無意識日記
宇多田光 word:i_
 



今日は9月28日。@utadahikaruが呟き始めて2周年だ。今や「やっべーこの背景まじかわいくないっすか?」の一言は「祝・開通!」と並んで新しい歴史の幕開けの象徴となった感がある(主に、私の中で)。

前から触れている通り、この"@utadahikaru"という名義は、宇多田光にとってCubic U、宇多田ヒカル、Utadaといった名義に連なるものになってきたと言っていい。いいんだよ。ダメ? どっちでも、いいけれど。

別に新しい人格になったとかそういう訳じゃなく、いい意味で(と言うとどうしてもミラクルひかるの濱田マリのモノマネが頭に思い浮かんで離れない。あとELTがラジオから流れてくると噴き出すようになったぞ俺。どうしてくれようタムラリカ。)光は変わらないのだが、圧倒的に身近になった。

おまぃら、考えてもみろ、10年以上の前の自分に連絡して「いやぁ、宇多田ヒカルから二回も返事貰っちゃったよ」とか言ったら「何寝ぼけた事言ってるんだ」とハナにもかけられなかっただろう。昔の「圧倒的に雲の上の存在」だった彼女からすれば、文字通り天と地ほどの開きがある。この場合は通常の意味と違って地の方が嬉しいのだが。

確かに、その飾らない性格に対して"大いなる親近感"を誰しも抱いていたし、光自身の仲間内でも「ほら、ミステリアスなひかるが来たよ!」てなノリだったらしいが、しかしそれと実際に返事が貰えて会話が成立しちゃったりする事態は次元が違うだろう。本当に、身近な存在になった。

いやまぁ古くからのファンからすれば、特に2006年頃の密度の濃いメッセ攻撃を受けていた向きからすれば、Twitterで大量に発言している様子にもさして戸惑わないだろうが、もっとライトなファンたちからすれば「宇多田ヒカルに直接話し掛けられる」のは何とも新鮮な感触があるだろう。Twitter恐るべし、である。

まだまだ二年しか経ってないので光の様子もさほど変わらないが、これが更に続いていくと「@utadahikaru」というペルソナが少しずつ存在感を現していくだろう。所詮はWebツール、光の生活を全部見せてくれる訳ではない。極一部を切り取ってくれるだけであって、これで今の光を知ろうというにはまだまだ足りない。しかし、光自身がTwitterを通じて自分の新しい側面を発見できていくとするのなら、これはかなりExcitingな話になる。Twiter様々である。

それにしても。次に歌の中で「呟く」という歌詞を使うのならば要注意だ。たぶん、かなりの人がそこの部分「ツイートした?」と読み換えてしまいそうだからだ。くわばらくわばら。

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『大事な時 もう一人の私が邪魔をするの』

前段が『ありのままで生きていけたらいいよね』であるからそのまま読めば、もう一人の私はありのままで生きていく事を妨げる存在、だろう。それが"大事な時"に現れるという構図。言い換えれば「いざという時に素直になれない」という事になるか。

しかし、「誰かに乗り換えたりしません」とキッパリ言い放った後にこういう迷いのようなものが現れるというのはどういう事なのか。更にそこから後は『So Goodbye Happiness~』とまた圧倒的現状肯定のくだりに戻る。

見方によっては、『何も知らずにはしゃいでたあの頃』を『ありのままで生きて』いた頃だと解釈も出来る。この後に"何かを知る"事で今に至る訳だから、ありのままでなくなった自分は肯定の対象になるのだがそうすると『邪魔をする』という言い方がしっくりこない。望んでいた方向に行けない、その原因となる障害だという風にとれる。

この『邪魔』を茶目っ気たっぷりな、小悪魔的な感触で使っている、という風に解釈する事も、できなくはない。「んもー、邪魔なんだからー」なニュアンスで。(なんだかなぁ) しかし、たとえそうだとしても『大事な時』についてはどうにも言い訳がつかない。この表現を冗談めかして使う事は難しい。

反対側から考えてみる。次が『So Goodbye Happiness』、「だからしあわせにおわかれを」となるのなら、その前段階はしあわせにおわかれできない、する気がない状態、てな事になる。innocentな"あの頃"である。であるのならこの歌はしあわせにおわかれする為に勇気を出して"あの頃の私"から一歩踏み出すプロセスを歌っている、という風に美しくまとめられそうだが、だとするとそのもう一つ前の『ありのままで生きていけたらいいよね』の一文が宙に浮いてしまう。この台詞は、誰の"本音"になるのだろうか。そこをよく捉えないとこの箇所の歌詞はわからないままだろう。ふう。

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詩的な美しさは抜群なGoodbye Happiness、お陰でメロディーとリズム感をやや犠牲にしたという事らしいが、どうにも未だに気になっているフレーズがひとつある。

