を撫でる中でギターの静かな音色を背景にボサノバの歌声が流れてくるような穏やかな夏の日の夜。あらまぁ素敵。ちょっとノーブル。

『ともだち』には夏を示唆する歌詞は出てこない(『墓場』は…いつでもいいよね)が、サウンドがそれまでになく涼しかった。『Fantome』がリリースされた当初、次のアルバムではこういうサウンドが増量されると踏んでいたが結果アルバム『初恋』そうでもなかった。ラッパは寧ろ減ったくらいだし、パーカッションもそんなにフィーチャーされてなかったし。でもお陰で『ともだち』の独自性&他と替えられなさは今でも褪せない。


さぁ夏が来る。ヒカルの歌で涼しくなろうぜ。

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でなんだっけ。色んな話が途中だったな。

そうそう、2007年に「序」を見たときヒカルの歌声がエヴァの映画によく合ってる、特にシンジの少年ぽいところとシンクロしているなと当時思ったという話をしようとしてたんだったか。

ヒカルと緒方恵美では全然声質が異なる。しかし、ヒカルの話し声はどこか少年ぽいと昔から言われていた。では、今はどうなのか。歌声は随分と発声が変わって凄く大雑把に言えば“お母さんっぽく”なっている。『Play A Love Song』や『パクチーの唄』で聴かれるようにおおらかな優しさが主軸なような。

「Q」での碇シンジは「取り残された14歳」だった。庵野秀明の周りには次々と若手のアニメーターが現れ自分の手法が時代遅れなのではないかという焦りもあったのかもしれない。取り残された14歳のイメージは自身のアニメーターとしての立場の反映だったのか。知らんけど。

で「シン・エヴァ」でそれがどうなるか。「シン・ゴジラ」で自身の特撮好きを再確認、それが一程度の支持を得たことは好影響だろう。そこで開き直ったかどうか。

碇シンジがどう成長しているかでヒカルは歌い方を変えてくると思われる。“beautiful boys”を歌った『Beautiful World』だったから少年らしさを残した歌い方/声の出し方をしていたと勝手に解釈すれば、なんだろう、「映画全体のトーン」に合わせた歌と歌い方を自然に選択するだろう、かな。来年6月公開ならもう歌は出来ていても不思議ではない。いつヒカルがレコーディングしたのかもポイントになりそうだね。いつか教えてくれるかな。

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@utadahikaru : 昨日、友達とかをフォローするために持ってたインスタの別のアカウントからこれを投稿しちゃってめっちゃ焦った笑 「久しぶりに鶴拾った」(※ link to instagram)


素直(笑)。

言いたい事は幾らでもあるけど中身が無いのでいいや。こどもだましさ浮き輪なんざ。(泳げないのか)


距離感。大分変わったのかもな。昔から浮き沈みが激しいな。メッセの更新頻度も12年の中でバラバラだった。ほぼ毎日何某か書いてる時期があったかと思えば唐突に数ヶ月何の音沙汰も無し。こういうとこも素直。

人の気分はそんなもんなのだ。書くことがない、書きたい事も伝えたい事も無いのなら何も書かなくていいし、ファンとの交流が面倒な時期だってあるだろう。メディア露出は仕事と割り切ればいいけどヒカルの場合SNS露出は仕事じゃないからな。だからこちらも嬉しい訳で。事務所から「ファンを繋ぎ止める為に定期的に更新しなさい」とか言われて厭々書かれるよりもっとスポンタニアスで自発的な方がいい。スペシャル感は頻度では無く、望んでいるかどうかなのだから。

何かわかりきった事を書いてる気がするが、音沙汰があるというのがどれだけ嬉しいか。毎回これは安否確認なのだ。黙ってたけど、昨日この説明ツイートがすぐに上がってこなかったから、「どっかで倒れてるんじゃないか」と心配になっていた。酔い潰れてるにしても何にしてもね。ダヌパもまだ母に異変があったからと誰かに連絡出来る年齢でもあるまい。取り敢えず無事だとわかって本当によかった。

という訳なので、くれぐれもTwitterのアプリ連携で「次のことができます。>ツイートする。」なヤツは承認しないでね。なんとかメイカーみたいなのは好きじゃないとは思うけどまた「あなたのツイートを稲中卓球部の台詞に変換します」なんてアプリがあったらついつい承認してしまうのではないかと心配になってしまう。それによって赤の他人がヒカルのアカウントから呟くことが可能になる。それは非常に危なっかしい。くれぐれも気をつけてくださいね。

