無意識日記
宇多田光 word:i_
 



音楽が単一の楽曲として成立する為にはどれ位の"長さ"、演奏時間が適当或いは必要だろうか。

ポップソングの演奏時間。昔なら2~3分、今は4~5分といった所だろうか。確かにCDシングルを買って曲が一分半とかだったらちょっと損した気分になるかもしれないから、ある程度は長い方がいいだろう。

かといって、6分7分の長さとなってくると今度は聴き手側が疲れてくる。短すぎても、長すぎてもいけない。そんな駆け引きの中でポップソングの長さは今の感じに落ち着いてきたのだろう。

ヒカルの楽曲でいちばんランニングタイムが長いのは、リミックスやライブ、カバー等を除けば確かGive Me A Reasonで、6分半位だったと記憶している。短い方は判断が難しいが、インタールード系を除けば2分半のぼくはくまか。

果たしてファン以外で、ぼくはくまを"シリアスな"楽曲として捉えている人間はどれ位居るだろう。童謡だから、という理由でライトにみられてはいないだろうか。長さが2分半ではどうしても"おまけ"、"添え物"な感じが拭えない。

ランニングタイムを具体的に気にする人はそんなに居ないと思うが、聴いてみて"なんとなく短い"と感じる程度はあるだろう。そういう意味では、つまり、聴き手が「あぁ、1曲聴いた」と満足する為には、やはり楽曲にある程度の長さがあった方がいい。

とはいえ、私としては曲の要点さえまとめられるなら、出来るだけ短く、簡潔に作曲されていた方が嬉しかったりする。Can't Wait 'Till Christmasなんかは珍しく3分台の曲で、とてもおさまりがいいように思う。

様々な展開や大見得を切る編曲に頼らずとも素材そのもののよさで勝負できると思えないと、なかなか短い曲は作りづらい。ぼくはくまやCWTCが短めの曲なのはそれだけ素材のよさに自信があったからではないか。

UtaDAでいえば、This Is The Oneの素材のよさは相当のものだ。サウンドプロデュースが光本人ではないので音作りは若干ごちゃごちゃしているが、全体的な曲の短さが光の自信を物語っている気がする。10曲36分だっけ、たったこれだけの長さで"アルバム"としての満足感を達成できると踏んでいる訳だから余程である。

いちど、光の楽曲をランニングタイム順に並べてみようかな。何か面白い傾向でも、あるかもしれない。

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よく"世界に打って出る"と海外進出を打ち出す例があるが、どうもそこに"旅行気分"が差し挟まれてる感じが否めない。当事者というより、こういう煽り文句を付加する記事を書いた人の意識が反映されている感じがする。

旅は、いつもは居ない場所を目指し通り過ぎ帰宅する事から成り立っている。そこにずっと居る訳ではないから旅人でありお客さんであり。だから行く先々で客人として扱われる。

が、商売でもスポーツでも何でもいいが、世界進出とか海外進出とかいう場合は、基本的にお引っ越し、或いは新たに居を構える事を意味する。日本という家を出ていっても、また違う国に家を作ってそこに"帰る"(帰属する)必要がある。旅人では最早居られないのだ。

そういう、各地域にローカライズ(局所化)された意識のもとに世界展開する事をグローバリゼーションとひっかけてグローカリゼーションという。つまり、日本というローカルから"外"に打って出てグローバルに展開しようとしても、そこには日本と異なるローカルな"人の住む国"があり、そこの特色に合わせていかないと生きていけないのだ。

有り体にいえば"世界"なんて市場は存在せず、多数のローカルが沢山ある事自体がグローバルなのである。どこに行こうが郷に入っては郷に従わなければならないのだ。

UtaDAについて周囲は海外進出だ世界展開だとメディアはずっと喧しかったが、私はずっと「アメリカは宇多田光にとってもうひとつの母国なのだからこれは海外デビューというより国内デビューなのだ」とずっと言ってきた。

今思えばこれは複数のローカルを抱えるグローカリゼーションの一環だと思えるのだが、光自身は更にもっとシンプルだった。

即ち、毎度言っているように、結局はこれは個人と個人の対話、あなたと私の間柄に過ぎない、という事だ。ローカル、といってもそれはどの範囲を指すか明確でない。国なのか県なのか市なのか町なのか村なのか区なのか家なのか部屋なのか。いやその単位は結局ひとりの人間ですよという極めて当たり前の、しかしすぐに我々が忘れてしまう事実を、光は見失わずにずっとやってきたのだ。

化学でいえばこれは原子還元論で、どんな複雑な物質も原子・分子の単位での振る舞いを把握できれば理解できるという世界観に近い。異なるのは、対象と観測者が同等だという事だ。原子をみるものもまた原子なのである。この感覚が化学とは違う所だ。

しかし、音楽と触れ合うという段階になると我々リスナーはついついその対等性を見失いがちになる…という話の続きはまた稿を改めまして。

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では、その、必ずinconsistentとなる、即ち首尾一貫性のない、どこかに矛盾を孕んだ"タイムマシン"という概念は、一体全体何であるのか。妄想とか錯覚とか幻想とかいって片付けるのは簡単だ。簡単故にその解釈はつまらない。だから私は片付けない。お陰で部屋は散らかる一方でさ…いやそれはまぁいいんだが。

妄想だろうがinconsistentであろうが、それが人を惹きつける何かである限りそれは存在である。言葉があり、それを語る者が居さえすれば、その言葉が割り当てられた実在の対象なんかあろうがなかろうがそれは(ある意味において)存在しているのだ。

つまり、タイムマシンとは今も昔も文学の主題なのである。もしかしてSFを日本語で"文学"と呼ぶのに抵抗がある人も居るかもしれないが、少なくとも私にとってSFは文学のコアである。20世紀末の純文学と謳われた新世紀エヴァンゲリオンにSFの要素が色濃いのは必然なのである。

