無意識日記
宇多田光 word:i_
 



いかんいかん、ヒカルの歌声に聞き入っていたら時間が過ぎてしまった。よって今夜は短め。

よくこれだけ毎日、多分年間ののべ再生回数だと数百回レベルで聴いてる人間を改めて感動させられるなぁと感心する。いや私の場合、出来るだけ(自分にとって)新しい音楽を聴きたい方なのだが、合間々々にヒカルの歌を聴いて気持ちを"リセット"する。時々感性が鈍っているのかな?と思う瞬間が、ずっと音楽を聴いていると訪れたりするのだが、ヒカルの声を耳にしてまだ自分の心が生きている事を知る。今や人として生きているかどうかを確認する為の最後の砦とも思える。この声を聴いて何も感じなくなったら、多分私は人としてもう死んでしまっていそうだ。幾ら生物として生きていようと。

そこまで言うかという気がしなくもないが、でもそれが実感である。これ以上確かなものは最早何もないという位に。歌はいい。カヲル君でなくてもそう言いたくなる。

でも、そうやって毎日この歌声を耳にしていられるのも、身も蓋もない事を言ってしまえば曲が多いからである。もしこれが10曲しかない状態だったら2年も5年も待てやしない。食事のメニューと同じで、大体何種類以上あればそれで一年回せる、という数がある。具体的にそれが何曲か、というと全くわからないが、光の場合取り敢えずその数を超えている感じだ。

光ばかりを聴いている訳では、勿論ない。全体からの割合としてはそんなでもないだろう。今はYoutubeを開けば一生聞き続けても聴ききれない程の音楽が溢れている。そんな情報飽和な巷間において、こうやって人生と生活の軸となる音楽が存在するのは幸せな事だ。

たま~に、手元に音楽プレイヤーがないケースも、生きていると存在する。そういう時は大抵ぼくはくまを口遊んでいる事が多い。やっぱりこの歌はこどもが唄うのがいちばんだが、おっさんがぶつぶつ歌ってても、格好はよくないが、何か面白い。老若男女誰が歌っていても、こう、それはそれでアリだと思える、そんな歌はぼくはくま位だろう。

いやまぁこの孤高を除けば、光の歌は歌の巧い人が歌わないと様にならない。光以外の人は無理、とすら時々思う。この歌声は必要不可欠にして唯一無二。本当にこの時代この時間限定の奇跡である。二年や五年引っ込んでいたいというならその程度は我慢しよう。

しかし、光自身にとってはどうなのだろうか。彼女の歌声は、彼女にとってめ必要不可欠で唯一無二なんじゃないの。シャワーしながら鼻歌歌ってたら自分の歌声に聴き惚れたりするんじゃないの。また新曲聴きたくなるんじゃないの。光自身にとって、1人の音楽リスナーとして、宇多田ヒカルの新曲が聴きたくなる瞬間が、あるんじゃないの。それがいよいよ訪れたならば復活の時だろうな。まぁそれまでは既存の楽曲をまわしておくことにしますよ。あれ今回中身なんにもないや。まぁ、いいか。

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ミュージシャンはお金じゃない、と言ってそれを体現出来るのはヒカルの場合、それでも圧倒的に売れているからだ。50万枚近く売っておきながら「さっぱり売れなくなったねぇ」と呟かれるのだから大したものである。

とはいえ、今やCD売上に基づいたランキングチャートはほぼ意味を為さなくなっている。何故動員数チャートがフィーチャされないか不思議な位、今や人気のバロメータはLIVEコンサートに軸足が移った。

米国のビルボードでは最近2つの動きがあった。ひとつは、あるアルバムのダウンロード販売で極端なディスカウントが期間限定で行われ、その週だけランキングの上位に名を連ねるという現象が起こった事。もうひとつは、チケットのおまけでアルバムをつける、という事でランキングの上位に顔を出す作品が現れた事。後者を仕掛けたのがUtaDAもお世話になったLIVE NATIONである。

結局、こういう事が起こるのも、音源とその流通の価格が(もしかしたら価値も)劇的に下がった事、及びミュージシャンがあげる収益がLIVE中心になったからだ。儲かるのはそっち、という身も蓋もない現実である。

こうなってくると生粋のアルバム・アーティストである宇多田ヒカルは厳しい。なんとなく、立ち位置が曖昧になってくる。Mr.ChildrenやPerfumeであれば元々LIVEが売りのスタンスだからCDの売上が落ちても(いや彼らは売れてますけどね)そこまで痛くはないが、ヒカルの場合は違う。

で、だ。となると照實さんが何をどう考え始めるか、である。ミュージシャンはお金じゃない、を地で行く人。スタジオ代の為に車を売った夫婦の夫の方である。お金じゃない、というか経済観念破綻の領域かもしれないが、そこまで"音楽自体"にこだわってきたからこそヒカルの本格的クォリティーは培われた。自分の娘がちょっと歌が上手いからと金儲けに走っていたらこんなことにはなっていなかっただろう。結果史上稀に見るお金儲けができたのだから人生わからない。

