無意識日記
宇多田光 word:i_
 



こういうブログをやっていると、彼女がアーティスト活動休止期間中にどう振る舞えばいいか実に悩ましい。ミュージシャン/アーティストのファンというより、単に宇多田光という人が好きなだけだからだ。Simple And Dirty KOI-GOKORO, That's Allなのである。

ただ音楽が好きなだけなら、だいたいのミュージシャンには影響を受けた人物なり、同期で似た音楽をやっていたり、後輩に影響を与えたりしているので御本尊が休止中の場合はそういった周囲の音楽の話題を取り上げればよい。

しかし、光の場合そういう人間が極端に少ない。人当たりも評判もいいのに何故か社交的でない、とでもいう感じなので、たとえアルバムに参加してもらってもそういった人たち、GLAYやらThe Back HornやらTimbalandやらの活動に触れても、ニュース以上の意味を持たせられない。音楽的な繋がりも人間的な繋がりも薄いし、関連付けようとしてもなんとなく無理が出る。

そういった印象を与えない、深く繋がっている感じのするアーティストも僅かに居る。尾崎豊、フレディ・マーキュリー、といった所だ。スティングも入れていいかな。そして忘れてはいけないのは藤圭子だ。そういったひとたちとのスピリチュアルな繋がり具合ならブログの話としては面白くなるかもしれない。

しかしそれ以上に、「別に音楽の話題でなくてもいい」というもっと身も蓋もない意見があって、音楽音楽歌唄歌詞歌詩と毎度書いてる私ですらそれには同調せざるを得ない。宇多田光がまず好きで、彼女が歌っているから歌を聴く、という順番な感じである。特にここを読んでいるようなコアなファンは「何をやってもついていきます。ていうか目が離せない。でも目が合ったら恥ずかしくて下向いちゃうかも」という些かBjorke("ビョーキ")な種族であろうから、何がなんでも音楽でなくてはならない、ともならないのではないか。いや色んなファンが居るのは知ってるけどね。

もっと微妙な問題があって、では僕らは"宇多田光っぽいもの"にはどれくらい関心を示すのだろうか。音楽面では、似たポジションのアーティストをみつけるのが無理なのでこの質問自体成り立たないが、はてさて、まぁ例えばミラクルひかるをどう想うか、という問いのたて方ならわかりやすいか。

実際に会って挨拶程度に言葉をかわした事があるせいもあるかもしれないが、私が彼女を魅力的だなと思うのは、まず人間的に素晴らしいこと(周囲への気遣いや心配りなど)、頭の回転が非常に速いこと、単純に表情豊かな別嬪さんであること、などなどだが、光に似ているから、というのはちょっと違う。寧ろ同じ対象を執拗に愛している同志として共感する部分が強い。この、光に似ているから好印象、というのとお互いに光が好きだから好印象、というのは微妙な、しかしかなり根深い差異だと思われる。

となると、やはり私(たち)は唯一無二、One And Onlyな宇多田光という人間を特別に愛している、という「当たり前だ!」(ルフィがナミに麦わら帽子をかぶせながら叫ぶ感じで)な結論になり、やはりこのブログは彼女の人間活動中に何を書くべきか悩むことになる。まぁその割に2011年上半期もなんだかんだ、震災による半ドン期間もあったとはいえ、のらりくらりと書いてきてるわけだから案外私は心配していない。なんやねん。(笑)

というわけで下半期も引き続き変わらずよろしく~。

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無力  


震災以後ミュージシャンたちは「音楽に何ができるか/音楽家にできることは何なのか」を自問しているように見受けられるが、こういう問題設定自体、普段「音楽に出来ることは、ない」のをうっすら自覚しているように思えてくる。

勿論、音楽は人の心にはたらきかけ得るし、それをきっかけにして行動を起こすかもしれないが、結局は誰か動いてくれる人が居ないと話にならない。"何かができる"というのは、人と人との約束事を離れて、自然に直接作用することをいう。幾ら楽器や喉で空気を震わせたって、その名残は忽ち消え失せてしまうだけだ。たまにワイングラスを破壊できる人とか居るけれど。どんな歌も、運ばれた水や食料や薬品にはかなわない。

そのもどかしさとどう向き合うか。耐えきれなくなれば音楽から離れることになる。空気を震わせ人の心が奮い立つのを待つよりは、実際にモノを動かす立場に推移していくだろう。

音楽と向き合い続けるというのは、何もできない音楽を、それでも愛するかという哲学問答を繰り返す事である。その点、光は強い。そもそもの出発点が強力な無力感だからである。親に振り回され続けた幼少期を経て、「何もできない」状況に向かい合い続けた人間がどう強さを育んでいたかは、「ゆきだるま 一緒につくろう 溶けるけど」の一句の時点で完成されている。「結局、何にもならない」事に執心し従事するのに躊躇いがない。

祈りや願い、誓いといった心理は「何もできることがない」と痛感した時点から起ち現れる。何かできることがあれば祈ってなんかいない。人が祈るのは無力故。音楽は自らの無力を以て無力に嘆き諦める人間を優しく包み込む。人の祈りを込めるのに歌は最も相応しい。「音楽に何ができるか」「何もできないよ。それでも歌う。それが音楽だ。」

