無意識日記
宇多田光 word:i_
 



DISTANCEの『気になるのに聞けない』を聴いて思い出すのはWINGSの『素直な言葉はまたおあずけ』だ。『じっと背中を見つめ抱きしめようか考える』『あなたの前で言いたいことを紙に書いて夢見てるよ大空』、とこの"言いたいのに言えない"感満載の雰囲気。WINGSでは、その一言を言う為には空を飛ぶ程の勇気が必要なのだ。2人の心の距離は、大空並のスケールで隔てられているのだ。すぐそこに、抱きしめられる程近くに背中が見えているというのに。

ところがDISTANCEでは、そのDistanceごと『抱きしめられるようになれるよ』と歌うのである。其処彼処に現れることばは『今なら間に合うから』『いつの日か』『そのうちに』といった前向きなものばかり。WINGSとは随分と様子が違う。

『昨日の言葉早く忘れて』『早めに寝るよ、今日は』というWINGSの歌詞からは、どこかやるせない、どうにもならない雰囲気が漂ってくる。恐らく、この後『素直な言葉』は永遠に言えなかったのではないか。人に翼が生えて大空を飛んだりなんかできっこないように、その一言を言う事は土台無理だったのだ。

DISTANCEでは『無理はしない主義でも少しならしてみてもいいよ』とくる。まだなんとかなる、という希望を感じる。『I wanna be with you now,』、何て素直な言葉だろうか。これが言えるうちならまだ間に合う、少なくともそう信じている。

さて、ここで問わねばならない。この2人は結局"間に合った"のだろうか? 2人の間のDistanceを抱きしめられるようになったのだろうか。あなたと今一緒に居たい、と素直な言葉を投げかけられたのだろうか。その解釈は聴き手に委ねられている。この歌は最後まで『We can start』と歌い続け、どこまで行っても"We have started" にはならない。その心象で留まっているからこの歌はどこまでも新鮮で瑞々しいトーンを貫けるのだが、それを変化させたのがFINAL DISTANCEであった。この曲で、2人は"あるべき距離"に辿り着いたのである―

―と解釈したくなる所なのだが、この2曲、歌詞が劇的に変わった訳ではないのだ。強いて言うならアウトロ部分の歌詞は大幅に削られているが、何かが付け足された記憶はない。もう一回聴き直してみないといけないな。そこらへんは宿題にしておこうか。

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距離、と一言で言っても心理的距離と物理的距離の2つがある。ヒカルの歌詞の場合、その2つを余り区別せずに、というか意図的に絡めながら描いている節がある。

そこらへんの心の機微は

『もう二度と会えなくなるわけでは
 断じてないのに 考えちゃうよ』

の2行に表現されている。物理的な距離は2人の絆を揺るがすものではない、と言いつつも、引っ越しによって空間的に離れる事をキッカケにしてどうしても思う事が出てくる。寧ろ、引っ越しというイベントを通じて、「あれ、何も変わらないじゃん?」と実際に気付いた点が重要なのだ。失って初めてそのモノの価値に気付く事は多いし、歌の歌詞でも定番のような気がするが、この場合、失って初めてそのモノの無価値を思い知ったのだ。あぁ、別に近くに住んでていつでも会えるから親友やってた訳じゃないんだ、と。

それに対して、DISTANCEでは
『二人でDistance縮め』ようとする。I wanna be with you now, we should stay together, 2人で一緒に居るべきだ、と。

こちらのDistance、距離とは基本的に心理的な距離について歌っている。

『気になるのに聞けない
 泳ぎつかれて 君まで無口になる
 会いたいのに 波に押されて
 また少し遠くなる』

これを終始心理的な表現として解釈するなら、最初の泳ぎつかれては、まぁ例えば世間の荒波に揉まれて心が疲弊している、という感じにまずはなる。気になるのに聞けない、君まで無口になる、といった表現からは2人が物理的には近くに居る事を示唆している。したがって、ここで『会いたいのに』という言い方で示唆しているのは、2人の心理的距離に隔たりがあり、目が合わない、声が届かないといった心境だ。それをまとめると冒頭の『気になるのに聞けない』の一行になる。

つまり、Making Loveは物理的距離が離れても心の距離は離れない、と歌っているのに対し、DISTANCEはこんなに近くに居るのに声が届かない、届けられない、と歌い始めるのだ。実に対照的、対称的である。