つまり、照實さんからすれば、世間の商業音楽の軸足がLIVEコンサートに移っていっててもそんなに気にはしないんじゃないかという事だ。スタジオワークに手を抜くとか予算削減するとか毛頭考えられない。そして、歴史は繰り返すというか、そんな世間の荒波をものともせず今までどおりクォリティー最優先で生きていけば、またここにお金が転がり込んでくるんじゃなかろうか。なんだかそれが楽しみなのである。ドッグイヤーな進歩を遂げる昨今、PHSやBlackberryを使った光の歌詞もどんどん古びていくが(色褪せはしないけど)、そんな中で終始「ミュージシャンは金じゃない」を地でいく照實さんが光復帰後にどんな判断を積み重ねていくのか。最初は傍から見てて「時代とズレてるなぁ」と思えても、どうなることやら。あとの心配は、U3が有名になりすぎてU2から苦情が来ないかどうかだけである。んなこたないか。

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さて続きものはちょっと小休止。全く何の脈絡もないのだが、チケットの問題について考えをまとめておきたい。新味のない内容なのでそのつもりで。

宇多田ヒカルのLIVEコンサートチケットといえばプラチナチケットばかりだという印象が強い。何度か書いてきた通り、私はそれを非常に馬鹿げた事(ridiculous)だと考えている。観たいという人間が居るなら全員観れる回数だけLIVEをやればいいのだ。その点において、私はUtada Unitedを高く評価している。ソールドアウトでない会場があったらしいからである。つまり、チケット自体は誰でも手に入れられたのだ。遠隔地だからとか旅費がどうのとか休みが取れるか否かといった問題は確かにあるが、そこから先は各自の事情の問題である。いやツアーってのはそれが本質的な問題ではあるのだけれど。

ヒカルの5とかWILD LIFEは倍率何倍とか報道されていたが、それは需要に対して供給量が不足しているという、商売人なら恥ずべき事態である。セガサターンの供給量を見誤って湯川専務は常務に降格された位だ(真偽は知らない。要はそういう風にネタにできる話だということ)。

勿論、プレミア感を増してブランド価値を高めようという戦略もあるだろう。しかし、それは宇多田ヒカルのやることか? 要らんだろうそんなもの。あの質のバカ高い生歌唱にプレミアだのブランドだの一切不要。歌で勝負できるのだ。そんな小手先のマーケティングは寧ろ毀損であろう。梶さんの性にも合わないだろう。

私だってヒカルの5やWILD LIFEがああいう開催形態になった事情位耳に入っている。ヒカルが毎回ベストを尽くしている事位知っている。私は何れも幸運にも自力で当選して観ているのでLIVE自体には幾ら感謝してもしたりない(そう思うからこのblogは続いている…訳でもないか。まぁ促進剤にはなっている。)。だがそれとこれとは別である。

そのような状況を自ら作り出しておいて、チケットの値段が転売とオークションによってつり上がっているのに文句を言うのはやめてほしい。ちゃんと必要な枚数売れば値段なんか上がらないのである。希少価値があれば値段が上がる。貨幣経済にとってそれは自然な現象でしかない。

だったら最初っから、とんでもない値段で売ればいい。一万人の会場でやるんなら、ちょうど一万人くらいしか払う気がおきない程度の値をつければいい。それだけの価値があるものには、それ相応の値段がつく。自分が嫌でも、利益は最大化されてしまうのだ。誰の懐に入るかはさておき。

たとえ無料で一万枚のチケットを配ったとしても転売と競りを繰り返していくうちに値段はついていくのだから。

では、なぜチケットの値段を上げないのか。これは、多分シンプルな理由だろうから問題としてはとても難しい。お金持ちだけが来るライブも何だかなぁ、ということだろうし、値段が高すぎると世間の評判を落とすというのもあるだろう。しかしいずれにせよ結局、ミュージシャンって「お金じゃない」からだと思う。あれ、この話長くなるな。次回に続くかもしれない。

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ポリフォニカル・エレクトロニカ(今勝手に名付けた)な光のサウンドが今後どのように変化するか。想像するならSSv2のサウンドにどう至ったかをみてみるのが手っ取り早い。

しかし、だから難しい。たった5曲だが、サウンドの幅が広すぎる。これだけの振り幅でも散漫な印象を与えないのは偏にボーカルの存在感が強烈であるからに他ならない。

如何に光の音楽が対位法的な側面を強めても、光の歌声が軸である事に変わりはない。逆にいえば、それが最も強い制約条件であるともいえる。今の流れでは、例えばBohemian Rhapsodyのような絢爛豪華な世界観には辿り着き難い。

Wild Lifeというタイトルから、スタジオトラックでもナマっぽい演奏の割合が大きくなった印象も受ける。キャンクリは基本ピアノ一本だし、嵐の女神は素朴なフォークロックだ。愛のアンセムは言わずとしれたシャンソンとジャズのフュージョンだし、SMLNADはオーセンティックなハードロックサウンドだ。ヒカルらしい打ち込み系はつまりGBH一曲で、これもナマのストリングスとシナジー・コーラスという生身の音が効いているから従来からは一歩も二歩も踏み出している。

この流れでいえば、もう一度FINAL DISTANCEの、ピアノとストリングスとコーラスといった剥き出しのナマの音のアンサンブルに帰ってくるのではないかと思えてくる。

FINAL DISTANCEは、何度も繰り返しているように2001年当時の光にとっては偶然の要素に数多助けられたいわば"出来過ぎ"のサウンドであって、以降はその偶然の部分を自らの手で埋め合わせる事が出来るように腕を磨いてきたのだと思える。SSv2まで来た今なら、ヒカルは意図的に、或いは自らの等身大の力量によってFINAL DISTANCEのような壮麗な美しさを"再現"できるようになっているのではないだろうか。

