無意識日記
宇多田光 word:i_
 



話題を延々ループさせながら新しい論点をちょこちょこ挟み込んでいくのが最近の無意識日記のスタイルなんだが、ちゃんと気付かれているか若干不安だったり。新しい論点のないエントリーは「まとめ」とか「おさらい」とかちゃんと書いてある。こういうのも、テレビアニメでいえば「総集編」みたいなもので、なんか原稿落とした感が出ちゃって余り好ましくないんだけれどもなるべく「話の流れ」がわかりやすいように構成するのが本来の意図。

その「話の流れ」をいつもぶった切ってくれるのがヒカルからなアウトプット。いつも突然ツイートだったり新情報だったりをまぶしてくるのでその都度こちらは一瞬で話を切り替える。いわば、いちばんの「介入者」が、ウチの場合ヒカルな訳だ。本人だから当然か。

これだけ延々自分の事書かれ続けたら嫌だろうなぁと心底思う。好かれたいんだったらこんな事即刻辞めてるよねやっぱ。やれやれだぜ。

そういう、変ちくりんな"欲の無さ"みたいなものが自分にはある。そのつもりで読んで貰わないと、多分時々話が噛み合わない。こうみえて(?)私はヒカルに気に入られたいと思っていないのだ。たぶん、彼女に存在を否定されたら自殺しても何の不自然さもないと思う(誰もが「そりゃあそうだろうなぁ…」と納得する、この日記を読めば特に。)けれど、だからといって存在を認めて欲しいかというと、うーん、即答が難しい。本音の本音の部分はきっとそうなのだろうけれど、普段表面にそれは出さない。出していないし、出ていない。二口めには「光が元気でいてくれれば」である。利他的というのとも違うこの感覚は、本当に不思議だ。

…こういう話をここに書くのは珍しい(数十回に一回くらい)けれど、たまにこうやって書いておかないと、誤解されそうで。いや、自分が誤解しそうで。両方だろうな。私自身も読者の1人なのだから、同じこと。

ヒカルの、では、「愛されたい願望」は今どんな感じなのだろう、と(たぶんいつもと同じタイミングで)思う。イチローのマーリンズ入団会見の台詞の中に、こんなのがあった。

「応援よろしくとは言わない。応援してもらえるようにやるべき事をやる、と約束しますと伝えたい。」

かなり端折ったがこんな感じ。なんだか、FL15豪華盤収録インタビューを思い出した人も居たのではないか。

「待っていて下さいとは言わない。待っててくれてありがとう。」

これも端折った。正確な言い回しはちゃんと原本を確認して。

2人の発言は似ているようでいて大分違うし、違うとは思うけど結局同じ事を言っているような気もする、色即是空空即是色な色模様だ。

イチローは、本音は、応援されたいんだと思う。しかし、それは同情とか名前とか借りの気持ちからではなく、心の底から応援して欲しいのだ。物凄い欲張りである。表面上だけでも、と思っていない。心のなんたるかをよく知っている発言だ。

ヒカルはどうだろうか。こちらも、「お願い」をしないのは共通しているが、果たして彼女は、待たれている事を喜んでいるのか。いや、望ましいと思っているのか、そこがちょっとよくわからない。

「ただひたすらありがたい」というのであれば、こちらからしたら随分失礼な話だ。こちらの気持ちがたまたま偶然恋心になったとでも思っているのだろうか。貴方の魅力なら愛されて当然ですよと声を大にして言いたい。そして、もういい大人なんだから自分の魅力に責任を持ちなさいよと言いたい。特に我々に対しては「待ってるのが当然だろう」くらいに思っておいて欲しいものだ。まとめると「何を水臭い」だな。


となると、私もヒカルから好かれるように振る舞わないと責任が取れない理屈になるのだが、果たしてどうしたものか。ここが悩みの種なのだが、悩んでるフリして結局何も考えていないのが私の特性なので、相変わらず流れに任せておく。「話の流れ」をいつも大切にしているのは、そういう理由からである。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




travelingのDVDシングルの売上は驚異的であった。「CDシングルではありません」の文字に気づかずに買ってしまった人が当時どれ位居たのかは知らないが、MTVが全く定着しなかったこの日本でミュージック・ビデオを大ヒットさせたのは企画外であった。

時代の流れは早い。2005年にYoutubeが登場して以降、映像は全世界的に手元で気軽に見れるものとなった。2012年に桜流しのDVDが発売された時には私なんかアナクロさすら覚えたものだ。10年でこれだけ変わるのである。

凄いそもそも論として、"音声だけ"というコンテンツには不自然なものがある。単純に、「その音を聴いている間目はどこを見ていたらいいんだ?」という疑問が拭えないからだ。記録や通信の様式と音の物理が似通っていた為映像コンテンツよりも音声コンテンツの方が先に盛り上がったが、結局は技術的な都合だったので、ラジオは音声だけでなく映像も伝えるテレビジョンにその座を譲る事になる。

ヒカルがミュージックビデオを重視しているのは明らかだ。先に触れた桜流しのDVDしかり、シンコレ2のGBHPVDVDしかり。こちらでは映像監督まで務めた。

音楽にとって映像のありかたは、変化しているようで変化していないような、そんな感じの今である。伝えるのがテレビからYoutubeに移っただけで、ミュージックビデオ自体のあり方はそこまで変わっていない。ただ、つまり、昔ながらの「音楽と映像の乖離」は、あんまり埋まっていないように思える。

私などは最初っから「演奏風景にしときゃいいじゃん」と思っているのであんまり問題意識はないのだが、今の若い人たちが果たして音声のみのコンテンツを面白がってくれるのかと思うと確かに心許ない。ラジオを聴く事に慣れている私などは最早今更で、寧ろミュージックビデオは殆どの場合邪魔ですらあるのだが、そういうのも育ってきた環境次第だろう。

ただ、新しい世代でも「打ち込みの音楽」に慣れ親しんでいれば視覚情報は要らないのかもしれない。生演奏には必ず演奏風景というものがあるが、打ち込みの音楽には、生まれつき視覚情報が伴わない。純粋に音声だけの"情報"として生まれてくる。こういう概念的な存在に小さい頃から慣れ親しんでいれば、音楽は終始"頭の中に鳴り響くもの"として受け止められるだろう。