人間活動って、そうすると、光が「人としてできること」に従事する意味があるのか。それで何を感じるか、きかせてもらいたいような、もらいたくないような。

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恋のバカンスや恋のダンスサイトに混じって「こいのぼり」がヒットするんだよね―っていうのは誰のネタだったかな。それはさておき。

小さい頃から、どうしてこうも邦楽の歌詞というのはラブソングばかりなのだろう、と疑問に思い続けてきた。昔も今もそんなに変わっていない。応援歌、というジャンルが若干広がったかな? でも、驚くほど恋の歌ばかりである。勿論、辺境に目を向ければ様々な歌詞があるのだが、チャートの上の方には殆ど来ない。

そもそも、こんなジャンルは有り得ない。テレビも書籍も映画もゲームも何もかもあらゆるストーリー、時代背景、地域、登場人物を網羅している。音楽だけ、やたら偏狭なのだ。よくもまぁ今までやってこれたものである。

基本的に、恋愛に興味のある層というのは、相対的には多いが総体的にはさほどでもない。昔キャンシーを主題歌にしてくれたドラマ「HERO」は、当時私の周りにも見ている人間が何人も居たが、きいてみると「キムタクと松たか子なのに恋愛ドラマじゃなかった」から見始めたんだと。確かに恋愛ドラマは一定の視聴率を見込めるが、そういうのに興味のない層までとりこんだお陰で高視聴率を獲得したのだ。(と言い切ってはみましたがロンバケやラブジェネやら何やら高視聴率恋愛ドラマは色々ありましたなぁ…まぁそれはさておく)

つまり、邦楽って損してるんじゃないの?ってことを云いたい。もっと様々なテーマを扱った歌がチャートを賑わせれば多様な層を取りこめて全体のパイが増えるのではないか。今のまんまでは、若くて恋愛に興味のある時期にしか歌詞がリアルに響いてこないのでは。

いちばん大きいのは、歌を聴く、歌うといったときにラブソング以外に対してどんな態度を取ればいいかという"習慣"が身に付いていないことだろう。歌を聴くとなったら僕と君、貴方と私の世界を無意識下でもう想定してしまっている。これは本当に根が深く、数十年単位ではどうしようもないんじゃないかと推測する。

…と、ここまで書いてきておいて全部ひっくり返してしまうが、私は光にはとことん恋愛をテーマにした、或いは恋愛の体裁をとった歌詞世界でいってほしいと思っている。理由はSimple (And Dirty ?)、私が彼女に抱いている感情が恋心だからだ。光がラブソングを歌い続けてくれるのは即ち幸せである。陰陽座には妖怪が魑魅魍魎な歌詞世界を貫いて欲しいし(次作はコンセプトアルバムということで楽しみだ!)、LIV MOONには宝塚ちっくな世界を極めて欲しいのと同様に、光には恋の歌を追求し続けて欲しい。シーンの中での立場とか実績とかキャリアとか影響力とかいった社会的要請を一切斟酌しない。極々私的な私の感情に基づいた願望である。

結婚したあとも変わらず恋の歌を歌い続けたのはいいとして、子供を授かるとか養子を育てるとかいうフェイズに光が入った暁にも、やはり今までどおり恋の歌を歌い続けてくれるのか、その点はやっぱり気になるのだが、こればっかりはその時になってみないことにはわからないよねぇ。

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ガガ様が徹子の部屋に出るときいて「そういえば塩沢ときはあの番組に出たことがあっただろうか?」と疑問がわいた。ずっと裏番組に出てたから無理だったんじゃないかなぁと思ったがレギュラー終わったあとに出演したら話題性十分だからな、たぶんのちに出たのだろう。

勿論焦点は髪型面白対決なのだが、ガガ様はトットちゃんを上回る玉葱頭でやってきたのだろうか。いやどうでもいいか。

誰と誰が共演しているかは、意外に把握してないもので、タモリなんかはもともと日本のポップスなんてそう聴きそうにないけれど、Mステの司会を長年勤めたお陰で若いアイドルなんかともひととおり顔見知りになり、司会業が随分やりやすくなった。わからないものだ。

わからないといえば、光がMステで誰と共演していたか、とんと思い出せない。どうせ光ばかり見ていて他に目がいってないからだろうが、浜崎あゆみとは確か並んでいたような気がする。倉木麻衣とは話したことあったっけ。うーん、記憶にない。

先日も光が02年のダボス会議@NYでクインシー・ジョーンズに会っていたことをすっかり失念していた。映像もニュースでちらっと見た程度で、メイクのインパクトが強すぎて誰とハグしてるかだなんてチェックしていなかったよ。そもそもこの招待自体がクインシーからのものだったんだねぇ。

人の縁というものは、いつどこで再び交わるかわからない。まだ現役のうちにクインシーにプロデュースしてもらうのも一興かと思ったが、資金が潤沢であっても頼まなかったのだから今後も可能性は薄いかな。寧ろガガ様との共演の方が面白いかもしれない。

2人のプロデューサが共演しても船頭多くして、な感じもするが、作詞作曲だって元々ひとりでするもんだったのが共作が増えていったんじゃないのだろうか。詳しい歴史は知らないけれど。相互プロデュースというのはどうだろう。お互いがお互いをプロデュースしあう…特にガガ様のびじゅかセンスでUtada Hikaruが料理されたらどうなるか、ダボス会議のメイクやCDTVベラメイクなんて較べものにならないくらいのインパクトに…需要がないか。