前に書いた通り、音楽のような実存芸術と比較して、文学は定義があやふやだ。その、あるんだかないんだか、有か無かという際(きわ)を渡り歩き、たまに無側に落っこちてしまうのが文学である。梶井基次郎の木寧木蒙(変換がなかった(笑))を映像化しても面白くもなんともないが、文章で読むとえもいわれぬ感覚が心の中に生まれる。たとえ私らが今レモンを目にした所であの感覚はやってこない。実在物とはあんまり関係ない(ここらへんもあやふや)言葉だけの存在、何かが私たちに齎すもの、そのありようを文学と呼んだり呼べなかったり(やはりあやふや)。

星新一はSFの大家だが、彼の簡潔な文体とハッキリとしたストーリーは映像化に向いていると思われているのかもしれない。が、それは甘いワナである。あんなに映像にしてつまらないものもない。映像化した作品、アニメでもドラマでもいいが、原作の魅力の再現なんて無理である。なぜならあれこそが文学の真髄だからだ。洗練されすぎていて設計図か何かと勘違いされてしまうのである。

ヒカルのいうIntegrityは、その逃げない姿勢のあらわれであるから、タイムマシンのような話を歌詞に取り入れる事はしない。その代わりに、彼女が好んで用いるのはご存知転生の主題である。昔書いたが、タイムマシンは論理的整合性の皆無から実在可能性を否定できるのだが、転生を論理的に排除するのはとても難しい。実際にあったとしても何ら論理的破綻が見いだされないのだ。

これは、僥倖である。タイムマシンと転生に込められた願いはよく似ている。いやほぼ同じといってもいいかもしれない。過去に戻りたいという願いは好奇心とともに"人生をやり直したい"という気持ちが反映されるし、未来に行きたいというのも好奇心と共に、今の自分の人生とは違う道を歩んでみたいという気持ちのあらわれである。

転生はそのどちらの願いも叶える。肉体はおろか記憶すら入れ替わってしまっていても。そして、Consistentであろうとし、Integrityを標榜する宇多田光にとって、タイムマシンに込められている普遍的な人々の願いを同じように、論理的破綻なく込められる転生の主題は格好なのである。

ただ、光の特異な所は、いったん最終的にGoodbye Happinessと愛のアンセムで、生まれ変わってもまたこの人生を歩みたいと宣言してしまった事だ。もしかしたらこれを機に、転生の主題は光の歌詞からなくなってしまうかもしれない。どうなるかはわからない。前世がチョコだったらしいひとに、いやくまにその点問い質してみたい所である。

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ニュートリノが光子より速く到達したというニュースが話題になり、タイムマシンが実現可能かなんてところまで話が飛んでいる。各専門家は火消しに(呆れながら)躍起になっているが、今回の実験結果の云々にかかわらずタイムマシンは実現不可能である事を強調しておきたい。

もし仮にこの実験結果が真実であるというならば、最大でも相対性理論が書き換えられるだけである。それだけでも人類史上最大の事件だが、それでもタイムマシンは不可能だ。なぜなら、タイムマシンを禁止するのは相対性理論ではなく、それよりもっと上位の、或いは最も基底となる"論理的整合性"であるからだ。これを破るのは神でも無理である。

どういうことかというのを短く説明するのは難しいが、要はタイムパラドックスを回避したタイムマシンの描象を首尾一貫して描けた人間が誰ひとりとして居ないという事だ。神でもできない。例えばタイムマシンに関してその不在を手軽に証明する言説として"我々が未来から来た人に会った事がない"点が挙げられるが、これに留まらずタイムマシンは論理の排中率を激しく破る。そもそも、タイムマシンという概念を適切に定義した事例がひとつもないのである。それが何であるかもわからないのにそれが実際に実現したかどうか判定する事は出来ないのだ。

人類がみいだした最も美しい理論であるといわれる相対論より更にずっと上位の概念である"(論理的)整合性"は英語ではConsistencyと呼ばれる事が多い。が、これに対応する一語の日本語は思い当たらない。恐らく、この世界観自体が西洋の科学文化に由来するのではないかと思うのだが、実際はどうだか知らない。

このConsistencyと大体同じ意味の言葉で、より人間味に寄り添った概念がIntegrityである。Be My Lastブログで光が日本語でなんていうかわからなくしてしたアレである。誠実さや首尾一貫性が人の心に宿る様だが、その言葉を、宇多田史上最もモラルを破る破壊的な歌であるBe My Lastブログに出してきた事に意義がある。あれキプトラブログの方だっけ。まぁどっちでもいいや3部作だし。

Consistencyとは"(~から)成る"とか"存在する"とかいった意味のある動詞Consistからの派生語Consistenceの形容詞形だ。この、存在自体を担保する概念は、実存的不安を常に抱える芸術家たちにとって実に切実な問題であるのだった。



前フリに時間をとりすぎたので続きはまた稿を改めまして。

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そうか、"最後の1行"は結局使われなかったのか…すっかり失念していたな…(ぶつぶつ)。

気を取り直して。前に言っていた80年代、90年代、00年代のプログレメタルの盟主新譜三連発のトリを飾るMastodonの「The Hunter」、期待以上の出来映え。曲はコンパクトにまとまっているが、まるで70年代のBlack Sabbathのような凄まじいオーラを感じる。スラッジコア風味も残ってはいるものの、これは21世紀の正統派ヘヴィメタルと呼んでよいだろう。

何より凄まじいのはブラン・デイラーのドラミングだ。よくそれだけ叩き続けられるな、と嘆息せざるを得ない嵐のようなフィル攻勢。少々ゆったりとしたリフ攻勢の曲でも彼が叩くだけで緊張感漲るサウンドに様変わり。当代随一の名手といっていいだろう。

