無意識日記
宇多田光 word:i_
 



これだけ「宇多田ヒカルのうた」について語っておきながら、私さっきやっと予約してきたとこ。嗚呼、何という背信行為。

いや、言い訳すると、残念ながら「急がなくてもいいや」と思っていたのだ。「ハガキ配布が先着順なら数量限定だろうが、ラインナップ発表前になくなる筈もない。まだ1ヶ月以上時間あるし。」と。それならまぁ時間のある時でいいか、と。

一方で密かに「もしかしてハガキなくなっちゃったりしてないかな。かなかな。」と僅かに期待していたのも事実。それ位に予約が入っているなら喜ばしい事この上ない。

もともと、抽選だの何だのというのには疎い人間だ。選ばれた人間しか入る事が出来ないものには興味が湧かない。嘘でも何でもなく、宇多田ヒカルのライブチケットを買ってそのコンサートがソールドアウトになったなら、そのチケットを行きたがっている人に譲る事をまず考える。親しい人なら知ってる筈だ。

ここでも何度か書いているが、ソールドアウトは好ましい事ではない。私にとって最も理想的な人生は、いや、私が思う最もヒカルの理想的な人生は、もれなくきっちり「お金を出してでもヒカルちゃんの生歌が聴きたい」と思ってくれている人に歌を聴いて貰う事だと思っている。これを言うとヒカルは怒ると思う。なぜなら、既に「一度でいいから生歌を聴きたかった」と思ってくれていたファンが何人も亡くなっている事を、たぶん彼女は知っているだろうから。既にこの"理想"は打ち破られている。

しかしそんな事は言っていられない。「1人でも多くの人に生歌を」と前に進んでいかなくては。そんな時にソールドアウトは論外である。その地区での集客力を見誤り、確保すべきハコのキャパを間違った。商売としてはプレミアムチケットの話題性を高めるのはアリだと思うし、もし私がプロモーターをやっていたらそういう方針も打ち出すかもしれない。しかし今私はプロモーターなんてやってないので自由に言おう。聴きたいと思った人が全員聴けるのが理想だと。

という訳なので抽選で選ばれる今回の試聴会も、譲れるならたぶん人に譲る。その為にもあと何枚か予約したいところだがハガキの方が数量限定だとするとまたこれも人の機会を奪ってしまうのでアタマが痛い。14日ギリギリに買い漁る方針ですわ。


で、なんだが。実際に店舗に赴いてみると、残念ながら案の定まだハガキ付き予約を受け付けていた。うーむ、そりゃあ流石に無くなるには早過ぎるなぁと思いながら店員さんに予約を頼む。しかし、何だか様子がおかしい。ハガキを渡してくれない。

「あのぉ、ハガキは…?」
「…?」

思いっ切りキョトンとされてしまった(笑)。どうやら、宇多田ヒカルのうたアルバムに予約特典がある事を知らなかったらしい。目の前の予約用紙にその旨しっかり記載されているのだからそれ見りゃわかると思うのだがそんなことはどうでもいい。ショックだったのは、つまりその店員さんが過去10日間の間に一回も「宇多田ヒカルのうた」の予約を受け付けていなかった、という事だ。シフトもあるだろうし、たまたまなのかもしれない。しかし、私は「やっぱり予約入ってないんだなぁ…」と肩を落とし溜め息を吐きながら店を後にしたのだった…結構デカい店だぜココ…。


という訳で。気を取り直していきましょう。来週にはラインナップが発表になってきっと予約数が増える! 間違いない! 空元気!(笑) 複数枚買いは好きじゃないのだが、今回ばかりは何枚か予約購入した方がいいんだろうなと思う私でありました…。うーん、いいのかそれで。売る側の矜持ってもんもあるだろうにな。悩むぜ。

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AK240ってどんなのだろうと検索してお値段に吃驚した後に読まれるエントリーがこちらになります(笑)。あれ持ち歩くのは勇気が要るだろうなぁ…。

という訳で、照實さんのツイートで勝手にハイレゾ企画第2弾に期待する私でした。「First Love」はマスター音源がハイレゾ向きでない上楽曲もあまりハイレゾの音源を感じられないものだった為インパクトは薄かった。純粋にリマスター企画として捉えておけばよかった感じだ。

寧ろ、高音質音源化が望まれるのは映像作品の方で、特にMTV UnpluggedはDSDでの録音が示唆されている。ハイレゾフォーマットとは異質なものだが、技術者の皆さんにかかれば、マスターに記録さえされていればきっと皆にも聴ける形で提供してくれるようになる筈だ。

いやしかし、本当にリマスター企画第2弾がスタートしていたら嬉しいねぇ。来年の3月に、だなんてのは時期尚早かもしれないが。あぁ、来年はまだDistance15周年じゃないもんね。14周年だもんね。流石にキリが宜しくないか…。EXODUS10周年も過ぎちゃったし、2015年はキリのいい企画があんまないねぇ。ボヘサマ15周年があるか。かといってBluray化するといってもあれマスターが4:3だから厳しいかなぁ。


取り敢えずはまずは「宇多田ヒカルのうた」アルバムなんだけど、12月9日発売というのをどう捉えたものなのか。昨年のように、新しいマテリアル発表と同時に次の企画の話もやってくる…とかもないか。昨年のはIn The Flesh 2010の発売自体がサプライズでそこからの流れだったし。

そこまで今の時点で考えるのは得策じゃあないのだろうな。来週になれば参加ミュージシャンの発表もある。どういうスタンス、どういう体質の作品なのかはそこで明らかになる筈だ。シリアスなのかファニーなのか、ヘヴィなのかライトなのか、参加者全体のノリみたいなもんが伝わってくれれば、こちらとしても安心して楽しめるというものだ。まずはそこからだね。

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桜流しを聴いていると、その余りの集中力に驚嘆する。ひとつひとつの音、ひとつひとつの言葉を如何に大切に扱っているか、"彼らと向き合って"いるか、"共に在る"か。そういった点においてヒカルは傑出しているし、もう2年も前のこの最新曲は今の所最も高い集中力が込められた作品のひとつといえるだろう。

