無意識日記
宇多田光 word:i_
 

22ppm  


あとハイレゾで聴きたい音源といえばFINAL DISTANCEだ。弦とピアノとヒカルの声という生音の塊こそ高音質に相応しい。MTV Unpluggedの音源ならなおよし。電子楽器だとどうしても元の音源の音質が上限になってしまうので(と言っても、77GBとかいうIvoryIIだったらCDより遥かに高音質なのかな)ハイレゾの恩恵がわかりにくいが、生楽器となると上限は我々の耳の方なのだから遠慮はいらない。生楽器に囲まれたヒカルの声がまるで耳元で歌っているようなリアリティを伴って…となってくれたらこの上無い。まだFirst Loveアルバムだけのハイレゾシリーズだが、果たして次はあるのやら。

っとと、そんな話の前に前回の話を締めくくっておこう。私は、逆説的にいえば、あれだけ人を幸せにしてきた人なのだからそれに相応しいだけの幸せを手に入れるべきだと言っているのだ(大いなる矛盾だがな)。勿論、普通なら結婚したばかりで幸せの絶頂に…とまではいかないものの、「よかったねぇ」な雰囲気を振り撒いてくれている、筈なのだ。が、情報が少ない! いや、折角今プライベートを楽しんでいる時間帯なんだから野暮を言う必要はないし、こっちはのんびり待ってりゃいいんだが、なんだか周りも含めてちぐはぐなんだ。何なんだよ「(ヒ)」ってのは(←未だに根に持ってる)。三宅さんも照實さんも思わせぶりなコメントを次々と残しやがって。期待しちまってるじゃなあかこのやろー。そんな中で、言えない事も多々あるだろうが、なんていうの、えっと、こっちはどうすりゃいいのと。

多分、この一年であれやこれやと予定が変わりまくっているのではないか。ユニバーサルの人事異動のタイミングとか、邪推したくなるパーツが見え隠れしているし、あと週刊誌に喋ってる音楽関係者さんとやら、あんた自分のクビは大丈夫なのか。

こういう不安定な時こそ原点に立ち戻り、私の(多分、"私たちの")願いである、「宇多田光の幸せ」を真正面から主張したいのだが、肝心の本人が幸せになり過ぎる事を怖がっているどころかそもそも望んでもいないとなれば、それこそどうすりゃいいのになるのだよ。そこなの。

光は、何だか色々考え過ぎていて、4年前に自分にも言い聞かせていた一言、「自分自身を大切に」が、なかなか徹底できていない(ようにみえる)。「何言ってんだよ!お前の百億倍は幸せだよ!」と言い返して貰えるならこの上無い、「我々の業界では"ご褒美"」になるんだが、うーん、難しいなこれ。

ああ、今夜は破だったな。また望みが薄いとわかっているのにEDが流れるのを期待してしまう展開か。どうせならシンエヴァではBeautiful Worldを劇中歌として使って貰ってテレビで放映する時にイヤでも外せないようにしたったらええねん。あかんか。やったれ。ついでに桜流しも流して究極の大団円ムードを出そう。鈴木敏夫による庵野秀明の後継者指名とか、何かと"庵野が新しいヤツ始めるぞ"な空気が流れている風だから、もしかして新劇はシンで本当に終わってしまうのかもしれない。それはそれで大事件だな。やっぱり残念だし。おいらとしては続けてくれてもいいんだけど。Qの投げっぱなしぶりを回収するのに2時間かそこらじゃ足りるとは思えないんでね。そこらへんの事も来週わかるかな。


話題のサンドイッチになったな。ま、いっか。初心だ初心。

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「今が楽しくて将来も楽しい」だなんてそんなむしのいい話があるか、と言われそうだが、そもそもそもそも宇多田ヒカルという存在がどういうものだったかを思い出して欲しい。アルバム1位連続記録を持つ母と同様に史上最高売上を持ち、抜群の歌唱力、異常な作詞力、他の追随を許さない作曲力をもちピアノまで弾けプロデュースまで手掛けてしまう。若い頃の学校の成績はオールストレートAで文学や漫画アニメにも造形が深く、日本語と英語をそれぞれ高いレベルで使いこなす。ひとたび筆をとれば写実的なデッサンから4コマ漫画まで幅広い画風を発揮し、NintendoDSを握らせればテトリスでカンストを叩き出す。その上母親譲りの美貌をこの上無い愛嬌でくるみ、人間的にも申し分なく、その人柄だけでも他の皆を魅了してやまない――「今度こういう主人公で漫画書いてみたいんだけどどうですか?」と編集者にお伺いをたてたら「馬鹿も休み休み言え」と呆れてつっかえされる事間違いなしの圧倒的なチートキャラである。漫画でもこんな完璧超人を描く事は憚られる
。流石ですわお兄様? 何の話?

ここまで"都合のいい"人間が実在してしまうのだから、彼女が"ひたすら楽しい"人生を送ったとしても何ら不思議ではない。いや、その存在の前ではそんな事ちっぽけ過ぎるとでも言いますか。それはそれでアリだと思う。

ただ、私としては世界の本質は圧倒的に4、「今苦しくて将来も苦しい」、これが真実なんだと思っている。何も知らなければ我々は現実に翻弄され続けるだけだ。世界に対する知見を長年何代にもわたって蓄積してきているから2やら3やらの振る舞いが出来る。少しでも気を抜けばいつでも4な人生が待っている。話の出発点はそこからだ。

「今楽しくて将来も楽しい」人生を貫くにはそれこそThin Lineを常にギリギリ渡り続けるだけの集中力が必要だ。逆にいえばそれを発揮しさえすれば、その有り得ないような人生観だって実践可能だと信じたい。それに相応しいのはまずヒカルだと思っている。奇跡を呼べるのは奇跡しかない。

1の人生を否定したがる気持ちが、何故か人々の中にある。ある程度の苦しみがないと何か罪を背負っているような、贖罪の感覚。確かに、苦労した人に対しては優しく、楽しんでいる人には手厳しい、なんて空気も存在する。しかし、それはいつのまにか取り違えられた感覚なのではないのか。変な話だが、そうだな、こういえばいいだろうか、誰しも人は、幸せになり過ぎる事を恐れている。どこかでその高すぎる代償を払わなければならなくなる事を恐れている。自分の身に身の丈以上の恩恵が降り注ぐのに対しておののく。開き直って「うわすげー嬉しい!」と笑顔で言い切るのは物凄く勇気が必要だ。それが君に出来るか?

