無意識日記
宇多田光 word:i_
 



BWのシンセの響きはホント小室哲哉を思い起こさせるな~とカラオケVer.を聴きながら今書いている。アレンジで大切なのは音を増やす事より減らす事であって、どこまで削って大丈夫なのかを見極める事を洗練と呼ぶ。光はその点大胆過ぎる程大胆で、COLORSの凄さはあの音の少なさにある。そして、あれだけシンプルなままで世に問える自信と勇気が見事だとはかつてから指摘してきた通り。然し光は、リズムトラックは削らない。ExodusのCrossover InterludeをOpeningと聴き比べればわかる通り、光はどんな曲でも大抵このタイプのリズムパターンを欠かさない。勿論そうではない楽曲も多々あるのだがウワモノに隙間の多いCOLORSやBLUEでもリズムはみっちりあの感じで打ってくる。リズム。ノリ。光はコードから曲を書くらしいが、このリズムの躍動感がなくてはメロディの筆が進まないのではないのだろうか。鼓動の音、血脈の音。揺籃から墓場まで、生きて時を過ごす光のリズムがあのリズムだというのなら、これからどれだけ音楽性が変化しようとあのリズムだけは変わらない、かもしれない。FINAL DISTANCEはそのリズムを、DISTANCEで出来上がっていたそのリズムを一旦取っ払って完成した珠玉のバラードだが、この過程からもわかる通り、一旦あのリズムを通さなければ美しい結果は現出し得なかった。仮にそのリズムがいつも通りで在り来たりで耳馴染みがよくて人によっては飽きてきていようとも、光はそのリズムを落としてはならない。彼が、音楽を、歌を連れてくるのだから。たとえ完成した音から彼が居なくなっていたとしても、それは彼が通り過ぎる必要があったのだから彼が不要ということにはならない。嵐の後の風にあなたの香りがするのなら、あなたがどれだけ間違ったことをしていようが悩んでいようがこちらを向いてくれなかろうが、それが私をココに連れてきてくれたことには間違いがないのだから、素直にその風の匂いを胸いっぱい吸い込もう。洗練から程遠い、嵐にかき乱された土の上をまた歩み、新しい芽を育て、一瞬かもしれなくても花を咲かそう。どうして私は待ってばかりいたんだろう――

春だなぁ、また暴走しちまったい;

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いつの間にやら年度末だ。DVD/Blurayが来年度に持ち越すのは当初から決まっていた事ではあるが、何だか慌ただしいまま春を迎えつつある。16年前も、地震の災害に茫然となっている所にテロ事件が巻き起こるというしっちゃかめっちゃかぶりだったから、今後何が起こるかなんて予断をもってる場合ではない。そんな日々だからこそ、普段通りに、今まで得たモノに感謝し、これから得るモノに思いを馳せたいと思う。結局、UtaDA名義も合わせれば光の新曲は98年以降毎年リリースされている。ただ、年度で区切るとするならば2003年度は空白になるのだが1月にCOLORSはあったしイケイケもあったし、04年2月にはヒカ5もあったから端境期という程度か。2010年度もSC2の珠玉の5曲のお蔭で随分と楽しませて貰った。流石に今年、或いは2011年度の新曲リリースはないだろうがLIVE作品が2つもリリースされるとなればこの充実は素晴らしい。受け手のワガママをいうならば、全力で頑張ってくれている照實さんには酷な言い方になるが、ITF10は少し発売が遅れてくれる位で丁度いい。EMIとしても、光が不在の時期は過去作品の再リリースなどに力を入れるのではないか。BoxSetの発売とかされると今から台所事情の心配をしなくてはならなくなるが、光が休んでいる時期位にしか出来ない企画もあるだろうから(すぐには思い付かないけれど)、まぁ折角なので色々と仕掛けて欲しいものだ。そんなに人員を割り当てられるかどうかはわからないけれど。


あらら、"今年度の総括"をするつもりが来年度への期待ばかりになっているな。そりゃそうだ、2010年度の最大の出来事はWildLifeの開催であり、その熱気を会場に行けなかったひとたちと今度は映像作品で分かち合って初めて、2010年度の総括が出来るのだから、来年度への期待と今年度の総括は同時にしなきゃいけないのだ。まぁゆっくり待つと致しますか。あぁLIVEまた行きたいなぁ。(←ゆっくり待てよ)