この、"途轍もない楽曲の強さ"を、他のミュージシャンたちがヒカルのうたをカバーする事で学んではくれないだろうか、という淡い期待を抱いている。楽譜に起こす人耳コピする人波形を眺める人様々だろうが、ヒカルのうたと向き合った時に感じるあの圧倒的な美しさを、プロの一流のミュージシャンたちがどう受け止めるか。興味がある。

逆に落ち込む、という場合も多い。「こんなとんでもないもの、私に俺に書けるわけがない」と。彼我の差、どうしようもない才能を痛感し、自分は別の場所で生きるか、いやいやシンガーソングライターとして学べる所は学ぼうとするか。どちらに転ぶかはわからないが、いい刺激になっていてくれたらな、と思う。


もっと夢を広げて、この企画がミュージシャンたちの"機運"を変えてくれないかな、とも思う。昔に較べてサウンドのクォリティーは上がったし演奏技術も素晴らしい、ソウルやR&Bもそれっぽく歌えるようになった、しかし、新しい作曲家、メロディーメイカーが出て来ない。歌声に魅力はあるのに、その声に頼るだけでそこから独立したメロディーを書く事ができない、そういった風潮、いや、邦楽市場の退潮と言った方がいいか、その空気を変えるキッカケにならないかなと。

四年前から「J-popってもうないよね」と言ってる私だが、それが妥当かどうかは別にして、日本語圏のアーティストたちが「この言葉のもとでのPop Music」というものを掴みあぐねているように見えてならない。要は"流行り歌らしさ"というものが失われて久しい、と。

アメリカのPop Musicはそうなってはいない。この一年のヒット曲のひとつにファレル・ウィリアムズの"Happy"(幸せなら手を叩こう、ってヤツな)があるが、あの曲を聴いた瞬間に「あぁ、2014年のPopsだ」と思い知らされた。アメリカにはそういうちゃんとした流れ、"流行り歌らしさ"がきっちり息づいている。テイラー・スウィフトのように、悪魔に魂を売るノリでPop Musicを追求するアイコンも居る。セールスは落ちているかもしれないが、本場のあの国にはしっかりとPopsが生きている。

ヒカルが復活する時にPop Musicというものをどう捉えているかはわからない。私は4年前にGoodbye Happinessを「最後のJ-popソング」と書いた。80年代末にCDシングルが売れ始めた頃から言われるようになった"J-Pop"が確かに生きていた時代の最後の名曲。桜流しは素晴らしいが、Qのコンセプトに沿うようにそれはPopさとは異質な重厚感を基調とした、どちらかといえば"生まれながらにしてクラシックス"という楽曲だった。4年も経ってしまえば考え方も感じ方も変わってくるだろう。


ヒカルは、あぁ見えてちゃんとファンと対話している。例えばStay Goldを発表した時、10代に非常にウケがいいと嬉しそうに報告してくれたが、あれは、私の見立てによると、Flavor Of Lifeが超特大ヒットしたお陰で、というか花より男子2のお陰で、嵐なんかが好きな世代の子たちから沢山反響を得ていた事が曲作りに影響していたのではないか、そう踏んでいる。所謂時代の空気、というのとは違うかもしれないが、その時々のリスナーたちの空気や雰囲気は敏感に感じ取っている。


そこらへんの機微まで、宇多田ヒカルのうたに参加した皆さんが受け止めてくれて、それをそれぞれが持ち帰って自らの創作活動に反映させてくれて、市場の雰囲気まで変える事が出来たなら、今回のアルバムはなかなかに歴史的意義が深い作品になりえるのではないだろうか。以上、妄想でした。でも実際そうなってるといいなぁ。

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ハロウィーンといえば、ヒカルはジャコランタンを初めて作って腐らせていた。照實さんのツイートからも、宇多田家ではそんなにこの聖前節に重きを置いてない風である事が伺える。

こちらも、小さい頃には全く話にものぼらなかったイベントが、こうやってある程度市民権を得ている事に驚く。恵方巻きが全国区になったのもそうだが、イベントを盛り上げて活性化しようという意図は十二分に伝わってくる。

タイミングもいいのだろう。クリスマスの2ヶ月前。ハロウィーンが終わったら、今度はクリスマスに向けて準備なのだ。全体のリズムが大事なのである。

音楽業界ではこの"リズム"をレコード会社が作り出す。大物のリリースを季節ごとに配したりしてバランスをとる。そんな中で「宇多田ヒカルのうた」アルバムはどういう位置付けになりうるだろうか。

今年の12月9日も水曜日ではないので、通常のCDアルバムとは異なるエクストラなものになる。昨年や今年の3月もそうだが、15周年16周年を銘打って展開する以上、曜日がどれであろうが記念日には店頭に並んでいる事が重要だ。

企画自体の特別さ、宇多田の名前の特別さを加味すると、こうやって"水曜日にあたらなかった"のは幸運だったのではないかと思わされる。レコード会社の通常営業とは違いますよ、これは特別な作品なんです、という点を強調しやすい。たとえそんなに売れなくても、「あれは特殊な作品だから」と言われて終わりである。

ただ、それも、「毎週水曜日が発売日」という習慣が生活に根付いてるような人種の感想だ。果たして、今の日本にそんな人がどれくらい居るのやら。ハロウィーンが習慣として根付くのに20年くらいかかったが、CDを買う習慣はその間に廃れてしまった。栄枯盛衰とはわかりやすいものだ。

また音楽を購入する習慣が根付く方法論が発見されるかもしれない。その時まで待っておくか。

逆からいえば、ヒカルや、ヒカル関連の音源が水曜日に発売される事になってきたら、それはレコード会社が"メイン"のひとつとして期待を始めたという事になろう。そちらはたぶん、ずっと早い。出来れば早ければ早いほどいいんだけど、まずはじっくり構えておくことにしますかな。

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@utadahikaru
最近言葉の無い音楽の方が心地よくて、Pablo Casalsが弾く"Kol Nidrei, Op.47"と、先日亡くなったMark BellのLFO名義のアルバム"Sheath"ばっかり聴いてる。
2014年10月29日 0:56

言葉のある音楽、というのは不思議なものだ。朗読に音楽をつけたもの、という場合もあるが大抵は歌を指そう。

音楽とは、恐らく明日宇宙人がやってきても魅了できる人間の文化のひとつである。波長や周波数を何らかのパターンに従って並べる、というアートは、取り敢えず我々にアクセシブルな世界においては普遍的であろう。

