無意識日記
宇多田光 word:i_
 



期待はしている。しかし何かを託す気はない。何かを変えて欲しいとも思っていない。ただ、歌って欲しい。それだけだ。そして、それを『仕事の話』だとヒカルは言う。俺は彼女に「働け」と言っているのか。そうだな。

この10年は、ライト・ファンがコア・ファンに負け続ける10年だった。アイドルの為に、アイドルの為に何十万円何百万円とつぎ込む。アニメの円盤を買い漁るガチ勢。印籠のように繰り出される「経済を回してるわだ」の決まり文句。愛情や拘りの深さが、悉く数値化されて、軽くて吹き飛ぶものは総て駆逐されていった。

安心してください、ヒカルさんは、そういう人を求めてはいません、きっと。「DEEP RIVER」の頃から言っている、「何の気なしに聴いて気に入ってもらえれば」と。そういうスピリットでずっとやってきた。同じCDを5枚も10枚も買うような輩に用は無い―(…悪かったな、10枚はないけど5枚は幾つかあるわ…)。

なので、数字としては多分負けるだろう。普通に計算して勝ち目はない。ライト層の多くがタダに慣れた。今更音楽になんぞ金を使うものか。でも宇多田の歌は悪くない。そんな人、歌が気に入ったなら、東北の復興に力を貸してみませんか。ふむ、危ういまとめ方。

それがU-turn Projectの一端だが、今のところ表立って叩かれてはいない。このまま行って欲しい。


今週の私は、どうやらその「ライト・ファンのスタンス」にアジャストしようともがいていたようだ。なるほど、あほっぽいツンデレと申しますか。5年以上待ち焦がれていたのに「いや、どうという事はないよ、WILD LIFEやIn The Fleshもリリースされたし、桜流しは素晴らしかったし、ラジオは一年続いたし、First LoveにLuv Liveまでついてきたし、井上陽水は相変わらずお元気だったし、この5年も案外盛り沢山だったでしょ。」という顔をし続けてきた。

で、何かが変わるのだ。何かを変えて欲しいとは思っいないが、ヒカルが復帰を果たす事で、何かが確実に変わる。それが何なのかはわからない。直感だ。

誰かの目を覚まして欲しい訳でもなく、誰かの鼻をあかして欲しい訳でもなく、誰かの溜飲も下げなくていいし、何の代理戦争に貢献する必要もない。歌ったら歌った分だけ、変わる。それが出来るならこの5年は肯定である。成果。それはさりげなく見られるだろう。

何もかも削ぎ落としてシンプルに、新しい歌を期待する。後の事は後の事だ。4月4日だけでも、過去のヒカルを忘れられたらなと思う。しかしそれは叶わない。少しでも純化した「今」を、取り戻そう。ふわふわ、ひらり。桜が満開になるまで、あと少し。

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年度末で思い出すのはやっぱり「Single Collection Vol.1」、通称「宇多田ヒカルの"思春期"」だ。12年前、もう干支を一回りしたのか、水曜日だったとはいえギリギリのリリースで随分とあからさまだなぁと思ったが、結局年間最高売上アルバムとなった。半年後の「EXODUS」と合わせて、納税額からいえばHikaruが最も稼いだ年である。

ヒカルのバックカタログで群を抜いて売れているのがこのアルバムで、私も流石につい昨年の某新古書店年間売上第1位がシンコレ1だと聞いて「そ、そこまで!?」と吃驚した覚えがある。ヒカルがメディアに取り上げられる度にiTunes Storeで真っ先にチャートを駆け上がるのもこの作品で、今となっては「First Love」アルバム以上にヒカルの"顔"となった作品だ。そして、Vol.2と同様に、ジャケットがヒカルの顔じゃない。

アーティスト側の心境としては複雑かもしれないが、先述の新古書店売上からもわかる通り、「いちばん売れた人のいちばんのベストアルバム」という認識で買われている。DISTANCEもDeep Riverも入っていなくてベストアルバムって、なんていう不服は吹いて消し飛ぶ。極論すれば、日本人にとって「アルバムを買ってみよう」「CDを買ってみよう」となった時に一番目の選択肢となりえる作品だという事だ。歴代で、な。そういう意味では日本で最も重要なアルバムかもしれない。フィジカルかレンタルか配信かという区別をなくせば、所持数はFirst Loveアルバムとどちらが上か、なんて話すら考えたくなってくる。スケールの大きな話だなーもー。

今や売れるものは組織的なバックアップを強固にしたものばかり。秋元康、ジャニーズ、EXILEの中の人(誰だっけ)等々。個人事務所のたった1人のシンガー・ソングライターが存在感を発揮できる時代ではない。単純に、露出が継続できないのだ。来週からヒカルが復帰したからといっても、そこまでアウトプットが増える訳ではない。裏方が本業とすらいえる人にどこまで日向の仕事をこなせるか。限度ってものがある。

でも、こんな「一番最初に手に取るアルバム」を一枚でも作ってしまった人への期待というのは、大きい。ジレンマというと違うのだが、集団でないからこその選択肢の低減即ち選択コストの大幅な減少のメリットを前面に押し出すのが逆説的な時代への返答かもしれない。「これさえ買っときゃいい。」、そう言われる仕事を、我々皆が待っている。