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アートの源泉、原動力は多種多様多岐に渡りその中には喜怒哀楽総ての感情が込められている。然し、「喜び5gも悲しみ5gも同じ5g」とまで言い切ってしまえる人はなかなか居ない。しかもそこ(その発言)から更に月日は経過しているのだ。そのズレ、不謹慎さ故アーティストは売れたがる。勿論、孤高の名の許に隠遁し我々にその存在すら知られずに活動を行っている向きも又多々あろうが、作品を世に問うてる時点でそれが受け容れられることは望まれている。源泉、インスピレーションが守られていない分、今までどこにも存在せず従って取り扱い方法も何だか解らない時点では、まず自らがそれを受け容れる作業から始めなければならない。 光の場合、常にその恐怖と戦ってきた。何度売れようが、その不安は消えない。絶え間ないオリジナリティは故に途切れることなくその姿を現し続ける。一方で、その誰も得たことがない(あの規模で暫く売れ続けたという)経験に照らし合わせて「これはないな」と脇に置いたアイデアも幾多あったのではないかと思われる。しみったれたバラードとかね。TiTOに入ってんのかもしんないけど。人間活動は、そういったアイデアたちをちゃんとしたカタチにするいい機会となり得る。光自身が何度も繰り返している通り、商業活動とは別の所で音楽は作り続けるのだろう。言い方からして「止められないし、止める必要もない」といった所か。一方で「手掛けたアイデアは必ず完成させる」とも発言している訳だから、不謹慎と思われるインスピレーションを許にした作品と戯れてそれらをしっかりとポリッシュしていって貰いたい―といっても、その姿を我々がみることは一生ないのだろうかな。誰にも聴かせない事を前提に作られる音楽に、果たして光が人間活動中とはいえ 興味を示し続けられるかというとそれもわからない。寧ろそこを苗床として"人に受け容れられ易い"アイデアたちが花を咲かせていくかもしれない。土。土壌を今一度育み直し、枯れかけた根と折れかけた茎にもう一度水分と栄養を与える。それも又儚い夢になるかもしれない、とは放射性物質の拡散という事象を目の当たりとしていると比喩として以上に僕らの中に入り込んでくるが、その風景もまた新しいインスピレーションのひとつたりえるのだ。全くアーティストというのは因果な、ややっこしい生き物である。

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「プルトンはどこにある?」

あーすっきりしたw

余談はそれ位にして色々すっ飛ばして本題に入ろう。プルトニウムからの繋がりがさっぱり不明になってしまうが致し方ない。

不謹慎だ不寛容だ自粛だ萎縮だと喧しい昨今だが、天才たちの不謹慎さはとても表に出せない程だ。断言しよう。炎を背に乗せた黒い津波が押し寄せ慎ましく日々を営んでいた海辺の平和な人々の日常を根こそぎ流し去ったその映像とまがまがしい災禍の、爪痕どころか大空襲の後の焼け野原もここまで凄惨であっただろうかという事後の写真をみて天才たちは否応なく興奮している筈である。彼らのみる"風景"は、我々にはおいそれと届かない彼方にあるもので、表現力に卓抜した場合はそれを眼前の作品に込め得るものなのだが、今回の災厄の齎した"風景"を"懐かしく"思う天才が必ずどこかにいると思うのだ。流石に本人がそんなことを口に出すとは期待できない。なぜなら彼は彼女はまるでこうなることが必然であったかのような口調で語り始めるからで、それはまさに不謹慎そのものと受け止められてしまうだろう。数多の天才たちが隣を通り過ぎていったような人は多分"天罰"とか口走って顰蹙を買っていた気がするが、ホンモノのご当人たちは漲る興奮をどう抑えようか、なんとか口実をみつけて現地に赴いてその目にこの数十万人を路頭に迷わせ悲嘆の淵に叩き込んだその"力の在処"を焼き付けたいと切望している。まぁ解りやすい例としては映画監督とか画家とか写真家だろう。多くは本当に真面目に社会的使命に燃え僕らに伝えてくれる為に奮闘してくれているのだと思うが、中に必ず"不謹慎な天才"が居る。そう確信する。

浦沢直樹がそうだとはいわない。宇多田ヒカルがそうだとも思えない。光の場合は特に、今現在アーティストモードのスウィッチをオフにしている筈だから。凄惨な風景に絶句し、悲しみに彩られた小さくとも重い物語の数々に幾度も大粒の涙を流しているのではないか。今は、普通の女の子で居て欲しい。それは私の単なる願望なのだが、気持ちの優しいお腹の弱そうな女の子の顔と、燃え盛る怒りのクリエイティビティを帯刀する創作家の顔の間で自己嫌悪に葛藤なんてしていて欲しくない。こんなときに"人間活動"に入っていたことが幸いとなるような(どういう意味や)、葛藤とは無縁の、心の底から悲しめるひとりの人間であってほしい。春の夜の月に私が願うのはそんな身勝手な妄想だ。


