無意識日記
宇多田光 word:i_
 



「作品鑑賞」について体系的に述べておく。

「一次元の作品鑑賞」と呼ばれるものがある。「文」である。或いは詩や小説といえばよいか。文は基本的に一本道だ(そこから外れたい場合は脚注をつけるものだが、ご覧のように総て括弧書きに収めてしまえば読みにくくはあるが本質的には一本道になる)。それを辿って得られる体験は変わらない。一人一人違う感想は述べるだろう、従って、心に浮かぶ感情はひとりひとり違うだろう。しかし、物理的にあなたは何を見ましたか感じ取りましたかと言われた時全員がひとつの同じ文章を指す事だろう。この点において、文(詩や小説や)は万人に同じ体験を齎す。

映画は二次元である。が、こちらも文と本質的には似通っている。映画といってもアニメーションを想像した方がいいかもしれない。一枚々々の「絵」が、(古めかしく伝統的なものなら)1/24秒毎に次々と表示されてゆくのを我々は眺める。その意味では、これは文と変わらない。今目の前に展開されている文章の一文字々々々がそれぞれに異なる絵だと思い込んでみよう。映画(アニメーション)とは、その絵の連なりに過ぎない。その意味において、万人がこれまた同じ体験をする。文も映画も、その意味において、万人に全く同じ(物理的)体験を与える。

(本当は文字と絵には際立って本質的な違いがある。文字は文字全体を捉えるが絵は必ずしもそこに描かれている情報総てを受け手側が認識しているとは限らないし、例えば人が二人同時に左右に対峙している絵が映った時に左の人に注目する受け手と右の人に注目する受け手の両方が存在する。その点については深く議論せねばならないのだがここでは一旦省いておく。)

音楽鑑賞体験も同じである。こちらは文や映画と違って“静止”という概念がない為、かなり違う話にはなるのだが、万人が鼓膜を同じに揺らすという意味においてこれまた全員が同じ(物理的)体験を蒙る。


これが、3Dになるとどうなるか。なんらかのパノラマなりジオラマなりが擬似的に提供されたとしよう。ある人はその世界に入って東に歩を進めるかもしれないし、ある人は西に向かうかもしれない。ある人は空を見上げたまま動かないかもしれないし、またある人は同じ場所でぐるぐると回り続けるだけかもしれない。

即ち、「3D作品」は万人に同じ(物理的)体験を齎さない。皆違うものを感じ取る。感想に至ってはまさに"てんでバラバラ"になるだろう。


つまり、「3D」とは、受け手を不可避的に「作品の担い手のひとり」として取り込んでしまう。文章や映画や音楽は、万人が同じ体験を得るという意味において、受け手は作品に対して不可侵である。モナリザはいつ誰がみても、これから何億人に鑑賞されようと作品としてはモナリザのままだ(物理的な風化や劣化はするでしょうが今はその点は捨象しておこう)。しかし、「3D作品」は受け手の存在によって、作品としてはどんどん生まれ変わっていく。こういうものは最早鑑賞とか作品とか作品鑑賞とか言われず、「ゲームやアトラクションをプレイする」という風に言われるようになる。要は、3Dとは「遊び場(の提供)」であって、古典的な文や映画や音楽の"鑑賞"とは別個のところにあるものだと認識しなくてはならないのである。

例えばビョークなどは、3DVRを使って、その「作品鑑賞」と「遊び」の境界線を探るようなミュージック・ビデオをリリースしていて、大変興味深い。動画サイトで鑑賞…いや、"遊べる"ので、興味のある方は検索してみるとよろしかろう。上記で書いたような概念がどういう含意を持つか、手軽に体感する事が出来ますよ〜。

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昨日の朝ASKAについて書いたのでちらっと記事を読んでみたが、いやぁ凄いね。ASKAの言動がおかしいのなら薬物のせいだろうけれど、記者の方の奇行は素面でやってんだもんねぇ。放送と出版は大手が力を持ちすぎて自浄作用に期待出来なくなってるんかな。

とは言ってみるものの。では代わりになるメディアが育っているかといえばそんな事もなく。新興のネットメディアの多くは「粗悪」として切り捨てるべきクォリティーしか有していない。腐っても鯛というが、流石にまだまだ大手メディアの方が遥かに良識的である。

よく「テレビがつまらなくなった」と言われるが、それはインターネットやゲームによって他のチャンネルが開かれたからであって、相対的な印象である。個々の番組のクォリティーは非常に高い。「つまらない」という印象は、個々の品質よりも、新しいものを生み出すダイナミズムが感じられなくなった所が大きいように思われる。「観たら楽しめるけど、いつ観てもやってる事は同じ」という、30年前に既に「笑点」が言われていた事が、今や多数の番組に当てはまるようになった、そういう「成熟から衰退へ」という時期に地上波テレビメディアが差し掛かっているのだろう。視聴者が50代以上メインになるのもむべなるかなという具合だ。

それを考えると、今若い人はちょっと辛いかもね。信用できるメディアがどこにもない。若いと何でも鵜呑みにしがちだからね、ネットの無責任な「大手メディアは信用できない」という言説も信じてしまっているかもしれない。そちらが信用できる保証はまるでないのにも関わらず。薬物中毒より奇行をする大手メディアより更に信用する材料に乏しい相手を信じてしまったら、後戻りできなくなるよ。

後戻りできなくなる…嗚呼、いちばん厄介なキーワードが出てきちゃったな。この話の続きをするかしないか、ちょっと考えてからに、しましょうか。きっと長い話になる(笑)。

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そろそろ究極の(アンチ・)クリスマス・ソング"Can't Wait 'Til Christmas"の似合う季節になって参りました。まぁ季節に関係なく普段から聴いてる曲なんだけど、何だかんだで機能として"似つかわしい"タイミングってのがあるもんで、この曲の場合この約一ヶ月って事になるわな。ほんに雰囲気に合う。PV作ってたらYouTubeでどれ位の再生回数だったろうねぇ。