となれば、今後のサウンド志向にはある程度予測がつく。つまりは生楽器をこれまで以上に強調して、且つポリフォニカル・エレクトロニカで培った視覚的な構築術を活かしたスケールの大きいサウンドだ。ダイナミック、といえばいいか。HEART STATIONよりもビッグなサウンドが来たらもう驚くのを通り越して呆れ笑うしかないのだが、それが自然な予想であるようにみえる。先程否定した、Bohemian Rhapsody的な世界観に近付いていくだろう。同時に、キャンクリのようなシンプルな強さを持った曲も書いていく。一曲では光の世界は表現できず、ますますアルバム・アーティストとしての傾向を強めていくのではないか。

となると。やはり難しいのはそのボーカルの個性である。これが何よりも最大の魅力である事は疑いないのだが、Bohemian Rhapsody的な世界でそれをどうフィーチャーしていくか。その鍵はPrisoner Of Loveにあるとみる。以下次回。

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ポリフォニー、対位法といっても大バッハのように計算尽くのものを想定してる訳ではない。楽器が幾つかあって、それらが結構別々に動いている、といった感じの素朴なイメージである。

いちばん象徴的なのはAnimatoであろうか。一応、EXODUSの曲作りはこの曲からスタートした事になっている。静かなマーチングドラムをベースに幾つものフレーズが折り重なっていく様は、宇多田ヒカルでは余り見られないものだ。結局、EXODUSのサウンドは大体そんなポリフォニック且つエレクトロニックな感じで仕上がっていく。

FINAL DISTANCEはそのポリフォニックな手法のルーツにあたる。特殊なのは、それが生楽器であり、なんだかんだでストリングス・アレンジ自体は、あれ誰だっけ、レコーディングは斉藤ネコ氏かな?UnpluggedはGreat Eida Stringsだよね…まぁいいや、正確な所は各自確認して貰うとして、要は総てがヒカルの手によるものではなかった点だけ踏まえればいい。

恐らく、この時点でFINAL DISTANCEのような作品が出来上がる事はヒカルにとって「出来過ぎ」だったのではないか。ヒカル自身も仄めかしていたが、彼女が自分の実力と考えている以上の力がはたらいてこの曲が出来上がったという感覚。これがあった。

ということは。以後光はこのレベルに近付く為に相当悪戦苦闘しなければならなかった。DEEP RIVERはまだ河野圭というパートナーが居たが、EXODUSはぼぼ独力である。自分自身で引き上げてしまったハードルのお陰で苦悩の色濃いサウンドとなったが、お陰でここで随分と成長した。そこからULTRA BLUEやHEART STATIONは自信に満ち溢れる作品となった。この時期にはパートナーとして冨田謙を迎え入れていたが、そこでのポジションはどちらかといえば河野圭というよりはEXODUSのTimbalandに近いイメージだ。いや、あそこまで個性強くないか。兎に角補助というかアドバイザー的な役割だった。光はサウンドクリエーターとしてほぼ自立したのである。This Is The Oneも、そういった自信があったからトラックメイカーに仕事を任せれたのだ。


という訳で、次のサウンド志向を予想する為に視点を新たに今までの歩みを振り返ってみたが、つまりはFINAL DISTANCEからHEART STATIONまでは音楽家としての光の成長がサウンドに反映されていたのだ。This Is The OneとSSv2はその応用編という色合いが強い。TiTOがああいう作品だったからといってトラックメイキングのアイデアが枯渇してしまった訳ではなく、Goodbye HappinessではSynepgy Chorusとストリングスとダンスビートを組み合わせて玄人共のド肝を抜いている。これなんかは、travelingの疾走感とFINAL DISANCEの神聖さの融合なんていう風にも捉えられる。今や光は自由自在だ。

FINAL DISTANCE以降のサウンドメイキングをひとつのパースペクティヴとして捉えよう。その風景から、今後の方向性がどのようにみえてくるか。何が出来ていて何が出来ていないのか。以下次回。

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さてアイドルにもなる気がなく特定のシーンもターゲットにしないUtaDAのExodusはレコード会社のバックアップを得られなかった。別に光は喧嘩したかった訳でもないので、次作のThis Is The Oneではメインストリーム寄りのサウンドを取り入れた。これは妥協というより、単に時間のない中でトラックメイカーとしてどのスタイルの人を選ぶかという問題だった。結果StargateとTrickyが選ばれたが、こちらはある程度の規模のバックアップを受け、それに見合った成功を収めたといえるだろう。

しかし、こちらは"地道な道"である。確実なキャリアの積み上げ方を目指していた訳だからその道を継続して歩んでこそのアプローチな訳だ。今となっては知る由もないが、あのまま倒れずに活動を続けていたらどこまで進んでいたのだろう。サウンドの方向性はそのまま活動の方向性でもあったのだから、順調に"普通の"アーティストとして成長を続けていたのだろうか。

しかし、現実はそうなっていない。UtaDAとしてツアーをし、宇多田ヒカルに区切りをつけて今に至っている。今後のサウンドの志向は、UtaDAの活動が大きく影響したものになるだろう。というか、宇多田ヒカルだけ聴いていた層にとっては新しい何かが入りこんでくるよ、と云うべきか。