自分でも何を書いてるのかよくわからんが、まぁ私が不謹慎であることだけは確かです。ごめんなさい。

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遂にその名前が一番手に踊り出る日が来たかという気分だが、毎度ながらプルトニウムの実害よりその恐怖イメージを喚起するメディアとそれに煽られてパニックになる大衆の方がタチが悪いと思う私。(被曝検査の)証明書の不所持を理由に診断を断るなどまぁ見事なものだが、これも"全体の空気"を慮ってのことだろう。医師達は普段の生活で微量の被曝を受け続けていて僅かな放射能など怖くもなんともないのだから(かといって免責されるというものでもないだろうが)。然し、それでもやはりプルトニウム(とその同位体)には注意が必要だ。基本的に地球上には自然に存在しない物質だの人類史上最高の毒性をもつ物質だの物凄いキャッチフレーズの持ち主。何より名前の由来がPLUTO、冥王である。まさに物質界のラスボスに相応しい。つい最近も冥王星は惑星の座を追い落とされたばかりでこの名には悲哀が伴っている。また、浦沢直樹を「漫画の漫画化」という手段に踏み切らせた手塚治虫の「鉄腕アトム」(アトムは原子という意味、妹はウラン、弟(兄?)はコバルト―揃いぶみだな)の印象に残るキャラクター"プルートー"もここからだ。この、破滅の隠喩そのものともいえる名に彼が惹かれた所以が未だに引っ掛かっている。

かつて光と浦沢で執り行われたInvitation対談は過去最高の密度と謳われたが…という風に書き始めたかったが今朝はもう時間がない(汗)。続きは書くかどうかわから…って書かなかった事の方が圧倒的に多いよね。スミマセンm(_ _)m

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8000万ときいて流石に驚いた。まずどうやって金額が伝わったのか、また伝える意図は何なのか、数字に信憑性はあるのかという疑問はあるがここでは不問としておく。宇多田ヒカルのイメージとしてはこれ位の額なら、となるのかもしれないが、ちょっと冷静に計算してみよう。確か記事によるとイチローが1億円、松坂大輔が8000万ということだが、彼らは年俸1000万ドル前後、即ち10億円プレイヤーである。つまり年収のうち1~2割を寄付した事になり(海の向こうの税率は知らない)、これでも凄い太っ腹なのだがヒカルの場合はどうか。最近作であるSC2の売上をみると現在約44万枚、単価を掛けると大体15億弱。これがCDの売上総額だ。このうちヒカルの取り分となると計算が難しいが、UMGとの騒動から察するにU3は原盤権を主張していないようなので歌唱作詞作曲編曲プロデュースを合わせても高々10%位ではないだろうか。となると単純に計算すると1.5億、ここから税金が引かれるとなると(どの時点で何%引かれるのか私は知らない)今後SC2で得られる印税のうち大半の額にあたる金額を今回募金したことになる。然も光の場合、今迄の様々な災害についても、流石に今回は最高額だろうが、継続的に寄付し続けているはずだ。更にそれは日本でだけでなく海外の様々な国に対しても、である。如何に10年位前に荒稼ぎしていたとはいえ、こんなペースで寄付し続けていたのなら資産のうちかなりの割合を費やしている事になるだろう。ここでこう言っていいかよくわからないが、なんというか付け焼き刃でない奉仕と博愛の精神、覚悟を感じる8000万という金額であった。今現在の収入を考えるとその10分の1でも破格だな。なお、ライブでの収支は多分赤字である。ITF10はライブハウスツアーのくせにあんな大所帯だったし、WL10はチケットの値段が低く抑えられていた。今人間活動に入るにあたって、資産なんてもうそんなに残っちゃいないんじゃなかろうか。あたしゃ数字に弱いので何か致命的な間違いがあるかもしれまへんが茶飲み話として軽くスルーしといてくらはい。

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英文メッセージが更新されたので訳。

携帯版PC版TOP


On March 11th, a massive earthquake and tsunami hit North Japan, taking the lives of countless people, leaving many survivors homeless, in the cold, with no gas, no electricity, no running water, and in fear of radiation leaking from a nuclear power plant.

3月11日、大規模な地震と津波が北日本(東北地方)を襲い、数知れぬ人々の命を奪い、生存者の多くも家を失い、寒さの中ガスもなく電気もなく水も出ず原子力発電所からの放射能漏れを恐れる日々を送っています。

This is the biggest natural disaster recorded in Japanese history in a thousand years.

この数千年の日本の歴史に記録されている中で、最も深刻な災害となりました。

After the earthquake I gave 400 ml of my blood to a blood bank, and made a donation to Japan's Red Cross. At times like these, we need to help one another, do what we can the each of us. Please help Japan, it doesn't matter how much you give. One way to make a donation is through your country's Red Cross, by specifying its use for Japan's earthquake and tsunami victims.

