無意識日記
宇多田光 word:i_
 



少し前にヒカルがテレビっ子かどうかというやりとりをした。まぁどっちでもいい事だとは思うのだがひとつ私が「こうではないか」と推理している事がある。ヒカルは、「基本的に同じ番組は何度も観ない」のではないだろうか。

テレビとは習慣である。期待に胸踊らせて画面の前に待機、という事もよくあるけれど基本的に"何の気なしに"電源を入れ、"特に何も考えずに"ザッピングをし、特に何をする訳でもなくつけておいて見ていたり見ていなかったりするものだ。いわば、風景・背景に近い。

このような役割である為、ひとつの家庭である時間に見る番組というのは大抵決まっている。わざわざいつもと違う番組を見ようというのは、大抵その回がつまらなかったりといったやや消極的な理由だ。いつもどおり面白いのであればいつも通り見るだろう。連続ドラマでもないのに毎週安定した視聴率を取り続ける番組はそういった視聴者の"習慣"を獲得しているのである。

ヒカルは、比較的そういう事が少ないのではないか。面白いと話題になっている番組は取り敢えず見てみるけれど、その番組の肝を把握すれば、もうそれ以上見ようとしない、つまり毎週そのチャンネルに合わせる、という"習慣化"の習慣がないんじゃないかと。つまり、色んな番組を結構"見たことはある"けれどそんなには"いつも見る"訳ではないんでないか。

そんな風に推理するのには理由がある。ヒカルが、「自分で作った曲を完成後は殆ど聴かない」傾向にあるという話である。多分これがプロのクリエイターの感覚なのだろう。創って、差し出す。そうした後には今度はその出来上がった作品を味わうのではなく、次の作品を作り始めるのだ。物凄く極端な言い方をすれば、出来上がって完成してしまいもうそれ以上手を加えられない作品はヒカルにとって"邪魔"ですらあるのだ。自分が"手掛けられるもの"にしか、その都度興味がないのである。

その性格が、プロフェッショナルとしての側面にだけ発揮されるのならまだ普通である。ヒカルの場合は、何もしなくても、つまり仕事でなくてもそういう気質があるのではないか。テレビ番組というのはその着眼点と発想を枠組みとして毎週中身を詰め込んでいくものだが、ヒカルにとって"得る"ものがその枠組み自体だけならば、一回見れば十分である。いわば、創造性の核である。二回目以降の放送は結局これも"邪魔"でしかない。

対照的なのがくまちゃんで、水戸黄門のファンである。毎週同じ枠組みでこれでもかと繰り返されるテレビの権化のようなこの番組。ヒカルにないものをもつ、というのがひとつの特徴であるくまちゃんに相応しいのではないか。

しかし、ヒカルは人間活動を通じて"アマチュアとして音楽を作れる"時間をたっぷり持てた筈である。つまり、誰に聴かせる為でもない、自分で聴く為の作品、或いは作品そのものの為の作品を。それが果たしてヒカルに可能なのかどうか。やっぱり、曲作りという営み自体、"プロフェッショナル"という枠組みがなければ機能しないのか、それともぼくはくまが生まれた時のように、ただただ生まれてくるものなのか。もしかしたらヒカルは、余りに小さい頃からプロフェッショナルなミュージシャンとして振る舞ってきた為、"敢えて"自分から"アマチュアになってみる"事が必要だったのかもしれない。或いは、アマチュアになる必要性なぞ未だに感じていないかもしれない。音楽に愛されまくる存在は、音楽を求める必要などないのだから。作詞はまた違いそうだけれどね。

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ヒカルが2ちゃんねるのまとめサイトを読んでるって書いてたのはもう5年ほど前になるか。確かに、当時は面白かった。言葉が生まれて変化を繰り返し吸収拡散淘汰されていく大きな流れ。外から眺めていても楽しかったし、何より、3ヶ月も離れていれば完全に流れから置いてき堀にされるんじゃないか、というスピード感があった。言葉のダイナミズムに興味を持つものならば食いつかずにはいられない活気があった。

今も、まとめサイトは、様々な紆余曲折を経ながらも、一部は転載そのものを禁じられながらも、結構活発に活動している。が、それらを見る限りその頃のようなダイナミックな動きは見られない。2ちゃん全体がそんな感じなのかまとめサイトが抽出するスレッドが保守的なのかどうかはわからないが、多分もう今はヒカルも当時のような興味でまとめサイトを開く事はないだろう。

でだ。果たして、それではTwitterはそういった"言葉のダイナミズム"を体現或いは継承したりしてくれているだろうか。私の見る限り"否"だ。拡散されていく言葉はその時点で"陳腐化"している、価値の確立した「誰かの名言」である為、伝達の機能は果たしてしても創造の機能としてはかなり弱い。せいぜい、気の利いた返しをして「誰がうまいことをいえと」と賞賛される程度の事だ。