ヒカルの方は逆に、レコード会社からのプレッシャーは〆切位でサウンドについては自由にさせてもらってきた感が強い。寧ろヒカルの方からタイアップ相手などに自ら歩み寄る姿勢を見せていた。それが出来るのも基本的に自分のサウンドを貫いてこれたからだ。

そのヒカルのサウンドの特徴とは何か。打ち込み主体といってもテクノテクノしている訳でも、エレクトロニカな訳でもない。ダンサブルなビートも出てくるが、どちらかといえばPopsの枠組みの中で"ロック・ドラムじゃない方"を選んでいるだけ、という風にもみえる。要はPopsのリズム・セクションだという事だ。

ギタリストではないしましてやバンドでもないからギターサウンドを強調する事も少ないし、かといって鍵盤を派手に叩くような真似もしない。ちょっとかなり自由である。

かといって何の特徴もない訳でもない。三宅さんがサウンドを波に喩える一方で、ヒカルはサウンドを風景として捉えている。その2人の志向はそれぞれ三宅さんが和声的(ハーモニック)、ヒカルは対位的(ポリフォニック)である。特にヒカルのポリフォニー志向はかなりサウンドの特色を決定づけている。

最初にその志向が露わになったのがFINAL DISTANCEだった…という話からまた次回。

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さて話が偏ってきたので話題を変えてみよう。光は復帰後、どんなサウンドで来るのだろう?

最近、商業音楽レベルで"流行りのサウンド"というのが乏しい。この年代のクセ、みたいなのは何となくあるけれど(ミスチル聴いて育ってきたんだなぁこのコたち、みたいな)、どん!と押し寄せてきて百花繚乱、的な展開がない。Lady Gagaが売れようがAdeleが売れようが、要は彼女たちの個性の賜物であって何かのムーブメントとは違う感じだ。

これは、例えば日米2ヶ国を取り上げてみれば似た事情と異なる事情がある。似た事情とは両国とも21世紀に入ってアイドルがチャート上位を占拠するようになった事だ。日本はまぁ元々そんな風合いなのだが、米国ではアメリカンアイドルの成功が大きい。お馴染みバンマス・マット・ローディも一時期アメリカンアイドルのプロデューサーを務めた事があるという。それによって何が起こるかといえば、職業作曲家に対しての注文が具体的で細かいものになる、という事だ。こういうコが居て、こういう路線で売り出したいからこれこれこういう曲調で書いてくれ、という依頼。これの相手をし続けていれば、既存のサウンドジャンルに即したものが出来上がってくる。日本の場合はこれに、今米国で流行ってるヤツ、といったファクターも入ってくるがいずれにせよ同じである。アイドルが売れると、新しいサウンドは浮上しにくくなるのである。

日米で異なっている点の方。米国では、ジャンルの細分化が進みきってもう安定しているようにみえる。それぞれのジャンルの大御所がチャートの上位に現れておお~っとなり、しかし前後の順位のミュージシャンとは何の関係もない。一体、グラミー賞は現在何部門あるのだろう。ノミネート作品まで合わせたら年間数百とか千とか選出されてないか。紅白の出場歌手数なんて及びもしない。秋元康ファミリー全員の名前を列挙でもしない限り。まぁそんな訳で、ジャンル毎の棲み分けが出来てしまっているから、どこか特定のシーンで評価されないと浮上し難い。どこの馬の骨ともわからないアーティストは、ブルックリンでひねくれた人たちの感性にでも触れない限り道がないのである。よう意味わからんけど。

その日米両方の特徴の狭間みたいな所に、UtaDAのExodusは位置していた。当時光は頻りに「私は日本のブリトニーなんかじゃない」と強調していたが(同じ文句訳すの飽きる位にな(笑))、それはアイドルとして売り出そうという雰囲気を醸し出していたレコード会社へのクレームであり、紋切り型の見出しを欲しがるメディアへのコーションでもあった。当時21歳のプリティー・アジアン・ビューティーだったUtaDAは、アイドルとしてデビューするのを拒否したのである。

一方で、じゃあアーティストとしてどのジャンルに食い込んでいくのかというヴィジョンも持ち合わせていなかった。いや、ヴィジョン自体はこれ以上ない程に明確に持ち合わせていた。Opening&CrossoverInterludeで歌っている通り、「ジャンルの壁を超えたい訳ですらない」という、ジャンルという枠組み自体をあぼーんする、一種ラジカルな思想だったのだ。

こうなるとレコード会社は手詰まりである。折角若くて可愛いのにアイドルとしても売り出せない、ミュージシャンとしてアーティストシップを強調するからではどのシーンに殴り込もうかといえば、ジャンル分けそのものにも興味がないという。誤解を恐れずに言ってしまえば、ある意味レコード会社に同情してしまう。「どないしたらええのん」になってしまうわなそりゃ。

いやまぁだからって本人の嫌がるベスト盤をリリースしていい道理はないのだけどな。


あれ、前振りの前振り位で時間が来てしまった。続きはまた次回。

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人間活動の"成果"があったとしても、直接的にアーティストシップに影響を与える訳ではないんじゃないか、という見解をこれまで何度か繰り返してきた。それは即ち戻ってきた時に特に何の変化もないだろうという"安心材料"を与える事にもなるのだが。