その「代償」って何だろうな。人は「私はこれだけ苦しんだのだから何か恩恵を受けてもいい筈だ」と考える。しかしそれは私に照らし合わせてみればありえない。世界の本質は4であり、あなたが今まで苦しんだのであれば今後もずっと苦しみは続く。築き上げられた社会の蓄積のお陰で我々は2と3を行き来する人生を送れているのだ。それに抱え切れない人生はひたすら4、4、4である。

そこに立ち返ってみれば、1の人生も「なくはない」と思えてくる、筈である。ヒカルはどう考えているか、ちょっと訊いてみたいものだ。

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この日記で取り上げる話題は自分でも幅広いんだか狭いんだかよくわかんない。音楽の技術的な話になる事もあるし市場の話になる事もあるしパーソナリティの話になる事もある。メディアの話やくまの話、スポーツやアニメと絡める事もある。ライブ・コンサートもレコーディングも作詞作曲も歴史も時事ネタもその日の天気も出てくる。そういやデング熱の感染は代々木公園からかもしれぬとの事。やべぇこないだ渋谷行ったとこだべ。あと、上空から氷の塊が降ってきて天井を貫いたニュースとか。今日の教訓はつまり「蚊に刺されるな」&「頭上に落下してくる氷塊を避けろ」である。なんという無理難題。

日記だからそれでよいのだが、本当にとっちらかっているなぁというのが正直な感想だ。日本のゴシップに惑わされないようにイタリア語のサイトを英語翻訳してる時なんか「何やってんだろ俺」と思わずにいられなかった。お陰でゴシップの印象操作の技術をまたひとつ学べたのだけれど。そういやUtadaのお陰で海外旅行までしたな。至る所に仲間も居てくれる。光には感謝以外する事が無い。

で、する事がないからといってただありがとうだの好きだの言ってるだけでは面白味がない、という所からこの日記は始まっているのだった。何が言いたいかといえばお前にとって「面白味」はそこまで大事な事なのかと。普通にありがとう言うといたらええがなという至極もっともな意見を退けてまで私は面白味のある事が書きたいのだった。

しかし、残念ながら私には本来、その「面白味のある事を言う」才能が欠けている為、毎日が七転八倒である。うーむ、という訳で最近面白い事書けてないなと反省中なのだ。毎日初心に還らなければならない。毎日である。そうしている間に書いているこの文章も大して面白くない。ぐぬぬぬぬ。

かといって、確かに気分というものもある。今のヒカルの状態がわからないのだから何とも言い難いのだ。彼女の気持ちに寄り添わずして何が無意識日記なのかと。彼女から預かっている(貸して貰っている)この漢字5文字に相応しい内容でなくては。

力んでいても仕方がない。何か書こう。


苦しみ(pain)と喜び(pleasure)について、下の4つのケースが考えられる。

1.今楽しくて将来も楽しい。
2.今楽しくても将来は苦しい。
3.今苦しくても将来は楽しい。
4.今苦しくて将来も楽しい苦しい。

アリとキリギリスの話だとアリは3、キリギリスは2だろうか。1は「世の中そううまくいくものか」と星新一に叱責されるだろうし、4は「そんな状態一刻も早く脱出しようよ」と窘められる。

大概において、世間というものは3を奨励する。保険屋の陰謀と言ってしまえばそれまでだが、大体の人たちは将来惨めになりたくなくてそれなりの苦労を今する。しかし、ずっと苦労ばかりだとつまりその人の人生はその時点までは4の状態であるといえるから、途中に2なイベントを入れたりして元気を出す。月賦で家や車を買ったりね。大体の人は、つまり、人生2と3をいったりきたりで過ごしてるんだと思う。

今の日本人はかなり3に偏っているけれど。老後の心配ばかりして若い頃に苦労して漸く解放されたと思ったらすぐに死んじゃって資産だけが残ったり、病気を治す為の治療費に費やしたり。「周りに迷惑をかけたくない」というメンタリティが強いからかな。

まぁそれはいいや。で。私は光に1の人生を貫いて欲しいと思っている、という話をしてみたかったのだ。ちょっとは面白味のある話になって欲しいと思いつつまた次回のお楽しみ。

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前回の内容は「それで一冊本書けるやん」という程多岐に渡っていたのでしっちゃかめっちゃかになってしまった。もう少し話を絞ろう。

ヒカルのファンは、マスメディアを通して掘り起こされてきた層である。昔はテレビに一切出ないミュージシャンなんかも居て、それでもレコードは売れ動員は堅調だった。全国網の宣伝システムへの依存が低い為足腰が強い印象だ。マスメディアは流行の反映である為、なかなかコアなファンはつきにくい。そこらへんは皆さんもご存知だろう。たとえ700万枚以上を15年前に売っていたとしてもBoxセットは1.5万枚売れないのだ。

ポイントは、そのまま15年来た、という点だ。ファンクラブを作らず、信者的な奉仕に頼る事なく今までやってこれた。複数枚商法も握手券とも無縁のまま。やっとSCv2でコンサート優先予約シリアルが同封されたくらいだろう。

先日の金爆無特典実験は興味深かった。CDのみの商品がどこまで売れるかという試み。特に、企画倒れに終わったようだが、「特典のみ無音CD」のアイデアは悪くない。私なら「これはジョン・ケージの"4:33"のカバーだから」と言い張って企画を通したかもしれない。無特典CDと特典付無音CDの同時発売でどちらが売れるか。実施されていたら議論を呼んでいた事だろう。

ここで考えなくてはいけないのは、無特典CDを買ったのは誰か、買わなかったのは誰かという点だ。前2枚のシングルが10万枚超えで今回は4万程度という事なのだが、熱心なファンは特典があろうがなかろうが取り敢えず買うだろう。元々特典の有無と関係なく、曲を気に入って買う人は今回も買うだろう。では一体、特典目当てで買っていた人って誰…? どれくらいダウンロードに流れたのか、という検証によってこの疑問の行く先は変わるが、「CDを買う」という行為には様々な人々が関わっているという事だ。