今や生演奏も打ち込みも等しく扱うようになったヒカルが、宇多田光として次にどのような映像アプローチをしてくるか、或いは何もしてこないのか。今のところ予想は全くたたない。出来れば今彼女がどういったメディア、プレイヤーでコンテンツと接しているかが知りたいものだ。まずは、それの影響を受けるだろうからね。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




昨日は「秋冬春夏」の順序で聴いたから今日は「冬春夏秋」、明日は「春夏秋冬」かな。副題はそれぞれ順に「部活年度」或いは「ある高校球児の一年」、「普通の一年」、「年度」 或いは「ここだけ音読み」といったところか。ライブで4曲完全再現するのに4通りの曲順が存在するなんて素敵…(ぶつぶつ)…

…なんていう独り言はそれ位にして。

私、美旋律に出会うと「人生に報われた感」を覚えるのですよ。ただ満足するとか感動するとかにとどまらない、"甲斐があった"とでも言おうか、、、、ああ、ただシンプルに「よかった」と思えるんだな。これだこれだ。

"心が音で出来ている"タイプの私は音に対してそうなる。これは人による。美味しいものを食べたらそう感じる人は多いだろうし、ずっとこの絵を眺めていたい、という人も居るかもしれない。猫と過ごす時間をそう感じる人、棚引く雲を眺めている人、それぞれだろう。私の場合それがたまたま音だったに過ぎない。

そういう人間である私から見て、Hikaruの"心が音で出来ている度"はそれでも極端な感じがしている。

ファンになった当初は、「Hikaruがどんな道に進んでも応援しよう、作家になるもよし、科学者になるもよし、また漫画や絵画を描いてもいいし、何らかの表現者であり続けてさえいてくれれば、僕らの見えるところにずっと居てくれるだろう」と思っていた。今でも同じ気持ちは気持ちの筈なんだが、どうしても「この人は音楽やってくしかねぇなぁ」と最近は痛感している。

本人も、どこまでわかっているのだろうか。そこはよくわからない。

確かに、レオナルド・ダヴィンチのように様々な分野で一線級の成果をあげる人も実在した訳だし、宇多田ヒカルという人が女性としてそういう傑物になっていってくれればエポック・メイキングだったろうなぁと思う。ただ、それなら「DEEP RIVER」アルバムを作って19歳で結婚引退した方が、ヒカルはそのまま伝説になれたし、他の分野へのチャレンジもスムーズにいっただろう、とはよく言われる事だろう。そうはならなかった。

そう考えると、COLORSって本当に罪深い歌である。発売から今日で12年、Hikaruを本当の意味で"引き返せなくなるレベル"にまで踏み込ませたのが、この曲だった。結婚なんてなんのその、年間3位の売上はHikkiのキャリアの中でも突出している。売れてしまったが為の「Hikki健在」の十分過ぎるアピール。結婚しようが全米進出しようがまた帰ってきてくれますかという日本人による強烈なお願いアピールだったように思う。

歌詞もまた罪深い。この間トレボヘで「ミュージック・ビデオの監督さんと付き合いたい」だの「イタリア人と結婚したい」だの「みんな私の曲をカバーして」だのと纏めて発言する回がある事を教えてもらったのだが、シンコレ1の表紙詩を例にとるまでもなく、Hikaruの言葉は言霊の力で現実へと変化してしまう可能性が人より遥かに高い。気をつけないと…というところにCOLORSである。新婚ホヤホヤの19歳がハネムーン中に書いたとは思えない別れの歌。これから別々の道を歩みましょうという歌詞は、まんま3年後の離婚理由そのものだ。いいのかこゆの。

勿論、Hikaruの書いた妄想の殆どは実現しない。それでもやっぱり、気をつけなくちゃあいけない。特に声を出す場合は尚更なのだろう。心が音で出来ている以上、音で出来たものはどうしても心に響いてしまう。それは、自分の喋り声や歌声も例外ではない。Hikaruは、自らの言葉によって未来へ洗脳されていく。「願いを口にしたいだけさ」と言うのなら、是非どんどん「いい願い」を口にしていって欲しいものだ。それがきっと、Hikaruの人生を「よかった」ものとすることだろう。うむ。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




「投げ銭」型と「お布施」型の分類が出来る一方、また別のやり方も参考になる。オンラインゲームの課金制だ。

まず無料で大量に人を集めて、そこに"世界"を作っておいてそこから内部での差別化を作る為に有料の仕組みを作るというやり方。どんな単純なゲームであってもこれは"擬似貨幣"を現実の貨幣に置き換えるやり方だ。

勿論、こんな方法をそのまま導入しろとは言わない。しかし、参考にすべき点はある。無料でも何でもいいから、まず人を集める事だ。これがなくては話にならない。そこは、かつての日本歌謡界も同じだったのだ。テレビやラジオで歌に親しんだ人々が何千万人も居た一方、レコードやカセットテープを購入する層は数万人、大ヒットでも数十万人だった。

「昔はよかった」に惑わされる事も多いが、80年代以前はミリオンヒットなど数える程で、極端な話今よりマテリアルは売れてなかったのだ。言い方を極端に悪くすると、「歌は耳にしているのにお金は全く払わない」という層が殆どをしめていたのである。今は真逆で、全く見知らぬ名前がチャートの上位に登場し、「誰?」となってる間に武道館公演を成功させていたりする。裾野は狭いが、熱心なファンがそれぞれのお気に入りを支援するという構図に移行している率が高まっているだろう。

ゲームの世界もたぶん、同じような道をこれから辿るだろうが、私は今のところ興味がないので放っておく。


かつてのような「大量のタダ乗り客」を引き連れるスタイルに戻る為には、要するにゴールデン・タイムにテレビ番組を持てばいいのだが、勿論それは現実的ではない。もし仮に宇多田ヒカルの冠番組が始まったら視聴率どんくらいだろと考えるだけで可笑しくなってくるが、そもそもヒカルはテレビ嫌いだし週一のサイクル(隔週2本撮り)のペースもそぐわないだろう。