ヒカルといえば「こんな言葉遣いを歌に乗せちゃうの!?」という驚きを聴き手に与え続けてきたという点で有名だろう。『春の夜の夢の如し』とか『甘えてなんぼ』とか『今日は日清カップヌードル』とか驚かせ方からして様々だが、GBHに於いてはやはり『子どもだましさ 浮き世なんざ』ではないか。かなりの人が初聴時に聞き取れなかったと思われるが、つまり文脈上そういう言い回しが現れるだなんて予測がつかないから耳が追いつかなかったのだろう。意外性と吃驚度という点では図抜けている。

しかし、私が気になっているセンテンスはそこではない。(どないやねん)

引っ掛かっているのは、『大事な時 もう一人の私が邪魔をするの』の一節である。

これまで何度も繰り返してきたように、GBHは圧倒的な現状肯定の歌である。部分々々を取り出せば

『何も知らずにはしゃいでたあの頃へはもう戻れないね』
『出会った頃の気持ちを今でも覚えてますか?』
『何も知らずにはしゃいでたあの頃へもどりたいね』

といった歌詞があるから、「昔はよかった」と過去に浸るノスタルジックな歌かと思いきやそれらに続く歌詞は『それでもいいの』と『君のせいだよ』なのだからまるで違う。後者なんか世界中の城壁を壁殴りしながら旅したくなる程甘っ々なリア充発言だ。更に最後のヤツは強烈で、続くのは『そしてもう一度Kiss Me』である。万里の長城の城壁でも足りない位の以下略。

で、だ。「人生やり直してまたもう一度ここに帰ってきたい」という"Happy"極まりないこの歌詞の中で、この『もう一人の私が邪魔をするの』の一節にだけ、妙に陰があると感じられるのだ。先程見た一見後ろ向きな3行はいずれも直後のフレーズで価値転換が計られているのに、ここだけは何のフォローもない。あるのは『So Goodbye Happiness』、つまり曲タイトルである。『だから、しあわせにおわかれを』と言われてもなぜ『So(だから)』なのかわからない。ここの部分を次回、じっくりと考えてみたい。

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で今回は「押上(おしあげ)」の事を「おしがみ」と読んでフォロワーから「新聞屋かよ」と突っ込まれる、という事態なのだが(註:新聞社から販売店にノルマとして"押し"つけられる部数を"押し紙"と言う、らしい)、私がすぐに疑問に思ったのは「光は(東京メトロ地下鉄の)半蔵門線に乗った事がないのか?」という点だ。半蔵門線は短い区間だが、渋谷を始点として終点が押上駅なのである。どういう事かというと、渋谷から半蔵門線に乗ればかなり高い確率で「押上行き」の電車に乗る事になり、否応無しに「おしあげいき」というアナウンスを耳から聞かされている筈なのだ。また、東急からも乗り入れているので神奈川県側から渋谷を目指す場合も「押上行き」に乗り合わせる頻度は結構ある。つまり、半蔵門線(とその直通線)によく乗る人ならば字を読むよりも多い位に「おしあげ」という音を耳から聞いている筈で、そもそも読み間違える道理はない。利用者でなければ、読めないからって別に不思議で
はないのだが。

光の電車利用率が高そうなのは、今までの行動範囲からすれば地下鉄日比谷線である。この路線には中目黒、恵比寿、広尾、六本木といった駅が名を連ねているのだ。確かに、都心地下鉄の路線図はスケベッティ並み、間違えた、スパゲティ並みにこんがらがっているので、如何に山手線内に住んでいても使った事のない路線は幾らでもある。光が半蔵門線に乗った事がなくても不思議ではない。しかしプライベートでも仕事でも渋谷はかなりの頻度で利用するだろうに、この歳になるまで「押上行き」に乗らなかったのも不自然っちゃ不自然だ。

もうひとつ考えられるのは、そもそも駅や電車のアナウンスを光が全く聴く気がない、という可能性だ。電車利用時に常に文字情報にしかアクセスしてこなかった。もしそうだとすれば何故なのだろう。考えられるのは、外でもずっと光はイヤフォン/ヘッドフォンで音楽を聴いているのではないかという事だ。それなら車内のアナウンス程度だと耳に入らない。光が街中を歩く姿を妄想する人は多いと思うが、その際には必ずイヤフォン/ヘッドフォンを装着してあげるとリアリティが増すかもしれない。光がなかなか街中で人に気付かれないのは、そうやって"ヘッドフォンをしてひとごみの中に隠れ"ているからなんじゃないか、そこには、確かに"自分の足音さえ消してくれるような音楽"が鳴り響いているのである。

…ぎこちないくらいに綺麗な〆方だな…

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音楽の三大要素といえばメロディー・リズム・ハーモニーだが、この三つ目のハーモニーというのは独特である。早い話が一度に2つ以上の音を出すという事だ。ピアノやギターであれば音を鳴らす部分が複数あるのでハモれるが、管楽器はなかなかそうはいかない。これが人の声となると尚更である。基本的に人の声は同時に一つしか鳴らせない。世の中にはハミングをしながら口笛を吹ける人も居るらしいけどね~。