ヒカルが15年かけて耕してきたファンは、一体どんなの? 特に、コンサートの人気が高いのは、一言で言えば観た事を人に自慢が出来るからだ。つまり、テレビに出ている(出ていた)超有名人だから観れたらラッキー、という話。ここを支えているのは即ち、まずテレビ、次にラジオなのだろう。

CDが売れなくなったのは、TVを観る層がCDを買う習慣を失ったから、と言い換える事が出来るかもしれない。ダウンロードが伸びているという話もきかない。このままだと、マスメディアに依拠して耕されてきた宇多田ヒカルファンは、少なくとも商業的には衰退の道を歩む事になる。なんだろう、ものすごく巨大なあぶくを相手にしているような感覚だ。

あぶくならあぶくを次々継ぎ足していくのが常道なのだがヒカルはそんなにテレビに出ない。回数は少ないのに影響力が大きいのは過去の視聴率の高さが大きかったのだが今後そういう事は起こりそうもない。番組ももう殆ど残ってないし。さてどうしたものかとなりつつ次回へ続く。

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他にも書くテーマがどんどん出てくるのに(特に「ぼくはくまはとてもへんなうた」というのは色々書きたい事があってねぇ)前フリだけで2回も使っていられない。とっとと本題に入ろう。

ヒカルからみたら、ラジオやテレビは自ら作り出したコンテンツの存在を皆に知らせるメディア・中間媒体であるから、ここにおいて「番組」を制作する機運は希薄だ。特にテレビにおいてはね。

ラジオは若干違った。2つ、分けて考える必要があるだろう。ひとつは、自分で番組を持っていり時期。これは、コンテンツそのものがそこで生まれてそのまま送り届けられる。もうひとつは、新曲やライブツアーのお知らせ・告知・宣伝媒体としてのラジオである。時により、この2つを使い分けている。

テレビの場合は、どうだろう。アンプラや「今のわたし」などはかなり"番組制作者"に近い感じではあったが、結局CMやドラマ等を含め、新曲の宣伝媒体という側面がかなり大きい。なんというか、「久々にスタジオを出て今お邪魔してま~す」という感じ。明石家さんまなんかテレビに出ている時が完全に"ホーム"な感じだったり、逆に伊集院光はテレビでは借りてきた猫なのにラジオになったら途端に本領発揮したり、まぁ人によって色々なんだけど、ヒカルにとってはどちらも大概「お客さんとしてお邪魔してます」スタンスかな。

Kuma Power Hourも、月一という事もあって"InterFMにゲスト出演中"という感じだった。後から聴いた感じだが、Sweet&Sourもなんか「ふらっと遊びに来て喋って帰る」みたいなノリだった。なんだか、今も昔もヒカルのテレビやラジオに対するスタンスが伝わってくるような。


しかし、だ。「宇多田ヒカル」という看板を支えていたのは紛れもなくラジオとテレビだったのだ。そこが難しい。テレビを主戦場にして、そこでコンテンツを生み出しそこで勝負する(さっき言った明石家さんまみたいなな)人たちとは違い、ヒカルはシステムとしての、情報伝達機能としてのテレビの利用しかしていないのに、これがあるとないのとではまるで売上が違っただろう。勿論、最初はFMラジオから火が着いた訳で、そこに至るまでには梶さんが半年かけて全国のFM局を巡るという地道な活動があって、となるのだが、「システムとしてのラジオとテレビ」を最大限活用して売れた事は間違いがない。

そこで何が問題かといえば、そもそもそもそも(大事な事なのd)テレビ視聴者というのは基本的に、そこでのコンテンツ消費が目的の人種である。「面白い番組が観たい」。当たり前過ぎるようだが、ここで注目すべきなのは、(特に民放の)テレビ局が本当に欲しいのは「番組を観て何かを買ってくれる人」である。つまり、システムとしてテレビを利用して貰わねば困るのだ。


ここで2014年の現在に戻ってみよう。果たして、テレビで歌ったとして、視聴者は何をするのか。宇多田ヒカルがテレビで歌った。いい曲だ。じゃあ…と言って、次の日CDを買いに行くのか。手元ですぐさまダウンロードするか。Youtubeを見に行く? さぁわからない。

どれくらいの人々が、15年前のように、1999年のように行動してくれるやら。


ここを、根本的に考え直してみる必要があるのではないか。Twitterのフォロワーが百数十万人規模として、ある日突然サンプルを呟く。それだけでも凄まじいリーチである。テレビに出て、宣伝をする場合のコストとのバランス。これをどう考えるか。


さて、話を戻してみよう。人々がテレビに求めているのは元々コンテンツである。今までなかった発想を提案しておく。ヒカルが番組を持ったらどうなるの? 歌番組でなくていいさ。テレビを使うというのなら、そういう思考実験も必要なんじゃないかという話。確かに、下り坂のメディアだが、使うなら特性を理解した上で方法論を検討するべきだ。


で、だ。このエントリーは全体として反語表現である。今、テレビを使おうとすると上記のように様々な混乱があらわれる。そこまでしてこのメディア使わなきゃいけないか? 何が得なのだろう。UTUBEで自前で番組作って配信すりゃいいじゃん。最低限、TVCMだけは入れるとかか? お金かかるなぁ。何がしたい? 大ヒットを生みたい? 本当に?? CDを売りたい? ダウンロードで稼ぎたい? 会社として、何がしたいのか。収益をあげたいなら何種類も同じ中身のCDを出す? そこまでしなくても、というのがファンの正直な感想だろう。これはかなり複雑な問題だ。なるほど、前フリだけで2エントリー使いたくなるのもわかる気がした(笑)。

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ラジオテレビは「放送」というシステムと「番組」というコンテンツを分けて考えるべき、という話だったな。

情報網と計算機の普及で、今や「放送」まではいかなくとも「番組」を(制作して)「発信」する事は驚くほど容易くなった。スマートフォンひとつあれば録音も再生も出来るのだから。

しかし、それが人々の興味を惹くかといえば別で、まず面白い番組を作るのは至難の業だし、それを皆に伝えるのは更に難しい。

ラジオテレビの「放送局」は、その特性を活かす。チャンネル数を絞り込み選択を容易にする。そのリーチ数の大きさを利用して大きな広告収入を得る。それを元手に才能を集め予算を注ぎ込み番組を作りそれがまた衆目を集め広告収入が入り…というサイクルでずっとやってきた。その強固さは皆さんご存知の通り。