21世紀のプログレメタルの最高の成功者は、しかし、やはりThe Mars Voltaであり、そのLed Zeppelin meets King Crimsonと謳われた初期のサウンドをボトムで支えていたのが、かのジョン・セオドアである。デイラーとはまた違った華のあるドラミングは、余りにも魅力的に過ぎてUtaDAの食指をも動かした。Kremlin Duskで叩いている彼である。

ヒカルのドラマーといえばヴィニー・カリウタとかジョン・ブラックウェルとかとんでもない超人たちが名を連ねるが、セオドアが起用されたのは光が当時のThe Mars Voltaのサウンドに魅了されたからに他ならない。バンドの音楽の力が彼女を動かしたのである。

例えば、デイラーのパワーとテクニックが極上だからといって、光が彼を起用するとは思えない。Mastodonの音楽性は、光の感性には引っかからないからだ。一応同じ凄まじいドラミングをフィーチャしたプログレメタルという点では同じジャンルと言ってもいいかもしれないのに、さてどこがどう違うかといえばそれは「官能美の有無」である。要はエロいかエロくないか、だ。

このポイントは光の音楽の嗜好を把握する時に、"切なさ"と共に最重要事項である。音を聴いた時にセクシーだと思えるかどうか。レニー・クラヴィッツもそう、尾崎豊もフレディ・マーキュリーもスティングもそう、一見バラバラな彼らは一様に存在自体がなまめかしい。歌や演奏も勿論だ。

Mastodonの男臭さは、MC5やMotorhead、或いはテッド・ニュージェントのような系譜だろうか。サザンロック勢、レイナード・スキナードやBlackfootなんかもそうだが、幾らギターがメロディアスで泣きまくってても、光の好きなギタリストたち、レニークラヴィッツやスラッシュのような官能美は見られない。男なのにエロい。これはとても大事だ。セオドアのドラミングも、The Mars Voltaの官能的なサウンドの中で機能していたからこそ彼に白羽の矢が立った。

でも、その割にKremlin Duskのドラミングはあんまり官能的ではない。単純に、ハープシコードのアルペジオが定型的なリズムを楽曲に与えている為曲構造が様式美に傾き過ぎていて彼の奔放かつ繊細な演奏をいかせる幅が足りなかったのだ。でも勿論楽曲の出来自体は素晴らしいのだけど。

そう考えると、光は自分の作る楽曲においてはまだまだ自分の好みの"官能美"を封じ込める事は出来ずにいるのかもしれない。復活した暁には、打ち込みに頼らない人間味溢れる官能的なサウンドを聴かせてくれるのかどうか…まぁそれにはエレクトリックギターで曲づくりしないといけないかな。光のギターソロとか聴いてみたいもんだわねぇ。

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そうか、今日で@utadahikaruの呟き一周年か。そしてフォロワー70万人突破。ダブルでめでたいぜ。応用範囲広いなこのフレーズ。

開始当日の呟きを眺めてみるとなるほど、ちょうど嵐の女神の歌入れ当日だったのか。最後に出来た歌詞の一行がどこだったのかは気になるが推定は難しい。しかしいちばんの候補は『心の隙間を埋めてくれるものを探して何度も遠回りしたよ』の一節だろうか。"心"の部分を"歌詞"に書き換えるとその時の光の心情そのものになるからだ。最後の歌詞の隙間を埋めてくれた一行である。ツアー前の締め切りに追われて"タイム・リミット"なんて曲をリリースするヤツなので強ちないともいえない。

このラインが、難しい。その時の心の叫びを素直に表現したものの方が、人に届くという意味ではリアルでよいのだが、生々しくなり過ぎてもいけない。宇多田光という個人の事情に寄り添い過ぎ、共感が得られ難くなるからだ。一旦普遍的な視点で捉え直し、そしてもう一度個々人のリアルのレベルに落とし込むという作業を通じて初めて、聴き手に届き、且つ共感を得られる歌詞に成り得るのだ。一般論ばかり語っても切実さは生まれないし、具体論ばかりでも知ったことか、That's not our businessという事になる。行って帰って来れる。その振り幅が重要なのだ。

嵐の女神では、光個人の想いに寄り添った心の訴えがこちらにしっかり響いてくる。表現する、届けるとは想いの生まれた所から、想いの生き得ない場所を通って、また想いの生まれ得る所に何かを"しらせる"ものだ。受け手側の心の中に、生まれ得る種や苗が備わっていて始めて響き合う。その意味で、歌とは何かの合図に過ぎない。ひとことでいえばぼんじゅーるである。そういう仕組みだから、歌詞も光の許で生まれたまんまの姿だとそこから旅立てない。いや、それはまだ歌詞以前の姿、あやふやな何かと言った方がいいだろうか。その生まれた子を旅立たせるにあたって、その子が難産であればあったほど、生みの親の足が震えるのは必然の事なのだ。その勇気の成果、成った果実は、この嵐の季節に歌い込められた嵐の女神を耳にし、心に届いた人々の心の中で豊かに実っていると思われる。

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遠望  


これだけ甘い甘い言ってるのに"甘いワナ~Paint it, Black"が出てこないのはなぜなんだぜ。いやあの歌の歌詞今回のテーマと殆ど関係ないから(と少なくとも今の私は思っている)。サンジの左目並にあっさりスルーしながら話を続けようか。

漸く嵐の女神で自分自身が甘える事を許した光。いやThis Is Loveで甘えてなんぼてゆってたやないかい、とツッコミを入れたくなる所だが(主に私が)、今回は、本当に甘えてみたい人、甘えてみたい事柄に辿り着いたという感慨が強い。実際に甘えてみれた、という事だ。