この理由は単純で、言葉を発した人間が誰か特定してしまえるからである。言葉は人の手を離れ、あたかもそれ自体が生命を持つかのように振る舞わせてあげると、途端に変化と成長を繰り返していく。そうなる為には2ちゃんねるの持つ匿名性は圧倒的に有利だった。発言の属人性を排し、純粋に言葉だけを弄る行為が延々と繰り広げられていく。まさに"独り歩き"。この「手に負えない」感がクリエイティブな雰囲気を生む。

小説やマンガなどの物語も同じである。作者は決まって、「キャラクターたちが勝手に動いて物語を作り上げていってくれる」という言い方をする。最初っから作者の用意した物語に当てはまるようにキャラクターを動かそうにもそこに活気は生まれない。変化する主体自身が自主性を持つ事が大切だ。

そう考えると、音楽もただ計画的に制作に取り組むだけでは物足りなくて、自然に生まれてきて止まらない感覚をうまく捉える事も大切になってくる。ヒカルが次に活動する為の"理由"がそれだとしたら、今でもヒカルは自身の復帰時期を"知らない"事になるが、果てさて実際のところはどうなのだろうか。寧ろ、ツイートが減る時期の方が怪しいのかもしれないな。

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ガラスに気づかずに激突てホンマ気ぃつけたってぇや~。おいらなんぞガラス扉の前に立ってても一向に自動ドアが開いてくれへん。こっちはガラスに気づいてるのにガラスの方はおいらに気づいてないという悲しいストーリー。涙を堪える。

ところでところてん、今回も銀花帳はよくまとまっているな。丁寧な下調べが光る。

http://t.co/xu5Af9wC

そうだな、確かにIvoryIIの事をわざわざツイートしておいてEVAの予告がピアノだったりすると色めき立つわな。今日もわざわざ「It' (NOT) Automatic」なるツイートにこれ見よがしに反応しているし、余りにも色々とわざとらしい。今回の"宇多田ヒカルのEVAとの関わり方"を見破られない絶対の自信でもあるのだろうか。

EVAのピアノ曲が誰の手によるものか私は未だに知らない。もう誰か突き止めたのだろうか。余りに有名過ぎてわざわざ言うまでもないとかだったら知らなかった私は寂しいぞ。でもあれは光の書く曲調ではないわな~。

何からの"EVAとの関わり"があったとして、そのミーティングをいつから行なってきているかを推察するのは難しい。しかし単純に考えて、人間活動宣言(2010年8月)時点でヒカルがEVA陣営に何らのアポイントメントもとっていない方が不自然である。

つまり、"人間活動"がある意味において"潔癖"であるならば、芸能界の仕事は断るだろう…

…ってこのタイミングでまた新しいツイートかっ!? 今度は『ワロタ』かよっ。さっきは『痛いお』とかまるっきりねらー用語ばっかぢゃねーかっ。ばっかぢゃねーかっ!? 

…まぁ、名誉ν速民様ですけどね、実質。


あーもう、今日は真面目な話やめやめw 次のヒカルのツイートを素直に待つ事にするわ。エントリ書いてられる気分じゃねぇっ。

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当初は、オリンピックが開催される時期、光はロンドンに在住で、ひょっとすると観戦になんか行っちゃったりして、現地滞留メディア陣に目ざとく見つかっちゃったりしないかな、なんて余計な心配してたんだけど、何となく今は日本に居るような感じだし、大体テレビ買ってないって事はオリンピックをテレビ観戦する意志がそもそもあんまりないってことだろうから、たとえ今ロンドンに居るとしても会場まで足を運ぶなんてなさそう、結局興味がないのかな、なんて思ったり思わなかったり。

こういう競技が種々見られる状況、どうしてもKiss & Cryを思い出す。4年間の思いをたった1日、たった1秒の一瞬に込めるそのリスキーな生き方に感嘆して、この曲は生まれた筈だ。誰それを応援するしないに関わらず、その集中力に触れるだけでも得るものは多い。アーティストだとどうしても喜怒哀楽の爆発力に欠ける。それをナマで見れる千載一遇のチャンスなのに…。

かといってキスクラが一流アーティストの目線で書かれているかというと全くそんな事はなく、当初は歌詞にリストカットが含まれていた位、"うまくいってない"、"うまくいかなそう"な人々を描いた楽曲である。それに対し『まぁいいんじゃない』というその何とも言えない優しさ。私なんかはついつい小津の東京物語の一場面、老夫婦が「まぁ、ええ方ですわ」「ええ方じゃ、ええ方じゃ」と慰め合う場面を思い出してしまう。そこにある、未来への期待が裏切られた時の受け止め方、何が悪かったかといった話はもうせず、笑顔でそう言うしかない、というちょっぴり切ない物言い。4年に1度に賭けるような人生でなくとも、人が生きていれば結局そういう事もある、いや大半がそういうことなんだと、溜め息をつかずにはいられない、そんな哀愁やペーソスを包み込む笑顔が、キスクラの本質だった。とすると、もしかして今の光の気分とはあんまり相容れなかったりするのかな。こればっかりは、訊いてみないとわからないや。