「テレビはオワコン」と言う人も居るが、なんのなんの。確かに下り坂かもしれないが、絶対値ではまだまだ使える予算の額が違う。人件費が確保出来るならそれに見合った才能がオファーを受けてくれるのだから、総体的にこちらの番組の方が面白くなる。それは今でも変わりがない。

ただ、その、「放送局」としての利点を知るあまり、インターネットの活用に及び腰になったのは痛かった。戦略として間違っているかどうかは別として、ネットで同時配信すれば確実に(現実の)視聴率が上がるのにそれをしなかった。ラジオの方は漸く全国で基本的に総ての放送局の放送を聴けるようになったが、有料だし海外では聴けない。多くのインターネットラジオをみればわかる通り、商業的な強度は別としても音声の世界配信に技術的な障壁は何もない。寧ろ技術を駆使して聴けない地域を作り出している。あれだけ番組中に「是非聴いてくださいね♪」と言っておきながら聴きたがっている人を締め出しているのだ。これは、事情は異なるものの地デジも同様である。

ここで何が起き始めているかというと。無料放送が「番組に触れたいと思っている人」に対して有料を提示したりアクセスを拒否したりという、今までとは印象の異なる事態である。今まで、そんな事を意識した事はなかった。テレビもラジオも、スイッチを入れてダイヤルを回したら必ず観れたし聴けたし。インターネットとコンピューターのもたらした"自由"のせいで、意図的に"不自由"を作り出さねばならなくなった。そこが潮目の変わり目なのだ。

なので、様々な諸問題(著作権等)を解決すれば、放送局は同時配信によってあっさり復活するだろう。先述のように、あれだけの広告収入で番組を作る以上素人に勝ち目はない。電波を持っているというのは想像以上に強力なポイントなのだ。


……なかなか本題に辿り着かないな……(汗)。

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ハイレゾというのは、96kHzだ192kHzだという音の高さの話より、24bitという音の解像度の話の方が実がある。実際、FL15も幾つかのWeb記事で22.05kHz以上の音は無かったという報告があった。

ではFL15が24bitの恩恵を如実に反映していたかというとそんな事もなく、多分今私が2014remasterとハイレゾでFL15を流して貰っても録音レベル以外で判断する事は結構難しいかもしれない。音量を合わせられると殆ど同じだろうかな、と。まぁむびのんのイントロとかならわかるかもしれないが。

これは、有り体に言ってしまえば"選曲"がよくない。前に24bitサウンドについて述べた時、私は、音の解像度そのものより寧ろそれが鳴り響く空間の広さを感じとれる所が魅力ではないかと語った。「音の蓋がとれた」みたいな言い方をしたかな。音が遠くまで鳴り響いていけるような感覚。それが私の感じとったハイレゾの魅力だった。

この効果が、FL15の楽曲群には薄い。元々のミックスが、空間を埋め尽くすようなクラブ系(って言うのかあれ)の密度になっていて、外側に広がっていくようなというより部屋に覆い被さるようなサウンドだから、これが外向きになったら散漫な印象を伴って寧ろ逆効果だ。いわば、First Loveアルバムの楽曲は室内楽、In My Roomなサウンドなのだ。歌詞も結構部屋の中っぽいのが多い。いやそうでもないかな。

time will tellなどはalways blue skyと言うだけあって、少し上方に空間を感じさせるサウンドになっている。こういうのの方がハイレゾ向きだ。一方、Never Let Goは太陽に目が眩むのだからいいんじゃないかと思いきやハイレゾではあの独特の陰鬱さが薄れてライブ・バージョンに近くなっていた、なんて事も話したっけ。総体的にみると、やっぱり1stアルバムの楽曲とサウンドはハイレゾの恩恵を受け難い気がする。

ではどの曲が向いているかといえば、そりゃあPassion/Sanctuaryでしょう。『青空の下で』とか『Angels in flight』 とか、どこまでも、宇宙に達するまで広がり続ける青い空。これを感じさせるにはハイレゾが向いていそうだ。他にも、例えばテイク5はどうだ。こちらは夜空の広がり。あと、これは是非聴いてみたいというのがあのBeautiful Worldのイントロダクションだ。私曰わく「深海の底から青空を眺めるような」サウンドとハイレゾの相性は抜群に思える。

…で、この曲、もうハイレゾが存在してるんだよね? EVAコラボウォークマンに序のサントラの一曲としてプリインストールされている筈。ぐぬぬ、ファンとしては数万円はたいて買って聴いてみるべきかもしれないが、あのハイレゾウォークマン(EVAコラボじゃないヤツね)を既に入手している身としては敷居が非常に高い。「きっとそのうち単体での配信販売が始まるだろうからそれまで待とう。急ぐ事でもないし。」と自分に言い聞かせている。しかしながら私、例えばEVAQのBlurayで最も使用頻度が高いのは付属のサントラに収録されていた桜流しのトラックである。CD音質(1.4Mbps)で聴けるというのはとても大きい。…もっとも、元の音質がそれなりだからそれなりにしか鳴らないんだけど。それでも、「Bluray買ってよかった」と思えるのだからプリインストール音源目当てにEVAコラボウォークマンを購入していたとしても後悔しなかったかもしれない。てかそういやそもそももう手に入らなかったんだっけ?

という訳で、私としては宇多田ヒカルの過去音源ハイレゾ化に関しては、First Loveでも十分嬉しかったがやはり本命は4th「ULTRA BLUE」&5th「HEART STATION」という事になる。この2枚がハイレゾ化されるまでは生きねばなるまいだわさ。


…あれ? ラジオテレビの話の続きは? ―すっかり忘れてた(笑)。また次回のお楽しみで候。

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若者のテレビ離れ、と言われて久しいが、視覚がインターネット接続端末に分散しただけで、そこまでテレビが没落した訳ではない。ラジオも然り。聴覚が以下略。

テレビやラジオと言った時、明確にわけておくべきポイント2つある。ひとつは、コンテンツとしてのテレビラジオ。要するに番組だ。もうひとつは、メディアとしてのテレビラジオ。つまり電波による放送媒体だ。この、番組と放送というものを一旦分けて考えないと話が混乱する。