では、最新作『Fantome』の場合はどうだろう。直球でいくと、季節というより“追悼”のタイミングに似つかわしい楽曲が多い訳で。『桜流し』『花束を君に』『真夏の通り雨』といったヒット曲たちが主軸なのだから仕方がないか。『道』なんかは暫く経ってから、一周忌や三回忌云々というタイミングが適切かもしれない。

ただ、アルバムの主軸がそこにあるだけで、他はバラエティーに富んでいる。では『人生最高の日』は主軸たちとまるで正反対の内容なのかといえば、何か少し戸惑いを感じるよ。前から書いている通り、15秒30秒のCMソングに起用されれば体好いキャッチーさを与えてくれはするんだが、あの、フルコーラスで聴いた時の何とも言えない不気味さ、『一寸先が闇なら二寸先は明るい未来』と歌われた瞬間は「なんてポジティブなんだ」と感銘を受けるのに、ひとたびこの曲を聴き終えて振り返ってみると何故だか「…じゃあ、三寸先は?」と訊きたくなるような不安がじわりじわりと襲ってくるのだ。これは錯覚や意地悪や勘ぐりではなく、この曲を聴いた人間にどうしようもなく降りかかる感情である。なぜか。

その理由は、各自が考えたものが答だから私は押し付ける気はないが、ひとつには、「人生最高の日が実際にやってくる事がない」から、という答え方がある。つまり、そういう期待を胸に抱けた日こそが既に人生最高の日なのだ、という解釈。イメージを胸に抱けるか否かで人の幸福は決まる。幸福とは何かを知らなければその日が来ても、わからない。

元気で笑顔で前を向いて歩く主人公の足元にどうしても無数の落とし穴を見てしまうのは、私や貴方がひねくれているからではない。実際、アルバムの曲順だと次は『桜流し』。大切な人を喪う物語である。この曲順に意味がないと断じるのもまた身勝手というものだろう。予感を歌った歌の次に悲劇が確定した歌が来るのだ。曲というのはそれぞれに独立した物語を持っていて、このアルバムだって『道』『俺の彼女』『花束を君に』とてんでバラバラな歌たちで幕を開ける。ならばアルバムの最後2曲にだけ繋がりを見いだそうというのは恣意的過ぎる。ごもっとも。理屈はわかった。しかし、貴方はアルバムを聴いてそう思えたか?『人生最高の日』は幸せいっぱい胸いっぱいの歌として響いたか? またこの話は間を置いて取り上げる。歌詞とサウンドの構造からも、この言い知れぬ「不安(定)」の正体に迫ってみたい。

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チャゲアスのアスカが逮捕されたってな一般ニュースのトップで報じるような事なのかい。耳疑ったよ。薬物中毒患者の"再犯"率は高い。静かに治療に専念させてあげればいいのに。また車の行く手を阻む事例とかほんまかいな。俄かには信じ難いが。未だに。

刑事罰なのがよくないらしい。逮捕の報が啓蒙に役立つなら致し方ないが、そこまで考えて報道しているようには見えないし。本来必要なのは強制治療であってよもや懲役刑ではあるまい。

これを機にファンを辞めるとか解散を促すとか、それは個々の好きにすればいいけれど、薬物の被害者という観点ではみてもらえないんだなぁという感想が先に来る。意志が弱いとか世の中舐めていらっしゃるとかこれまた好き勝手言ってくれて。自分も別に薬物全般に詳しい訳ではないのでそこは大して変わらないのだけど、事情も知らないのに圧力をかけるような言動をするのは避けたいなと自戒中。ここ2週間3DVRの担当者に圧力かけまくりだったけどな。読まれてはらへん事を祈るが。

普段から薬物反対とか言ってた人がこうなったら「裏切られた」とも思うだろうが、チャゲアスの片割れが薬物でと言われても「あぁ、そう」としか思わない私はやや距離がある。ミュージシャンと薬物の関係性は、特に英欧米では日本より深いだろうから、こういう話題が定期的にあったりなかったりするからだろうな。そういう意味では、四半世紀前に“SAY YES”のような特大ヒットを飛ばした事があるのは大きな負担だったろうな。「お茶の間」という魔窟の相手せにゃならんかったのだから。

勿論実刑判決が下ろうが刑期を終えて出てこようがまた再犯しようが私の彼に対する評価は変わらない。何だったら「宇多田ヒカルのうたパート2」があったら歌って貰えばいい。前科持ちが雁首揃えたら話題になるし丁度いい。薬物依存症患者の社会復帰を手伝えるならいい事だと思うよ。沖田さんどうですか。

勿論現実にはそう簡単に事は運ばない。日本人の(?)放射能アレルギーや薬物アレルギーは実際の放射能の被害や薬物の被害より遥かに悪影響が大きい。それの相手をするのは放射能や薬物の相手をするよりずっと骨が折れるし、メリットも大してない。最初から相手をせずに、自分の思考でちゃんと価値判断を続ける事、それ位しかやる事はない。それでも影響は受けちゃうけどね。こうやって実際事件に対してコメントしちゃってるんだから。やれやれ。

それで歌に陰りが出るかというと必然的ではなく。寧ろこういった経験を活かして新しい歌を作れれば、少しは過去の自分を受け入れられるかもしれない。ミュージシャンならではの特権ですよ。特にチャゲアスのファンではないので彼らが解散しようがしまいが気にならないし、こんなに報道されても「お気の毒に」としか言えないが、叩く気もないので、まぁ、ほどほどに頑張ってくださいな、と言うにとどめますかね。

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ふむふむ、『30代はほどほど。』の紹介記事が出ているのか。要点を纏めた大変よい内容で、これで新たに興味を持ってアクセスしてくれる人が1人でも増えてくれれば喜ばしい事だ。