とはいえ、こちらの目と耳からすると、ここまで切実な積年の重い想いを突き付けられては、流石にこれを"甘えている"と見做す事は出来ない。そういう意味においては、光はまだまだ甘え下手である。

前回書いたように、誰にも何にも甘えない姿勢が全方位型の高品質な音楽性をもたらしたとすれば、つまりもし光が某かに甘えを見せ始めるとするとそのポピュラリティが減じてしまうのでは、つまり、どこからか付け入る隙を与えてしまうのでは、という危惧が生まれそうではある。

ここは、確かに難しい。勿論、今までのシングル曲だって総てが大ヒットという訳ではなかった(基本的にほぼ総てTop5入りしとるけども)。例えばPassionはかなり少ない売上だった、が、ネットで様々な評をみる限り、この曲は恐ろしく評価が高い。ゲームとの相性のよさに由来する所も大きいのだろうが、なかなかPassionを揶揄する雰囲気は出しづらくなっている。

ヒカルの場合、このように、売上が低くても他のステイタスでカバーできる仕組みになっている。デビュー当時はその全方位性をひとつの楽曲(ありていにいえばFirst Love)が担っていたが、今に至る頃には楽曲ごとに全方位の役割分担が出来ているかのようだ。即ち、全楽曲によって描かれるパースペクティヴが光の"八方美人ぶり"を担保しているのだ。スケールが大きくなるはずである。

となれば、この嵐の女神という曲は、このパースペクティヴの中で、一体どのような役割を果たすのであろうか。

思うに、この曲、ファン以外にはあまり評価されていないのではないか。光のパーソナリティに気をかけない人にとっては、SC2の2枚目の序曲程度にしか捉えられていない気がする。恐らく、何らかの社会的な評価、歌がうまいとかメロディーが美しいとか歌詞が感動的だとか、そういう意見はファン以外からは出てこない気がする。

つまり、嵐の女神は八方美人のどの方位にも手をのばしていない、付け入る隙だらけの、いや、曲自体がつけいる隙そのものといっていい。無防備極まりない宇多田光の姿がこれ以上ない青空のもとに曝された楽曲。全楽曲のパースペクティヴの中でまるで風の吹かない場所。台風の目、中心にこの歌は位置する。確かに、歌入れの時に足が震える筈である。自分を護るものを総て脱ぎ捨て、あの忌々しかった筈の青空を大きく受け入れたのだから。



…あれ、まだ続くのか?(知らんがな)

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許し、といえば嵐の女神が思い浮かぶ。

この歌では、許しとは与えるものだ、という観点に立ちまず許しを与えるのだが、誰に与えるかといえば自分自身に対して、である。

そのまま素直に読めば、次の『お母さんに会いたい』と告げる事、こう口を開く事を自分自身に対して許した、という事だ。

それまで光は、"この程度の事"すら自分に許していなかったのである。いや、あまりにも幼い頃からその想いを封印してきたせいで、それが禁忌となっている事に気付いてすらいなかったのではないか。

ただ、それだけ長年抑圧されてきた想いを解き放っただけに、そこに"甘え"を見いだすのは全く難しくなってしまった。

小さい幼子が「お母さんに会いたいよ~」と駄々をこねるのは、場面を選べば既にそんなに甘えだとは思われない。会いたいか、そりゃそうだろうねぇてなもんである。少しずつ大きくなるにつれ、そういった台詞は言わなくなっていくし、口に出したらまぁ少しずつ「いつまでも甘えただねぇ」という評価になっていく。そうやってまぁ人は成長してゆく。

光の場合はそれを真っ先に抑圧してしまった。そして周囲に甘えるという選択肢を消してしまった。その結果が、"誰にも文句を言わせない"キャラクターの誕生である。成績はオールストレートAの優等生で、親にも迷惑をかけない。スタジオで宿題をする生活になったり、そこで"歌ってみて"と頼まれても、内心はともかく駄々をこねる事はなく受け入れたのだろう。

音楽活動においてその"周囲に文句を言わせない"性格は大きく結実する。初期の特大ヒットの要因は、周囲を見回しても誰も宇多田ヒカルにケチをつける人が居なかった事が大きい。誰にきいても絶賛している、そんなに凄いのか、なら買ってみよう、というサイクルがバブルを極限にまで巨大化させたのだ。

光の性格が、音楽的な"つけいる隙のなさ"を生んだといっても過言ではないかもしれない。周囲の目線に目を光らせ、というか、自らの目が、どの他者に対しても甘える事を許さない厳しさに満ちていたといえるだろう。更にその厳しさが、幼少の頃からの筋金入りであった為、本人ですら気がつかない程にそれが自然な状態へと昇華していったのではないか。

その反動、といえるかはわからないが、以後光は、半分は加齢通りに順調に大人へと成長する一方で、もう半分はぼくはくまに帰結するように、素直に、幼くなっていった。

即ち、光にとってアーティストとして自分自身を掘り下げる行為は、少しずつ素直になっていく事というとてもシンプルなプロセスだったのだ。Wild Lifeでも『素直になるのは気持ちのいいこと』と真っ正面から肯定していたが、それは嵐の女神に辿り着いたが故の境地だったといえるかもしれない。



まだ続く? そろそろわからない、かな。

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時系列順としてはまずWINGSがKeep Tryin'のカップリングとして発表され、次にThis Is Loveがアルバム先行配信限定シングルとしてリリースされた。歌詞をもう一度復習しておこう。

『お風呂の温度はぬるめ あまえ方だって中途半端 それこそ甘えかな』
『Oh 痛めつけなくてもこの身は いつか滅びるものだから甘えてなんぼ』

リリース順を見越して、というか作った順にそのまま発表したのだろう、部分的にではあるがアンサーソングになっているとみていいのではないか。

WINGSでは、どうやって甘えたらいいかわからないもどかしさが伝わってくる。そこまで悩むか、という迷いぶりで私は即座に花井拳骨の名言「テツは悩んでるんやない、悩み方知らんから困っとるんや。ほら、動きがどことなくぎこちないやろ」を思い出した(これのどこらへんが名言やねん)。それ位光は甘えるのが苦手という事だ。