番組というのはソフト、つまり映像や音声の事。これを流すだけならパソコンや携帯電話で十分。なぜならそこにはディスプレイとスピーカー/イヤフォンがあるからだ。

放送というのは、真ん中にでっかい電波塔をおっ立ててそこから電波を放ち端末に受け取らせる事。インターネットと違い、流しっぱなしの一方通行だ。

しかし、電波というのは周波数に限りがあるので、土地のように分譲分割して使用する。

そして、テレビラジオには限られた周波数/チャンネルしかない。地上波だと、せいぜい十数個だろう。ここが何より重要だった。

ラジオ局テレビ局は、その限られた数のチャンネルを、全国津々浦々に放送した。そのシステムが、いちどに何千万という人々が同じ番組を見るという状況を生み出したのだ。

紅白歌合戦が80%を記録した、などの数々の記録は、つまり、他の選択肢が希少だったから起こった事だ。もし仮に地上波が今のCS放送のように何百というチャンネルが横並びになっていたとしたら、ここまでの一局集中があったかどうか。あクマで"横並び"が前提だけど。

この、チャンネル数を絞る事による"供給の寡占"が、テレビの強さを生み出した。家に帰ってきてテレビの電源スイッチを押す、チャンネルを合わせる、というシンプル極まりないツーステップのシステムによって、一億もの人間に対して一定の視聴習慣を身に付けさせたのである。

この"放送"の枠組みがある限り、たとえスマートフォンが1人1台になったとしても、テレビラジオを上回る影響力をもつ事はなかなか難しい。番組の面白さ云々の前に、システムで既にもたらせる影響力の大きさが決定づけられているのだ。


…ラジオとテレビの影響力でブレイクした15年前の話をするつもりだったのだがこの調子だといつになるやら。ま、いっか。

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Hikaruは今、自分を見失っているように思う。これは、やりたい事がやれていないとか、やりたい事がわからない、とか何か自分に嘘を吐いているといったのよりもっと深刻な段階だ。一言でいえば、「こころとかたちがあっていない」。

心は目に見えず耳で聞こえず、五感で直接触れる事は出来ない。この場合の心は英語でいえばHeartよりMindに近い。五感で触れる事が出来ないから、我々は五感で触れられるものに心を託す。そうやって、他者にだけでなく、(恐らくずっとこっちの方が重要なのだが)ずっと未来の自分や、ほんのちょっと未来の自分に、今の(と言った瞬間に過去になってしまった)自分の心を伝える事が出来る。これがうまくなってくると、多くの人に自らの心のうちを伝える事が出来るようになる。

最も基本的なかたちはことばである。我々の記憶は、ことばを得た時から、言語性を獲得した時から始まる。それは日本語とか英語とかいった特定の言語でなく、言語性という抽象物でよい。

なんだか話が難しくなってしまったが、要するにHikaruは、今の自分の心を的確に表現する手段を失ってしまっている状態にある。それがすぐにわかるのは、あとさきで発言に矛盾が生じている場合だ。サッカーの時がそうだ。ついさっき書いたことばと相容れない発言をする。恐らく、今回の発言(ツイート)も、ご友人には申し訳ないが、実際の弔いの方法とは食い違っている可能性がある。

ちと踏み込み過ぎた。これ位にしておく。私だってこんな事は書きたくないのだから。人のことをネガティブに言うのは誰でも出来る。

それなら話題を少しずらしてみるか。ネットの言論空間において伝統的に厄介な問題がある。ある分野に精通し切っている人とただのクレイマーの区別がつかない事だ。

例えばスポーツの世界チャンピオンには物凄く自分に厳しい人が居る。得点をとった時ですら首を傾げる。自分からミスしようものなら喚きちらさんばかりに不機嫌になる。余りに自らに設定するハードルが高い為いつも「この程度ではダメだこの程度ではダメだ」と常に自分にクレームをつけている。

このまま指導者になると、下についたものはたまったものではない。育つのは同じメンタリティの―自分を許さず、徹底的に叱咤し続けるタイプだけが生き残る。それが帝王教育だと言われればそれまでだけど、それだけでは立ち行かない事が多い。大抵の指導者は、飴と鞭をじょうずに使い分ける。

しかし、やはり暫く発言力が強いのは実績を残した方だ。彼らの声(手厳しさでいっぱいのヤツ)と、そして、ネットに溢れかえっているネガティブスピーチの数々は、殆どソックリである。「くそつまらん」とか「おまえは終わりだ」とか「消えろ」とかよくそんな事が言えるなのオンパレード。しかしそれは、実績ある者(まぁいえば究極の職人気質/陶芸人間皿割る皿割る)のそれと見た目は同じ発言なので、どうしても威力と御墨付きを持ってしまう。これが、ネガティブな発言がネットから消えづらいひとつの理由である。

だから、人を誉められない、人の長所を指摘できない人の発言は、あっさり無視する事をお勧めする。それじゃあ臭いものに蓋でなぁんにも解決しないじゃないかと勿論言われるのだがそれもあっさり無視しよう。耳を傾けるべきなのは、問題が何か起こった時に「なんてひどい」としか言わない人の方ではなく「ではこうしたら解決するんじゃないか/よくなるんじゃないか」と発言する人の方だ。そういう人の発言をきくだけで、人生なんてすぐ終わってしまう。ネガティブスピーチに割ける時間は、人生が一千年あっても永遠にやってこない。


したがって、今日の無意識日記は、Hikaruに対して「こうしてみてはどうか」と言う事無しに、ただひたすら「よくない」というだけのネガティブサイドになってしまっている。これではよくない。勿論、最初期の段階で問題に気付き、よく分析し、何がどうなっているかを知るのは大切な事だが、解けもしない問題にかかずらうのは時間の無駄だ。出来れば、次の機会は、Hikaruに助言を与えられるような何かが欲しいところ。私はそうしたいのである。自分がダメでも諦めずに行くよ。

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週末にひとつツイートがあった。しかし、また誰が書いたかわからないような内容。今回はサッカーの話題と違い叩かれる方向性ではなかったから大丈夫といえば大丈夫だが、依然、「自分の頭で考える」「自分の目で確かめる」といった基本的な事が出来ておらず、1ヶ月経っても全く回復していない事が窺える。相当な重傷である。