せめて、不定期配信番組なら可能性は薄らと残るかもしれない。いちばんいいのは、都度有名曲カバーのスタジオライブを配信する事だが、現実は難しいだろうなぁ。

いずれにしても、「まず人を集める」というのは大事な観点である。次回は、そこらへんをもうちょっと突き詰めて考えてみたい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




日本のポップ・ミュージシャンが今後どのような商業形態をとるべきかという前回の話の続き。

毎度言っている通り、"Pop Musician"にアマチュアはない。Popsをやる以上、目指す規模は兎も角"誰かに売る"プロセスは必ず要る。それが揺らいでもう10年位経ってるのかな、今の日本では。

ご存知の通り、配信では十分な利益は上がらない。CDの値段の殆どはレコード会社と小売店の取り分である。CDから配信になったら、材料費や製造費や流通代が省かれるから安くなるだろう…というのは全く違う。それらの値段は消費税がちょっと変わったら吹っ飛ぶほどの値段でしかない。せいぜい、3000円だったのが2900円になるかも?という程度だ。実際にはそこまですらいかない。配信があれだけ安くなっているのは、単純にレコード会社の取り分を減らしたからだ。

彼らの取り分というのは早い話が制作費と宣伝費の回収なのだが、まぁここがおおざっぱでわかりにくいから中間搾取だの何だの言われる訳だ。

昔はそれでも皆3000円のCDを買っていた。今や割高感しか残らない。確かに、買う気は起こらんよな。

ではどうする? 私は逆に「値段を上げる」のも手だと思う。

アニメのBD/DVDは物凄い値段設定をしている。2話収録50分で6000円とか7000円とかとる。単価が高い為、5000本も売れればヒット商品と言われる狭い世界だが、ここでのミソは「それでちゃんと(なんとか)業界が回っている」事だ。先程触れたレコード会社の取り分、制作費&宣伝費が円盤の売上で基本的に賄え(てる事になってい)る構造になっている。

買う方もわかっているのだ。1時間足らずの映像に6000円も払うのは割高だと。それでも買うのは、大概においてその作品の続編の制作を願っているからに他ならない(皆が皆そうではないですが)。いわば、次回作への"出資"として円盤を購入している訳だ。

その意味において、消費者としての"意識の高さ"は音楽ファンよりアニメファンの方が遥かに高い。"買い支える"という表現が好んで使われる所以である。

これは、いわばレコード会社という既存の企業形態を利用した擬似クラウド・ファンディングなのだが、これをミュージシャンにも適用できないか。CDの値段を5000円などに上げ、数千人規模の"買い支えたい人たち"をアテにして音楽を作るのである。これが可能かと言われるとやはり難しいか。音楽ファンはそこまで熱心ではないかもしれない。

専門のジャンルの特定のミュージシャンならそういったシステムも扱えるかもからないが、ポップ・ミュージシャンには無理な相談か。ポップスは"薄く広く"なのだから、5000円で5000人に売るより500円で5万人に買ってもらった方がいい。

しかし、現実はというと、多分、5000円で5000人に売る方が500円で5万人に買ってもらうよりカンタンなのだ。深夜アニメも実際、円盤が買われそうな作品に傾向が偏っているし、でなければ制作委員会に出版社が出資しているケースなら原作のラノベや漫画を売る為、という体制をとっているかだ。音楽も、例えば極端な書き方をすれば、5000人には5000円でハイレゾ音源を配り、5万人には500円でMP3を、なんていう事があるかもしれない。わからんぞ。

問題なのは、先程から仄めかしている通り、少数の"出資者"をアテにしていると、そもそも音楽が"Pops"になるのかという疑問が出てくる。大体、音楽にそれだけお金を出せる人は一般人とは異なる感覚の持ち主だ。そうとは限らないが、音楽にも極端なこだわりがあるかもしれない。少なくとも、バランス感覚があるかといえばどうだろう?となる。彼らの声に耳を傾け過ぎると、もしかしたら、5000円5000枚は完売しても500円5万枚は売れないかもしれない。Popsでなければそれは「少数の熱狂的なファンが買い支えるミュージシャン」という事で済むのだが、いやはや、因果なものだ。


昨年の"実験"の数々は、ヒカルに「買い支えそうな人々」が居るのか、居るとすればどれくらいかを推定するのに好材料だった。果たして結果はご覧の通りだ。


両輪が支え合うのがいちばんいい。コアなファンが沢山送金し、ライトなファンはちょびっと送金するか、少しばかりカウンターを回したり。昨年はコアなファンが活躍(?)できたので、今年は是非「ライトなファンがお金を出すかカウンターを回す」戦略をEMIレーベルには見せてみて欲しい。そういうのが幾つかあってからなら、ヒカルもきっと復帰し易くなっている事でしょうて。どないでしょ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




アイドルにしろアニメにしろ、現在のコンテンツ購買市場を支えているのはかつてはオタクと呼ばれていた層だ。いや今でも呼ばれてはいるが、昔と異なるのはサブカルチャーとしての立ち位置を見失って市場のメインカルチャーになってしまっている点だ。

秋元康劇場をはじめとしたアイドルコンテンツは、本来メインに対するカウンターカルチャーで、彼らがテレビ新聞雑誌などの全国的情報網を押さえているのなら、こちらは「直に会えるアイドル」というコンセプトで行こう、というものだった。最初っから不特定多数というよりは、わざわざ足を運んでくれるマニアを相手にしていたのである。"誤算"だったのは彼らの高単価と頭数で、あんまりにも巨大な市場を単独で形成してしまったものだから、AKB等のトップグループは先に挙げたテレビ等の媒体をも浸食した。しかし基本的な構造は昔と同じままなので、相変わらずメインはオタク相手の商売である。

うっすらと広がる、アイドルコンテンツに対する「気味の悪さ」は、こういった歪な構造に由来する。つまり責任は、メインカルチャーの不在である。そんなものがもともとあったのかというそもそも論にも意味があるが、取り敢えずそういった共同幻想がなければ、秋元康劇場に対する嫌悪感のようなものは説明しづらいだろう。