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さて、そろそろ年度末だ。来週を迎えるにあたり緊張しないように自分を仕向けている。桜流しから数えても3年半ぶりの新曲なのだから。できるだけ自分を、ゆるくする。

走り出したら暫くは止まらないだろう。特に何をするでもないが、それは気ばかり焦らせる。どうという事はない、どうという事はない。


アイアン・メイデンのスティーヴ・ハリスがステージで滑って転けたというどうでもいいニュースがブラバマウスに掲載されていた。ご丁寧にその瞬間を撮影したファンによる動画まで埋め込んで。そちらはどうという事はないのだが、それ以上取るに足らない出来事を書いた後に生まれた隙間を埋める為に引用されたインタビューを読んで考え込んでしまった。これから先、引退や解散はどうなるか、バンドをやっていない自分を想像できるか、等々。

彼も今月の12日で60歳になった。来月には8年ぶりの来日公演がある。震災が影響しているのだから単純計算に何の意味もないが、次が8年後だったりしたらもう日本にはやって来ないかもしれない。日本での人気は大した事が無いのである。切り捨てられても文句は言えない。寧ろ来月、日本公演の後の中国公演の波及効果の方が命運を左右するかもしれないのだ。

つまりだ。事によると。来月の公演が、私があのバンドを観れる最後になってしまうかもしれぬと考えた訳だ。一生、である。無論その可能性は低いが、徐々に現実味を増しつつある。いつも、ブルース・ディッキンソンの操縦するジャンボ・ジェット、エド・フォース・ワンが墜落したら伝説になるなと想像しては打ち消している。それでなくても、来月の来日公演すら無事に行われるかわからない。


考え始めたらキリがない。


しかし、考えてしまうのである。もうそう多くはない、と。


ヒカルの方はまだ33歳だ。ソロシンガーだ。解散なんかの心配は要らない。まだこれから30年やったって不自然ではない。私の方が年上だから、心配自体馬鹿馬鹿しいのかもしれない。それでも、もう17年が経ったのかと考えてしまう。

ついついがっつく事を考える。すわ、一挙手一投足一つとて見逃すまい、と。それがもしかしたら"自然"なのかもしれない。でも、ゆるく行きたいのだ。ただただ楽しめれば、と思う。

未来を考えても仕方がない。来週の事さえ見えていないのだから。ただ、なんだろう、たとえこれから50年続こうと、「もうそんなに多くない」「もうそれほど長くない」という感覚がつきまとう。それ位に最初の12年が濃密だったのだ。

ヒカルが何を持ち出してくるか。テーマである。生きるテーマ。それさえ見れれば晴れる。いつわかるのか。わからない。

結局、あの圧倒的な優しさにまた包まれてみたいだけなのかもしれない。でも、そうなってみないとわからない。


冗談を言う準備だけ、しておこう。いつもセンス・オブ・ユーモアが足りないと自分自身に対して思う。当意即妙な切り返し。憧れる。できたらいいな、と思っている時点で頼りない、情けない。脳味噌の歯車の位置をいじくりまわしながら、宇多田ヒカルの呟くジョークへの準備だけは、しておこうと思う。それ以外はただただ起こる事に驚き、戸惑い、あたふたしながらついていこうかと。もう若くないなと痛感するさ。

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「あさが来た」が終わりに近づいてくるのを見ながら今から「ととロス」の心配をしてみるなど。いや最後まで観てたらの話ですが。

まだよくわかっていないが、かの「暮しの手帖」を発行だか編集だかした人の物語だという話。ヒカルも結構感情移入出来るのではないか。定期購読誌となるとまた話は違うのだろうが、7年前にヒカルは編集長として「点」&「線」の出版に携わった。それまでの人生の中でいちばん多忙な日々を過ごしたという。一冊の書籍を世に問う迄にどれだけの労力が必要かを知っている身としては「とと姉ちゃん」に感情移入しない訳にもいかなくもないかもわからない。

女性の社会進出をテーマとして多く持ちながら長らく放送時間を「夫とこどもを送り出してやっと一息つけてる主婦」を想定して設定しているところにこの枠の意義があるのだが、ヒカルにはきっとずっと無関係な枠だったのではないかと踏んでいる。まず、この時間帯に起きてテレビをつけているか。つけていたとしてもNHKに行くかというと、ねぇ。更にそれが毎日ともなれば。とはいえテトリス・マニアである事を級友に隠していた経歴を持つのでまだまだ「実は」なカミングアウトが待ち受けているかもしれませんがね。

リベラル、という言葉が陳腐化して久しいが、若い子たちには「昇り調子の国」のイメージがわかないかもわからない。それこそ、我々が幕末の時代劇を見るような調子で戦後の復興の物語を眺めるだろう。「あさが来た」くらい古いとすんなり「昔はこうだったのか」と納得できる(いやでもフィクションですけどね)のだが、暮しの手帖の時代となるとどうだか。今と地続きな感触は、あるのだろうか。