大方の意見が、そして光自身の考えも「基本的にはセルフプロデュース」な感じがしてはいる。というか私自身が光プロデュース大好物だ。ただ、ビジュアル面に関しては誰か他にブレインが居てもいいかもしれない。昔はその部分をきりやんが担当していたようなもんなのだが、寧ろ今の時代の方がYoutubeの活用が求められているので、次はそこを強化していってもいいのではないか。

尤も、その点においても、GBHPVの出来映えをみるかぎり、光が最適任であることは間違いないのだが…スターゲイトやトリッキースチュアートにプロデュースを依頼してみたくらいなので、ビジュアル面でのプロデュースもまた外注することもあるだろう。三十路越えでのビジュアル・コンセプト…前途多難だな。写真撮影で下に水着を着込んでくるようなお茶目さは、幾つになっても失ってほしくないけれど。

30になっても水着着てこいって意味じゃないぞ。(笑)

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リスクのカラオケ、当時は「凝ったサウンドだな~」と感心しながら聴いていた気がするのだが、今久々に聴いてみると密度が薄くて吃驚する。それでもポイントはしっかり押さえてるんだから面白いな~…ってつまり、いつものように、私は単に「光の書いた音」に反応しているだけなのだ。まだ編曲者として頭角を現す前の段階の楽曲だとどうしても光の置いた音は少ない。

それと同時に、この"心細さ"みたいなのが、最近はサウンドに現れなくなったな~というのも感じる。疾駆するリズムにゆったりとした裏メロのオープニングナンバーといえば後のThis Is Loveと同じ方向性の楽曲といえるが、This Is Loveが世の喧噪を大きな愛で包み込むような壮大なスケール感を演出しているのに対し、リスクの方は世の喧噪の中に紛れ込んで迷子になった時のような心細さを感じる。曲ごとのコンセプトの違いと言ってしまえばそれまでだが、2000年当時の、何が何だかわからないうちに業界の濁流に飲み込まれてこれでいいのか悪いのかを判断する暇(いとま)も与えられずとにかく曲を作って歌ってみていた、その当時の雰囲気が見事にそのまんま曲と詞で表現されている。

宇多田光という存在が、手掛ける音の数が増えるに従いどんどん大きくなっていった感覚は、This Is The Oneで一旦集束する。光の音ばかり欲しがる私だからの感想なのかもしれないが、HEART STATIONの旋風のようなダイナミズムが影を潜め、コンパクトな歌に焦点を当てていたのは確かだ。

だからといって光はその流れのままただもっとシンプルな歌に、とは行かなかった所がやっぱり凄い。Can't Wait 'Til Christmasに関してはそのThis Is The Oneのシンプル路線の究極形という感じがするが、Goodbye Happinessは"スケール感"という俗世的な数量感覚というより、突き抜けて異次元に達してしまったような不思議な感覚にとらわれる。神話の世界とでもいおうか…尤も、このあと2人は何度生まれ変わってもKissをして原罪を背負い込み俗世に身を落とし幸せにお別れを告げるのだが…。

そうした分裂した神話性と俗世感のはざまに、リスクの頃の"心細さ"を大幅に復活させた、いや、あの頃よりもっとラディカルに心細さを綴っているのが嵐の女神だ。その頃と異なるのは、そんな子供の自分を優しく抱き止めてあげられる自分が居ることだ。その母性のぬくもりに包まれて、子供の自分は正直に想いを伝える。歌詞の構成は、家に帰ってベッドで眠る物語、即ちぼくはくまと相似形な訳だが、"ぼく"で"くま"な歌の主人公に言わせていた"ママ"のひとことを、はっきり堂々と自分のことばとして"お母さんに会いたい"と口にする場面は、まさにひとつの到達点であるといえる。DISC1同様DISC2も過去に遡る曲順であるとすれば、この嵐の女神こそが宇多田光のThe La(te)st Songであるといえるだろう。

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USJを離れた事でAutomatic Part 2 は永遠に陽の目を見ないんじゃないかというのは気になるが、逆にAutomatic Part 3 を書き易い理由が出来ている、ともいえる。

次にHikaru Utada、或いはUtada Hikaruとしてレコードを出す時は3度目のメジャーデビューという事になるのだろうか。バンドを新しく組んでいく訳でもないのにこんなにデビューする奴は珍しいんじゃなかろうか。せいぜい、地元で自国語で歌っていた人が英語盤で再デビューする程度だろう。光の場合は、レコード会社が統一された為、何度もいうようだが英語曲と日本語曲を混在させた作品を作る可能性もでてきた。

普通に考えたらこれは「帯に短し襷に長し」であって、いずれの市場でもなんだかなぁと思われる所だが、こと日本に関してはそんなに抵抗はないのではないか。コンサートに足を運ぶファンですらEXODUSの曲に対する反応はこんな感じか…とは確かに思ったし、これだけ邦楽が衰えても洋楽が伸びる訳ではないのだから最初っから英語の歌に対するニーズはしれたものなのだが、では逆にそういう状況を打破できるとすれば宇多田ヒカルくらいしか居ない訳で、次戻ってくるときは"大御所"扱いされるのだからある程度チャレンジングなアプローチをとるべきなんじゃないかと思われる。まぁつまり相当厳しいだろうがやってみるのは面白そうだという無責任な意見である。