その"メインカルチャー幻想"にどれくらい乗っかっていくかが課題である。極端な話、宇多田ヒカルの場合ですら、既に築き上げたファンベースを相手に単価の高い商売をした方が"儲かる"恐れがある。何が薄情って、2015年現在その"メインカルチャー幻想"を抱いている層が購買行動に出ない事である。16年前は、中身を聴くかどうかの前に、取り敢えず3000円ほど払ってCDを買ってくれたのだ。今はそれはない。映画のBD/DVDなら、まだ望みはあるのだが…。

昨年の様々な"実験"の数々を、梶さんがどう分析しているか。FL15、宇多うた、くまUSB、ハイレゾ配信。勿論名目は"15周年記念"なので熱心なファンがまずは買ってくれてればよいのだが、大事なのはそこから読み取った空気である。レコード会社とて営利企業、より収益の高い方に舵を切るのが基本だ。どんな組み合わせが可能なのか…についてはまた次回かな。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




前回の続きはいつかまた書くとして。(フラグ)

最近ZABADAKがマイブーム。流れとしては[ZABADAKのライブに行かないかと誘われる]→[ならばと昨年発売になったライブ盤で予習しようと買って聴いてみる]→[余りの素晴らしさにウルトラ・ヘヴィ・ローテーション]→[取り敢えずいちばん気に入った曲が収録されているオリジナル・アルバムを買ってみる]→[案の定名盤で当時買おうとしなかった過去の自分を激しく責め立てる]←今ココ。

なんで当時買わなかったのかと思ったらあれだ、2013年てKuma Power Hourばかり聴いていてそれどころじゃなかったんじゃないか。あとごらく部のライブもあった時期か。いやそれは余り関係ないな。兎に角少なくとも2013年のプログレッシブ・ロックを代表する名盤である事に間違いはない。

で。これだけオススメしてしまうと一度聴いてみようと思われるかもしれないが残念ながらオフィシャルでの通販でしか手に入らないという敷居の高さ。Amazonに1枚だけ売ってたのだが、その最後の1枚を買ってしまったのが何を隠そうこの私。こんな名盤手に入れて売りに出す人なんて殆ど居ないと思われるので中古盤が出回る可能性も非常に低い。本当にすみません。


で。今回のテーマ。私は今回ライブ盤でライブ・バージョンを先に聴き、それからオリジナル・バージョンを聴く、という順序を辿った。確かに、ライブ盤のブックレットに書いてあるように、ハイライトはライブで"大化け"した曲の素晴らしさにあるのだが、だからといってオリジナルは物足りないかというと、そういう解釈も素直には可能なのだが、なんというかそもそも魅力のベクトルが違うのだなと痛感させられた。

ZABADAKというユニットは、ライブ・バンドとしてはCAMELやCARAVANやPFMのような情感溢れるダイナミックな演奏を得意とするのだが、この、2013年のオリジナル・アルバムにおいてはブレインの吉良知彦がほぼ総て宅録しているため、まるでマイク・オールドフィールドの作品のように、頭の中に広がる世界を堪能出来るような構えになっている。ぶっちゃけ、同じ曲を演奏しているのに同じユニットだとは思えないくらい、ライブ盤とスタジオ盤で感触が異なる。

後からスタジオ盤を聴いた事で、「ああ、ライブ・バージョンでのあのアレンジはそういうことだったのか」と後から合点がいくケースが幾つもあった。スタジオ盤の方が、"作曲者の意図"というものを明確に、ダイレクトに伝えるのだなぁ、と改めて実感した。ライブでは、如何にリハーサルしているとはいえ、大勢の"他人"に自分の書いたメロディーを託すのだから、様々な解釈があって然るべきなのだろうなぁ、と。


ふと。過去に似たような感慨を覚えたなぁと気がついた。Flavor Of Lifeである。あの時も、バラード・バージョンを聴いてよくわからなかった、いや、その時点ではわかっていなかった事自体がわかっていなかったと言った方がいいかもしれないな、そういう幾つかのポイントが、オリジナル・バージョンを聴く事で「そういう事だったのか」と腑にが落ちたのだった。勿論、ここでもオリジナル・バージョンの方が"作曲者の意図"をダイレクトに伝えてくれた訳だ。

今まではその違いと気付きを「オリジナルがアップテンポなのをバラードバージョンにした為」くらいにしか考えていなかったが、これを「他者の介在」とみた方がよりわかりやすいかもしれない。今回そう思い至った。

スタジオ盤でゴリゴリに作り込まれた構築美を誇るZABADAKの楽曲がライブの場で生々しく生まれ変わるのは、演奏に「他者の解釈」が入るからだ。同じように、Flavor Of Lifeのバラードバージョンも、他者の目線、他者の手が介在した事で新しく生まれ変わった、そんな風に考える事が出来るのではないか。


となると、だ。勿論そんな事は本来のコンセプトに反するが、仮にヒカルが「宇多田ヒカルのうた」に1曲提供するとするならば、"Flavor Of Life - Ballad Version -"がハマるかもしれない、とそんな奇天烈な話まで思いついてしまった。確かに、なんか"そぐう"気がしてならない。そういや今回はFoL取り上げられなかったねぇ。第2弾がもしあるなら、誰かやってくんねーかな。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




凄いなぁ、錦織が全豪ベスト8に入っても大した驚きがない。世界5位なんだからベスト8は義務だと言わんばかり。変わった。

しかし、去年から続くこの錦織ブーム、いつまで続くのやら。はっきり言って男子テニスは観ていて面白いスポーツではない。そもそも試合時間が4時間や5時間もかかるだなんて、映画だったら前後編に分けて上映するところだ。特に最も注目度の高いウィンブルドンなんぞサービス放り込んで終わりである。勝負の妙味も何もない。