でも、出来るなら、話題性云々は抜きにしてその選手たちの"ひたむきさ"に、少しでも触れてみて欲しいなぁ、と、そしてそれがいつの日かの復帰の後押しになってくれないかなぁ、とぼんやり思う7月の暑い朝でしたとさ。

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アメリカはメダル獲り過ぎてるから応援する気にならんのだそうな…そういうもんかね。

その昔ヒカルは「チームを応援するのってピンと来ない」みたいな事を言っていたような。まぁ昔の話なのでもうどっちでもいいのですが、その「ピンとこなさ」をよく表す状況がこの度現れた。例の、イチローヤンキース移籍である。

イチローファンは長年、そう、11年半もの間イチローを応援しながら、彼の所属するシアトル・マリナーズも同時に応援してきたのだ。一口に11年半と言っても長いよこれは。当時幼稚園を卒業した子がたった今大学受験や最後の甲子園に向けて頑張りまくっているのである。幾星霜だよまったく。

そんな彼らが、準備時間2時間余りでヤンキースを応援しなければならなくなった。しかも対戦相手はそのマリナーズ。割り切れない思いを抱いて当然であろう。単にイチロー個人を応援するだけならこんな事は起こらなかった。チームを応援するから奇妙な事が起こる。

しかし彼の場合は、チームの勝利を第1に考えているから(WBCを思い出せばよくわかるだろう)、イチローを応援しているといつの間にかチームも応援するようになる訳で…複雑な思いが去来するのも致し方ない。

要は、チームを応援するというのは、突き詰めれば「中身は何でもいい」のである。そこが昔のヒカルにはピンとこなかったのだと思う。しかし、「何でもいいし誰でもいいんだけど、誰か・どこかひとつ決めて応援しながらスポーツを観戦する楽しさ」を知ってしまえば、チームを応援する事に抵抗をみせるどころか、率先してテレビ観戦してしまうようになるだろう。テレビないんだっけか。

この、「どうでもいいけれど」「何でも誰でもいいけれど」というのは最大の曲者である。誰でもいいのなら、「とりあえず同じ国のヤツを応援しようか」となる人数は圧倒的に多い。個人への愛着もチームへの愛着も国への愛着も何も必要がない。というか、どうでもいいからこそ愛国心というものは生まれるのである。真面目に国を愛そうと思ったら「あれ?"国"って何?」となりかねない。そこで考え込んでしまうとどこも応援できない。「俺日本人だから日本応援しよ」という単純さが、国を動かすのである。熱狂に必要なのは愛ではなく"どうでもよさ"、即ち無頓着である。新年を迎えるカウントダウンであれだけ盛り上がれるのは、時間がどうしようもなく単調だからだ。時間の均一性、一様性がひとを熱狂に駆り立てる。キリのいい数字を迎える時に沸き立つ。その数には何の意味もない。原点を変えたり、進数を変えたりすればキリ番は途端に"ただの数字"に逆戻りする。チーム応援も似たようなもので、別に日本以外の国を応援したとして
もそれはそれで楽しい筈なのだ。なかなかそうならないのは、周りがみんな日本を応援しているからである。この組み合わせ、「実際、どれでもいいしどうでもいい」という無頓着の精神と「周りがそうしてるから」という迎合の精神。大衆のパワーはこうやって生み出される。

果たしてヒカルは、そのパワーに対してどんな曲を書くのだろうか。市場史上最高に売れるというのは、「正直、音楽なんてどうでもいい」という大多数まで巻き込んで初めて可能だった筈だ。チームを応援する熱狂を知ったヒカルは、何をどちら側に蹴飛ばしてくるか。中身で勝負してついてきてくれる人の為に歌うのか。ヒカルが歌に無頓着を持ち込んでくるとはどうしても思えないので、やっぱりそんなに売れないのかなぁ。私は王様は裸だと気兼ねなく言えるので歓迎なんだけどね。

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昨夜はTwitterが落ちてたらしい。五輪でサッカーで格上撃破となれば致し方ないか。四年に一度のイベントの為にサーバ増強ってのもなぁ。いや私が心配する事じゃないですが。

しかし、そのせいで@utadahikaruからのツイートが投稿出来なかったとしたら問題である。まぁ、試合経過教えてくれといいながらソッコーで寝入っていたかもしれないが、呟こうと思ったら落ちてたではやるせない。光も光だ。Twitterが落ちてたならMessage from Hikkiを使えばよいのに。あそこは無駄にサーバが強い…まんまかどうかは知らないが、少なくともアップロードは出来た筈。Best Effortなインターネットの世界では複数のアクセスチャンネルを持つ事が大切である。プロバイダーだって2つ以上のインフラと契約するのが理想だ。まぁ大半の人が家PCと携帯の二種類と契約してるけどね。