…というのは紛れもなく本音なのだが、現実は世知辛い。アクセスが増えれば増えるほど配信は不安定になる可能性が上がる。今の時代なら大丈夫だとは思うものの、少なくともアクセスが増えて回線が改善される事は理屈から言って有り得ない。自分が安定して視聴したければ、1人でもアクセスは少ない方がよい。言ってて本当に世知辛い。

来年この企画をやれば次世代通信「5G」を採用出来たろうにと思わずにはいられない。3DVRが「まるでそこに居合わせているような」体験を運んでくれるそうだが、2Dで画質と音質を高める方が先な気がする。特に音質である。ハイレゾ音源を買っている人は高音質で視聴できる環境が整っているのだから彼らに対して高音質放送をだな…

…疲れた(笑)。


記事には「(『30代はほどほど。』は)宇多田ヒカルとファンがインタラクティヴにコミュニケーションするバーチャルリアリティー番組」とある。カタカナばかりだが、そこの説明さえあれば皆食いつくのだ。何故素直に「宇多田ヒカルと3DVRで遊ぼう!」って言わないのか不思議でならない。トーク&ライブっていうから「じゃあ2Dでいいや」ってなるのよね。3DVR申し込みを「スコープを使ってHikkiと遊ぼう権」と言い換えるだけでこの企画人気爆発なんでないのかなぁ。こうみえても私、色んな提案してるな。ただ愚痴ってるばかりでもない。

生で3DVR配信が画期的だというのは間違いないが、私にとって2016年いちばんのサプライズは「宇多田ヒカルの歌唱力が更に上がった」事と「それと共に日本語作詞能力が別次元に突入した」事、主にこの2つなのだ。最新のテクノロジーが与えてくれる驚きなんてこの2つに較べればずっとずっと小さい小さい。3DVRは今後どんどん普及して陳腐化していくが、日本語の歌手でこの次元に来れる人はもう金輪際現れないかもしれない。例えばこの歌詞世界をヴァーチャル・リアリティの世界で新奇的に表現できる技法を見つけた、というのであればこれはもう私目の色変えるよ。21世紀最大級のテノヒラクルーを見せつけてあげるよ。そういう、アーティストの作品に貢献するようなテクノロジーの導入なら大歓迎だ。


でも、そんなに力まなくてもいいと思うんだよね。『30代はほどほど。』だよ。なんかゆるいテンションだよ。「デビュー記念日にHikkiとほどほどに遊ぼう!」ってだけで十二分に魅力的な企画だからねー。当日そうやって、当選者が「Hikkiがこっちに反応してくれた!」って喜べるような中身になっている事を願うぜ。ここまで書いておいて私応募したら寒いかな?w

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何故自分が3DVR企画にご立腹(フリもあるけどなっ)なのか漸くわかった。企画が油断してるからだ。

昨年末から今年にかけて音楽界ではひとつのジャンルの代名詞クラスの訃報が相次いでおり、合い言葉は「観れるうちに観とかなきゃ」になっている。自分がそういう心理になっている時に、まるで当然の如くヒカルがいつまでも活動を続けてくれる事を前提にした企画の立て方をされている事に我慢がならなかった、訳である。

今まで築き上げてきたキャリアをものともせず新しいチャレンジをするのであれば文句はないし、それでキャリアに傷がつこうがファンを失おうが、そんなものはやってみなければわからない訳で、その結果がどうであろうと受け止めるだけである。

では、今回の企画の何が駄目なのかといえば、これが宇多田ヒカルのチャレンジではないからだ。他の誰かのチャレンジなのである。ならばその人の名を掲げるべきだ。宇多田ヒカルの看板で一体何をする気なのか。ヒカルは乗り気なのか。まぁイヤだったら断ってるだろうからOKを出したのだろう。それも困ったものだなぁ。

宇多田ヒカルの生パフォーマンスを観れるのは、ストリーミングとはいえ非常に貴重な機会だ。そのPreciousさに対するこちらのテンションみたいなものと企画が噛み合ってない。

こういう前のめりな気迫めいたノリは『30代はほどほど。』のロゴが持つゆるさと相容れないようにも思える。逆である。ストリーミングがゆるゆるだろうがグダグダだろうがそんな事は問題ではない。一家団欒に土足で踏み込むなと言っているのだ。毎日の平和が貴重で得難いものだからこそ全力でダラダラしなくてはならない。満喫と満足はそこから生まれる。それを忘れる慢心が透けて見えるからコイツは(心配になるくらいに)カチンと来ているのだ。

ほんのちょっとの事である。例えばひとつ、「放送は後日アーカイブス配信します」と言うだけでよい。ほんのそれだけで、皆が安心して生ストリーミングを楽しむ事ができる。一体誰に向けた放送にしたくて始めたのか、もう一度考えて欲しい。生ストリーミングのアクセスの実績を数字で作りたい、という人が居るなら、それは視聴者側の都合ではない。そんなものはヒカルの生歌に較べれば、少なくともこちらにとっては、毛ほどの価値もない。

ヒカルに幾ら活動を続ける意志があってそれを確認出来ていたとしても、いつ不可抗力があるかわからない。あと何百回チャンスがあろうが、1回々々のパフォーマンスがPreciousなのだから、こちらとしては、例えば今回なら全力で心置きなくほどほどしたい。宇多田ヒカルの歌に較べれば、それがたとえ寝不足でもマイクトラブルに見舞われても歌詞を間違えても、テクノロジーの進歩なんぞすぐに風化する流感のようなものである。油断しない。人は死ぬ。それこそが本当に心に刻むべき“当たり前”なのである。あー偉そうだ俺。

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紅白出場が華々しく決定している傍でこっそり(じゃないけど)3DVRの追加募集してる…応募者が少なかったんだね…(涙)。