地震の後、私は血液バンクに400mlの献血をし、日本赤十字社に寄付をしました。こういう場合、私たちはそれぞれが互いに出来ることをし、助け合わねばなりません。どうか、日本を助けてください。金額なんて問いません。貴方の国の赤十字社を通して寄付をするのも一つの方法です。日本での地震と津波の犠牲者の救済を目的とする窓口が設置されています。

There is something we can all learn from what is happening in Japan. For decades we have depended on nuclear power. It has made possible quick economic growth and a "convenient" society, but also a lifestyle that is very wasteful.

私たち全員、今回日本で起こった事から学ばねばなりません。この数十年、私たちは原子力に依存して生きてきました。急速な経済発展によってこの“コンビニエンス(便利な)”社会を実現してきたのです。しかし、それと共に多くの無駄・浪費を生活の中にはらむようになりました。

This catastrophe has made many of us in Japan realize that we have been taking many things for granted---food, energy, daily supplies, running water, resources, life.

今回の大災害で、私たちは如何に多くのものの存在を当たり前だと思い込んでいるかを思い知りました。食べ物、エネルギー、日用品、水道水、資源、そして生命。

You don't have to wait until you lose everything, to learn that what you have is precious. If we all save energy, use only what we need, and live responsibly for what we consume, we can make the world a safer, more peaceful place, for us all.

現実に総てを失ってしまう前に、今自分の手にあるものがどれほどに大切なものなのか、気づいてください。もし私たちの全員が、エネルギーを節約し、無駄を無くし、消費する生活に対して責任を持つ事ができれば、この世界を、誰にとってもより安全で、より平和なものにすることができるんです。

All of us in Japan are very grateful, we are all touched deeply, by the support we have received from overseas. Thank you. I wish you all love, and peace.

日本に居る総ての人々が、海外から受けている援助に対し、深く感動し、甚く感謝しています。ありがとう。皆さんにも、愛と平和がありますように。


Hikaru Utada

ヒカル ウタダ



訳者記:今回のメッセージは非常に抑えられた、無個性な文体で書かれている。いつもの捻りの効いた言い回しなどは出てきておらず、選ばれている単語も非常に簡易、且つ文節の配置もシンプルで、恐らく各国語に自動翻訳されることを意識して書かれたものだと思われる。その為、訳出も無個性な文体で行った。英語が少しでもわかる人になら読める筈なので、できれば原文の方に直接触れて欲しいと思い原文併記(斜体字)とした。まぁそれはココではいつものことか。このあと切り取られてメディアに掲載されることになると思うが、常に原文に当たる事を忘れないで欲しい。携帯版PC版TOP

※ なお、彼女が寄付行為を公表するのはこれが初めてではない。2005年1月19日のメッセージ(携帯版/PC版)に"I donate money whenever something catches my attention"という記述がある。ニュアンスとしては「すべきだと思った時は常に寄付してきた」という感じ。使命感に近い。


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光ツイートの「地方」という単語に食いついたメンションが幾つかあったのだろうか(私は確認できてないんだが)、すぐに『ごめんなさいね』と謝る事態になった模様だが、確かに「地方」という単語は何年も前からテレビや文字媒体でも使い控えされる様になっている。その背景があるからこの言葉はクレーマーさん達御用達だ。まだまだその背景が共有されきっていないから、クレームをつけるには格好の標的という訳だ。

何の侮蔑や中傷も含まないこの「地方」という言葉が控えられる様になるには、実際の地方に対する偏見なり差別がなくてはならないが、だからといって言葉の方を刈り取っても何の解決にもならないだろう、という言葉刈りに対する意見はもう何十年も議論され続けてきている。「地方」もそのうちのひとつだと思われる。

今、"言葉刈り"と書いたが通常は"言葉狩り"と書く所だ。私はどうにもここにニュアンスの違いを持たせたい様で、野暮ながら解説してみるともし言葉を言霊、即ち生命をもつものとして仮に捉えるならばそれが栄えたり衰えたり変化したりしなかったり交配を繰り返したりといった事の中に生命としての"狩り"が含まれているのはそれはそれで自然な事なのではないかと思うのだ。i_みたいなタイプは言葉狩りに断固反対だろうという事前の予測を覆して。

しかし、その場合補食する側とされる側はある意味において対等である。大自然の中で追う者逃げる者。たまには立ち向かう者もいるだろう。幼い頃に図鑑で眺めたティラノサウルスとトリケラトプスのように。ある言葉が他の言葉を狩って隆盛を奪い返したり逃げ切って補食者を餓死に追い込んだりするのはある種自然の摂理な気がする。ある言葉が他の言葉にとって代わるのは、好き嫌いを抜きにしてあることなんじゃないか。スパゲティがパスタにとって変わられた様に。(この例はそれ自体がクラスの誤謬という滑稽な事態なんだけど)