ヒカルの場合アルバムでは分厚いハーモニーを自らの声で重ねているがLIVEでは頑なにバックコーラスを入れず自分の声の録音物を使用している、或いは最後の最後にGoodbye HappinessでSynergy Chorusを起用して他人の声のハーモニーを大々的にフィーチャーした、という話は私も毎度している。

確かに、人は口の他に手も足もあいているのだから楽器を弾きながら歌えばそこにはハーモニーが存在するといえるだろう。しかし、人の声同士のハーモニーは、器楽万歳インスト至上主義な私ですら、やはり特別な何かを感じざるを得ない。ヒトという音を鳴らす管が共鳴し合う姿は宇宙の真実を一つ言い当てている気がしてならないのである。

そこらへんを、"シンガーソングライター"宇多田ヒカルはどう考えているか突っ込んで訊いてみたい。彼女の歌手としての圧倒的なアイデンティティは独唱にある。そもそも"みんなで唄う為の歌"というのを作らない。最もそれに適した歌がみんなのうたで歌われたぼくはくまだというのは共通認識だろうが、この歌の歌詞の孤独感は群を抜いている。挨拶する相手まくらさんだからな。それは誰も居ない世界に連れて行って欲しいと唄う虹色バスもそうだし、誰も居ない家に(とは歌詞では言及してないけどな)帰ってくるテイク5もそうだ。こういう世界観にハーモニーという概念はあまり馴染まない。音楽的に必要になった時は自らの声を重ねるだけだ。

世界に終わりが来て、自分だけが取り残された時人は唄うだろう、と私は勝手に考えているのだが、誰に聴かせるでもない、永遠にハーモニーから隔絶された歌というのは一体何なのか、という問いに対してヒカルの歌は、答えは出さないまでも何かこう"それについては言えることがあって"という程度には存在感があるような気がする。「ひとりのうた」としてみた場合、ヒカルの存在はどこまでも際立つ。どこまで行っても「みんなのひとりのうた」なのだろうか。

私はといえば、なんかそっちと全然違う。メロディーは2つ以上を組み合わせて響かせるのが楽しい、とどうしても思ってしまう。独唱すら、静寂との共鳴だと解釈したくなる。この哲学の違いは埋まりそうにない。今の光以上に、私は「独りで居たい」と願うタイプだと思うのだが、ハーモニーのない音楽は何か満たされないと思う。私の言葉でいえばそこに「光がない」のだ。ハーモニーとは、私にとって輝きである。輝きそのもの、光そのものである光には、改めてそれを欲する理由がないとでも言うのだろうか。ちょっとこの点に関しては、まだまだよくわからないんだよな。

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何だか毎回Twitterの話をしているが、光が出現するのが現行ここしかないから自ずとそうなっている。なんとも便利というか有り難いというか。

Twiterクライアントの分布を見ているとAndroidがやはり多い。iPhoneもかなり。モバイル用とWeb(公式)の数もまだまだ多い。これをチェックしているだけで随分とファン層の参考になる。

@utadahikaru位のユーザーになると、メンションの数も相当なものになるが、これをクライアント別に集計してくれるシステムがあったらどんなにか有用か。リプライツイートのスピード感も集計してくれれば。何しろ、携帯でツイート通知を受け取れる人は兎に角反応が早い。待ち受けていたかのような高速でRTしてくる。こちらもPCに張り付いている時はかなり早いのだがAndroidやiPhoneのアプリケーションとTwitterが組み合わさった時のスピード感は独特のものだ。

iPhone5ではLTEとテザリングが話題になっている。どちらも、モバイル機器からのアクセスを促進するツールとなりそうだが、ここにTwi tterが絡んでくるとどうなるか。まずは、発信側の光に何か変化が起こるか考えねばならないか。

ヒカルの立場上、特別なクライアントは表向き使用できないだろう。今のところWeb(公式)とTwitter for iPhoneしか使用していないと思われる。しかし、書く方ではなく読む方でなら特定のクライアントを使っている可能性は捨てきれない。特に自分宛のメンションを拾う為にはWeb(公式)では少々非力に過ぎる。私などはTweenを使っているが、数百件規模のツイートを斜め読みするには最適のツールとなっている。テキストがぎゅっとコンパクトに表示されているからね。出先でもLTE経由でiPhoneからテザリング接続し、こういうのを使ってPCからツイートする機会が増えれば、よりヒカルからメンションが返ってくる確率が高くなるかもしれない。そういう意味においても、モバイル機器周辺の状況変化には注視しておく必要があるだろう。今後の@utadahikaru宛ツイートの分布模様を、引き続きのんびりとチェックしていきたい。

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「彼の携帯で撮影してやったぜ」ツイートのリツイート数現在1310回、「もっと蝶について勉強したいなと思いました」ツイートのリツイート数が10回、1300回差、或いは131倍である。情報としては寧ろ後者の方が重要かもしれないのに…。