いつからこうなってしまったのか正確なところはわからない。少なくとも、3月のラジオ最終回の時点でのHikaruはいつも通りだったから、その後の話になるとは思うが、我々の知る限りあったイベントといえば結婚式しかない。結婚後のマリッジブルー…という言葉の使い方が正しいかはわからないが、そんなところなのだろうか。或いはシンプルに妊娠初期かもしれない。体調の変化が精神状態に影響を及ぼす事はあるだろうし、それなら初期の段階で発表する必要もない。何だったら無事出産するまでずっと黙っていてもいい。街の人たちの口に戸は立てられないかもしれないが。

いずれにしても、復帰はもう暫く待った方がいいかもしれない。現在のEVA祭の収束が9月7日、パターン(青)でいえば、この日に大体のシンエヴァの公開日時(恐らく、大凡一年後)が発表される段取りになるから、それに合わせて一曲作れれば御の字、と言う事も出来るかもしれない。

精神状態が通常でなくても、曲は書けるかもしれない。寧ろ、少しハズれている位の方がエキセントリックなアイデアが出るだろう。しかし、作詞はそうはいかない。その時の精神がダイレクトに反映されるおそれがある。井上陽水や畑亜貴のように普段からぶっ飛んだ作風で売っている人ならそれでも構わないが、こと作詞に関してはヒカルは全く違う立ち位置に居る。多くの人ひとりひとりの心にダイレクトに届く言葉を綴っている。今更それが変化するとも、させるべきとも思えない。

結局、私は、Hikaruにかける言葉が見当たらないままだ。何が原因かさっぱりわからないし。しかし、今は普段の、以前の精神状態ではないよと言う事は出来る。出来るけれど当人がそれを言われてじゃあ何が出来るのといえばこれが全くわからん。そこが埋められる事がない限り、私は声を掛けられない。唯一言えるならば「こういう時何て言えばいいかわからない」くらいか。うーん、それですらマイナスのような。

逆にさっさと仕事を始めてしまえばHikaruもペースを取り戻せるかもしれないが、そんな荒療治をする必要が果たしてあるのやら。ハイリスク&ハイロストかもしれない。それは最早リスクではない。やれやれ、今週も"やる気"を出すのが難儀な週になりそうだ。私の事だから何とかするとは思うけれども。

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さて一周忌ウィークの〆とEVA祭開始のタイミングだから何を書こうかと思ったのだが急にFlavor Of Lifeについて書きたくなったので何の脈絡もないまま書き始めてみる事にする。

やはり印象的なのはWILD LIFEの曲順である。「一生この2曲の歌手と言われても構わない」とまで言い切ったAutomaticとFirst Loveの次にFoLBVが来ていた。私なんかは「おぉ、大ヒット曲を立て続けに。何て贅沢なんだ。」くらいにしか思っていなかったのだがヒカルにとってはPop Musicianとしてのプライドと矜持を示したものだったらしい。つくづく、この曲とそれに対するヒカルの気持ちが理解出来ていないなぁ、と痛感した。

総てをすっ飛ばしてあっさり表現すればこの曲は「売れたから凄い」のだ。いや、曲としても勿論いいに決まっているのだが、この曲は何よりもまず"有名であること"が第一に来ていて、曲としての評価は実際はそんなでもない。

何度も書いてきた通り、UTUBEの3強はFirst LoveとGoodbye HappinessとPrisoner Of Loveだ。知名度だけならFirst Loveに引けをとらないFoLBVなのだが、人気があるかというと「かなりあるけどそこまでじゃない」という感じ。

また、ここ6年のオフ会で、この曲がキッカケで宇多田ヒカルのファンになりましたという声を、私の憶えている限り一度も聞いていない。忘れてたらごめんなさい。これは、異常ともいえる。

しかし、だからヒカルは嬉しかったのかもな、と今振り返って思う。自分の熱心なファンになって貰うよりは、もっとライトなお付き合いを、音楽の購入者としたいんじゃないかと。まぁディープとライトのどっちがいいというんじゃなく、「私に心酔されてもなぁ」という気持ちは強いだろう。「ちらっと小耳に挟んだんだけど今度の宇多田の新曲いいね」―こう言われるのがいちばん嬉しいんじゃないか_そんな風に思えてきた。

つまり、ヒカルは曲をヒットさせたいのだ…というとちょっと違うかな、もっと包括的な、この世界が持つ理想像として、「宇多田ヒカルの曲はヒットしてくれていた方が"すわりがいい"」というのがあるのじゃないかと。

つまり、ヒカルがどうか誰がどうかという以前に、或いは以上に、世界の(もっと小さなスケールでいえば、世間の)感情としてそれが存在するのではないか。Flavor Of Lifeの素晴らしい所は、「あるべき人があるべき場所に収まった」その原動力を提供した事にある、と。


という事は、ヒカルはヒットする事に対して、どういう感情を持てばいいのか、或いは、どんな風に感情を表明すればよいのか。

私はどうも、貪欲に売りたい売れたいのなら、事前に「この曲はヒットして欲しい」と言っちゃってくれた方がいいんじゃないかと、思うのだが、どうなんだろう。悩ましい。テレビに出ていきなり「CDたくさん売りたいですね」と言い放ったら本当にそうなったのだから言霊という訳じゃないけど、その、なんだ、売れなかった時に悔しがる事も時には必要なんじゃないかとな、思うんだな。

すわりのよさ。それが今でも求められているか、というのがここ最近のここのテーマだったのだけど、実はみんな「次を聴いてみないとわからない」というのが正直なところなのではないか。周りの様子を窺っている、とまでは言わないが、宇多田ヒカルって―確かに昔の歌手だけど一時代がもう過ぎ去ったとまでは―曲がよければ、また最前線に戻ってこれるんじゃないの、いや出来ればもっと大きなタイアップでもあればねぇ、みたいな。そういう意味では、テレビドラマ「HERO」のキャンシー不在に対する態度と反応は参考になったかもしれない。あの曲がどうのというのではなく、宇多田ヒカルという名前に対する人々の位置付けである。

その昔FoLBVの事を私は「中興の祖」と表現した。クシャナかよ、と突っ込んでくれる人が居たら嬉しいが、それは兎も角、今度は「再興の祖」となる曲が必要になる。売れましょう、売りましょう。それで落ち着くべきところに落ち着けるというのなら。きっと今、皆宇多田ヒカルに何を期待しているか、そもそも期待をしているかどうか、そこらへん「わからない」が正解だから、こちらからねじ込んじゃえばいいんじゃないの。うん。