しかし、男子テニスの試合を短くしようだなんて声は聞かれない。ウィンブルドンは客が入りっぱなしだからだ。テニスファンは皆満足しているのだから。試合時間が長くてつまらないだとかビッグサーバーには欠伸が出るとかいうのは彼らからしてみれば「テニスを分かってないヤツ」の言う事なのだろう。ごもっとも。

こういう状況って難しい。テニス愛好者というのはどこの国でも貴族的な、マナーを尊び品行方正な紳士淑女と相場が決まっているので概して改革を嫌うという意味で保守的なのである。実際に物凄い数のテニスファンが現存し現行ルールを好んでいる。何の問題もない。

果てさて、錦織ブームでどれどれテニスでも観てみようかとなった日本人が、そこからどれだけテニスファンになって貰えるかだ。例えばフィギュア・スケートなら、細かい採点基準はわからなくても、テレビで観ていて美しいし楽しい。その要素がなければあそこまで高視聴率を稼ぐビッグ・コンテンツにはなりえなかっただろう。果たして、例えば日本から錦織クラスの選手が2人3人と同時代に出てきたとして、4大大会の決勝戦などが高視聴率を獲得できるだろうか。見ものではある。


超ビッグなスーパースターが出てきた時その人(々)はそのジャンルの広告塔としての役割を担う。16年前のヒカルはまさにそれで、「CDを買う」という行為を最大限まで広めた貢献者であるとともに、沢山の「買ってみただけの人たち」を繋ぎ止めきれなかった"犯人"でもある。まぁ実際は、1998年がCD生産のピークで、1999年以降は寧ろヒカルのお陰で"下げ止まった"というのが正しい解釈なのだろうが、ヒカルがそういった広告塔としてな役割を当時担っていたのはまぁ大概事実と言っていいのではないか。

私からすれば宇多田ヒカルを聴いた事がある癖に買わなくなっている人には耳掃除を勧めたくなるのだがそこはぐっと堪えて。どうして"繋ぎ止めきれなかったのか"については反省する事も出来る。或いは、実際は数字にあらわれていないだけで、音楽は90年代よりずっと愛されていたりするのかもしれない。ここは、わからない。

しかし、昨年のアナ雪の大ヒットをみれば、スイッチさえ入ればまだまだ皆が歌を口遊みたくなる局面は多いのだと知らされる。何をどう組み合わせれば、次のヒカルがああいった層にまでアピールできるか。考える必要があるだろう。


いや、そんなの考える必要なんてそもそもないのではないかという反論については、また次回のお楽しみ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「"アルバム曲"が聴きたいな」という話。

シングル曲というのは何かと喧しい。HikaruはPop Musicianという事で、どうしても不特定多数に訴求しようとプロモーションするし、やれタイアップだほらTVCMだラジオ出演だ雑誌露出だと追い掛ける方も時間に追われる。EVAとのコラボレーションともなれば解禁日は封切り日、0時きっかりから上映を開始する映画館と0時きっかりに新曲を流し始めるYoutube、売り始める各配信ストア、いやもうそれこそ分単位秒単位で流れに飲まれていく。シングル曲とはそういうものだ。

アルバム曲は、そういった喧騒とは無縁である。勿論、アルバムの発売日に聴けるようになる、という時間の制約はあるが、シングル曲のように「今週のヒット曲」として消費されていかない為、「今聴かなきゃ」みたいな空気を纏っていない。

空気。これが重要だ。私はそんなの気にしない。音楽なんて自分の聴きたい時に聴くだけ、と思っている人でも、まとわりつく空気をまず取り払う所から始めねばなるまい。シングル曲、新曲というのはそういうものだし、梶さんは率先してその「聴かなきゃ」という盛り上がりを狙って作り上げていく。だから売れるのだが、ヒカルの新曲なんて買って当たり前、という人にとっては押し付けがましかったり鬱陶しかったりするかもしれない。

アルバム曲だとそういうのがない為、ゆっくりとマイペースで曲と向き合える。それは、Hikaruとも、世間の流行やら雰囲気に惑わされず対話できているような、心地よい錯覚を覚えられる。

純粋な"アルバム曲"って、いつ以来聴いていないだろう。桜流しはCDシングルが出ていないだけでバリバリのシングル曲だし、時代を動かす化け物コンテンツであるEVAの一部なのでもうそれだけで仰々しい。キャンクリや愛セムはペプシでTVCMやってたからまるでシングル曲みたいな印象だし、グッハピはまさにシンコレ2の看板曲としてPVが作られたし、SMLは映画の主題歌になっちゃったし、そうすると嵐の女神は…結構森永の印象強いんだよねぇ、、、あらら。

そう考えると、This Is The OneやHEART STATIONまで遡らなくちゃいけないのか。6年7年ですよ。それ位我々は、「Utada Hikaruのアルバム曲とゆっくり向き合う時間」みたいなものを取れていないのだ。なんたることか。

Apple And Cinnamonなんかはまさにアルバム曲の名曲で、こういう曲わ聴いていると、バカバカしいが「俺ってHikaruのファンだよなぁ」とつくづく思える。ヒカルの有名曲は極端な話邦楽ファンは皆好きな訳で、いまいち今更強調してもヒカル・ファナティックという感じがしない。せめて、「ヒカルはテイク5をいたく気に入ってるとか。俺もだ。」みたいな事を言って"通ぶって"みたいものだ。

…最も、この日記の読者層を考えると、オフィシャル音源を聴いてるだけでは通ぶれず、"Not For Sale"や"Promotional Only"の音源を持ってて初めて通ぶれるような気もしなくもないが、意外や意外(でもない?)あたしゃ非オフィシャル音源って持ってないのよね。すいませんねにわかファンで。(お前がそれを言ってどうすんだ、という感じですが)

まぁ兎に角、そろそろ、でなくてもいいけれど、久々にシーンとか市場とか流行とかタイミングとか時季や時機に左右去れない状態でHikaruの新しい曲を聴いてみたいかな、なんてふと思った次第であった。欲張りですいません。さて、いつになるやらだわね~。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