WINGSの歌詞を丸々実体験に基づいたものだとみなすのは無理がある。恐らく少しずつ、現実と虚構を混ぜているのではないか。しかし、この甘えの一節は、どうにも光の本音が炸裂しているように思える。有り体にいえば、勘である。

そういえば、脱線するが、例えば松井秀喜が本塁打を打った時、「甘いコースに入ってきたのを完璧に叩けました」と表現するが、なぜここで"厳しい"の反対語として『甘いお菓子』の"甘い"が採用されているのだろうか。厳しいの反対なら緩い、或いは優しいを使えばよいものを。これは、甘味が美味の基本である事を思い出せばわかりやすい。ゴジラ松井にとって撃ちごろの球筋は"美味しい球"なのである。関西芸人が笑いのチャンスを棚牡丹でものにした時も"おいしいわ~"というが、一般的に甘いとか美味しいというのは、思わぬ利得、想定以上の利得を得た時に使う形容詞なのだ。


つまり、"甘える"とは、一般常識に顧みて一定ラインを上回る利得を得る行為を指す。"お言葉に甘えて"とは、普通ならそういう恩恵を受けられない所を受けられる、というニュアンスがあるし。甘えるのが下手というのは、即ち、自分が眼前の利得を得てもよいものかどうかを先に判断しようとしてしまう性格や性質の事なのだ。

光は、つまり、なかなか自分の事を許せない性格で、どうしても周りに(時には自分自身に)"お伺いを立てて"しまう。暗い部屋で冷蔵庫を開けてもいいか逡巡する幼子、という情景は光の事を知る者に共通の原風景だと思う。自分に甘い人間は、何の躊躇いもなく深夜に冷蔵庫を開け閉めするだろうが、宇多田光はどこまでも怯えていたのだ。

WINGSでのぎこちない逡巡は、どうやって自分を許せばよいかわからない気持ちが根底にある。どれだけ甘えられる人が傍に居ても、自分で自分をまず許し、資格とか条件とかを考えてしまうのであれば、無条件に、無償に無性に相手の胸に飛び込む事など出来はしないのだ。

長くなった。また続く。

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甘え  


普段から「甘えるな」とひとに言わない事にしている。自分が人一倍甘えん坊なものだから「おまえがいうな」状態に陥るのが目に見えているというのもあるのだが、何よりもこの一言の効能が以前より薄れてきていると感じているからだ。

昔は鬱状態に悩んでいる人にも「たるんでる」「甘えるな」と言っていたのかな。この種の精神疾患についてのガイドラインが定まってきたのは1970年代以降だった筈だから、まだまだ半世紀経過していない。今では、投薬治療にせよカウンセリングにせよ技術やノウハウの蓄積が進み、件の疾患に悩む人々への処方もできてきている。こういう状況下では「たるんでる」「あまえるな」と指摘する事はほぼ無意味で、迅速に専門医に相談を持ち掛けるのが得策である。

具体例ひとつで一般論を展開するのも気が引けるが。何を言いたいかというと、一昔前は精神論で対処していた(できていたかどうかは別として)事柄が、今では様々な技術の発達によって、心理工学的なアプローチや医学的な処方で随分対応できるようになった、という話である。

そもそも、「甘えるな」という一言には、対処法として何の具体性もない。不眠で悩む人に枕を変えてみたらどうかとか睡眠薬を飲んでみたらどうかといった助言をせずに「甘えるな」といっても無策この上ない。

そう考えると、この「甘えるな」と他人に投げかける事そのものが相手に対する甘えなのではないかと思えてくる。何の具体的な処方も示さず、ただ相手のやる気や精神力に期待している訳だからこれを相手に甘えると言わずして何というか。ただひとつ普通の甘えと違うのは、発言者が当該の課題をクリアしているという事だ。つまり、「こっちができてるんだから、そっちもできるようになれ」という訳だ。これは余程両者の間に信頼関係が成立していないと意味を為さない一言だろう。

自分ができているかにかかわらず相手に発破をかけるのが「頑張れ」なら、自分ができているからお前もやれというのが「甘えるな」のひとことなのだ。

前振りが長くなった。ここにひとり、「甘え」についてグダグダと悩んでいる(悩んでいた)人が一人居る。『中途半端それこそ甘えかな』とか『この身はいつか滅びるものだから(人生)甘えてなんぼ』とか歌っている人、宇多田ヒカルである。

他にもインタビューで「最近の若いもんは甘ったれてる」とか言っていた気がする。そらあんたの人生振り返ったら常に同年代の生き方なんてあまっちょろいもんだったんだろうなぁとは素直に感じる。Wild Lifeに至ってはプロジェクト全体の統括者で、それ普通なら40~50代の人間がやる事だもんね。

こういうセリフを吐く時のヒカルは基本的にオッサンであって、先に歌詞として挙げた『甘え』に垣間見せる女性的な弱さと強かさ、即ち強弱とは相反するようにみえる。が、これは同じひとつの事の裏表だろうと言いつつ時間切れなのでこの続きはまたいつか。

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今年の邦楽ベストチューンはこのまま行けば断トツでLIV MOONの"アマラントスの翼"だな~(なんて言える程邦楽聴けてないけど。代わりにアニメを沢山みてみた)、そいで洋楽ブライテストホープはMoon SafariとAmarantheの一騎打ちの予感。という訳で今夜は月とアマランサスの話だ。

アマランサスとは日本語で不凋花と書くらしい。語源のアマラントスに"花のしおれることがない"という意味があるそうな。amaranthineという形容詞はしぼまない、或いは赤紫色の、といった具合。藤色とはちょっと違うアマランサスの花の色である。