でも、実際に日本で行われている"言葉狩り"はそういう自然の摂理っぽいものではない、もっと管理主義的な匂いが強い。大地に根付いて今使われている言葉を毟り取り切り取る様なこの感覚は、どちらが生き残るかの"狩り"の感覚というよりは、言葉という生命をある一定の区画の中に納め込み、そこで生殺与奪を決定する農業的な"刈り取り"を思わせるのだ。


長くなるので続きはまた次回。

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製造工場のダメージでは致し方ない。延期日程はDVDの発売が2週間遅れて4月20日。SoulfoodCafeのマスター氏への素敵なバースデープレゼントとなる。てことはつまり以下略。こちらはまぁ妥当な線として、驚いたのがBlurayで何と7週間延期の5月18日発売であるという。更に先着特典のB2ポスターがDVD3万枚Bluray2万枚と割り振りが決まった事だ。最も単純に解釈するとDVDとBlurayの予約数比が3:2(60%と40%)で、余りにもBlurayの予約数が多かったので(ただでさえ本数の少ない)Bluray製造ラインを確保するのが難しかったのではないか、となる。他にBlurayタイトルで強力なものがあればそれに押し切られている可能性もなくはないがまぁそれは「This is it」 クラスの話でないと現実味が薄いか。アニメではDVD需要よりBlurayのが上回るケースも増えているが、音楽映像ソフトもじわじわBlurayが押し始めてい るのだろうな。 ただ、そう、Blurayを予約した層も「5週間も待たされるなんて」とDVD購入にスイッチする事は十分に考えられる。その分の流動性を考慮に入れた上での「3:2」だというなら、実際の予約数はBlurayの方が上だったのではないかとすら思えてくる。詳細にチェックしていた訳ではないがAmazonの予約数もBlurayの好調が印象に残っている。 しかし、恐らくDVDでWildLifeを見た向きはすぐにBlurayで観たくなるだろう事は想像に難くない。 そ れ 程 ま で に 光 の 背 中 は 綺 麗 な の だ 。 冗談はさておき(本気で言ってるくせに)、実際あのライブの洗練された美しさは出来るだけ高い解像度で観たくなるのが道理・人情というものだろう。実際に当日参加した向きやその友人達は映像の中に自分や仲間が映っているか確認したくなるだろうが、これもBlurayの解像度の方が遥かに見つけやすい。が、今回は私映ってないぞ!あぁ映ってないとも!隣に高い塔が立っていたから日陰になって真っ暗な影にしか見えない筈だ!(まぁそれやったらハンドルネームの通りやな) という訳でこのページを読んでいる様な人種は特に今回新しくBluray再生機を買う羽目になるだろう。私はとっとと諦めて購入しております。ただ、これだけ持ち上げておいて突き落とす様だがBlurayという規格・存在はDVDより普及している期間の寿命が短い恐れがあるので購入は要注意。半導体メモリや100Mbpsクラスブロードバンドの普及率次第だが…。まぁそんな先の話はいいか。 そんな事より、5週間も遅れるのならBluray限定特典を考えてもいいのではないか。ただ、特典発表するのがDVD発売後になるのは心情的にどうかなぁとも思う。騙し討ちみたいなのは避けたい所。尤も、7週間も遅れるのであれば実務上の限界として発表がずれ込んじゃうことはあるだろうなぁ。だからといって謗りは免れきれないだろうけど。悲しい事に。 Bluray特典つけるなら何がいいだろうねぇ…ハート型の発泡スチロール?(笑) うーん、今夜の所は思いつかないや。

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元々、このBlogの文調って不謹慎の謗りから程遠い根暗なトーンなのだから通常更新していたとしても「あぁアソコは別の時間が流れているのね」という印象だけであんまり文句は言われなかったであろう気はしている。前回触れたミュージシャンごとの各音楽性が時勢にフィットするか否かの判断、これはBlogにもある程度似た感じで当てはまるわけだ。

なので、今このBlogが文体をちょっと崩して更新しているのは、(交通事情もあるけれど)光が恐らく今回のことでアタマが一杯だろうからそれに素直に準じよう、という意識がはたらいた為だと思われる。自分のことを思われるだなんていうのはそういう移行は普段から自然な流れに任せている為無意識的である割合が大きいからだ。

光の場合、この半年環境問題やエネルギー問題に関心を示し、それとは直接関係はないかもしれないにしても東北地方に足を運んでもいた為今回の件をとても他人事として対処する事など出来ないだろう。交友関係の中にも被災者やその仲間が居るかもしれない。心中去来するものの大きさを考えるとツイートが控えめになるのも致し方ないだろう。考え過ぎるといつものようにどこから手をつけていいかわからなくなるし。それに本来もうツイートは休止してる時間帯だ。