で、ヒカルの家にテレビがない話。住んでる家を(一時的にでも)引き払う時に家財道具を処分したんだと思うが、確かに、インターネットがあればテレビがなくてもさほど困らないだろう。というか、基本的に"放送"という形態自体不便である。少なくとも情報を得る手段としては適切ではない。観たいテレビ番組があるならテレビを買えばよいだろうけど、今のヒカルにはそれがなかったんだろうな。

にしても皆の驚きぶりは面白かった。私なんかはテレビがないときいても「ああそう」くらいにしか思わなかったが、なかには殆ど異国人、異星人扱いしているケースもあった。リプライを貰ったツイートからしてその感触が残る。テレビのない生活は異質、何か特別な理由があるに違いない、という訳だが、観たい番組がないなら別になくても不自然ではない、とはならないようだ。ふむ。

これは、あんまりいいことではないなぁ。観たい番組があるかないかに関わらず取り敢えずそこにあるのが当たり前、という感覚で居れば、たぶんそこで流れた情報はまず信じてしまうんじゃないかな。テレビというものは今も昔も娯楽の王様であって、報道や情報は苦手というかそもそも無理があるのだが、そういった"あるのが当たり前"という「神格化」されたポジションに就いてしまう、つまり「何よりテレビが偉い」みたいな風潮が出来てしまうのは…しまっているのは…あぁ、切ないねぇ。

で、まぁヒカルは別にテレビが嫌いになった訳でもないだろうから観たくなったら買うだろう。ただそれだけの話なのだ、ただそれだけの…

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…え?次元の話するの? うーん、おいらもちゃんと理解してるわけじゃないからなぁ…

大体、『4Dになったら熊、時間軸を自由に行き来できるようになるんじゃね?』って四次元時空描像をしっかり把握しとらんな。"行き来"という概念がまず四次元時空にはない。ここが元々画期的な所だ。それまでは宇多田町一丁目一番地から二番地へ移動しそこからまた一番地に移動したら「行って帰ってきた」即ち「戻った」と形容できていた訳だが、相対論以降はそう解釈しない。15時34分に一番地に居て15時35分に二番地に居て15時36分に一番地に居たならば、それらは四次元時空においては総て異なる"場所"である。相対論においては、一度通過した時空は未来永劫戻ってこれないのだ。まさに一期一会なのである。これは、空間成分が3次元から4次元5次元と増やしていっても同じ事だ。確かに相対論では時間軸を空間軸と一緒であるかのように扱えはするが、(平たく言えば)係数"-i"のお陰でそれはまさに空間とは別のものなのである。流れる時間を氷漬けにする代償として"二度と
同じ場所に戻ってくる事はない"ように構成されているのが相対論なのだ。光の印象とは逆なのである。まぁ、お陰で"同時性"という概念が直観に反して空間と時間両方を巻き込んで"相対的"であれるのだけれど…。なんだかんだで、やっぱり時間は特別なのである。

…嗚呼、(SF)ネタにマジレスカコワルイ。今夜は短めだけどこれ位にしておくか。(溜息)

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昨夜のツイートのフランクっぷりったらなかった。97万人のフォロワーに見られている事などどこ吹く風のマイペース。いや勿論配慮は怠らないのだけれど。

それにしても日本人の英語トラウマはどこまで根深いのだろうか。中学高校と文系理系問わず皆が学習する必須中の必須科目。何故その時間を"日本語"の授業に当てないのか不思議で仕方がないが、国語授業の中身のなさを思い出すにそれも無理な話かなと思ったり…文法の授業あったんだけどなぁ。

@utadahikaru宛てのツイートにも様々なものがあり、中には「どうしてそんなに英語ができるんですか?」という感想もあった。素直な気持ちで訊いたのだろうが、英語圏で暮らす人々は5歳児だって普通に英語を話す。そういう意識が一次的に立ち現れない程に日本での「英語」という存在はモンスターじみた異彩を放っている。ある意味植民地政策が成功したといえるのかなぁ。それはまぁ知らないが。

『科学用語なんかも日本語だとピンと来ない』のは、そうなんだろうなぁ。日本人だって読んだ文献が英語の場合は適切な日本語訳が思い浮かばなくって会話の最中でも英単語がどんどん挿入される。実際、ムリヤリ日本語にした妙な響きの単語よりそっちの方が伝わりやすいし。訳書の中には酷いものがあるからねぇ。日本語で読もうとするだけ無駄っていう側面もあるし。難しい。

しかし今回一番困ったのは"like"で遊ばれた事だ。日本語でいえば「ミタみたいなのまた観たいなみたいな」みたいな事ツイートしてくれた訳だが、こういう言葉遊びはそのまま移植しようとしても土台無理で、ジェイムズ・ジョイスの翻訳者は本当に気苦労が絶えなかったと思う。