人間活動突入前のコンサートの名称が"Wild Life"だった事。Lifeという語を使った曲といえばまずFlavor Of Lifeが思い浮かぶ。その味が『淡くほろ苦い』だった所から"Wild"とは随分と勇ましいなぁと思ったが、考えてみれば(世間的には)病気から結婚という流れで皆が"Hikkiも落ち着いちゃうのかな~"と思いかけたタイミングでは"20代はイケイケ!"というタイトルを打ち出していた。

そこらへんのバランス感覚である。これをどう解釈するか、だがやはり「元気出していこう」と自らを奮い立たせる面もあるのではないか。人間活動宣言からのち数ヶ月間元気にアーティスト活動に励んでいたものの、何だかんだで疲労は蓄積していた訳で、それをどうにかしようと"Wild Life" という勇ましい名称に辿り着いた、とも考えられる。

ここでのポイントは、ここでアーティスト活動休止に入るという事でその"どうにかしよう"が恒久的な効果を発揮できるかどうかである。つまり、これによって無期限休止はキャリア上最後になるんじゃないかという期待。願望も多分に含まれるのだが、今までの「頑張り過ぎて倒れたり倒れなかったり」という状況からの脱却を狙っているのではないか。確かに、自滅って野生っぽくないのよね。別に光が今まで病欠したのって他者に原因がある訳じゃない。寧ろもっと早く休む所を引き伸ばして頑張り過ぎてぷっつん、というイメージが強い。Deep Riverの時はそれでアルバムを完成させたし、Utada Unitedだって皆勤賞だ。素晴らしい。それでも結局This Is The Oneでの離脱は頭に残っていたのではないか。恒久的な対策を取りたくなっても不思議ではない。

ただ、そうすると"無期限"というのはどうなんだろう、とも思う。これが最後のLong Breakだというのなら、期限を区切らず自分が納得するまで、と捉えればいいか。

どう考えようが捉えようが、冒頭に書いた通り人間活動の影響が直接アーティスト活動に跳ね返ってくる事はないんじゃないかと思っているので、何がどうだったのかは光が具体的に語りおろすとかしない限り知りようもないかもしれない。ただ単に、待っている時間を納得する為の方便なのかな。でも、だとしてもそれがファンにとっていちばん必要な事なのだから、それはそれでいいような気もしている。

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さてこの振り幅である。光のひとつのペルソナとしてのくまちゃんと、パフォーマとしての開眼の契機を与えた闇姫様では、まるで違う存在である。余りにも懸け離れていて、感覚的な整合性がなかなか取れない。

闇姫様は基本的には喋らない。"一心不乱に歌い躍る"巫女やシャーマンのようなイメージだ。即ち、歌の為に、音楽の為に、身を捧げて立ち居振る舞うペルソナである。一方、くまちゃんはよく喋る。自分がいちばんで、自信家で、微笑ましい。

しかし、歌を思い出そう。『歩けないけど踊れるよ』
『喋れないけど歌えるよ』
そうなのだ、この点に関しては闇姫様と同じなのである。

もうひとつ、小道具がある。くまちゃんといえばまくらさんだ。まくらは死の象徴じゃないかと言った光の友達とは誰なのか気になるが、さしあたってまくらさんは自分を受け止めてくれる存在であると考えよう。まくらに顔を埋めた時、まくらはだいたい顔のかたちにふんわり変化してくれる。こちらのかたちがあって、それに合わせてくれるのだ。

闇姫様の衣装は"bondage"、束縛衣である。いや実際は"corset"だったかもしれないが、いずれにせよ、衣装に合わせて自らの身を引き締めて着こなすものである。

光のペルソナの振り幅は、そのまままくらさんとbondageの差異の幅である。総てをありのままに受け入れてくれる菩薩のような存在から、あわや拷問具かというような、外部から何らかの理想を押し付けてくる存在まで。

これだけの振り幅は普通の人間にもある。パジャマを着てリラックスする時間帯と、礼服を着てしゃきっとする時と、両方あるのが人間だろう。

しかし、光の場合はその状況を与える外的要因に自ら当事者として"なって"しまうのが違う。即ち、自分の意志で総てを許し、自分の意志で自らを締め上げるのだ。

いずれも、成り行きの中でそう"なって"いったとみるのが的確だ。くまちゃんの場合、親友からのプレゼントが余りにも嬉しくて話し掛けているうちに歌が出来上がり彼のキャラクターが創出していった。まだ光はそれになろうだなんて思わなかった。

闇姫様もそうである。あれは、いつのまにか辿り着いたペルソナだ。見られる目線からの解放が、束縛衣と共に顕現したという偶然。その捻れは光独特のものだが、そこから光の、生身の人間としての、ライブパフォーマとしての本格的な旅が始まったと言っていい。束縛による自由を獲得した人格を演じる。ややこしいが、その対比として慈悲により総てを受容するくまちゃんに光がなろうとした事実を反対側に置けば、朧気ながら彼女の居る世界が見えてくる。そこにあるのは、腹が綿のぬいぐるみも、人前で歌う生身の人間も、総てひっくるめてそれに"なって"しまおうという「当事者意識」である。キスクラで『被害者意識って好きじゃない/上目遣いで誘って共犯がいい』と歌っているが、つまりは「やられるよりやる方になる」という意識が光はとても強いのである。


となれば今の光の"人間活動"は「早く人間になりたい」という意識の表れになるけれど…という話からまた次回。

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光のペルソナといえば、シンガー、ソングライター、プロデューサー、パフォーマー、それに映像ディレクターというのが加わり、更にそのうち作家というのも現れるだろうが、ひとつ忘れてはいけないのが「くまちゃん」である。