しかしWebって昔からそんなものだ。「書き込む時にリンクをはっても踏むのは10人に1人」とよく言われたが果たして実際その通りだった。人はその手間すら惜しむ。わざわざtwitter.com/utadahikaruとかまで出掛けて「すべて」をクリックする人は数十人に1人の割合なのだ。"有名人"と言っても、そんなものである。

小さい頃は「この国は一億人も居るのだから、ほんとうにいろんな人が居るのだろうなぁ」と漠然と思っていたが、その予想は素朴なものだったなぁと感じる。全く同じ人間は居ない一方で、案外「あらゆる可能性が悉く具現化されている」という事もなかった。ある程度のパターンがあって、そちらに随分偏っているのである。

宇多田ヒカルは100万フォロワーで凄い凄いと言われているがそれでもひと手間を間に挟むだけでRT数は一桁になるのだ。これ位ビッグなアーティストなら熱心なファンもさぞや多いだろう、と思いきやそうでもない。不思議なような、当たり前のような。

ただ、私はそれを不満に思っている訳ではない。一億人に知られている人でも、ファンベース自体は大きくないという事は自覚しておきたいという話だ。どういう事かと言うと、ここを読んでいるようなコアなファンの皆さんひとりひとりは、宇多田光にとって案外大きな存在であるという事だ。Mail To Hikkiした経験のある人なら、50%位の確率で彼女は名前を覚えてくれているように思う。勘である。恐らく、数百~数千人っいう規模なのだから。私だってミュージシャンやバンドの名前1000個位は言えると思うので、14年間ファンとしてずっと光に名前を投げつけているような人は確実に視界に入っている。光からのリプライが妙にあらたまっているようなそういう貴方達です。あれ多分、どういう距離感で接したらいいかいまいち掴み切れてないって所なんじゃないかな。どうだろう。

私はというと勿論名前を覚えて貰っている前提で書いている。生きている。ただ、ここを読んでない可能性も高いので(だって、気持ち悪いもんねこれだけしつこいと)、そろそろ忘れられていたりもしないかと不安にな…いやあんまなってないわ。向こうがどう思っていようがこちらからの愛情は変えようがないのだから。行動は変わるかもしれないけれど。

私の事はいいや。兎に角皆さん、光に名前を覚えて貰ってるつもりで、生きてみてください。はりあいが、ありますよ。

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Twitterで、凡そ気軽にメンションに対してリプライしている姿を見ると、Twitterのない頃もこういう風に返事してみたい衝動に駆られていなかったのかなぁと思ったりする。

確かに、個別にメールの返事を書いた事もあるようだ。Mail To Hikki フォームにはメアド欄あるし。しかし、宇多田ヒカルから返事が来るというのは重い事だったろう。

今でも、たまに返事が来て狂喜する姿が見れる事もあるが、一方でサラッと流している人も居る。RTの多さにおののく人も居る。@ツイートへのRTの少なさからして、ひたすら熱心なファンというのは数が限られていて、殆どの人にとってはフォローしている有名人のうちの一人に過ぎないのだろう。

気軽に街を歩くヒカルの姿が重なる。目立ちはするけれども、なんだかんだで人の波の中に紛れ込んでいるのだ。気づく人が出るか出ないかだけで。

多くのWebサービスが栄枯盛衰を経験してきたように、Twitterもいつまで存続するかわからない。chatやBBSと違って、一般的なシステムの名前ではなくあるひとつの特定の会社のサービスなのだ。そこの意向次第でどうとでもなる。

ただ、Twitterがなくなったとしても、この経験、このスタンスの「しっくりさ加減」は、その後の活動にも影響を与えるだろう。ヒカルが作っているのは終始一貫Popsであって、メインとなる対象層はTwitterで気軽に話し掛けてくるような、ライトな一般人である。そういう人たちからの反応がいちばん参考になる。

ただ、そうなってくると少し昔みたいに「この曲が受け容れられるかどうかドキドキする」ような展開は減っていくのかなぁ、とも思う。音楽性や歌詞のスタンスをどう取ればいいか、先によく見えてしまう。この点は、日本で音楽が売れなくなった要因のひとつだと再三指摘してきたが、要するに心を歌に託す必然性が薄れてきているのだ。

Popsの役割の変質と世代交代。まだどうなるかわからないが、ヒカルが次に、タイアップ抜きで何を歌うかは、かなり見えない。向こうからはよく見えているがこちらからはよく見えない。まぁ結局、こちらからすればそれで十分かもしれないな。

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本来、全人類の威信をかけて全力で警護せないかん人なんだが勿論当人はそういうのを嫌がる訳でな。ふらりとひとりで街を歩きたくもなるさね。一人じゃなかったかもしれんが。こちらはハラハラドキドキでゲソ。

なんだかこうやってツイートがあるんなら新曲とか復帰とかどうでもいいような気がしてきたが流石にそういう気分に流されるのはマズいので口先だけでも復帰希望々々々々と言い続けますわ。