『花束を君に』のもつロマンティシズムは、その昭和っぽい雰囲気をうまく捉えている。ヒカルの曲であるという前提が必要だが、仮にタイトルが「君に花束を」だったとすれば、それは叶わぬ希望を歌った歌だった可能性がある。「君に花束を(贈りたかった筈なのに)」という具合だ。『花束を君に』だと、まず花束をサッと取り出してから「君に贈るよ」と差し出すような感触になる。誰の作品にでも適用できる感覚ではないけれど、ヒカルの歌詞だとこうなるのではないかと。

確かに、そういう希望に満ちた感覚だからこそ昭和の高度成長を目前にした空気に符合するようにみえる。それは、震災からの復興が軌道に乗ってくれればという希望にもまた重なるやもしれぬ。あからさまなロマンティシズムが反感を買う予感はあるにせよ、「そういうドラマだし」と庇ってくれる展開も予想できる。持ちつ持たれつ。出来ればしっかりタッグを組んでこれからの半年間を走り抜けてうただきたい。

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前回の日記は何だったのやら。クリティカルな内容である事は間違いないが別に今言わなくてもねぇ。

来週の月曜日、いつどうやって主題歌を聴くか思案中。BS7時30分は時間的にも結構難しいので、8時に聴いて急いで朝の日記を書くべきか。否、それだとドラマの中身が頭に入らない。確かに、私の立場(?)として、『花束を君に』だけを聴いて感想を書くのが期待されている所だろうが、そこまで急ぐ必要はあるのかとも思う。一方、では無関係な月曜日の朝と夜の日記を読むのも何だか居心地が悪い。確かに、1日休みを取ってしまうのも1つの手だなとは思う。

私は急がない。人より先に聴きたいとも思わない。自分としては一刻も早く聴きたいが、焦りは確かに禁物だ。月曜日の夜ゆっくり一息吐いて、フレグランスティーでも煎れながら『花束を君に』をしみじみと聴くのも悪くない。或いは、月曜日は朝晩の日記をお休みしてしまおうかとも考える。案外この案でいいかもしれない。ひとまず感想が出揃った所で、私ものんびり書くのである。うむ、こちらも、悪くない。

本音を言えば、初聴からフルコーラスを堪能したい。どうにも、僅かな断片を聴かされてしまうのは、残りの部分に対する興醒めを生むような。程度の問題だが、This Is LoveもBeautiful Worldも最初に数十秒聴いた時点で言いたい事を言ってしまっていた。フルコーラスで聴く頃には随分と落ち着いていて、補足を書き足す程度で十分だった。ならば今回も、テレビで流れる分だけを聴いて、しこたま語ったら既に7,8割、という事も有り得る。ならば尚更その数十秒にはじっくりと耳を傾けたい。


…誰も興味を持たない自分語りをしている気がする。或いは、ただただ独り言。しかし、皆少しずつ似たような事を感じてはいまいか。『花束を君に』、ファースト・コンタクトは一体どうしようかという悩み。今度、もう少し考えてみたい。


どうでもいい追伸を2つほど。『花束を君に』。『君に花束を』にしなかった理由をゆっくり考える。もうひとつ。この歌の愛称って何になるやら。トラベとかキャンシーとかダレカノとかそういうヤツね。ハナキミはなんか違う気がするがやっぱこれになるかねぇ。ハナタバはわかりやすいけど、この曲っぽくない。まだ一度も聴いていないのに、言う。歌詞次第ではブーケとかそういうのでいい気がしなくもない。そう考えるとCan You Keep A Secret?の事最初に『キャンシー』って言った人凄いな。I can seeじゃ、ないんだぜ?

さてこんな所。語るだけ語って、また後で考える。そういえば4月4日はONE PIECEと暗殺教室の新刊も出るんだっけか。どんだけ忙しい1日になるねんなこれ。

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「あさが来た」が終わったら「とと姉ちゃん」が始まるのか~。高視聴率番組の次の第1回はただでさえ視聴率が高いというのに久々の宇多田ヒカルの新曲が聴けるとあっては。その後は必然的に視聴率が下がる。で叩かれる。これを無視すればいいのだが、怖いのは二次被害だ。その叩いてる人の言葉を読んで「そうか、つまらないのか」と思う人がどうしても出てくる。そうなると無視出来なくなってくる。

これは総ての分野で言える事だ。元々は2ちゃんねるのような「匿名だからこそ書ける叩き芸」みたいなもので、よく言われるように「便所の落書き」だった。なので読む方もまるで真剣に取り合わなかった。そりゃ人間機嫌が悪くて何の根拠もなしに当たり散らしたくなる事もあるよね、と。いっても飲み屋のくだまきトーク程度の認識しかなかった。

昔はそれでよかったのだが、徐々に多くの人々がインターネットに親しむにつれ状況が変わってくる。「便所の落書き」の芸風の文章がまとめブログやSNSやポータルサイトのコメント欄などでいつのまにか「ひなた」に出てくるようになったのだ。流石に昔からインターネットに親しんでる層は相変わらず取り合わなかったのだが、「木訥な一般市民」の皆さんは「そうなのか」と信じてしまう。そしていつのまにかそれが「ネット世論」として認知されるようになってきた。今やその規模は数十万人レベルから数百万人レベルへと移行し、そろそろ旧媒体(新聞雑誌テレビラジオ等々)と変わらなくなってきている。