"彼"は、ヒカルとかUtaDAとかいった名前が与えられていない上に、腹に綿が詰まったぬいぐるみとしての実体がある。となると"ペルソナ"として扱うべきか否かという問いは当然出てくる。

名前をどうつけるかは重要だ。光が作家業に手を染める際のペンネームはとっくの昔に決まっているらしい。その詳細がどんなものかがわからない以上評価のしようもないが、宇多田ヒカルやUtaDAといったほぼ本名そのままの名付けからは距離をおくようだ。

これは、勝手な想像だが、シンガーとして人前に出る為の名前として宇多田ヒカルの名を使ってしまった以上、例えば小説・物語を書くとすればヒカルの名は登場人物にとって大きな重荷になる可能性がある。ヒカルの人格の投影じゃないかとかあらぬ勘ぐりが入り口になってしまうかもしれないのだ。それを避けるには何か別のペンネームを用い、出来るだけまっさらな状態で接してもらった方がいいだろう。そのあとからそのペンネームには一定のブランドイメージがつくかもしれないが、それを背負ってくれる名前がありさえすれば、まぁ、いい。

くまちゃんの人格(熊格?)は光本人からは程遠い。光は"彼"を演じているというよりはひとつのキャラクターとして現界させているので、どちらかといえば演技というより小説執筆の方により近いだろう。彼との会話はメッセなり何なりで常に文章として現れている。ある意味、物語の中の存在である。

しかし、それがそこにとどまらないことを光は身を以て示す。自らが着ぐるみを着たのである。彼女が彼の頭を外す動作は、くまちゃんが光のペルソナのひとつである事を象徴する出来事だった。着ぐるみによって、(絵本の延長線上の)物語の存在であったくまちゃんが現実の光の"顔"のひとつになったのである。

これの意味する所は大きい。たとえこれからメッセに一切くまちゃんとの会話が見られなくなったとしても、光が皆の目の前に居る限り、くまちゃんもまた皆の目の前に居る事になるからだ。着ぐるみを脱ぐとか着るとかの方向性は問題ではない。生身の宇多田光は"着ぐるみを着ていない不完全な状態のくまちゃん"でしかない。その事を端的に表現していたのがツイートに紛れていた落書きである。光がくまちゃんを脱いで、くまちゃんが光を脱ぐ。要するにどっちでもいいのである。入れ子構造というより、どちらも単一の存在の異なったペルソナなのだから、着けたり外したりは自由なのだ。くまちゃんは光のもうひとつのペルソナなのである。(続く)

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Newyork Showcase Gigに於いて最も象徴的なのは、その闇姫様の衣装である。

NYSCGが衆目からの解放下でのパフォーマンスの実践の契機となった事は今まで述べてきた通りだが、そこで着ていた―かどうかは実は知らないのだが、同じコンセプトでUtada UnitedのUtaDAパートが執り行われたのは確実なので、衣装も同様であったと考えておく事にする―その衣装は巷間でいう所の"ボンデージ(bondage)"、即ち"束縛衣"だったのである。解放の契機に衣装に束縛を選んだのだ。ここが今回のポイントである。

恐らく、何の深慮遠望もなかったのだと思う。Devil InsideやKremlin DuskやYou Make Me Want To Be A Manなどの曲調に合わせただけ、だったのだろう。しかし、結果的にその衣装はUtaDAのライブパフォーマンスを決定づける事になった。

Bondageとは、肉体に何らかの強制を与える機構の事だ。木工用ボンドのボンドである。人の目線という束縛はなかったが、いやなかったが為にそこには他の何らかの束縛が必要だった。繰り返すが、それは意図的ではなかっただろう。たまたま、束縛の代替、入れ替わりがあったのだ。ただ自由だと表現は足場を失うのである。

恐らく、先に挙げた3曲の他に、もうひとつ重要な曲がある。それがHotel Lobbyだ。NYSCGで演奏されたか否かは定かではないが、この曲のコンセプトの1つに、以前夏のExodus特集の折に触れた通り"鑑という檻"がある。鑑或いは鏡の中に歌の主人公が囚われている、という比喩は即ち他者の目線が束縛として機能する様子を表している。鏡は、自己が他者に成り代わって自らに視線を与える機構であり、光は鏡を通して自らを陥れていく哀しみをこの曲で描いた。『零れ落ちそうな私を抱き止めて』という悲痛とも言えそうな一節でこの曲は幕を閉じる。光自身が、このアルバムでいちばん好きな曲だと発言していた。

束縛を"衣装"として表現する事は即ち、他者の視線の具現化である。コルセットのように、自由を損ねそこに何らかの理想を肉体に押し付ける。本来からして自分でない何かを"演じる"為の装置なのだ。

そして一方で、肉体への束縛は精神の解放もまた意味する。ここで、ヒカルが他者からの視線を浴びて自己の発露と表現に向かった経緯を鑑みるとそこには更なる高みを感じとる事が出来る。自己と自我の昇華である。

更にややこしい事に、光が音楽の創造者としてのペルソナとパフォーマとしてのペルソナを別個に育ててきた、という基本を思い出さねばならない。2つのペルソナ、他者の視線と自己表現、この2つの"異常事態"の掛け合わせが、光に独特の成長を与えていく訳だ。次回はそこらへんの話を描いてみたい。(かなりこんがらがってきたので諦めるかもしれないけれど(笑))