さて前回ちらりと触れた「二回ミスってやめた話」、彼女の場合はどうかわからないが、私の場合を書いておこう。

別に、三回目にチャレンジするのは構わないのである。確かに、3回も同じ事を書いていると自然に文章は変質してくる。特に、読者にとってわかりにくい方に変わっていくから質(タチ)が悪い。こちらはもう既に大体同じ文章を二回も読んでいるのだからどうしてもそれを前提として先に進みたくなる。それを踏みとどまって深呼吸して落ち着いて"おさらい"をするのには、エネルギーが要る。何より最初の瑞々しさが文章から失せる。やる気が起こらない。しかしそれでも、私の場合「書かないより書く方がいい」という律し方で何度でも書き直せる。まぁそれはいい。

であっても二回で止める理由。それは無意識との対話である。その二度の失敗が、本当にウッカリしているだけだったのか、それとも"無意識からの示唆"であるかどうかを見極める必要があるのだ。ヒカルが今回どう思っているかはわからない。しかし私は、自分の無意識のする悪戯が、自らの意図を越えて面白い事を運んできてくれる事を経験的に知っている。いつもでもしばしばでもないので大概の失敗は単なる集中力の欠如なのだが、まるでわざとらしく何らかの失敗をする事がある。それは無意識が教えてくれるのだ。事後にはそれは明白だが、事前にそれを察知するのは難しい。二回同じ失敗をした時に、両方とも自分の集中力が足りなかったのか、それとも何か違う事が起こったのか、その瞬間に自らの感性をはたらかせて判断しなければならない。三度目の正直を狙うか、違う道を選ぶか。くどいが事前にはどちらがどうだなんてわからないのである。

"無意識との対話"と書いたが、人によっては"神の啓示"なんていう風に表現する人も居るだろう。自らの意図を超える何かを運んできてくれるのだからそう呼びたくなる気持ちもわかる。或いは"天からの啓示"とかね。このBlogの携帯更新のカテゴリーが"天然啓語"略して"天啓"なのも、これが無意識との対話だからだ。即ち「天啓」とは「無意識日記」と同義なのである。余談でした。

ヒカルは今回二回の失敗で撤退する道を選んだ。こういう場合、例えばFor Youの歌詞がつくのに二年を擁したように"次の時"が来るまで二、三年は掛かる。秋元康が言う"止まってる時計は1日に二度正確な時刻を示す"のと似たようなもので、また"ピタッと合わさる"タイミングが来るまで一周待たなくてはいけない。今度はそれを逃さない事である。勿論その瞬間とは宇多田ヒカルの歌の歌詞に今回の経験が反映される事で……って、何だよ、やっぱり新曲が聴きたいんじゃないのアンタは。

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蝶々の話は興味深い。2回ツイートに失敗した時点でMessage from Hikkiを使えなかった点が悔やまれる。こちらからも提案だけでもしておけばよかったが、あそこは今はEMIのページだからアーティスト活動の一環になってしまう。認証済みIDとはいえ@utadahikaruからのツイート発信とは訳が違う。

ここらへんのTwitterに対する柔軟な変質もまた考慮に入れておくべきか。当初は期間限定の予定だったのが今やパーマネントともいえる位置を獲得している。ここまでは考えていなかったかもしれないが、商業的な告知を@u3musicと@hikki_staffで手分けした事がこのフレキシビリティに結び付いている。意図的だったとは言い難いが、お陰で人間活動中もTwitter利用にさほど心理的抵抗を感じずに済んでいるともいえる。2010年の時点で"@utadahikaru"名義という新しいポジションを獲得出来ていた訳だ。ある意味、宇多田ヒカル名義とも宇多田光名義とも違う独特の立ち位置である。言える事と言わない事のバランスが、Message from Hikkiともまた違っている。

あんまり関係ないが、週末に「宇多田ヒカルすげぇ」だか何だか言うまとめサイトのスレッドがやたらと宣伝されていた。細かいディテールが微妙に間違っていて、ああこういうのを見過ごしているうちに誤解が積み重なっていくのだろうなぁと溜め息をついていたのだが、よもやこれはステマではあるまいな。梶さんがまとめサイトの愛読者である事は周知の事実だろうが、ちゃんと言及しておかないと疑われるかもよ。