EMIがどこの工場でDVD/Blurayを生産しているかはしらないが、そろそろWildLifeの発売を延期するか否かの決断を下すデッドラインに差し掛かる。ギリギリまで粘って日々刻々移り変わる情勢をよく見極め、熟慮に熟慮を重ねて発売を決定することになると思うから発表が遅れたとしてもそれは「対応が遅れた」のではなく「最も適切な対応をする為」に必要な措置だと理解して欲しい。先週はまともに動けなかっただろうし、今週向こうからの情報が不足になるのは仕方がない面がある訳だ。何かを決定するプロセスに於いてはやはり沈黙こそ金であろうから。金の相場今どうなってんのかな(<関係ないっしょ)。

あと、寄付してるかどうかについては基本的に光は個別の件には発表せずに来ている(全く話さない訳でもないけど)ので、憶測であれこれ言うのは控えた方がいいと思うよー。

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ミュージシャン達の震災に対する興行の対応が出揃いつつある。来日公演は軒並み中止、国内アーティストもツアーを控える等し始めた。然し、中には昨日のシンディ・ローパーの様にこんな時だからこそと日本で歌ってくれる人も居る。ここらへんは各陣の音楽性に依拠する面が大きいように見受けられる。シンディの場合セットの大半がブルージーでウェットな曲で占められていて"馬鹿騒ぎ"の類からは程遠かったみたい。こういう内容であれば今の心理的精神的に不安定な時期にもフィットする。一方、コンサートを中止する方はそういう空気にそぐわないという判断がはたらいている気配。陰陽座もそのうちのひとつだが、リーダーの瞬火のブログを覗いてみるにどうやら彼は「我々のスタイルはこの時期にそぐわない」と考えているらしい事が透けて見える。確かに彼らのライブは基本的に「和気藹々のお祭り騒ぎ」であって、参加者がハッピーに包まれまくるのが基本だからどうにも追悼の空気は出し難い。現実より幻想に基づく世界観は、現実が平穏だから意味を持つの であって現実の方が想像を超える事態になっている今には、どうにも相容れない。 光の場合はどうか。「こんなときだからこそ」と歌う事を促す光宛のツイートが散見されるが果たして光の音楽性は"この空気"にフィットするのだろうか。結論からいえば音楽的にはシリアスでさほど違和感ないだろうが歌詞の面では複雑な問題がある、という感じ。 まず、単純な応援歌がない。こんな時にパロディや含蓄を突き付けられてもちょっと戸惑う。みんなに向けられてる歌も『うまくいかなくったってまぁいいんじゃない』とか『誰もいない世界へ私を連れてって』とか、色々微妙過ぎる。『船が一隻黒い波を打つ』とか『The waves have parted』とかも共感を呼ぶか反感を呼ぶか予想もつかない。『Me muero』に至っては気まずくって仕方がない。歌詞の意味を深く考えずヒット曲を聴くことで元気になれるんだから、とシンプルに捉えられるならまだいいけれど歌う方からすれば躊躇いがないといえば嘘になるのではないか。光も実現性は兎も角チャリティーコンサートの類を考慮に入れる場合は選曲に悩むのではないかなぁ。 まぁ、(繰り返しになりますが)最大のヒット曲が"TSUNAMI"であるサザンオールスターズとそのファンの皆さんの葛藤に較べれば大した悩みじゃないですかね…。

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光のツイートが暫く途絶えているので気になっている人も多いでしょう―っていう書き出しのStaffDiaryが更新されればいいのにと思う今日この頃、4月6日のDVD/Blurayの発売に向け最後の調整中といった所か。この情勢なだけに発売延期も含めた対応を迫られているコトだろう。本来人活謳歌中で音楽ビジネスには関わっていない時期になる筈なんだが非常事態なだけにそうも言っていられない。照實さんと2人してどんな方法がいいか知恵を絞っているに違いない。幾ら何でも発売日間近になればスタッフのツイートをRTしたりしにくるだろうからTwitterを完全にやめてしまったとも考え難い。

そういえば、折角週末にフォロワーの数が53万突破したのにもう昨日今日で54万を超えてしまった。フリーザの名台詞「私の戦闘力は530000です」のパロディ「私のフォロワーは53万です」を呟き損なったのは非常に残念。だがここにきて呟きが増えている訳ではない(寧ろ減っている)中でこのフォロワーの増加はやはりTwitterへの関心の高まりを表したものだろう。電話もメールも繋がらない中Webサービスが比較的繋がり易かったお陰でそれこそ新しいライフラインのひとつとして(ひょっとしたら電子メール並みに)扱われていく様になる端緒かもしれない。

Twitterの恐ろしい所はこれだけ様々な情報が流れていくのに受け手送り手の"顔"が見えてしまうコトである。mixi等のSNSも同じ性質を持っているが流動性が桁違いな為ただ可能性として"見える"だけでなく"実際に顔(個を特定できる発言)を見る"事に至る所が特徴だ。これはリンクの辿り易さと情報のサイズ制限(140字)、そして何よりリアルタイム検索という(比較的)新しい技術が大きい。