前回の補足。ギアフォンの革命性は、それこそほんのちょっとした事である。「眼鏡」にフレームがついて耳に掛けられるようになって手で持たなくてよくなった、とか「懐中時計」にバンドがついて「腕時計」になった事とか、そういった類の発明だ。眼鏡や時計の発明自体に較べれば本当に些細な違いしかないのだが、爆発的な普及の為には必須の一歩だった。まだその一歩には遠く及ばないが、そういった方向に進化しているのではという期待はある。

実際には様々な機能が足りない。例えばこれがあったら便利だなと思うのは、外で鳴ってる音をそのまま取り込んで鳴らしてくれるモードだ。そんなの外せばいいじゃないかと言われそうだが、例えば自転車に乗ってる時などにあればかなり便利な筈。音量を調節し、そのまま補聴器として使えれば用途は広がる。

ほんのちょっとした事なのだ。削れる手間をひたすら削っていく。どこまでもぐうたらを目指す。それが結果的にブレイクスルーを齎す。誰もが靴ひもを結ぶ事に抵抗がないままだったら、ファスナーやマジックテープは生まれなかったかもしれない。ぐうたらは偉大なのだ。

そうやって「音を身につける」文化が定着するか否か。今や手元で情報を得るのは普通になった。大の大人が居並んでスワイプスワイプしている姿は依然異様に映るが、そりゃあ慣れる。スマートフォンのお陰で常に手元に文字と画像と動画が流れてくるように、ギアフォンのお陰で常に耳元に情報が流れてくるようになる。

ああせわしい、と自分でも思った。情報の流れを遮断してゆっくりしたい。一息ついて、それでも読みたい本があるなら読み、聴きたい歌があるなら流す、それでいいような気がする。

Hikaruが最初にipodを身につけながらエクササイズに励んでいるときいて「へー進歩的ぃ」と思ったものだが、32歳を超えた今、どちら側にアピールしてくるだろうか。弛まない情報の流れの中でその存在感を示すか、そこから離れた凪の場所で優しく皆を受け入れるか。

支持者層は大体20代後半から40代前半くらいがメインだろうか。まだまだ情報の流れに"疲れる"年代ではない気がするし、ゆっくりCDを買ってきて聴く、だなんていう風なライフスタイルからも遠ざかっているだろうから、まだまだHikaruとしては最新のガジェットや最新のシステムを利用していく方法を追究するべきだとは思うが、疲れを癒やすのもまた音楽の力だから…何が言いたいかといえばそろそろ"アルバム曲"が聴きたいかなという話。また次回。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ハイレゾの話は暫くいいかな、と前に宣言したので、それとは対極の話を。つまり、音質ではなく利便性の追究でござる。

前に書いた通り、本体がイヤフォンだけのウェアラブル・ウォークマンを愛用して大分経つ。これが本当に便利で、人間にとってこれは"眼鏡"以来の大発明になるキッカケとなるギア(道具・ツール・身につけるもの)になるんじゃないかと期待して私はこれを勝手に"ギア・フォン(Gear Phone)」と呼んでいる。「ギヤホン」という書き方も捨て難いが、それはまぁいいよ。

実際、休日などは本当に眼鏡なみにずっと身につけていられる。そしてずっと音楽が鳴りっぱなしだ。ヘッドギアやカチューシャのようにすっと取り出して身につけるだけ、あとは耳元のプレイ・ボタンを押せば音楽が流れてくる。ずっと着けていても全く不快にならず(これには個人差が大きいと思うけども)、実際、シャワーする時と人と話す時以外はずっとこれを着けててもいい。トイレだろうが台所だろうが物干し台だろうが、土手を散歩しようと電車に乗ろうとずっと着けていて音楽が流れてくる。冗談抜きで、私なんかはシャワーを浴びたあとパンツを穿く前にこれを身につける(笑)。まさに扱いは眼鏡と一緒である。

兎に角感覚が違う。コードがない事がこんなにも快適であるのみならず、音楽が鳴っている場所の感覚が全く違うとは。頭の中に音楽が湧き上がり続けているような錯覚に陥るのだ。不思議、不思議。昨年11月に出たモデルはBluetoothを搭載したので、音楽を聴いている時に電話がかかってきてもそのまま耳元のボタンで電話をとって話せる。便利。

いや、MP3プレイヤー搭載のBluetoothイヤフォンなんてウォークマンに限らなければ前からあった。そういう意味では新奇ではない。しかし、このSONYの製品は、現時点では物足りないものの、しっかりと未来を見据えているようにみえる。

恐らく最終的な狙いは、ギアフォン単独でインターネットラジオを聴けるようにする事だろう。昔のAMラジオのように、耳元のダイヤルを回せばそれこそ何千というラジオ局から聴きたい"音"を選ぶ事ができる。

今はまだ、スマートフォンとBluetooth接続してRadikoやらその他のインターネットラジオ(私の場合専らmorow.com)を聴くのが関の山なのだが、感覚的にわかる。もしギアフォン単独で無線ブロードバンドに接続でき、選局の利便性(多分、これがいちばん難しい)を確保できれば、まるで世界とずっと繋がれているような感覚を味わえるのではないかと。今でも私たちは、視覚的にはスマートフォンからTwitterに接続する事によってまるで世界中とお喋りしているような感覚を味わえている。それを聴覚面で実現できたら、ギアフォンの進化型は真の革命たりえるかもしれない。

世界中の音楽を着る。音楽を身につける。ドラえもんの着せ替えカメラのように、ほんのワンタッチでそれが出来るようになる。今はまだまだだが、ギアフォンの未来をそんな風に想像する。

これを読んでもたぶん「スマートフォンにイヤフォンを有線接続するのとどう違うの?」と思われるだろう。無理もない。しかし、この"ほんのちょっとの違い"の集積が、後に全く新しい発明を生むのだと、私は信じている。いやはや、ヒカルの名前を出さずに書き終えるのは久しぶりだな。(笑)

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




マドンナやビョークの音源流出が話題になっているらしい。記事を読んでいないのでただ「音源流出」の四文字から連想する事を書いてみると、マスター音源の盗難自体はデジタル時代になる遥か前からある。どうやってかスタジオからマスターテープを盗み出し身の代金10万ドルを請求する、なんていう犯罪もあった程。アーティストからすればマスター音源は我が子のように大切な"物体"であるし、制作費もかかってるんだからそりゃあ身の代金払おうかとなるわい。