その届かない"距離"に対してどうするか、という話からまた次回。

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「「・・・・・。」」


↑『泳ぎ疲れて君まで無口になる』とこうなる。

いやそんな事はどうでもいい。

Making Loveで光はこう歌っている。

『あなたに会えてなかったら親友はいらないネ』

必ずしもそうとは限らないとはいえ、ここまで言われたら苺の親友はみるくさんだけ、と感じ取っても無理はないだろう。となれば、光が彼女と会って以降、この歌の時点で『とうとう知り合って10年』と言っているのだから1996年以降、光が「親友が」とメッセやインタビューで口にした総てが、みるくさんの事を指していると言っていい…

…ハズなのだが、いきなり反例が見つかる。WINGSである。

『(あなただけが私の親友)』

とこれだけ直接的に歌っているにも拘わらず、この歌の歌詞は"夫婦喧嘩の後"にしか思えない。光もそう匂わせていたような。これが苺みるくの間の喧嘩とはどうしても思えない。

いやまぁ、別に光が「親友=みるく」と決めている訳でもない。こちらの勝手な思い込みだ。そういう見極めには注意を払わなければならない。

という無駄に長い前置きを置きつつも言いたかった事。私はどうしても昔からDISTANCEはみるくさんとの事を歌っているようにしか思えないのである。光が一緒に泳ぎに行く相手が当時の恋人かというと、どちらかといえばみるくさんの方があるのではないかと(かなり勝手に)考えてしまう。

少し冷静に歌詞をみてみよう。DISTANCEとMaking Loveの歌詞を並べてみる。

『いつの日かDistanceも抱き締められるようになるよ』
『遠距離なんて怖くもなんともない』
『無理はしない主義でも 少しならしてみてもいいよ』
『楽しくないのにフリはしたくない だってそんなの疲れちゃうよ』

呼応しているような、反目しているような、なんとも奇妙な関係である。

まずは、Making Loveでなぜ光がお引っ越しとともに"あらたまった態度"で『あなたに会えてよかった』と切り出したのか、だ。光にとって、距離は決定的に重要なのである。だからわざわざ『怖くもなんともない』と言う必要があった。そこから「だけれども、それで(も)思う事がある」というのがMaking Loveの歌詞全体なのだ。ここでもDistance~距離は、尚、大きなテーマのひとつだったのである。続く。

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苺みるく2人の親友っぷり満開で曲が続いていくMaking Loveだが、最後のパートだけは若干毛色が違う。

『私を慈しむように
 遠い過去の夏の日の
 ピアノがまだ鳴ってるのに
 もう起きなきゃ』

なんだか、何の話をしているのかさっぱりわからないが情景だけは明白に伝わってくる奇妙な、しかし詩的な表現である。

最後に『もう起きなきゃ』と言われた時には「それやったら今まで寝てたんかい!」と突っ込んだものだが、なるほど、ちゃんとその前に『長い長い夢の途中 singing loud』と言っている。ヒカルの曲には眠りに関する曲が多いが、この曲もそのうちのひとつなのだ。

アウトロが「ジーッ」という効果音でカットアウトされる所も印象深い。ここは素直に考えて、『もう起きなきゃ』の直後なのだから覚醒の合図だと解釈するのが妥当だろう。映画のフィルムが巻き上がった瞬間のようにも捉えられる。となれば、この曲は何故か最後の最後に"夢から醒める"のだ。苺みるくの絆は相変わらず揺るぎないにも拘わらず。

先程引用した箇所、『長い長い夢の途中 singing loud』だが、つまり、夢の途中に大声で歌っているのだ。歌詞カードでは崩して書かれている為裏の意味を勘ぐってしまいそうだけれど、そのまま受け取れば、ヒカルは歌手としての活動を"夢の途中"と考えているのだろうか?

この解釈はなかなか成り立たない。夢のある活動ですねと言われてわざわざ『これが私にとっての現実』と答えた人がそんな表現を用いるだろうか。また、それなら『もう起きなきゃ』は「歌手活動を辞めなきゃ」と読めるようになってしまう。それはどうやら違いそうだ。

ただまぁ、時期というのもあるかもしれない。歌詞の途中に『だってそんなの疲れちゃうよ』『少し疲れて私たち』と2回"疲れ"という単語が出てくる。一度だけなら兎も角二度出てくる(それも異なるメロディーに)からには書き手が当時疲れていたんじゃないかと推測したくもなる。