しかも、インターネット"のみ"にアクセスするのは10代の若者たちだ。大人であれば自分でアフォードして多様な意見を取り込めるがインターネットは“無料”という金科玉条がある。彼らの読むオピニオンは、我々の世代が「便所の落書き」といって相手にしなかった愚痴芸の塊であり、必ず彼らの中でそれをシリアスに受け取る層が出てくる。こちらからすれば「そんな事を信じているのか」というような信条を掲げてくるんじゃないかと危惧している。まだ大きな流れにはなっていないが、可視化される頃にはもう遅い。


非常に単純な話で、「言わなければ伝わらない」のだ。極々々々当たり前の事をストレートに言い続ける。これをしないと若い層には伝わらない。内容はありきたりで構わない。言って伝える事が大事だ。

大人の方は大人の方で、生きていくうちに「勝手知ったる間柄」としか付き合わなくなるから当たり前の事をわざわざ言う機会など全くなくなる。ZABADAKなんぞコンサート中曲名をコールするのは2,3曲だぞ。ファンが鍛えられ過ぎていてイントロ流せば、いや、時には楽器を構えた時点で次が何の曲かわかるからだ。そこまで練度が上がるのは素晴らしいが、若いファンには敷居が高いだろうな。


こういう「世代間格差」はどの時代にもあった事だが、インターネット世代に特有なのは「実世界で暇なお陰でインターネットへのアクセス機会を稼げる層」が突出して目立つ事だ。極端なノイジー・マイノリティの偏重である。これに対してバランスをとるのは難しい。実世界で忙しい人はネットで自説を延々展開したりしない。しかし、読むだけならどれだけ忙しい人でもある程度可能だ。この非対称が今後どうなっていくか予想もつかない。取り敢えず、当たり前過ぎる事を素直にシンプルに表現する事を厭わない事が重要だ。「宇多田ヒカルは歌が上手いんだぞ」みたいなね。でも、やっぱり暇人にはかなわないんだよねぇ…。

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近い未来に胸をときめかせる前座に、過去を振り返っておこう。今日は2ndアルバム『Distance』の発売15周年記念日である。

然るに、2年前に『First Love』の15周年を大々的に祝ったのは些か“言い訳がましい”出来事だった事がよくわかる。全く、今日という日を誰も騒いでいないのだから。しかしそれに不満がある訳もない。不在の寂しさを埋めてくれた企画に感謝こそすれ、ね。“Calling You”とはまさにヒカルを呼ぶ皆の声だったかもしれず。だがジェフ・バックリーのバージョンはヒカルのそれを簡単に凌駕した。相変わらず私の好みではないが、頭(こうべ)を垂れる以外に扱いがわからない。つい先日発売されたアルバムに入っている。かのロバート・プラントが「彼は我々とは次元が違う」と言ったそうな。流石に言い過ぎだと思うが。自分の若い頃の歌唱を忘れてしまったのかな。

という風な話を、『Distance』についてはやらなくても構わなかったよ、とごちればそれは嘘になる。2年前同様、2ndアルバムのアウトテイクやデモ・ヴァージョンも聴いてみたかった。心からそう思うが、時機ではなかったという事だろう。素直に引き下がろう。第一、バグダッド・カフェのような“奥の手”が実際に存在しているとも限らないのだし。

然らば、『Distance』を聴き直してみる。古い。サウンドの話ではない。感情の問題意識が、恐らく今と異なる場所に在るからだ。つまり、同時に若い。古くて若い。今、瑞々しくなければこう言えまい。

即ち、一週間後に訪れる“たった今の”感情の問題に触れた時、この古くて若々しい感性はまた書き換えられる。過去への遡及こそが物語の創造である。でなくば未来は無い。

それが普遍的なものなのか時代的なものなのかは永遠の問題である。この歌声が、1999~2001年だったからなのか16~18歳だったからなのかは、結局のところわからない。人生は一度きりだから。それでも、考えてみたくなる。

流石に売れ過ぎた為、時代すら作ってしまった、と言いたくなるこの特異性。16~18歳のヒカルの苦悩が1999~2001年という時代の苦悩として読み換えられていたとしたら、永遠の問題に答が見つかる。それは、時代を呑み込む程に肥大化した名前を背負いきった者にだけ与えられる特権である。

そこはそれ、今のヒカルとは、そうだな、随分と違う。33歳のヒカルの感情の問題が2016年の日本の悩みに置き換えられるかというと難しい。その代わり、人生の祝福を日曜日を除く毎日、半年間。届けてくれるという。役割が変わったのだ。大人になり、親になった。

33歳が何を共有して欲しいと願うかはわからない。私は多分、「意志の問題だ」と答えたいんだと思う。人生の相(phase)は、そういう風に出来ている。新しい『Distance』は、きっとまた次の機会に。5年後か10年後か15年後か、今はまだわからないけれど。若々しく、古臭くもあるこの名盤に、今宵は慎ましやかに乾杯といこう。