Automatic Part 3がシングルになった事態は擽られる。90%の人間が「Part2は!?」となるだろうし。幾らなんでもソロ歌手としては"最後のデビュー"となるだろうし、色々と熟慮を重ねながら大胆な戦略で打って出て欲しいなぁ。

悩みは、余りにもオプションが多すぎる事。縛りが減って何でも出来るとなると決断は格段に難しくなる。日本語盤を出して日本でプロモーションするのか、英語盤を出して世界を飛び回るのか、ハイブリッド盤を出してネットを駆使するのか。走り出したら止まらないのだから、今の静寂は贅沢なんだな。

向かう市場によって曲作りが変わってしまう性質自体から根こそぎ変えてきたらこういう心配も全部吹き飛ぶ。それがいちばん面白い事態かもしれへんね。

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歌の歌詞、一曲でだいたい何文字位だろう。おおよその勘だが、3~5分の曲で500~1000文字程度だろうか。今の本欄の文字数だと7分位の曲になりそうな気がする。

"このサイズの日本語で何がいえるか"というのは、少しばかり興味のある問題である。日本語においては短い方は俳句の17文字、更にはキャッチコピーなら3文字とかでもOKだ。ここから短歌、連歌、定型詩となるに従い文字数は増えていく。掌編小説となると短いのは数行という感じになるが、取り敢えず800文字以上が目安な気がする。根拠はない。なんとなく。

この、短めの定型詩と掌編小説のちょうど間くらいの、いわば中途半端な長さがポップソングの"尺"なのである。この程度で人間が何をいえるかというと、例えばプログラミングだと、テトリスが書ける。最初嘘かと思ったが、本当に500バイト以下でテトリスが動くのだ。恐るべし。気になる人は"7行プログラミング"でぐぐってみよう。話が逸れた。

ヒカルの歌は、それ位の枠で何をいっているか。喜びや悲しみや感動や切なさを、どれ位の細やかさで表現しているのだろう。

たとえば、Prisoner Of Loveは「退屈な日々が貴方に会う事で激変した。ありがとう。何があっても一緒に行こう」という、出会いが心境の変化を生み強い決意を心に宿す過程を描いた歌、という風にまとめられる。心の動きの描写の曲である。個々のリスナーにその前後のストーリーを補完させる抽象性が確保されていて、なんだかちょうどいいメッセージ量に思える。

Never Let Goなんかどうだろう。これは案外シンプルで、如何に不安かを美文で綴ったものだ。曲調もモノトーンで、人生のストーリーの一部分をスナップ的に切り取ったような刹那的な雰囲気だ。

ぼくはくまの歌詞は、そういう風にヒカルの歌詞を比較していくと、結構突出していることがわかってくる。基本は自己紹介なのだが、歌や踊りといった芸能を嗜む感性を披瀝しつつ、好敵手の選定に肌触りを基準にするあたりはぬいぐるみとしてのアイデンティティに自覚的な面が窺えるし、前世に触れることで輪廻転生の世界観の住民であることも伝わってくる。フランス語にも精通し、動物としてのくまの性質をもっていること(冬は眠い)から彼は虚実の境目の住人であることもわかる。昼行性でありつつ、独り暮らしであることも伝わってくるし、いちばん秘めた想いが母の愛への渇望であることまで判明する。たった2分半でこれだけ多角的な歌詞を擁する歌はヒカルのレパートリーの他にはない。盛り沢山な内容である。


…この企画、シリーズ化しようかな…。

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地上波テレビのアナログ停波まで1ヶ月を切った。大抵の世帯で切り替えは済んでいるだろうとはいえ、これで"テレビ離れ"とやらは更にやや加速されるだろう。

音楽番組、特に新曲をプロモーションする番組は非常に少なく、テレビ離れが増えてもそんなに影響はないのかもしれない。CMや連続ドラマは、しかし、なんだかんだいって影響力が強い。Flavor Of Lifeのとき思ったのは"花男2すげー"だった。曲はFoLに限らずいつだって素晴らしかったからね。

そういった準間接的なプロモーション手段の規模が小さくなるのは避けられそうもない。一方で、サッカー日本代表試合の高視聴率にみられるように、全国的な一体感を希求する空気はしっかりと流れている。別にみんなサッカーが特別好きな訳ではなく、野球でもペナントレースは地上波から消えていてもワールドベースボールクラシックは、多分次回も強いだろう。要は、"みんながみる"という空気を作れるか否かだ。

音楽でそれが出来るのは、アイドルを除けば今後は再集結サザンオールスターズくらいだろうか。宇多田ヒカルは、国民的歌手とかいう烙印を押されているような、もう頸木からは解放されているような、微妙な立場である。元々ファッションリーダー、トレンドリーダーとして市場を引っ張ってきた安室奈美恵が、過酷なツアー生活を経てアーティストとしてのステイタスを全国規模で勝ち得ていったのとは対照的では、ある。

そんなに手段は多くない。スポーツのように国別対抗がどうのという枠組みもないし、人々の生活に直結するようなこともない。もし何か"一体感"が生まれるとすれば、それは日本語への危機感だろうか。何しろ数百、いや千数百年、この土地に住む人は日本語を必ず話してきた訳で、それが壊れる事は今後数十年単位では有り得ないように思える。が、国という単位で大衆を動かすテレビとか新聞とかいうメディアがそのサイズを維持できなくなっていった時、日本語は地域格差と国際化という内外2つの圧力によってアイデンティティクライシスに陥る可能性が(ほんのちょびっとだけ)ある。今までだって世代間の日本語には乖離があり、それに基づいた歌詞は相互流通が難しかったが、そういった隔絶感に対してどの世代にも通じる日本語で歌う歌手には、もういちどくらい出番があるかもしれない。