やっぱりハードルが高い。iOS8.0かAndroid5.0を持っていて家にWi-Fi環境があってゴーグルも買ってあって…そりゃあ絞られるわなぁ。手続きに次ぐ手続きだし。

どうして折角の生ストリーミングライブをこんな風にしちゃったんだろう。『通常盤仕様1形態』の精神とは真逆じゃないのさ。『Fantome』アルバムは、CDを買いさえすればOKだった。Playpassまであったんだから言う事なし。今や何でも複数の選択肢があるのが当たり前であれにしますかそれにしますかと選ばなきゃいけないストレスに曝され続けている現代人が巡り会った奇跡的なシンプル。それが『Fantome』だった。これ1枚買えばエヴァのエンディングテーマも朝ドラの主題歌もNEWS ZEROの歌もサントリーのCMソングも手に入った。他に余計なものを買わされる必要がなかったのだ。

その精神に則るなら、Webに「当日このボタンを押してください」とたったひとつだけの画像を置いておいて、誰でもそれを押せば最適の環境を判定してくれるような、そんな仕組みを作るべきだった。パソコンだタブレットだスマートフォンだと多岐に渡る選択肢。どれから見ればいいんだろう、どれから観ても大丈夫。ただこのボタンひとつ押せればいいんです。現代の最高のサービスってこういうのじゃないの。何故そっちに行かなかった。勿体無い。


もう言っても仕方がないから今のフォーマットでどうやったら成功するか考えたい。成功というか、追加募集が増えるような方策。

いちばんの問題は、繰り返しになるが、やはり「3DVRで何をするのか全然わからない」、これに尽きる。何故公表しないのだろう? 一体どんな仕掛けが???

どうやら、当選者にはコンサートチケット番号が割り振られているらしい。そういう場合、「ヴァーチャルコンサート」のフォーマットになる可能性があるそうな。ふむー。つまり、家に居ながらまるでそこがコンサート会場であるようなアングルでヒカルの生パフォーマンスが見られるというのであろうか。

全然嬉しくない。

家で観てるんだから、どアップだよどアップ! カメラ寄りまくってヒカルさんの顔を見せてください。ライブ会場みたいなアングルの変わらない視点なんて別に。

唯一、「これならヤバい」と思えるのは、ヒカルに声をかけたらこっち向いて返事してくれる事だ。ヤバいよ。ヴァーチャル座席に居るであろう相手に向かって手でも振ってくれようものなら…間違いなく応募数が今の10倍になる。勿論、3DVRで「こちらから声をかける」をどうするかという大きな課題があるのだが。文字チャットでも何でもいいか。ヒカルが席の向きさえ把握できればいいのだから。それをお互いスマホ一台で。うむこれぞまさに近未来。

できないよねぇ、多分。

幾ら事情があろうと「生配信のみ」と言われている以上3DVRはおろか2Dマルチアングルですら使いたくない。スイッチングに気を取られて歌全然聴いてなかった…こそ悲劇である。ない。録画したものを何度も色んな角度から再生できるからマルチアングルは楽しいのだ。一発限りの生配信には似合わない。

これが、クイズでも絡んだら楽しいんだけどねぇ。今スタジオには昔のミュージックビデオで使用したある小道具が置いてありますそれは何でしょう?とかね。これならグリグリ動かしながら挑みたいよね。

3DVRというのなら透過型のヤツ、スマホを覗いたらヒカルが自分の部屋で歌ってくれてるように見えるヤツ、それなら一部にはウケるかもしれない。寧ろARって言われてるあれな。うちらも二年位前に試したっしょ。でもどうやんだろうねそれ。実写で。ポケモンGOでも別にそうなってた訳じゃないし。実写合成できるなら大したもんだけど。

何年もずっと言ってるように、「3D=ゲーム&アトラクション」なのだ。映画鑑賞や音楽鑑賞に3Dは有り得ない。3D映画として何十年ももてはやされているのは「とびだす2D」に過ぎない。後ろに回り込めないもん。回り込めたら、最早それは映画ではなくヴァーチャル世界と“私”の相互作用即ちゲーム&アトラクションである。鑑賞ではなくなる。これは、究極に本質的な事であって、「あなたは何をしたいのか」に直結する究極的な問題なのだ。もし歌を聴いて欲しいというのなら、スピーカーひとつ、イヤホン片耳あればいい。余計なものはノイズでしかないんだから。

だから、「何をするか」を伝えないと。隠している場合ではない。どんな魅力的な企画だろうが、参加して貰わねば意味がない。「実はこんなことができるんです!」というサプライズが凄ければ凄いほど悪評が広がる。「そんな事できたんなら最初っから応募したのに」と皆が言う。「言ってくれればよかったのに」と挙って非難される。勿体無い事この上ない。当選して体験できた人たちも優越感より肩身の狭い思いが勝るかもしれない。


どれだけ考えてもサクセスする未来が見えなくて困り果てています。21世紀最高のミュージシャンが歌ってくれるんだから、マルチアングルで記録して貰えるなら大変意義深い。3Dだと尚更だ。しかしそれが意義深いのは「あとから確認できるから」でしかないのですよ…。もうそろそろいいですか。書いてるこちらが飽きてきたので。歌だけ静かに聴かせて。どうかお願い致します。

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宇多田紅白出場でスポーツ紙もてんやわんやなのか、昨日の朝「収録とみられる」とどや顔で書いておいて今朝の版ではそんな事言ったっけ状態で「欧州から生中継とみられる」と。これも明日になったら書いたの忘れるのかな。毎日毎時締切に追われていれば致し方無かろう。うむ。

Brexitを持ち出すまでもなく英国を欧州と書くのには違和感がある。日本を東南アジアと書くようなもんでないの。確かに隣だけど、みたいな。普段から「英欧米」って書いてるし。行った事ないんだけどね。