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さてあと一週間。気合いを入れて出迎えるというよりは、如何に力を抜いて自然体でおかえりなさいをするかに注力するつもりでいる。注力なんて言葉使ってる時点で力み返りまくりではありますのやけどね。

ある記事に、試写会でヒカルの歌が流れた旨書かれていた。試写なら別に歌は無くても不思議ではないが、或いは一週目の劇中で既にインスト・バージョンが使われているのかもしれない。箝口令が機能している事を希望する。

感想としては、こちらからの解釈では「掴みは弱い」という事になる。半年間156回×5回流れるのだから一発で心を掴む系でなくてもよいのだが、「宇多田の新曲がかかるっていうから」とチャンネルを合わせた特に朝ドラ自体には興味の無い層の期待は裏切るかもしれない。

朝ドラの主題歌はCMを挟まず本編と地続きだ。今やってる「あさが来た」ではアバンから入るもんだから、本編がシリアスだったり悲しかったりすると時々ギャップが生じている。一瞬で歌の世界に入り込ませられる吸引力が楽曲に宿っているならまだしも、現行の歌唱力では滑稽なだけだ。

当初からのポイントだが、果たしてヒカルは新曲を、どれだけ朝ドラにアジャストして作ってきたのか。タイアップだからといってどこまで近付けてくるかは結局ヒカル次第なので。

例えば今挙げたような点、本編のトーンが日によってコミカルだったりシリアスだったりといった落差がある、というような事をヒカルは知っているだろうか。延々半年間続くドラマをヒカルが最初から最後まで見た事があるとは思えない。他では味わえない独特な時間の流れ方をする。30作以上見ている私が言うんだから間違いない?だろう。

その時間の流れの中でどうなっていくか。桜の季節なんて冒頭の数日だけだろう。『花束を君に』は梅雨も通過すれば甲子園高校野球の夏も通過する。その中での愛着というのが重要になる。真価は結局、半年後の最終回が終わる頃に問われる事になるだろう。今はまだ、ゆっくりのんびり待つ事にする。

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もうひとつ梶さんの話で面白かったのは「ペルソナ」である。ティピカルな顧客を具体的に思い浮かべる手法。これは確かに効果的だ。

例えば、漫画家の荒木飛呂彦はキャラクターを造形する際、本編の物語に一切関係なさそうな要素まで設定しているそうな。食事のシーンは一切無いのに好きな食べ物、映画を観るシーンは一切無いのに好きな俳優などなどを事細かに決めていく。そうする事でキャラクターにリアリティが生まれ、各場面でとりそうな行動、生まれる言動が自然と浮かんでくる、と。

梶さんも同様な訳だ。具体的なディテールまでペルソナ(今ならアバターと言った方が通じるかもしれない)を突き詰める事で、どのような行動が生まれるかが見えてくる。梶さんの狙うのは購買行動な訳だが、そのペルソナになりきって「これなら買いたい」と思えるプロモーションを展開していくのだろう。

しかし、だ。一般論としてそれは物凄く正しいが、果たしてこの17年間、その手法を宇多田ヒカルに適用できてきたのだろうかという疑問がわく。なんとも、ファンのペルソナが想像し難いアーティストだからね。

安室奈美恵とか浜崎あゆみとかのファンの典型的な(ティピカルな)ファンの姿は、容易に想像できたものだ。「アムラー」なんて言葉が生まれる(誰かの真似をする事を「~ラー」と呼ぶののルーツこれだもんね)くらいにね。もっといえば、素人さんが出てきた時に関根勤が「昔は川本真琴を聴いてました。」と代打自己紹介してくれそうな、そういう時に名前を出して貰えるアーティストなら、ペルソナが作りやすいという訳だ。

さて、関根勤が、「宇多田ヒカルの歌なら全部歌詞見ないで歌えます」と代打自己紹介してくれそうなペルソナって、思い浮かぶ? 無理じゃね? 一体梶さんは、どんなペルソナを思い浮かべてんのか。

ヤンキーでもDQNでもヲタクでもリア充でもない。しかし、ヤンキーのファンもDQNのファンもヲタクのファンもリア充のファンも居る。全く統一性がない。海外のファンは更にバラバラだ。人種も肌の色も年齢も性別も。ギークもナードも仏教徒もクリスチャンも。一体なんだこれは。

だからこそ総てを横断してビッグヒットを飛ばしてきた。もしかしたら梶さんは、宇多田ヒカルファンのペルソナだけは「お手上げ」なのか? 或いは今更必要ない? それとも私が想像出来ていないような「典型的な宇多田ヒカルファン」のペルソナを密かに構築しているのだろうか。いつかお話を聞く機会があれば、是非伺ってみたいものである。

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梶さんがインタビューに答えていた。この時期にこんな記事を掲載するなんつ、どこの誰だか知らないけれど、わかっていらっしゃる。興味深く拝見した。

見出しにも出ている通り、梶さんは情報の「余白」を強調する。「宇多田ヒカルのうた」を出した時に、情報を順次小出しにしてSNSをバズらせたと。うむ、堂々とその仕掛けに引っかかってしまったな私も。うまくやるもをだ。