話が逸れた。蝶々の話題である。本来ならば、蝶が飛来した瞬間についてはもっと文学的な表現で纏めたいところだ。踏み込んで言えば、文学的瞬間とはそれである。結局、そのツイートは二度失敗し書くのを諦めたのであるが、その心理の推移がこの間time wilk tellの話をしようとして二度原稿を飛ばしてしまった私の心情と重なって妙に可笑しくなってしまった。気を取り直して、蝶の名をフォロワーの力を借りて特定に乗り出すという如何にもTwitterらしい行動に出る。流石にその影響力と拡散速度は凄まじく、瞬く間に特定に至った。こちらもツマグロヒョウモン、アカボシゴマダラ、アオスジアゲハと流していったが、正体はアサギマダラであった。名を確定する事は文学において極めて重要な作業である。言葉のイメージ喚起力も勿論そうだし、文脈上の価値の裁定も随分違ってくる。専門家の皆さんとのやりとりでもわかる通り、姿形は似ていてもアカボシゴマダラとアサギマダラでは9月の千駄ヶ谷で遭遇したという価値のありよりがまるで違ってくる。あとはヒカ
ルの記憶が過去に遡って錯覚されていない事を祈るのみだがBe My Last Blogの時に言っていたように、"正確な記録"に関しては年季の入り方が違うのでまず間違いなく大丈夫だろう。色々と読み甲斐のあるエピソードである。

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(…まくらは飛ばして読んでも大丈夫なように書かないとね…)

Cryptopsyの音楽(誰だ「屈強なガテン系男子の工事現場みたいだね」とか言う奴は。その通りだ)の魅力を言葉で説明するのは難しいが、実際に聴いてその魅力を感じ取って貰うのはもっと難しい。不可思議な話だが、大概の人にとっては「へぇ~この人こんなに感動してるんだ」と思ってもらって終わっておくのが美しい気がする。恍惚が行き過ぎて自分が生きてるんだか死んでるんだかわからなくなる感覚、とか時間が麻痺痙攣するような感じとか、自分の体内に存在しない臓器が疼くような感じ、肉体性と知性ね違いがなくなる場所、地獄であり天国であるような、騒音の塊でありながら究極の静寂であるような、そういったフィーリングの数々。音楽の表現力の極北を感じさせる。

(まくら終わり) 

だなんていう言葉を連ねると、読み手の中に、あクマでも想像の範疇であるものの、何がしかのイメージやフィーリングが立ち上がってゆく。こちらの内面にはありありと感覚が在るのだから後は私の表現力の問題だ。まぁそれの有る無しはいい。

歌の歌詞のひとつの理想として、紡がれた言葉を繋ぎ合わせるだけで出来るイメージと、メロディーやリズムで構成される音楽の作り出すイメージが重なる事が挙げられるかもしれない。歌詞と音楽の関係性は人と人の関係性並みに複雑なので一概に言う事はとても出来ないが、それがひとつの"理想"として語られる可能性については認めてもいいだろう。

ヒカルの歌詞が音楽とよく符合しているなぁ、と思ったのはやはりPassionか。『思い出せば はるかはるか 未来は…』というくだり、特にafter the battleのサウンドとの相性は完璧に近い。驚くべきはピアノを弾いた人が日本語を解せない事。今なら多少はわかるかもしれないが。そりゃここまで歌詞にぴったりの響きを出せるんだから長年バンドマスター任せる事になるわなぁ。いや本気でこの彼の"長期政権"を決定付けたのはこの曲でのプレイかもしれない。それ位の名演である。

その名演を誘発したPassionという楽曲の存在感、そして妥協なく紡がれ切った、苦労に苦労を重ねて完成した日本語詞。いやSanctuaryの直接的な抽象美も素晴らしいのだが、やや回りくどい位にダイナミックでカームなフィーリングを醸す日本語詞の魅力はそれ以上だ。よくぞここまで音楽に合致した日本語を並べられたものである。

最早自分で試す事は出来ないが、Passionという曲を知らない人がまず歌詞を文字だけで読んで、その後楽曲を、渾身の渾然一体サウンドを聴いてもらった時に、果たして「詞だけを読んだ時に浮かんだイメージとよく合う」と言って貰えるかどうか。様々な価値判断基準があると分かってはいるのだがそれでもこの問いに"Yes."と答えてくれる人の存在を信じたくなってくる。そこまで求道的でなくてもよいけれど、感覚と言葉の対話が成立する事を、言葉を紡ぐ者はいつでも夢見ているのだ。それは、「忘れない」事と同義なのだから。

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@utadahikaru: うい~ ひっく ん 日本がす ひっく きだばかやろ ひっく ぉ (:D)┼─┤バタッ

――深夜の3時に何呟いてんだか。全国の日本ガスの木田さん大歓喜かと思いきや(ヒカルに罵倒されるなんて御褒美以外の何ものでもない)、どうやら「日本が好きだ馬鹿野郎」らしい。ますます何言ってんだ。

地球人として国境を跨ぐ生活が当たり前になっている人間としては言いたい事が山ほどあるんだろうなぁ、と。普段日本にどっぷり浸かって生活している身ではなかなかこの国を相対化できない。光なら他の国と較べて、或いは較べなくてもこの国の好き嫌いについて言いたい事があるんだろうなぁ。

この呟きは、はたしてこの国を貶されたから反発心で言及したのか、それともしみじみこの国のよさを実感できるエピソードに遭遇したのか、どちらとも取れるが酔っ払いの言う事なので…って本当に酔っ払ってたら酔ってる素振りを文字にして書かないわね。どこまでアタマがはっきりしてたんだろうか。