普段洋楽を聴いていれば、英国と欧州はやっぱり違う文化圏だなと痛感する事が多い為「英欧米」と書きたくなる。勿論欧州でも北欧ドイツ南欧で違う文化だし米国だってフロリダとニューヨークとミズーリを同列に語るのは無理がある。英国だって4ヶ国とかの連邦だし。言い始めたらキリがないが、つまり認識の違いがあるなぁという話。ヒカルがロンドンに居るかイタリアのどこかに居るかで意味合いは全然違ってくる、ととるかどうかだ。

勿論日本でテレビを観ている分にはどこから中継だろうと話は同じだ。テレビ自体渋谷からの中継だし。紅白はね。あとは時差くらい。視聴者にとってはあんまり関係ない。

ただ、選曲には響く。中継なら『二時間だけのバカンス』の可能性がなくなるのが惜しい。NHKなら技術を見せつけたくて中継でデュエットみたいな荒業を繰り出すかもしれないが、やりづれぇだろうな歌う方は。かといって渋谷まで行っちゃうとこれまた余計な演出に付き合わされる羽目になる。普段テレビに出慣れてるタレントさんたちにとっては何でもない事でもミュージシャンにとっては大きな普段になりえる。それで歌のクォリティーが下がったら本末転倒もいい所だ。

今回も制作で使用しているヒカルもお馴染み渋谷文化村スタジオからの生中継がいちばん歌のクォリティーが担保されそうだが、そこから紅白の会場であるNHKホールまでは坂を1つ上がるだけで歩いて10分とかからない。そんな近場からの生中継する位だったら会場まで来てくださいよとなりそうなので、ロンドンからの生中継なら「まぁしゃあないか」感が出て大変宜しい。今度はテレビクルーの方が大変だけどな。

あとは、何曲やるか、か。ヒカルがヒットソングメドレーなんてやる訳がないヒット曲が昔にしかない訳でもあるまいし、と一旦は考えたが、今回のテレビ出演ではテレビエディットを受け入れてたりするので可能性はゼロではないか。2曲以上歌ってくれるというのならこれもまた大変宜しい。どうせなら紅白4時間半全部ヒカルでいいけどな。『ともだち』を百合薔薇組から出て歌ったらどうでしょう。

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紅白初出場決定。誠に喜ばしい。が、ついつい意地悪な事を考えてしまう。NHKならやらかしかねないぞ、ここから出場を断られる展開が。それ位尊大で非礼な組織だからな。

個々の人間の話ではない。1人々々は優秀に決まっているのだ。何かについて。しかし組織として人材の配分が絶望的に下手なのだ。もうこれは構造的な問題としか思えないので、組織ごと解体しないと改善は無理だろう。ヒカルとこれから打ち合わせをする相手の人選には呉々も気をつけよう。

現実的な落としどころとしては、「今回は出ると言っちゃったから出るけど今後二度と出ない」あたりかなぁ。まぁ本当にそうなるかどうかは来年以降にならないとわからない訳で、それを言うと鬼が笑うな。

NHKを茶化すのはこれくらいにして。これが冗談で済まないのだから凄いんだけども。


前回の続き。ヒカルがもし「紅白に出たい」と言うとすれば、恐らくそれは母・藤圭子に対するリスペクトからだろう。藤は世代もあり、紅白出場には並々ならぬ拘りを見せていた、ようだ。落選した際は大層落ち込んでいたとか。彼女の現役の頃は正真正銘のお化け番組だったし、何の後ろ盾もない一歌手としては次の年の仕事量を左右する重要な番組だった事は間違いない。それに、当時は今より出場歌手が少なかった。私の小さい頃ですら21時からの放送で、21時までのレコード大賞とは時間帯が被っていなかったのだ。今はもう大晦日ですらないけれどなレコード大賞は。

そんな母をみて育ってきたヒカルからすれば、NHK紅白歌合戦というのは、リアルタイムではないにせよ、母が複雑な感情を投影する番組として認識していたに違いない、と言ってみたい。つまり、出ない理由も出る理由も母から導き出せるだろうという話。

今年は『Fantome』の年である。実母をテーマにしたアルバムを作ったとハッキリ言い切った。ならば紅白歌合戦という場で母への想いを歌う事に意義を感じるのもアリだろうて。それもあって、出場を快諾したのではないかとみている。あとはNHKがいつもの非礼モードを発動しない事を祈るのみだ。ほんと、1人々々の人間は皆さん優秀なんですけどねぇ。


紅白といえば、まぁ幾らでも語る事がある。生出演は決定したが中継かどうかすら公言されていないらしい。どうすんだろね。衣装チェンジしまくりながら様々なミニコーナーに4時間半出演し続ける宇多田ヒカル…想像がつかない(笑)。他にも企画枠とかあるし。

今回は林檎姐さんも出るという事で本命の『花束を君に』以外に『二時間だけのバカンス』も歌ってくれたら嬉しい。紅白歌合戦は紅組白組の先攻後攻を番組中にしばしば入れ替えるから、後攻でヒカルが歌い林檎姐さんが雪崩れ込んできて『二時間だけのバカンス』を歌いそこから紅組先攻になって林檎姐さんがソロで歌い、なんてやってもいいんじゃないか。ヒカルがNHKホールに来れば、ですが。林檎姐さんはNHKホールで歌うだろうからね。

あとは、出演順である。初出場とはいえ紅組トリや全体の大トリで何の問題もない。白組のトリも同じく初出場のKinki Kidsでいいんじゃないですか。紅組白組両方初出場がトリってのは最初の数回を除けば初めてになら…ないか。まぁ別になんでも。