光のイメージする"花"は、この不凋花とは全く真逆であるかもしれない。例えばそれは、大賀ハスのように2000年の眠りから覚め、更に僅かな時間の間にしか咲かない、儚いイメージが強い。咲いても一瞬、その時間の殆どは暗闇の中にある。

暗闇に光を撃て。ナウシカのセリフ、「生命とは暗闇の中に瞬く光だ」を強烈に思い出す。空間的にも時間的にも、輝かしい何か、華やかな何かとは必ず大きな闇を背負う。光にとって光とは、見えるもの総てを明るくする太陽のイメージよりも、暗闇の中に道標のように輝く月のイメージなのだ。

人が不死や不老長寿を求める物語は古今東西普く存在する。それだけ普遍的なテーマであり、人は死を恐れ、生を欲する。自らを、見える世界総てを照らし出す光の中に投じてしまいたいと願うのだ。

恐らく同じ感情を持ちながら、Everybody feels the same、全く異なる永遠を求める人の姿もある。それが転生の世界観だ。不老不死とは真逆に、こちらは何度でも死ぬ。寧ろ、死んでいる状態が普通に基本としてあって、たまに生まれて生きる。不老不死の願いと根源は同じながら、死ぬまいと願い太陽と青空に身を投じる者たちと、死の闇の中に一筋の生の光を見いだす輩とでは、方法論がまるで違う。宇多田光は、徹底して後者であり続けている。

死を身近に感じ、死を恐怖しない。何が怖いかといえばそれは青空であるという。老いて死んでゆく人間たちを嘲笑うかのように不変に普遍に存在し続ける青空、そして太陽。それに対して圧倒的な無力を感じながらも願い祈る心を胸に抱き続けるのであれば、それは転生の希望であろう。これは、宗教的原意識の最たる風景である。

光は光自身ではないのだろうか? それは闇だけが知っているのだろうな。

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今季のアニメが軒並み最終回を迎えつつあるが、自分の観た中ではやはりなんだかんだ言って輪るピングドラムがいちばんポテンシャルがあると思う。

といってもこの作品は2クールで来季も続く訳だが、瞬間風速的なクォリティー、第1話や第9話でみせた密度の濃さは他のアニメには見られないものだった。

ピンドラの特徴は、どんなにシリアスな場面でもマスコットのペンギン達なコミカライゼーションによって軽く、Popに視聴者に提示する所。扱うテーマの粘り重い気質を如何にサラリと飲み込ませるか、オブラートというより胃腸に厳しい薬を飲むためにまず胃腸薬を処方する的な周到さをもって作品の白い洗練と軽快を担保しているように思う。

それでも第9話などは作者の趣味が全開になってしまい一部の視聴者は置いていかれた感が出た。こちらとしてはあの脳が軋むようなヒリヒリした感覚をこそ期待しているから満足こそすれ不満はなかったのだが、作家性を出し質を高めようとすればする程作品の内包する"痛み"は前面に滲み出てしまう。

宇多田ヒカルブランドの名の許にリリースされた楽曲群は、そういった作家性の苦労すら飛び越えているように思う。HEART STATIONなどは1時間弱を本当にサラリと聴き通せてしまう。声自体は暑苦しいが、サウンドのダイナミズムと流れるようなメロディーの奔流で翻弄する。気軽に買って気楽に楽しめる一枚である。

しかし、ひとたび作品の分析モードに入ると、特に歌詞の面では突然脳が軋み落ちる感覚が発生する。喋るように乗っている言葉の数々が、気の遠くなるような論理の積み重ねが隠されている事に気付いてゆく。一歩踏み込む事で、輪るピングドラム第9話のような強い作家性が簡単に手に入るのだ。

この、UtaDAの作品にもみられる多層性は、恐らくあらゆる表現者にとって憧れの的なのではないか。多くの創作者たちにとって作家性や芸術性と大衆性のバランスは相克でありジレンマでありトレードオフなのだが、こと宇多田ヒカルブランドに関してはその法則は成り立たない。いや、法則が崩れたというより法則の司る狭い世界を上回ったというべきか。

光の徹底した理詰めのアプローチは、作家性を突き詰めると突然密林が平野に拓けるように、強い大衆性の世界が広がる事をイメージさせる。麒麟の田村が、貧乏のあまりご飯を何十回も味わって噛み続けると長い無味の時間帯を経て急に強い味わいが口の中に広がる境地に到達する(一般の方がブログで検証していたが、本当にそういう現象が起こるらしい)エピソードを披露して、それを「味の向こう側」と名付けていたが、作詞作曲においても同じような事が、宇多田ヒカルに関しては起こっているらしい。或いは、極度に発達した科学技術は魔法と区別がつかない、というべきか。その境地に辿り着ける執念と勇気が揃っているからこその結果だろうが、それにしてめ不思議な世界があるものだ。

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こんなに強い風は聴いた事がない―いや台風凄いね。

音を聴いて恐怖を感じるなんていつ以来だろう。実際、足を踏ん張らなければ立っていられない強風というのは生まれて初めての経験で、その嘶く風の音(ね)の喚起する感情のプリミティヴィティには吃驚した。

幽霊が怖くない、というより死んだ人間より生きてる人間の方が(時には)怖いと思っているクチなので、音がどう鳴ろうが精霊の予兆だとか全く考えないのだが、その音が狂気を孕んでいる事は一発でわかった。事実、この嵐は日本中で凶器と化して人々を襲っているらしい。

そういう切羽詰まった時に私が考えていたのは、「ただの"音"にここまで狂気を帯びさせ、鈍感な私に戦慄させる事が出来るのであるなら、この感情を再生する音楽だって書ける筈だ」という些かのんきな、平和な話であった。