歌詞の対訳においては、そういう言葉遊びはバッサリ切ってしまうのがスッキリしていてよいのだが、対訳者からするとどうにも作詞者に気兼ねしてしまう。その心遣いが必要のない"本人による"対訳の方がバッサリスッキリする、なんて事もあったな。EXODUS収録のAnimatoの話である。原文は色々な音韻が混じり合っているのだが対訳には反映されている気配はない。歌われている気持ちはパーソナルだし、確かにこれは光本人が訳して正解だったな。次に英語の曲を書いた時にまた自ら対訳を手掛ける事はあるのだろうか。実は今その真っ最中だったり、しないか。そのせいで昨夜みたいなツイートに繋がって…

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自殺についての話題が盛り上がっているようだけれど、報道規制協定とかないの? 加熱報道が原因で誰かが自殺しても、報道側はそう報じないと思うんだけど。同じ穴の狢対決。皮肉。

本当に死にたがってる人に「生きろ」とか「死ぬな」なんて言っても意味がない。彼は、彼女はもう生きていたくなんかないのだから。何故死なずに生きているのかといえば生きていたいからではなく死ぬのが怖かったり勇気がなかったりするだけだ。生きたいんじゃなくて死ねてないだけなんだよ。いや、そんな人に会った事ないからこちらもお話で書いてるんだけどね。

希望を持て、というのがそもそも間違い。お前は100m9秒で走れと言われたら走れるのか。希望を持つというのはそもそもからして生きたがっている人間の芸当なのだ。「死ねてない」だけの人間からすれば、スーパーマンも同然である。パンがなければケーキを食べればいいじゃない。ごもっともだが、どうすればいいのか。

彼らに必要なのは生きろとか希望を持てとかいう無茶ぶり命令系メッセージではない。生きていればこんないい事が"実際に"あるよという体験そのものである。そんなことわかってるよと誰しも言うだろうが、実際に自殺を考えている人の手を取って今在る環境からEXODUSさせ何らかの"生きていたくなる"ような経験をさせたい、と思って、うん、思うだけでもいいや、そういう人はどれ位居るだろうか。死にたがっている人の今の気持ちをいきなり否定しにかかっている風ばかりにみえるのは私の根性がひねくれているせいなのかな。いやそうかもしれん。(真顔)

生物は生きたがるとは限らない。自然淘汰は奥深い。もしかしたら、種の存続にとって害のある個体は自死するような機構がどこかに存在するかもしれない。わからない。しかし一方で、自殺という枠組みが生物にとって不自然に映るというのも同然ある。統計をどこまで信用すべきかはわからないが、確かにデータ上では8歳以下のこどもは殆ど自殺しないのである。従って、自殺とは生物学的な特性ではなくヒトの文化の歪みが生み出しただけのガラス細工、いやガラス不細工であるとも考えられる。

その論に立てば、本当に心の底から死にたがっている人なんて居ない、という"事実"が存在する事も論理的には有り得るだろう。であるならば、その感情を喚起する方法論を探るべきだ。文化の不細工に対しては文化の小細工も小賢しながら効き目があるかもしれない。その点に関しては、実際に生きたがっていて生きている我々の方が希望を捨てちゃあいけない。100mを9秒で走り抜ける事はできなくても歩いたり這ったりおぶってもらったりして100m移動する事はできるだろう。希望を、持とう。

今「実際に生きたがっていて生きている我々」と断言して貴方方を巻き込んでしまったが、少なくともここの継続読者は皆、生きたくて生きているものと思われる。ヒカルの、新しいメッセージやツイートや、何より新しい写真や映像や、新曲が出るのを心待ちにしているだろう。多少の強弱はあれど、それは「生きたくて生きている」と言っていいのではない。たかが歌手を取り巻く環境の話でしかないが、確かにあの歌声を耳にする事は生きる事に繋がる。

だから、万が一自殺が頭をよぎっている人が居るならば、私からのメッセージはひとつしかない。ヒカルの歌声を聴いてみて欲しい。私の実感からして、あの歌より、あの人より「生きていたい」と思わせる存在はない。まぁ、貴方に「あう」かどうかは、神のみぞ知る、ですが…

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今朝のアマゾンランキング@コミックによるとゆるゆり8巻9巻(1日おきの連続刊行という離れ業)が3位4位らしい。売れてるなぁ。

この作品の魅力は語り始めたらキリがないが、いちばんの魅力は主演4人による声優ユニット「七森中☆ごらく部」のミラクルな仲のよさだろう。中の人は「4人揃うと魅力80倍」と言っていたが、この倍率でも過小評価だと思う。

なにしろ、2年連続で「ただひたすらサインを書き続ける」というだけのニコニコ生放送の番組を敢行しても全く"おしゃべりとまらない"状態なのだ。そのサインの枚数1人1000枚、合計で4000枚。これだけ書くのに擁する時間なんと6時間。なんちゅう番組や…