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さて一周忌だ。特に何もないのかな。実際のところ、宇多田ヒカル的には今年はFL15発売だけで十分なのだから今年いっぱい音沙汰無しでもさして不自然ではない。何かを期待したくなってくるのは、幾つかの記事の憶測も影響なくはないが、基本的には三宅さんと照實さんからの思わせぶりなひとことの数々があったからだ、わな。

かといって、水面下というのは何が起こっているかわからない。予定の相次ぐ変更、突発的なアクシデント。そういった情報がこちらに入って来ない訳だからそれはもう仕方がない。何か匂わすような事を言った後にどんがらがっしゃんがあったとして、今度はそちらを匂わす一言を、とはならない。せいぜい、いつのまにやら軌道修正された言葉がぽんと届くのが関の山だろう。


今夜は序の放送があるのか。Beautiful WorldがTV画面から流れてくれば感慨深くもなるかもしれないが、尺的にも無理だろう、特別TV編集版でもない限り。何だかあの歌がなくてもTV番組として成立しますよと言われているようでガッカリではあるが、実際そこまで作品に寄り添いきった歌でもないので仕方がない。それを言うなら残テも魂ルフも似たようなもんなんだし。

「なんだかお母さんみたいな曲だなぁ」―Beautiful Worldをフル尺で初めて聴いた時の私の感想だ。実際、このあとヒカルは母性を感じさせる曲、例えばStay Goldなんかを発表している。序の段階では母性云々といっても映画のメインテーマとしては出て来ないから、こういう「ほんのり匂わせる程度」のBeautiful Worldはちょうどよかったと言えなくもない。

ひかるは今日をどんな気持ちで過ごすのだろう。どの国に居るかで「今日」の時間帯は多少幅が出来るが、取り敢えず日本時間で考えておくとして、誰かと共有したいと思うだろうかそうでもないのだろうか。1人でゆっくり過ごしたいのかな、誰かに気持ちを打ち明けたいのだろうか。こういう時に夫婦っていいもんだな、と思うのだけれど、今2人はどんな感じなのだろう。

幾ら考えたって答は出ない。ただ一言、「どうなの?」と当事者に訊く、それだけである。


これだけ書いてきておいて何なんだが、「宇多田ヒカルの母」としての藤圭子だけではなく、主役である歌手としての、一人の人間としての藤圭子を見失わないように。自戒を込めて。しかし、大切なのは今生きてる人間の方だ。今生きてる人間に過去を悼む気持ちがあるのなら先人をまた弔おう。そこだけ踏まえておきます。

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ファンの存在はモチベーションにならないのだろうか、という論は前にした。必要条件ではあるけれど十分条件ではない、という感じだ。ファンが居なければ復帰しないだろうが、ファンが待っているからといって必ず復帰するかといえばそうとも限らない。

何故こんなに不安なのかの話もだいぶ前にした。一時代を築き一生遊んで暮らせる大金を持ちながらなぜマスメディアに苛まれる生活を自ら選ぶ必要があるのかと。今すぐにでも欧州の片田舎に隠居して悠々自適に暮らせばよい。イタリアだわなそりゃ。

この、「働かなくてもよいでござる」を凌ぐのは、かなり難しい。殆どの場合それは強欲や夢といった言葉で正当化される。つまり、働く事で背負うストレスをだ。そこで「愛」と言い切れれば最強なのだが、なぜかHikaruはそうは言わない。

彼女が音楽を愛している事は疑いがないし、音楽はそれ以上に彼女を愛している。相思相愛の間柄なのだから末長く。そこまではいい。そこに「大衆」が絡んでくるからややこしくなる。

「Pop Musicは他者の音楽だ」というのは渋谷陽一の名言の中でも至高である。Hikaruは放っておいても、一生生まれてくる音楽と相思相愛で過ごしていくだろう。問題はそこではない。それを私達に聴かせてくれるかどうか、そっちが大きな問題なのだ。

つまり、不安定な不安の主役、正体は我々自身なのだ。Hikaruに問題がある訳ではない。我々がHikaruの音楽に対する他者としてしっかり存在していれば、何も不安はない。しかし、そうではない。そこが弱いから、Hikaruのモチベーションの話になる。強ければHikaruがそこの時点で戸惑う事もない。

我々はどう在ればよいのだろうか。答は無い。Hikaruが「あるべき姿」なんてものを求めていないからだ。そういう意味では、我々は期待されていない。居ても居なくても―というと行き過ぎだが、誰かが居ればよい、という程度ではあるかもしれない。来る者は拒まず去る者は追わず、というのは、つまり無関心である。引き止めたいという気持ちがどれだけあるのか…シンプルに、「この人たちに気に入ってもらえれば嬉しい」という像が鮮明に結ばれないのである。

それはそれでいい、というかだからこそ伝統の「私だけのヒカルちゃん」の感覚が出来上がる。彼女はどうして私の心をここまでよく知ってくれているのだろう、私の事をわかってくれるのはヒカルちゃんだけ…そう思った事のある人は数知れず。

一言で言えばそれはトリックでありレトリックであり、勿論リリックでもある。マジックなのかもしれないし、実際ファンタスティックなのだが、つまりは特定の他の誰かに宛てたようには思われない、それを自らの問題として捉えるメンタリティと呼応するように、リリックは組まれている。もっといえばリスナーとして想定されているのは誰でもなく、従って全員たりえる。皆の音楽ではあるが他者の音楽では"ない"、のだ。ヒカルの歌は。なので、あれをPop Musicと呼ぶのは間違いである。当事者としての感覚を覚えられる人にのみ呼応する。


だから虹色バスの歌詞には必然性がある。『everybody feel the same』―「皆同じに感じてる、"誰も居ない世界へ私を連れて行って"と。」 
ここまで直接的に他者の存在を拒否或いは忌避しながらも主語はeverybody, "皆"、"誰しも"たりえるのだ。皆ここに居ながら他者が居ない―どういう事なんだか。

脳みそが捻れていきそうだが、つまり、こういう精神構造でPop Musicに挑もうというのにそもそも無理があり、そこにはヒカルのリスナーが居ない。このミスマッチをどこで改善できるのか。不安定な不安はそこで回収されるだろう、もしあなたがそれをお望みならばの話だがね。