一方、言葉というのは本質的にローカルなものだ。一定の約束事に基づいて視覚的図形や聴覚的音声を関連付けて情報を伝達する。時によれば、お隣に住んでいる外国出身の人の言葉すらわからない。音楽にはそういう事はない。何千年前の曲であろうと、気に入る気に入らないはおくとして、あぁ、そこには人が意図をして音を並べたのだろうなぁ、というのはわかるし、多くの場合その情感すら共有できたりする。言葉にはそれは無理だ。アラビア語で書かれた本を渡されても、それが小説なのか料理の本なのかもわからない。

しかし、更に一歩下がって眺めてみると、確かに特定の言語が理解できない事はあるだろうが、一方で「その営みが言語に基づいている事」、即ち言語性という抽象概念は宇宙の至る所にあるだろう。いや、もし言語性がなければ、そもそもそこに宇宙があると知る事も出来ない。もっと言えば、宇宙の存在以前に言葉がそこにないといけない。はじめにことばありきとはそういうことだ。極端に言えば、今そこにことばがある事はわかっても、宇宙があるかどうかはわからないかもしれない、と。あなたはただひたすら長い夢を見ているだけかもしれない。宇宙なんかないかもしれない。それでも、ずっとことばと一緒に居た事は間違いない。

斯様に、"現実(の宇宙)"は、ローカルな特定の言語と、普遍性の上を行く言語性の間に挟まれている。そらはわかるとわからないのあいだにあるのだ。

だから、今ヒカルが言葉の無い音楽を心地よいと感じるのは、わかるとかわからないとかそういう事から離れたいという気持ちが強いという事だろう。ブルース・リー風に言えば、Don't think, just feelかな。

私もインスト好きなので、その気持ちはよくわかる。もっと言ってしまえば、心地よいなんていう感情は音楽の方から出てくるもので、言葉と向き合ってしまうとそこには痛みしかない。いや、他の感情もあるにはあるが、芯に最も強く感じるものは痛みである。痛みとは最も現実を反映した感覚である。「これは夢じゃない」と確かめる時、人は頬を抓る。それが、メロディーに言葉を乗せる時に起こるのだ。インストゥルメンタルのユートピアから抜け出して痛みを負うこの"歌詞"とは、もう呪いのようなもので、散々苦しみを与えた挙げ句に答なんてものを与えてくれるかどうかわからない。メロディーは綺麗に着地するが(出来た時は本当に心地よい)、歌詞は、なんというのだろう、ハマればハマるほど「やっぱり間違っている」と感じるものなのだ。その間違いを私は文学性と呼ぶ。現実との違い、間違いを犯すのはことばをもつ生き物だけだ。彼らは、私たちはそういう意味において宇宙から外れている。インストゥルメンタルのユートピアは夢の中のようでいてそれは
現実で、言葉は我々に宇宙の存在を教えながら痛みと間違いにまみれていく。歌はそこにできた螺旋から生まれてくる。つまり、ヒカルはこれから歌を生もうとしているのだ。その助走期間だと思えば、この呟きがより輝いて見えてくる筈である。

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前回触れたように、「宇多田ヒカルのうた」アルバムはヒカルの名前を再確認してもらうと共に、参加アーティストが名前を知って貰う絶好の機会でもある。特に若手アーティストにとっては大きなチャレンジだ。

宣伝の口ぶりからすれば、大物アーティストから若手まで取り揃えている感じだが、特に若手となるとUMG内、更にはEMI内所属の割合が大きくなるだろう。いや、そういうのにこだわりはないかもしれないが。或いは、他社の大物を引っ張ってくるにあたって「ではうちの新人も起用してくれませんかねぇ」という提案もあったりなかったりするかもしれない。いずれにしても、もし出来がよろしくなければヒカルがはじいてくれるだろうから、参加の経緯はどうあれ中身を心配する必要はない。

しかし、他人の曲を扱ってシンガーソングライターが自らの存在感をアピールするのはなかなかに難しい。これがバンドであれば、そのサウンドのカラーというものがあるので「あのバンドは誰の曲をやっても自分たちのサウンドにしちゃうんだな」と言わせる事が出来るが、ソロアーティストであるシンガーソングライターのアレンジの手札はそんなに固定されたものではない。実際、ヒカルのサウンドにもトレードマークと呼べるものはない。

そこをどう捉えるか、である。それがこの作品のテーマと言ってもいい。宇多田ヒカルのうたをカバーするにあたって、シンガーソングライターとしての自分は何をどうアピールするのか。作曲者としてのアイデンティティか、歌手としてのカラーか、それとも宇多田ファンとしての愛着か。個々のアーティストたちの音楽上の個性のみならず、アプローチの方法論にも、そこらへんの距離感みたいなものが反映されよう。できれば、ブックレットに各アーティストからの詳細なコメントがあればいいのだが、どうだろうな。



一方、「宇多田ヒカルのうた」を作った張本人は『最近言葉の無い音楽の方が心地よ』いんだそうな。やれやれ。私もインスト好きだからその気持ちはよぉくわかるつもりだが、これはそんなにいい傾向ともいえない。言葉に対する煩わしさを感じ、器楽のもつ純粋な美しさに魅了される。一言でいえば「あんまり他人に会いたくないでござる」モードなのかもしれない。そうとも限らないけれど。

とはいうものの、パブロ・カザルスのテイクを選んでいたのはどうなんだろうか。彼の演奏は透明感と深度を両立させる奇跡的な音色が主軸にあって流石に20世紀を代表する演奏家のひとりだなと思わせるが、ここまで彼ならではのサウンドが出せてしまうと、器楽演奏なのに言葉以上に雄弁で、彼の個性や人間性が前面に出ている、ともとれる。所詮は音楽なんて最初は誰かの書いたものなのだから、どこかにその人の烙印は押されているのだが。

まとめると、人に会うのは面倒だし疲れるけれど人が嫌いな訳でもない、といったところか。なんというか、いつも通りかもしれない。ヒカルのつぶやきがあると、内容如何に関わらず少し安心安堵してしまってますわ。

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つまり、ソングカバーアルバム「宇多田ヒカルのうた」は、どちらかといえばソングライターとしてのヒカルにスポットの当たる作品になる、という事、なんだが…