ところで、"疲れ"という歌詞が出てくる歌がもう一つあった。DISTANCEである。その話の続きはまた次回。

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その次の歌詞をみてみる。

『もしもお金に困ったらできる範囲内で手を貸すよ。
 私たちの仲は変わらない』

これが歌詞だというだけでも驚きだが、つまり2人の関係は打算的なものではない、という事だ。何かを与え与えられしながらバランスをとっているのではない。まず初めに絆ありき。相手に何かを求めるとか得られるものが多いとか、そういうメリットデメリットの問題ではないのである。

という事はどういう話になるかというと。一番の歌詞に於いて幾ら苺が情緒的になろうが、みるくさんに何らかの感情を要求したり押し付けたりしない、という事なのだ。私がメロウになったからあなたも同じようにメロウな気持ちでしょ、といった押し付けがましさが皆無なのである。共感を求めない態度。『だってそんなの疲れちゃうでしょ』と歌っている通りである。だから『新しいお部屋で君はもう making love』と歌うのだ。全然関係ないから。

かといってみるくさんが苺の気持ちを解っていないかというとそんな事もなく。そこには揺るぎない信頼が確固とある。不思議な関係である。いや親友ってそういうもんなんだろうけど。

以前、この歌の題名を"Making Love"にしたのは、苺がみるくさんを"守る"為だと解釈した事がある。このタイトルにする事で、この曲が矢面に立つ事を避けているのだ。日本人は官能的な主張を前面に押し出す事を未だに好まない。平井堅はエロいシングルをたまに出すが見事に売れない。あら未だに彼の最大のヒット曲は古時計か? いやそれはまぁいいんだけど。兎に角、こんなタイトルの曲とタイアップしたがるスポンサーはなかなか居ないだろう。特に、エロかわいいとかエロかっこいいとかエロみっともないとかで売っている皆さんなら兎も角、宇多田ヒカルはそっちのパイではない。余り得策ではないのだ。

…の割に歌詞にはエロの欠片もない。本当にサビの最後に一言触れるだけである。羊頭狗肉にも程がある。"敢えて"のタイトルである事が見てとれる。

この、『打算の絡まない関係』というのは「親友同士なら当然でしょ」と言いたくなる所だが現実には難しいだろう。お金が絡んでも今までと同じ関係を保てるかというととても難しい。ましてや、苺の「出来る範囲内」というのは桁外れである。100万ドルの寄付をする女なのだ。会社を興す資本金位なら用意してしまうかもしれない。そうなってもまだ"親友"で居られると信じて疑わないのだこの2人は。どれだけ強靱な絆なんだろうな。

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いちご×みるくの2人の関係性を推し量るには、まずMaking Loveがどんな曲だったのかを思い出してみねばなるまい。

一頻りみるくさんの引っ越しについて(というか引っ越しをキッカケとして湧き上がった感情について、か)語り倒したあとサビで『あなたに会えてよかった/遠い町でも頑張ってね』、と揺れ動く気持ちに何とか整理をつけて励ましのことばを贈るのだがこのあと唐突に逆接の接続詞もナシで『新しいお部屋で君はもう making love』と来る。この流れは、例えば漫画で描写したとしたら恐らくギャグに、笑いを催すシーンになる事だろう。親友の片割れが相手の引っ越しに動揺して思い悩み思い詰め、涙を堪えて或いは拭って漸く絞り出した見送りのひとこと。一方ロシアは鉛筆を使った、ではないけれどもう一人の方はそんな親友のウェットな情感などどこ吹く風、新居で恋人と宜しくやっているのだ。このギャップ。大抵はギャグにしかならない。

最初に考えるのは、何故親友に贈る歌でこんな風に"茶化すような"一節を入れるのか、という事。更にはこのフレーズがタイトルにもなっている。どうしてこんなことになるのか。実際、『新しいお部屋で~』の部分を歌詞からごっそり除いてもこの曲の物語はきっちり成立する。ぶっちゃけ要らない一行なのである。

一言でまとめてしまえば、「照れ隠し」なのかもしれないが、それにしては他の歌詞に何の躊躇いも感じられない。どれもこれもストレートな表現で、強いていえば肝心の『私が初めて惚れた女』という所がラップ風(といってもちゃんとメロディーがあるんだが)に、歌詞カードでいえばカタカナで『ワタシガハジメテホレタオンナ』となっている箇所は照れがあるといえなくもないが、それでも結局直接的な言い方になっている。他のパートによって隠す"照れ"は、これだけでは見えてこない。