…しかし、ニコニコ生放送ならそれが可能なのだ。羨ましい。そう、ヒカルが「30代はほどほど」を6時間生放送してくれたらっ。

本人は「絶対イヤだ」と言い張ってきかないだろうが、別に歌なんか唄わなくていいじゃん。極端な話、ソーシャルストリームの発言を拾っているだけで6時間くらいすぐ経つ。メイクとかめんどくせー、というなら映像ナシのラジオ放送でもいいだろう。

なんで今まで気がつかなかったんだろう。あまりにも有名人過ぎて、「番組に出演する」場合の"出演時間"というものをいつのまにか常識的に測るようになってしまっていた。別に既存の地上波の枠組みで考える必要はなかったのだ。ニコニコ生放送なら6時間でも可能だし、USTでも何でもよい。更に中身なんて何でもよい。光が疲れたら何本でも連続でPV流せばよいじゃないか。台本なんてあってないようなもの。漫画を読んでそれについて熱く語ってもいいし、休憩も沢山はさみつつ"長い番組"が、インターネットのインフラならカンタンに実現できる。いやそりゃ尽力するスタッフの皆さんは大変だろうけど、そこら辺もロークォリティでいい気がする。

例えば6時間、生放送を流し続けるとしてミスなしなんて不可能だ。ハプニングやトラブルは起こるものとして最初っから捉えておいた方がいいだろう。でもそこはインターネット、例えば、別にニコニコとUSTで二元中継したっていいんだし、観られる所で見ればよい。ラジオストリーミングにするにも、幾らでもチャンネルはある。スマートフォンならアプリひとつ入れればOKだろう。

ホント、なんで今まで気がつかなかったんだろ。かねてからNHKで「今日は1日宇多田ヒカル三昧」をやってくれないかと懇願(?)してきたが、別に自分でやっちゃえばいいのである。光が出ずっぱりでなくたっていいし、"照實タイム"とか結構需要があるだろう。話の興が乗りすぎて、照實さんが小さい頃の光の恥ずかしエピソードを語り始めちゃって慌てて光がそれを制止にくる、或いはケーブルを引っこ抜いて放送事故とか考えただけでもワクワクする。短く凝縮したキリッとした番組もいいけれど、尺を長くする事で新しく生まれる面白さもきっとある。


ホント、なんで今まで気がつかなかったんだろう…

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TL見たらみんなイチローより川崎宗則心配してて笑った。

最後「笑った」で締めると笑っているように見えない不思議。

さて、以前当欄でも紹介した@utatane_hikaruさんが@utadahikaruにフォローされたようだ。ほんまかいなと思ったらマジだった。中の人はひたすらツンデレなので御本家からメンションとばされてもツンばれるかが見ものである。意地悪ですいません。あとフォロワーも97万人突破したな。桁上がりまであと一息だ。

で、だ。彼だか彼女だかのツイートは早い話が宇多田ヒカルのあらゆる歌詞で転寝(うたたね)してみせるという単純なものなのだがこれが妙に面白い。ポートガス&モンキー兄弟も突然眠りに入って笑いを取っていたが、人が眠るのってなんでこんなに笑えるのか。不思議だ。なかでもいちばん秀逸なのはWINGSで、他のが「ああそこから変えてくるか」とか「一文字も変えてないがな!」とかな中、一文字だけ変えて宇多田ヒカルの歌詞を転寝ヒカルの歌詞に変えてみせた。いや中の人のセンスは素晴らしいね。光がフォローしてくれたお陰でおおっぴらに讃えられるよ(笑)。着眼点の勝利だな。私が自分で思いつきたかった。

元々ヒカルの歌詞は眠りが多く採り入れられていて、その点に関してはこのblogでも再三再四取り上げてきた。それを「うたたね」という駄洒落を冠にして歌詞を弄る方向に持っていくとは穴だったわ。本来精魂込めて書き上げた歌詞を改変されるなんぞ決して気分のいいものではないが、光本人がOKなら安心である。そこには、センス・オブ・ユーモアがある。中には、気分を害する人も居るかもしれないが、別にこれで元の歌の形状が崩れる訳でもない。まぁ、あまりにもギャグとして使われ過ぎると段々曲をシリアスに捉えられなくなっていくという弊害も考えられなくはないが(史上最高の名曲のひとつだが、今更J.S.バッハのトッカータとフーガをシリアスに鑑賞しろったって結構無理だよね)、今んとこ替え歌歌われてる訳でもなくツイートしてるだけなので問題はないだろう。

あと、プロフィール写真のセレクトも秀逸なのだが、これに関しては光、訴えていいと思うぞ。(笑)

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おぉ、イチローがヤンキースに移籍するのか。昨年と今年の成績を鑑みれば仕方がないが、これで事態がどちらに転ぶか推移を見守りたいところ。