…それでも、どうしても歌自体、歌唱自体の比較に話が及んでしまうのは避けられないだろう。そこをクリアーする為の一案として(今回はほぼ関係ないのだが)、「ボーカロイドに歌わせてみる」という方法論がある。

既にWebには幾つもヒカルの歌を歌わせている例があるし、ヒカルの声を素材にした人力ボカロなんていうとんでもないものまである。ヒカルがツイートしたので皆さんご存知だろう。

あれをプロがやったらどうなるか、というのに興味がある。ヒカルの歌唱の完コピを目指すもよし、全く違うアプローチをとるもよし。いや別に初音ミクの声質がどうのという事じゃない。そんなだったら藤田咲連れてきて歌わせた方が早い。歌唱に匿名性を持ち込む事によって楽曲自体が再注目されるのではないか、という意味である。


ボーカロイドは今回無いにしても、例えばヒカルのコーラスをサンプリングしてそれと"共演"するなんて手法もあるかもしれない。そこまでいくとまさにリミックスだが、果たしてどこまで崩してくるのやら。好き勝手にカバー、となると、シンガーソングライターとして指名されているとはいえ自身は全く歌わない、という手法も考えられる。

そこから踏み込んで、楽曲の中でのコラボレーションがあったらどうなるか、というのは考えるに値する。これまた今回は関係ないだろうが、シンガーソングライターしばりでなく、例えば中田ヤスタカを起用したとしたら彼は単独のプロジェクトとはせず(いや彼のソロプロジェクトあるけどね)、Perfumeやきゃりーさん(石原さんちゃう方)を連れてくるだろう。どうせならそこらへんまで食指を延ばして欲しかった。


妄想ついでである。もういっちょ踏み込もう。ここからの発展企画として「宇多田ヒカルのうた・倍返し編」というのも有り得る。うわこのフレーズ懐かしいな。

どういう内容かというと、今回ヒカルの楽曲をカバーしてくれたソングライターの皆さんのオリジナル楽曲を今度はヒカルがカバーするアルバムである。どうせなら両方いっぺんに発売した方がそれこそ話題性倍返しだったと思うが、これはこれで聴いてみたくなるだろう。カバーしてもらってアプルーブも出したとなれば、ヒカルもある程度参加者の力量を認めている筈である。自らが今度はカバーする番になったとしても違和感はないだろう。

この"やりとり"によって、2人のミュージシャンがお互いをどう思っているか、どう捉えているかが伝わってくるだろう。それこそ、相性が合えばそれ以降の共作の可能性も出てくる。特に若い参加者は要注意だ。ヒカルと曲が書けるとかもう御褒美どころの話じゃない。


それはそれとして。もし仮に、「宇多田ヒカルのうた」のラインナップが所謂シンガーソングライター系で固められていたとしたら、それは即ち、宇多田ヒカルというミュージシャンが、現在のシーンにおいて、"そっち系の人"であると宣言する事にも繋がる。いや当然、ヒカル自身がタッチしている訳ではないから実際の交流は生まれないのだけれど、ヒカルが中心に居て取り囲まれている事は間違いない。

こういう、ミュージシャンとしての"体質"を知ってもらう、或いは新たに定義する事は、今後のプロモーション展開・方法論にかなりの影響を及ぼすだろう。例えば、次にヒカルが新曲を出した場合、今回参加してくれた人のラジオ番組にプロモーションにやってくる、なんて事があるかもしれない。そういう意味では参加者の普段の活動とかも気にかけていく事になるだろう。そうなれば復帰が益々楽しみになるというものだ。布石、試金石としてなかなかに優秀なアルバムである。(まだ聴いてないのに断言してしまった)

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今回は「ソングカバーアルバム」として「シンガーソングライターの皆さんに自由に」楽曲を扱ってもらう腹積もりらしいから、極普通のコピーをしてくるミュージシャンは一組もない、と考えるのが妥当だろうか。

この企画はカバーというよりリミックスと捉える方がより適当だと書いたのも、そういう側面があるからだ。ソングと銘打っているだけに、トラックの興味は歌よりそれを含めた全体のサウンドの新味という事になる。

場合によっては、"原型を留めていない"ケースもあるかもしれない。それをして許される為には人選と選曲が的確である必要がある。ただ闇雲にやってみましたではそのミュージシャンの評価を下げかねない。

宇多田ヒカルのサウンドのファンがどこまで原理主義者かはわからない。いや、そもそも宇多田ヒカルのサウンドのファンて居るのか。個々の楽曲への思い入れをそれぞれが持っている、というのがより正しい認識か。それを弄られるのをどう捉えるかもまた個々の志向によるだろう。"考えても仕方がない"レベルかもしれん。

長期的にみると、"逆カバー"が楽しみではある。今回の試みが際立った成果をあげれば、将来、ヒカルがライブで歌う時にその人のバージョンを採用するかもしれない。或いはその人をゲストに呼ぶかもしれない。フィードバックが全く無いとは言えないのである。

大胆さ、というのは匙加減が難しい。例えばAnimatoの歌詞の日本語訳は、英語のニュアンスをばっさり切り捨てて潔く翻訳していたが、これは作詞者自身だからできた事だ。もし他者の歌詞を翻訳するなら、なんとか元詞のニュアンスを残したいと四苦八苦するかもしれない。遠慮というかリスペクトというか。そこらへんが匙加減である。

ヒカルがDistanceやFlavor Of Lifeをバラードバージョンにしたように、別曲として別の名前をつけたくなるくらいに変化させてくるミュージシャンも在るかもしれない。或いは、既存曲とのマッシュアップを考えている人も居るかもしれない。

他にも、例えば、ローリング・ストーンズの"Paint It Black"に甘いワナのフレーズを挟み込む、といった逆繰り込みや、Stingのギターサンプリングを抜き去ったNever Let Goなど、様々な"ソングカバー"のアイデアが考えられる。パターンは無限大だ。


あとは、シングル・カットというか、プロモーション用のリーダー・トラックがどんなものになるかが気になる所である。前例のあまりないオフィシャルトリビュート盤の"体質"をすぐに伝えられるサウンドであって貰いたい。果たしてそうういった"代表的"なトラックがあるや否や。成否はまずそこにかかっている。膨らんだ妄想を前向きに萎ませてくれる快作を期待したい。

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駅地下デパ地下なんぞを歩いていると、ショッピングモール・フードコートの多彩さに唖然とさせられる。本当、日本の首都圏ほど食文化が豊かな地域はないのではないかという位に古今東西のお店が並んでいる北中南米の料理、アジアや中東、北南欧の料理、勿論日本料理や中華料理もある。多彩になると特化した店も出されるようになる。だからってバウムクーヘンの専門店が連続して並んでるとか凄いよね。世の中の人たちってそんなにバウム食べてるの? 大坪プロ社長が買い占めてんじゃないの??