或いは、嫉妬だろうか。つまりこのカップリングは親友以上というか恋人未満というか、お互いの恋人に対して嫉妬するような感情があるのだろうか。そんなヘテロを合成したややこしい百合々々しさがこの2人の間には存在するのか。だとしたら隠しているのは照れというよりもっと強烈な感情、という事になる。

その線も捨てきれないが、やはり私はこの『新しいお部屋で~』の一節にはもっと明快な意図があると踏んでいる。恐らく、この曲における他の総てのメッセージに説得力を持たせる為に必要だったと思うのだ。細かい解説はまた次回。

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みるくさんについては語るポイントが幾つかあるが、いちばん大きいのはやはりくまちゃんの贈り主であるという事だろう。2006年1月19日以降、「宇多田ヒカルといえばクマ」という一般常識(?)を生み出すキッカケとなったのが彼女の誕生日プレゼントなのだ。のちにヒカルはぼくはくまを「最高傑作」と称するまでになる。うっかり「くまを除く」と発言してしまったDJに対してブチ切れ寸前まで行った(のがわかったのはファンだけだろうけど)エピソードは今や語り草になっている。(主にここで、だけど)

親友から贈られたぬいぐるみを溺愛する、というのは、ステレオタイプに言ってしまえば男にはわからない感覚だ。義兄弟と杯を交わす、なんて事はあるかもしれないが、そこにあるのは絆への拘りであったり義理立てであったりする。何かモノを貰って「大切にするよ~」というノリは、女子同士に特有…は言い過ぎにしても、どちらかというとそっち、という雰囲気がある。

それにしても光のクマチャンへの溺愛ぶりは凄まじい。何故そこまで愛せるのか未だに不思議な位だ。慣れたといえば慣れたけど。

そうなったのは、クマチャンが親友の代わりになった、というよりは寧ろ、その時に光にとって何が必要なのかを誰よりも的確に見抜いた、いや、もっと踏み込んで言えば、彼女が贈るからにはそうならざるを得ない、といったような、お互いに対する深い理解と強い絆があるように感じられる。

女子同士の親友、といっても2人の場合は"いつも一緒"というタイプの関係ではない。会うといってもごくたまに、でありその時顔を合わせて頷き合えればそれでOK、といった具合である(念の為に言っておくけど、完全に私の勝手な妄想ですよ)。その彼女から贈られたクマチャンに対しては光は基本的に"いつも一緒"を通してきた。彼の為に飛行機のチケットを取ろうとする事など当然である。ベッタリでない関係からベッタリな関係が生まれるというよくわからない構図である。ヒカルのこどもっぽい部分を暴き出したその手口は放っておいたら世界を支配しかねない勢いだ。何を言ってるんだ私は。


兎も角(こほん)、ヒカルの人生に決定的な影響力をもつ人物である事は間違いない。ただ、ヒカルはクマチャンを通してみるくさんを見ていた訳ではなく、いや、それもあるにはあるだろうが、それよりもっと大きく豊かな世界を手に入れた。それは慈悲であったり母性であったり、宇宙であったり、最終的には光自身であったりした。そこまでの"旅"を宇多田ヒカルに見せるキッカケを作れる人が一応一般人の方だというのがいちファンとしては"やりにくい"んだが、引き続き彼女にまつわる話を進めるとしよう。

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光の"親友"さんの話はファンには有名過ぎるほどに有名である。が、当欄では彼女が一般人さんである事もあって言葉を選びつつ触れてきた。が、よくよく考えたら彼女の話を真正面から持ち出さずに宇多田ヒカルの作品について語るのは無理がある。それはいわば、オノ・ヨーコに触れずにジョン・レノンを語るようなもの…というと少し違うかもしれないが、重要な人物である事にはかわりない。という訳で今後は今迄の方針を変更して、彼女の話も遠慮なく持ち出す事にする。

で、その場合彼女の名を何と呼ぶかは難しい。本名を出してしまうのは気が引けるし(当人は気にしないかもしれんが)、かといって全く遠く離れた仮名で呼び続けるのも違和感がある。そこで、あまり当人たちは気に入ってる風でもないのだが、ある程度通り名として使える"みるく"さんの名で暫く呼んでみたいと思う。皆さんご存知のように、光は危うく宇多田イチゴと命名されかけた。うすた京介絶賛の「宇多田メロン」のパロディもこれに由来するし、椎名林檎とのコラボレーションがフルーツデュエットと呼ばれるのもこれが話の発端だ。あれ、誰も呼んでないか。まぁいいや、とにかくイチゴとのコンビネーションでみるくさんである。便宜上の仮名の付け方なので、あまり深く突っ込まないように。