しかし、梶さんは「今の時代だからこそ情報量の調整が大事」な旨話しているが、これは別にSNS全盛時代の今に限った事ではない、ヒカルがデビューした1999年当時も同じ事が起こっていたのだ。

16歳のヒカルは学業を優先させる為当初は“芸能活動”を週末のみに絞って仕事をしていた。結果非常に露出が少ないままデビューを果たし、人々が見る映像といえばオートマの中腰Hikliくらいのものだった。地上波のテレビに初出演したのはデビューから半年以上、ファースト・アルバムのリリースからも3ヶ月以上経ってからの事だった。その為人々の注目は一気にそこに集まり、各番組の歴代最高視聴率を記録していったのである。

こちらは結果論だ。学業優先の姿勢が、そういう結果を生んだというだけ。しかし、現実に、「ミステリアスなヒカル」に関する話題は飛び交った。藤圭子の娘というが、一体どんな子なんだろう、レニー・クラヴィッツも推してるんだって!へ~、といった具合に噂だか何だかの部分で随分と取り上げられた。渇望を煽って話題性を生む手法は、17年前からしっかり実践されていたのである。

たった今現在も、同じ事は起こっているのだろうか。或いは、これから起こそうてしているのか。まだちょっとわからないが、情報の「余白」とはただ情報量を絞ればいいというのではない。「あなたには知らない事がありますよ」と教える事だ。つまり、クイズでいえばアンサーではなくクエスチョンを情報として発信するのが「余白」の生み方だ。解答欄を「空白」にして問題用紙を配布するのである。答をただ配布しても読む気すら起こらないかもしれないが、そこだけ空いてたら「一体何なんだ」となる。そこが狙い目である。

いい問題の出し方。宇多田ヒカルのA&R(アーティスト&レパートリー:レコード会社の宣伝等を引き受ける役職;通称"レコード会社担当氏")として、ここからの梶さんに求められるのはひたすらにこれに尽きる。是非々々頑張ってうただきたい。

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どうにもずっと書いてると頭が堅くなるというか固くなるというか、発想が特定の方向にしか行かなくなって、よくない。型を意識しなくても型に嵌った内容しか出て来なくなる。自分の切り口だけが切り口ではない。もっと他の考え方にも触れてみたい。

だが一方で、ここにはある一定の「期待に応えられる」という側面もある。ヒカルの新曲が発表になれば、いつものあの調子で私は感想を書く。自分で書いておいて言うのもおかしなものだが、「そうそう、そういうことだよね」と相づちを打ちたくて、打たせてくれる時間。それを自分自身に提供している。

無意識日記という位だからこれは日記だ。自分の事はそんなに書かない。自分の感じた事、考えた事を書く。事実より、発想や着想、妄想が主である。音楽が齎されれば、その時の心の動きの記録となり、それは少し普通の日記である。日記文学というのは日本文学の中でも最古のジャンルのひとつだ。ここは「日記だ」と言い張って古典に阿ろう。

そういう意味では、何かが新しく在るべきだという思想は特に重要視しない。ただ、それは世間一般に対してであり、今まで自分の書いてきた事と比較した時に新しい必要は、在る。でなくばコピペで済ませればよい。

コピペにも意味はある。初オンエアまでのカウントダウンツイートは総てコピペだ。それでも、日々のワクワク感は作れる。積み重なって近付いていくからだ。或いは減って、落とし込めていく感覚でもいいが。


…ん? 速報が入った。ヒカルの新しいツイートか。

『@utadahikaru: せっかくスタッフが始めてくれてファンが利用してくれてるハッシュタグ…自分で書くのが非常に恥ずかしいというかこそばゆくて、参加できてない。みんなでやる縄跳びに飛び込むタイミング逃した気分だ… #おかえりHIKKI』

…いやお主が言うべきは「ただいま」じゃろがい。自分で「#おかえりHIKKI」て呟いてどないするんじゃ。参加せんでよろし。寧ろ「#ただいまみんな」タグを独りで独占せぇや。

こういう、「入るタイミングを逸した」時に大縄跳びの喩えは私もよく使うのだが、時々キョトンとされる。いちばんわかりやすいと思うんだけどねぇ。時機さえはずさなければ流れに乗って容易に行える事でも何かの拍子でタイミングを逸して一旦考え込んでしまうと途端にキッカケを見失って難易度が上がる。カンタンにやれてたはずの事が出来なくなってしまう…というよくあるシチュエーションに対する代表的な比喩で、文章を書く時には非常に便利だ。

ヒカルは『みんなでやる縄跳び』って言ってるな。私はいつも「大縄跳び」だが呼び名に地域差や時代差があるのかもしれない。或いはヒカルが呼び名を忘れていた、もしくはわかりやすいように説明口調にした、いずれも有り得る。

んでこの比喩に乗っかって突っ込むなら「あんたは大縄回す方や! 中入ってきよとしたらあかんで。しっかり腰入れて回し続けなはれ!」いうとこやろか。今何してはるか知らんけど、発破かけときまひょ。