その食文化のド派手さに負けず劣らずというか凌駕しているのが服飾店だ。デパートや駅ビルで最も売り場面積が広いのはそちら。女性にとってはお買い物といえば服飾だ。そりゃもう気合いが違いますって。メタルTシャツで済まして生きている私とは無縁の世界。

食も飾も(今回は省いたが色も)、確かに生きていく為に必要不可欠なものだから、それなりに皆購入するというのはわかるのだが、そこまで多様性がある必要があるのかといえば勿論NOで、日本人というのは庶民が随分食文化や飾文化を謳歌している民族であるなぁと痛感する。


一方、音楽文化、音文化はどうか。今やショッピングモールでは端っこの方に1店舗CDショップと楽器店がある程度。そこも人はあんまり居ない。配信で買えるんだからと言おうとしても、配信市場が伸びている話は聞かない。いやいや、そんなレベルの話じゃないでしょ。

食や飾に関しては隆盛を極めているこの国でも、音文化の割合はそんなもんだ。「そんなもんだよね。」と頷かれる事を承知で敢えて言うと、もしかしたらもっと豊かになれるんじゃないのと思う。

CDショップが一軒だけなんて寂しい。そりゃあ西新宿にでも行けば沢山の(随分減ったけど)店舗が待ち構えているが、そういう事じゃなく、駅前駅ナカ商店街に和食屋中華屋洋食屋と居並んでいるように、ロック専門店、クラシック専門店、ジャズ専門店、アニソン専門店、、、という風に、各ジャンル毎にお店が並んでるくらいの規模で音楽が聴かれている文化があってもいいんじゃないかと。特定の地域がそうなっている、というのではなく、どこの街にも吉野家とマクドナルドがあるように、音楽を売る店がたくさん…


…言っててちょっと虚しい(笑)。兎に角、現状はそうなってはいないが、しかし、その割にイヤフォンつけてる人って結構多いんだよね。本を読んでる人、ゲームしてる人、メッセージ打ってる人に較べて少ないとも思えない。需要が無い訳じゃなくって、何かどこかボタンを掛け違って街中からCDショップが消えてしまったんじゃないかと、そう思う。

そういう感情モードの時に、「宇多田ヒカル店舗予約特典企画」と銘打って試聴会参加者募集してくれる話をきくと、「おぉ~、是非盛り上がって欲しいねぇ」としみじみ思えてくる。あの特設ページにずらりと居並んだ店舗名リスト。凄い数に見えるが、実はあれで"日本に存在するCDショップ全部"のうちのかなりの割合(多分、半分近く)の名前が挙がっているのだ。一億二千万人も人口が居るこの国の。そう考えると、うら寂しい。コンビニなんて万単位で存在するのにね。そういった、"風前の灯火"となった「街のCD屋さん」を元気づける今回の企画は、成功を願わずには居られない。

しかし、、、やっぱり冷静に考えると、色々と無理があるかなぁとも思う。その理由をつらつらと書いてみたいが、取り敢えず、ラインナップの発表まで待ってみよう。もしかしたら、「嗚呼それなら先行試聴会行きたいかも」と皆が思えるような面子と選曲、コンセプトなのかもしれないのだからね。

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ソングカバーアルバムのリスクとメリットを考えてみたい。

メリットは、言うまでもなく「繋ぎ」である。ただ空いた時間を埋めるというのではなく、First Love15周年記念盤に顕著なように、過去に宇多田ヒカルという看板が何を成し遂げてきたかを今のリスナーに再確認してもらう、或いは新たに学んでもらう機会を提供する事によって、過去と現在、そして未来を途絶えさせずに繋げていく「繋ぎ」だ。

となると、参加してもらうメンバーは出来るだけ現役感のある人たちという事になるだろう。ヒカルより後の世代のミュージシャンたちを起用するのは重要だ。自分の尊敬するミュージシャンが更に尊敬するミュージシャンて一体どんなだろう?と興味を持ってもらえれば成功である。

また、勿論、若い頃に聴いていたなぁと懐かしがってくれる層にもアピールしたい。そう考えると、今回のソングカバーアルバムは、現役のミュージシャンたちに宣伝を手伝ってもらう宇多田ヒカルのベスト・アルバムのようなものだ。

勿論、ただのベストアルバムをリリースするのはヒカルとしては難色を示すしかないし、レコード会社の方だって面白くないだろう。既存のトラックを再発売するのであれば、Luv LiveをつけてきたFL15ほどではなくても、何らかの大きな付加価値が必要になる。そこらへんの調整も考えた上でのソングカバーアルバムだ。

デメリット、或いはリスクはそういった所から付随して出現するだろう。それは、宣伝規模とも関係してくる。宇多田ヒカルという看板を酷使した挙げ句売れませんでしたではヒカルのオワコンイメージが促進されてしまう。ヒカルは何もしていないのに評価が下がるというのは避けたい。余計なことしてくれたな、てなもんである。

ただ、たとえ売れなくとも、これを機にミュージシャンたちの間で宇多田再評価の機運が盛り上がるかもしれない。案外これがバカに出来ない。直接的なところでは、ミュージシャンたちは大抵自らのラジオ番組を持っていて、そこで好きな曲をかけている。そこの選曲にヒカルが今まで以上に入ってくるとなるとなかなかの宣伝になる。

また、スタジオミュージシャンたちとの繋がりが広がるのも大きい。スタジオレコーディング、ライブともやはり国内ミュージシャンに声をかけやすいかどうかは活動のスムーズさに大きく影響する。こんなサックスソロを録りたいんだけど誰か居ない?みたいな時に向こうが宇多田曲を知ってくれていたらなかなかである。