で、そのみるくさんがどういう人かというと。4th ULTRA BLUEに収録されているMaking Loveを捧げられた当人であり、また「線」の序において光が「親友に選んだ」人である。そして恐らく5th HEART STATION収録のPrisoner Of Loveの歌詞のモデルとなっている可能性も大いにあるだろう。もっと踏み込んでいえば、ヒカルの歌詞に出てくる"同性の親友"の大半は、みるくさんの事を想定して書かれているのではないかと考えられる。ヒカルの歌詞を読み解くに当たって、光本人、父母、光の嘗ての恋人達(元夫含む)に次いで重要人物だといえる。いや、恋人達の記憶がどんどん上書きされるその時限りの関係だったりするとすれば、恐らく一生消えない切れない"親友の絆"で結ばれた関係は、家族同然と見做してもよいかもしれない。

兎も角、今まで当欄では光と母(圭子さん)、光と父(照實さん)の関係を通して歌詞を読み解いてきた。それと同様の"遠慮のなさ"で、みるくさんとの話も視野に入れる事にする。まぁ殆どはこっちの勝手な妄想になるだろうけどね。乞う御期待。

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↑このタイトルできっと光は笑ってくれる筈。いや何のことかわからんか。日曜の朝の「早起きMonday Morning」が元ネタなのだが。折角早起きしたのにあれやこれやの大騒ぎに、という洒落なのだがこうやって解説してる時の虚しさったらないね。

という訳で仕事にも精が出た金曜の午後に日曜の朝の話。

大体楽曲の中盤あたりで、ヒカルが英語で呟いている。こんな風に耳元で囁かれたら殺されても本望、というか男でこれオチないヤツ居ないだろ。いや寧ろ女子の方が痺れるか。どうでもいいや。

こんな具合である。

Cloudy Morning
Icecream Toppings
Music's Playing

High Street Shopping
Chocolate Cravings
Baby's Crying

最初の3行は「朝の空は曇ってる・アイスクリームにトッピング・どこかで音楽鳴っている」、次の3行は「ハイストリートで買い物中・私は私でチョコに夢中・赤ちゃん不機嫌ガン泣き中」って感じ。これ書いてる最中に目の前でベビーカーに乗った男の子が泣き出した。お、俺のせいじゃないんだからなっ。

これはちゃんと対になっていて、一行目は目の前に広がる風景、二行目はお菓子、三行目はそこで聞こえる音である。曇り空とショッピングモール、アイスとチョコ、音楽と泣き声だ。即ち、ひとつめが視覚、ふたつめが味覚、みっつめが聴覚にそれぞれ飛び込んできたものが描写されている訳だ。勿論見た目通り聞いた耳(?)通り歌詞としてばっちり音韻を踏みながら。いや歌ってる訳じゃないから厳密には歌詞じゃないけど。

この場面の巧さは、こういった"自分を取り巻くもの"を五感の組み合わせで淡々と描写する事で、えもいわれぬあの"けだるい感覚"を聴き手の中に再現させている点だ。体内の"感覚"の為には、視覚や聴覚や味覚といった感覚のどれかひとつだけではなく、それらの複合によって表現する必要がある。直接的な外界との接触じゃないからね。そこらへんの内的感覚を英語で囁く事によって、言葉の意味もわからない人にまで伝えている感じすらする。肩の力の抜けた楽曲だが、そのへんは全く抜かりがないのであった。

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前回はコスチュームの話になったが、PV本編も今見返してみるとちょっと違った感想が浮かんでくる。

基本的には、銀河鉄道に乗って楽園の星に辿り着く、というおおまかなストーリーはあるものの、ひとつひとつのカットの存在意義はかなり意味不明だ。別に卓球する必要は万に一つもないだろうに、何かの洒落なのだろうか…なんて突っ込み始めるとまるでキリがない。なるほど、そういう風に捉えてみればUU06のLettersがあんなに支離滅裂な出来になったのも合点がいく。travelingPVも、一歩間違えれば同じような結果になっていたかもしれない。