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一般的には、ひとから見られていないとわかればまずひとの注意を引く行動をとる所から始める。しかし、UtaDAの場合はそうではなかった。まずずっとひとから注目されるヒカルという存在があって、それとは異なるペルソナとしてのUtaDAがそこに居たのである。この違いは大きい。

つまりUtaDAになって日本の異国で衆目から解き放たれた事は文字通りの"解放"であったろう事は想像に難くない。何しろアルバムタイトルが出エジプト記、国から逃れて新天地を目指す事だったのだから。で、またまた一般論をいえば、そういう束縛から自由になった時、抑圧されていた自分の本性を出す的な方向に話は進みがちなのだが、光の場合はそういった衆目の重圧下で最終的にとった手段が"素の自分を見せる事"だったのだ。となると、そこから離れた時に見せる姿は別に素の自分でなくてよい。ここが大きな違いである。

見られる事に慣れ切っていた光が人の目がない状況で舞台に立った時、それを前向きに捉えられた事が大きかった。"いつものように私を見て"欲しいとは思わなかったのだろう。元々裏方志向というか、漫画家になるとか実験室に籠もるとか、そういう自分を想定する人である。抑圧下では自己を徐々に解放していった人間は、解放時には空っぽになるしかない。となればそこに働く力は新しい人格の創造という事になる。

それがピッタリ嵌るのがThe Dark Princess~闇姫様だったのだ。いわばそれは、楽曲の為の、サウンドコンセプトの為の人格である。抑圧下自己解放を成した人間に、そこで訴えるべきエゴなど残ってはいない。舞台の上にあるのは最早音楽だけである。光はその時の心境をトランス状態に近かった、とかいう風に表現していたと思うが、つまりそれは闇姫という仮の人格を通して舞台の上で"音楽になった"のである。

その結果、やってる事はつまりシャーマンや巫女といった人間の伝統的な精神儀式体系の継承に近いものとなった。UtaDAでの、特に闇姫におけるパフォーマンスが"まるで別人"だったのは、この発端となったNYショウケースギグに於いて音楽を表現する為に生んだ人格に由来する。つまり、This Is The Oneでのパフォーマンスはまたそれとは違った風合いでもあった訳だ。EXODUSという、光がそれまでで最も大きな音楽的責任を背負い込んだアルバムの(半年)後のLIVEであった事が大きい。

そこで掴んだ"コツ"とは、つまり光自身が歌になる、音楽になる事だった―という話からまた次回。

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最近のツイートでも光は、見られる事で美しくなるが今の自分は見る番だ、みたいな話を呟いていた。

そこには、見られるという不思議がある。冷静に考えれば、振る舞って歌って何かを見せている、つまり与えているのはステージの光の方であり、それを被って心境なり行動なりを変化させるのは見ている方である。しかし光は見られる事での変化に着目していた。見られる事で美しく"なる"んだからそこには何かの変化(或いは成長)がある筈だ。見られる事の効果を光はよくよく熟知していたのだ。

だから少しずつより素直になっていったのだ。人は見られる事で何に"なる"かといえば"見せたい"何かである。大抵のひとは他人に美しく見られたいから美しくなるのだ。見られるとは、ひとが他者にどういう印象を与えたいかを自らが知る契機である。

当たり前の事しか言っていないぞ。ポイントはだから、宇多田ヒカルの場合見られる事で露わになった"欲望"は、自らの姿を出す事だった。なりたい自分は内に秘めた自分だったのである。ここが普通の人と逆なのだ。大抵は見栄を張って、自分をより大きく見せたり強く見せたりしようとする。よりよく思われたい、より魅了したいと思う。んだがヒカルの場合、強がって"悪く"取り繕う方向に行っていた、と解釈するのが妥当な気がする。この"悪く"は、彼女の感性に基づいた価値判断だ。それを止めにし、より魅力的に振る舞う為に自らの素を出す方向に傾いていった。何のことはない、どんな虚像や偶像よりも宇多田光がいちばん魅力的だっただけの事なのだ。

本当に当たり前の事しか言っていない。だからヒカルには夢がないのである。最高の理想は自分自身なのだから。

いちばん難しい問題は、それがただの真実であるという事だ。つまり、ヒカルがそう思っていようがいなかろうが、そう思い込んでいようがいなかろうが、そう思いたがっていようがいなかろうが、事態は健全である限り真実に近付くのである。

普通に考えて、少なくとも他人に対してヒカルが「私はあらゆる理想を超えたこの世でいちばん魅力的な女性です」なんて言う事はない。口が裂けても言わない。口が裂けたら言えない。まぁ、ひとりで鏡を見ながら「何私チョーかわいい」とか言ってるかもしれないが、結構な女子に心当たりがあると思うのでそれは何も特別な事ではないだろう。

構造としては、ヒカルの場合余りにも桁外れに"見られるパワー"が強かった為、なし崩し的に雪崩を打つようにそちらの方向に流れが行ってしまったという事だ。その大きな流れの中で、FINAL DISTANCEとUnpluggedがマイルストーンとして立ち現れてきたのである。