どうせ私の場合毎年紅白歌合戦をフルで観るなり聴くなりしているのでどの時間帯に出てもらっても構いませんが、ヒカルって夜10時以降に生歌披露した事ないよねぇ? 『In The Fresh 2010』は別として。あれ夜9時から始まったりしたからね。二時間もずっと待ってた…(笑)。まぁ、そうなったらそれがいちばんレアな体験になるかもしれませんなという事で。

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朝の版のスポーツ紙記事では「宇多田紅白出場決定」的な報が。今日24日日中にNHKから正式に発表があると書いてあったので、それが本当ならその時に明らかになる算段だな。

いちファンとしてはまた歌の別テイクが動画つきで手に入るという事で大変喜ばしい。生放送なら更にチェック時のスリルが増すがそこは贅沢という感じ。大儀的には+α感覚か。

以下他人事。NHK紅白歌合戦というのはまさに20世紀型日本地上波テレビ局制作の象徴的存在で、この番組がラジオからテレビに移動(今でもラジオでサイマルしてるので正確には"拡大"か)するのと時を同じくして(というのは後から年表をみて語る者ならではの乱暴だが)テレビ時代が始まった、ともいえる。故にテレビに思い入れのある者たちの入れ込みようは半端ではなく、裏番組を擁して対抗すべき民放各局ですら紅白出場歌手についてはニュースとして取り上げるし出場歌手の扱いも変えてくる。まさにたった一夜の歌番組でそこから一年の趨勢を左右するかの影響力のある番組なのである。だったのである。

壮年のテレビっ子諸氏ならそれを実感として知っている筈だ。若い人はその文脈を理解していないと歌番組への出演の可否についてここまで多様なコメントが乱立する理由が理解出来ないだろう。

ヒカルはといえば相変わらずテレビは苦手そうで(それでも随分慣れたもんだが)、ラジオの方に力を入れている。『ファントーム・アワー』101局ネットをしてradikoのシェアラジオ開始の旗頭としての役割を果たした。2016年の今でも1998年のデビュー当時同様、ラジオ重視の宇多田ヒカルである事に変わりはない。

なので、周りが騒ぐほどヒカルは紅白自体を重視していない、というのがニュートラルな見方だ。他の見方もあるがそれは次回に触れるとして、上述のように紅白歌合戦は元々ラジオ番組としてスタートしているし、更に今でもラジオ番組だ。勿論制作は完全にテレビ番組のそれなので実態は「テレビ番組の音声サイマル放送」なのだが、例えば大晦日に夜勤をしている人たちが息抜きやBGMにラジオを流す際にも選択肢のひとつとして提供され得るという意味に於いて、歴としたラジオ番組なのである。その観点に立てば、ラジオ重視の宇多田ヒカルとしては紅白歌合戦に出場するのもそんなに悪くないんでないかな、と思わんでもない。メイクさんやスタイリストさんたちの協力はどうなるんだというのもあるけれど、またひとつラジオ出演でしかも生(かも)パフォーマンスが聴けるというのだから、もし出場が決まるならそれはそれで素直に喜んであげてもいいのかもしれない。ラジオだと、生放送か収録かなんて聴いてる方はわかんないからね〜w

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多分そろそろ年末モードになって「今年を振り返る」話が多くなってくる。そんな時に「2016年宇多田ヒカル音楽活動再開」は、それなりのニュースバリューがあったと評価されるだろう。

しかし、個人的な事を言わせて貰えれば―ってここ俺の日記なんだから寧ろ個人的な事しか書いてないだろ―、なんだろう、そんなに特別な感慨はなかったというか。変な話、「いつも通り」としか。

色んな「ぶり」があった。『桜流し』から三年半ぶりの新曲、『人間活動宣言』から6年ぶりの音楽家活動、『HEART STATION』から8年半ぶりのオリジナル・アルバム。まぁどれで数えても結構なスパンだが、どうもどれもピンと来ない。

というのも、結局、ヒカルが活動中だろうが何だろうが、毎日“待っている”事に変わりはないからだ。今という瞬間宇多田ヒカルはバリバリ活動中と見做されているが、こちらはといえばこの6年半と相変わらず朝起きたらツイートがないか確認し、気が向いたらメッセを開いてやっぱり何もないままだと溜め息をつき、ああ照實さんまた空の写真かでもなんだか気が紛れたよ有難うみたいな事を思ったり思わなかったりしている。何だか、大して変わらないのだ。それが自分の「毎日」であって、ヒカルが活動中だと"収穫"の密度が上がるに過ぎない。

それを考えると、この6年半より2003年の半年の方がずっと"長かった"気がする。あの全く音沙汰のない時間はまさに永遠に感じられた。

今は、嬉しい事に“予定”がある。これはとても、とても大きい。今の心境はまさに「もう幾つ寝ると生配信〜♪」だし、2月3月になれば『人魚』がまたクロースアップされるだろう。嗚呼、予定があるっていいね。そういう意味ではまだ「今年を振り返る」気にもならない。第一、『Fantome』をはじめとしたHikaruのバックカタログと毎日接していたら毎日過去を振り返って総括しているようなものだ。先日は『With Or Without You』を聴いていたし、一週間後は『Let It Snow』だな。いやもしかしたら明日明後日聴く羽目になるかもらしいですが…。

いつもいつもヒカルからは「できたもの」しか届かない訳で、そういう意味ではいつもズレている。何しろ、ヒカルは出来た曲をもう聴き返さないのだから。もう直す所がないレベルにまで持っていったという確信がそうさせるのだろうな。プロ意識が、非常に高い。

たまには、未完成なヒカルが成長していく様を眺めるのもしてみたいが、もう無理かもしれないね。『Utada United 2006』の2ヶ月でみせたリアルタイムの進化はスリリングだった。まぁヒカルよりどちらかというとバックバンドが纏まっていく過程を楽しんでいたかもしれませんが。