要は、売れれば大丈夫なのだ。ただ、今はどれくらいの売上なら成功といえるかが難しい。それこそメディアの匙加減ひとつなのだが、取り敢えずオリコン初登場トップ10入りなら面目は保たれるかな。もし仮に売れなかったとしても、「これは宇多田ヒカル自身は関わっていないから評価とは関係ない」という空気が出来ていれば御の字だ。まぁそこそこ気楽に構えていようと思う。

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さて昨夜は(本当に)余計なエントリーを書いた。激しく後悔しているが読者が「それな」と思ってくれたならまぁいいかな。(笑)


ああいった"妄想と期待"は別にして、では実際の選曲は、という"予想"は難しい。これは書いて後悔する類の話ではないが、あとで読んだ時に「的外れな事書いてんな~」と苦笑する事は請け合いである。

前提から行こう。果たして全曲新録かどうか。まずはそこからだ。レーベルを超えて人が集まるというのだから、既に発売されている昔のカバーソングのテイクを収録してもなんら不思議ではない。当欄でも取り上げた槇原敬之のtravelingとか浜崎貴志の光など皆がお馴染みのものも多いが、それらをCDで持っている人、となるとそんなに居ないのではないか。若いファンは存在すら知らないかもしれない。既発テイクの再録自体は、十二分に意義のある事だと考える。

しかし、流石に全曲が既発テイクだとまずいだろう。格好をつくるには、最低限、3つくらいのテイクは新録で、かつビッグネームである必要がある。裏を返せば、そこさえ踏まえておけば、残りが既発テイクだろうが無名ミュージシャンだろうが大丈夫だ。今の世の中、ポータルサイトやゲームサイト、まとめブログなどの見出しに収まるようなわかりやすいセールスポイントだ。「宇多田カバー作に○○参加」の○○に誰かビッグネームを入れられれば正解である。収まる。

ここで「宇多田カバー作に浜崎参加」と見出しをつけて浜崎あゆみとはやとちリミックスされるのがいちばんいけない。FLYING KIDSの方だからな。そんなつまらない冗談はさておき。本当につまらない冗談をつまらないって言い切ると結構凹むなこれ。

では、誰がいいかといえば、それこそ前回のエントリーで挙げたような人たちだ。UAは歌手活動してるか知らないしW小野は知名度が低いしヲチさんはちゃんとSuperflyと書かないと通じないだろうが、それ以外の人たちなら大丈夫なんじゃないかな。ここから3人無作為に抽出して看板にするのを想像してみる…悪くない。

カバー自体はした事があるけれど正式な音源になっていない、というケースを改めてスタジオ録音する、というパターンも考えられる。何より、声がかけやすい。桑田佳祐のFlavor Of Lifeや安室奈美恵の蹴っ飛ばせ!(昨日はビックリマークを落としてしまった)なんかがスタジオ録音されれば、それもまたある程度特別になるだろう。今言ったようにこれは実現可能性が高いという意味でありえる話だ。もっとも、今というタイミングでスタジオに入る理由を説得的に示さなければならないだろうが。

他に、"カバーの達人"たちに対する希望もあるかもしれない。カバーアルバムで名の知られたミュージシャンたちだ。徳永英明なんかオリジナル・アルバムより売れてシリーズ化してしまった。それならエリック・マーティンにも歌わせてみたい…とHR/HMファンの私なんかは考えてしまうが、この路線は幾つか危険性を孕んでいる。特に、AutomaticやFirst Loveなどをこの人たちが歌ってしまうと何の意外性もないし、場合によっては有難味もない。よほど人選と曲選択の掛け算を吟味しないと安っぽい印象を与える事になる。既発曲となると尚更で、穴埋め程度にしか受け取られないかもしれない。上記のように「看板歌手3人衆」が鉄板だったりすれば、うまく風よけになって批評を免れるかもしれないが。とみに気をつけて欲しいところだ。

また、ヒカルもデビュー19周年という事で、ヒカルに憧れてデビューした世代も一線級で活躍し始めているが、彼女たちにカバーさせるのは危険である。彼女たちはヒカルのファンであるが故に、楽曲を大切にし過ぎるきらいがある。つまり、この曲はこうだという先入観が固まりすぎていて、歌唱がオリジナルと変わらないおそれがあるからだ。こうなると全員、もれなく全員が"ヒカルの劣化コピー"を歌うだけになる。それはそれでそのアーティストのファンは嬉しいかもしれないが、ヒカルのファンの方のウケはそんなによくないだろう。「あぁ、ファンなのね。」という共感と好感を呼べるというのはメリットだが。そちらに傾くのであれば、もう思い切ってヒカルの歌唱を完コピする方向に走った方がいいかもしれない。だったらミラクルひかるを連れてきてマジ歌唱させればいいのだが、一般的なリスナーがそのテイクをシリアスに捉えてくれるかは疑問だし、他の人たちとの親和性も難しい。このエリアを攻略するのは難儀だぞ。


…という感じで実際に一枚の作品としてソングカバーアルバムを成立させるのはかなり大変だ。しかもこれはただの構想段階の話。実地にこれらをひとつひとつ形にしていく作業の困難は想像を絶する。どうか読者の皆さんにおかれましては、今回の企画盤の人選と選曲を生暖かい目と目で見守っておいて欲しいなと思う次第であります。m(_ _)m

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ほらほら、ラインナップ発表が遅いとどうしてもこういうの考えちゃうんだよ…そりゃ妄想も膨らみますもん…。

今回はかなりド直球で考えてみた。読んだ人がすぐ想像できるようなわかりやすさを優先したのでベストかどうかはまだわかんない。取り敢えず妄想第1弾という事でこんな感じで如何でしょうか↓↓↓


***** *****


偽「宇多田ヒカルのうた」

01. aiko/光
02. 松田聖子/Eternally
03. 桑田佳祐/Be My Last
04. 井上陽水/虹色バス
05. 桜井和寿/蹴っ飛ばせ
06. 安室奈美恵/Kiss&Cry
07. UA/日曜の朝
08. 玉置浩二/桜流し
09. 小野正利/FINAL DISTANCE
10. 木村拓哉&福山雅治/Celebrate
11. 大黒摩季/This Is Love
12. 小野リサ/WINGS
13. 吉田美和/Can't Wait 'Til Christmas
14. 越智志帆/Show Me Love
15. 椎名林檎/Fight The Blues


***** *****


最後の一曲のみややマニアックかな? 勿論Lettersでよかったんだけどねぇ。これだけのラインナップが揃ってたら余裕で売れるっしょ(笑)。ま、単なるお遊びの冗談なので軽く受け流してくださいな。いや、どれも本気で聴きたいんだけどねそりゃあ。皆もそう思わん?