ならば、だ。その"見られるパワー"がほとんど0になった時に光はどう振る舞うか。そこでは、自分をよく見せたいというインセンティブのはたらき方が根本的に違ってくる。一般論から行こう。まず目を引こうとするのだ。見て貰いたいという感情。その為には何をすべきか。そういう所から組み立てていくので自ずとアプローチは違ってくる。自分が見られる事がわかっている時の化粧と衣装、それと人の注目を浴びたいと思う時の化粧と衣装は、同じセンスのひとがコーディネートしてもまるで違うものになるだろう。まずはその点を踏まえよう。次回に続く。

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"素を見せる"チャレンジのきっかけがUnplugged。とすれば2005年2月23日のNY Showcase Gigはその対極であった。

"舞台パフォーマとして"重厚な衣装をその身に纏い、Dark Princess~闇姫様を演じるその異様な威容の一旦は、Utada United 2006でも3曲で垣間見る事が出来るが、そこでのポイントは"誰にも見られていない"という感覚であったのだ。

結局その時の映像は、撮影はされたもののリリースには向かないという事でお蔵入りになっており、その様子を知るには想像に頼るか念力で送って貰うしかないのだが、聴くところによれば観客はさしてUtadaを気にもとめず談笑していたという。ショウケースとは元来そんなものでさして珍しい事でもないのだが、光にとっては初めての体験だった。

宇多田ヒカルとしてデビューして以来、いやデビューする前から彼女は衆目の注目の的であり続けた。常に人の視線に晒され、その中でどう歌うかが課題であった。スケールの違う重圧の中、それでも表現者として如何に誠実に自らの姿を打ち出していくか。その答えがFINAL DISTANCE以降の流れであった。如何に見せるか、である。

翻ってNYギグでは、"見られていない"状態においてパフォーマとして開眼する。そこでは、想像に過ぎないが、自分でない何者かを"演じる"コツを掴んだともいえる。Utada UnitedのUtaDAパートの光はコンサートホールの空気を一変させる非日常的な感覚をあの衣装と立ち居振る舞いで表現してみせた。選曲もそのコンセプトに沿ってEXODUSの中でもヘヴィ・サイドの3曲が選ばれた。

ここに奇妙な捻れがある訳だ。ひとは好奇の目に晒されると、自分を飾ったり取り繕ったり見栄を張ったりして自分以上の、自分以外の何かであるように振る舞おうとする。誰も見ていない所で一息ついて素の自分に戻る。

しかし光は"見られている"場所では等身大を見せようと奮闘し、"見られていない"場所では何者かを演じる事でパフォーマンスのコツを掴んだ。何れも結果論ではあるものの、果たしてこれはどういう事なのだろうか。以下、次回に続く。

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FINAL DISANCEは、何度も繰り返し指摘してきたようにボーカル/ピアノ/ストリングスの三位一体が魅力の曲である。メロディーと歌詞はDISTANCEと大体同じであるのだからどういう編曲を施すかが鍵になるのだが、この時はまるで「FINAL DISTANCEという"答え"に辿り着く為にまずDISTANCEが必要だった」ように感じられた。それ程までにこの曲の居住まい、"姿"は美しい。この曲の特別さは特別である。のちにヒカルはFlavor Of Lifeでもバラード・バージョンを制作して大成功を収めるが、それもこの時の経験があったればこそだ。

その特別に特別な楽曲を、完成したばかりの時期に、大人数のストリングス・チームとグランド・ピアノが設えられた舞台が出迎えるだなんて出来過ぎである。しかも、そのステージ・コンセプトは「スナックひかるへようこそ」、飾らない素のヒカル、普段着のヒカルを見せる事にあった。これもFINAL DISTANCEの元々のコンセプトに合致する。DISTANCEからビート、リズムを抜いて"裸になった(get naked)"のがFINAL DISTANCEなのだ。確かに、あの絢爛豪華なPVのお陰でこの曲にはスケールの大きさがイメージとしてつきまとうが、まずはガードを脱ぎ捨てて素材を剥き出しにする所にこの曲の妙味があった。DISTANCEからFINAL DISTANCEに至るスピリットは、まさにエレクトリックの鎧を脱ぎ捨てて楽曲の素材と歌のよさで勝負しようという"Unplugged"の精神そのものだったのだ。

メイキングによればどうやらこの企画はU3側からの提案でもあったようだが、それにしたってタイミングが合わなければMTV側からもGOサインは出まい。恐らく、この曲のレコーディング時同様、幾つもの偶然が折り重なって必然的にここに辿り着いたのだろう。運命を手繰り寄せる楽曲の力がここにはあったのだ。

そして、それは出来るだけ"素の自分"を見せるヒカルのチャレンジの幕開けだったともいえる。その試みはすぐさま"光"という、自らの本名の漢字を冠した楽曲の発表に結びついた。この流れを作るには、一度でいいからFINAL DISTANCEを人前で披露する機会を得る必要があったのだ。"見せる"というチャレンジに挑むからには、本当に見てもらわねば。総てが裸になった美しい楽曲FINAL DISTANCEをファンの目の前で歌う事。その時のヒカルの歌唱は、ビデオを見てうただければ瞭然と思うが、一節々々大切に大切に歌っている。ここまで大事にされて楽曲も幸せだろう。その溢れる気持ちを斜に構えることもなく冷笑的に捉える事もなく、真正面からありのままの素朴な歌う姿を人前で"見せる"事で、ヒカルはより自分自身を楽曲に投影する方向へと進んでいく。FINAL DISTANCEとUnpluggedは、その分水嶺となる大きな通過儀礼、passageであったのだ。(続く)

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