兎に角当時はFINAL DISTANCEで登場した豪華絢爛な世界が余りに衝撃的だったので、次から次へと襲いかかってくる映像の洪水に圧倒されていた。しかしその「脈絡のなさ」は、その後に映画「Casshern」に継承され"2時間超のPV"と揶揄される事になる。無脈略な映像は、5分前後のひと連なりのリズムの中でなら消化できるが、それが2時間となると事情が違ってくる訳だ。

そもそも、岩下さんは写真家である。絵画と写真という芸術は、観賞時に時間軸という制約を持たない。寧ろ、小説や音楽なら時間をかけて描写していく所を一枚の平面に総て押し込まねばならない。つまり、成果の成熟を測るには、如何に一枚の中に大きな物語を込められるかにかかっている訳だ。これに対し、例えば小説は時間軸そのものの芸術であり(何しろたった一行だ。どこまでも。)、その成果の成熟は、それがどれだけ"一枚の絵"として纏まっているかで測られる。伏線の回収や登場人物の人格の統一性、様々な文脈の絡み合いなど、あらゆるバラバラの要素が融合していく所に魅力があるのだ。絵画や写真は一枚の中に数万行分の物語を詰め込み、小説は数万行を費やして一枚の絵のような迫力を追求する。漫画ONE PIECEが素晴らしいのは、その両方の魅力を兼ね備えているからだがまぁそれは別の話。

という訳で岩下さんは(いや別に本名で呼ぶのに他意はないんですけどね)、写真家として写真を撮る分には無類の才能を発揮するが、その才能は物語性を重視した場合の映画という作品に対しては真逆のベクトルとなっていた。そのバラバラのイメージカットの数々を違和感なく見させていたヒカルの楽曲の存在感の強さを讃えてエントリーを締めくくると定型的に、過ぎるかな。締めちゃったけど。

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銀河鉄道といえば、もうひとつの銀河鉄道をモチーフにしたPVがあったな。travelingだ。この作品のヴィジュアル・インパクトは相当なもので、以後ヒカルのコスプレの一番手といえばトラベコスとなった。今やこのコスチュームのイメージはヒカル以外の人のものになってしまったのではないか、と思う位。今PVを見たらそれがヒカルとはすぐに気付かないかもしれない。言い過ぎ。

ヒカルはヴィジュアル・イメージを常に使い捨ててきた。いや別に捨てちゃいないか。一定の所に留まらないばかりか、完全に前後に脈絡がない。辛うじて髪の長さだけが時系列を示唆してくれる。まぁ、それはどのミュージシャンも似たようなものかもしれない。

私の感覚でいえば、よくまぁ次から次へと、という感想になる。小説だろうが漫画だろうがアニメだろうが、連綿と延々と続いていくものが好きなので、このぶった切りっぷりは少々面食らう。例えば星新一は掌編小説の大家であり、掌編ごとには何の連関もないのだが、数が千にも及ぶとなればそこには傾向や分布というものが否応無しに見いだせ、次第に"分類"というものが出来てくる。時代小説っぽいものやSFや御伽噺や、といった舞台背景で分けられるものや、話のオチの組み方のバリエーション、または登場人物のネーミングの違いなんてのもある。いわば、読めば読むほどパノラマが広がり、作品を群として捉える事でより興味深く楽しめるようになるのだ。

その点、ヒカルのヴィジュアル・イメージは過去十数年分の蓄積があるのだが、ひとつひとつに何の結び付きもない。言い換えるなら、他の時期にどんな見た目だったかという知識や情報を持っていても何の役にも立たないのだ。ファッション(流行)というのは元来そういうものかもしれないが、私がヒカルの見た目の話をあんまりしないのは、案外どうにも語りようがないからかもしれない。語彙がないだけだと思っていたんだけどね。

しかし、このtravelingのコスチュームは別の側面に於いて意義深い。先述のように、今やこれはヒカルのファンが着る格好である。今後のLIVEにおいても、いつでもどこでもこの格好をしてやってくれば、目立てる。今やもう映像として古典扱いだし、何より基本的に世俗から懸け離れたぶっとんだ衣装なので時代遅れになるという事もないだろう。DVDシングルが記録的な数字を売り上げるなどしてこのPVはファン以外の一般人にも認知される知名度を獲得した。即ち、非常に数少ない見た目だけで宇多田ヒカルファンをアピールできるコスチュームのひとつであり、そして最も有名なものなのだ。これを着る人は、途切れ途切れになるかもしれないが、途絶え切ってしまう事もまたないだろう。この衣装にまつわるエピソードは、ヒカルではなくファンの手によって綴られていくのだ。恐らく、年月を経ていく中でこの衣装はファンの間でどんどんと重みを増していくに違いない。ファンの歴史の象徴になる可能性があるのだ。ですので、これからもこれをコスプる皆
さん、尊敬します。頑張って下さいな。他力本願ですいません。