2050ツイートめ。フォロワー205万人。1ツイートあたり1000人増えてきた計算か。効率いいな。もう「ただいま」を言うタイミングを逃しちゃったから、アー写かビデオレターの時にあらためて言って貰いますかね。にしても、なんだろ、調子よさそうだな…追い込み時期ならもっと荒んでるのが常なのに。アルバム発売はまだ随分先かもしれないね。

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あれま、「じゃない方」の新曲も番組内で解禁なのか。何の工夫もなく流れたら興醒めなんだが、特別待遇でもしてくれるのかな~謎だ。ミュージック・ビデオを流すくらいの気概は欲しい。自分がディレクターだったらヒカル本人呼んでエンディングで歌わせる所だが、ニュースショウでフルコーラス歌う枠を取るのは不可能に近い。さてさて、どうするんだろうかな。

最初のヒカルは極端な話題性もあって、出る番組出る番組軒並み最高視聴率を叩き出すまさにドル箱スターだった。今は流石にそんな事はないけれど、今回の復帰劇のハマり方によってはまた高視聴率を運んでくる幸運の女神となるやもしれない。

でその「ハマり方」なんだが。難しいねぇ。今誰がテレビを見ているか。高齢者にアピールしなくっちゃという話にどうしてもなってしまう。今回、まずは2つのタイアップが「対象年齢層を上げにきている」という話は前にした。しかし、年齢が上がれば上がるほどリアクションタイムは遅くなる。じわじわ長期型になるのだ。これを、レコード会社がどう受け取るか。例えば最速の6月にアルバムをリリースしてしまうと、早過ぎる。認知が追い付いていないだろう。

ニュースにもなりにくい。日本は世界に先駆けて「初動一発型」のチャートリアクションを形成してきた。先駆け過ぎてどの国もそんなについてきていないのだが、お陰でヒカルも長らく初週売上高世界一の記録を保持していた。そのスタイルが崩れると、発売日に向けてプロモーションを構成していく従来の手法が成り立たなくなる。初週の売上がニュースになって第二波という流れが作りにくい。

朝ドラ主題歌というポジションは、そういった懸念をうやむやにする位の威力を秘めている。しかし、それもドラマが面白く評判がよかった時の話。地上波の放送時間的にも、ウェブでバズを起こすパワーのある層はアクセスがしにくい。「新しくて古いファン」をどう相手にしていくか。梶さんの知恵の搾り具合がどうなっているのやら、今からお手並み拝見が楽しみであります。

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「育てる」「育む」って大事だなぁと痛感した三連休でした。いや私月曜日休みじゃなかったけどな。

この国では子育てが不利になって大分経つ。いや、育てる事自体が軽視されているというべきか。

ヒカルが今。新しい局面を見いだすとすれば、そこだろう。子育てを始めたのだから当然なんだが。

ヒカルは猫は飼っていたが、育てたという感覚はあっただろうか。一緒に住んでいた、せいぜい、世話をした、程度ではないか。

動物を飼うと、ちょっとは育てる感覚を味わえる。どちらかといえば、植物の方がそれは強いかな。

植物を育てる経験は得難い。夏休みの絵日記宿題の定番だが、どれだけの人が真面目に取り組んでいたか。

「さくら並木プロジェクト」にヒカルが首を突っ込んだときいて、そこが新鮮だった。桜を咲かせる。植物を育てる。命を育む。大切だ。

子を育て始めた事は、ヒカルにとって本当に、劇的に新しい事だったのではないか。「母親業に休みはない」と言ってて、正直な感想で凄く好感が持てたのだが(お前の場合彼女に対する好感度は常にMAXだろう、というツッコミはさておき)、つまり、例えば植物を育てた事があまりない、あってもサボテンとかそういうのだったかもしれない、と思ったのだった。部屋に花を飾る話は幾度かあったけれど、果たしてそれは種を植えるところからだったかというと、どうか。

もしかしたら、ヒカルの歌詞の“無常観”にはそういうのも原因としてあったのかもしれない。今までの桜ソングは2曲とも桜の花の儚さに美を求めたものだった。SAKURAドロップス。桜流し。落ちたり流れたり。メッセでも濡れ落ちた桜の花びらに惹かれると語っていた。

その感覚が無くなったとは思わない。寧ろより強くなっているとすら思う。しかし一方で、桜の花を育てる、育む感覚も育まれ始めているのではないかという期待も持てる。

『花束を君に』は、桜の花の歌ではないかもしれない。桜の花束はなさそうだし。しかし、花が咲く事、咲いた花の事が、歌われている可能性はありそうだ。

野暮を言えば、花束になった時点で花は死んでいるとも言える。摘まれているから。でも、この歌の要点はそこにない気がする。普段のヒカルなら、そういう視点もありだと思うが。

祝福の歌。門出の歌。そういう想像が浮かぶ。息子に向けたならば、人生という名の花束を渡した事に対する歌。或いは、皆の人生に向けた歌。どうだろう。

希望を歌う歌であれば、君に花束を渡したくて花を育てる物語も、粋だ。今のヒカルならそういう発想も違和感がない。


もう、こうやって好き勝手言ってられる時間も少ない。あと10日余り。生命を与える、生命を得る、その祝福。尊いというには余りにもあっさりと失われていくのが生命だが、得られたからには「全う」できたらな、と思う。総ての生命に祝福を。たとえそれが偽善だとしても、花束を君に。