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極普通の「トリビュートアルバム」なら幾つもみてきた。LAで暇を持て余したミュージシャンたちが小遣い稼ぎにレーベルの物好きな人の提案にのっかってワンテイクだけ録音して去っていっただけ、みたいなの。別にそれで構わないのだ。「あの人の書いた曲をこの人が歌ったらどうなるだろう?」という素朴な興味に対して「実際にやってみましたよ」とトラックを寄越してくれたらいい。tributeという仰々しい響きの割に、本当に気楽なものだし、こっちとしても軽い気持ちで聴ける。

そこを特設サイトを作って試聴会の応募をして、となってるから無駄にハードルあがっちゃうよ、というのが前回までの話。ラインナップ発表が遅れれば遅れる程妄想と期待と噂が膨れ上がって落胆が大きくなるよ、とも言った。

でもまぁこうなってしまったものは仕方がない。実際、感触として、いつもなら「ここの読者なんだからこれは当然購入しているだろう」という前提で話を進めている所を今回ばかりは「半分以上の人は買っていない」体で話を進めなきゃいけないかもな、というのがある。私は当然買うんだが。

そこに、ギャップがあるんだよなぁ。予定通り、発売までは難癖と愚痴を書き続けるが、いざ発売となって音源を聴いたら私は多分ノリノリであろう。ヒカルの曲がズラリと並んでいるだけで嬉しくなる人間だ。オルゴールバージョンとかもついつい買ってしまう。そりゃあ、テンションが高い。

ただ、そこで分水嶺となる基準があって。「ヒカルがダメ出しをしたかどうか」だ。そもそも、報告は受けていても出来上がりに対して口を挟んでいない可能性が高い。梶さんの口調だと、ヒカルの名前はクレジットに記載されない感じなのだ。例えば一回聴いて「いいんじゃない?」「ダメかなぁ」と一言添えるだけでも"監修"とか"監修補"みたいなクレジットがつく。というかつけられる。それをしていないという事か。もし仮にヒカルがOK&GOサインを出したトラックのみ収録されているとしたらクォリティーは保証されたも同然だ。安心して聴けるというもの。しかし今回それはなさそうなのだ。まぁ仕方がないか。

唯一、ヒカルがクレジットされそうな役職といえば"エグゼクティブ・プロデューサー"、つまり名誉職である。彼女が居なきゃ始まらない企画だったんだからな。それでもいい。

ただ、一度口を挟むとどこまでも深入りしてしまうだろうから入口に入る前に踏みとどまっていただろう。大体は事後報告に、なるんだろうね。


ひとつ、楽しみ方のコツというのを。残念ながら歌唱力に関してはヒカルを上回る人は居ない。宇多田ヒカルの歌を歌わせたら宇多田ヒカルが宇宙一なのだ。グリーンデイの歌を歌わせたらグリーンデイが宇宙一ではない事を知っている皆さんなら、これが非自明かつ真実である事を感じ取ってくれるだろう。難しい文章だな。

しかし、それぞれの歌に合ったアレンジを、各自が施してきて、それぞれの持ち味を競う形にはなっているだろう。即ち、何が言いたいかといえば、今回の企画盤は「カバーアルバム」というより「リミックス・アルバム」のつもりで聴いた方が楽しめるかもよという事だ。

カバーというとどうしても歌の比較に行ってしまいがちだが、今回はすっぱりすっかりすっきりそこを諦めて(笑)、アレンジやサウンドがオリジナルとどう違うのか、というのを聴く方向でいけば、ヒカルが歌っていない事もあまり気にならなくなるのではないかと。普通リミックスといってもヴォーカルはあまり変わらないものだが(歌を固定するからリミックスサウンドのオリジナルとの違いが際立つんだ)、今回は歌自体までリミックスの餌食になっていると思えばよい。

その点、基準がひとつある。誰かひとりでも、ヒカルの実際のバックコーラストラックを従えて歌ってみてはくれていないだろうかな。大体、カバーというのは演奏をいちからやりなおすものだが、今回の企画盤の最も異質な点は、オフィシャルからの提案だったという事だ。何が可能になるかといえば、ヒカルの持っている既存の素材を使いたいと申し出たらもしかしたらOKが出るかもしれない、という事だ。ヒカルのバックコーラスの流用はその最たるもの。誰か本当にやっててくれんかねぇ。

という訳で、テンションのなかなか上がらない人たちも、無理しないで(笑)、しばし私の難癖と愚痴に付き合っていって欲しい。たぶん発売になる頃にはこの企画盤に妙な愛着みたいなもんが湧いてきてると思うから。ふふふ。

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「歌に関しては劣化バージョンしか期待できない」とは我ながら随分と酷い言いようだなとは思うがそれがプロのキツい所だ。素人であれば「にしては上手い」とか言えるんだけど、プロフェッショナルとしての看板を掲げるからにはヒカルと同じ土俵に立たなくてはならない。注釈付きの評価なんて意味を成さない。

これも、売り出す方が「メンツは豪華だけどもあクマで皆さんお気楽に集まって楽しんで作ったものですよ~」というノリで来てくれてたんならこちらもそのつもりで待てるのに全国規模の試聴会を開いてしまうと言う。日時や場所も当選者にしか知らさない、録音録画は勿論御法度、というなんかこちらが緊張してしまうセッティングである。中身についてもついつい大真面目に評価がしたくなってしまう。一体どっちなんだろう。

試聴会に当選すればそこらへんの感覚もいち早く把握できるのだから皆さん応募しましょうね…ってそういえば試聴会々場ってどんなんだろうね。どのくらいのキャパ、即ちどのくらいの当選確率なのだろう。

小耳に挟んだところによると、会場指定は東京大阪名古屋福岡の4ヶ所らしい。どうして札幌がないんだと突っ込みつつまずは頭に浮かぶのがZeppだ。全国5都市6ヶ所にほぼ同じシステムのライブハウスがある。