そういえば、もう古い話だから大丈夫かな、ヒカルも、「HEART STATION」の制作時に音源流出ではと疑われる騒ぎが(ほんの小さく)あった。時期的には最終ミックスや最終マスタリングの前のタイミングで、果たして実際に発売された音源と同じものだったかどうかもわからないのだが、かなり早いタイミングでネット上で"新曲"の音が聴けたのである。

私個人は「今のタイミングで音源を聴くのはアーティストの意向に反する」として結局アクセスしなかった為、その流出音源とやらが結局何だったのかは知るよしもない。

しかし、当時のヒカルのメッセージからは、その事について思うところがあったのではないかと窺わせる雰囲気が漂ってくる。盗人に見立てたくまちゃんを後ろから突き刺す衝撃的なオチは流出犯への憤りを表現したものでは?と当時勘ぐったものだ。ヒカルからしてみればマスター音源は自分の命の欠片を集積させた結晶なのだから自分の分身も同然。それを犯されたというのだからそら思うところはありますて。

今はその頃から比較して随分とクラウド化が進み、更にネット流出のリスクは高まっている。スタジオ作業などは恐らくインターネットから完全に遮断された状況にあるのだろうけれど、今の時代はそれすら"完全には"難しい。ソフトウェアの更新がオンラインのみ、とかPCがWi-Fiを搭載しててふとしたはずみに稼働したりとか、"インターネットに繋がってしまうリスク"は幾つか存在するだろう。今まで以上に慎重に取り扱わなければならない。

しかし、ぶっちゃけ、どこまで行っても怖いのは人間自身である。虚淵脚本かよ。昔のマスター音源流出だってスタジオ勤務の人間が裏切って、という事もあったらしい。ほんまかいな。今だって、道具は変わったが、結局は盗もうという意図がある人間が居て初めて盗難は成立するのだから、本質的な問題は変わらない。もう二度と、あんな殺伐としたオチのくまちゃんツーショットは見たくない。盗むな&盗ませるな。簡単なようで、物凄く難しいな。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




4人でUNOなんて言われてもごらく部の事しか思い浮かばない私はさておき、Hikaruのこったから1人だけ真剣に勝ちに行って7戦5勝とかそんな気がする。UNOなんてコミュニケーション・ツールなのだから楽しくテーブルを囲めればそれで…と思うのだが、類は友を呼ぶと申しますか、あと3人も同じように血眼になって勝利を貪ってくる中で7戦5勝なら大したもんだよね。そんな殺伐としたUNOには参加したくもないし見たくもないが、笑えるという意味では見てみたい。どうでもいい事にムキになれるって平和の証だもの。心が老いててすいません。

それは、でも、"時代遅れ"かもしれないなぁ、と時々思う。これからこの国は人類史上未曾有の?超高齢化社会を迎える。皆で老人の世話をするだけの社会、とセンセーショナルな言い方をしてしまおうか。親だろうが誰だろうが、人より勝ろうとか出し抜こうとかそういう、なんて言うんだ、"生き馬の目を射抜くような生き方"を標榜する人間は、そもそも社会に不適応になっていくのではないか。

一昔前、運動会の徒競走で順位をつけない事が話題になっていた気がするが、今思えばそういうのは"過適応"だったのじゃないかなぁと。老人の世話とは、ひたすらこれから悪くなるしかない未来を胸に手に前に進んでいく営みである。自分のキャリアを華々しいものにしたい、という人は一切向いていない。日々幼児にかえっていく老人を前にして自分を維持し続けられる、いわば"負け続けてもへこたれない"人間が適応的である。

「何度負けても勝つまでやる」という不屈の闘志の"へこたれない"ではない。どこにも誰にも勝利も栄光もなく、最後に待っているいちばんの救いは死であるという生き方。これが普通になっていくのだ。徒競走の件は確かに行き過ぎだなぁと思うけれども、やり方が過剰且つ過敏過ぎただけで、方向性はそっちでよかった気がする。

勿論、華々しいキャリアを今まで以上に築き上げて大金を稼ぎそれで何人もの老人を養ってやる、という気概溢れる人も居るだろう。それはそれで讃えたいが、問題の本質はそこではない。金が足りてようが足りてまいが、地球上の誰かが老人の世話をしなければならず、その仕事内容に(少なくとも今のままでは)劇的な変化はない。ひたすら地味で憂鬱な作業の連続である。お金を稼いだとしても、それは誰かに任せられるようになった、という事なので、少ない若者とそこそこ元気な老人で老人の世話をするという構図自体には何の変化もない。移民? 若い人が増えるかもね。その分、祖国の若い人は減るんだろう。結局は同じである。


何を関係のない話を、と思うが、Hikaruの性格には両面があるのだ。慈しむような優しさと、燃えたぎるような勝ち気の両方を持ち合わせている。Hikaruの持つ慈愛とか、ダメなヤツに寄り添えるセンス・オブ・ユーモアは、まさにこれからの時代に必要な資質で、だからHikaruの歌声はこれからの若い人たちにこそどんどん響くだろう、という見立てと、テトリスやUNOにムキになれる平和で上向きな精神は、やっぱり時代遅れで、全然響かなくなっていくんじゃないかという懸念の、両方がある。どっちになるのやら。

私からすれば、両方を持ち合わせているからよいのだ、と思える。ただ沈んでいられるのは麻痺だし、ただ浮かれていられるのは無視である。麻痺も無視もせず、痛みと向き合い幸せになる事を躊躇わない"生きる強さ"を、Hikaruは持ち合わせている筈である。それをどう引き出すか。"楽しい"はきっとそこから生まれてくるだろう。希望もたまには、悪くない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