私としては、遠慮なく英語で歌ってくれれば、それで構わないけれど。たとえ何歌ってるかよくわかんなくなってもね。

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この国では失われた20年とか停滞とかいわれてずっと閉塞感が漂っているらしいが。正直庶民レベルでそんな事を感じる事は少ない。デフレだ不況だといわれても、失業率と自殺者数の増加は真に深刻だとは思うが、全体としては見事な発展を遂げた20年だと思う。

例えば音楽だけでみても、CDシングルが普及しCDレンタルが増加、ポータブルCDプレイヤーやMDプレイヤーの登場で音楽を持ち運ぶのは格段に楽になった、と思ったら家庭用PCの普及で家に居ながらCDを制作できるようになった。更に衝撃的だったのはiPodをはじめとした携帯音楽プレイヤーの登場だ。掌の上に数万曲が収まっている。利便性ここに極まれり。近所の本屋で遂にCDレンタルがはじまり喜び勇んで自転車を走らせてた小学生の頃の自分にみせてあげたい。きっと目を丸くして驚くことだろう。

インターネットを中心としたPCの普及と進化は凄まじく、世界中の人々と即座に連絡がとれ、地球の裏側でのコンサートやスポーツの試合を家に居ながらにして見れる。2年に1回の世界選手権の時のTV放送でしか見られなかった世界トップレベルの試合が、今は毎週末に試合の途中で寝てしまうくらいたくさん生中継されている。小さい頃の私が居眠りをしている私をみたら「もったいない!起きさらせくそがきゃあ!」と激怒するだろう。本当に贅沢になったものである。

しかし、それだけ技術が発展して便利になったのに心が満たされないのは何故なのだろう…なんて風にメディアなら不安や閉塞感を煽りたてるのだろうが、私はそんな風に思わない。いい時代になったものだ。技術といったら利便性の話か、となるが技術の発展を人間に適用するわざ―医術の進歩についてはもう素晴らしいの一言に尽きる。20年前なら罹患したら死ぬしかないと思われていたAIDSも今や「不治の病ではない」とまで言われるようになった。まだまだ戦いは長いだろうが、そういう"成果"に"正価"を与えずそれが今の常識なのだから、と嘯いていれば、そりゃ夢も希望も、幸せの実感もなくなっていくだろう。本当にもったいない。あ、今のは小さい頃の私じゃなくて今の私の呟きね。

思うに、この20年ダメになっていったのはTVや新聞雑誌の、特に情報流通に関わるメディアなのではないか。単純に、娯楽が多様化していく中で制作費が削られ部数が落ち、という事が起き彼らが先行き不安を感じ閉塞感を漂わせてきたことがこの20年の正体な気がしてならない。特にこの国では。

といっても、それが勘違いや幻だと言っている訳ではない。先程触れた通り、失業者も自殺者も増えている。実害はくっきり現れている。それは、この20年の発展を活かせないばかりか敷衍を阻害するような構造がどこかにあるのだろう。適切に発展した技術の恩恵を、皆に浴びせる構造にまだまだ欠陥があるのだろう。

今回は敢えてヒカルと話は結び付けない。ヒカルはこのことをどう感じているのだろうか、と強く思ったから書いた。ヒカルが戻ってきた時にこの国に希望はあるだろうか、と訊く前に、既に手の中にある夢や希望に僕らが気づいていないだけではないかと今のうちに自省しておきたい。

…私の"希望"は、宇多田光その人自身なので、光が元気で生きててくれりゃそれでいい。それがいい。それがいちばん、いい。特にそれについて悩んだことはない。あとは如何にそれをカタチにし続けるかだけだ。

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SC2DISC2の驚異的な所は、たった5曲なのに多様性においてフルアルバム2枚からの選りすぐりであるDISC1を上回っている所である。

振り幅、振幅とはその幅の大きさとともに、どちらの方向へとぶっ飛ぶかという点も大きい。様々な評価軸があるだろう。

サウンドの重さ軽さという点ではフルバンド編成で重戦車のように迫ってくるShow Me Loveの迫力は過去最高だし、基本ピアノ一本、いやアカペラでも通用するCan't Wait 'Till Christmasのシンプルさも過去最高だ。

歌詞のPersonal/Popular比率を考えると、本人がカマトトとまで言い切ったCWTCのラブリーな世界観は世間がPopsに求めるものに見事に応えていて、ここまで振り切れてサービス精神を発揮したのは過去になかった一方、嵐の女神では最も個人的な想いを震える足を抑えながら歌いきっている。この振り幅もまた凄い。

サウンドのミクスチャー具合もぶっ飛んでいる。愛のアンセム、誰がシャンソンとジャズのスタンダードナンバーをこんな風にマッシュアップしようとするだろうか。また、Goodbye Happinessではクラシカルな弦楽隊と聖歌隊を従えてダンスビートに載せ、Japanese Popsの神髄ともいえる優しいメロディを歌い上げる。超天才アレンジャーの到達したひとつの極地といえる。