ハッシュタグを設定するだけで同じ趣味嗜好の人々の名がこちらから探しに行く事をせずとも向こうから流れ込んでくる―この利便性は必然に尽くしがたい。気に入った発言をみつければわざわざコメントをつけなくてもふぁぼったりRTしたりすればよい。受動から能動への遷移の敷居が恐ろしく低いのである。

ここらへんが宇多田ヒカルを好きな層に丁度いいのではないか。ライブに行ってみれば解る通り、光のファン(特に日本の)ファンは全体的に控えめで、自分からアピールをしたりすることには長けていない。しかし光に対しては何らかの形で繋がっていたい、そこら辺の受動と能動のバランス、平衡点をTwitterがうまく突いたのではなかろうか。

それは多くのライトファンにもいえることで、例えば日本屈指のフォロワーを誇るのはガチャピンである。彼(?)の様に前面に主張を押し出すことのない万民に愛されるキャラクター(ハローキティなんかもその路線)をフォローするのが、多くの「まずはTwitterを始めてみよう」という層に丁度いいのではないか。同じ様に光も、ただ知名度が高いだけでなく発言にバランス感覚があって(でも芯のある)親しみやすいキャラクターとして支持されているのではないか。ありていにいえば、ひとに宇多田ヒカルをフォローしていると知られても大丈夫、気にならないという事である。


そんな存在が皆から求められるツイートとは暑苦しい主義主張ではなくスッと誰にでも入ってくる言葉…「今日は雨ですねぇ」的な"挨拶の言葉"であろう。今や光のトレードマークになりつつある「ぼんじゅーる☆」はだから、絶妙の合い言葉なのである。

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名前で一番気になる点は、実は光をヒカリではなくヒカルと読む所。こんな事を気にして生きていても仕方がないのだがこちらとしては一生モンの問題なのである。一生の間に何回私がヒカルと書いたり読んだり呼んだりすると思うのか。これと同じ様な大問題にHikkiを果たしてヒッキーと読むべきかヒッキと短く切るべきかヒッキィと掻き毟る様に呼ぶべきかヒッキイと軋み鳴る様に叫ぶべきかという問題もあるがひとまずここでは立ち入らない事にする。 「ひかり」と云った時それは名詞、「ひかる」と云った時それは動詞だ。一応現在形と呼ばれる活用となるが、これはやや形容としてややこしい。元来どんな動詞も“そうでない状態からそうである状態に遷移する事”を控えめに含意する。過去の状態からの変化に対する表現に"現在形"とはいかにも片手落ちで座りが悪い。現在の状態を表現する場合は"光っている"と現在進行形にすることになるが、これも呼び方がどうにもイマイチだ。進行というと何か新しい状況が生まれるみたいだが寧ろ「光っている」というのは「(過去のある時点で)光って(現在もその状態で)いる」という意味だから進行というより停滞といった方がいい。英語で現在進行形と動名詞が同じ形(~ing)だと授業で聴いた時に「なんで?」と思ったものだが、現在停滞形と動名詞が同じ、といわれると(私に限っていえば)わかりやすい。名詞とはモノ、即ち時間的に定常で持続的な対象を指すのが基本で、時間的に変化する対象はコトと呼ぶ。 ~ingが名詞化に値するのは現在進行形が状態の持続―定常な対象だからなのだ。 ひとりで勝手に納得する文章に無駄に字数を費やしたので話を大幅に元に戻すと、「ヒカリ」ならモノだった所を「ヒカル」コトを名に持っているのが宇多田光なのである。つまり、光のない状態から光のある状態への遷移、「光る」コトなのだ彼女の名前は。 ファン生活を振り返ってみると実にこれはしっくり来る。光に対する我々の印象は餅は餅屋的な「あそこに任せておけば大丈夫」「いつでも同じ品質ね」といった安定感や安心感からは程遠い、いつだって不安且つ不安定なものであり、だからこそ目が全く離せない。あの人はヒカリだからというよりあの人はヒカルから、という感じで常に変化や遷移を持つ。それが魅力なので「ヒカル」という名は実に似合っていると思う。 しかしそれ以上に示唆的なのは「光る」という言葉が前述の様に“光のない状態”を控えめに含意している点であろう。ただのヒカリという存在ではなく広大な『闇』の中から生まれてくる光、という”背景も網羅した名前“なのが何とも素晴らしい。悲しい哉、光の命とて時限有限であるから、いつかはこの光は消え去る。それまでは生きていようと思ってはいるが(どんだけ長生きする気や)、その点に自覚的であるからこそ今の光を目一杯愛せるのだ。光るが闇から帰還して又光る瞬間々々を存分にこれからも味わい尽くしていきたいと思う。 でもまぁ俺の場合お互い永遠に生きられたとしても光のコト選んで愛し続けているとは思いますがね。