前も触れたが、領土問題がニュースで取り上げられる状況では「国って何だろう」と誰しも思ってしまう。取り分けこの日本という国は地理的に隔てられている為国境という概念が希薄だ。海という区切りは、確かに国という概念が天与のものであるという感覚を生むだろう。地続きの中に国境線が描かれているのを目にしたらどんな気分になるだろうか。「別にここに引くんだったら1m先でもいいじゃないか」とカンタンに思えてしまいそうだ。揉める。そういう意味ではこの話題に関して日本人はナイーヴで、結局の所どう反応したらいいかわからない、というのが正直な気持ちじゃなかろうか。

光が何を言いたかったのかはわからない。日本食でも食べたのか、日本酒でも飲んだのか。日本人に会ったのか、日本画にでも巡り会ったのか。何れでもなく「日本」である。抜け目無く漢字で書いてある。「にほん」だったら山のような誤解を招きかねない。思う所は色々あるんだろうが、僅かに察する事も能わない。素直に次のツイートを待つ事に致しますかね。

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Cryptopsyの7枚目、セルフタイトルドアルバムの出来が最高過ぎる。そう、最高を過ぎているのだ。人としての限界というか、ここを踏み越えたら最早ただの概念だよぬ、という領域に何の躊躇いもなく静かに踏み込んだサウンド。ここが涅槃という場所か。余りの恍惚に自我が雲散霧消しそうである。この魂の浄化作用はフロ・モーニエにしか生み出せない。現人神の称号は彼にこそ相応しい。話してみると爽やかなスポーツマンという感じで全然エキセントリックな所のない普通の人なんだけどね。スティックを握ると神になる、というか彼の出す音に神が宿ると言った方が適切か。ただの概念になるというのは最高の快感なのだ。成る程、デスメタルというジャンル(どちらかというとグラインドコアだろとか言わない)でも異形と言われる彼らであるが、生をここまで対象化出来る時点でその存在は"死"なのかもしれない。

なお、間違っても聴いてみようなんて思わない事。ここの読者に薦めるつもりはない。耳潰れるよ。単なる本題に入る前のフリです。

ヒカルの場合、オールストレートAの秀才かつ天才ではあるが、その、「凡人には見る事の出来ない世界を見れる人、或いは見せてくれる人」かというとそちらではなく、人のよくよく知る風景を描く人である。故にその姿は生々しく、普通で、迷ったり戸惑ったりを繰り返す。信念を貫き己を鍛え誰も目指せない高みにまで登りつめる…気もサラサラないようで、どちらかというと人に寄り添い、同じ場所で同じ風景を見るようにしている。従ってそこにはエキセントリシティは存在しない。クマが絡むと多少エキセントリックにはなるがちょっと意味が違うよね。

ヒカルのプロフィールの特技欄、まだ『人を惑わす事』って載ってるのかな。ヒカルのサディスティックな面が見て取れる記述だが、それと同時に「この人も相当人生で惑ってきたんだろうな」とも思わされる。人を惑わす為には「惑う」というのがどういう事なのかをよくよく理解していなければいけない。人より沢山惑ってきた人が、より人を惑わす事が出来る。真理と思うがどうだろうか。

「戸惑い」と書くと「なんでそこでドアが出て来るねん」と戸惑ってしまう(どうやら"どの戸から入ればいいかわからない"から来ているらしい)が、「途惑い」と書くと人生を迷子になっているような雰囲気が出てとてもいい。どっちでもいいんだけれど(いいのかよ)、ヒカルの人生もまた惑う事の連続だった…というか、決めた途を一直線に突き進む、というスタイルがどこにもない。あるのは「やり始めたらちゃんと最後までやる」という、社会的でない、主観的な、個の価値観としての、プリミティヴな"責任感"だけである。『見捨てない 絶対に』というヤツである。その中で惑う事や迷う事が沢山あるのは仕方ない。それにしても、今でもヒカルは『歩んできた道が正しいと信じて』いられているだろうか。今日のツイートを見る限り、その心配はなさそうだ。具体的にどこも目指さなくても、『私が選んだものなら、なんであれそこがあるべき場所に繋がって』いるのだから。

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点と線が既存の出版社を通さずに販売された事は、今から考えてもアナーキーな話だった。従来からのシステムを利用するメリットは、安定した販路の確保と共に大きな宣伝力をつけられる点が大きい。多少価格に反映されてでも、製品の存在を知って貰う為にはひとりでも多くの人を巻き込んでいくのが必定と思われる。

そう考えると、点と線は多くの読書家たちにとって、その存在が余り知られていないのではないかという憶測も浮上してくる。製作はインディーズ体制でも、EMIがバックアップしているのだから音楽ファンに対しての宣伝は抜かり無かった…筈だ。それに対し、宇多田ヒカルの名前位は知っているけれどもという"本好き"の皆さんへの広がりは乏しかったのではないか、とも考えられる。要は本屋さんで大々的に売り出していなかったよね、と。