なのにShow Me Loveでは逆になんのギミックもなく王道中の王道のハードロックを聴かせる。手法的に何の斬新さもなくても楽曲の力だけで押し切れるパワーもまた、今までになかったものだ。

歌詞の私的さ公的さの振幅、サウンドのシンプルさと複雑さの振幅、斬新と古典、融合と独立、軽重硬軟明暗静動総ての振幅において、あのダイナミックなULTRA BLUEとHEART STATIONを上回る。こうなるとどうしても「今の状態でフルアルバムを作ったらどうなるのだろう」と考えてしまうが、優秀なコンホーザーはここで足を勇まない。一歩々々、なのである。

とはいえ、復帰後のハードルが非常に高くなってしまった感はどうしても否めない。いったいどうやってこの大きな山を越えるのか。山は登ったら降りるものだとはいえ、次に登る山が前より低くて満足できるとも思えない。多分、光本人もまだ具体的には何も考えていないのだろう。それまでは我々は、今眼前にある高くて近い景色を存分に堪能しておくこととしよう。

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前も少し似たような事を書いた気がするが、人間活動を通して成長した光が戻ってくる事に関して心配や不安は殆どない。寧ろ不安なのは、我々の方がしっかり出迎えれる態勢をきっちり整えられているかどうかだ。

まず、レコード会社はどうなっているのだろう。幾ら契約が残っている、続いているとはいえ経営陣が刷新されてしまったら、と思うと気が気でない。これも前に書いた気がするが、EMIの身売り先がUniversalだったら光はどうするんだろう。まぁ移籍するったって引く手数多だろうが。

いや、それすらも怪しいかもしれない。インターネットが普及した時、CDのようなフィジカルが売れなくなるのは予想されたが、ダウンロード販売はその減少分をまるで補っていない。寧ろ、ここ日本では新曲を買って聴くというライフスタイルが減っている感じすらする。

思うに、昔流行歌は庶民のコミュニケーションツールだった。何らかのメッセージを歌に載せメディアを通じて日本中に広める。そのメッセージに共感した者同士が共感を深める。その橋渡し役だった。

今は、何か思うことがあればメールを送ればよい、ブログを書けばよい、ツイッターで呟けばよい。直接相手と、或いは不特定多数少数の民衆とコミュニケーションをとる手段ができた。そこで話題にする為にまだまだ音楽は有用だが、他にゲームがある、ニュースがある、占いがある、通販がある、となってくるとOne of themどころの話ではない。特にこの業界は著作権に固執しすぎCCCDなどで失敗を繰り返した。話題になる為の敷居を自ら高くし、音楽に触れ合う機会と習慣を次々と奪っていったのである。

このままいけば衰退は加速する。地上波テレビで音楽、歌を流す番組がどれだけあって、それらはドラマやバラエティーやアニメやスポーツと比べて存在感はあるだろうか。ない。音楽の需要自体はなくならないが、新しいものへの希求は薄れていくだろう。

音楽を聴く習慣の衰退は、憂うべきだ。音楽は勝ち負けではなく趣味嗜好であり、自分が価値があると思うもの、自分が美しいと思うものを追求する行為だ。元々日本人は苦手な分野なのである。場の空気を読み、周囲の動向を気にして同調してゆく生活には音楽は価値がない。何を好きかでアイデンティティと社会的地位を築き上げるのではなく、地位が用意されていてそれにアジャストしてゆく。勝ち馬に乗る癖ばかりがついていく。それは別に生き方として間違ってはないけれど、音楽にはつらい。テレビのニュースでスポーツの明日の試合予定や結果を報告することはあっても、次の日の演奏会の日程や前の日のライブの様子を伝える機会は極めて少ない。外タレ公演は話題になるが、外国人が来たから色めき立つというだけである。

インターネットは、そういう日本人の特色を見事に抽出してしまった。こんな傾向が更に何年も深まっていったとしたら、果たしてこんな国の為に日本語で歌う意義なんてあるのだろうか。全身全霊をかけるからこそ、相手を、受け手を選んだっていいと思うのだ。

まぁそもそも、行政体としてのこの国がそのうち瓦解するんではという不安が、今回の震災を機に更に高まっている気がする。行政が崩れ、経済が崩れ、市場が崩れれば音楽を売るだなんて話ではなくなる。レコード会社は消えてなくなり、日本人から流行歌の習慣は消えていくかもしれない。

そうならないようにする為には…そうだな、せいぜい祈るくらいのことしか出来ないな。でもその祈りの力こそ歌の力だ。祈ることを忘れなければ、光はまた僕らに向かって歌いに来てくれる、と何となく信じておくことにしようか。

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伊達公子って「人間活動」の完全なる成功例なのではないか。昨夜、ウィンブルドンを幾度も征した圧倒的な芝の女王ヴィーナス・ウィリアムズを相手に"エレガントな激闘"を繰り広げる不惑の彼女を眺めながらそんな事を考えていた。

テニス史上最高の選手である西ドイツの(その頃からプロなのだ)シュテフィ・グラフと追いつめたあの試合から15年経ってあそこまでの試合をまた同じコートで、というのは常人の理解を遥かに超えている。当時26歳の伊達公子は、選手として絶頂期であると思われていた1996年に突然引退を表明する。