音と感情の繋がり具合というものは、よくよく知っているだけによくわからない。何がどうなってこう感じるのだろう、と悩み始めると既知の風景すら崩壊を始める。五感のゲシュタルト崩壊である。

ただ"再生"するだけなら、この嵐の風の音をそのまま録音すればよい。もしかしたらそれもまた、音楽かもしれない。何より、プリミティヴだ。しかし、これは光の言うところの「何かをぶちまけて偶然作品ができる」のに近い。近いが、別のものだ。実際、嵐の力を我々は畏怖し、警戒しなければならない。でなくば嵐に巻き込まれてしまう。強風に対する恐怖は、生きていく為に必要な感情なのだ。

では、この台風15号(全くの余談だが、今日流れてきたツイートに"毎月22日はショートケーキ〓の日"というのがあった。何でも、カレンダーでは必ず22日の上に"15(いちご)"が乗るかららしい。おっしゃれ~。というわけで私も宇多田苺さんに明日は上から乗られてみたい…どうやって22になろう…)Rokeに感じた恐怖とは、何か遺伝的な要因でもあるのだろうか。人が生きていく為の処方箋として、DNAに組み込まれているのだろうか。

いや違う、と私の直感が囁く。人は音から、そこに秘められたエネルギーの大きさや熱、速度といった物理量を推定できるのではないだろうか。雷もそうだ。落雷のサウンドを耳にする度、そのパワーの比類無さに毎回惚れ々々する。昔数百メートルほど先に落雷があったのを目撃し「当たったらと思うとゾッとした」と家に帰ったらまさにその時間その地点で「男性に雷が落ち重体」だというニュースを知り気が滅入った覚えがある。雷は本当に人に落ちるんですよ。

音は。人は音から、感情を得る。或いは音によって感情をより合わせる。再生できる。嵐や雷から受ける、得られる感情を、音楽化できたらいいなぁ、美しいだろうなぁ、と思う。人を次々と殺めていく天災を美しいと讃えるのも抵抗があるけれど。

嵐の女神ときいた時、多くの人が、例えばThis Is Loveのような激しい曲調を予想したのではないか。私なんか「B'zみたいな曲名だ」とか言っていた。しかし蓋を開けてみると、そこで描かれていたのは「嵐の過ぎ去った後」の風景だった。ある意味、暗喩で嵐を描いた曲だともいえた。

実際、嵐の通り道を歩いて帰る主人公もまた、嵐になろうとしている、或いは、嵐に倣おうとしている。彼女の追う背中は、未来の自分の後ろ姿でもあるのだ。

光の曲において転生や生まれ変わりといったテーマ、モチーフは非常に大きな意味と意義をもつ。彼女の関わってきた作品たち、例えば春の雪なんかは日本文学における転生モノの決定版といえるし、EVAだってただ親子関係を描いた訳ではなく、あれは「母が転生するとしたら何を望むだろうか」という主題の視覚化なのである。直接は関係ない話だけどジョジョの奇妙な冒険に出てくるスタンド(幽波紋)とは作者の荒木飛呂彦曰く"超能力の視覚化"だそうな。なるほど。

嵐の女神の奇妙な、しかし確実に印象に残る、心に刻まれるラストシーンは、自己が母の背中を追い、そして自分がその背中にやがて同化していく事を暗示している。

ぼくはくまが嵐の女神と同型の物語をもつ事は以前指摘した通りだが、光がギガントの頭を脱ぐモチーフを好んで何度も繰り返し使用するのは、この嵐の女神における追う背中に自ら成るのとまた同型でもあるからだ。抱き締め甘えるぬいぐるみの頼もしさに、自らがまた成る事の暗示なのだ。そして、その自分の姿はまた次に受け継がれてゆく。光の頭を脱ぎ捨てるギガントの絵(落書きだけど)は、そのプロセスに終わりがない事を僕らに報せる。ああ描けばループが完成するからだ。

となれば、即ち、光が次に姿を現した時には、彼女は嵐になりつつある筈だ。光が嵐という言葉でどういった内容を示唆しているかは具体的にはわからないが、あれだけ「変わった人」と言っていた母の姿を(たとえ意図していなくとも)追ってゆくというからには、何か風変わりな課程を経ていくのだと思われる。

しかし私は、この人騒がせな"台風一家"にはまだ人が足りていないと思う。それが表題の"風の少年"であり、これは前にテレビでやっていた尾崎豊のドラマのタイトルなのだが、この話は暫くは続きを書かない事にしよう。まだ僕自身も、何から書けばいいかわからないんだ…。

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前回は、昔の光の喋りはそんなに負荷なくシミュレートできる、昔は随分苦労したのにちょっとは成長したのかな、なんて事を書いた。

しかしよく考えてみれば、たった今現在の光の喋りをシミュレートするのは相変わらず、いや昔以上にずっと難しい。昔の光は、昔であるが故に、過去であるが故にもう描像が確定してしまっていてそれ以上新しい事はない。勿論、当時のインタビューを読み返すなどして新しい発見があった場合は知見が上乗せされより理解が深まる、なんてことはあるだろうけども。

しかし、今の光は今を生きている。日々常に変化の中に身を投じているのだ。しかも、過去の道筋がまるで役に立たない。

普通の、といったら語弊があるが、普通の人は年を重ねるごとに社会的な役割が移り変わり、それに従って人間性も変化していくものだ。父母がやがて祖父母になるとか平社員が役職に昇進するとか選手がコーチになる、といった具合に。

しかし、光の場合そういう決められたルートを通る生き方をしていない為、今どちらを向いているか常に注視しなければいけない。そしてそれと共に、過去の歩みもまるごと頭に入れておかないといけない。何しろ、誰も通った事のない道を通り続けているのだから。