Zeppシリーズは全席座席にした場合キャパシティは800~1200人程度。もし仮に試聴会々場がZeppだったりしたら当選者数は4000人前後となる。うぅむ、この人数だと応募者全員、とまではいかなくともかなりの確率で当選しちゃわないか? 大丈夫? …となるので、Zeppは会場候補としては大きすぎるかな…。

そもそも、このアルバム何枚売れるだろう? そのうち、店頭予約までして買ってくれる人の割合は? FL15は1万5000セットを完売出来なかった。1万セットまでは売り切れたとみるべきだろう。ソングカバーアルバムをリリースするとして、まずはこの層に買って貰う事を考えなくてはならない。

しかし、全国の大都市4ヶ所のみとすると(くどいようだがこれは未確認情報なのであクマでも仮定の話である)どれだけ購買意欲の高い人でも今回は見送るというのケースが多いのではないか。ヒカルの歌声が聴けるなら一刻も早く、と思える人でも他の人のカバーとなるとまた話は違うだろう。

勿論、これから発表される参加者名簿によっては随分話題にはなろう。しかし、私は邦楽ファンの体質はよくわかっていないが、例えばこういうコンピレーションに自分の応援するアーティストが参加したとして、アルバム一枚買うかねぇ? 殆どの人が配信かレンタルで済ますんとちゃうか。まだまだ配信購入が定着していないこの国では"仕方なく"CDアルバムを購入する、というケースも結構あるだろうが…。

なんて事を考えると、このアルバムが一万枚とかを売るのは結構厳しいような気がする。それでも、例えば今週のオリコンアルバムチャートを見てみれば1位の売上が1万7千枚余りなんだから(SLIPKNOTな)、週によってはしっかりTOP10に入ってはくるだろうし、それはそれで快挙なんだけれど、特設ページをオフィシャルで作ってまでしてこう、という意地悪な見方もできる。何とも難しい。


いずれにせよそこらへんは総てラインナップ次第なのだから、来月の発表を待つ事にしよう。それ自体は本当に楽しみだわ。

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今回は「いやいや、幾ら何でも10月下旬時点で参加アーティスト最終決定してないとかないからw 多分別の理由があるんだよ~」という書き出しで始めようと思ってたのにこれである。「まだラインナップ最終調整中」だそうだ。

これ、どういう意味なんだろう? デッドラインは今月末或いは来週末だろう。発表が11月になる、というのはつまりそれまでにはどう足掻いても決めて居ざるを得ないという事だ。それまでにまだ新たにレコーディングするアーティストが居てくれるかもしれないという事? それとも今までにせっかくレコーディングしてもらった幾つかを落選させなきゃいけないということ? 前者ならかなり無茶だし、後者なら残念だ。

いや別に現時点で完パケが出来てなくったっていい。締切ギリギリでもこれから一週間で仕上がればいいんだから。それが"発表できない"ってのは「まだダメになるかもしれない可能性が残っている」のだろう。いやはや、何とも綱渡り。

推測だが、当初はこんな予定ではなく、10月21日の時点で総て発表するつもりだったのではないか。そこにアクシデントが発生し、先行試聴会の募集もあるしという事で中途半端な発表になってしまった、と。

となると、理由は何なのか。今現在体調を崩していてまだレコーディングにまで持ち込めてないとかアレンジが間に合ってないとかなのかな。うーん、いずれにせよ、この形が"望ましかった"わけではないようだ。


こうなってくると、期待のハードルを随分下げよう、という気になってくる。当初は「こういう企画は難しい」と言おうと思ってたんだけど、そこまでハイレベルな要求をする必要はなさそうだ。名前のある人がヒカルの歌を唄う。ただそれだけだと。

そうなってくると、やはり中には既発曲もあるのかなという発想にもなってくる。こっちも配信とかで買ってたりするからまとめてCDにしてくれると有り難い。そういう利便性は案外大事である。

という訳で、今日のスタッ・コメントで試聴会に対する期待値は下げておく。恐らく、ここらへんで勝負するのがいいだろう。「果たしてWebの"歌ってみた"に勝てるか?」

ご存知のように今や動画サイトはカバーの宝庫である。99%以上がただの自己満足のカラオケだが、なかにはなかなかいいアイデアのものもある。母数が莫大なだけに、その殆どが"ゴミ"(敢えてそう言っておこう、実際には99%以上の人々は私より歌が上手いんだから本当は私そんな風に思えてないんだけど)であろうとも、キラリと光る宝石が紛れ込む確率は相当なものなのだ。

いやいや、名の売れたプロのミュージシャンと素人を較べてはいけない。雲泥の差がある。その通り。プロの歌は素晴らしいよ―という意見に反論は全く無いのだが、それでも敢えてこう言っておこう。それは宇多田ヒカルの歌唱力を侮り過ぎている、と。

彼女のオリジナル・パフォーマンスは桁外れのクォリティーである。ぶっちゃけ、並みのプロ・ミュージシャンがカバーしたとしても素人と五十歩百歩だ。二倍上手くてもヒカルはその百倍上手いのだから。何が言いたいかといえば、生半可に上手いだけの歌を聞かされてもこちらはただの"劣化バージョン"を手に入れるに過ぎないのだ。そこが今回の企画の一番の難点である。

歌唱力に関しては、殆どのケースで期待が出来ない。クラシックや演歌の人連れてきてるんだったら別だけど。寧ろそれより、どう"曲を変えて"くるかが大事だ。要はその人とヒカルの曲との化学反応はどうなるのか、と。例えばTHE HIGH-LOWSがキーを落としてDISTANCEやBeautiful Worldを疾走パンクで歌ったらどうなるかとか、そういうのが聴いてみたい。

こういったアイデアを、提案するのだけでも難儀だが、それらを総てオーガナイズして「一枚のアルバムとしてひとつの世界が形作られる」のは、もう殆ど絶望的である。あと一週間なのにラインナップが定まっていないのだから。まぁだから、「プロによる"宇多田歌ってみた"が幾つか入ってるアルバム」というくらいに捉えておいた方がいいのかもしれない。それでもやっぱり楽しみで仕方がないんだけどな私は。ヒカルの書いた曲大好きだから。

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