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テイク5がヒカルのレパートリーの中で際立っているのは「誰も居ない」事である。自我の確立(或いはそれよりも前)を描いたぼくはくまでさえ、まくらさんが居て母の名を呼ぶのだが、テイク5では『会わないほうが ケンカすることも 幻滅し合うこともない』と他者との交わりを否定してしまっている。この一節には、「あなた」も「君」も出てこない。誰と会わないと言っているかすらわからないのだ。つまり、誰が相手とかは関係なく、兎に角人と会う気自体がないのである。唯一存在する他者は「真冬の星座たちが私の恋人」とあるように、ここでも大空である。

この曲のモチーフになっている銀河鉄道の夜では、このような場面は出てこない。家に帰れば母も姉もいるのがジョバンニだ。テイク5ではコートを脱いで中へ入った時に、ここで誰かが出迎えてくれる風でもない。ジョバンニが感じていたのは喧騒の中での孤独であり、草の冷たさはそこから離れた時に感じる彼のリアルであるが、テイク5で冷やしているのは己の火照る体である。喧騒に溶け込まないジョバンニとは真逆に、この歌の主人公は自らの内に喧騒を秘めている。何となれば、喧騒の中心にも位置できる存在だ。彼(彼女)は、冷たい草の上に逃れにやってきているのだ。この心象風景は、そのまま虹色バスから引き継がれている。みんなを乗せて大きな声で歌を歌う賑々しさから、『誰も居ない世界へ私を連れて行って』と呟く主人公は、テイク5に於いてその願いが叶えられると言っていい。『ナイフのような風が私のスピード上げていくの』とは、バスであれ銀河鉄道であれ、何か己の足でない駆動力によって運命が押し進められていく様を表現している。それでも
『"私の"スピード』という言い方は、それがただの受動態でない事も示唆している。確かに、ここから帰る家には誰も出迎える者はないだろう。ヒカルはこの時、誰も共有出来ない境地に辿り着いてしまっていたんだろうな。

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PassionPVは、今見ると(いや当時からそう思ってはいたか)随分と予算が少なそうだ。2001~2002年にかけての、特にFINAL DISTANCE、traveling、SAKURAドロップスの3作品がとりわけ豪奢だっただけにどうしても見劣りがする。Be My Lastの結果が影響していたのだろうか。そんなに急に予算て動いちゃう(止まっちゃう)もんなのかなぁ。

でもそれでもこのPVがキリヤン時代の最高傑作のひとつであるという確信は消えない。単純に、シンプルであるが故に焦点が定まっていてわかりやすいのだ。確かに、一部わかりにくい点もある。何故突然最後に馬が出てくるのか、何故その草原に妖怪ウェディングドレス(ヒカルの命名なので文句言わないように)が降り立っているのか、なんともわからない。ここらへんの描写不足を補う必要はあるものの、アニメーションパートと聖域でのパーカッション&ダンスパートはわかりやすい。いずれもサウンドのイメージをそのまま具現化したものだ。そこがポイントである。どういう事かというと、音を消して歌う口元を隠して映像を見せた時、このPVはヒカルのどの曲ですかという問いに対して、いちばん正解率が高そうなのがPassionのPVなのではないか、という事だ。

例えばCan You Keep A Secret?のPVは名作だが、あれは映像だけで既に説得力があり、曲の為の映像かというとそうでもない気がする。AutomaticのPVは有名になりすぎたので想像しにくいかもしれないが、あれを音なしでAutomaticのPVだと判断するのは至難の業だ。いやまぁ大体のPVというのは映画監督の表現欲求が顕現するものだからそれは良し悪し以前の問題なのだが、ことPassionに関しては全体のディレクションが楽曲の為にという意図で統一されているのが美しい。青空に分厚い雲、輝く太陽、そしてSanctuaryに出てくるAngel in flightがアニメーションで表現され、妖怪ウェディングドレス(しつこいようだがヒカルがこう呼んだのだ)が聖域を闊歩する。力強いリズムの視覚化の為に太鼓を叩く絵が延々と連なり、浮遊感溢れるキーボードサウンドがフェアリーたちの前衛的なダンスで表現している。淀みも衒いも躊躇いも紛れもなく、この映像はPassionのPVなのだ。そういう、当たり前
の事を当たり前にしているケースは実に少ない。その美しくシンプルな関係がこの聖なる楽曲で結実してくれたのは我々にとって幸せな過去である。嗚呼、もう七年近く前の話なのです。