完成度の高いものばかり与えられていると過去ばかりで未来が見えなくなってくる。…余りにも贅沢だが、ヒカルの『出来た曲は聴かない』アティテュードからはそんな事を思ってしまう。だから待っている時間の大半は何もなく、出来たものでヒカルの『過去』を知らされて、といつまで経っても「今のヒカル」は見えてこない。見せる必要もないといえばそれまでだし、相変わらずその出来たもの、アルバムと楽曲とパフォーマンスは素晴らしいのだから文句を言う筋合いもない。でも、だからいつも待っているんだよ、とは一言言っておきたい。それが私の生き方だというなら支持するさ、きっと。

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午前6時前頃に福島県沖で地震とそれに伴う津波か。

朝からツッコミどころばっかりで疲れた。主にテレビとラジオに対してだが。まぁ過渡期なのだろうと諦める事にするか。何かあった時に彼らが責任をとる事は期待出来ないし。毎度言っているように、特にテレビは「娯楽の王様」であって情報や報道には向いていない。期待するだけ無駄だ。

私はスマートフォンを持っていないのでわからないが、GPS情報を強制取得出来るなら場所に応じた指示を出せるシステム・アプリって現存しないのですかね。「すぐ逃げて」て逃げる必要のない人には悪影響しかない。逃げるべき人だけを的確に煽れるシステムが出来るのなら予算なんて幾らでもおりると思うが。

奇妙な事を言う。何故未だに津波が来ている時に逃げ出す必要のある人たちが存在するのか。そんな所に住んでいられるのは何故なのか。原子力発電所事故の時は強制避難させられて、未だにその影響から脱却できない人が居るというのに何故海岸沿いの人々はそこで暮らせるのだろうか。

誰を責めるつもりもない。現実が恐ろしく歪んでいると言いたいのだ。一体何に対して不安と恐怖を抱いているかといえば、それが何かわからないからである。従って、本来なら不安や恐怖に駆られて行動してはいけない。それらは克服すべき課題であり、相手の正体を知り、その性質に対して適切な対処をする事が必要だ。知ろうとせず逃げ回ったり目を覆って叩き潰そうとしたりすると…やれやれ、もういいか、こんな話は。

常識や多数派が正しい保証はどこにもない。その正しさとは何に対する正しさなのか、わかってりゃもう既に問題は半分解決している。いずれにせよ言葉は届かない。届ける気ももうないけれど。

なのに、現場に居る殆どの人たちは一生懸命で真剣で。文字通り寝る間も惜しんで働いている。それがいつか結実する事を願ってやまないが、家で寝てた方がよかった事例が積み重なっ…まぁそれを大体戦争と呼ぶのかな。確かに止めにくいわ。

もういいか。他人のやる事に出す口はもう随分減らしてしまった。別に適切な助言が出来るでもなし、その日その時感じた事を素直に綴る―つまり、日記を書く位しかやる事ないな。嗚呼、もう10年それやってんだっけ俺。結局、特に何も変わらないな…。

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未だによくわからないのだが、何故今回のヒカルのテレビ出演は歌が「テレビサイズ」だったのだろう?

時間枠が小さいので曲を短くしました、というのならわかる。それが通常のテレビサイズの理由だ。ミュージック・ステーションなんて1時間足らずの間にあれだけのミュージシャンを生演奏させるのだから30秒どころか10秒短くしてもらえるだけで大分違う。それは確かに、仕方ない。

しかし、今回のヒカルのテレビ出演は、どれもタップリ時間枠をとった収録のものばかりである。タップリ喋りのパートが用意され、ならば歌もフル尺でどどーん!とは、ならなかった。Mステではあんな静かな階段を降りてくる所から使ってくれてたのに『桜流し』は間奏がカットされていた。NEWS ZEROの『真夏の通り雨』も同様である。こちらなんかトークパートを2週にわたって放送している。ほんのちょっとトークをカットするだけで歌はフル尺で放送できた筈なのだ。

経緯はわからない。結果だけだ。が、それにしても奇妙である。ヒカルがそれにOKを出しているのだろうから。ミュージシャンとしては、「カットするならトークと曲とどちらがいいですか」と訊かれたら是非もない。丹精込めて作った曲の1音も変えて欲しくない、とは思わないのだろうか。

いや確かに普段ラジオでかかるのだってすぐにDJの声がかぶさってきてフェイドアウトするけれども、それは音源をそのまま放送しているからで、テレビでのパフォーマンスとはまた別だろうに。それともあれか、人前で歌う時はあの尺の方がいいのだろうか。ライブでもテレビサイズになるのだろうか。

まずは、しかし、取り敢えず『30代はほどほど。』だ。ここで曲を「テレビサイズ」にしてくるかどうか。ゲストが2名発表され「あら、これは30分まるまる歌なのかしらん」と要らぬ期待を抱いている所だが、確かに30分という小さな枠なら、テレビサイズにエディットしてでも出来るだけ1曲でも多く歌ってくれた方が有り難い、という見方も出来る。勿論、どうせならゆっくりじっくり一曲入魂の精神で、慌ただしくなく歌を聞かせてもらおうじゃないの、という考え方もある。どちらも甲乙つけ難い。確かに。

どちらを選択してくるか。いずれにせよ、テレビサイズにならなければ、テレビ出演時はやっぱり局の意向でそうなってたのかと勘ぐる事になる。まぁ、ヒカルの歌が聞けるなら多少の妥協は仕方がないとも言える訳で、それはそれでこちらはいいんだけれども、どこまでも釈然としない気持ちはやっぱり残る。

まるで逆に考えるか。テレビでは視聴者の集中力に期待出来ないからテレビサイズにした、と仮定してみる。ならばライブではオーディエンスの集中力に期待してライブ・バージョンとして曲をストレッチしてくるのではないか。両者は表裏一体である、と言い切って今から期待してしまおう。

まぁ細かい事だ。一方で、普通のミュージシャンからしたら「宇多田ヒカルならフル尺要望すれば通るだろうに、勿体無い。」という気持ちもあるかもしれないな。いやまぁ嫉妬するならヒカルくらい売れればいいじゃんとなるんだけど。日本史上最強の無理芸ですね。あ、漢字宛てるにこういう手があったか…。

曲の長さなんて、気にしないのがいちばんだ。しかし、音源で聴き慣れた展開を裏切られるとそこは気になる。まずは、出来るだけ音源通りに歌って欲しいものである。

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『30代はほどほど。』、VRメガネが発売された。540円と安価なので大変お求め易い。本番で使う気はないが記念に購入しておこう…と思ったのだが梶さんが「限定販売」だと呟いていた。それってどっちなんだろう。期間限定の事かな。それともまさか数量限定?