一昔前に較べ「年齢なんてただの数字」という言葉は説得力を増している。イチローの場合も恐らく40代でもプレイし続けるだろうと予想していただけにこの2年の不振は意外だった。ただ、昨年のプレイを実際に見ていた選手たちからは「衰えた様子はない。運が悪かっただけ」という評価だったらしいので、環境の変化がまた起爆剤になるかもしれないし、常勝期待軍団に放り込まれて余計に疲弊して選手寿命を縮めるかもしれない。また、まだ時期が時期なだけに三角トレード等、ヤンキースでプレイしないかもしれない。まぁ、実際にグラウンドに立てるまでは様子見だ。

彼の選手人生を見ると、あれだけの活躍をみせながらなかなか優勝争いに絡めないというか、田舎で孤高の人やってるイメージが拭えなかった。鶏口牛後の哲学なのかたまたまそうなったのか。人生はわからないものである。

毎度言及しているように、UtaDAの1stが殆どプロモーションされずに終わったり、2ndが途中リタイアだったりとなかなか英語圏では波に乗れないというかもどかしい状況が続いてきた光だが、あとから振り返れば逆にそれが歌手生命を延ばしたという解釈が出来そうな予感がプンプンする。

日本での活動はそれなりに順調、というのはある意味鶏口牛後な状態にあるともいえるだろうか。才能からすれば、外から見た時そのような感想になっても仕方がない。つまり、これだけの才能を「井の中の蛙」に押し込めておくのもどうかと。

リリース自体は今や電子配信があるのだから国を問わない。問題はライブだろう。アイアン・メイデンはこの30余年で58ヶ国をツアーして廻ったらしい。その気になれば、それだけ演奏しに行ける国と地域があるという事だ。それだけの世界をまわって見れる、というのもまた得難い経験になるだろう。人間活動という意味ではそれもまた意義のある経験になるのではないだろうか。それ位ツアーして回れる売上を…でも日本在住のファンとしては胸中複雑ですわね。

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rebel  


前回の話、わかりにくかったと思うのでもっとわかりにくくしてみよう。うしし。

扇情的に記述すれば、社会的に危なっかしい人材は芸術芸能やスポーツの世界に封じ込めろと言いたいのだ。特に魅力が秀でていて人を引っ張る力のある人が実際に宗教家や政治家になると大変な事になる。十中八九、悪い方へ変化する。後の一二は変化なしのケースだ。世の中がよくなる為には全世界人が(原理的には)共有出来る医術や技術の発達においてのみであり、それを政治と宣伝と経済が大間違いを繰り返しながら何とか取り入れていく過程を経て今日に至っている。そういった医術や技術を実際に開発した人々を含めヒトという生物は概ねそういった才能に恵まれていない。種の特性なのでまぁ半ば諦めるよろし。

またまたえらく壮大な話になったな。少しばかり話を小さくしてみよう。宇多田光氏が宗教家だったらどうするか。私は入信してしまうだろう。あの声で「お願い」って言われてみろ。断れないって。政治家だったらどうしよう。思いっ切り選挙活動に走り回ってしまうだろう。考えてもみろ、あのクリクリおめめで「おねg(ry

音楽家でつくづくよかった、と噛み締める。好き嫌いで済むんだもん。曲やライブといった"作品"個々を自由な心で楽しんだりそうでもなかったりできるのは実に有り難い。これが教祖様や政治家先生だったら「彼らの言う事は絶対」なのである。「王様は裸だ」と言えない人生を選ぶ位なら俺は死ぬなぁ。光が歌い手作り手でよかった。何度でも言おう。お陰で私は生きられている。

しかし、その含意を探ると少し悲しい。光は、「人間活動」という名付けからもわかる通り、音楽家を極めたいという道は選んでいない。1人の人間としてバランスの取れた存在になりたいのである。「専門は昆虫に任せろ」とはよく言ったもので、人間は歌も歌えば信心もし、政(まつりごと)にも携わる。数多雑多こそ本質だ。だから、宇多田光にだって政治的偏向はあるだろうし、宗教心だってあるだろう。そういったよしなしごとを、光は全部くまちゃんに託してしまった。彼女の信仰といえば熊崇拝、彼女の政党といえば「くまちゃんの肌触りは世界一」である。これが何かの冗談だと思ったらそれこそ大間違いである。こんなに本気な発言はない。そしてこれが音楽家としてバランスをとった結論なのである。自動的に出た、という感じではあったが。






追伸 ::::: 自然に対しての人の歪んだ営みを現実の中で紡ぐのが政治と宗教ならば、その歪みを自然に対し経緯を表して包み込んで奥床しむのが文化だ。さすればあらゆる文化は数学と文学の間にあるであろうが、数学的美と文学的慟哭を兼ね備える「歌」とは、唯一母なる自然に対抗し得る人の歪んだ営みかもしれない。どこまで正面切って反抗できるか。私自身も楽しみである。

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たまには私なりの考えを書いてみるか。いつも書いてるっちゃ書いてるけれど。