その点を踏まえると、今回の人間活動は実に痛い。次に現れてくれる時にどこらへんに着地しているのか、ただでさえ予測がつかないのにいよいよ予測が不可能になっていくからだ。これまでの蓄積からの断絶みたいなものを、我々は経験する。ひとことでいえば、ひょっこりである。なんのこっちゃ。

それを新鮮と受け止めるか、動揺と躊躇をもって相対するかで随分違ってくる。復帰するとき、いつものように「もう誰も待っていてくれてないかと思った」と言う気がするが(この予測すら既にあやしい)、今までの蓄積を考えると皆が待つのは当たり前の事で、何ら驚くに値しない。

問題は、その時の"今"の光の姿が、皆に受け入れられるかどうかだ。そっちの方がよっぽど切実に怖いだろう。心配するのはそちらである。新しいメッセ、新しいアピアランス、新しい曲。いや次の活動が音楽かどうかもわからないか。作家デビューしてくるかもわからんからね。兎に角、次にマスメディアに登場してきた時に最初に出した"作品"が、どういう事になるか。今の時間に待っている人が居る事より、そちらの方が重要である。

とはいえ、光は過去に"UtaDAから戻ってきた時"にデカい爆弾を投下してそういう事は経験済みである。Be My Lastだ。配信では年間で、何位だっけ、2位とか3位か?を叩き出す程売れたのだが、CDは見事に売れなかった(それでもオリコン1位だけど。比較って怖い)。多分、驚異の返品率だったに違いない。そういう経験が既にあるので、光は次に登場する時も自然体で居られる筈である。そしてそれが、数少ないが私等を捉えて離さない、変わらぬ光の魅力なのだから。

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私には誰にも自慢できない特技がひとつある。頭の中で、歌手にその人が歌った事のない歌を歌わせてそれを楽しむという技だ。なるほど、ただの妄想なので人に自慢しようにも全く方法がない。これが聴覚でなく視覚の「もしもシリーズ」なら絵を描いてみせればいいんだけどね。例えば「もし鳥山明が中川翔子を描いたら」とか。確かに、もし自分が歌えるんなら自分で歌って聴かせられればいいんだけどそんな喉持ってないから無理なんだわさ。あー残念。書いてて虚しいや。

さっきも、ブルース・デイッキンソンがもしBlack Sabbathの"Heaven And Hell"を歌ったら、というのを妄想してうわ超かっけえそこそういう風に歌うんだやっぱHooHooのとこはYeahYeahって歌うんだねとひとりで(寂しく危なく)盛り上がってたんだが、はたと思いついて「よし、光にボヘミアンラプソディを歌わせてみよう」と妄想を始めた。

これが上手い。とてつもなく上手い。本家のフレディより更にぐっとエモーショナルだ。おぉ~「Mama~♪」ってそう歌うんだ~いや「CarryOn~CarryOn~♪」のとこたまんないねぇ、とまぁいつも通り細部に穿って楽しんでいたのだが、こいつ歌ってる途中ですぐ吹き出しやがる。なんか真面目に歌う事をやめて笑い出しちゃって喋るような歌い方になってしまうのだ。なんだよ~もっと聴かせろよ~。

妄想ってそのまま文字にしちゃうと危ないね。それはさておき。

なんでこんなんなっちゃうんだろうと考えて幾つか気がついた。私は、光の歌声をシミュレートするより光の喋り声をシミュレートする方が遙かに得意なのだ。何かの曲を新しく歌わせるには若干の集中力が必要だが、喋らせるのは頭の中のボタンをひとつ押すだけ。どんなセリフだって身振り手振りつきで喋らせられる。しかも、1999年の光、2000年の光、2001年の光、、、と各年代ごとのクセを忠実に再現してくれる。更に「18歳の時に実際に光が言ったセリフをもし24歳の光が言おうとしたら」みたいなマニアック飛び越してアクロバティックなシミュレーションまで出来てしまう。いや正確さの検証は不可能なのでしてしまう、と言った方がいいか。

その"それっぽさ"の度合いは、何年も昔に私が訳したメッセのヒカ語訳を読んだ事のある人なら何となく想像がつくのではないか。当時は結構集中力を要したが、今はそんなでもない。成長したのだろうか私。言っててやっぱり虚しいけれど。

ところがところが(ところてんじゃないんだ)。これが歌だとそこまで精度よく妄想できないのである。あれだけナチュラルに喋っていた光が、いざ歌い出すとなるとなんとなくわざとらしくって、歌ってる光がすぐに吹き出してしまうのだ。ボヘミアンラプソディ長い曲だからこれではいけない。

光の喋りを年代ごとにシミュレートできるのに歌ができない理由は何か。どうやら光の歌は、クセというか流れで構成されていないらしいのだ。喋りというのは思考の流れの反映だから、私が光の喋りを妄想する時に押すボタンは喉ではなく脳である。私は光の脳をシミュレートしているのだ。

しかし、光の曲ごとのパフォーマンスというのは考え抜かれ選び抜かれた上で醸造された歌唱なのだ。マイケルジャクソンの歌唱を絶賛していたメッセを想起。光は、とても細かい所まで喉の、声の使い方を"観て"いる。その観察力を応用して、各楽曲ごとの歌唱アプローチを選択しているのだ。

その為、その年の歌い方のクセや流れという"全体の傾向"が歌唱に表れない。一般性を抽出できないのだ。思考の流れは真似できても、思考の蓄積の結晶は真似できない。実際の生歌を歌う光も、自分で歌ったスタジオバージョンのチェックポイントの多さに毎回辟易している筈だ。そんな事も、光が生歌に難儀してきた理由のひとつになっている気がする。

それにしても、だとすると、Wild Lifeの歌唱の精度はあらためてとんでもないレヴェルだと思い知らされるよ。唖然。

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