理由としてはランキング・ポイント制度が変わり、数多くの試合に出なければ世界ランクが維持できなくなったこと等を挙げていたが、要するに(と敢えて乱暴に纏めてしまえば)これ以上肉体的・精神的に疲弊したくなかった、仮にしたくてもできなかったのだろう。

ヒカルにせよだてっくにせよ、プロフェッショナルとしての成績は全く衰えておらず、寧ろ過去最高のものをみせながらこうやって退く事を選んでしまうというのは去り際の美学という以上に切実な感覚がある。だてっくはシュテフィグラフやマルチナナブラチロワのように身も心も魂さえもテニスに売り飛ばしたかのようなストイシズムに与しようとはしなかった。それは、彼女の言葉を私の選択において借りるのならば「これ以上やったらテニスを嫌いになってしまう」ということだったのではないか。

そして以後の13年間、マラソンに挑戦したり結婚したりしながら、キッズテニスの活動やテニスの実況解説・執筆などを通じてテニスとも関わりつつ、過酷なツアー生活では味わえない"普通の人間としての生活"を満喫してきた。

その長い期間が熟成してきた彼女の"テニスへの想い"は、あの15年前のような思い詰めた表情とは異なる、心底楽しそうに勝負にこだわる姿に表れている。まぁ、思い詰めたといってもその時のウィンブルドンでのグラフとの試合で観客の「シュテフィ、結婚してくれ!」という声に対して「私じゃダメなのーっ!?」と返そうとした話をきいてもわかる通り、センス・オブ・ユーモアは案外携えていたみたいだけど。それを失ってしまうのが怖かったからそうなる前に退いたってことなのかな。余談だが、その観客の呼び掛けに対して当のグラフは「あんた、お金幾らもってんの?」と返して爆笑を誘った。ストイシズムの塊になっていたとしても、センスオブユーモアはなくならない。

だてっくのあの引退の選択が果たして"最高の"ものだったかは誰にもわからない。しかし、こうやって現役に復帰して驚くべきプレイをエレガントに披露する姿を見ていると、宇多田ヒカルが戻ってきた時には光が今以上に楽しそうに歌を歌う姿がどうしても夢想されてしまう。スポーツと音楽、フィールドは全く違うとはいえ、心強い成功例である。でも流石に13年も待たされるのは辛いかもしれんなぁ。40歳越えちゃうもんね。

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三宅Pがコーラス・ハーモニーの鬼なお陰でヒカルのアルバムには随分分厚いハーモニーが聞かれる。話をそのまま受け取るならば48トラックを重ねているそうだからそれはそれは豊かな響きになるだろう…と思うと、そうでもない。確かに美しいが、重厚とか豊饒とかとはちょっと違う、と私は感じる。

理由はシンプル&クリーンで、ヒカルの声しか重ねていないからである。ハーモニーというからには音程は合っているとして、人の声色は重ねれば重ねるほどカバーされる倍音成分が…って難しい話は私にもよくわからないから飛ばすとして、いろんな光を集めると白くなっていくように、声色もまた色々と集めるとブライトな響きになってゆく。

ここが面白い所なのだが、そもそも歌の下手な人間が沢山集まってハーモニーを奏でると、なんだかどんどん声色が澱んでいく。アイドルグループ(特に実在しなくていいです)が全員で歌っている所は、まるで絵の具で色々な色を混ぜていった時のように、なんとなっくはっきりしない、グシャグシャした鈍色(にびいろ)になってゆく。声、声色は、集めた時光のようにも振る舞うし、色のようにも振る舞うのだ。

ヒカルのように一人の人が自分の声のみを重ねた場合は、いうなれば単色光。同じ黄色い声ならば、薄い黄色や濃い黄色、暗い黄色や明るい黄色はどんどん混ぜられるが、それはどこまでいっても黄色の世界である。白色のあのブライトさを出す為には、色々な人間の声色を重ねなければならない。その時には私も重厚なコーラスハーモニーだと評するだろう。

寧ろ、ヒカルのアルバムでのコーラスワークで光っていると思うのは、構造的な声の合わせ方、併せ方である。音を波の集まりだと捉える三宅さんは、声色が重なっていく美しさを重視している気がするが、音を風景になぞらえる光は空間の中で声を様々な位置に配する感覚が強い。

代表的なのがStay Goldだろうか。これは発表当時何度も指摘した為ここでは繰り返さない。もうひとつ、travelingはどうだろうか。リフレインがここまでハーモニーありきの曲はヒカルでは珍しい。それだけでなく、ヴォーカル・ハーモニーの様々な技が駆使されている点に注目したい。イントロからして左右にハミングを振り分ける。次の"祟る♪"は上下でメロディーに違う動きをさせる。飛び乗ったり閉めたりは左右から。ブリッジは単線のハミングを右から、コーラスハーモニーを中央左から被せてくる。サビは豪勢過ぎて説明しきれない! ライブバージョンでは左からのハミングでブレイクだ。ブリッジは脚韻にハーモニーをかぶせて音韻を強調する。英語も日本語も交錯する。二番あとの展開部のあの雄大なパート(PVではイヴの場面だ)では同じ歌詞をゆったりとディレイさせながらしっとりと大きく歌い上げる事で演出されている。アウトロの英語の部分はダブルだろうか(全く同じメロディーを敢えて2つ以上重ねたときのゆらぎ、う
なりを利用する手法)。兎に角ありとあらゆる声の重ね方、配され方がなされている。一度ヘッドフォンで聞き直してみよう。ヘッドフォンが暑くて煩わしくなる季節が来る前に!