音楽などの芸術・芸能やスポーツといった類の所謂"趣味"に該当する分野、つまりライフラインの設備や医療食糧といった生活必需分野でない人の営み(線引きは難しいが)は、そうやってジャンルとして"囲われている"からこそ意義があると考える。サッカーを例にとるのがいちばんわかりやすい。何かを蹴飛ばしたり頭突きしたりする能力なんて一般社会では物騒極まりない暴力沙汰だ。それをサッカーという枠組みで、ボールを相手にする事によって個人技術の習熟やチームプレイの構築、果ては人間性の確立といった教育的効果まで期待される。また、そうやって出来上がったサッカーチームはフランチャイズというシステムによって地域や国を代表して他地域や他国と争うようになる。これも本当に実力行使で争う、即ち戦争行為に発展すれば物騒極まりないが、サッカーというスポーツの枠組みに収まっている限りにおいては闘争も平和装置の一部たり得る。ヒトという生物の闘争本能を平和装置に組み込む為の機構としてスポーツという分野は機
能している訳である。

音楽などの芸術芸能分野にも似たような事が当てはまる、と思う。暴力の代替装置としてのスポーツ、という考え方と対比するなら芸能芸術は宗教と神話の代替装置としての機能を持つ、と考える事が出来るのではないか。

歴史を紐解いてみると(つまり、私が実際に見た訳でもない話をしてみると)、宗教はかなりの割合で部族間闘争の原因たりえてきたようだ。つまり戦争の火種である。先のヒトの闘争本能とこの宗教的感情は、ヒト同士を戦争に駆り立てる事によってヒト自身、いや人間社会を発展させてきた面が大きい。しかし今やヒトの戦争志向は核兵器を生み出すまでに至っている。つまり勝者なきまるごと自爆エンドが現実味を帯びてきているのだ。

まぁそんな壮大な話は置いておいてもいい。文化が宗教的感情を昇華させる可能性の話だ。ライブコンサート会場に行くとその熱気は時として宗教的熱狂に近いものを喚起している。コンサートグッズを購入する行為を"お布施"というのも、信者的行為だと半ば自虐的に自覚した上での形容だろう。時に排他的になる事もある。しかしこの場では、政治権力闘争等は無縁であり、一応健全な経済活動として成り立っていて、なんとかそこで簡潔している。少なくともそこで政治団体が生まれ権力闘争に突入していくなんて事はない。

だから私は、文化に携わる人間が政治活動に関わる事について一抹の不安を覚える。その主張の如何に関わらず。せっかくコンサート会場に封じ込めている宗教的熱狂を外に解き放つ危険性を危惧するのだ。ヒカルが、だから、運動には参加しないとはっきり宣言してくれた事は安堵以外の何ものでもなかった。言いたい事は山ほどあるだろうに、よく踏みとどまってくれたものだ。とても、意義深い。

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熊()  


光が実物の熊にも入れ込むのなら、まずは漢字の「熊」について調べてみよう。

熊。訓読みは「くま」で、我々が常に発している(?)言葉だが、音読みは何というのだろう。どうやら、「ゆう」と読むらしく、「熊掌(ゆうしょう)」、「熊害(ゆうがい)」といった熟語があるらしい。前者は食材の熊のてのひら、つまりそのまんまだ。後者も熊による被害・傷害。こちらもそのまんまである。

にしても。「ゆう」と読むのか。嘗て私は、「々」という記号を指して「クマ」と読んだ事があった。数千回に及ぶ連載の中で、あれが今でもベストエントリーだと思っているが、そんな私からしてみれば「ゆう」は「You」の事にしか思えない。「々」とはくまのぬいぐるみのように、傍に寄り添って自らの写し身となってくれる存在を指したが、実物の「熊」は紛れもない他者、紛れもない異物である所の「You」だという風に読めてしまう。今回はこじつけなのでベストエントリーには程遠いが、「だからWILD LIFEなのか」とひとり合点がいってしまったのでもう引き下がれない。これで行く。

さて「熊」という漢字には色々と面白い事がある。こんなblogをみつけた。

http://mblog.excite.co.jp/user/shimo/

このブログの2009年8月1日のエントリーである。

そもそも、何故熊という字は能力の能にレンガ(4つの点)なのか不思議だったのだが、どうやらこれは順番が逆で、"能(のう)"という字で熊に似た生き物を元々指していて、その動物が非常にかしこい、能力のある動物だったことから「能」の字に英語でいう「Ability」の意味が備わったらしいのだ。光は常々熊には知能や知性を感じると発言しているが、それもその筈、漢字が成立する以前という古代から熊(やそれに似た生物)は人間からみて非常にかしこい、能力の高い存在としてみられていた訳である。能の字の成立自体のルーツがクマだなんて筋金入り過ぎるぞ。

他にも、熊(くま)と隈(くま…目の下に出来るヤツね)の関係など興味深い事が色々と書かれているので上記ブログ、どうかご覧あれ(ステマステマw)。リンクが飛べない方は"下村昇の窓 能力"でググればすぐ見つかると思います。今宵は以上っ!

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