ミュージシャンのインタビューやメッセージの"読者"というのは一体誰なのだろうか。いちばんは当然ながらそのミュージシャンのファンだ。そして雑誌を購読するような音楽ファンの層。単純に、"読み物"としての価値を見られている感じはしない。あクマでプロモーションの一環としての存在であるように思える。

そうではなくて、単純に「読書の対象」としてみて読んでいる層はどれ位居るのだろう。殆ど居ないのではないか。要するにそれだけ読んだだけでは特に面白くも何ともないからだろう。ファンとしての色眼鏡をかけて初めて何とかなる。そういうポジションである気がする。

しかし、点と線はもしかしたら単なる読書の対象としても興味を惹くものかもしれない。実際、宇多田ヒカルの顔も名前も歌も何となく知っていたけれど、ファンになったキッカケはMessage from Hikkiだった、という人は幾らでも居るだろう。ヒカルから発せられる言葉はインタビューであれメッセージであれ、それ単独で随分な吸引力をもつ。その吸引力を2冊に凝縮したのが点と線だった。のに本屋さんで余り盛んでなかったのは何とも勿体無い。

今でも多分、宇多田ヒカルの顔と名前と歌は何となく知ってはいたけどツイートを読んで初めて興味を持った、という人たちが必ず居る筈である。流石にツイートの書籍化は難しいかもしれないが、また何かの形でヒカルの言葉をただの"読み物"として堪能できる書籍が世に出てくれたらな、と願う。その際は何とかインディーズ形態でも"読書家"たちを巻き込む方法論が見つかっていればいいんだが、さて。

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光が今後活動形態をどう広げていくかは誰しも興味がある所だろう。2009年は編集長という肩書きが加わったし、2010年は映像監督としてもクレジットされた。(宇多田光名義でだが) 今後どれだけ肩書きが増えていくかは想像もつかない。既にペンネームは決まっているという作家業に手を出すのは時間とタイミングの問題だろうし、翻訳家としては既に仕事をしている。歌詞の対訳もこなした。(自分の曲のだけどね) 一応漫画が雑誌に掲載された事もある。時間をかければ、かなりの作品を描いてきそうな予感はプンプンしている。それゆけムームーのリベンジなるかスーパークマンの物語が始まるか。声優として声をあてた事もあるがあれは黒歴史としてなかった事にしてあげるのがネタとしては安定しているか。私ゃアレ好きなんだけれどもね。HEROでのゲスト出演は…どうでもいいか。

歌手・作詞家・作曲家・編曲家・プロデューサー・映像監督・編集長・作家・絵本作家・漫画家・翻訳家・画家・声優・女優…なんかまだまだありそうな気がするが、どれも話題性を差し引いてプロとして仕事が成り立っている、或いは成り立ちそうな肩書きが並んでいる。ここまで多才だと溜め息しか出ないわね。

こういう人を応援し続けるのは楽しいが、じゃあファンとしてどの仕事に注力して欲しいのかと問われれば、「健康で居て欲しい」というのが何より先に口をついて出る。答えになっていないじゃないかと思うのだが要するに元気に活動していてくれれば形態は何でもいいのである。その時々で光がいちばんイキイキとしていられる事に携わっていてくれるのがいちばんだ。イケイケよりイキイキかな。全然うまく言えてないけれども、歌がイヤなら好きなだけ休めばいい。歌いたい時に歌ってくれたら。プロだからそういう訳にもいかないんだけれども。

ひとつ気になるのは、所属している事務所が「U3MUSIC」な事だ。要するに音楽事務所である。社長の(だよね?)ざねっちはマネージャーでもあるがまず何よりも音楽プロデューサーさんだろう。光が奔放に活動していった時、社長として、マネージャーとして、そして父親としてどんな心持ちなのであろうか。多分表向きは「娘がやりたい事を全面的にバックアップしていきます」という模範回答を繰り返すに決まっているのだが、本音の部分はどうなのだろう。実は、誰よりも光に歌っていて欲しいと感じているのは彼なんじゃないか。恐らく世界でいちばん宇多田光の歌声を多く、長く、沢山々々聴いてきてるのは彼である。小さい頃の家庭内リサイタル(?)から何から総て耳にしてきているのだ。レコーディング中もずっと、ライブツアーももしかしたら全部?彼は聴いてきているのだ。何と羨ましい人生か。― しまった、つい口が滑って本音を。

それでもきっと、というかだからこそ彼は光の歌を聴き続けて生きていきたい筈だ。彼の人生のかなりの部分が彼女の歌声と共にある。歌手・宇多田ヒカルの復帰をいちばんねがっているのは、きっと彼に違いない。でも、オフィシャルにはそう言わなそうなので、確かめようがないですわ。照實さん、如何ですか?

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