昔、「光の作ったバック・トラックが面白過ぎるから全曲のカラオケをリリースしてほしい」とアピールしたことがあったが、ヴォーカル&ハーモニーだけ抽出したトラックも欲しくなってきたな…カラオケだとバックコーラスはよく聞こえるんだけど肝心の真ん中の声だけ抜けちゃってるからねぇ。

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どうやら昨夜きりやんと偽Z武氏(だから誰やねんそれ)がツイッターで相互フォローしたようだ。私どちらもフォローしてないんだけどなぜかフレンズタイムラインに彼のツイートがのっかっていた。誰かのRTだったのかなぁ…。

という訳で先日から何かと比較対照していたお二人が友人関係を結ばれたということで、日和見には面白い。イケメンリア充さん同士の会話についていけるか心配だが、さてどのようなことになりますか。お互いに学び合う事も多そうだが、どこまで気が合うか、特に、カメラマンとライターという人種でありながら被写体や取材対象より何かと目立ってしまう強烈なキャラを持つ2人な所は惹かれ合うかもしれない。2人ともバンド経験あり、という所も共通の課題かなー。

いろんな場所のネット住民の意見をみると、偽Z武さんはかなり支配的に全員の心を折っている感じだ。彼に刃向かおうという残り少ない人種は障害者を外から思いやる人たち。正直旗色の悪い戦いだと思うし、私も意見は合わないだろうが何となく頑張ってほしい気がする。ミリオンベストセラー作家に全員で屈服するのもどうかと思うので。

きりやんの方は、特に興行成績的に成功を収めたCasshernはダメ映画の烙印を押すのが主流になっているようだ。が、次作のGoemonが何となく普通の作品になってしまったので振り上げた拳の行方がわからなくなっている状態。てか今はあんまり関心を払われてないかな。

取り敢えず両者とも社交性は十分ということで今後も交友関係は広がっていくだろう。誰と誰がどこでぶち当たるか。周りからみていようか。

…と、何故か輪の中に入っていく感じがしないのは多分ヒカルだ。よく芸能界でヒカルと誰が知り合いで、という話になるが、人当たりはよくても活発な社交性や交流力を発揮する感じはしない。多分、もし上記の二人と一緒になっても今の私がそうしたように、周りから見ている感覚なのではないか。

しかし、一方で、ここからが才能なのだが、ひとりひとりを相手にした時は心の中にすっと入っていける…というか、逆か、こちらが光の心の中に飲み込まれるのではないか。ネットワークの対義語は、孤独ではなく、インター・ビュー(inter-view)だという考え方。ネットワークも個々のノード(結び目)の具体的な姿はインター・ビューなのだから当然なのかと思いきや、何故か人はネットワークの文脈のまま人と接してしまったりする。光は、そう考えると、どこまでも基本に忠実なだけなのだ。それを欠落というのは少し違う気がする。

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日が長くなったなぁと思ったら明日が夏至じゃねーか。長いハズだ。Moon Safariってバンド名の割に燦々と輝く太陽の似合うウェストコーストサウンド直系のヴォーカル・ハーモニーが…ってこの話はもういいか。

一昨年の夏はIt BitesのThe Tall Shipsを聴いてたな~。去年の夏はドン・ヘイリーのThe Boys Of The Summerだったかな~。あたしゃ夏だからといってどこかに出掛けたりはしないのだが、音楽と食い物だけはちゃんと季節に合わせてセレクトするのじゃ。

さて光は夏向きの曲を余り書かない事で有名だが、今年は頗る嬉しい事に『雲一つ無い Summer Day』なGoodbye Happinessがある。甘いお菓子をもって(やはりアイスキャンディが適当だろうか)、全員白のワンピースを着て(似合う人が1人も思い浮かばないのはどういうことだ)恋の歌や優しい歌を口ずさむオフ会でもやりますか、どうせならアイスキャンディに限らずみんなで「夏の甘いお菓子といえばこれだ」というものを持ち寄って(溶けるもんばっかだろうなぁ…)、〆は勿論ピザハットを、、、だなんて思いつきで口走っていてはいけない。まぁそれはさておこう。

実際、去年GBHが公開されたのは、調べてみると10月28日の夜の事なので(次の日の朝の私はなにを興奮しているのか3回も"天才"と書いている…500bytesしかないのに)、我々がこの曲と過ごす夏は今年が初めてである。こんなに夏向きの曲なのだから、ファンは今夏こそGoodbye Happinessをヘヴィ・ローテーションすべきだ。PVが季節感皆無の"ヒカルの部屋"だったので、ヴィジュアルとして夏のイメージはない。どちらかといえば、まぁもう秋だったけど愛のアンセムの方がペプシNEXと結びついてる分夏っぽいイメージと繋がってるかなー。

そんな具合なので、ここは自分達で率先してGoodbye Happiness に夏のイメージを添加して、光が帰ってきた時に夏の野外ステージでこの曲を楽しそうに歌う姿を夢想しながら過ごすことにしませう。冬の星座を潜り抜けてテイク5を聴かせてくれた(当日曇り空だったとかいわない)んだから、きっとその妄想も現実になるさ。

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