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嗚呼、未だに空インスタツイート削除してないのか。元記事が見れなくなってる時点で実害は無いので別に構わないか。極力削除はしたくないというならその気持ちはよくわかるしな。

昔と較べて利用者数が格段に多くなったとはいえ、「一旦Webで発言すると世界中のどこからでも見られる状況が未来永劫続く」のだと覚悟して発言するべきだという基本は変わらない。普段リンク切れに悩まされてばかりだけどな。兎も角基本はそれだ。

でその利用者数増加によってその緊張感みたいなものが薄れるのも必然で。普通に過ごしてたら自分の発言なんて瞬く間に流れてゆく。

しかしヒカルの場合Twitterだけでも300万フォロワーだ。くだらない一言でも「自分の発言に責任を持つ」心掛けが要る。本人としちゃ今更なので改めて言われないと普段そう意識してることすら忘れていそうだが。

そんな中で「発言の削除」というのは基本的に無責任だ。身も蓋もないが、消すような発言なら最初から呟くなと。一般人(だから誰なんだそれは)には当て嵌まらないかもしれないが影響力のある人は、そうなる。

となれば今回の間違いも、害がないのなら何があったかを指し示しておくためにも残しておいた方がいい。それを言うならそもそものインスタグラムの投稿はというとこだけどそれはしゃあないよね。


でも気に掛かるのは。この間も歌詞botツイートにいいねしたまま放置してたのよね。あれ、自分もスワイプするついでに指引っ掛かっちゃうことあるけど、慌ててすぐ消すなぁ。ヒカルは暫く気づかなかったんだろうか。今回は慌てて対応したけど、張り付いてる感じじゃないよね。レーベルと今後の対応を相談してるならわかるけど、ヒカルってそこを自主性に任されまくってたのが特徴だったのでそれもないかな…。


空気としてよくわからない匂いには、なっちゃってるな。ずっと黙ってりゃ皆の興味は他に行くから沈黙は金ということなのだろうが、我々はダイアモンドよりもやわらかくてあたたかい未来が欲しいので、人間味のある対応をほんのり期待しときたいですよ。てへぺろじゃまずいん?笑

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へぇ、ヒカルがインスタ誤爆したのか。梶さんは昔よくツイッターアカウントを間違えてたけどあれはTweetdeckを使っているからで。あれは間違えるよ。自分も何度かやってる。裏を返せば、別に誤爆しても然程ダメージはないアカウントの組み合わせだからTweetdeckで併用しているとも言える。

今回はInstagramということだが、疑問なのはなぜTwitter連携していたのかという点。Twitterの@utadahikaru アカウントと紐付けられていたのは@kuma_powerアカウントのみだろうと考えるのが自然なんでないの。なのにもろとも誤爆したってのはとんでもなく勘違いを引っ張り続けたってことになるんだが、そんなの有り得るのかなー?

まぁミスなんだったら深く詮索しませんよそりゃ。誰しも失敗はありますって。アカウントを複数持ってるのも普通。Twitterで言えば自分はTweetdeckに4つアカウント登録してあるしな。何に使うんだって言われそうだけども。


誤爆と言えば15年前の今日は間違えて『Easy Breezy』が公開されてしまった日で。まぁ狙い澄ましたようですね毎度の事ながらヒカルさん。『Devil Inside』のリミックスの公開タイミングもおかしかったし(お陰で一旦「なんだよUtadaってこの程度かよ」と書きかけた)15年前のデビューはあたふたしていたのだが、今のヒカルがあたふたする理由なんて特別にあるのかな。これがダヌパの悪戯が原因だったら将来有望なんだが。連携アカウントをこっそり入れ換えるとか…やんねーね(笑)。

まぁなんでもいいや。今アタマがぐちゃぐちゃしてて何から書いていいかわからなかったからいい息抜きになったよ。ヒカルからしたらミスだったかもしれないがこちらにとっては大きなギフトだった。世界はそうやって回っているもんなんだな。

結構どうでもいいんだけど、「誤爆」って物騒だよねぇ。今度から違う言い方にするか…。

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