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結構最近は「DISTANCEとFINAL DISTANCEの編曲術の差異」とか「ぼくはくまにみるドラマツルギーの最小単位」とかいったテーマで研究(?)を続けているのだが、どうも何となく記事にする気にならない。そうやって技術的な側面から過去を検証するより、やっぱり「これから」について考えた事を書いてしまう。

不安なのだろう。「いつ戻ってきてもきっと僕らの期待に応えてくれる」という信頼は揺るぎない。では何が不安なのかといえば、Hikaruにとってそれが望ましい事なのか、後から振り返ってみた時に「やってよかった」と心から言えることなのか、そういった点が気になっているといえる。

アーティストなのだから、4年くらい休みをとるのは特に珍しくもない。8年おきにアルバムをリリースする人だって居る。大ヒット前提だけどね。なので、それ自体に異論はないのだが、「よくそれで我慢できるな」と思わなくもない。ワーカホリックとはいかないまでも、Pop Musicianとしての生活が懐かしいな、寂しいな、とHikaruが思うかというと―思ってないんじゃないかなぁと。

プレッシャーがあるとわかりきっているにもかかわらず復帰の道を選ぶというのは既に並々ならぬエネルギーが必要な訳で、常人から較べると遥かに強い情熱がそこにある点については疑いがない。それがないとやっていられない、とまで言うべきかな。ただ、「何の為に」という「頑張る理由」を探し始めた時点で、既に無理をしているんだと思う。

本当なら、もっと自然な形で活動出来ればいい。なんか新曲出来たので発表してみました。なんかライブやってみたくなったのでツアーを組みました。それだけの事なのだ。本来なら。

しかし、Utada Hikaruは残念ながら未だに巨大プロジェクトなのだ。もし次に復帰するなら大々的に宣伝されるだろうし、前に考察したように日本からの海外進出を狙うレーベルとしてはイチオシの看板歌手としての扱いを受けるだろう。またもや一挙手一投足が注目を浴びる立場になる。総ては計画されて、大きなシステムの中で動いていく。

そういうのが向いている人ならいい。しかしどうだか。元々「いきあたりばったり」を標榜してたんだから、出来るだけ身軽な状態で普段からいられた方がよい。軽いフットワークと思いつき。そこから生まれてくるもの。そんな風に考える。

今更「向いてない」もない。WILD LIFEの陣頭指揮もとった。20代の女の子が親の代のスタッフたちをも相手にして全体を取り仕切ったのだ。そこまで出来る人だが、だからといって、それが…難しい。要は、いい曲といいライブが出来ればそれでいいんだけど、Hikaruがそこまで開き直れてるか。てる、なら、あんまり休んでいるのは宜しくない。楽想は一瞬々々で飛び去っていく。延々それを追い捕まえる生活に慣れるかというと、やっぱりわからん。そこらへんが、たぶん私の不安の正体なのだと思う。

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広島の土砂災害はそれは恐ろしい事態になっているようで、1つでも多くの命が救われる事を願ってやまない。勿論広島にも宇多田ヒカルファンが居る訳で、彼女の歌にのほほんと耳を傾けられる平凡な日常が戻ってくる事を祈る。

日本は元々地震国で台風の通り道な為自然災害が多い。しかも四季がある為暑い方にも寒い方にも災害があり、片方に偏らない対処が求められている。しかし昨今最も注力せねばならないのは"夏の亜熱帯化"への対応だろう。日本の夏は変わった。「真夏日」なんてそうそうある事ではなかったし、「猛暑日」なんて言葉はつい最近設定されたばかりだ。まだまだ対応は成熟していない―習慣化されていないとみるべきだろう。

昔は「熱中症」といわず「日射病」と言ったものだが、では日光を避ければ大丈夫なのかといえばそうならなくなってきたからこう呼び換えられてきているのだろう。暑くなった。実感もデータもそれに反するものはない。


光は毎年、夏が来る度に明後日の日付と向き合う事になる。私の祖母は三桁到達後の大往生だったので、さして後悔はない。今日が彼女の命日なのだが、思い出すのは延々茶菓子をつまみながらお喋りした事や振る舞ってくれた料理や一緒に昼寝した事や…そんな感じである。彼女の絵を描いて何やら市から賞を貰った事もあった。5歳位の事だけど。沢山の楽しい日々を過ごさせて頂いたという感謝と感傷の気持ちがいちばん大きい。居なくて寂しいというのは勿論あるのだが、それ以上に「楽しかった。ありがとう。」である。死に方がどうのだなんて事はまるで関心がない。


メッセにもあったように、明後日に光が思い出す思い出が、そういった笑顔に溢れたものであって欲しい。残虐な言い方をすれば、死に方がどうであったとしても、今ある事実はただただもう彼女は居ないという一点のみであり、また、彼女と過ごした日々はもう真空パックされて手がつけられないという事だ。それに対して、いろんな感情がある。後悔や、悲しみや、もしかしたら憎しみも含まれているのかもしれない。一周忌では時期尚早というのは重々理解しつつも、笑って思い出を語り合える日に、これから毎年していって欲しいのだ。

ヒカルの母ちゃんは凄い人だった。年配の人と話すと100%母の話題になる。凄い。これからは、遠慮する人も居るかもしれないから、ウザがられようが自分から「奴ぁおらの自慢のおっかぁだべ」と切り込んでいく事にしよう。笑顔があれば勝てる。悲しい死に方の話より、あの歌声の強さと繊細さを語りたい。強い正義感や茶目っ気を語りたい。これもメッセにあった通り。命日とは、そういう事を語り合う日である。死に方なんて関係ないのだ―私がそう繰り返すたびに「あんたがこだわってんじゃないの」という気持ちが湧いてきて困惑するのだけど。全くもってその通りだわ。


夏だ。また小津の「東京物語」を見たくなる。


で、出来れば次のステップとして、「おらのおっかぁは凄かった。でもおらの方がもっと凄い。」と何の迷いもなく言えるようになる事。それがヒカルにあり得るか。もし言えるようになったとしたら、それはまさしく宇多田純子の人生を全肯定する事を意味する。強腕だが、確実だ。子の義務ともいえる。「よかった。」―この一言が、言えるのだ。まだまだやるべき事は山のように、それこそ死ぬまであるのだから。

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