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宇多田光という名前がギャグみたいだとはデビュー当初から云われていた。本名だというのに失礼な話だが、日本の連続首位記録を持つ歌手の娘が売上首位記録を持つ歌手で名字が「ウタダ(歌だ)」だなんて中2病患者でも躊躇う設定である。事実は小説よりも奇なりを地で行く現実だ。

然し、光という名の方は更に興味深い。聴覚の音を生業にしながら視覚の光。一見相反するようだが、ここで光をもっと広義の、"電磁波"という風にみれば光のこれまでの成功と光の関わりが非常に深い事に気付く(光は電磁波のうち可視、目で見えるものをいう)。それは即ちラジオとCD、携帯電話である。

光の初期の成功がラジオによるものだという事はご存知だろう。ラジオとは音を電波(光より波長の長い電磁波)に変え、電波を音に変える装置だ。光が音を人から人に伝える役割を担っているのである。そして日本史上最もCDアルバムを売りまくった、そのCDとは光ディスク(レーザーは位相の揃った光)の事だ。これも又音を光に変え、光を音に変え人に伝える装置だ。更に後にはFoLが携帯電話のダウンロード世界記録を一旦樹立する。これもいうまでもなく携帯電話は電波でインターネットに接続されていて、光が音楽を人に届けているのだ。光という一文字を広義に電磁波と解釈すればこんな風な風景が見えてくる。

つまり、こういうことだ。太古の昔には歌、音というのは空気の繋がったすぐ傍にまでしか届かなかった。それが光(というか電磁波)を駆使できるようになって世界中の凄く遠くまで、いや原理的には宇宙のあらゆる所に歌、音、音楽を届けられるようになったのだ(光は分散のない波なので何億光年だろうが遠く迄旅できる)。光という名は、近くの少しにしか届けることが出来なかった歌というものを宇宙中の多くの生命体に届ける事を可能にしていくという意味なのである。この時代に生まれ、宇宙のあらゆる時・所に歌を響かせる為に光はどうしても必要な存在だったのだ。

宇宙の多くの命にウタを届ける光 ― 宇・多・田・光。見事な名前ではないか。現実はあまりにも出来過ぎている。ただ、もう1つ残った田の字をどう解釈すべきかというデビュー以来の難問は未解決なままですがね…。

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放射能より風評被害の方が甚大になりつつある状況だが、こういう場合は情報を如何に迅速に正確に、そして信頼してもらえるような体裁で提供できるかが大切だ。データを示すだけでなくそれがどういう意味を持つのかのストーリーまで用意しておかなければならない。ストーリーのどこかに穴があれば、開示できる情報は全部伝えているにも拘わらず疑心暗鬼が広がり陰謀論が罷り通る。人に対する信頼とは受け手の文脈の中に抵抗なく入る事を以て得られるものなのだ。

光の場合普段そんなに私生活を審らかにする方ではないので情報のない期間はファンの間で様々な憶測が飛び交うものだが、それが信頼の失墜に繋がらないのは、端的に云ってしまうと曲がいいから、しっかり仕事をしているからである。その信用という名のブランドと普段の誠実で(方向音痴な)言動の延長線上に憶測や妄想が広がる為、たとえ必要な情報が欠けていてもファンの方が好意的な方に補完してくれる。つまり、確固としたストーリーは情報の充足を上回る重要度を持つ訳だ。

過去に一度、恐らくその誠意から光が思い切った情報開示に踏み切った例がある。結婚報告だ。あれは家庭を築くというよりは、交際を公的に宣言することで(本人も云っていたけど)堂々と振る舞えるようになる事を目的としていた。お陰で二人でどこに出掛けようがメディアは好意的に取り上げてくれるようになった。見事な方法論だと思ったものだ。

然し、ストーリーの中に他者を入れる事で逆に不信感を抱き始めた向きもあった様だ。端的にいえばキリヤンキニイラネ、という事なのだが情報は透明になったのに彼が持ち込んできたストーリーに対する拒否反応は表立ってはいなかったものの離婚に至る迄燻り続け、光のストーリーに何ともいえない陰を解釈させる様になった。

結婚を(いや交際を、かな)境にメッセの回数も減り始めていた。正確にいえば、療養やら他社との仕事やらがネックになっていただけで直接には関係ないのだが結果的にそう見える流れになっていた。

だからといってコアなファンの信頼が揺るいでしまう事があんまりなかったのはひとえに光の人間性の賜物だったのだが、何故かそこから徐々に結婚生活が壊れていく。見てたわけじゃないけど。


…こっから先は面倒臭くなりそうなので相変わらず踏み込みませんw

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