去年の今頃はKUMA POWER HOURの放送休止でガッカリしていたっけなぁ。それに較べれば今年の今月はまだマシな方だ…という低めに設定したハードルをクリアして満足したフリをするのはよくないかな、とは思うのだけれど普段創作上のハードルは高く上げっぱなしなのでこっちはこれくらいにでもしておかないとバランスが取れないよね、と思ったり。乙女心は難しい。32歳つかまえて乙女もないもんですが。

人間活動、というフレーズはファンのみならずそこそこ知れ渡っていたようで、流石に4年も経つと忘れ去られているかもしれないが、結局「いつも通りのヒカルちゃん」が帰ってくるのがいちばん喜ばれるんじゃないかなと思ったり。なんだろう、どんな人か、というより、ひたすら出力のある方へ皆集まっていく。スマートフォン時代になってますますその傾向が強くなっている。時代の流れが速いとはいえ、この、「喋り続けたもん勝ち」な現状は、ひとこと、疲れる。

それを言うなら無意識日記はまさに「喋りっぱなし」な気がするが。あらら。

たとえ復帰したとしても、このペースにヒカルはどう対応するのか。Twitterが継続していなかったらと思うとゾッとする。

ただ、時代の流れと無関係なペースでの活動となれば、それはそれで、時代の流れについていけないなぁと常々思っている層のハートを掴めるよね、とも考える。案外、そっちの数もバカに出来ないかもしれない。中高年層、と気軽に纏められるものではないが、時代の流れに敏感なのはいつの時代でも若者なので、大体そうやって括ってしまってもいい気も、しなくもない。ちょっと微妙。

32歳という年齢は、昔に較べればまだまだ若輩といえるかもわからない。実際、今の時代は35歳まで若者扱いだし。これくらいになってくると、若い世代の代弁者という感じでもなく、かといって年寄りとして成熟した世界観をもつ訳でもない。中途半端かもしれないが、逆にいえば上の世代にも下の世代にも影響を発揮できる立場といえる。

まだまだ暫くは、ヒカルの支持層の半分以上はヒカルより年上だ。年下の方が多くなる"逆転現象"が起こるのはまだまだ先…あと10年くらい? これはちょっとわからないけれど、もう暫くは年上目線でヒカルちゃんの事を心配しまくるファンの存在は大きいままだろう。そういう意味では、ファンの世代交代はまだまだ先の話だろうな。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




大橋トリオの"Stay Gold"の美点は、まず前回(いつだよ(笑))解説した通り「宇多田ヒカル史上最も女性らしい口調の歌詞を無理なく男性ヴォーカルで表現出来るアプローチを見いだしたこと」であった。そしてもうひとつの美点はピアノのアレンジである。

これは(これも前回ちょっと触れたが)ちょっと凄い。元曲がギターなところをピアノでアレンジする、なんていうのはカバーとしての意義をよくわからせるが、そもそもピアノがメインのアレンジである元曲と同じくピアノでアレンジしておきながらカバーとしての意義を感じさせているのだから。

ピアノに関しては、ヴォーカルとは対極的なアプローチともいえる。歌声はヒカルのエモーショナルで"どこか笑顔"なそれとは違い、無表情で、虚ろですらあるのだが、ピアノの方は元曲と似通ったトーンで最後まで押し切っている。だから凄い。何故ここまで近しいのに独自性を感じさせるのか。

オリジナリティにこだわる人は、他人に似ている事に敏感なものだ。曲を作って既存のアイデアに似ていたら破棄をする。それは潔く、そのこだわりが新しい音楽を生むのだからよい事なのだが、本来オリジナリティとは他者と似ているか否かは関係ない。オリジンという言葉が発端とか起源を意味するのだから、ただ単に「そこで生まれたもの」に過ぎないのだ。それが結果として、他のなにものにも似ない可能性が高いというだけであって、大事なのは貴方の心から出てきたかどうかなんだ。

大橋トリオのStay Goldにはその"オリジナリティ"を感じる。寧ろ目一杯元曲のヒカルのStay Goldを参照にしているのに、このピアノの音色は彼の心から湧き出てきているように聞こえる。全体の展開に迷いがないのがその証だ。ひとつひとつの音がきちっと意義をもって動いている。だから、無理がない。こういうのも"カバー"と言っていいんだ、と許された気持ちになる。陳腐な言い方をすれば「他人の曲を完璧に自分のものにしている。」といったところか。

特に印象的なのが、ブリッジ(Bメロ)のピアノの、1番と2番の違いである。1番では受け身というか、大きく歌メロを抱き抱えて支え応えるような感じだったのが、2番では少し早めのアルペジオで寧ろ曲を引っ張っていき、そこにヴォーカルがついていくような構成になっている。

その"転回点"は、1番の後の間奏である。ここでピアノが意志を持つのだ。はたと気がついたようにピアノが曲を引っ張り始める。Aメロではやや抑え気味だが、その"意志"の力強さがBメロで顕在化するのだ。いやはや、心憎い、そしてとても自然な構成である。

ここでは、歌とピアノの対話が成立している。歌がこうくればピアノはこう、ピアノがこうくれば歌はこう、という風なニュアンスのキャッチボールが繰り広げられている。とても柔らかい空気と、堅くて冷たいピアノの音色が、まるで薄いオーロラを冬の夜空に棚引かせているかのように折り重なってゆく。冬の夜は寒いよね。

オリジナルのヒカルのStay Goldはピアノのフレーズがガッチリと楽曲の骨格を固めている為、広がった風景は固定されていて、その中で様々な出来事が起こるような感じだが、彼のそれは人と夜空が対話して、その返答如何で天候が僅かに変化するような"ふわりとしない冷たいやわらかさ"がある。言葉で表すのはとてもむつかしいが、聴いてもらえれば伝わると思う。

そんな、かなり異なる両者の音作りがともに最終的には冬の夜空に雪が降るような似た情景を浮かばせるのだから不思議だ。どちらもオリジナルと言いたくなるほど、両者はそれぞれに独自の世界を築き上げている。正直、2人それぞれのテイクを仮に同時に初めて聴いたとしたら、僕はどちらがカバーでどちらがオリジナルか区別がつかないかもしれない。それ程迄に秀逸な大橋トリオによるカバーである。も一回聴こ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