それが引っかかって未だ購入をしていない。どうしても限定と言われると一歩ひく。今回、3DVR放送自体も抽選で、観る気もないのに流石に応募しないが、観る気があっても応募しなかっただろう。流石にこういう事やって長いので、こういう企画の体験は出来るだけ若い人に譲りたい。

次のライブチケットも不安といえば不安だ。売り切れる会場には基本行く気がしない。取り敢えず購入はするがソールドアウトなら誰かに譲るだろう。ただ、これ言うと受け取る側が気を遣う例が大半なので、その機会になったら黙っていようかな。出来れば、僻地開催でチケットが余っている公演に行きたいもんだ。全部観たいかといえば観たいに決まっているんだが、最低限、どこかで一回観られればいい。裏を返せば、全公演余ってたら全公演行くかもね。それはその時の体調次第だな。


そういった色んな理由で、限定には惹かれない。お値段の話ではない。送料込みで700円行かない買い物だって躊躇うのだから、問題はそこではなく。若い人に譲る事と、あと自分が居なくても成立するなら居なくていいやと思ってるからだろうな。勿論、「居ても居なくても同じなら居とくか」と決断する時もある。まちまち。それがどちらに転ぶかで人生が決まるかと思うと、ボブ・ディランの言う通り、人生は転がる石の如きものだなと。スコーピオンズに倣って川の如しでもいいけどね〜。

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ヒカルの『落ちてる物を拾う』行為も同じだ。中央で光り輝くものに吸い寄せられるよりは、寧ろそこから離れるだけ離れて、最早省みられず打ち棄てられたものに光を当てる。それが豊かさだと言い切ろうか。ちと芸がないけれど。

少し似ていて少し違う話として『海老のしっぽ』がある。硬くなって冷めたものやらお皿の端に残ったものに愛着がわく。ほかほかできたてごはんに「わぁっ!」と言って飛び付くより、そういう打ち棄てられ感にどうしようも惹かれる癖(…へき?)があるのだろう。

斯く言う私も炊飯器の炊飯ボタンを推しながら「…冷やご飯炊き上がらねーかな…。」と呟くのが日課になっているので、近い感性があるのかもしれない。いやどうだか。あの冷たい、というか冷めた感じがたまらなくいいんだよね。新鮮で味の落ちていない冷やご飯誰か開発してくれませんかね?

話が逸れた。そういう宇多田ヒカルこそが今年誰よりもいちばん輝いた邦楽アーティストのひとりである事は疑うべくもなく。なんとレコード大賞の「優秀作品賞」と「最優秀アルバム賞」とやらに『花束を君に』と『Fantome』が選ばれたんだとか。いやはや。

レコード大賞といえば今や政治的な授賞しかしないイメージが定着して久しいが、そんな事は気にしなくてよかろう。世の中のどこかの誰かがヒカルの歌を気に入ったから賞に選ばれたのだ。理由がゴリ押しだとしても、そのゴリ押ししたい人はアーティストを気に入っているのですから。アーティストに娘を拉致されて脅迫されているとかでない限り。それに、気に入って貰うのに人を選ぶ必要はない。たとえ泥棒だって殺人鬼だって、『Fantome』を気に入ってくれたら嬉しい…というか、ヒカルの歌を聴いて是非心が洗われて足を洗って欲しいと思う。何を甘い事言ってるんだ顔洗って出直してこい、って言われそうだけどねー。

それが言いたかっただけかぃ。

ついでに、『花束を君に』がNHKでお馴染みになった縁もあって「紅白歌合戦」出場かとの記事も出回っている。照實さんは困惑するようなツイートをしているし。これも、ヒカルの歌が求められているなら結構な事だ。番組がなんであれ、ヒカルの新規パフォーマンスを拝めるのであればこちらとしても万々歳である。

でも、無理な気がする。依頼する方がえらそーだから。あの「出してやる」って態度が無くならない限りヒカルが嫌がりそうで。わかってないのは、ヒカルだけに対して三顧の礼を尽くしても足りない事だ。あらゆるアーティストに対してあの尊大な態度を改めないとヒカルは首をタテに振らないだろう。そういう番組に加担するという事実が許せないかもしれないから。

ただひとつ、母・藤圭子を絡められたらわからない。途端にヒカルは予測不能となる。「NHKにある過去の藤圭子映像総てDVDにして差し上げますよ」と言われたら相当ぐらつくのではないか。いや、冗談じゃなくてわりとマジで。

そんな私は毎年紅白歌合戦で大晦日の夜を過ごす。単に習慣だからだし、歌が好きなので。そこに渦巻く人間模様が透けて見えるし、金満主義全開の時代錯誤の過剰演出には毎回開いた口がいい意味でも悪い意味でも塞がらないのだが、お風呂入るタイミングもはかれるし、年越し蕎麦を用意しながらNHK第一でも聴けるので、なんだかんだで、いい番組だ。駄目なのは局の体質の方なのだ。言い切った。別にいいよねー多分。

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