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前回のエントリで、『空が目を閉じる』の一節について元々あった解釈について触れるのを忘れていた。でないと話が通じないというのに。やれやれ。

その解釈とは『空が目を閉じる』というのが皆既日食の事を指す、というものだ。別に皆既月食でもいいのだが。確かに、徐々に太陽が欠けていく様は太陽を空の目だとみれば、まるで瞼が落ちていく過程だから映像的には完璧な解釈である。

ただ、だとすると詩の本編との連関がますますわからなくなる。この一節の解釈としてよく成立したとしても、詩全体の中で何故この一節が最後に来るか、という文脈についてより混迷を深めるのであれば事態は改善されたとはいえない。この点が引っ掛かる為前回のような、機能的・抽象的な解釈をしてみた次第。映像的には皆既日食とした方が鮮烈なのだが、痛し痒しな具合である。

ただ、詩をここだけで読まず、3rdアルバムから4thアルバムへの流れの中で眺める手もなくはない。Eclipseというそれそのものの楽曲も収録されているし、ULTRA BLUEというタイトルも大空(或いは大海原)の含意がある。海路という曲名にも表れているように、3rdから4thとは流れから広がりへ、という道筋だった(2ndから3rdは隔たりから流れへ、だ)。その合図が『空が目を閉じる』ことだったという風にも考えられる。そうすると、海路にて船が打つ波が黒いのは日食時或いは月食時の暗闇の比喩ともとれるし、その後『春の日差しが私を照らす』場面は、蝕が明けて何かが生まれ変わる事を指し示しているのかもしれない。その直後に父と子の話に触れるのも、Deep River+でこどもに向けられる視線を継承しているのかもしれない。さすれば、海路に出てくる『かくれんぼ』とは皆既日食の事であろうか、と話は繋がってゆく…


…のだが、私としてはどうも解釈として弱い気がしている。いずれにせよ正解なんて設定されていないのだから、より整合性の高い説明が出来るよう、まだまだ考察を進めていく事だろう。

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せわしい空だな。日蝕で騒いでいたと思ったら激しい雨だ。そして明日は夏日だという。やれやれ、なかなか追いつけない。

ヒカルの歌では空はしばしば擬人化されて登場する。いや、登場はしないか。ヒカルの心づもりがまるで人を相手にしているかのようだ、というのが近いかもしれない。

何しろ、デビュー曲からして『青空へtake off』『雨だって 雲の上に飛び出せば Always Blue Sky』だし、去り際の曲(コンサートの"あとで"流された楽曲)でも『こんなに青い空は見た事がない』と来る。ヒカルの歌詞の主要なテーマのひとつといえる。

"擬人化"、というならやはりDeep River+の『空が目を閉じる』であろう。どこまでも暗示的で、未だに明快な解釈が思いつかない。或いは、ヒカル本人にすらそういった意図がないのかもしれない。兎に角、インパクトはある。どういう意味がわからないからこそ衝撃的だ。冷静に考えてみると、今目を閉じたのならそれまで空は目を見開いていたのかと訊いてみたくなる。虚空に眼球と瞼が浮かんでいるのだろうか。SFホラーである。多分、そういう事じゃない。

青空に嘲りを受ける悔しさについてヒカルは話す。空から送られる目線は侮蔑や憐憫なのだろうか。だとしたら、『目を閉じる』とはその目線が途切れる事を意味するのか。それは、大空から最早嘲りを受けぬ存在に成り果てた事を意味するのか、或いは諦められたのか。いずれにせよヒカルの悔しさが消え去る事を意味するのか。永遠と恒久の象徴である空に対して短き人の生涯の儚さを、運命として受け入れる心の準備が出来た時、空は静かに目を閉じるかもしれない。まるで、もう何も言うことはない、と最後に告げてくれる為に。なるほど、"運命を受け入れる事"の視覚的、映像的表現が『空が目を閉じる』であれば、その前段の散文詩とも整合がつく可能性があるな。

しかし、まだまだ全くわからない。またこの一節については、いつか次の機会を見つけてみたいと思う。

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