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テレビでぼくはくまを歌ってから8年になるのか。昨日の事のようだ、とは流石に思わないが、昔という程でもないような、不思議な気分。消費税もそうなんだが、どうにも8という数字にピンと来ていないなぁ。

カウントダウンも、いよいよ週末から一桁に入る。注目度は鰻登りだ…と書けるところまではまだ行っていないが、ここからググッと上げてくるのがプロのA&R、お手並み拝見と参りましょうか。

しかし、タイトルだけ発表して解禁日を待つというのを1ヶ月間か。なかなかにテンションを維持・持続するのは難しい。いったん溜めて、そこから急上昇というのが青写真だろう。

例のantenna.jpの動画配信も終わりを迎える。単にオフィシャルYouTubeにある動画を順番に紹介しただけで終わりそうな雰囲気だが、一応それが途切れる予定の週末に何らかの追加情報があるとみるべきか。みたがってるだけかもしれんが。特に公式の肝煎りで始まった訳でもないので、何か重大発表が絡んでくるというのもなさそう。公式の後を追って、というのならわかるが。

ハッシュタグ「#おかえりHIKKI 」も随分落ち着いた。本来なら公式が毎日ハッシュタグを促すツイートをして盛り立てるところだが、黙っているという事は、取り立ててここで焦る必要がないという判断だろう。毎日同じツイートをしていると逆にスルーされやすくなるというリスクもあるし。にしてもTwitter重要だな…完全にインフラだ…。

なので、今週いっぱいはこちらもまったり過ごしていてよさそうである。といってももう週半ばだが。今から目まぐるしい新年度を想像してアタマがクラクラするんだが、もしそうだとしていちばんキツいのは子育てを抱えたヒカル本人なんだし、そこはそれ、そうだな、逆にスケジュールをゆるくして頂けると助かる(笑)。音楽を楽しむのにせわしく過ごす必要もなかろう。でも盛り上げないと注目度は上がらないし、ある程度は仕方がないか。「望むところだ受けて立つ!」と勇ましく言い放てればよいのだが、すまん、そこまでの甲斐性は俺にはないんだ。楽しみにしてるのは、間違いないのだけど。

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でもラジオで復帰もいいなぁ…。

嗚呼、もし自分が企画するならスタジオからストリーミング・ライブでいきなりナマ歌歌って復帰するわ。インパクト抜群じゃなかろっか。新曲でもいいし、桜流しでもFirst Loveでもいい。でも実現は難しいだろうな。何より、『花束を君に』に関しては朝ドラ解禁が決まってるもんね。

じゃあ、「じゃない方」の新曲だったらいいのかな…? …欲張り過ぎないで現実を考えようか。

ヒカルがやや静かなのは、アルバム制作が追い込みに入っているからとも受け取れる。例えば今月いっぱいで仕上げられれば6月にはアルバムを発売できる。これは『ULTRA BLUE』のパターンだ。『DEEP RIVER』の4月下旬まで作業というのは本当にギリギリで、よくもまぁ300万枚だかなんだかという枚数を用意できたなと感心するほどだ。わざわざ余裕をもってスケジュールをとれるこの時期にそんなタイトロープはすまい。

今月で制作終了、6月発売というのが“最速”のプランである。4月4日の新曲2曲のシングルCDを発売せず、フィジカルはいきなりアルバムを買わせる作戦となる。何を買えばいいかを明確にさせる作戦は値下げとかよりよっぽど効果的だと「アナと雪の女王」の時痛感した。あの大ヒット映画の円盤は、基本的には一種類のみの販売だったのだ。DVDとBlurayを同梱させるという「これ買っときゃ間違いない」という製品だった。当たった。迷わなくていいというのは本当にありがたい。

それに倣えば、アルバムを配信販売せずCDのみで売る方法だってありえるが、流石に宇多田ヒカルブランドではやらんか。この10年、先陣を切って配信販売に動いてきたのだから今更だろう。

ただ、「CDプレイヤーを持っていない人はどうぞ配信で。でも、CDを聴ける人はCDを買ってね。」というメッセージを具現化した作戦は立ててくるとみるべきだ。材料費や輸送費なんてほぼ関係ない。CDと配信の差額がほぼそのままレコード会社の収入になるのだから(すまん少し言い過ぎた、しかし印象としてはそんな感じだ)、CDを買って貰ってなんぼだ。

さて、CDにどんな仕掛けをしてくるか、だわな。チャリティーや慈善事業を絡ませてくるとしても、CDでないとというようなケースはどのようなものがあるか。赤い羽根共同募金みたいに「寄付・募金をした証」がCDにならついてくる、とかか。くまちゃんグッズがいいのでは、とついつい思ってしまうが、ファンは兎も角世間一般に対してくまちゃんてどれくらい効き目があるか全く未知数。ましてや、5年の歳月やぞ…。


そういや、いつかやるかもと思って未だにやってないな、ヒカル。「くまちゃんのTwitterアカウント取得」な。ヒカルが呟けない事も、くまちゃんなら呟ける。いいアイデアだと思うが、やる気ないのかな。

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